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「やめろ!」
 思わず大声を上げて俺はコハクを払いのけた。直後に周囲の視線に気付いて固まる。そこに先生の面倒臭そうな声が飛んできた。
「おーい、どうしたー? ふざけてないでちゃんとストレッチしろよー。怪我しても知らんぞー」
「せ、先生!」
 少しでもあいつから離れたくて、俺は急いで先生のもとへ駆け寄った。
「うん?」
「俺、ちょっと気分が悪くて……。保健室行って休んでもいいですか?」
「なんだ、風邪か?」
「は、はい。実は、熱が少しあったのに学校に来ちゃって……」
「そういう時は休んでもいいんだぞ? 無理して風邪をこじらせたら意味が無いだろう。わかった、保健室へ行って休みなさい。ツラかったら早退してもいいんだから」
「はい、すみません」
 俺は一礼して足早に体育館を後にした。先生の温かい言葉に胸が少し痛んだけど、コハクから逃れられた喜びの方が勝った。
 保険医は具合が悪いと言う俺に体温計を渡してベッドに寝てるよう指示した。平熱であることを確認すると、俺の嘘を見抜いたのか安心したような呆れたような微妙な笑顔で、「ちょっと職員室に書類を取ってくるから寝てなさい」と言って保健室から出て行った。
 これでようやく考えに集中できる、とホッとしたのも束の間。誰かが全速力で駆け込んできて俺は身を凍らせた。一直線に足音が近付いてきてサッとカーテンが開かれる。
 そこにいたのは泣きそうな顔で息を切らしたコハクだった。
「な……んで、お前まで来るんだよ」
「だって、具合が悪いって……。俺、気付かなくて……」
「いや、それは……」
 急にもの凄い罪悪感に襲われて俺は目を逸らした。理不尽だ。そもそも、こいつの妙な雰囲気が怖かったせいで俺は嘘をついて体育をサボるはめになったのに。どうしてこんな気分にならなきゃいけないんだ。
 俺は寝返りを打ってコハクに背中を向けた。
「心配してくれるのはありがたいけどさ、授業に戻れよ。俺は一人で平気だから」
「本当に?」
 その言葉がやけに神妙な感じに聞こえて、俺はそっと肩越しに振り向いた。コハクが真顔で見つめている。
「一人で、ずっと、平気だった?」
「……なんだよ、いきなり」
 なんだか別の話になっている気がする。俺は起き上がってコハクと向き合った。
「俺は平気じゃなかった。ずっと、平気じゃなかったよ。鼎」
「な、なぁ……。俺にはお前が言ってることがわからないんだよ。ていうか、お前のことを覚えていないことも、全部。だから……、もし何か知ってるならさ、順番に説明……」
「左腕、痛む?」
 唐突に問われて、俺は自分が左腕をさすっていたことに気がついた。慌てて右手を引っ込めると、今度はコハクが手を伸ばしてジャージの上から俺の左腕に触れる。瞬間、俺は反射的にその手を強く振り払った。
「やっぱり、痛むよね。火傷は治るのが遅いもん」
 悲しげにコハクは言った。その言葉に背筋が寒くなる。気のせいなんかじゃない。こいつは、ジャージ越しに俺の傷に触れた。
「……痛くはねーよ。もう昔のことだし」
 コハクに触れられた場所を押さえて、俺は奴から目を逸らした。小刻みに震える手の下には、十年前に負った火傷の痕がある。きっと、着替えの時に見えてしまったんだ。俺はなんとか気持ちを落ち着かせてコハクに言った。
「ガキの頃、熱湯が入ってるヤカンをひっくり返したんだって。俺は覚えてないけど、相当大変だったらしくてさ。……我ながら、何やってんだって感じ」
 嘘をついてごまかすのも、だいぶ板についてきた。こう言っておけば深く訊かれることはない。
 けれど、コハクの目はスッと鋭くなった。
「鼎」
「なに」
「俺に嘘なんてつかなくていいから」
「――――!」
 心臓を鷲掴みされたような感覚と胃の辺りからせり上がってくる吐き気。浅い呼吸をしながら、俺は左腕を押さえる手に力を込めた。どうして嘘だってバレた? いや、今はそんなことどうだっていい。何か言わなきゃ……。いや、冗談ぽく笑った方がいいのか?
