導きの夢
楽な普段着に着替えると、あかりはさっさと階段を降り、小さな写真の前で手をあわせると、母に聞こえるよう、わざと大きな声をだした。
「ただいま、お兄ちゃん」
写真の中にいる「お兄ちゃん」は返事をしなかった。だから、あかりは発声がすむと、写真の人物も見ず、さっさと母のもとへ行った。これは挨拶というよりは儀式のようなものだった。そしてこの儀式は、あかりが物心ついてから毎日欠かさずやらされている習慣でもあった。
便宜上「お兄ちゃん」という名前で呼んではいるが、じつのところ、あかりはこの人物を知らない。この人物はあかりが生後八ヶ月になるまでは生きていたが、ある日突然落ちてきた鉄骨の下敷きになり、帰らぬ人となってしまった。事故現場の凄惨さは人目を集め、連日ワイドショーを賑わせた。父は悲嘆にくれ、母は正気を失った。両親を狙った報道陣が家の近所をうろついていることも珍しくなかったという。だが、すべては伝聞なので、詳しいことは想像に任せるしかない。
あかりの母が心配性なのも、この人物のせいだった。母は「お兄ちゃん」の一件がよほど心にこたえているらしく、あかりが自分の目の届かない場所にいくことを嫌がり、常に束縛しようとした。母は仕事を辞め、趣味も持たず、暇さえあればあかりの行動をチェックし、過剰に世話を焼いてきた。
しかし、あかりはそれ自体に不満はなかった。無断外出をせず、こまめに連絡を入れて、決められたルールに沿って行動するようにしていれば、たいした問題は起こらない。親が子供を心配することは珍しくもなんともないし、親の目を盗んでまでやりたいこともない。
「あかり、もうすぐ誕生日ね」
その日の夕食中、母が嬉しそうに切りだした。またか、とあかりは身構えた。毎年のことながら、誕生日の話題だけは緊張してしまう。
「これでやっと九歳ね」
「うん」と、あかりは力なく答えた。
あかりの誕生日は三月三十一日だった。学年の中で一番遅く、かつ、春休み中であることから、学校の友達に祝ってもらえることはまずない。例外はルリで、彼女だけは毎年あかりの自宅まで訪ねてきては、強制的に奇妙な手作りのカードをよこしてくる。親の意向でプレゼントは禁止されているため、それが彼女の精いっぱいの気持ちなのだろう。しかし、あかりにとってはありがた迷惑でしかなかった。
「来年は小学四年生。とうとうお兄ちゃんと同じ になるのね」
母は食事の手をとめ、目を細めてあかりの顔をじっと、いとおしげにみつめた。その目はあかりをみていたが、焦点はあかりに定まっていない。まるであかりという窓をとおして、どこかの遠い景色を眺めているかのようだった。あかりはそんな母の目が嫌いだった。自分の身体をよりしろに、別の人物を召喚されているようで、いつも気分が悪くなった。
「まあ、まあ。それより、誕生日にいきたい場所はないか? 毎年家でお祝いだけじゃつまらないだろ。せっかくだから家族でどこかへいこう」
何かを察した父が、さらりと話題を変えてくれたおかげで、この話はここまでとなり、誕生日には大型テーマパークへ連れていってもらえることになった。
「あかり、これ何? 制服のポケットからでてきたんだけど」
夜、今にも寝ようとしていたあかりのもとに、母が小さな腕輪をつまんでやってきた。それは、昼間にルリからもらった地味なブレスレットだった。
「ああ、忘れてた。ルリにもらったの」
「これ、結構いいものなんじゃないの? 本当にもらって大丈夫?」
「わかんない。くれたからもらっといたの。まずいんなら、今度返すよ」
「そうしたほうがいいわ。トラブルになると嫌だもの。じゃ、おやすみ」
母は腕輪を返すと、あかりのパジャマの襟をなおし、電気を消して部屋をでていった。あかりは腕輪をてのひらにのせると、何気なく枕元に置き、布団にもぐった。
──寝るときは必ず身体から離してね。
一瞬、ルリの言葉が頭をよぎったが、あかりは気にもとめず、眠気に誘われるまま、すみやかに目をとじた。
