小さな囚人
人間、なんとかなると思ったときが一番危ない。そして俺は今、その言葉の意味を身をもって思い知らされている。
「まずい。完全に迷った」
途方に暮れてカーナビの示す現在地に目をやるも、画面上の地図には何もない。ただただ、らくだ色の何もない画面の中央に、小さな矢印があるだけだ。
「もう夕方だってのに、どうすんだよ……」
俺はひとり、運転席で頭を抱えてつぶやいた。明日からの連休は久々に実家で過ごそうと考えていた矢先の不幸だった。
出張先が偶然にも実家から直線十キロ程度の場所だったため、俺はそのまま家には帰らず、両親の住む実家へと向かう旨を連絡していた。「あの辺は道がややこしいから高速を使え」という父親の忠告は無視した。高速なんかに乗ったら料金はとられるし、えらく遠回りになってしまう。たいした距離じゃないし、地図に従って行けば問題ないだろう──そう高を括っていた一時間前の自分をぶん殴りたい。
道は想像以上に険しかった。地図の上では一本線がするっと描いてあるだけなのに、実際は舗装すらまともにされていない、ひどく荒れ果てた山道だった。
こんなところで日が暮れてはたまらない。いっそ、電波が繋がるうちに恥をしのんで助けを呼ぶか……そう考えていると、ふと目の前に小さな看板が現れた。
看板といっても、1枚のベニヤ板に黒いペンキで乱雑な文字が書かれているだけである。傍から見たら看板というより、単なる落書きされたゴミだ。だが、その板は驚くほど真新しかった。昨夜は大雨で、辺りの土はまだ湿っているというのに、まるでつい数分前にホームセンターで買ってきたかのように白く、カラカラに乾いていた。その異様さに、俺は思わず車を停めた。
──これは誰かが、今日のうちに置いていったに違いない。
だとすれば、この看板の情報も新しいはずだ。ということは、この先にはきっと、誰かがいる。
もちろん、落ちついて冷静に考えれば、そんなに都合のいいことはありえないと判断できただろう。だが、不安な気持ちで山道を走りつづけ、憔悴しきった俺の脳は、すっかりおかしくなってしまっていた。
俺はゆっくりと車を降り、看板が指し示すほうへ、ふらふらと道なき道をまっすぐに進みはじめた。
草と小枝をかきわけて山の中を一分ほど歩くと、突然、地面が平らになった。
目の前には学校にあるような背の高いスライド式の門扉と、その両脇を固めるコンクリートの白い壁があった。壁はまっすぐ左右に延びて、はるか先の方でようやく直角に折れている。壁の高さは俺の目線よりもだいぶ上まであり、中の様子はよくわからなかった。
門まで近づき、そっと覗くと、中には大きなクリーム色の建物があった。三階建てで、屋上もある。一見すると、病院か学校のようだ。少し古びてはいるが、廃墟という感じはしない。ただ、門の向こうは気味の悪いほどに静かだった。
「どなたですか」
いきなり背後から声がした。俺は飛びあがり、ヒイッと情けない悲鳴を漏らした。ついさっきまで人の気配など感じなかったのに、いつの間に近づいてきたのだろう。
おそるおそる振り返ると、そこにいたのは少年だった。見たところ、小学校二年か三年くらいの背丈だ。少年というよりは、男児というほうが適切かもしれない。上半身には真っ黒な古臭い詰襟、下半身には黒い半ズボン、それに白いソックス、黒い革靴という、レトロすぎるいでたちだった。
その顔は不気味なほど色白で、生気がない。まさか幽霊だろうか。
「ああ、ええ、その、少し道に迷って……誰か、大人の人っているかな」
「行き先は?」
少年は眉ひとつ動かさずに尋ねた。
「いや、だから大人を……」
「行き先は?」
少年は語気を強めて言った。そして早く言え、とでも言わんばかりにこちらの顔を覗きこんでくる。しかたがないので、俺は実家がある地区の名前を口にした。すると彼は間髪入れずに、妙に大人びた口調でこう答えた。
「ということは、車ですね。ここから高速にでる道もあるにはありますが、規定でお教えすることはできないんですよ。まあ、少し仲間と相談してみます。少しお待ちください」
少年はそのまま門を引き、中の建物に入ってしまった。俺はそこではじめて、彼が右手に箒を握っていることに気がついた。きっと、表の掃除をしていたのだろう。
「お待たせしました」
しばらくすると、少年は戻ってきた。その手に箒はなく、かわりに白い紙コップを持っていた。
「この道に詳しい者が、案内するそうです。今、地図を探しているところなので、もうしばらくお待ちいただけますか」
差しだされたコップには茶色い液体が入っていた。持ってみると、温かい。香りからして、麦茶のようだった。肌寒いこの時期に外で待たせることに罪悪感を感じたのだろうか。
「あ、どうも」
案内してくれるということは、きっと、あの建物には運転免許をもつ者がいるのだろう。俺は安心し、コップの茶を一口飲んだ。
そこで、俺の意識は途切れた。
