8 あの子の名前
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次の補講の日、あかりは図書室で読書と自習を繰りかえしながら時間を潰していた。授業はとうの昔に終わっていたが、帰るに帰れない事情があったのである。やがて、最終下校時刻になるとチャイムが鳴り、図書館が閉鎖されたので、あかりは荷物をまとめて教室へとむかった。チャイムが鳴っても、各施設に見回りの教師が来るまでにはまだ時間がある。そのタイムラグを利用して、あかりはある人物と教室で待ち合わせの約束をしていた。
あと少しで教室、というところであかりは一旦立ちどまり、制服のポケットに入れていたラピスラズリの腕輪を手首にはめた。こうしたアクセサリーは校則違反なので本来つけるべきではないのだが、今だけはこの腕輪が必要な気がしていた。
教室の引き戸を開けると、神崎が自席に座って何かを眺めているのが見えた。彼はあかりに気がつくと、それらを片づけてさわやかな笑顔で立ちあがり、大げさに右手を振ってみせた。
「来てくれてありがとう。待ってもらってごめん」
そう、ここにいる神崎 遥 こそが、本日の約束の主であった。夏休みは連日部活動で忙しく、わざわざ会う時間は設けられないという彼のために、あかりはこんな夕方まで図書室にひきこもっていたのである。
「別に大丈夫……どうせ暇だったから」
あかりは近くにあった机に鞄を無造作に置き、少し緊張しつつ、ゆっくりと神崎に近づいていった。
メッセージを受信したあの日、あかりは神崎から「話がある」と切りだされ、電話でなく直接会うことと、周囲に人がいないふたりきりの状態で話すことを条件に指定された。神崎は毎日のように部活動で学校に行っていたため、補講の日に彼の予定が終わるタイミングで会うことに決めた。この時間ならば生徒はほとんど帰っており、教室にも人がいない。仮に教師に見つかっても、帰り支度が遅くなったのだと言い訳をすればすむ。そういうわけで、あかりは何も知らされないまま、ここまでやってきたのだった。
神崎はあかりがそばに来たのを確認すると、すっと口もとから笑みを消し、机から一枚の封筒をとりだすと、中から一枚の紙を抜き、こちらにむけた。
「じつは、片町に見せたいものがあったんだ。これなんだけど」
そう言って差しだされたのは、一枚の写真だった。人工呼吸器をつけた小さな子供が、病室らしき場所の白いベッドに横たわっている。あかりはぎょっとして二、三歩後ろにさがった。学校で他人に見せる写真としては、あまりにも趣味が悪すぎる。
「何、これ」
「俺の弟。生まれたときから身体が弱くて、ずっと病院にいたんだ。写真は、親に黙って持ってきた」
「え」
あかりは口がきけなかった。この人は何を考えているのだろう。しかし、神崎は動じなかった。口を一文字に引き結び、まっすぐに丸い瞳をこちらにむけ、写真をこちらに突きつけたまま、一歩も退かない。しかたがないので、あかりは写真を受けとった。よく見ると、子供はまだほんの赤ん坊で、管を通されている手首はがりがりに痩せている。瞳はしっかりと閉じられており、寝ているというよりは強制的に「眠らされている」かのような、ぐったりとした痛ましい表情をしていた。
「どうして、これを……私に見せたの?」
神崎は答えなかった。黙ってあかりの手から写真を回収すると、かわりにもう一枚、封筒から写真らしき紙を引き抜いた。
「弟はずっと病室で眠っていることが多かった。でも、容体が安定しているときは目を開けてくれることもあったんだ。これは二歳になってすぐの頃だった」
神崎は写真を表にむけてあかりの前にだした。
その写真を見た瞬間だった。
右手のラピスラズリの腕輪が突如熱を持ち、同時にあかりの脳内にある情報が叩きこまれた。それは、確証もないのに、そうだと思わざるをえないほどの強烈な刺激だった。
──「ストラ」だ。
写真の中できょとんとした表情を見せているその子供は、顔つきはしっかりしているものの、まだまだ「赤ちゃん」の域を脱していない。しかし、彼はストラに相違なかった。ラピスラズリの腕輪もまた、その事実を肯定するかのようにじりじりと熱を持って手首を焦がし、あかりの心にあの「ストラ」の映像を浮かびあがらせた。そう、この子は目の色こそ黒々としているものの、ストラと完全に同じ顔をしている。この赤ちゃんがもう少し育てば、間違いなくあのストラと同じ見た目になるはずだ。