次に意識が浮上したとき、あかりは薄暗いどこかの道を、ひたすらに歩いていた。白く浮きあがる道以外の景色は真っ暗で、空は不気味なほど澄んだ、暗い青紫色をしていた。
「誰か……」
か細い声が唐突に響いた。あかりは反射的に足をとめ、息を殺して周囲の様子を伺った。声は、前方から聞こえているようだった。
「そこにいるのね、そこのあなたよ」
あかりはどきりとした。相手はあかりの所在を認識している。その事実は恐怖となり、背中をとおって全身を震わせた。
「助けてほしいの。お願い、行かないで!」
だからといって、逃げるわけにもいかず、あかりはただ、その場で恐ろしさに凍りつくことしかできなかった。声の主はなおも、消えいりそうなかすれ声でささやいていた。
「わたしのお友達が壊れてしまったの。全部、わたしのせいなのよ。なんとかしてあげたいけれど、わたしはここからでられない。お願い、わたしのかわりにあの子を救ってあげて。このままじゃ、あの子は二度ともとに戻れなくなる」
あかりは意を決して、声のするほうへと歩を進めた。少なくとも、相手は自分に危害を加えたいわけではなさそうだ。それに、このまま黙って怯えるよりは、声の正体を探したほうが賢明だろう。
声の主は、案外簡単にみつかった。しかし、その姿はわからなかった。
真っ黒い影のような檻のシルエットから、にょきっと白い腕が伸びている。腕は一本だけで、さっきからべたべたと手の届く範囲を調べてまわっている。まるで、みえない何かを探しているかのようだった。あかりが檻に近づくと、手の動きはぴたりととまった。
「きてくれたのね」
声の主は嬉しそうにいった。
「あなた、名前は?」
「あかり」
少し意外な質問だったが、あかりはなんとか冷静に答えた。それからふと、相手の素性が気になり、ひとつ質問を返した。
「あなたの名前は?」
沈黙が流れた。しかし、回答を拒絶している様子はない。かわりに、動揺しているかのような息づかいが聞こえた。しばらく待っていると、元気のない声色で、こんな答えが返ってきた。
「『ソランジュ』。でも、覚えておく必要はないわ」
それからソランジュは、ある方向を指さした。その瞬間、何もなかった空間に白い道が現れ、つう、とまっすぐに伸びていった。
「この先に、わたしのお友達がいるわ。とても苦しんでいるの。どうか助けてあげて。わたしには何もできないの」
いわれるがまま、あかりはその道をたどっていった。いってどうするのかは考えていなかった。ただ、彼女の必死そうな声を聞くと、どうしても断る気にはなれなかったのだ。
道の終着点は、白くて丸い床だった。その地に降りたった瞬間、あかりは、ヒッと息をのんだ。そこには、みるも無残な光景が広がっていた。
あたり一面には白い羽が無造作に散らばっていた。まるで、暴れまわる何かをつかまえて、無理やりにむしりとったかのような散らかりかたである。さらに、その羽にはべったりと紫色の液体がこびりついていた。その粘度の高い不気味な液体は、色こそ違えど、血液のようだった。
それから、その羽たちに埋もれるようにして、二本の小さな足が、足裏をこちらにむけて倒れていた。
おそるおそる近づいてみると──予想どおり、それは人間の身体の一部だった。
羽の中でうつぶせで倒れているのは、子供だった。背丈は、あかりの三分の二くらいしかない。その背中はべったりと紫の液体で汚れ、着ている洋服の布地に大きな染みが広がっていた。
手と足はあざだらけだった。どこかにぶつけたのか、はたまた殴られたのか、それはわからない。足先はひどく汚れ、切り裂かれた足の甲からは紫の液体がふきだしていた。
あかりはしばらく、その場から動けなかった。しかし、我に返ると、慌てて周囲を見回しはじめた。自分たち以外に人影はない。公共施設もない。当然、携帯電話も持っていない。
「救急車……救急車呼ばなきゃ」
あかりがおろおろと歩きまわっていると、子供の手足がぴくりと動き、ゆっくりと全身が動きはじめた。子供は両腕を使って起きあがると膝をつき、座りこんだ格好で上半身を起こしたまま、じっとあかりをみつめた。
