5 ラピスラズリの木
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目が覚めると、遠くの窓から陽が差しこんでいるのがわかった。あかりは呆然と見覚えのない天井を眺め、しばらく思案し、ようやく昨日のできごとを思いだすと、がばりとはね起きて携帯を探した。
時刻は午前六時五十八分。アラームが鳴るまでまだ二分あった。あかりは寝坊をしていなかったことに安堵し、携帯から充電器を引きぬいた。
隣の部屋からは、ルリのものとおぼしき寝息が聞こえてくる。一方、こちらの布団には誰もいない。あかりは慌てて布団をまくりあげ、敷布団のシーツまで剥がしてみたが、人の影はない。隣の部屋を覗いてみると、ルリだけが長い髪をあちこちに波うたせて眠っている。千草の姿はなかった。どこに行ったのだろう、と思案していると、おもむろに反対側の襖が開けられ、千草が顔をだした。
「あら、物音がするからルリが起きたのかと思ったのだけれど、あなただったのね、おはよう」
千草はすでに身支度をすませており、すっかり昨日と変わらぬいでたちをしていた。ただ、化粧はしていないようで、昨晩に比べると顔の印象が全体的に薄くなっている。
「お、おはようございます」
あかりは自分が寝起き姿であることに気づいて、思わず目線をそらした。相手がきちんとしているのに、自分だけ不恰好なままでいるのはどうにも恥ずかしい。相手が知りあって間もない人物であれば、なおさらだ。しかし、千草のほうは何も気にしていない様子で、にこやかに会話を続けた。
「もしかして起こしちゃったかしら?」
「いいえ、もともとこの時間に起きる予定だったんです。ただ……」
ただ、あの子がいないから心配なのだ。あかりはそう言おうとしたが、どうしても言葉がでてこない。
ただ一言、彼の名を告げればすむ話だった。だが、できなかった。もしも、千草が昨日のできごとを忘れていたら。そんな人物はいないと言ったら。すべてがあかりの夢だったとしたら。正直、その可能性は捨てきれなかった。それくらい彼の存在は非現実的すぎたのだ。
「ストラちゃんね?」
口ごもるあかりに千草はさらりと告げ、そして微笑んだ。
「あの子ならベランダよ。よかったら一緒に来る?」
この家のベランダは少し小さめで、物干し竿を一本通してあるだけの殺風景なものだった。ストラはその隅っこに立っており、錆びついた柵を両手で掴んだまま、じっと外の風景を眺めていた。その横では色とりどりの服やシーツがはためいており、あかりはようやく、千草が洗濯物を干している最中であることを悟った。
「すみません。手伝いましょうか」
「いいのよ、気を使わなくて。それよりも、ストラちゃんに声をかけてあげて。早朝からあちこち歩きまわって寂しそうにしていたわ」
千草がガラス戸を開けると、ストラはその音に弾かれたようにこちらをむき、あかりの姿を目にとめると、風のように素早くこちらへやってきた。
「この子、あかりちゃんが起きないから心配していたのよ。あなた、気にいられているのねえ」
千草はおかしそうに言った。その声に皮肉や腹立たしさなどは感じられない。本当に面白がっているのだ。
「すみません。私、何も知らずに寝ていたみたいで」
「まあ、謝ることなんてないわよ。よく眠れたようでよかったわ」
その言葉に他意はなさそうだった。千草の言葉はいつも優しい。常にあたたかくて柔らかく、するりと胸の中に入ってくる。じつのところ、千草との会話は実母とのそれよりもずっと気楽だった。昨日、知らない家に泊まると聞いて緊張していたのが嘘みたいだ。
「私のことは気にしなくていいのよ。あなたはお客様なのだから」
千草はつばの広い帽子を被ってベランダにあがった。まだ七時だというのに、外の日差しは眩しく、今にも肌を焼き焦がしそうな勢いだ。
「それに、来てくれて助かっているくらいだわ。ルリはあなたを好きみたいだし」
「『助かっている』?」
あかりは驚いて言葉を反復した。千草は屈んでカゴからくたびれたシャツを取りだしながら目を細めた。
「普段のルリはもっと騒がしいのよ。私は子供が好きだし、孫のことは可愛いと思うけれど、それでも元気すぎて呆れてしまうときがあるの。あの子、あのとおり世間とは少しずれた子でしょう。遊び相手がいないからエネルギーが有り余っているのよ。それが昨日はずいぶんおとなしくなっちゃって、驚いたわ。できることなら、ずっといてほしいくらい」
「いえ、そんな、私は何も」
急にされた意外な話に、あかりはうろたえた。自分はとくに何もしていない。あかりにしてみれば、ゆうべのルリはやかましい部類だった。あれが「驚くほどおとなしい」状態だとすると、いったい普段はどんな音量で騒いでいるのだろうか。仮に千草の話が本当だとしても、そもそもルリがおとなしくなったのは自分のおかげなのだろうか。ぶっちゃけた話、あかりはルリのために何かをした記憶はない。ただの偶然ではないだろうか?
