5 ラピスラズリの木
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あかりは眠るルリの枕元に立ち、彼女に声をかけるべきかどうか、しばし考えをめぐらせた。
頼まれている以上、さっさと起こしてあげるべきなのだろうが、ストラとルリの相性は最悪であり、千草不在の今、ここでふたりを突きあわせたらどんな恐ろしい化学反応が起こるかわからない。結局、あかりは一旦ルリをその場に放置し、ストラを連れてもとの寝室へと戻った。その間もストラは終始無言だった。昨日はあれほど注意しても何かを話そうと必死だったというのに。今の彼は、田んぼのあぜ道でうるさく質問してきた子供と同一人物とは思えない。そういえば、夜に千草に手を引かれて帰宅したときから、ストラはひと言も話していないような気がする。あれ以降、こちらから話しかけても、返事をしてくれなかった。てっきり疲れているのかと思いこんでいたのだが、どうやらそうではなさそうだ。
あかりはしゃがんでストラに目線をあわせ、どこか具合が悪いのかと尋ねたが、やはり返事はなかった。彼はただ、無言であかりの目を覗きこむばかりである。彼の黒々とした瞳孔には困惑した表情を浮かべるあかりの姿がはっきりと映っていた。
「どうしたの。今は喋ってもいいのよ」
すると、ストラはふるふると首を振り、怯えた様子であかりの耳もとでささやいた。
「ぼく、喋らない。下界のひと じゃないから」
「下界?」
聞きなれない言葉に、思わずおうむ返しをしてしまった。ストラは返事をせずに続けた。
「ぼく、あのおばあさんと、門番さんに会ってきたんだ。それで、門番さんに教えてもらったんだ。ぼくがいたのは門の外の下界なんだって」
これは昨夜のことだろう。たしか千草は、彼を連れて虹の国を訪れ、門番と交渉したと言っていた。虹の国の門番とやらは、どこにいるのだろう。あかりは千草に説明された言葉を思いだした。
──虹の国は、雲を突きぬけた先の、天の彼方にあるとされているの。
「じゃ、虹の国って本当に雲の上にあるの?」
ストラは黙ってうつむいてしまった。どうしたのだろうと顔を覗きこむと、彼は自分の洋服を両手で掴んだまま、遠慮がちに返答した。
「ぼく、もう何も言わないようにする。だってあかり、ぼくのこと嫌いなんでしょ?」
突然のことに、あかりは面喰らった。能天気で何も考えていなさそうな彼から、そんな言葉が飛びだすとは思ってもみなかった。
「嫌いって、どうして?」
「ぼく、あかりの聞いてることに答えられなかった。そしたらあかりはすごく困ってた。門番さんに会って帰ってきてからも、あかりはつらそうだった。ぼくがいるから困ってて、ぼくがいるからつらいんでしょ?」
あかりは慌てて自分の記憶を引っぱりだし、彼の話と照合してみた。「聞いてることに答えられなかった」というのは、家族や友達について尋ねたときのことだろう。「つらそうだった」というのは、帰ってきた千草の話を聞いて、頭が混乱していたときのことに違いない。
「誤解だよ。べつに、それと君は関係ないよ」
「でも、ルリはぼくのこと嫌いだよ。ぼくを見ると、すごく嫌そうな顔をするもん。それに、あかりもぼくに、話しかけちゃいけないって言った」
そうだ。彼の言うとおり、あかりは彼が話をするのを禁止した。また、怒りを抱えたままのルリをなだめることもせず、つらそうな表情を浮かべる彼をフォローすることもしなかった。
あかりは、はじめて彼をぞんざいに扱ってしまったことを後悔した。別にストラが嫌いなのではない。ただ、面倒でほったらかしにしていたのである。あかりはいつも、他者と自分を線引きして考える癖があった。他人は他人で、自分は自分。自分の損得に関係しないことには首をつっこまないようにして生きてきたのである。まして、特異な存在であるストラとルリは受けいれたくない存在だった。そして心のどこかでうとましく思い、関わりたくないから放置していたのである。
