天才は幼馴染と野球から逃げられない



「…――嘘だ」


 その姿を視界に捉えた途端、僕は時間が止まったように絶句した。
 どうしようもない衝動が喉元からせり上がってきて、まるで夢を見ているかのような現実に、拳を強く握りしめて、過去の苦い思い出を思い出す。



 野球漫画のドカベンが好きな親父に悪ふざけで主人公と同じ名前を名付けられた僕は、何の因果か野球をしていた。
 親父が野球が好きだったこともあり、そんな環境下で育った僕は少しだけ上手かったし、どんな小さなことでも褒められ、何よりも皆より先にいる自分に優越感を感じ、所属していた弱小シニアではお山の大将だった。
 そんなある日、宝谷シニアと試合をして僕は完全に目が覚めた。
 圧倒的フィジカルからくり出される140キロのボールと、そんな投手の球を捕球する冷静沈着な智将捕手。清峰葉流火と要圭の怪物バッテリー。バッターボックスに立った瞬間に分かった。――ああ、打てないと。それからも僕達は空振り三振が続き、絶望の中で攻守交代を行う。守備に回って、せめて失点を抑えようと意気込んでいたのに、悪夢・・はまだ続いた。


「1番ショート、雲母君」


 1番打者が打席に立つ。
 宝谷シニアのユニフォームに身を包む彼は、汗が頬を伝うだけで息を呑むように綺麗で、一瞬まぶしさを感じる。僕と同じ炎天下で野球を行っているとは思えないほど肌が白く、何よりも目を惹くのは他者を圧倒するような赤い瞳。顔立ちが整っていて、それでいてピクリとも動かない表情はかなり雰囲気があり実年齢より少しだけ、大人びて見えた。多くの期待と重圧が襲いかかる中、雲母君はただ静かに、バットを構えた。
 そんな美貌からは想像がつかないほどの、繰り出された豪快な音に僕は息を呑む。
 初球だった。1番打者である彼に対する警戒も大きく、厳しいコースへ攻められた球。それを、ほぼ完璧とも言えるタイミングで、バットは捉えた。


 無情にも、打球は大きな放物線を描いて青空の向こうへ飛んでいく。

 ああ、怪物・・はまだ居た。


 突きつけられた現実に、僕は野球を辞めた。
 僕だけじゃない。きっと、全ての球児にとってあの三人は絶対に忘れることのできない存在だ。高校でも野球はしない。だから僕は、野球部のない学力もスポーツも普通の都立小手指高校に入学した。きっと、今頃あの三人は名門校に入ってその先の道へ進むのであろう。
 少しだけ感傷に浸りながら真新しい制服に身を包んで、重い足取りで風に靡く桜を眺める。
 

「向こうにすごいイケメンが二人いるって」
「マジ!?見に行こ」


 目の前を歩いていた、恐らく同じ新入生であろう女の子二人が囁き合いながら駆けて行った。うわ、本当に存在するんだな。漫画のように入学早々にモテる人達が。半分は野次馬気分で、残りの半分はただの好奇心だった。一体、どんな人達なんだろう、と首を伸ばした僕は固まった。


「…嘘だ」


 彼女達の話題の中心に佇む人達はまさかの人物で、思わず声に出してしまった。


「お二人共、すごく背高いですね」
「何年生ですか?」
「ライン交換しませんか!」


 僕は息を呑んで、呆然と彼女達を眺めた。
 見間違えるはずが無い。黄色い歓声を上げる彼女達に囲まれているのは、完全無欠の超スター、清峰葉流火と冷静沈着の智将捕手、要圭。そして、その二人に挟まれるようにして立っているのは――、


 ――雲母真白。

 濡羽色の髪に、真っ白な肌に浮かぶ真紅の瞳。気だるげに目を伏せているだけで絵になる。それが、清峰君と並ぶとさらに目立った。二人とも長身で、僕が野球をしていなかったら雑誌モデルと勘違いしてしまうくらいに、そこだけ世界が切り取られたかのように輝いているように思えた。
 いやいやいや、ありえない。ここは野球部の無い都立で、彼らは名門私立に特S推薦を貰っていた。でも、それでも頭の中で否定していても内心では現実だと理解していて。ぼんやりとした淡い記憶が鮮明に形を変え、聞こえるはずの無いバッティングの音が聞こえる。口はからからに渇いて、地面に縫い付けられたかのように身体は動かない。
 その姿に魅了された、横を通り過ぎる生徒もチラチラと視線を送っている。