「いいえ、助かっているのよ。だから、そんなに気を回さなくていいの。さあ、こっちは大丈夫だから、ストラちゃんの相手をしてあげて」
「でも……」
あかりは一応ねばってみた。義務感からではなく、千草の役に立ちたいと思ってのことだった。このまま世話になりっぱなしというのは、やはり申し訳ない。
「そうね。じゃあ、ルリを起こしてくれないかしら。あの子、ほうっておくといつまでも寝てしまうたちなの。よろしくね」
そうまで言われれば、しかたがない。あかりは素直に了承し、さっきから足元で固まっているストラを見おろした。
ストラはなぜか、じいっとあかりの顔を凝視していた。まるで、見たことのない動物を興味深く観察するかのような、好奇心と疑りの入りまじった瞳を静かにこちらにむけている。その視線の意図が何なのかあかりにはわかりかねたが、少なくとも敵意でないことだけはたしかだった。
「おはよう、ストラちゃん」
あかりはつとめて優しく話しかけた。この子の名前をきちんと呼んだのは、これがはじめてだった。べつに呼びかたなんてどうでもよかったので、千草と同じものにしておいた。しいて、この呼称を採用した別の理由をあげるとすれば、まだ赤子の面影を残す年頃の子を君呼び するのには違和感があることと、あかりが他人のことを呼び捨てにできない人間だったということくらいだろう。といっても、呼称にそこまでこだわりを持っているわけではない。ただなんとなく、敬称を略してしまうと相手との距離感が掴めなくなる気がするのだ。例外はルリくらいだろう。彼女の場合、本人から言いだしたのと、むこうから勝手に距離をつめてくるので、呼び捨てることにも抵抗がなかった。
「ここはお邪魔になるから、むこうへ行こうか」
二、三歩後ずさりしながらベランダから離れるように促すと、ストラは丸い瞳をこちらにむけたまま、無言で頷き、あかりの歩幅にあわせて移動をはじめた。
時刻は午前六時五十八分。アラームが鳴るまでまだ二分あった。あかりは寝坊をしていなかったことに安堵し、携帯から充電器を引きぬいた。
隣の部屋からは、ルリのものとおぼしき寝息が聞こえてくる。一方、こちらの布団には誰もいない。あかりは慌てて布団をまくりあげ、敷布団のシーツまで剥がしてみたが、人の影はない。隣の部屋を覗いてみると、ルリだけが長い髪をあちこちに波うたせて眠っている。千草の姿はなかった。どこに行ったのだろう、と思案していると、おもむろに反対側の襖が開けられ、千草が顔をだした。
「あら、物音がするからルリが起きたのかと思ったのだけれど、あなただったのね、おはよう」
千草はすでに身支度をすませており、すっかり昨日と変わらぬいでたちをしていた。ただ、化粧はしていないようで、昨晩に比べると顔の印象が全体的に薄くなっている。
「お、おはようございます」
あかりは自分が寝起き姿であることに気づいて、思わず目線をそらした。相手がきちんとしているのに、自分だけ不恰好なままでいるのはどうにも恥ずかしい。相手が知りあって間もない人物であれば、なおさらだ。しかし、千草のほうは何も気にしていない様子で、にこやかに会話を続けた。
「もしかして起こしちゃったかしら?」
「いいえ、もともとこの時間に起きる予定だったんです。ただ……」
ただ、あの子がいないから心配なのだ。あかりはそう言おうとしたが、どうしても言葉がでてこない。
ただ一言、彼の名を告げればすむ話だった。だが、できなかった。もしも、千草が昨日のできごとを忘れていたら。そんな人物はいないと言ったら。すべてがあかりの夢だったとしたら。正直、その可能性は捨てきれなかった。それくらい彼の存在は非現実的すぎたのだ。
「ストラちゃんね?」
口ごもるあかりに千草はさらりと告げ、そして微笑んだ。
「あの子ならベランダよ。よかったら一緒に来る?」
