5 ラピスラズリの木
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ラピスラズリとは宝石、つまり石である。間違っても植物ではない。それがこの世界の常識である。しかし、そうした常識は「夢空間」では通じない。ラピスラズリが価値を持つ石であるというのはあくまでも物質世界の話であって、夢空間では関係ない。
夢空間とは、夢と現 が入りまじる不安定な世界である。そこに秩序は存在しない。ダイヤモンドは豆腐のように砕けてしまうし、上だと思っていた場所はあるとき突然下になる。水が木を焼きつくすこともあるし、音楽が刃となって人間を切りきざむこともある。
人間が夢空間に迷いこむこともある。それは睡眠中だ。眠っているときの人間は物質世界から意識が締めだされるので、夢空間に旅立ちやすい。しかし、そうした人間の精神は常に「夢」という小さな光の膜に守られているので、迷子になることはない。小さな膜に守られた秩序ある世界の中で、ほんの少し自由な夢をみるだけだ。一見無限に見える夢の世界は案外せまいものなのだ。たとえそれが悪夢であっても、本物の夢空間の恐ろしさに比べればかわいいものである。
物体が意味をなさない場所。物理法則が乱れる場所。そして、明確なルールが存在しない場所。そこでは人間も物体としては存在できず、その心の存在によって、ようやく「自分」を保つことができる。夢空間とは、言うなれば物体の存在しない、「精神の宇宙」なのである。
そんな何もかもが狂った世界に生身の人間が飛びこめば、たちまち元の姿を失い、自らの記憶を溶かし、パニック状態になって消滅してしまうだろう。
ただし、「魔女」に関してはこの限りでない。
「魔女」とは、要するにこうした物質世界とは相対する、精神世界のエキスパートのことである。彼女たちは古より存在し、一般人の知らない領域に関する知識を口承で伝え、代々受けついできた。ちなみに「魔女」と言われてはいるが、まれに男性が魔女をやっていることもあったらしい。
しかし、こうした次元の違う世界の物事を「見られる」のは、魔女と一部の「謙虚な者」だけだった。それ以外の浅はかな人間には、夢空間をはじめとする魔女の知識はすべて絵空事としか映らない。それゆえ、彼女たちは歴史上迫害されることも多く、時とともにその数は減少していった。現代では存在そのものが都市伝説と化しており、千草も自分以外の魔女に会ったことはないという。
「魔女って、そういう意味だったんですか?」
あかりはこれまで親しんできた絵本や映画を思い返しながら質問した。千草は「言葉としては間違っていないわ」と言い、日本には「魔女」という概念がなく、単なる身内での伝統でしかなかったこと、海外から「魔女」という言葉が入ってきたことで自分たちを定義づけることになった歴史などを教えてくれた。
「何事も、人から人へ伝えられていくうちに、原型から離れた解釈をされることがあるのよ。だから、フィクション作品の「魔女」も間違いではないわ。ただ、本当の魔女は結構地味なものよ。何かを支配することも、誰かを陥れることも、運命に逆らうこともできない。ただ、ほかの人よりも広い世界を知っているというだけ」
そんな魔女たちは、みな物質世界の常識にとらわれない心を持ち、強い精神を維持することで、夢空間のようなおかしな場所へも立ち入ることができた。だが、並の魔女では侵入が精一杯で、無事に帰還することすら難しい。
けれども、「ラピスラズリの魔女」だけは特別だった。ラピスラズリの魔女は、あらゆる魔女の中でも最高位クラスの魔女で、なまじの修行では到達できない領域にいるとされている。
ラピスラズリの魔女は「ラピスラズリの木」の力を借りて、夢空間を自在に移動することができた。ついでに、他人の夢に干渉することもできてしまう。
ラピスラズリの木というのは、混沌とした夢空間における不動の目印で、いわば北極星のような役割の木である。夢空間の最下層部にひっそりと根をはって生えているというが、その姿を見たことがある者はほとんどおらず、その存在を知る魔女たちの間でも「幻の木」と呼ばれていた。すべてが流動的な夢空間において唯一変わらない存在として存在するその木は「奇跡の木」とも呼ばれ、強い魔力を有している。
「もっともあの木は、私やルリにとっては身近な存在なのよ。ほかの人たちにとっては『幻のような存在に感じられる』というだけ」
「じゃ、千草さんが『ラピスラズリの魔女』なんですか?」
「いいえ、私はもう魔女ではないの。杖をルリに譲ってしまったから。魔女に相当するのはルリのほうよ。もっとも、この子はまだまだ経験も浅くて一人前とは言えないけれど」
