6 隔絶
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「あれ?」
円の先に広がる光景は、拍子抜けするくらい普通で、かつ、見覚えのあるものだった。
クローゼット、絨毯の床、小さなベッドとテーブル。そこはルリの部屋だった。どうやらこの円は、彼女の自室の鏡に通じていたらしい。あかりはひとまず安心し、ストラを円からこちらにだしてやった。
「パパはでかけてるみたい」
開きっぱなしの部屋の入口からルリが入ってきた。その口ぶりから察するに、ここは本当に彼女の家で、彼女の父親は留守らしい。
なんということだろう。つまりあかりたちは、さんざんわけのわからない空間を歩いたあげく、もといた場所に戻ってきたのである。
しかし、荷物はすべて千草の家だ。ということは、三人は千草のもとに帰るために、また四苦八苦しながら電車で移動しなければならないということだろうか。そう尋ねると、ルリは無表情で首を振った。
「ううん、来た道を戻ればまたおばあちゃんのところに帰れるよ。だって、ここから駅まで歩くのめんどくさいでしょ? 暑いし」
言われてはじめて、あかりはこの部屋の室温が異常に高いことに気づいた。さっきまでは何も感じていなかった肌に、どっと汗が噴きだし、さっきまでは存在すら認知していなかった脈が、いつの間にかどくどくと音が聞こえるほど速くなっていた。
「それなら、すぐに戻らないと」
「うん。それはそうなんだけど」
ルリはのんびりと勉強机からリモコンをとり、エアコンの電源を入れた。
「ちょっと疲れちゃった。あかりもそうじゃない? ずっと夢空間にいると疲れちゃうんだよ。だから、しばらく休憩する」
そう言うと、ルリは床に大の字になって寝転がって目をつむった。あかりも急にどっと身体が重くなり、壁を背にして座りこんだ。どうやら、ルリの言葉は本当らしい。まるで長距離マラソンでもしたかのように身体中の力が抜け、重力によって床に吸いよせられている。彼女の言うとおり、少し休んだほうがよさそうだ。
一方、ストラに疲れているそぶりはなかった。彼は小さな足で突っ立ったまま、じっと考え深げに先ほどの鏡を眺めていた。当然ながら、彼の姿は映っていない。
「どうかしたの?」
そう問いかけると、ストラは大きな目をぱちぱちさせて少し考え、ゆっくりと唇を動かして質問を返した。
「さっきの人、どこに行ったの?」
さっきの人とは神崎のことだろう。そういえば、彼はどこに行ったのだろう。まさかあの不気味な空間のどこかに今も漂っているのだろうか。
「夢から覚めたよ」
答えられずに途方に暮れていると、ルリが目を閉じたまま答えた。
「目を覚まして、もといた場所に戻っただけ。心配ないよ」
どうやら、先ほどの神崎は文字どおり夢を見ていたらしい。ということは今頃どこかで目覚めているのだろう。どうせ、あかりたちにであったことも夢のひとつとして片づけているに違いない。
しかし、ストラはまだ納得いかないことがあるらしく、何か言いたげにあかりのほうをチラチラ見ていた。あかりが再度「どうしたの?」と尋ねると、彼は少し目を泳がせてから、遠慮がちに発言した。
「ぼくって気持ち悪いかな?」
「まさか」
思ってもみなかった言葉に、あかりは面食らいつつも即座に否定した。いったいどうして、そんな考えがでてきたのだろう。
「でも、さっきの人、羽が気持ち悪いって言ってたよ」
「あの人は何も知らないのよ」
ストラは先刻の神崎の発言を気にしているようだった。あかりは神崎の無礼な態度と言葉の悪さに怒りを感じつつも、それらはすべて自分の胸におさめ、つとめて明るく、しかし真面目に語りかけた。
「ストラちゃんの羽がなかったら、私は雲から落ちてふたりとはぐれていたのよ。私はストラちゃんに感謝してる。他人の言うことなんか気にしないの」
奇しくもそれは、かつて兄があかりに言い聞かせていた言葉と同じだった。他人の言うことを気にしない──それは言う側にとっては簡単だが、実行する側にとっては難易度の高い話である。
「あかりは、ぼくのこと嫌いじゃない?」
「ええ」
「じゃあ、ぼくのこと好き?」
「もちろん」
どちらの質問にも、あかりは即答した。
正直、はじめのうちは迷惑に感じていた。他人には見えず、ルリを怒らせ、電車で動きまわり──と、トラブルを引き起こしてばかりだった。けれども、こうして同じ時間を過ごすうちに、彼の思考や行動パターンは少しずつわかってきた。また、彼はものを知らないだけで、話せばきちんと理解してくれる。今となっては、親戚の子供と遊んでいるような感覚で、とくに困りごとは感じていなかった。それどころか、一緒にいることに楽しさすら覚えている。