その瞳は、右は瞳孔のないライトグリーンで、左は磨きこまれた黒水晶のような闇色だった。
「ただいま、お兄ちゃん」
写真の中にいる「お兄ちゃん」は返事をしなかった。だから、あかりは発声がすむと、写真の人物も見ず、さっさと母のもとへ行った。これは挨拶というよりは儀式のようなものだった。そしてこの儀式は、あかりが物心ついてから毎日欠かさずやらされている習慣でもあった。
便宜上「お兄ちゃん」という名前で呼んではいるが、じつのところ、あかりはこの人物を知らない。この人物はあかりが生後八ヶ月になるまでは生きていたが、ある日突然落ちてきた鉄骨の下敷きになり、帰らぬ人となってしまった。事故現場の凄惨さは人目を集め、連日ワイドショーを賑わせた。父は悲嘆にくれ、母は正気を失った。両親を狙った報道陣が家の近所をうろついていることも珍しくなかったという。だが、すべては伝聞なので、詳しいことは想像に任せるしかない。
あかりの母が心配性なのも、この人物のせいだった。母は「お兄ちゃん」の一件がよほど心にこたえているらしく、あかりが自分の目の届かない場所にいくことを嫌がり、常に束縛しようとした。母は仕事を辞め、趣味も持たず、暇さえあればあかりの行動をチェックし、過剰に世話を焼いてきた。
しかし、あかりはそれ自体に不満はなかった。無断外出をせず、こまめに連絡を入れて、決められたルールに沿って行動するようにしていれば、たいした問題は起こらない。親が子供を心配することは珍しくもなんともないし、親の目を盗んでまでやりたいこともない。
「あかり、もうすぐ誕生日ね」
その日の夕食中、母が嬉しそうに切りだした。またか、とあかりは身構えた。毎年のことながら、誕生日の話題だけは緊張してしまう。
「これでやっと九歳ね」
「うん」と、あかりは力なく答えた。
あかりの誕生日は三月三十一日だった。学年の中で一番遅く、かつ、春休み中であることから、学校の友達に祝ってもらえることはまずない。例外はルリで、彼女だけは毎年あかりの自宅まで訪ねてきては、強制的に奇妙な手作りのカードをよこしてくる。親の意向でプレゼントは禁止されているため、それが彼女の精いっぱいの気持ちなのだろう。しかし、あかりにとってはありがた迷惑でしかなかった。
「来年は小学四年生。とうとう
母は食事の手をとめ、目を細めてあかりの顔をじっと、いとおしげにみつめた。その目はあかりをみていたが、焦点はあかりに定まっていない。まるであかりという窓をとおして、どこかの遠い景色を眺めているかのようだった。あかりはそんな母の目が嫌いだった。自分の身体をよりしろに、別の人物を召喚されているようで、いつも気分が悪くなった。
「まあ、まあ。それより、誕生日にいきたい場所はないか? 毎年家でお祝いだけじゃつまらないだろ。せっかくだから家族でどこかへいこう」
何かを察した父が、さらりと話題を変えてくれたおかげで、この話はここまでとなり、誕生日には大型テーマパークへ連れていってもらえることになった。
「あかり、これ何? 制服のポケットからでてきたんだけど」
夜、今にも寝ようとしていたあかりのもとに、母が小さな腕輪をつまんでやってきた。それは、昼間にルリからもらった地味なブレスレットだった。
「ああ、忘れてた。ルリにもらったの」
「これ、結構いいものなんじゃないの? 本当にもらって大丈夫?」
「わかんない。くれたからもらっといたの。まずいんなら、今度返すよ」
「そうしたほうがいいわ。トラブルになると嫌だもの。じゃ、おやすみ」
母は腕輪を返すと、あかりのパジャマの襟をなおし、電気を消して部屋をでていった。あかりは腕輪をてのひらにのせると、何気なく枕元に置き、布団にもぐった。
──寝るときは必ず身体から離してね。
一瞬、ルリの言葉が頭をよぎったが、あかりは気にもとめず、眠気に誘われるまま、すみやかに目をとじた。
次に意識が浮上したとき、あかりは薄暗いどこかの道を、ひたすらに歩いていた。白く浮きあがる道以外の景色は真っ暗で、空は不気味なほど澄んだ、暗い青紫色をしていた。