 お願いだから、悪い夢なら早く覚めてくれ。


「助かった~、女子が誰一人俺に話しかけてくれねぇんだもん!」


 そう思った矢先、あの智将が肩を組んできた。いや、え?初めて話すのに、馴れ馴れしく友達だと絡んでくる要君に少し驚く。さらにマブダチ記念に見せてくれた一発芸に困惑した。豪快な手振りで見せられたパイ毛。あの冷静沈着な捕球やリードをする智将のイメージとはかなりかけ離れている。
 僕は本当に夢を見ているのかもしれない。
 仮に本物の要圭だとしたら、言葉は悪いけど頭が悪い。憧れを抱いていた分、ショックが大きい。

「圭、その人誰?」
「……。」
「あ、山田太郎です」
「ドカベン?」

 うっとりと二人に釘づけの女子達の中を通り過ぎて、清峰君と雲母君が目の前に立つ。僕の身長からすると、いざ目の前に二人が立つと電柱がそびえ立つようだった。一見気難しそうに見える清峰君だったけど、意外と話すんだな。逆に、雲母君は人と関わるのを拒むように地面に視線を落としている。

「清峰さん?さっきの女子達どうしたの。ライン交換した?」
「うっとおしいから二度と俺達に近付くなって言った」

 いや、酷いな女子相手に。それじゃあ好感度ダダ下がりだよ。でも、僕には気になる事があった。彼らを見てから感じていた疑問を、勇気を振り絞って口を開く。

「あの…っ、そんなことより…!」
「ヤマちゃん!?」
「君達、宝谷シニアの天才バッテリー清峰・要コンビ、ショートの雲母君だよね。一体どうして、こんな野球部もない都立に居るの…?」

 ――途端、真剣な表情から一変して変な顔をする要君。はあ、こっちは真剣に聞いているのに何だか気が抜ける。要君は深く溜息を吐いて、ピク、と雲母君が伏せていた顔を僅かに上げた。要君はポケットに突っ込んでいた手を取り出し、考え込むように手に顎に置く。
 雲母君はそれを見つめた。


「はぁ、も~!野球野球って、皆その話好きよね。でも、俺やったこと無いっつーか、覚えてないっつーか」
「圭」
「いいよ、真白」


 その次の言葉に、僕は耳を疑い、言葉を失った。


「ぶっちゃけ俺、記憶喪失なのよね」


 嘘だろ、と思った。いきなり記憶喪失だと告げられて、はいそうですかと信じられるわけがない。要君は、想像していたよりもずいぶんと印象が違った。グラウンドで見た要君は、冷静で正に智将って感じだったけど、マスクを外すと案外アホな人だ。だけど、いつになく真剣な表情で清峰君が要君はもともとアホだったと語る。少ししか話してないけど、けれども、彼がまじめな顔をして冗談を言うタイプではないことは分かっていた。
 信じざるを得ないのだ。
 厳しい規律と過酷な鍛錬が、残酷な競争社会が、正捕手という立場が彼を野球の面白さに目覚めさせ、要圭を変えた”野球”を失ったことによって、アホな部分が解放されてしまったことに悲嘆に暮れる。それを知った後、なおさら初対面の僕にこんな嘘をつく必要がないから頭を抱えた。


「そっか。じゃ、じゃあ雲母君は?」


「……やらない」

 そう、彼は小さく呟いた。
 ふと小学生の頃を思い出した。正確には、小学生の頃の雲母君と同じサッカークラブに通っていた友達のことを。小学校の時、特に仲の良い友達がいた。友達はサッカーを、僕は野球をしていたけど、そんなことは関係なくて時間さえ合えば遊んでいた。
 彼は新しく入ってきた子が凄いんだと、まるで自分のことのように無邪気に話していた。
 あいつにポジションを教えたと、リフティングのコツを見せてあげ、シュートとドリブルを、面倒見の良い彼はスポンジのように吸収して上手くなってい彼と試合に出れる日が来るのが嬉しかったと言っていた。