ストラはあかりの答えに納得したのか、ようやく笑顔になり、そして──ルリの部屋をぺたぺたと歩き回りはじめた。そして、足の短いテーブルに無造作に置かれていたエアコン用リモコンを指さして、ルリに「遊んでもいい?」と尋ねた。例のピアノ破壊事件のあと、彼は何かを手にとるまえに必ず許可を求めるようになった。
「ダメダメ、触っちゃダメ。というより、あたしのものは触らないで」
ルリは飛び起きてリモコンを片づけ、引きだしから何かをとりだした。
「これならいいよ。折っても破っても怒らないから」
「これ、なあに?」
「折り紙。いろいろ作れて面白いんだから」
そう、それは市販の折り紙だった。実物を見るのは小学生以来だった。片面に色をつけただけの何の変哲もない正方形の紙だが、彼は興味を持ったらしく、おとなしくルリと一緒にテーブルについた。
こうしてふたりは呑気に折り紙を折りはじめた。
「あかりもやる?」
「私?」
正直、あまり興味はなかった。しかし、ここで無下に断るのも可哀想な気がした。そこで、手もとにあった赤い折り紙をとり、たまたま折りかたを暗記していた鶴を一羽、手早く折ってみせた。
「わあ、すごい!」
ふたりは食い入るようにあかりの手もとを覗きこみ、同時に感嘆の声をあげた。あかりにしてみればなんてことのない作業だったが、ルリ曰く鶴は複雑怪奇な難題のひとつで、白い裏面が見えないよう綺麗に折るのは至難の技らしい。ストラのほうは完成品よりもあかりの手つきを見るのが面白かったようで、もう一度やってほしいとせがんできた。結局、あかりは立て続けに鶴を八羽も折るはめになった。
いつまでも折り紙をするのも退屈になってきたので、あかりはルリに断って暇つぶしにこの家の探検をすることにした。いつもならスマホで音楽でも聴くのだが、残念ながらこの家にワープしたのは身体と服だけで、持ち物は一切運ばれてこなかったらしい。
この家にはテレビを除いて娯楽用の電子機器が存在しない。ルリの父がデスクトップのパソコンを持っているらしいが、彼の書斎は厳重に鍵がかけられているらしく、触ることはできないという。仮に書斎が開放されていたとしても、触ることはなかったと思うが。
「いい、ここをこう折るの」
「難しくてできないよ」
「そう? ストラには複雑すぎたかな」
部屋からは楽しそうなルリと不服そうなストラの声が聞こえていた。どうやらストラは折り紙に苦戦しているらしい。
あかりは台所から浴室、客間、居間などを回り、最後に縁側から中庭を観察した。広い家にも関わらず、掃除は行きとどいていて埃ひとつ落ちていなかった。特に中庭は綺麗に手入れをされており、まるで高級旅館に来たかのようだ。この家にお手伝いさんなどはいないと聞いている。ということは、掃除も庭の手入れもルリの父親がしているということになる。とても几帳面な人なのだろう。
「できた!」
部屋に戻ると、わあっとストラの歓声があがった。彼は小さな紙切れを両手で持ちあげて嬉しそうに笑っている。どういう状況なのかあかりが理解できずにいると、ストラの隣にいたルリがご丁寧に解説してくれた。
「これ、ストラがひとりで作ったの。すごく簡単なやつなんだけどね。でも、ストラはこれを作るのに四回も失敗したんだよ。今持ってるのが五回目なの」
それは簡素なヨットだった。折り紙を三回折るだけでできる、極めて簡単な作品だ。しかも彼は「ヨット」が何なのかはわかっていない様子である。しかし、彼は自分ひとりでつくりあげた作品をそうとう気に入っているらしかった。
「すごいね。よくできたね」
そう褒めてあげると、彼は素直に喜んだ。そして、立ちあがってとことことこちらに歩いてくると、その黄色いヨットを差しだした。
「あかりにあげる」
それは思ってもみないことだった。普段のあかりなら、こんな使い道のない紙切れには関心すら示さない。しかし今、目の前にある折りたたまれた色紙 には、どんな紙よりも高い価値があるように感じられた。どんな紙幣よりも、招待券よりも──うわべだけの友達からのメッセーカードよりも、父や兄からの手紙よりも。
「ありがとう」
あかりはためらいなく手を伸ばした。その爪先は間違いなくヨットを掴んだ。掴んだはずだった。
「あっ」
ところが、ヨットはあかりの指に触れることなく、ひらりと宙を舞って床へと着地してしまった。
あかりは手を差しだした格好のまま、硬直した。ヨットはたしかに、この手の位置にあった。そして、ストラがヨットを手放すそぶりもなかった。それならなぜ、ヨットは落下したのだろう?