「ごめんなさい」
自身の行動を恥じて、あかりは目をふせた。こんなに小さいのにひとりで未知の場所に迷いこんで、どれほど困っていただろう。自分はそんな彼を慰めるどころか、彼の質問もまともにとりあわず、動くな喋るなと命令ばかりを押しつけていた。そもそも彼をここに連れてきたのは、ほかでもない自分自身だというのに。
「話していいよ。むしろ、なんでも話してほしいくらい。知ってることはなんでも教えて。よくわからない場所に来てしまって怖いかもしれないけど、私がなんとかして帰してあげるから」
そう、私がなんとかしなくては。この子の不安を取りのぞき、無事にもといた場所に帰してあげなければ。あかりはストラの肩にかけていた手に、ぐっと力をこめた。
「おばあちゃん、どこ?」
隣の部屋で布団が擦れる音がし、ルリの寝ぼけた声がかすかに聞こえた。こちらが起こす前に起きてしまったらしい。ストラはその声を聞くやいなや、身を固くしてあかりの腕にすがりついてきた。声だけで警戒するほど彼女のことを恐れているらしい。
「怖いの?」
「うん」
ストラはあかりの左腕に顔をうずめて悲しげにつぶやいた。
「ルリはぼくが嫌いなんだ。ぼく、何もしていないのに」
あかりは見事なまでにぶっ壊れた玩具のピアノを思いだした。ルリがストラにつらくあたるようになったのは、あの一件があってからである。しかし、今の発言を聞くかぎり、ストラは自分がしたことを自覚していないらしい。ということは、ストラは彼女の私物を壊したことを悪いとは思っておらず、謝罪もしていないということになる。
「ストラちゃん、ピアノを壊したことは覚えてる?」
「え?」
首をかしげるストラに、あかりは二日前にストラがしてしまったことと、ミニチュアとはいえピアノが高額なものであること、他人の私物に無断で触れて壊すことはよくないということ、やってしまったことには悪気がなくても謝罪が必要であることを簡潔に説いた。あかりの予想どおり、ストラは自分の罪を自覚していなかったらしく、説明を聞いて真っ青になっていた。
「あっ、おねーちゃん!」
唐突にふすまが開き、山姥のような寝癖をつけたルリが無邪気に顔をだした。そして、ストラに視線をやると、露骨にその顔に嫌悪感を滲ませた。突然のことにあかりはすぐ対応できず、情けないことにその場で固まってしまった。ところが、ストラはあかりの腕から手を離し、おずおずとルリの前へと進みでた。
「何?」
「あのね……ごめんなさい」
ストラはルリのすぐ手前までくると、ぺこりと不恰好なお辞儀をして謝罪した。あかりは我に返り、急いで言葉をつけたした。
「ストラちゃん、ピアノのおもちゃを壊したことを謝りたいんだって……本当に反省しているみたいだから、許してほしいの」
しかし、ルリの表情は頑なだった。それもそのはず、あの日ルリは父親に部屋を散らかして騒いだことを咎められ、罰として壊れた玩具はもう買わないと通告されていたのである。そこであかりはこうも言った。
「あのピアノはまた買ってもらえるように説得してあげる。もしだめだったら、私が買ってあげる。だからもう許してあげて」
ルリは両手を腰にあてたまま、威圧的な態度でストラを見すえていたが、ふうっと年不相応なため息をついて、口もとをほころばせた。
「いいよ。あたしだって、謝ってくれた子にこれ以上意地悪したくないもん。でも、もう人のものを勝手に触って壊したりしないでよね」
それから、不安げにあかりを見て言った。
「本当に、パパを説得してくれるよね?」
「もちろん。なんとかするわ」
あかりはほっと胸をなでおろし、笑顔でこちらに戻ってくるストラを褒めながら、右手でこっそりスマホをたぐりよせてミニピアノの値段を検索してみた。たかがおもちゃと高をくくっていたが、調べてみると結構な高額商品である。もしもルリの父との交渉に失敗した場合、この夏休みがどれほどの極貧生活になってしまうかと思うと背筋が凍ったが、目の前で嬉しそうに笑うストラを見ると、自分のこづかい事情などちっぽけな問題に思えた。
