4 ストラと虹の国
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夏の陽は長い。夜の六時を回っても、空はまだまだ明るかった。千草は一同に先に食事をすることを提案し、夕食の支度にとりかかった。世話になりっぱなしというのも具合が悪いので、あかりは手伝いを申しでたが、「お客様なのだから気にしなくていい」と言われたので、テーブルでルリの話し相手をすることにした。ルリがストラを嫌ってそばに寄せつけないために、ストラは離れた場所にひとり放置されており、手持ち無沙汰になった彼は、裸足で店と台所を行ったり来たりしていた。そう、ストラはここへ来てから一度も足を洗ったり靴を履いたりしておらず、常に同じ足で屋内と屋外を行き来していた。あかりはしばらく千草の様子を伺っていたが、彼女はやはり、何も言わない。とうとう耐えかねて、あかりは思いきって千草に声をかけた。
「あの子、裸足でずっとうろうろしていますけど、いいんですか?」
すると、千草は驚いた顔でこちらを見、それから合点がいったように声をたてて笑った。
「ああ、そういうことね。大丈夫よ。裸足でも汚れることはないし、怪我をすることもないわ。形こそ人間にそっくりだけれど、この子を包んでいるのは皮膚ではないし、内側には血管も消化器官もない。だから、食事も入浴も着替えも何もいらないの。そんなに気をつかう必要はないのよ」
そういうわけで、ストラの裸足は許されることになった。彼は食事を必要としないために夕食の席からも弾かれ、あいかわらず、ひとりで退屈そうにぐるぐると家の中を歩きまわっていた。ありがたいことに、千草はストラだけでなくルリの生態も熟知しており、うまくふたりの喧嘩の火種を諫めてくれたので、あかりは落ちついて食事をとることができた。
その後、完全に日が落ちてから、千草はストラを連れてどこかへとでかけていった。もちろん、ストラは裸足のままでついて行った。
ルリとあかりは留守番を任されていた。あかりは「虹の国」なる場所に興味があったので同行するつもりでいたのだが、ついさっき、千草にあっさりと申し出を断られてしまった。
「虹の国と迂闊に関わるのは危険よ。虹の国は美しい場所だけれど、その美しさに惹かれてうっかり足を踏み入れてしまうと、そのまま二度と出られなくなるの。あんな場所に若いお嬢さんを連れていくわけにはいかないわ」
あかりは多少残念に思ったものの、千草の言葉に従い、ルリの子守をしながら留守番することにした。危険な場所には近づかないのが一番だし、自分に関わりのないところで千草が面倒ごとを引き受けてストラを片づけてくれるのなら、願ったり叶ったりだ。
そういうわけで、あかりはすっかり安心しきっていた。ストラと別れるのを残念に思う気持ちもあったが、いざ彼と別れの挨拶をする段階になっても、とくに後ろ髪を引かれることはなかった。正直なところ、彼に会えなくなる寂しさよりも、これ以上余計なものに関わらなくてすむという安堵感のほうが大きかった。
留守番の間、あかりは二階の和室でルリがやりたがったボードゲームの相手をしてのんびりと暇を潰していた。もともと、この家には泊まる約束で来ていたので、何時間経とうとたいして気にはとめなかった。家の設備についても一通り説明を受け、冷蔵庫の中身や風呂についても自由にしていいというお墨つきをもらっている。テーブルの上には千草にもらったジュースと、ルリが勝手に持ってきたスナック菓子が広げられ、小さなパーティのような雰囲気を醸しだしていた。
ふたりきりだとどうしても部屋の静けさが気になるので、あかりは途中でテレビをつけた。画面の中では、低予算のくだらないバラエティ番組が流れている。ルリはひとり、あれこれ持論を述べながらゲームのマス目と睨めっこを繰りかえしていた。このルリという少女は、一度自分の世界に入ると、目の前にいる人間のことも忘れてしまうらしい。おかげで、あかりは相槌を打つ必要もなく、テレビに目を向けたまま、手だけ動かして、定期的にサイコロを振るだけでよかった。
この古くて狭い小さな家は、思いのほか居心地がよかった。ルリは案外おとなしいし、口うるさい母のいる自宅より快適かもしれない。
やがて、遊び疲れたルリが寝息をたてはじめ、暇になったあかりが入浴準備をはじめようと立ち上がったちょうどそのとき、ふいに戸口から物音がした。千草が帰ってきたのだ。ルリはまだ眠っていたので、あかりはひとり階段をおりて彼女を出迎えた。