どうやらストラも同じことを考えていたらしく、彼も目をまるくして自分の手と床に落ちたヨットを見比べていた。そしておもむろに屈みこみ、足元に寝ているヨットを拾おうとした。
しかし、ヨットは床に貼りついたまま、一ミリも動かなかった。あかりは急いで床に膝をつけ、ストラの手の動きを観察した。そして、恐ろしい事実を目撃した。
ストラの手は間違いなくヨットに触れている。しかし、ヨットは持ちあがらない。いくらすくおうとしても、ヨットは彼の手に反応しないのだ。
あかりはおそるおそる右手を伸ばし、そっと目の前にいるストラの頰に指先をあててみた。
そこに感触はなかった。指はストラの頰をすりぬけて空をかいた。
「──消えてる」
彼のあどけない顔の向こう側には、絶望的な表情をしたルリと、テーブルをはじめとした部屋の調度品がくっきりと見えていた。いつの間にか彼の身体は色が薄まり、ガラス細工のように綺麗に透きとおっていた。
円の先に広がる光景は、拍子抜けするくらい普通で、かつ、見覚えのあるものだった。
クローゼット、絨毯の床、小さなベッドとテーブル。そこはルリの部屋だった。どうやらこの円は、彼女の自室の鏡に通じていたらしい。あかりはひとまず安心し、ストラを円からこちらにだしてやった。
「パパはでかけてるみたい」
開きっぱなしの部屋の入口からルリが入ってきた。その口ぶりから察するに、ここは本当に彼女の家で、彼女の父親は留守らしい。
なんということだろう。つまりあかりたちは、さんざんわけのわからない空間を歩いたあげく、もといた場所に戻ってきたのである。
しかし、荷物はすべて千草の家だ。ということは、三人は千草のもとに帰るために、また四苦八苦しながら電車で移動しなければならないということだろうか。そう尋ねると、ルリは無表情で首を振った。
「ううん、来た道を戻ればまたおばあちゃんのところに帰れるよ。だって、ここから駅まで歩くのめんどくさいでしょ? 暑いし」
言われてはじめて、あかりはこの部屋の室温が異常に高いことに気づいた。さっきまでは何も感じていなかった肌に、どっと汗が噴きだし、さっきまでは存在すら認知していなかった脈が、いつの間にかどくどくと音が聞こえるほど速くなっていた。
「それなら、すぐに戻らないと」
「うん。それはそうなんだけど」
ルリはのんびりと勉強机からリモコンをとり、エアコンの電源を入れた。
「ちょっと疲れちゃった。あかりもそうじゃない? ずっと夢空間にいると疲れちゃうんだよ。だから、しばらく休憩する」
そう言うと、ルリは床に大の字になって寝転がって目をつむった。あかりも急にどっと身体が重くなり、壁を背にして座りこんだ。どうやら、ルリの言葉は本当らしい。まるで長距離マラソンでもしたかのように身体中の力が抜け、重力によって床に吸いよせられている。彼女の言うとおり、少し休んだほうがよさそうだ。
一方、ストラに疲れているそぶりはなかった。彼は小さな足で突っ立ったまま、じっと考え深げに先ほどの鏡を眺めていた。当然ながら、彼の姿は映っていない。
「どうかしたの?」
そう問いかけると、ストラは大きな目をぱちぱちさせて少し考え、ゆっくりと唇を動かして質問を返した。
「さっきの人、どこに行ったの?」
さっきの人とは神崎のことだろう。そういえば、彼はどこに行ったのだろう。まさかあの不気味な空間のどこかに今も漂っているのだろうか。
「夢から覚めたよ」
答えられずに途方に暮れていると、ルリが目を閉じたまま答えた。
「目を覚まして、もといた場所に戻っただけ。心配ないよ」
