天才は幼馴染と野球から逃げられない②



「ここ野球部ないはずじゃ…」


 都立高校に進学して二日目。
 放課後の帰り道。ついに幻聴が聞こえるレベルで、俺の耳がおかしくなったのかと思った。
 忘れもしない。血と汗が滲む程、毎日毎日練習して聞いたバッティングの音。瞼を閉じるだけで思い浮かぶぐらい、こびり付いて離れない。
 野球は辞めただろ。駄目だ、行くなと脳が否定しているのに、吸い寄せられるように身体は勝手にグラウンドへ歩いて行く。

「清峰葉流火と」
「要圭…?」

 そこで目にしたのは、球を投げる清峰とバットを構える要で。思わずフェンスを掴んで目を奪われていると、何かが転がり落ちてきたのか金網越しに足先に当たって止まった。当たったのはボールだった。反射的に目で追って、転がってきた先を見て固まる。――おいおい、嘘だろ。ただでさえ、悪夢のようなバッテリーがいるだけで最悪だっていうのに。
 俺はさらに二、三歩足を進めて、目の前で立ち止まった。


「――っ、…雲母真白……!!」


 絶望が、そこに、いた。

 瞬間、脳裏が焼き尽くされる。
 忘れたくても、忘れられない。リトルシニアの夏季大会。先輩たちにとって最後の夏――…。次の試合は、有名なバッテリーがいる宝谷だった。どんな怪物だろうが、俺が関係なくぶっ倒して先輩達と甲子園に行くつもりだった・・・
 試合当日。俺は人生初めて「打てない」と思った。
 一つも掠りもせず三振に終わった初打席。真っ先に浮かんだのは賞賛に近い感覚で、その後からじわじわと襲う絶望。それだけで、終わればよかった。

 そいつは、俺と同じポジションのやつだった。
 守備も送球も上手くて、正直化け物染みた反射神経だと思っていた。攻守が代わって、3番打者の要がバットを構える。塁には一人立っていた。要の打ったボールは空高く飛んで行き、ツーラン。なのに、要は喜ぶそぶりも見せず真顔だった。先輩に向かって励ましの声を掛けるも内心苛立ちだけが、ただ募っていく。
 次の打者は、清峰の調子がよくないせいか、4番はそいつだった。バッターボックスに立つ雲母を守備位置から眺める。
 ――まるで、灼熱の太陽が見下ろしているようだった。

「ははっ……」

 思わず渇いた笑いが溢れる。俺の位置でこれだ。それを真正面から受ける先輩はもっと苦しいはずだ。重苦しいプレッシャーに、全身が心臓になったかのようで、額を冷たい汗が伝った。ばくばくと激しい脈拍と自分の呼吸音しか聞こえない。あっ――…、と思った時には遅かった。追い打ちをかけるかのようなホームラン。
 完全に、俺の上位互換だった。宝谷の雲母。俺と同じショートで、同じ学年で圧倒的な才能を前に、足が、竦んだ。
 正直、そこから先は覚えていない。頭が真っ白になって、指が動かない。妙に引っかかって、ようやく動いた指の一本に押し出されたボール。暴投・・。暑さで火照った身体が、一瞬にして冷めていく。焦燥感に駆られ、走り出した時にはもう遅く。俺が、先輩達の夏を終わらせてしまった。



「…あー、何?」


 都立にさえ行けば、先輩の顔も野球にまつわること全部、きれいさっぱり忘れられるはずだ。そう思っていたのに、そんな男を俺は見下ろしている。
 まさか、雲母から声を掛けられるとは思わなくて、俺はフェンスを掴んだまま固まってしまった。雲母は滅多に口を開かないことで有名だった。話すのも幼馴染だけで、唯一視線が交ざり合うのはバッターボックスに立った時のみ。だから、俺は未だに雲母が目の前に存在することが信じられずにいる。心のどこかで、俺は白昼夢を見ているのではないか、と現実を受け入れられない。少し遅れて、隣に同じようにグラウンドを眺めるやつに気付いて、そこで我に返る。

「なんでテメェがッ…!!あいつらも都立ここにいるんだよ!?」
「……ごめん」
「あっ、いや」

 別に謝らせたいわけじゃなかった。俺は、雲母が嫌いじゃない。
 俺が荒れていた時期も、雲母は幼馴染と何食わぬ顔で野球を続けていて。勿論、同じポジションで妬みも嫉妬心もあった。けれども大半を占めるのは憧憬と尊敬で。それこそ、雲母が載っている野球雑誌や新聞をこっそりと集めるくらいには。地区大会も甲子園も目に入らないようにテレビも何もかもぶっ壊したのに、それだけは捨てられずにいる。
 野球は辞めた、それは変わらない。それなのに、憧れを前にして喉に言葉が引っかかって思うように話せない。我ながらどうかしている。今時の小学生だってまともに話せるのに。