あかりは千草に感謝とねぎらいの言葉をかけようとしたが、やけに曇った彼女の顔を見て、思わず言葉をのんでしまった。
「遅くなってごめんなさいね」
千草は力なく口元だけで微笑んでみせた。あかりはふと彼女の右手に目をやって、硬直した。
「ど、どうして」
その手には、口を半開きにして、そわそわと周囲を見回しているストラが繋がれていた。千草の話が本当なら、この家にストラが帰ってくるはずはないのに。あかりは千草にわけを尋ねようとしたが、その前に千草が口を開いた。
「門番に追いかえされたの。虹の国の門番にね」
「もんばん?」
モンバン。モンバンというのは、西洋の歴史ドラマや絵本に出てくる、あの門番のことだろうか? あかりにはわけがわからなかった。
しかし、千草の説明によると、虹の国に入るには入口にある門を通らなければならず、その門を通るには門番の許可がいるのだという。死後の国にも、ヨーロッパの兵隊のような格好をした門番がいるのだろうか。あかりは少ない情報量から、なんとかその様子を想像してみようとしたが、どうやってもうまくいかなかった。
「長いこと交渉してみたのだけれど、残念ながら、門から出ていない者を門から入れるわけにはいかないそうよ。やっぱりこの子、裏口かどこかから抜けだしてきたみたい」
「ええっ。だってこの子の住んでいる場所なんでしょう。それなのに、入れてくれないんですか?」
「虹の国は『規則』がすべてよ。正面口から出ていった者は正面口から帰らなければならないし、裏口から出たのなら裏口からしか帰れない。ルールが守られなければ、生者と死者の境目が曖昧になって、秩序が乱れてしまう。だから、どんな事情があろうと、掟を破ることは許されないのよ」
千草はため息をついて靴を脱ぐと部屋にあがり、ストラの手を離してダイニングテーブルの椅子に腰かけた。あかりはもっと千草の話を聞きたかったので、あらかじめ教えられていた冷蔵庫から緑茶の瓶と、食器棚からガラスコップを取りだして彼女の前に置き、その向かい側に腰かけた。この家の冷蔵庫では、珍しいことに緑茶を冷やしてストックしてあるのだ。
ストラはしばらくどうしてよいかわからない様子で様子を窺っていたが、やがて、空いていたあかりの隣の椅子によじ登り、あかりの真似をしてちょこんと座った。話にまぜてほしいのか、単純に椅子に興味があってやってきたのかはわからない。とにかくストラは椅子に座り、そしてそのまま、騒ぐこともなく、黙ってじっとあかりの目を見あげてきた。あかりはその視線には気づいたものの、特にストラに用事はないので、そのまま千草との話を続けた。
「その『裏口』という場所から帰してあげることはできませんか?」
「場所がわかれば可能だけれど、極めて難しい話ね。この子は自分がどうやって夢空間に迷いこんだかも覚えていないようだし。夢空間というのは宇宙のようなもので、果てというものがないの。特定の場所を探すなんていうのは限りなく不可能に近いわ。下手をすれば自分自身が迷子になって、永遠に元の場所に帰ってこられないかもしれない」
「つまり、この子はもう帰れないんですか?」
「そういうことよ。でもまあ、心配しないで。『ここにいる間は』私が面倒を見るつもりだから」
千草はそこではじめてコップの存在に気づくと、ひとこと礼を言って緑茶を注いだ。
「ここにいる間って、この子、どこかへ行くんですか?」
「虹の住人は、原則として虹の国でしか存在できないの。虹の国の外にいれば、この子は消える」
「消える!?」
「そう」
千草はそれだけ答えてガラスコップを持ちあげ、口元にもってくると、ぐいっと勢いよく傾けた。そのままひと息に飲みほすと、息つく間もなくこう告げた。
「もちろん、存在がまるごと消えるというわけではないのよ。姿は見えなくなるけど、魂は残るわ。ただ、自分が何者なのか、これまでどうしていたのか、誰と知りあいだったのか、何もかも忘れてしまう。最終的には自我を失った浮遊霊と化すわ」
「ふ、浮遊霊、ですか」
急に飛びだした妙に現実的な単語に、あかりは背筋を凍らせた。ついさっきまで、空想的な暖かいファンタジー世界の話をしていた人の言葉とは思えなかった。
「それからは……どうなるんですか?」
「さあ。しばらく辺りを彷徨うんじゃないかしら。数百年もすれば魂もそのうち消えるでしょう」