どうやら、先ほどの神崎は文字どおり夢を見ていたらしい。ということは今頃どこかで目覚めているのだろう。どうせ、あかりたちにであったことも夢のひとつとして片づけているに違いない。
しかし、ストラはまだ納得いかないことがあるらしく、何か言いたげにあかりのほうをチラチラ見ていた。あかりが再度「どうしたの?」と尋ねると、彼は少し目を泳がせてから、遠慮がちに発言した。
「ぼくって気持ち悪いかな?」
「まさか」
思ってもみなかった言葉に、あかりは面食らいつつも即座に否定した。いったいどうして、そんな考えがでてきたのだろう。
「でも、さっきの人、羽が気持ち悪いって言ってたよ」
「あの人は何も知らないのよ」
ストラは先刻の神崎の発言を気にしているようだった。あかりは神崎の無礼な態度と言葉の悪さに怒りを感じつつも、それらはすべて自分の胸におさめ、つとめて明るく、しかし真面目に語りかけた。
「ストラちゃんの羽がなかったら、私は雲から落ちてふたりとはぐれていたのよ。私はストラちゃんに感謝してる。他人の言うことなんか気にしないの」
奇しくもそれは、かつて兄があかりに言い聞かせていた言葉と同じだった。他人の言うことを気にしない──それは言う側にとっては簡単だが、実行する側にとっては難易度の高い話である。
「あかりは、ぼくのこと嫌いじゃない?」
「ええ」
「じゃあ、ぼくのこと好き?」
「もちろん」
どちらの質問にも、あかりは即答した。
正直、はじめのうちは迷惑に感じていた。他人には見えず、ルリを怒らせ、電車で動きまわり──と、トラブルを引き起こしてばかりだった。けれども、こうして同じ時間を過ごすうちに、彼の思考や行動パターンは少しずつわかってきた。また、彼はものを知らないだけで、話せばきちんと理解してくれる。今となっては、親戚の子供と遊んでいるような感覚で、とくに困りごとは感じていなかった。それどころか、一緒にいることに楽しさすら覚えている。
ストラはあかりの答えに納得したのか、ようやく笑顔になり、そして──ルリの部屋をぺたぺたと歩き回りはじめた。そして、足の短いテーブルに無造作に置かれていたエアコン用リモコンを指さして、ルリに「遊んでもいい?」と尋ねた。例のピアノ破壊事件のあと、彼は何かを手にとるまえに必ず許可を求めるようになった。
「ダメダメ、触っちゃダメ。というより、あたしのものは触らないで」
ルリは飛び起きてリモコンを片づけ、引きだしから何かをとりだした。
「これならいいよ。折っても破っても怒らないから」
「これ、なあに?」
「折り紙。いろいろ作れて面白いんだから」
そう、それは市販の折り紙だった。実物を見るのは小学生以来だった。片面に色をつけただけの何の変哲もない正方形の紙だが、彼は興味を持ったらしく、おとなしくルリと一緒にテーブルについた。
こうしてふたりは呑気に折り紙を折りはじめた。
「あかりもやる?」
「私?」
正直、あまり興味はなかった。しかし、ここで無下に断るのも可哀想な気がした。そこで、手もとにあった赤い折り紙をとり、たまたま折りかたを暗記していた鶴を一羽、手早く折ってみせた。
「わあ、すごい!」
ふたりは食い入るようにあかりの手もとを覗きこみ、同時に感嘆の声をあげた。あかりにしてみればなんてことのない作業だったが、ルリ曰く鶴は複雑怪奇な難題のひとつで、白い裏面が見えないよう綺麗に折るのは至難の技らしい。ストラのほうは完成品よりもあかりの手つきを見るのが面白かったようで、もう一度やってほしいとせがんできた。結局、あかりは立て続けに鶴を八羽も折るはめになった。
