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福井さんとマリちゃん

 年が明けて2019年、僕は4月下旬から出張でブラジルに行っていた。

仕事が忙しくなり、『ゆき』にも数える程しか顔を見せていなかった。

世間では10連休だ、新天皇の即位だと騒いでいたが、縁の無い世界の話だった。

天皇の崩御のほうが仕事に影響を与えることだろう──と、1994年生まれの僕が偉そうに言うのも妙な話だ。

元号に直せば、平成6年である。

5歳年上の兄ですら、平成生まれなのだ。

さらに5歳年上のマリちゃんも昭和60年生まれの為、当時はまだ物心ついていなかったと聞いた。

その5歳年上の従兄は小学生だったので、1億の国民が一斉に2日間喪に服し、レンタルビデオ店が大繁盛したことを覚えているらしい。

 僕が帰国した時、日本時間は5月14日の午前中だった。

3日間の休暇の後、17日から仕事に戻った。

ある晩、『ゆき』で飲んでいた時に、ぽつりと福井さんが言った。

「マリエさん、お元気?」

「まあ、多分…」

「マキさんのお葬式で色々お世話になったけん、一度マミの顔を見せに行きたい思うばってん、イギリスは遠くて…」

「でも行ったじゃないか」

「そら、私の渡航歴言ったら中国かイギリスくらいだけん」

「中国?…何というか、距離が極端だな」

他人ひとのこと言えんでしょっ」

 ブラジルまで行って、と彼女はコンロにかけたヤカンのように捲し立てた。

その時、彼女の腕の中にいた姪が抜け出して、よちよちとカウンターの中を歩き出した。

「あっ、マミちゃん、危なかよ。いけん!」

 福井さんは、一人娘のことをマミと呼んでいた。

当時1歳半、店番の間は基本的に折り畳み式の子ども用の椅子に座っているか母親に抱かれているかだった。

追いかけて椅子に座らせた時、カウンターの外でグラスが割れる音がした。

「ユリちゃん、悪い。手が滑っちまった」

 音の主は、僕の右隣の席にいた常連客だった。

福井さんは血相を変えて外に出て、割れたグラスの後始末をしながら、音に驚いて泣き出した姪をあやしていた。

「ごめんな。マミちゃん、驚かしちまって」

「いや、気にさんでください」

 店の備品が壊れるなど、僕が通い始めてから1度も目にしたことがない。

このことがあったからか、妙に印象に残った日だった。

 マリちゃんの消息を聞いたのは、翌日の朝のことだった。
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