記憶黙殺
目をあけた直後、ストラはすぐ、そこにいた人物に自分の居場所を尋ねようとした。
ところが、言葉がでてこなかった。伝えたい概念は頭の中に渦巻いているのに、それを表す言葉がない。虹の国であれほど喋っていた言語は、ストラが口をひらこうとした一瞬のうちに蒸発してしまった。たしかに言葉を知っていたはずなのに。きちんとコミュニケーションをとっていたはずなのに。今となっては何もでてこない。ただ、ぐるぐると形を失った大量の疑問がとぐろを巻くばかりだった。ストラはパニックになり、泣きだした。意味を持たない声だけを発しながら。
ストラが声をあげた途端、彼を覗きこんでいた人間は目を見ひらき、口を手で覆い、いくつかの単語をストラに投げかけた。しかし、ストラにはそれが理解できなかった。ただ、目の前の相手が必死の形相で何かを訴えかけていることだけは、なんとなくわかった。
やがて、ストラを見ていた謎の人間はばたばたと大きな足音をたててどこかへ去り、数人の人間を連れて戻ってきた。人間たちはもう一度ストラをとり囲み、あれやこれやと声をかけ、勝手にストラの身体をあちこち触って調べはじめた。その間、ストラはなんとかしてこの場からの脱走を試みていたが、まったく全身に力が入らず、指先を動かして抵抗するのが精一杯だった。
周囲の人間は何を言っているのかわからず、身体は動かせず、喋ることもできない。ストラは恐ろしさのあまり、弱々しい呻き声をあげて泣くことしかできなかった。
どうしてこんなことになったのだろう。アンジュはどこに行ったのだろう。ここはどこなのだろう。
少しずつ記憶を辿っていくうち、ストラはある事実に行きついた。ここへ来る直前、アンジュはストラを虹の国の門から連れだし、どこかから落としている。ということは、ここは虹の国の外なのだ。
しかし、それはまったくもってストラの予想とは違う場所だった。事前に聞いていた話では、もっと楽しくて、明るくて、いろんなものがあって、自由な世界だということだった。だけど、ここはどうだろう。四方に壁があり、その上にまで壁 が覆いかぶさっている。身体は動かず、見知らぬ人間に勝手に全身を見られ、おまけに腕には動きを封じるかのように紐がいくつもつけられている。おまけに、誰だか知らない人間のひとりに、顔まで撫でまわされていた。
こんな狭くて不自由で不気味な場所が「虹の国の外」だというのなら、二度とこんな場所にはきたくない。
ストラはじっと助けを待った。きっとそのうち、住人の誰かが自分を迎えにきてくれる。そしてまた、あのシャボン玉の浮かぶ綺麗な国へと連れていってくれる。それまではおとなしく待っていよう。
けれども、いくら待っても迎えはこなかった。泣き疲れたストラが眠りにおち、ふたたび目ざめたときも、あいかわらず彼は狭い部屋の中に閉じこめられていた。その次も、そのまた次も、何度眠って何度目ざめても、やはり現実は変わらなかった。
途方もなく長い時間を同じ場所で過ごしたのち、ストラはようやく、誰も助けにこないのだと悟った。帰りたいのなら、自分で帰るしかないのだろう。この気味の悪い場所を脱出し、自力で虹の国を目指すしかないのだろう。
そんな彼の考えをよそに、彼のもとには様々な人間が訪れた。とりわけ頻繁にくるのは、長い髪を乱雑に後ろでまとめた瘦せぎすの人間だった。これは、ストラがはじめて目をあけた瞬間からこの場所にいた人間である。観察していると、どうやら女性のようである。彼女はいつもストラのもとにくると、目尻にしわをよせて微笑みかけ、理解不能な言語でお喋りをする。そして、何に使うのかさっぱりわからないアイテムを掲げては、さも嬉しそうにそれを紹介してくれる。この人物は直接危害を加えてこないので、比較的安心できる人間だった。
次によくくるのは、ライトブルーの服を着た男性と、女性数人だった。ストラはこの人間たちを最も恐れていた。彼らときたら、優しい笑顔で近づいてきたかと思うと、突然ストラの動きを封じ、冷たい器具で脇を触ったり、先の尖った道具を腕に突き刺したりしてくる。触られるのはまだいいが、突き刺されるのはたまらない。強烈な痛みを感じるため、散々泣いて元気がなくなっていたストラも、このときばかりは渾身の力で泣き叫んだ。それでも彼らはストラを羽交い締めにして離さず、このおぞましい処置を終えるまでは解放してくれなかった。ストラは定期的に巡ってくるこの拷問に怯え、この一団を見かけるたびに大声をあげて威嚇するようになった。
また、時折、身体の中が締めつけられるように痛むことがあった。こうなると、ストラは泣くことも叫ぶこともできなくなる。ストラがこの痛みを感じて悶えていると、先述のブルー服の人間がやってきて、いろいろと妙な施術をほどこしてきた。不思議なことに、彼らがやってくると、すぐにこの痛みは治まった。彼らはストラを痛めつけることもあれば、痛みをとりのぞいてくれることもあるようだった。