「どうしたの、真白ちゃん」
「圭」
「あっ!もしかして、見学しに来たの?一緒にやる?」

 雲母が俺と話していたからか、要が振り返って俺と隣のヤツを見た。その背後から、どすどすと効果音が付くように歩いてきた清峰が、長い腕をぬるりと伸ばし雲母の襟首を掴んで、俺から遠ざけるようにフェンスから離す。
 ばちり、と目が合って牽制されたことに気づく。 まるで自分の獲物を奪うなと言わんばかりの、威圧的な鋭い目付きで。

「あ、あの…富士見シニアの千早瞬平君と大泉シニアの藤堂葵君ですよね!?」
「だったらなんだよ」
「硬式やってました?」

 まさか、俺を知っている奴が居るとは思わなかった。それにしたって頭が追い付かない。何で雲母もクソバッテリーも都立に居るんだよ。帝徳や他の有名校からも腐るほどスカウトが来ていたはずだ。

「なぜ都立なんですか?貴方達三人なら、全国強豪校から引く手あまたでしょう」
「圭が都立ここ受けるって言うから」
「近かったから!徒歩5分よ、いいっしょ」
「え?」

 俺の気持ちを代弁するかのように、千早が疑問を口にした。返ってきた清峰と要の答えにまた頭が痛くなる。意味が分からねえ。要が行くと決めた高校だから、家から近いからという理由だけで、スカウトも何もかも蹴ってお前らは都立に入学したのかよ。黙り込んでいる雲母も大方、清峰と要と同じ理由なのだろう。
 要に賄賂を渡され、キャッチャーをやっていた奴に期待を込めた眼差しを向けられる。コイツらと幼馴染の雲母には悪いが、これだけは言わせてもらう。

「野球はもう、やんねーよ。地区大会も甲子園も絶対に目に入らねェように、テレビも録画機器も全部ぶっ壊した。テメェらクソバッテリーの面だけは二度と見たくなかったんだよ」
「その点に関しては俺も同意見です。あの時・・・は完全に抑えられちゃいましたね。俺の実力が足りなかっただけですし、別にどうということもないのですが、二度と会いたくない人っていますよねぇ」

 俺も、千早も、少なからず目の前のコイツらが理由で野球を辞めた。
 推薦を蹴ってまで都立に来て、今さら野球はやらない。そう決めたのに、少しでも揺るぎそうになる気持ちを誤魔化すために、ボリボリ頭を掻く。
 要もそんな空気を感じとってか、唐突に意味が分からない話題やらお菓子を進めてきたり、ツムツムやる?だとか聞いてくるが、何と言うか、アホっぽい。敵チームで要と喋ったことが無かったのもあるだろうが、あの智将捕手とイメージがかけ離れすぎている。

「お前、本当に要か?」
「確かに、試合中とかなり印象が違いますね。もしかして、俺達のことおちょくってます?」

 そう思っていたのは、俺だけでは無かったらしい。千早も困惑気味に身を引いている。そこで語られた、智将と呼ばれる要圭がここまで激変した本当の理由。
 目の前で涙を流しながら土下座する要を前に、俺達は脱力してしゃがみ頭を抱え込んだ。

「…記憶喪失?」

 記憶喪失って本当にあるんだな、とどこか他人事のように何となく理解はした。すぐには信じられないが、目の前の光景と雲母が否定しないのならそうなのだろう。


「千早君、藤堂君!野球部入ってくれませんか?こんな凄いメンツが集結して、これって運命だと思うんですよ!だってもしかしたら、こ――」
「俺は野球は辞めた・・・


 ――甲子園。
 その言葉が紡がれる前に、無理やり言葉を被せる。瞼を瞑って脳裏に浮かぶのは、先輩の涙を流す姿。それだけで指先がすっと冷たくなって、動かなくなる。俺がしてしまった現実は覆せない。そんな俺が野球をする資格はない。
 それに、遊撃手なら雲母がいるだろと言いかけて、言葉を呑み込む。


「未練も悔いもねぇ。だから都立ここ選んだんだ」


 グラウンドに座って付いた土を払うようにズボンを叩いて、千早と立ち上がろうとした。――が、それよりも先に動いたのは雲母だった。魅了され石化したかのように身体は固まり、浮いた尻はもう一度地面へと戻る。
 ざっと、野球をするには不釣り合いなローファーが土煙を起こし、足音が近づいてくる。雲母も、野球をしろと言うのだろうか。いいや、野球は辞めた俺に何の価値も無い。無価値の存在なんぞ、一ミリも興味などないだろう。雲母にとって、俺は知らずに踏みつぶされる蟻と変わりない。自分で考えておきながら、突きつけられる現実に首を絞められ恐怖で呼吸が荒くなっていく。
 足音が、目の前で止まる。
 向けられるのは、失望か無関心か。引き寄せられるように、怯えながら緩慢な動きで顔を上げる。