あかりは顔をあげ、青いジャージをまとった神崎の顔を穴があくほど観察した。夏の日差しに晒されて真っ黒に焼けたその顔は、一見あのストラとは似ても似つかない。だが、少し離れて全体の印象を見ると、目もとや表情のつくりに既視感がある。
もしかしたら、という嫌な期待を押し殺し、あかりは平静を装った。こんなところで取り乱すわけには行かない。
「この子、今はどこにいるの?」
「いないよ」
間髪入れずに神崎が答えた。その言葉には何の感情もこもっていない。そこにいる彼は、とても普段友人と馬鹿騒ぎをしているあの神崎と同一人物とは思えなかった。
「弟は死んだんだ。三歳の誕生日を迎える三日前に」
その目はどこか遠くを見つめていた。あかりは言葉を失った。
「五月生まれだから、生きていたら十一歳。あのとき一緒にいた子……ルリナちゃんだっけ? あの子と同学年になっているはずだ」
神崎は写真を戻すと、ふうっとため息をついた。
「俺、練習試合のときに倒れて救急搬送されてさ。そのときに夢の中で片町と会ったんだ。気持ち悪い夢だなあって思ってたんだけど、ずっとあの白い服の子供のことが引っかかっていたんだ。なんでかわからないんだけど、弟のことを思いだしてしまって……それで、思わず片町に連絡しちまったんだ。でもあの子、もういないんだよな」
あかりはおずおずと頷いた。ストラがどうなったかについては、メッセージが届いた日に、馬鹿にされる覚悟で彼にも詳細を伝えておいた。幸い、彼はあかりの話を茶化すような真似はせず、ただ「そっか、残念」という感想をよこしたのみだった。
「まあ、俺の思い違いかもしれないから。話、聞いてくれてありがとな。あと、今の話は誰にも言わないでほしい。まあ、あのルリナって子には言ってもいいけどさ。俺、母さんに口止めされてるんだ。家族以外の人間は、俺に弟がいたことすら知らないってことになってる」
あかりは了承し、それから最後に思いきって、どうしても気になっていた質問をぶつけた。
「この子、名前はなんていうの?」
すると、神崎はルーズリーフを一枚だして何かを書き、それをこちらに見せてくれた。そこには四つの漢字が並べられていた。
「遠也 だよ。神崎 遠也 。漢字はこう書くんだ」
神崎、遠也。
その文字を見た瞬間、あかりは自分の胸につっかえていたしこりのようなものがすうっと溶けていくような感触を覚えた。
──よかった。
それが、真っ先にでてきた感想だった。それは、霧のように捉えどころのなかったものが、固体としてはっきりとした形を持った瞬間でもあった。
あの不憫な小さい子は、たしかにこの世に存在していたのだ。
あと少しで教室、というところであかりは一旦立ちどまり、制服のポケットに入れていたラピスラズリの腕輪を手首にはめた。こうしたアクセサリーは校則違反なので本来つけるべきではないのだが、今だけはこの腕輪が必要な気がしていた。
教室の引き戸を開けると、神崎が自席に座って何かを眺めているのが見えた。彼はあかりに気がつくと、それらを片づけてさわやかな笑顔で立ちあがり、大げさに右手を振ってみせた。
「来てくれてありがとう。待ってもらってごめん」
そう、ここにいる
「別に大丈夫……どうせ暇だったから」
あかりは近くにあった机に鞄を無造作に置き、少し緊張しつつ、ゆっくりと神崎に近づいていった。
メッセージを受信したあの日、あかりは神崎から「話がある」と切りだされ、電話でなく直接会うことと、周囲に人がいないふたりきりの状態で話すことを条件に指定された。神崎は毎日のように部活動で学校に行っていたため、補講の日に彼の予定が終わるタイミングで会うことに決めた。この時間ならば生徒はほとんど帰っており、教室にも人がいない。仮に教師に見つかっても、帰り支度が遅くなったのだと言い訳をすればすむ。そういうわけで、あかりは何も知らされないまま、ここまでやってきたのだった。
神崎はあかりがそばに来たのを確認すると、すっと口もとから笑みを消し、机から一枚の封筒をとりだすと、中から一枚の紙を抜き、こちらにむけた。
「じつは、片町に見せたいものがあったんだ。これなんだけど」
そう言って差しだされたのは、一枚の写真だった。人工呼吸器をつけた小さな子供が、病室らしき場所の白いベッドに横たわっている。あかりはぎょっとして二、三歩後ろにさがった。学校で他人に見せる写真としては、あまりにも趣味が悪すぎる。
