「其の時、アダムとイブはその実を口にした」
「……其れは困ったね。今すぐ何か食べに行こうか、と言いたい所だけど、僕も生憎、お金を持ち合わせてないんだ」
「いや!気持ちだけでも嬉しいから、ありがとう」
いつしか、敦は少年に全てを話していた。
孤児院を出てから初めて親身になって、自分の話を聞いてくれる少年に。自分は孤児院を追い出され、腹が減っていて餓死しそうだと。あわよくば、と淡い期待を抱いていたが、直ぐにその考えは無くなった。
「あ、そうだ。名前!名前を聞いてなかったよね。僕は、中島 敦」
自分と同じく一文無しだと言うのに、案じてくれた優しさに申し訳なく思って、別の話題を振ることにした。しかし、この少年。初めて逢ったはずなのに、不思議なことに懐かしさを感じる。自分の境遇を考えれば、出会う機会など早々ない。ただ道ですれ違ったにしては、足りない。
例えば、植物に花芽が形成され、発達して大きくなり、その後開花するまでの間。大分後だろうな、と思って過ごしていた日々の出来事が、あっと言う間にやって来た。そんな時間の感覚だ。記憶を辿って見ようとしたが、思い出すことを邪魔するように、脳内に霧が架かって歯痒い。
一度、思い出すことを放棄して、少年を眺める。
一目見た時から感じていたが、本当に綺麗な人だ、と思った。耳元から肩へかけて、編み込まれた銀髪に、端整な顔立ちをより一層引き立てる、真紅の双眸。膝の上に置かれた指先は細く、すらりと長い脚が伸びている。
自分の名前を聞いて、うんうん、と頷いている姿も様になっている。もしや、天から降りて来た天使なのかもしれない。そんな冗談を考えていると、宝石のように紅い瞳が優し気に細まった。
「敦君か。いい名前だね。漢字はどう書くんだい?」
「えーと、中秋の中と島国の島で中島。敦はこうやって書くんだけど」
敦は自分の名前の漢字をどう書くか、何てことを聞かれたことが一度もなかった為、不思議に思いながら近くに転がっていた小石で地面にその漢字を書いた。
敦、と最後の一画を綴り、これでどうだろうか、と顔を上げる。
「漢字も綺麗なんだね」
「きっ、きれ―――」
不意打ちだった。顔を上げるとそこには、蕩けるような甘い微笑みを浮かべる少年が居た。只でさえ褒められることに不慣れな敦は、大きく跳ねる心拍数が、隣に居る少年に聞こえてしまわないか不安に思う。せめてもの誤魔化しにと、敦は少年の名前を尋ねた。
「っ、君の名前は?」
「……ああ。そうだなぁ」
「――うん。僕は、珀兎。紬藤 珀兎。よろしく敦君」
これが、敦と珀兎の初めての出会いだった。