「……っ」

 美しい魔王がそこにはいた。
 長く艶やかな漆黒の髪に、すらりとした手足。俺を映す双眸、それは球児に降り注ぐ、赤い、灼熱の太陽。光に照らされ黄金色に煌めくその瞳に、何度、何度焦がれたことか。
 なのに、俺に向けられたその瞳はかつての輝きを失い、色褪せ曇っていた。
 

「お前もそうなのか」


 顔を僅かに歪ませ、ぽつりと呟いた雲母を前に頭が真っ白になる。雲母のお前も、が何を指しているのかは分からなかった。けれども、雲母にそんな表情をさせてしまった自分にふつふつ沸き上がる苛立ち。不安定に揺れる存在を繋ぎ止めようと、自分より高い位置にあるその白い腕をぐ、と掴んで引き寄せようとした。
 そんな時だった。清峰の口から挑発に似た言葉が発せられたのは。条件反射で振り返れば、敵意に似た鋭い眼差しを清峰に向けられる。
 言葉は必要なかった。千早とジャンケンをして俺が勝った。制服の上着を脱いで、先に打席に立つ。一打席の真剣勝負。記憶喪失の要に代わって、山田がミットを構えながら謝ってくるが仕方ないことだ。そもそも、この勝負にド素人なんざお呼びじゃない。

 凪いだ清峰の瞳に、かつての試合の記憶が呼び起こされる。ああ、クソ。俺はここで負けるわけにはいかない。バットを握る手が無意識に震えて、一呼吸し構え直す。


「――タンマ!&チェーーンジ!!」


 いよいよ、清峰が投げる。そんな時、要が大声で制止した。自分で山田と捕手を交代すると言ったわりに、防具を身に纏ってブツブツ文句を言って喚く要に少し、――嫌、めちゃくちゃイラつく。だというのに、そのおかげで肩の力が抜けたのは違い無く余計に苛立つ。記憶喪失だとほざく要を相手にしていると、調子が狂う。
 それに、と少し離れた場所で千早の隣に立つ雲母を横目に見る。雲母に、あの時のような情けない姿を見せるわけにはいかない。

「あ、真白ちゃん!ヤマちゃんも一つ頼みがあるんですわ」
「え…何?」
「俺を二人で優しく支えてて。じゃないと俺、吹き飛ばされちゃう」
「圭、簡単に人間はふっ飛ばない」
「そんなこと言わないで!お願い、真白ちゃん!」

 はあ、と要の押しに負けた雲母が、要の背中を支える山田の隣にちょこんとしゃがむ。たったそれだけで、それまで緊張していた要の雰囲気が和らいだ気がするのは気のせいだろうか。
 雲母が真後ろに居ることで、俺まで気分が高まる。
 早く投げたそうにそわそわした清峰を見て、要がミットを構える。初球。清峰を挑発する為だけの、全力スイング。二球目は目で追い、三球目。恐らく全力投球であろう球に、バットを全力で振り上げる。豪快に飛んで行ったそれを眺めながら、清峰にバットを向ける。


「ま、60点だな。長打も打てる1番、遊撃手。藤堂葵様だ、覚えとけコノヤロー」


 ホームランを打たれて眉間に皺を寄せる清峰を、はっ、と鼻で笑う。勝負は俺の勝ち。だというのに、ピッチャーを体現したかのような我儘で負けず嫌いな性格の清峰は、問答無用で球を投げ、反射的に打ち返してしまう。投げんな、と制止しても飛んでくる球に吠えていると、真横を風が通り過ぎていく。
 ――クソ速ええ。
 走り出したのは千早だった。運動靴でも何でもないローファーを履いて、あの俊足。俺の打った球の落下地点に滑り込んで、キャッチするとワンバンで清峰に投げ返す。


「肩はないのでワンバン。一応俺の売りは脚ですが、器用貧乏になんでもこなしますよ。一番二塁手、千早瞬平です」


 千早と被る背番号を少し気にしつつ、浮ついた気持ちのまま振り返って雲母を見下す。
 雲母に俺の活躍を見て欲しい。その視線を独占したい。それは、子供が親に褒めて貰いたい欲求に似ていた。俺の視線に気付いた雲母が、顔を上げ清峰から俺に視線を寄越して目を細める。


「お前、なんか楽しそうだな」
「……――は、俺が?楽しそうにしてたか?」
「うん、すごくいいと思う」


 そこからは正直、何も覚えていない。要が何かを言っていた気がするし、清峰に名前を呼ばれた気がする。そう浮つく気持ちを誤魔化すも、本当は覚えていた。殺したいぐらい憎くて仕方がなかった男に、名前を覚えられた。
 悔しい気持ちはある。けど、それでも強い奴に認められた現実が嬉しかった。何よりも、あの雲母と話せたことに柄にも無く舞い上がってしまう。ああ、クソ。勝手にニヤつく口元を覆い隠して、照れを隠すように俺は足早にグラウンドを去った。



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