頼まれている以上、さっさと起こしてあげるべきなのだろうが、ストラとルリの相性は最悪であり、千草不在の今、ここでふたりを突きあわせたらどんな恐ろしい化学反応が起こるかわからない。結局、あかりは一旦ルリをその場に放置し、ストラを連れてもとの寝室へと戻った。その間もストラは終始無言だった。昨日はあれほど注意しても何かを話そうと必死だったというのに。今の彼は、田んぼのあぜ道でうるさく質問してきた子供と同一人物とは思えない。そういえば、夜に千草に手を引かれて帰宅したときから、ストラはひと言も話していないような気がする。あれ以降、こちらから話しかけても、返事をしてくれなかった。てっきり疲れているのかと思いこんでいたのだが、どうやらそうではなさそうだ。
あかりはしゃがんでストラに目線をあわせ、どこか具合が悪いのかと尋ねたが、やはり返事はなかった。彼はただ、無言であかりの目を覗きこむばかりである。彼の黒々とした瞳孔には困惑した表情を浮かべるあかりの姿がはっきりと映っていた。
「どうしたの。今は喋ってもいいのよ」
すると、ストラはふるふると首を振り、怯えた様子であかりの耳もとでささやいた。
「ぼく、喋らない。
「下界?」
聞きなれない言葉に、思わずおうむ返しをしてしまった。ストラは返事をせずに続けた。
「ぼく、あのおばあさんと、門番さんに会ってきたんだ。それで、門番さんに教えてもらったんだ。ぼくがいたのは門の外の下界なんだって」
これは昨夜のことだろう。たしか千草は、彼を連れて虹の国を訪れ、門番と交渉したと言っていた。虹の国の門番とやらは、どこにいるのだろう。あかりは千草に説明された言葉を思いだした。
──虹の国は、雲を突きぬけた先の、天の彼方にあるとされているの。
「じゃ、虹の国って本当に雲の上にあるの?」
ストラは黙ってうつむいてしまった。どうしたのだろうと顔を覗きこむと、彼は自分の洋服を両手で掴んだまま、遠慮がちに返答した。
「ぼく、もう何も言わないようにする。だってあかり、ぼくのこと嫌いなんでしょ?」
突然のことに、あかりは面喰らった。能天気で何も考えていなさそうな彼から、そんな言葉が飛びだすとは思ってもみなかった。
「嫌いって、どうして?」
「ぼく、あかりの聞いてることに答えられなかった。そしたらあかりはすごく困ってた。門番さんに会って帰ってきてからも、あかりはつらそうだった。ぼくがいるから困ってて、ぼくがいるからつらいんでしょ?」
あかりは慌てて自分の記憶を引っぱりだし、彼の話と照合してみた。「聞いてることに答えられなかった」というのは、家族や友達について尋ねたときのことだろう。「つらそうだった」というのは、帰ってきた千草の話を聞いて、頭が混乱していたときのことに違いない。
「誤解だよ。べつに、それと君は関係ないよ」
「でも、ルリはぼくのこと嫌いだよ。ぼくを見ると、すごく嫌そうな顔をするもん。それに、あかりもぼくに、話しかけちゃいけないって言った」
そうだ。彼の言うとおり、あかりは彼が話をするのを禁止した。また、怒りを抱えたままのルリをなだめることもせず、つらそうな表情を浮かべる彼をフォローすることもしなかった。
あかりは、はじめて彼をぞんざいに扱ってしまったことを後悔した。別にストラが嫌いなのではない。ただ、面倒でほったらかしにしていたのである。あかりはいつも、他者と自分を線引きして考える癖があった。他人は他人で、自分は自分。自分の損得に関係しないことには首をつっこまないようにして生きてきたのである。まして、特異な存在であるストラとルリは受けいれたくない存在だった。そして心のどこかでうとましく思い、関わりたくないから放置していたのである。
「ごめんなさい」
