小さな囚人

 次に目覚めたとき、俺がいたのは実家のすぐそばにあるコンビニの駐車場だった。どうやら、運転席で眠りこんでいたらしい。辺りはもう真っ暗だった。
 なんだ夢かと俺は安堵し、車を発進させた。
 ところが翌朝、車を見てみると、あちこちに擦り傷や泥汚れ、落ち葉のくずなどがこびりついているのがわかった。どうも、険しい山道を走っていたのは現実だったらしい。しかし、だとしたら、どうやって無事に帰ってきたのだろうか。
 様々な謎を残しつつも、こうして俺の遭難事件は終わった。
 日々の生活に追われる中で、俺はあの山道のことも、少年のこともすっかり忘れ去ってしまっていた。
 やがて数年後、俺は当時付き合っていた彼女にプロポーズし、盛大な結婚式をあげた。その一年後にはかわいい息子が、さらに三年後には娘が誕生した。仕事も順調に進み、すべてが順風満帆だった。


 しかし、不幸というのは突然訪れるものである。


 その日は乾燥していて、風が強かった。
 俺は前日から出張していて、自宅にはいなかった。
 朝方、親戚から「お前の家が燃えている」と連絡があった。
 俺が駆けつけたとき、自宅はすでに全焼し、炭と化した家の骨組みがわずかに残るばかりだった。
 妻子の姿は見当たらなかった。後日、三つの真っ黒な塊を目の前に出され、それが妻子だと告げられた。


 信じられなかった。


 それ以降のことは、よくわからない。
 いつの間にか、仕事はやめていて、いつの間にか、実家暮らしになっていた。
 何を聞いても、何を食べても、何を見ても、よくわからなかった。
 毎日、夜になると、自分を責める声が脳内にこだまし、たとえようのない痛みが絶えず心臓を貫いた。
 それは、まさしく地獄だった。
気づくと、俺は電車に乗って都会へ移動し、都会の賑やかな街を徘徊していた。目的などない。ただ、どこへ向かうのかもわからない群衆たちに紛れることで、やまない心のざわつきをごまかそうとしていた。


 ふいに、上着の裾に違和感を感じた。誰かが裾を引いている。見ると、そこには小学生くらいの少女がいた。喪服に見間違えるほど黒いセーラー服を身にまとい、白いハイソックスと黒い革靴をはいている。顔は血の気を感じないほど白く、無表情だった。
 少女は何も言わずに俺を見上げると、どこからともなく小さな白い封筒を取りだし、ずい、とこちらに差しだした。俺がそれを受けとると、彼女は踵を返し、あっという間に人ごみの中に消えていった。
 何が起こったのかすぐには理解できず、俺は往来の真ん中で、呆然と立ちつくしていた。
 どん、と通行人に肩をぶつけられてようやく通行の邪魔になっていることに気づき、慌てて近くの建物の陰に隠れると、とりあえずその封筒を調べてみた。外側には何も書いていない。封はされていなかったので、中をのぞいてみると、一枚の紙切れが入っていた。


 大切な人に会いたい方へ
 期限:本日の日没まで


 紙の中央には、黒い明朝体でそう書かれていた。そして、その下には小さく地名らしきものが書いてある。よく読むとそれは、とあるバスの停留所の名前だった。
 何よりも目を引いたのは、「大切な人」の文字だった。
 わざわざ「大切な人に会いたい方」などと書いているということは、「大切な人」に会わせてくれるのだろうか。
 その紙がいったい何を表しているのか、なんのために俺に渡されたのか、理由はわからない。あきらかに胡散臭いし、犯罪に巻きこまれる可能性だってあった。しかし、俺はどうしても「大切な人」の四文字が気になってしかたなかった。どうせ、生きているかどうかも定かではない身だ、誰の「大切な人」に何をしやがるのか、この目で見てやろう──そう思い、俺はそのまま、ふらふらと電車とバスを乗り継ぎ、指定された停留所へと向かった。


 その地域はひどい田舎だった。汚い単線の列車の終着駅から、2時間に一本しかないバスに乗り、ガタガタの細い道を一時間も走る必要があった。
 変わりばえのしない車窓にも飽きてきたころ、とうとう目的の停留所の名前がアナウンスされた。ふと前方に目をやると、小さなバスマークを掲げた停留所が見える。そして、その隣には──あのときの少女がいた。いや、正確にはあのときの少女と同じ服装の少女だった。顔は見えないので、それ以上のことはわからない。
 俺がバスのタラップを降り、バスの扉が閉まると、彼女は小さく頭を下げた。
「お待ちしておりました」
 その顔を見ると、やはり封筒をよこした少女とは違った。同じ服を着ているだけの別人らしい。あのときの少女と違い、彼女はにっこりと笑みを浮かべていた。しかし、それは子供が見せる朗らかな笑顔ではなく、どちらかというとスーパーやコンビニのレジで見るような、訓練された営業スマイルだった。
「はじめまして、リンドウと申します」
「は、はじめまして」
 それが苗字なのか名前なのかはわからなかった。が、そんなことはどうでもいい。俺は慌てて、自分も名乗ろうとした。しかし彼女はそれを遮ってこう言った。
「本名は結構です。個人情報ですから」
 そして、口角をあげたまま、淡々と続けた。
「どなたを何年分買いますか?」
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