この場所に出入りをしている人間は、だいたいいつも同じ顔ぶれだった。ただ、ほんのときたま、恰幅のいい男性と、ストラよりいくぶん身体の大きい少年が来訪することもあった。
男性のほうはあまりお喋り好きではないようで、毎回、二言、三言しか話さず、あとはストラの頭を撫でて、髪の毛をぐしゃぐしゃにするだけだった。害になることはしないため、ストラはこの人物のことはわりと好きだった。
少年は、いつもにこにこしている明るい人物だった。どうやらストラにそうとう興味があるらしく、いつも自分の顔をストラの顔に近づけてヒソヒソと内緒話をしてくれた。図体の大きい人間ばかりの空間に怯えていたストラにとって、この少年は唯一信頼のおける人物だった。それに、彼の姿は、かつてストラに「虹の国の外」を教えてくれていた人物──不思議なことに、名前も顔も、性別も声も、何も思いだせないのだが、ただ、ストラよりも少し大きい子供だったことだけははっきりと覚えている──を思いださせた。
ともかく、こうしてストラは新しい世界に放りこまれ、何もかもよくわからないままに不気味な生活をおくることになってしまった。
それでも、ストラは諦めなかった。もし、この場所や人物のことが理解できたら。彼らの言葉を使えるようになったら。身体が思うように動かせるようになったら。そのときは、この場所をでて、虹の国を探そう。そして、虹の国に帰ろう。
やがて、この憂鬱な日々に耐えたのち、ストラはこの狭い空間の外にだしてもらえるようになった。そして、歩くための訓練をさせられるようになった。この頃になると、ほんの少しではあるが、周囲の人間の言葉も理解できるようになっていた。おかげで、瘦せぎすの女性は「おかあさん」、恰幅のいい男性は「おとうさん」、少年は「おにいちゃん」という名前なのだということがわかった。そして、普段やってくる笑顔の恐ろしい女性が「かんごしさん」、ときどき「かんごしさん」についてくる男性が「おいしゃさん」と呼ばれていることも知った。
ストラは努力した。もとどおり歩けるように、歯を食いしばって何度でも立ちあがった。周りの言葉をよく聞いて、彼らが何をいっているのかを理解しようとつとめた。周囲の行動をみて、できるかぎり自分も同じようにふるまった。また、頻繁に見せられる「テレビ」や「絵本」というアイテムにも目を通し、この場所に関する情報を集め、知識を増やした。
そんな彼を、大人たちは褒めそやした。しかし、ストラにとって、そんなことはどうでもよかった。
ストラはただ、自分の国に帰りたかった。
ところが、言葉がでてこなかった。伝えたい概念は頭の中に渦巻いているのに、それを表す言葉がない。虹の国であれほど喋っていた言語は、ストラが口をひらこうとした一瞬のうちに蒸発してしまった。たしかに言葉を知っていたはずなのに。きちんとコミュニケーションをとっていたはずなのに。今となっては何もでてこない。ただ、ぐるぐると形を失った大量の疑問がとぐろを巻くばかりだった。ストラはパニックになり、泣きだした。意味を持たない声だけを発しながら。
ストラが声をあげた途端、彼を覗きこんでいた人間は目を見ひらき、口を手で覆い、いくつかの単語をストラに投げかけた。しかし、ストラにはそれが理解できなかった。ただ、目の前の相手が必死の形相で何かを訴えかけていることだけは、なんとなくわかった。
やがて、ストラを見ていた謎の人間はばたばたと大きな足音をたててどこかへ去り、数人の人間を連れて戻ってきた。人間たちはもう一度ストラをとり囲み、あれやこれやと声をかけ、勝手にストラの身体をあちこち触って調べはじめた。その間、ストラはなんとかしてこの場からの脱走を試みていたが、まったく全身に力が入らず、指先を動かして抵抗するのが精一杯だった。
周囲の人間は何を言っているのかわからず、身体は動かせず、喋ることもできない。ストラは恐ろしさのあまり、弱々しい呻き声をあげて泣くことしかできなかった。
どうしてこんなことになったのだろう。アンジュはどこに行ったのだろう。ここはどこなのだろう。
少しずつ記憶を辿っていくうち、ストラはある事実に行きついた。ここへ来る直前、アンジュはストラを虹の国の門から連れだし、どこかから落としている。ということは、ここは虹の国の外なのだ。
しかし、それはまったくもってストラの予想とは違う場所だった。事前に聞いていた話では、もっと楽しくて、明るくて、いろんなものがあって、自由な世界だということだった。だけど、ここはどうだろう。四方に壁があり、その上にまで
こんな狭くて不自由で不気味な場所が「虹の国の外」だというのなら、二度とこんな場所にはきたくない。
ストラはじっと助けを待った。きっとそのうち、住人の誰かが自分を迎えにきてくれる。そしてまた、あのシャボン玉の浮かぶ綺麗な国へと連れていってくれる。それまではおとなしく待っていよう。