まるで、ゴミ箱に捨てた紙くずの行方を語るかのように、そっけない口調だった。あかりが絶句していると、千草はハッとして笑顔になり、早口でこうつけ足した。
「べつに、そういう浮遊霊は珍しくないのよ。その辺に結構飛んでいるんだから。地縛霊と違って厄介な問題を起こすわけでもないし、大丈夫よ」
千草が気を使っているのはわかっていた。しかし、あかりは何も話せなかった。ついさっきまで、存在すら信じられないような幻想的な物語の話をしていたのに、今はどうだろう。目の前の風景は、美しい晴天の青空から、恐ろしい真夜中の墓地へと変貌を遂げていた。
「そうだ、お風呂は入った? こんなに遅くなるとは思わなかったから、準備をしていなくて悪かったわね。降りてこないところを見ると、ルリは寝てるのかしら」
「は、はい。少し前に寝てしまって。そのままにしてあげてください」
やっとのことで、それだけ答えた。その声色は我ながら異常なくらいに明るかった。
その夜、あかりは寝つけなかった。
隣では、小さなストラが背中を丸めて眠っていた。千草が三人分の布団しか用意していないとのことだったので、あかりは自分の布団の中にストラを引きとってあげることにしたのだ。
虹の子というのは不思議なもので、食事はとらないが睡眠はとるらしい。あかりが寝ようとするとすぐにやってきて、わけも聞かずにあたりまえのように布団に転がり、すぐにスヤスヤと寝息をたてて寝入ってしまった。ただ、かけ布団の上に寝ようとしていたところを見ると、寝具の使い方は知らないのかもしれない。そういえば、望月家では床に転がって寝ていたのを朝に発見し、慌てて起こした記憶がある。
虹の子とは、なんなのだろうか。いったいどうして、ここにいるのだろうか。
あかりはひとり、曲げていた両足を伸ばして寝返りをうった。それに引きずられるようにかけ布団が剥がれ、ストラの肩と腕がむきだしになる。慌てて布団をかけなおすと、ストラはむずむずと何か言いたげに口元を動かした。起こしてしまったかと慌てたが、よく聞くと、どうやら寝言のようだ。
「……アンジュ……」
聞きとれないほどの小さな声だったが、その単語だけははっきりと聞こえた。きっと、昼間に説明していた友人らしき人物の名前だろう。別れたきりの友人を恋しがっているのだろうか。
ふすまの向こうでは、ルリたちの寝息が聞こえる。あれからルリは一度も目覚めず、祖母の千草と同じ部屋で眠っていた。
ひんやりと冷房の効いた和室で、あかりはひとり天井を見つめた。
このまま放っておいたら、この子は消えてしまう。
それをわかっていて、放置しなければならないの?
いくら考えても、答えは出なかった。
答えが出ぬまま、あかりはいつの間にか眠りの世界へと誘 われていった。
「あの子、裸足でずっとうろうろしていますけど、いいんですか?」
すると、千草は驚いた顔でこちらを見、それから合点がいったように声をたてて笑った。
「ああ、そういうことね。大丈夫よ。裸足でも汚れることはないし、怪我をすることもないわ。形こそ人間にそっくりだけれど、この子を包んでいるのは皮膚ではないし、内側には血管も消化器官もない。だから、食事も入浴も着替えも何もいらないの。そんなに気をつかう必要はないのよ」
そういうわけで、ストラの裸足は許されることになった。彼は食事を必要としないために夕食の席からも弾かれ、あいかわらず、ひとりで退屈そうにぐるぐると家の中を歩きまわっていた。ありがたいことに、千草はストラだけでなくルリの生態も熟知しており、うまくふたりの喧嘩の火種を諫めてくれたので、あかりは落ちついて食事をとることができた。
その後、完全に日が落ちてから、千草はストラを連れてどこかへとでかけていった。もちろん、ストラは裸足のままでついて行った。
ルリとあかりは留守番を任されていた。あかりは「虹の国」なる場所に興味があったので同行するつもりでいたのだが、ついさっき、千草にあっさりと申し出を断られてしまった。
「虹の国と迂闊に関わるのは危険よ。虹の国は美しい場所だけれど、その美しさに惹かれてうっかり足を踏み入れてしまうと、そのまま二度と出られなくなるの。あんな場所に若いお嬢さんを連れていくわけにはいかないわ」
あかりは多少残念に思ったものの、千草の言葉に従い、ルリの子守をしながら留守番することにした。危険な場所には近づかないのが一番だし、自分に関わりのないところで千草が面倒ごとを引き受けてストラを片づけてくれるのなら、願ったり叶ったりだ。