「まずい。完全に迷った」
途方に暮れてカーナビの示す現在地に目をやるも、画面上の地図には何もない。ただただ、らくだ色の何もない画面の中央に、小さな矢印があるだけだ。
「もう夕方だってのに、どうすんだよ……」
俺はひとり、運転席で頭を抱えてつぶやいた。明日からの連休は久々に実家で過ごそうと考えていた矢先の不幸だった。
出張先が偶然にも実家から直線十キロ程度の場所だったため、俺はそのまま家には帰らず、両親の住む実家へと向かう旨を連絡していた。「あの辺は道がややこしいから高速を使え」という父親の忠告は無視した。高速なんかに乗ったら料金はとられるし、えらく遠回りになってしまう。たいした距離じゃないし、地図に従って行けば問題ないだろう──そう高を括っていた一時間前の自分をぶん殴りたい。
道は想像以上に険しかった。地図の上では一本線がするっと描いてあるだけなのに、実際は舗装すらまともにされていない、ひどく荒れ果てた山道だった。
こんなところで日が暮れてはたまらない。いっそ、電波が繋がるうちに恥をしのんで助けを呼ぶか……そう考えていると、ふと目の前に小さな看板が現れた。
看板といっても、1枚のベニヤ板に黒いペンキで乱雑な文字が書かれているだけである。傍から見たら看板というより、単なる落書きされたゴミだ。だが、その板は驚くほど真新しかった。昨夜は大雨で、辺りの土はまだ湿っているというのに、まるでつい数分前にホームセンターで買ってきたかのように白く、カラカラに乾いていた。その異様さに、俺は思わず車を停めた。
──これは誰かが、今日のうちに置いていったに違いない。
だとすれば、この看板の情報も新しいはずだ。ということは、この先にはきっと、誰かがいる。
もちろん、落ちついて冷静に考えれば、そんなに都合のいいことはありえないと判断できただろう。だが、不安な気持ちで山道を走りつづけ、憔悴しきった俺の脳は、すっかりおかしくなってしまっていた。
俺はゆっくりと車を降り、看板が指し示すほうへ、ふらふらと道なき道をまっすぐに進みはじめた。
草と小枝をかきわけて山の中を一分ほど歩くと、突然、地面が平らになった。
目の前には学校にあるような背の高いスライド式の門扉と、その両脇を固めるコンクリートの白い壁があった。壁はまっすぐ左右に延びて、はるか先の方でようやく直角に折れている。壁の高さは俺の目線よりもだいぶ上まであり、中の様子はよくわからなかった。
門まで近づき、そっと覗くと、中には大きなクリーム色の建物があった。三階建てで、屋上もある。一見すると、病院か学校のようだ。少し古びてはいるが、廃墟という感じはしない。ただ、門の向こうは気味の悪いほどに静かだった。
「どなたですか」
いきなり背後から声がした。俺は飛びあがり、ヒイッと情けない悲鳴を漏らした。ついさっきまで人の気配など感じなかったのに、いつの間に近づいてきたのだろう。
おそるおそる振り返ると、そこにいたのは少年だった。見たところ、小学校二年か三年くらいの背丈だ。少年というよりは、男児というほうが適切かもしれない。上半身には真っ黒な古臭い詰襟、下半身には黒い半ズボン、それに白いソックス、黒い革靴という、レトロすぎるいでたちだった。
その顔は不気味なほど色白で、生気がない。まさか幽霊だろうか。
「ああ、ええ、その、少し道に迷って……誰か、大人の人っているかな」
「行き先は?」
少年は眉ひとつ動かさずに尋ねた。
「いや、だから大人を……」
「行き先は?」
少年は語気を強めて言った。そして早く言え、とでも言わんばかりにこちらの顔を覗きこんでくる。しかたがないので、俺は実家がある地区の名前を口にした。すると彼は間髪入れずに、妙に大人びた口調でこう答えた。
「ということは、車ですね。ここから高速にでる道もあるにはありますが、規定でお教えすることはできないんですよ。まあ、少し仲間と相談してみます。少しお待ちください」
少年はそのまま門を引き、中の建物に入ってしまった。俺はそこではじめて、彼が右手に箒を握っていることに気がついた。きっと、表の掃除をしていたのだろう。
「お待たせしました」
しばらくすると、少年は戻ってきた。その手に箒はなく、かわりに白い紙コップを持っていた。
「この道に詳しい者が、案内するそうです。今、地図を探しているところなので、もうしばらくお待ちいただけますか」
差しだされたコップには茶色い液体が入っていた。持ってみると、温かい。香りからして、麦茶のようだった。肌寒いこの時期に外で待たせることに罪悪感を感じたのだろうか。
「あ、どうも」
案内してくれるということは、きっと、あの建物には運転免許をもつ者がいるのだろう。俺は安心し、コップの茶を一口飲んだ。
そこで、俺の意識は途切れた。
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