元生徒副会長は転校生と邂逅する
ぽたり、と靴に落ちる水滴。
湿度が上昇し雨天の続く空。今年もこの季節がやって来た。
夏の暑さに茹っていた草木が、降り注ぐ雨を浴びて生気を取り戻し始め、道中には紫陽花が咲き誇る。蝸牛も喜んでいることだろう。
「ねえ、あれ」
「あ、前原じゃんか」
帰り道が同じの潮田達と歩いていると、岡野と杉野が立ち止まって指を指す。傘で隠れた視界を上げ、その先を視る。
同じ傘に入り、並ぶように歩いているのは前原とC組の土屋。
「はっはー、相変わらずお盛んだね彼は」
「ほうほう」
前原君駅前で相合い傘っと――と、まるでストーカーの如く、電柱の影に隠れメモを取る黄色い生物。コイツの場合、普通のゴシップ記者よりたちが悪いのは、捏造も無しに忠実に書き取るところだ。
「あれェ?果穂じゃん。何してんだよ」
水溜りに気付き土屋の肩を抱き寄せた前原に、盛り上がっていた黄色い生物に引いていると、土屋の名前を呼ぶ声がした。
土屋が駆け寄った先は、懐かしい顔ぶれだった。
生徒会議長の瀬尾に、荒木。
「せ、瀬尾君!!生徒会の居残りじゃ……」
「あー、意外と早く終わってさ。ん?そいつ確か――」
瀬尾の視線が前原に向く。関係を指摘されると、焦ったように瀬尾へ取り繕う土屋。何だか雲行きが怪しくなって来たな。
「あー、そゆことね。最近あんま電話しても出なかったのも、急にチャリ通学から電車通学に変えたのも。で、新カレが忙しいから俺もキープしとこうと?」
「果穂、お前」
前原にも瀬尾にも疑いを抱かれ、否定を繰り返し続ける土屋。しかし、急に前原を指差し、不審感を取り除くために必死に弁明し始めた。
言っていることは、全て支離滅裂。
「……お前なぁ、自分のこと棚に上げて」
流石に前原も癇に障ったのか、抗議しようとする。
「わっかんないかなぁ。同じ高校に行かないっててことはさ。俺達お前に何したって後腐れ無いんだぜ?オラ、ちゃんと礼言えよ果穂に。同じカサに入れてもらったんだから―――よッ!」
「―――ぐッ!?」
次の瞬間、瀬尾が前原の腹部を蹴り飛ばした。沸々と怒りが込み上がって来る。他人の色恋沙汰に首を突っ込むつもりはないが、これは別だ。
傘を放り出し、前原の元へ向かおうとしたその時。
「やめなさい」
その場を収束させるだけの圧迫感を含んだたった一声が、動きを制止させた。
「り、理事長先生!!」
「駄目だよ暴力は。人の心を今日の空模様のように荒すさませる」
降りしきる雨の中、黒塗りの高級車から降りて来た理事長は、傘も差さずに前原の前に跪く。スーツが雨粒を吸収し、色が変わり行くのも気にせずに懐から取り出したハンカチを前原に差し出す。
「これで拭きなさい。酷いことになる前で良かった。危うくこの学校にいられなくなるところだったね、君が」
前原の耳元で、何かを囁いている理事長。陰に隠れてその顔は見えない。
「お、おい。何かこっちに来てないか?」
杉野の言う通り、何故か理事長は俺達のいる方へ歩いていた。この人だけは、本当に行動が読めない。一定の距離まで近づくと目を細め、警戒を怠らない。
ふいに視界の隅に理事長が映り、通り過ぎる。
「理解できたかな」
通りすがりに囁かれた言葉は、打ち付ける雨音に紛れるほど小さかった。だが、それははっきりと耳に届いた。
俺が掲げている目標は無意味だと。
「さ、風邪を引いてしまうよ」
高い位置で俺を見下ろし、地面に放り出した傘の中に俺を入れる理事長。この瞬間、周囲の音が消え二人だけの空間が広がる。
人当たりの良い笑みを浮かべる理事長を前に俺は笑う。
「分からないですね」
理事長は突然笑い出した俺に驚きもせず、踵を返した。瀬尾達も理事長が去るのを見届けると、捨て台詞を吐きながら帰路につく。
「前原、平気か!?」
「お前ら。見てたんかい」
瀬尾達の姿が見えなくなると、俺達は前原に駆け寄った。酷い有り様だ。制服は泥に塗れ、全身ずぶ濡れだ。理事長のハンカチ程度じゃ拭けやしない。
「そんなことよりもあの女だろ!とんでもねぇビッチだな!いやまぁ……ビッチならうちのクラスにもいるんだけど」
「違うよ。ビッチ先生は職業プロだから、ビッチする意味も場所も知ってるけど、彼女はそんな高尚なビッチじゃ無い」
潮田の意見は的を射ている。土屋がいい例だ。
罪悪感に駆られ、保身を護る為に他者を虐げる。自分より地位の低い者を、弱者と侮り見下す。自分が正しいと勘違いして、何でも正当化する愚者。
「人って皆、ああなのかな。相手が弱いと見たら俺もああいうことしちゃうのかな」
小さく震える声で呟かれた言葉に、眉間に皺が寄る。俺は前原の正面に座り込むと、いつぞやの仕返しに髪の毛を掻き回した。
前原side
「顔を上げろ」
命令口調にも聞こえるその声は、落ち着いていてどこか心地よかった。
「……何だよ」
「お前は今、虐げられる側の気持ちを知った。そのように変貌するのを恐れる必要はない。前原陽斗、お前はそんなことをする人間か?」
天霧はそう言って、俺の髪をぐしゃぐしゃにする。
水色の瞳は真っ直ぐ俺を見ていて、それは全てを洗い流す雨に見えた。
「ほら、男前。いつまでも座り込んでいる。せっかくの男前が台無しだろう」
優しく微笑んで天霧は俺の手を掴む。地面に座り込んでいた俺は、されるがままに立ち上がった。
「そうです。前原君はそんなことをしません」
水分を吸って顔を膨張させた殺せんせーが何だか笑えて、涙が止まる。
「仕返しです。理不尽な屈辱を受けたのです。力無き者は泣き寝入りをするところなのですが、君達には力がある。気付かれず証拠も残さず標的を仕留める暗殺者の力が」
「……ははっ。何企んでんだよ、殺せんせー」
「――ふっ」
湿った髪を掻き上げながら、隣で天霧が鼻で嗤う。目を細めて行われたその仕草に、どくり、と胸の奥が騒いで目が離せない。
「屈辱には屈辱を。彼女達をとびっきり恥ずかしい目に遭わせましょう」
情けない姿を皆に見せて、人間の怖さを知って、杞憂になって。
降り注ぐ雨の優しさが、冷えた心を解けさせた。