そういうわけで、あかりはすっかり安心しきっていた。ストラと別れるのを残念に思う気持ちもあったが、いざ彼と別れの挨拶をする段階になっても、とくに後ろ髪を引かれることはなかった。正直なところ、彼に会えなくなる寂しさよりも、これ以上余計なものに関わらなくてすむという安堵感のほうが大きかった。
留守番の間、あかりは二階の和室でルリがやりたがったボードゲームの相手をしてのんびりと暇を潰していた。もともと、この家には泊まる約束で来ていたので、何時間経とうとたいして気にはとめなかった。家の設備についても一通り説明を受け、冷蔵庫の中身や風呂についても自由にしていいというお墨つきをもらっている。テーブルの上には千草にもらったジュースと、ルリが勝手に持ってきたスナック菓子が広げられ、小さなパーティのような雰囲気を醸しだしていた。
ふたりきりだとどうしても部屋の静けさが気になるので、あかりは途中でテレビをつけた。画面の中では、低予算のくだらないバラエティ番組が流れている。ルリはひとり、あれこれ持論を述べながらゲームのマス目と睨めっこを繰りかえしていた。このルリという少女は、一度自分の世界に入ると、目の前にいる人間のことも忘れてしまうらしい。おかげで、あかりは相槌を打つ必要もなく、テレビに目を向けたまま、手だけ動かして、定期的にサイコロを振るだけでよかった。
この古くて狭い小さな家は、思いのほか居心地がよかった。ルリは案外おとなしいし、口うるさい母のいる自宅より快適かもしれない。
やがて、遊び疲れたルリが寝息をたてはじめ、暇になったあかりが入浴準備をはじめようと立ち上がったちょうどそのとき、ふいに戸口から物音がした。千草が帰ってきたのだ。ルリはまだ眠っていたので、あかりはひとり階段をおりて彼女を出迎えた。
あかりは千草に感謝とねぎらいの言葉をかけようとしたが、やけに曇った彼女の顔を見て、思わず言葉をのんでしまった。
「遅くなってごめんなさいね」
千草は力なく口元だけで微笑んでみせた。あかりはふと彼女の右手に目をやって、硬直した。
「ど、どうして」
その手には、口を半開きにして、そわそわと周囲を見回しているストラが繋がれていた。千草の話が本当なら、この家にストラが帰ってくるはずはないのに。あかりは千草にわけを尋ねようとしたが、その前に千草が口を開いた。
「門番に追いかえされたの。虹の国の門番にね」
「もんばん?」
モンバン。モンバンというのは、西洋の歴史ドラマや絵本に出てくる、あの門番のことだろうか? あかりにはわけがわからなかった。
しかし、千草の説明によると、虹の国に入るには入口にある門を通らなければならず、その門を通るには門番の許可がいるのだという。死後の国にも、ヨーロッパの兵隊のような格好をした門番がいるのだろうか。あかりは少ない情報量から、なんとかその様子を想像してみようとしたが、どうやってもうまくいかなかった。
「長いこと交渉してみたのだけれど、残念ながら、門から出ていない者を門から入れるわけにはいかないそうよ。やっぱりこの子、裏口かどこかから抜けだしてきたみたい」
「ええっ。だってこの子の住んでいる場所なんでしょう。それなのに、入れてくれないんですか?」
「虹の国は『規則』がすべてよ。正面口から出ていった者は正面口から帰らなければならないし、裏口から出たのなら裏口からしか帰れない。ルールが守られなければ、生者と死者の境目が曖昧になって、秩序が乱れてしまう。だから、どんな事情があろうと、掟を破ることは許されないのよ」
千草はため息をついて靴を脱ぐと部屋にあがり、ストラの手を離してダイニングテーブルの椅子に腰かけた。あかりはもっと千草の話を聞きたかったので、あらかじめ教えられていた冷蔵庫から緑茶の瓶と、食器棚からガラスコップを取りだして彼女の前に置き、その向かい側に腰かけた。この家の冷蔵庫では、珍しいことに緑茶を冷やしてストックしてあるのだ。
ストラはしばらくどうしてよいかわからない様子で様子を窺っていたが、やがて、空いていたあかりの隣の椅子によじ登り、あかりの真似をしてちょこんと座った。話にまぜてほしいのか、単純に椅子に興味があってやってきたのかはわからない。とにかくストラは椅子に座り、そしてそのまま、騒ぐこともなく、黙ってじっとあかりの目を見あげてきた。あかりはその視線には気づいたものの、特にストラに用事はないので、そのまま千草との話を続けた。