けれども、いくら待っても迎えはこなかった。泣き疲れたストラが眠りにおち、ふたたび目ざめたときも、あいかわらず彼は狭い部屋の中に閉じこめられていた。その次も、そのまた次も、何度眠って何度目ざめても、やはり現実は変わらなかった。
途方もなく長い時間を同じ場所で過ごしたのち、ストラはようやく、誰も助けにこないのだと悟った。帰りたいのなら、自分で帰るしかないのだろう。この気味の悪い場所を脱出し、自力で虹の国を目指すしかないのだろう。
そんな彼の考えをよそに、彼のもとには様々な人間が訪れた。とりわけ頻繁にくるのは、長い髪を乱雑に後ろでまとめた瘦せぎすの人間だった。これは、ストラがはじめて目をあけた瞬間からこの場所にいた人間である。観察していると、どうやら女性のようである。彼女はいつもストラのもとにくると、目尻にしわをよせて微笑みかけ、理解不能な言語でお喋りをする。そして、何に使うのかさっぱりわからないアイテムを掲げては、さも嬉しそうにそれを紹介してくれる。この人物は直接危害を加えてこないので、比較的安心できる人間だった。
次によくくるのは、ライトブルーの服を着た男性と、女性数人だった。ストラはこの人間たちを最も恐れていた。彼らときたら、優しい笑顔で近づいてきたかと思うと、突然ストラの動きを封じ、冷たい器具で脇を触ったり、先の尖った道具を腕に突き刺したりしてくる。触られるのはまだいいが、突き刺されるのはたまらない。強烈な痛みを感じるため、散々泣いて元気がなくなっていたストラも、このときばかりは渾身の力で泣き叫んだ。それでも彼らはストラを羽交い締めにして離さず、このおぞましい処置を終えるまでは解放してくれなかった。ストラは定期的に巡ってくるこの拷問に怯え、この一団を見かけるたびに大声をあげて威嚇するようになった。
また、時折、身体の中が締めつけられるように痛むことがあった。こうなると、ストラは泣くことも叫ぶこともできなくなる。ストラがこの痛みを感じて悶えていると、先述のブルー服の人間がやってきて、いろいろと妙な施術をほどこしてきた。不思議なことに、彼らがやってくると、すぐにこの痛みは治まった。彼らはストラを痛めつけることもあれば、痛みをとりのぞいてくれることもあるようだった。
この場所に出入りをしている人間は、だいたいいつも同じ顔ぶれだった。ただ、ほんのときたま、恰幅のいい男性と、ストラよりいくぶん身体の大きい少年が来訪することもあった。
男性のほうはあまりお喋り好きではないようで、毎回、二言、三言しか話さず、あとはストラの頭を撫でて、髪の毛をぐしゃぐしゃにするだけだった。害になることはしないため、ストラはこの人物のことはわりと好きだった。
少年は、いつもにこにこしている明るい人物だった。どうやらストラにそうとう興味があるらしく、いつも自分の顔をストラの顔に近づけてヒソヒソと内緒話をしてくれた。図体の大きい人間ばかりの空間に怯えていたストラにとって、この少年は唯一信頼のおける人物だった。それに、彼の姿は、かつてストラに「虹の国の外」を教えてくれていた人物──不思議なことに、名前も顔も、性別も声も、何も思いだせないのだが、ただ、ストラよりも少し大きい子供だったことだけははっきりと覚えている──を思いださせた。
ともかく、こうしてストラは新しい世界に放りこまれ、何もかもよくわからないままに不気味な生活をおくることになってしまった。
それでも、ストラは諦めなかった。もし、この場所や人物のことが理解できたら。彼らの言葉を使えるようになったら。身体が思うように動かせるようになったら。そのときは、この場所をでて、虹の国を探そう。そして、虹の国に帰ろう。
やがて、この憂鬱な日々に耐えたのち、ストラはこの狭い空間の外にだしてもらえるようになった。そして、歩くための訓練をさせられるようになった。この頃になると、ほんの少しではあるが、周囲の人間の言葉も理解できるようになっていた。おかげで、瘦せぎすの女性は「おかあさん」、恰幅のいい男性は「おとうさん」、少年は「おにいちゃん」という名前なのだということがわかった。そして、普段やってくる笑顔の恐ろしい女性が「かんごしさん」、ときどき「かんごしさん」についてくる男性が「おいしゃさん」と呼ばれていることも知った。
ストラは努力した。もとどおり歩けるように、歯を食いしばって何度でも立ちあがった。周りの言葉をよく聞いて、彼らが何をいっているのかを理解しようとつとめた。周囲の行動をみて、できるかぎり自分も同じようにふるまった。また、頻繁に見せられる「テレビ」や「絵本」というアイテムにも目を通し、この場所に関する情報を集め、知識を増やした。
そんな彼を、大人たちは褒めそやした。しかし、ストラにとって、そんなことはどうでもよかった。
ストラはただ、自分の国に帰りたかった。