天才は幼馴染と野球から逃げられない



「圭、」


 圭が入院した。

 そんな連絡を受けた俺と葉流火は、気が気じゃなかった。
 知らされた病室の扉を開けると、そこには人の気も知らないで、圭はベッドの上でバナナを呑気に頬張っていた。最近まで強張った石像みたいな顔をしていたのに、打って変わって憑き物が落ちたかのようにポカンとしている。本気で心配していたのに、その間抜け面は幼い頃の圭に戻ったようで開いたままの口を急いで閉じる。
 走って病室まで駆け付けたおかげで、身体はじわじわと熱がこもっていた。よかった、と思う反面、心臓は早鐘を打っている。
 でも、無事で安堵した。早く退院して、いつものように三人の日常に戻る。


 そう思っていたのに、



「あり?君達、誰だっけ」



 俺達を見て圭の口からこぼれた一言に、手に持っていた見舞いの品がとさりと落ちた。
 今、俺達が誰なのかと言ったのか。言葉の意味が理解できない。揶揄っているのかとさえ思った。圭はアホだ。ボールに黒マジックで本当にうんこボールと書くくらいには。でも、それでも圭はふざける時は、時と場所をわきまえる。
 俺も葉流火も、状況を理解するのに時間が掛かって病室に静寂が流れた。



「あの、さ……俺、記憶喪失らしくって」


 衝撃の余り固まる俺達の前で、バナナの皮をゴミ箱に投げた圭がおずおずと双眸に俺達を映す。無意識に、俺は指先が白くなるほど手を力強く握りしめた。圭のその表情は冗談を言っているようには見えなくて、それでもまだ現実味を感じられない。
 助けを求めるように、右隣に佇む葉流火を見上げると、すり、と握り締めた掌を優しく解かれ、指を絡められる。


「……本気か圭」
「…あれ?でも、そっちの君はなんだか見たことある気がする。名前は?」
「真白。隣のコイツは葉流火」
「……っ」
「――圭?」

 そう名乗った瞬間、頭が痛んだのか顔を歪ませた圭が片手で額を押さえる。



「おい、大丈夫か?」



 何か思いだしたのか。思わず俯く圭の肩に触れると、腕を引っ張られた。病人のベッドに倒れ込むわけにもいかず、片膝を付いて崩れそうな体制を堪えると、鼻先が触れそうな距離感に、びくりと体が強張った。
 風呂も寝泊まりもしたことはあるが、こんな至近距離になるのは初めてで、どうしていいか分からず固まる。圭は圭で無言で眉尻を下げて、まじまじと俺を見つめていて。


「真白」


 熱を孕んだ吐息が、耳朶をかすめた。かき抱くように引き寄せられ、腕の中に閉じ込められる。いきなり何をするんだと、驚いて抗議しようと顔を上げると、圭の瞳から、ぽたぽたとこぼれ落ちた雫が俺の肩を濡らす。
 ――何故。どうして、記憶がないんだろ。
 そんな感情が脳裏に浮かんで、触れ合った肌から伝わる圭の鼓動に言葉を呑み込む。縋すがるように震える声で、記憶を無くす前みたいに名前を呼ばれて、どうしようもない感情をぶつけるように圭の胸元に顔を押し付ける。


 このまま、圭は俺達と過ごした16年間を忘れているのだろうか。

 いつ思い出せるかもわからない。それは、明日かもしれないし、10年経ってもそのままかもしれない。でもさ、もう一度傷ついた圭を見るくらいなら、覚えていないのなら、無理に思い出す必要もない。記憶が無くても、圭は圭だ。また一から始めればいい。



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