「その『裏口』という場所から帰してあげることはできませんか?」
「場所がわかれば可能だけれど、極めて難しい話ね。この子は自分がどうやって夢空間に迷いこんだかも覚えていないようだし。夢空間というのは宇宙のようなもので、果てというものがないの。特定の場所を探すなんていうのは限りなく不可能に近いわ。下手をすれば自分自身が迷子になって、永遠に元の場所に帰ってこられないかもしれない」
「つまり、この子はもう帰れないんですか?」
「そういうことよ。でもまあ、心配しないで。『ここにいる間は』私が面倒を見るつもりだから」
千草はそこではじめてコップの存在に気づくと、ひとこと礼を言って緑茶を注いだ。
「ここにいる間って、この子、どこかへ行くんですか?」
「虹の住人は、原則として虹の国でしか存在できないの。虹の国の外にいれば、この子は消える」
「消える!?」
「そう」
千草はそれだけ答えてガラスコップを持ちあげ、口元にもってくると、ぐいっと勢いよく傾けた。そのままひと息に飲みほすと、息つく間もなくこう告げた。
「もちろん、存在がまるごと消えるというわけではないのよ。姿は見えなくなるけど、魂は残るわ。ただ、自分が何者なのか、これまでどうしていたのか、誰と知りあいだったのか、何もかも忘れてしまう。最終的には自我を失った浮遊霊と化すわ」
「ふ、浮遊霊、ですか」
急に飛びだした妙に現実的な単語に、あかりは背筋を凍らせた。ついさっきまで、空想的な暖かいファンタジー世界の話をしていた人の言葉とは思えなかった。
「それからは……どうなるんですか?」
「さあ。しばらく辺りを彷徨うんじゃないかしら。数百年もすれば魂もそのうち消えるでしょう」
まるで、ゴミ箱に捨てた紙くずの行方を語るかのように、そっけない口調だった。あかりが絶句していると、千草はハッとして笑顔になり、早口でこうつけ足した。
「べつに、そういう浮遊霊は珍しくないのよ。その辺に結構飛んでいるんだから。地縛霊と違って厄介な問題を起こすわけでもないし、大丈夫よ」
千草が気を使っているのはわかっていた。しかし、あかりは何も話せなかった。ついさっきまで、存在すら信じられないような幻想的な物語の話をしていたのに、今はどうだろう。目の前の風景は、美しい晴天の青空から、恐ろしい真夜中の墓地へと変貌を遂げていた。
「そうだ、お風呂は入った? こんなに遅くなるとは思わなかったから、準備をしていなくて悪かったわね。降りてこないところを見ると、ルリは寝てるのかしら」
「は、はい。少し前に寝てしまって。そのままにしてあげてください」
やっとのことで、それだけ答えた。その声色は我ながら異常なくらいに明るかった。
その夜、あかりは寝つけなかった。
隣では、小さなストラが背中を丸めて眠っていた。千草が三人分の布団しか用意していないとのことだったので、あかりは自分の布団の中にストラを引きとってあげることにしたのだ。
虹の子というのは不思議なもので、食事はとらないが睡眠はとるらしい。あかりが寝ようとするとすぐにやってきて、わけも聞かずにあたりまえのように布団に転がり、すぐにスヤスヤと寝息をたてて寝入ってしまった。ただ、かけ布団の上に寝ようとしていたところを見ると、寝具の使い方は知らないのかもしれない。そういえば、望月家では床に転がって寝ていたのを朝に発見し、慌てて起こした記憶がある。
虹の子とは、なんなのだろうか。いったいどうして、ここにいるのだろうか。
あかりはひとり、曲げていた両足を伸ばして寝返りをうった。それに引きずられるようにかけ布団が剥がれ、ストラの肩と腕がむきだしになる。慌てて布団をかけなおすと、ストラはむずむずと何か言いたげに口元を動かした。起こしてしまったかと慌てたが、よく聞くと、どうやら寝言のようだ。
「……アンジュ……」
聞きとれないほどの小さな声だったが、その単語だけははっきりと聞こえた。きっと、昼間に説明していた友人らしき人物の名前だろう。別れたきりの友人を恋しがっているのだろうか。
ふすまの向こうでは、ルリたちの寝息が聞こえる。あれからルリは一度も目覚めず、祖母の千草と同じ部屋で眠っていた。
ひんやりと冷房の効いた和室で、あかりはひとり天井を見つめた。
このまま放っておいたら、この子は消えてしまう。
それをわかっていて、放置しなければならないの?
いくら考えても、答えは出なかった。
答えが出ぬまま、あかりはいつの間にか眠りの世界へと