「な、何言ってんだよ。だから、これは……」
 引きつった笑顔は、ごまかしきれない何かを証明してしまっているようで、余計に俺を焦らせた。でも、これ以上どうすることもできない。
「本当に熱湯でやらかした……痕だよ」
「鼎に俺の術が通じないように、俺には鼎の嘘が通じないんだよ」
「嘘って……。なんでそんなことわかるんだよ! ていうか、ほんと、お前何なんだよ!? どうしていちいち俺に絡んでくるんだ!?」
 思わず激昂していた。けれど、コハクは全然動じていないどころか口元に笑みまで浮かべて、
「迎えに来たんだ。鼎を俺のお嫁さんにするために」
 当然のようにそう言って、白い手を俺の肩の上に置いた。
「ま、待て待て待て。マジで意味わかんないから! いきなり何を……」
「静かに」
 コハクはピンと立てた人さし指を自分の口元に当てて、辺りを見回した。その表情が妙に強ばっていたせいか、つられてこっちも緊張してくる。
「……盗み聞きでもしてるの? 出てきなよ」
 低い声で言って、コハクは後方に視線を投げた。すると、窓から差し込む陽光を透かして輝くカーテンからぼんやりと背の高いシルエットが浮かんだ。
「保健室では静かに」
 カーテンをめくって現れたのは、白衣姿の間宮先生だった。
 間宮先生は、産休を取った生物の渡辺先生の代理で四月にやって来た。小柄でメリハリのある体型をした二十代の渡辺先生の代わりに来たのが、この三十代のひょろりと背が高くて青白い頬をした男だったから、妄想までして期待を膨らませていた男子達の落胆ぶりは凄まじかった。
「ま、間宮先生。いつからそこに?」
 すると、間宮先生は僅かに目を宙に泳がせて、
「ちょっと前、くらいかな」
 と曖昧に返した。え、ちょっと待って。それって、つまり……。
「あ、あの! 俺達の話、聞こえてましたか?」
「いや……、他人の会話に聞き耳を立てるほど野暮じゃない。ところで……」
 目元を覆う黒い暖簾のような前髪越しにチラリとコハクに視線を向け、間宮先生は呟くように尋ねた。
「君は?」
「俺は鼎の付き添い。妙な虫が近寄ると困るからね」
「妙な虫?」
 間宮先生は訝しげに眉を寄せた。二人の間に妙な緊張感が走る。すると、急にコハクが俺の肩を抱き寄せて、
「そう! だって、鼎は俺の大事なお嫁……」
「コハク! 教室に戻ろう! なっ!!」
 不穏な言葉を大声で遮りながらコハクを押しのけ、俺はベッドから降りた。
「大丈夫かい? 少し顔色が悪いようだけど」
「あ、ほんとだ。鼎、顔が青いよ」
「誰のせいだと思ってるんだよ」
 コハクがまた妙なことを口走る前に一刻も早くここから立ち去りたかった。時計を確認すると、授業終了十分前。ホッとして、俺は上履きに足を突っ掛けて間宮先生に軽く頭を下げた。
「と、とりあえず戻ります。そろそろ体育も終わりますし」
 間宮先生の反応を見ずに俺はコハクを引っ張って保健室を脱出した。そのまま早足で廊下を歩きながら、傍らのコハクを睨みつける。
「コハク、お前な」
「鼎、あいつには気をつけて」
 保健室を振り返り、コハクはポツリと言った。
「あいつから怪しい匂いがする」
「は? 何言ってんだよ。怪しいのはお前の方だろ」
「鼎」
「なんだよ」
「今日、一緒に帰ろう」
「はあ?」
 立ち止まって俺は額を押さえて呻いた。マイペースにもほどがある。ひょっとして、はぐらかされているのか? と、グルグル考えていると、コハクが心配そうな顔で覗き込んできた。
「やっぱり具合悪い? 今日はもう早退しようか。俺が送っていくよ」
「……お願いだからさ、会話してくれよ」
 本格的に頭が痛くなってきた。コハクの言う通り、早退した方がいいな。これは。
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