「何、これ」
「俺の弟。生まれたときから身体が弱くて、ずっと病院にいたんだ。写真は、親に黙って持ってきた」
「え」
あかりは口がきけなかった。この人は何を考えているのだろう。しかし、神崎は動じなかった。口を一文字に引き結び、まっすぐに丸い瞳をこちらにむけ、写真をこちらに突きつけたまま、一歩も退かない。しかたがないので、あかりは写真を受けとった。よく見ると、子供はまだほんの赤ん坊で、管を通されている手首はがりがりに痩せている。瞳はしっかりと閉じられており、寝ているというよりは強制的に「眠らされている」かのような、ぐったりとした痛ましい表情をしていた。
「どうして、これを……私に見せたの?」
神崎は答えなかった。黙ってあかりの手から写真を回収すると、かわりにもう一枚、封筒から写真らしき紙を引き抜いた。
「弟はずっと病室で眠っていることが多かった。でも、容体が安定しているときは目を開けてくれることもあったんだ。これは二歳になってすぐの頃だった」
神崎は写真を表にむけてあかりの前にだした。
その写真を見た瞬間だった。
右手のラピスラズリの腕輪が突如熱を持ち、同時にあかりの脳内にある情報が叩きこまれた。それは、確証もないのに、そうだと思わざるをえないほどの強烈な刺激だった。
──「ストラ」だ。
写真の中できょとんとした表情を見せているその子供は、顔つきはしっかりしているものの、まだまだ「赤ちゃん」の域を脱していない。しかし、彼はストラに相違なかった。ラピスラズリの腕輪もまた、その事実を肯定するかのようにじりじりと熱を持って手首を焦がし、あかりの心にあの「ストラ」の映像を浮かびあがらせた。そう、この子は目の色こそ黒々としているものの、ストラと完全に同じ顔をしている。この赤ちゃんがもう少し育てば、間違いなくあのストラと同じ見た目になるはずだ。
あかりは顔をあげ、青いジャージをまとった神崎の顔を穴があくほど観察した。夏の日差しに晒されて真っ黒に焼けたその顔は、一見あのストラとは似ても似つかない。だが、少し離れて全体の印象を見ると、目もとや表情のつくりに既視感がある。
もしかしたら、という嫌な期待を押し殺し、あかりは平静を装った。こんなところで取り乱すわけには行かない。
「この子、今はどこにいるの?」
「いないよ」
間髪入れずに神崎が答えた。その言葉には何の感情もこもっていない。そこにいる彼は、とても普段友人と馬鹿騒ぎをしているあの神崎と同一人物とは思えなかった。
「弟は死んだんだ。三歳の誕生日を迎える三日前に」
その目はどこか遠くを見つめていた。あかりは言葉を失った。
「五月生まれだから、生きていたら十一歳。あのとき一緒にいた子……ルリナちゃんだっけ? あの子と同学年になっているはずだ」
神崎は写真を戻すと、ふうっとため息をついた。
「俺、練習試合のときに倒れて救急搬送されてさ。そのときに夢の中で片町と会ったんだ。気持ち悪い夢だなあって思ってたんだけど、ずっとあの白い服の子供のことが引っかかっていたんだ。なんでかわからないんだけど、弟のことを思いだしてしまって……それで、思わず片町に連絡しちまったんだ。でもあの子、もういないんだよな」
あかりはおずおずと頷いた。ストラがどうなったかについては、メッセージが届いた日に、馬鹿にされる覚悟で彼にも詳細を伝えておいた。幸い、彼はあかりの話を茶化すような真似はせず、ただ「そっか、残念」という感想をよこしたのみだった。
「まあ、俺の思い違いかもしれないから。話、聞いてくれてありがとな。あと、今の話は誰にも言わないでほしい。まあ、あのルリナって子には言ってもいいけどさ。俺、母さんに口止めされてるんだ。家族以外の人間は、俺に弟がいたことすら知らないってことになってる」
あかりは了承し、それから最後に思いきって、どうしても気になっていた質問をぶつけた。
「この子、名前はなんていうの?」
すると、神崎はルーズリーフを一枚だして何かを書き、それをこちらに見せてくれた。そこには四つの漢字が並べられていた。
「
神崎、遠也。
その文字を見た瞬間、あかりは自分の胸につっかえていたしこりのようなものがすうっと溶けていくような感触を覚えた。
──よかった。
それが、真っ先にでてきた感想だった。それは、霧のように捉えどころのなかったものが、固体としてはっきりとした形を持った瞬間でもあった。
あの不憫な小さい子は、たしかにこの世に存在していたのだ。