千草はそこで言葉を切り、ルリに「杖」を持ってくるように指示した。もちろん、電車での移動の際、彼女は杖など持っていなかったはずだ。しかし、ルリは明るく返事をすると、ぱたぱたと駆けて階段を登り、どこかへ行ってしまった。
「ルリは、素質の面では魔女として一流よ」
彼女の足音が遠ざかったのを確認して、千草はふたたび口を開いた。
「私なんかよりずっとのみこみも早いし、木との親和性も高い。でも、その分人間社会とはそりがあわないようね。あの子は、まさしく魔女としての運命をまっとうするために生まれてきた子のようだから。だから、私はルリを夢空間に行かせなかったの」
あかりはそれにどう返していいかわからず、千草から視線を外し、テーブルに置いていた両手を膝の上に移動させた。それからうつむいたまま、意味もなく指先を絡ませたり、ほどいたりしながら話の続きを待った。
「あの子は強い子よ。他者から自分がどう思われようとも、自分をつらぬける子。でも、人との関わりかたを知らないの。そういう意味ではあの子はまだ不完全。だから、ひとりで夢空間に行かせるのは危険だと思った。だけど、もし、あの子を理解し支えてくれる人が現れれば、その心配もなくなると思ったの」
それから、千草はルリが消えた方向を振りかえり、じっと耳を澄ませた。ルリが帰ってくる気配はなかった。
「以前、ルリからあなたの話を聞いたとき、きっとルリを支えてくれる人だと確信したわ。だから、『あなたの言うあかりという人が来てくれたら、夢空間に行ってもいい』と言ったの。それをルリは早とちりして、私の知らないところであなたを夢空間へ連れていってしまったのね」
やがて、軽やかな足音とともにルリが部屋に戻ってきた。その手には、あの杖がしっかりと握られていた。いつの間に持ってきたのか、どうやって持ってきたのか、あかりはもう聞かなかった。あかりの中では不可能なことでも、彼女の中ではあたりまえのことなのだろう。
「そんな大切な役目が、私なんかでいいんでしょうか」
あかりはどうしても千草を直視できず、視線をおとしてテーブルの木目を見つめた。ストラのためにも、今更後戻りはできない。しかし、ことは想像以上に重大そうだった。自分のような凡人に、そんな大役が務まるのだろうか。
「大丈夫よ。実際、ルリと一緒に夢空間へ行けているのだもの。それに、あなたは私の説明も理解してくれた。自信を持ちなさい。これは、『あなたにしかできないこと』なのよ」
そう答えた千草の声には、朝のベランダで聞いたときと同じ、木漏れ日のような優しさがこもっていた。
──「あなたにしかできないこと」。
その言葉は何気なく発されたものであったのだろう。だが、そのフレーズは不思議とあかりの心に引っかかり、鉄球のような重量をもってして、彼女の胸を圧迫しつづけた。
夢空間とは、夢と
人間が夢空間に迷いこむこともある。それは睡眠中だ。眠っているときの人間は物質世界から意識が締めだされるので、夢空間に旅立ちやすい。しかし、そうした人間の精神は常に「夢」という小さな光の膜に守られているので、迷子になることはない。小さな膜に守られた秩序ある世界の中で、ほんの少し自由な夢をみるだけだ。一見無限に見える夢の世界は案外せまいものなのだ。たとえそれが悪夢であっても、本物の夢空間の恐ろしさに比べればかわいいものである。
物体が意味をなさない場所。物理法則が乱れる場所。そして、明確なルールが存在しない場所。そこでは人間も物体としては存在できず、その心の存在によって、ようやく「自分」を保つことができる。夢空間とは、言うなれば物体の存在しない、「精神の宇宙」なのである。
そんな何もかもが狂った世界に生身の人間が飛びこめば、たちまち元の姿を失い、自らの記憶を溶かし、パニック状態になって消滅してしまうだろう。
ただし、「魔女」に関してはこの限りでない。
「魔女」とは、要するにこうした物質世界とは相対する、精神世界のエキスパートのことである。彼女たちは古より存在し、一般人の知らない領域に関する知識を口承で伝え、代々受けついできた。ちなみに「魔女」と言われてはいるが、まれに男性が魔女をやっていることもあったらしい。
しかし、こうした次元の違う世界の物事を「見られる」のは、魔女と一部の「謙虚な者」だけだった。それ以外の浅はかな人間には、夢空間をはじめとする魔女の知識はすべて絵空事としか映らない。それゆえ、彼女たちは歴史上迫害されることも多く、時とともにその数は減少していった。現代では存在そのものが都市伝説と化しており、千草も自分以外の魔女に会ったことはないという。
「魔女って、そういう意味だったんですか?」
あかりはこれまで親しんできた絵本や映画を思い返しながら質問した。千草は「言葉としては間違っていないわ」と言い、日本には「魔女」という概念がなく、単なる身内での伝統でしかなかったこと、海外から「魔女」という言葉が入ってきたことで自分たちを定義づけることになった歴史などを教えてくれた。