「誰か……」
か細い声が唐突に響いた。あかりは反射的に足をとめ、息を殺して周囲の様子を伺った。声は、前方から聞こえているようだった。
「そこにいるのね、そこのあなたよ」
あかりはどきりとした。相手はあかりの所在を認識している。その事実は恐怖となり、背中をとおって全身を震わせた。
「助けてほしいの。お願い、行かないで!」
だからといって、逃げるわけにもいかず、あかりはただ、その場で恐ろしさに凍りつくことしかできなかった。声の主はなおも、消えいりそうなかすれ声でささやいていた。
「わたしのお友達が壊れてしまったの。全部、わたしのせいなのよ。なんとかしてあげたいけれど、わたしはここからでられない。お願い、わたしのかわりにあの子を救ってあげて。このままじゃ、あの子は二度ともとに戻れなくなる」
あかりは意を決して、声のするほうへと歩を進めた。少なくとも、相手は自分に危害を加えたいわけではなさそうだ。それに、このまま黙って怯えるよりは、声の正体を探したほうが賢明だろう。
声の主は、案外簡単にみつかった。しかし、その姿はわからなかった。
真っ黒い影のような檻のシルエットから、にょきっと白い腕が伸びている。腕は一本だけで、さっきからべたべたと手の届く範囲を調べてまわっている。まるで、みえない何かを探しているかのようだった。あかりが檻に近づくと、手の動きはぴたりととまった。
「きてくれたのね」
声の主は嬉しそうにいった。
「あなた、名前は?」
「あかり」
少し意外な質問だったが、あかりはなんとか冷静に答えた。それからふと、相手の素性が気になり、ひとつ質問を返した。
「あなたの名前は?」
沈黙が流れた。しかし、回答を拒絶している様子はない。かわりに、動揺しているかのような息づかいが聞こえた。しばらく待っていると、元気のない声色で、こんな答えが返ってきた。
「『ソランジュ』。でも、覚えておく必要はないわ」
それからソランジュは、ある方向を指さした。その瞬間、何もなかった空間に白い道が現れ、つう、とまっすぐに伸びていった。
「この先に、わたしのお友達がいるわ。とても苦しんでいるの。どうか助けてあげて。わたしには何もできないの」
いわれるがまま、あかりはその道をたどっていった。いってどうするのかは考えていなかった。ただ、彼女の必死そうな声を聞くと、どうしても断る気にはなれなかったのだ。
道の終着点は、白くて丸い床だった。その地に降りたった瞬間、あかりは、ヒッと息をのんだ。そこには、みるも無残な光景が広がっていた。
あたり一面には白い羽が無造作に散らばっていた。まるで、暴れまわる何かをつかまえて、無理やりにむしりとったかのような散らかりかたである。さらに、その羽にはべったりと紫色の液体がこびりついていた。その粘度の高い不気味な液体は、色こそ違えど、血液のようだった。
それから、その羽たちに埋もれるようにして、二本の小さな足が、足裏をこちらにむけて倒れていた。
おそるおそる近づいてみると──予想どおり、それは人間の身体の一部だった。
羽の中でうつぶせで倒れているのは、子供だった。背丈は、あかりの三分の二くらいしかない。その背中はべったりと紫の液体で汚れ、着ている洋服の布地に大きな染みが広がっていた。
手と足はあざだらけだった。どこかにぶつけたのか、はたまた殴られたのか、それはわからない。足先はひどく汚れ、切り裂かれた足の甲からは紫の液体がふきだしていた。
あかりはしばらく、その場から動けなかった。しかし、我に返ると、慌てて周囲を見回しはじめた。自分たち以外に人影はない。公共施設もない。当然、携帯電話も持っていない。
「救急車……救急車呼ばなきゃ」
あかりがおろおろと歩きまわっていると、子供の手足がぴくりと動き、ゆっくりと全身が動きはじめた。子供は両腕を使って起きあがると膝をつき、座りこんだ格好で上半身を起こしたまま、じっとあかりをみつめた。
その瞳は、右は瞳孔のないライトグリーンで、左は磨きこまれた黒水晶のような闇色だった。