いつまでも折り紙をするのも退屈になってきたので、あかりはルリに断って暇つぶしにこの家の探検をすることにした。いつもならスマホで音楽でも聴くのだが、残念ながらこの家にワープしたのは身体と服だけで、持ち物は一切運ばれてこなかったらしい。
この家にはテレビを除いて娯楽用の電子機器が存在しない。ルリの父がデスクトップのパソコンを持っているらしいが、彼の書斎は厳重に鍵がかけられているらしく、触ることはできないという。仮に書斎が開放されていたとしても、触ることはなかったと思うが。
「いい、ここをこう折るの」
「難しくてできないよ」
「そう? ストラには複雑すぎたかな」
部屋からは楽しそうなルリと不服そうなストラの声が聞こえていた。どうやらストラは折り紙に苦戦しているらしい。
あかりは台所から浴室、客間、居間などを回り、最後に縁側から中庭を観察した。広い家にも関わらず、掃除は行きとどいていて埃ひとつ落ちていなかった。特に中庭は綺麗に手入れをされており、まるで高級旅館に来たかのようだ。この家にお手伝いさんなどはいないと聞いている。ということは、掃除も庭の手入れもルリの父親がしているということになる。とても几帳面な人なのだろう。
「できた!」
部屋に戻ると、わあっとストラの歓声があがった。彼は小さな紙切れを両手で持ちあげて嬉しそうに笑っている。どういう状況なのかあかりが理解できずにいると、ストラの隣にいたルリがご丁寧に解説してくれた。
「これ、ストラがひとりで作ったの。すごく簡単なやつなんだけどね。でも、ストラはこれを作るのに四回も失敗したんだよ。今持ってるのが五回目なの」
それは簡素なヨットだった。折り紙を三回折るだけでできる、極めて簡単な作品だ。しかも彼は「ヨット」が何なのかはわかっていない様子である。しかし、彼は自分ひとりでつくりあげた作品をそうとう気に入っているらしかった。
「すごいね。よくできたね」
そう褒めてあげると、彼は素直に喜んだ。そして、立ちあがってとことことこちらに歩いてくると、その黄色いヨットを差しだした。
「あかりにあげる」
それは思ってもみないことだった。普段のあかりなら、こんな使い道のない紙切れには関心すら示さない。しかし今、目の前にある折りたたまれた
「ありがとう」
あかりはためらいなく手を伸ばした。その爪先は間違いなくヨットを掴んだ。掴んだはずだった。
「あっ」
ところが、ヨットはあかりの指に触れることなく、ひらりと宙を舞って床へと着地してしまった。
あかりは手を差しだした格好のまま、硬直した。ヨットはたしかに、この手の位置にあった。そして、ストラがヨットを手放すそぶりもなかった。それならなぜ、ヨットは落下したのだろう?
どうやらストラも同じことを考えていたらしく、彼も目をまるくして自分の手と床に落ちたヨットを見比べていた。そしておもむろに屈みこみ、足元に寝ているヨットを拾おうとした。
しかし、ヨットは床に貼りついたまま、一ミリも動かなかった。あかりは急いで床に膝をつけ、ストラの手の動きを観察した。そして、恐ろしい事実を目撃した。
ストラの手は間違いなくヨットに触れている。しかし、ヨットは持ちあがらない。いくらすくおうとしても、ヨットは彼の手に反応しないのだ。
あかりはおそるおそる右手を伸ばし、そっと目の前にいるストラの頰に指先をあててみた。
そこに感触はなかった。指はストラの頰をすりぬけて空をかいた。
「──消えてる」
彼のあどけない顔の向こう側には、絶望的な表情をしたルリと、テーブルをはじめとした部屋の調度品がくっきりと見えていた。いつの間にか彼の身体は色が薄まり、ガラス細工のように綺麗に透きとおっていた。