「何事も、人から人へ伝えられていくうちに、原型から離れた解釈をされることがあるのよ。だから、フィクション作品の「魔女」も間違いではないわ。ただ、本当の魔女は結構地味なものよ。何かを支配することも、誰かを陥れることも、運命に逆らうこともできない。ただ、ほかの人よりも広い世界を知っているというだけ」
そんな魔女たちは、みな物質世界の常識にとらわれない心を持ち、強い精神を維持することで、夢空間のようなおかしな場所へも立ち入ることができた。だが、並の魔女では侵入が精一杯で、無事に帰還することすら難しい。
けれども、「ラピスラズリの魔女」だけは特別だった。ラピスラズリの魔女は、あらゆる魔女の中でも最高位クラスの魔女で、なまじの修行では到達できない領域にいるとされている。
ラピスラズリの魔女は「ラピスラズリの木」の力を借りて、夢空間を自在に移動することができた。ついでに、他人の夢に干渉することもできてしまう。
ラピスラズリの木というのは、混沌とした夢空間における不動の目印で、いわば北極星のような役割の木である。夢空間の最下層部にひっそりと根をはって生えているというが、その姿を見たことがある者はほとんどおらず、その存在を知る魔女たちの間でも「幻の木」と呼ばれていた。すべてが流動的な夢空間において唯一変わらない存在として存在するその木は「奇跡の木」とも呼ばれ、強い魔力を有している。
「もっともあの木は、私やルリにとっては身近な存在なのよ。ほかの人たちにとっては『幻のような存在に感じられる』というだけ」
「じゃ、千草さんが『ラピスラズリの魔女』なんですか?」
「いいえ、私はもう魔女ではないの。杖をルリに譲ってしまったから。魔女に相当するのはルリのほうよ。もっとも、この子はまだまだ経験も浅くて一人前とは言えないけれど」
千草はそこで言葉を切り、ルリに「杖」を持ってくるように指示した。もちろん、電車での移動の際、彼女は杖など持っていなかったはずだ。しかし、ルリは明るく返事をすると、ぱたぱたと駆けて階段を登り、どこかへ行ってしまった。
「ルリは、素質の面では魔女として一流よ」
彼女の足音が遠ざかったのを確認して、千草はふたたび口を開いた。
「私なんかよりずっとのみこみも早いし、木との親和性も高い。でも、その分人間社会とはそりがあわないようね。あの子は、まさしく魔女としての運命をまっとうするために生まれてきた子のようだから。だから、私はルリを夢空間に行かせなかったの」
あかりはそれにどう返していいかわからず、千草から視線を外し、テーブルに置いていた両手を膝の上に移動させた。それからうつむいたまま、意味もなく指先を絡ませたり、ほどいたりしながら話の続きを待った。
「あの子は強い子よ。他者から自分がどう思われようとも、自分をつらぬける子。でも、人との関わりかたを知らないの。そういう意味ではあの子はまだ不完全。だから、ひとりで夢空間に行かせるのは危険だと思った。だけど、もし、あの子を理解し支えてくれる人が現れれば、その心配もなくなると思ったの」
それから、千草はルリが消えた方向を振りかえり、じっと耳を澄ませた。ルリが帰ってくる気配はなかった。
「以前、ルリからあなたの話を聞いたとき、きっとルリを支えてくれる人だと確信したわ。だから、『あなたの言うあかりという人が来てくれたら、夢空間に行ってもいい』と言ったの。それをルリは早とちりして、私の知らないところであなたを夢空間へ連れていってしまったのね」
やがて、軽やかな足音とともにルリが部屋に戻ってきた。その手には、あの杖がしっかりと握られていた。いつの間に持ってきたのか、どうやって持ってきたのか、あかりはもう聞かなかった。あかりの中では不可能なことでも、彼女の中ではあたりまえのことなのだろう。
「そんな大切な役目が、私なんかでいいんでしょうか」
あかりはどうしても千草を直視できず、視線をおとしてテーブルの木目を見つめた。ストラのためにも、今更後戻りはできない。しかし、ことは想像以上に重大そうだった。自分のような凡人に、そんな大役が務まるのだろうか。
「大丈夫よ。実際、ルリと一緒に夢空間へ行けているのだもの。それに、あなたは私の説明も理解してくれた。自信を持ちなさい。これは、『あなたにしかできないこと』なのよ」
そう答えた千草の声には、朝のベランダで聞いたときと同じ、木漏れ日のような優しさがこもっていた。
──「あなたにしかできないこと」。
その言葉は何気なく発されたものであったのだろう。だが、そのフレーズは不思議とあかりの心に引っかかり、鉄球のような重量をもってして、彼女の胸を圧迫しつづけた。