この家のベランダは少し小さめで、物干し竿を一本通してあるだけの殺風景なものだった。ストラはその隅っこに立っており、錆びついた柵を両手で掴んだまま、じっと外の風景を眺めていた。その横では色とりどりの服やシーツがはためいており、あかりはようやく、千草が洗濯物を干している最中であることを悟った。
「すみません。手伝いましょうか」
「いいのよ、気を使わなくて。それよりも、ストラちゃんに声をかけてあげて。早朝からあちこち歩きまわって寂しそうにしていたわ」
千草がガラス戸を開けると、ストラはその音に弾かれたようにこちらをむき、あかりの姿を目にとめると、風のように素早くこちらへやってきた。
「この子、あかりちゃんが起きないから心配していたのよ。あなた、気にいられているのねえ」
千草はおかしそうに言った。その声に皮肉や腹立たしさなどは感じられない。本当に面白がっているのだ。
「すみません。私、何も知らずに寝ていたみたいで」
「まあ、謝ることなんてないわよ。よく眠れたようでよかったわ」
その言葉に他意はなさそうだった。千草の言葉はいつも優しい。常にあたたかくて柔らかく、するりと胸の中に入ってくる。じつのところ、千草との会話は実母とのそれよりもずっと気楽だった。昨日、知らない家に泊まると聞いて緊張していたのが嘘みたいだ。
「私のことは気にしなくていいのよ。あなたはお客様なのだから」
千草はつばの広い帽子を被ってベランダにあがった。まだ七時だというのに、外の日差しは眩しく、今にも肌を焼き焦がしそうな勢いだ。
「それに、来てくれて助かっているくらいだわ。ルリはあなたを好きみたいだし」
「『助かっている』?」
あかりは驚いて言葉を反復した。千草は屈んでカゴからくたびれたシャツを取りだしながら目を細めた。
「普段のルリはもっと騒がしいのよ。私は子供が好きだし、孫のことは可愛いと思うけれど、それでも元気すぎて呆れてしまうときがあるの。あの子、あのとおり世間とは少しずれた子でしょう。遊び相手がいないからエネルギーが有り余っているのよ。それが昨日はずいぶんおとなしくなっちゃって、驚いたわ。できることなら、ずっといてほしいくらい」
「いえ、そんな、私は何も」
急にされた意外な話に、あかりはうろたえた。自分はとくに何もしていない。あかりにしてみれば、ゆうべのルリはやかましい部類だった。あれが「驚くほどおとなしい」状態だとすると、いったい普段はどんな音量で騒いでいるのだろうか。仮に千草の話が本当だとしても、そもそもルリがおとなしくなったのは自分のおかげなのだろうか。ぶっちゃけた話、あかりはルリのために何かをした記憶はない。ただの偶然ではないだろうか?
「いいえ、助かっているのよ。だから、そんなに気を回さなくていいの。さあ、こっちは大丈夫だから、ストラちゃんの相手をしてあげて」
「でも……」
あかりは一応ねばってみた。義務感からではなく、千草の役に立ちたいと思ってのことだった。このまま世話になりっぱなしというのは、やはり申し訳ない。
「そうね。じゃあ、ルリを起こしてくれないかしら。あの子、ほうっておくといつまでも寝てしまうたちなの。よろしくね」
そうまで言われれば、しかたがない。あかりは素直に了承し、さっきから足元で固まっているストラを見おろした。
ストラはなぜか、じいっとあかりの顔を凝視していた。まるで、見たことのない動物を興味深く観察するかのような、好奇心と疑りの入りまじった瞳を静かにこちらにむけている。その視線の意図が何なのかあかりにはわかりかねたが、少なくとも敵意でないことだけはたしかだった。
「おはよう、ストラちゃん」
あかりはつとめて優しく話しかけた。この子の名前をきちんと呼んだのは、これがはじめてだった。べつに呼びかたなんてどうでもよかったので、千草と同じものにしておいた。しいて、この呼称を採用した別の理由をあげるとすれば、まだ赤子の面影を残す年頃の子を
「ここはお邪魔になるから、むこうへ行こうか」
二、三歩後ずさりしながらベランダから離れるように促すと、ストラは丸い瞳をこちらにむけたまま、無言で頷き、あかりの歩幅にあわせて移動をはじめた。