 彼は、チームでも期待されたFWだった。次の試合も自分がそうだと、信じて疑わなかった。
 そして迎えた、次の試合。
 次々と背番号とポジションが読み上げられ、FWに選ばれたのはその子だった。監督はその子の1トップでいくと、そう言ったらしい。彼はその子をアシストする為にMFにポジションの変更を余儀なくされた。後から始めたはずの才能が、地面から根を張るツタのように伸び、背後に迫り足元に絡み付いて、喉を締め付ける。幼いながらに感じた嫉妬心。けれども、妬むことはできなかった。その子が、同じ練習をして純粋に自分を慕い、ついて来てくれたから。
 でも、ある日我慢が爆発した。


「いいのかよ、FW譲って」
「…ほんとは嫌に決まってるだろ。でも、仕方ないじゃん。あいつが居る限り――」
「……っ」
「――あっ!!ちがっ、」


 同じチームの子とたまたま話していた愚痴を、偶然通りかかってそれを知ったその子は、次の日からクラブに来なくなり、やがて辞めたそうだ。彼はその時のことを酷く後悔していて、少し寂しそうに名前を呼んでいた。その子の名前は確か、――真白・・。雲母君と同じ名前だ。友達が話していた雲母君の特徴とも容姿が一致している。何となく、察してしまった。
 光り輝く才能の原石が、圧倒的な才能に翻弄される凡人によってひび割れ、このまま誰にも見つからず、砂埃に隠れて才能が死んでしまう……。勿体ないと思った。要君が記憶を失ってやる気を失くしたのか、それとも前者の理由ならばどうにももどかしい。
 僕も圧倒的な才能を前にして野球から逃げた一人ではあるが、このまま『雲母真白』という男が薄汚い感情に押し潰され、一生を終えるのではないかと懸念する。
 ──彼は何も悪くない。雲母君は純粋に、ただ好きにサッカーをやっていただけであって、上手い人間が選ばれるのは自然なことで、しがらみも何もなく楽しんでいたのだ。
 才能の塊である天才も、一人の「人間」であり苦悩もある。


「野球はもうやらない」


 かちり、と赤い瞳と視線が交差する。
 初めて、雲母君と目が合った。
 感情の無い虚ろな瞳で、雲母君はじっと僕のことを見つめていた。その目は、野球の練習が終わり通った帰り道、電車を待つ間見上げた夕焼けのように不思議な静寂。遠くから聞こえる踏切の音が不安を煽り、目の前を通り過ぎて行く。
 ほんの少し雲母君は俯き、その拍子に顔に影が落ちる。


 あ、まずい。


 このままじゃ、本当に雲母君は死んでしまう。


「だ、だめだ…!」
「え?」
「真白は辞めちゃダメ!!」


 要君は、自分でも何でそんなことを言ったのか分からないようだった。ただ、衝動に駆られたように、切羽詰まった表情を浮かべた要君は腕を引っ張るようにして、背後から雲母君を抱きしめた。そのまま彼の背中に顔を埋めた要君は、ぎゅうぎゅうと抱き締める力を強めたのか、僅かに雲母君の顔が歪む。
 記憶を失ってもなお、要君は無意識に大事なことを覚えているんだ。
 いきなりのその行動に驚かされつつも、彼らの絆に心がじんわりと暖かくなって涙ぐんでいると、むすっとしかめっ面をした清峰君が雲母君の首根っこを掴んだ。


「そうだ。真白は俺と圭と野球をやれ」
「……嫌だ」
「知らない。おい、行くぞ」
「…わかったから引っ張るな。ちぎれる」


 嫌だと口にしながら、無抵抗にずるずる引き摺られていく雲母君が少し可愛く見えてついつい顔が緩む。清峰君はただ、雲母君と要君と野球がしたいんだ。
 そのままどういう分けか、色々な部活の勧誘の中、無いと思っていたはずの野球部に声を掛けられ、清峰君に誘われるがまま入部届けに名前を書いて、辞めると決めていたはずの野球部に入部していた。

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