自身の行動を恥じて、あかりは目をふせた。こんなに小さいのにひとりで未知の場所に迷いこんで、どれほど困っていただろう。自分はそんな彼を慰めるどころか、彼の質問もまともにとりあわず、動くな喋るなと命令ばかりを押しつけていた。そもそも彼をここに連れてきたのは、ほかでもない自分自身だというのに。
「話していいよ。むしろ、なんでも話してほしいくらい。知ってることはなんでも教えて。よくわからない場所に来てしまって怖いかもしれないけど、私がなんとかして帰してあげるから」
そう、私がなんとかしなくては。この子の不安を取りのぞき、無事にもといた場所に帰してあげなければ。あかりはストラの肩にかけていた手に、ぐっと力をこめた。
「おばあちゃん、どこ?」
隣の部屋で布団が擦れる音がし、ルリの寝ぼけた声がかすかに聞こえた。こちらが起こす前に起きてしまったらしい。ストラはその声を聞くやいなや、身を固くしてあかりの腕にすがりついてきた。声だけで警戒するほど彼女のことを恐れているらしい。
「怖いの?」
「うん」
ストラはあかりの左腕に顔をうずめて悲しげにつぶやいた。
「ルリはぼくが嫌いなんだ。ぼく、何もしていないのに」
あかりは見事なまでにぶっ壊れた玩具のピアノを思いだした。ルリがストラにつらくあたるようになったのは、あの一件があってからである。しかし、今の発言を聞くかぎり、ストラは自分がしたことを自覚していないらしい。ということは、ストラは彼女の私物を壊したことを悪いとは思っておらず、謝罪もしていないということになる。
「ストラちゃん、ピアノを壊したことは覚えてる?」
「え?」
首をかしげるストラに、あかりは二日前にストラがしてしまったことと、ミニチュアとはいえピアノが高額なものであること、他人の私物に無断で触れて壊すことはよくないということ、やってしまったことには悪気がなくても謝罪が必要であることを簡潔に説いた。あかりの予想どおり、ストラは自分の罪を自覚していなかったらしく、説明を聞いて真っ青になっていた。
「あっ、おねーちゃん!」
唐突にふすまが開き、山姥のような寝癖をつけたルリが無邪気に顔をだした。そして、ストラに視線をやると、露骨にその顔に嫌悪感を滲ませた。突然のことにあかりはすぐ対応できず、情けないことにその場で固まってしまった。ところが、ストラはあかりの腕から手を離し、おずおずとルリの前へと進みでた。
「何?」
「あのね……ごめんなさい」
ストラはルリのすぐ手前までくると、ぺこりと不恰好なお辞儀をして謝罪した。あかりは我に返り、急いで言葉をつけたした。
「ストラちゃん、ピアノのおもちゃを壊したことを謝りたいんだって……本当に反省しているみたいだから、許してほしいの」
しかし、ルリの表情は頑なだった。それもそのはず、あの日ルリは父親に部屋を散らかして騒いだことを咎められ、罰として壊れた玩具はもう買わないと通告されていたのである。そこであかりはこうも言った。
「あのピアノはまた買ってもらえるように説得してあげる。もしだめだったら、私が買ってあげる。だからもう許してあげて」
ルリは両手を腰にあてたまま、威圧的な態度でストラを見すえていたが、ふうっと年不相応なため息をついて、口もとをほころばせた。
「いいよ。あたしだって、謝ってくれた子にこれ以上意地悪したくないもん。でも、もう人のものを勝手に触って壊したりしないでよね」
それから、不安げにあかりを見て言った。
「本当に、パパを説得してくれるよね?」
「もちろん。なんとかするわ」
あかりはほっと胸をなでおろし、笑顔でこちらに戻ってくるストラを褒めながら、右手でこっそりスマホをたぐりよせてミニピアノの値段を検索してみた。たかがおもちゃと高をくくっていたが、調べてみると結構な高額商品である。もしもルリの父との交渉に失敗した場合、この夏休みがどれほどの極貧生活になってしまうかと思うと背筋が凍ったが、目の前で嬉しそうに笑うストラを見ると、自分のこづかい事情などちっぽけな問題に思えた。