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「なあ、かなえ
 呼ばれて顔を上げると、見知らぬ奴がこちらに笑顔を向けていた。色白の長身で体つきは細いけど、半袖から伸びている腕には筋肉がしっかりとついている。つり目がちであっさりとした涼しげな顔立ち。髪の毛は天然だろうか、色素が薄く茶色がかっていた。こんな奴なら一目で印象に残るはずだけど、不思議と見覚えがない。それなのに、そいつはさも当たり前のように俺の名前を呼んだ。
「鼎、聞いてる?」
「あ、あぁ……。何?」
「今日って体育あったっけ?」
「四時間目にあるけど。……えっと、ごめん。名前、何ていう……」
「やっぱり!? あー、最悪。ジャージ忘れてきちゃったよ。鼎、スペアとかで二着持ってたりする?」
「無い」
 わざとキツめに言って、俺は話を断ち切られた苛立ちを噛み殺しながらスマホの画面を眺めた。自分のペースで一方的に話してくる、こういうタイプは苦手だ。
「そっかぁ……」
 そいつは、あからさまにしょんぼりして肩を落とした。すると、その背後から救いの声が飛んできた。
琥珀こはくー、ジャージ無ぇの?」
「うん。忘れたー」
 と、そいつは振り返って答えた。コハク? 名字か? それとも、名前? やっぱり覚えが無い。
「なら、一組に行ってみ」
「お、ラッキ。一組なら後藤あたりがいいかな。あいつ、体育サボり魔だし」
「次の時間だから急げよ」
「うわ、あと五分じゃん。鼎も、サンキュな」
「……良かったな」
 俺の返答にコハクは満足げに笑った。こいつの目は小さくも細くもない。けれど、その笑い方をした瞬間、目が線のように細くなった。
「体育、一緒の組になろうな」
 柔らかくそう言ってコハクは身を翻すと、そのまま慌ただしく教室から出て行った。
 嵐が去り、俺はホッとして再びスマホに目をやった。好きな漫画の新刊情報を目で追いながらコハクのことを考える。あんな奴、昨日までこの学校にいたか? 記憶の糸をたぐって思い出そうとした矢先に、クラスメイトの原がやってきて前の席に腰かけた。
「あー、相変わらず騒がしいな。琥珀って」
 俺は目を上げて原を見た。クラスの奴らはあいつの存在に何の疑問も抱いていない。ということは、知らないのは俺だけ。
 俺がおかしいのか?
伊波いなみ?」
 黙り込んでいる俺を妙に思ったのだろう、原が怪訝な顔で覗き込んできた。
「なあ、原。変なこと訊くけど」
「なんだよ、急に」少し緊張した面持ちで原は両膝をさする。
「うん……。あの、コハクって奴のことなんだけどさ。あいつ、転校生か何かだっけ?」
 一拍置いた後、原は吹き出して笑った。
「はあ? お前、いきなり何言ってんだよ」
「い、いや、だから」
「つーか、それ、琥珀に直接言ってやるなよ。一番の親友だろ? 冗談だとしても、さすがに笑えねーから」
「はあ!?」
 笑いながら原が漏らしたその言葉に、俺は耳を疑った。
 一番の親友?
 俺が、あいつの?
 真っ白になった俺の耳に、三時間目を告げるチャイムの音が響き渡った。
 コハクはもちろん遅刻した。


 着替えの時間を利用して聞き耳を立てた結果、『コハクシズマ』というのがあいつのフルネームだとわかった。さっさと着替えを終えて一人で教室を出た俺は、体育館へ向かう間ずっと口の中であいつの名前を繰り返した。が、やはり全く覚えが無い。『一番の親友』の名前なら何度も呼んでいるはずなのに。
 自分の感覚を信じるなら、俺はあいつのことを知らない。まさか、記憶喪失? そんなわけない。俺は自分のことも学校のことも原やクラスメイトのこともちゃんと覚えている。ただ、あいつだけが存在しないのだ。そんな都合の良い記憶喪失なんてあるか。
 とりあえず、こんな訳のわからない一日が早く終わればいい。そう願いながら俺は体育館に入った。
「じゃあ、ストレッチするから適当にペアを作れー」
 授業が始まり、先生の号令でハッとした。そういえば、あいつ言ってたよな。「一緒の組になろうな」って。
 俺は周囲を見回して原を探した。が、遅かった。
「鼎ー!」
 背後からバカに明るい声で呼ばれ、俺はおそるおそる振り返る。てっきりバレーやバスケで作る組のことだと思っていた。それなら人数も多いし、あいつと距離を置けるだろうと安心していた。
 眩しいくらい輝く笑顔で駆け寄ってくるコハクに作り笑いで答えて、俺は小さく溜息をついた。
 少なくとも、こいつは幽霊の類ではない。呑気にそんなことを考えながらコハクの肩を背後からグイグイ押す。床に両足を開いて座り、反動をつけて伸びている様子を見るにしても怪しい感じが全くしない。明るい色の髪の毛、白くて滑らかな首筋、手の平に伝わる筋肉の感触、体温、息遣い。やっぱり、ちゃんと人間だ。
 先生から交代の指示が出され、コハクは嬉しそうに俺の背後に回った。
「今度は俺が押す番ね」
「……あんまり強くするなよ」
 警戒しつつそう言うと、コハクは頷いて静かに俺の肩を押した。
「楽しいな」
 呟くようにコハクが言った。
「ただの柔軟だろ」
「それでも。楽しいんだよ」
「……お前って何なの?」
「え?」
 聞き返されて、何て答えようか数秒考える。誤魔化そうかと思ったけど、やめた。そんなことをしても意味が無い。だって、きっとこいつは明日も教室にいるんだから。
「その……、怒るなよ?」
「うん」
「急にこんなこと言われて驚くかもだけどさ。俺、お前のこと全く知らないんだよね。記憶からすっかり抜けてるみたいで――」
「だろうね」
 俺の言葉を遮って、急にコハクが背中にのしかかってきた。そして、身を強張らせる俺の耳元で内緒話をするように囁いた。
「こんな子供騙しが鼎に通用するとは思っていないよ」

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