寝言はヒモ脱却してから言え!
11月2日、14時頃。箱根駅近くのアンティークなカフェで瑠奈と向かい合って座り、雑談をしている。
「久しぶりに凜ちゃんと旅行に来れて楽しかったなあ」
「そうね、私も楽しかったわ。最後に旅行に行ったのは……学生以来かしら?」
「だね、大学卒業の記念からだっけ?」
「あのときは京都いったわよね。……鈍行で」
「交通費を削るって時間とメンタルと引き換えになるってあのとき初めて知ったよね~……」
一泊二日の箱根旅行に瑠奈とともに来ていた。今日は二日目で明日からまた日常が始まる。なんだかんだで瑠奈とは10年以上の付き合いで大人になった今も旅行に来ているのが少しだけ不思議に感じながら、昔の学生だったときの青かったころの話をした。過去の話もほどほどにお互いコーヒーに口を付けたところで話題が今に変わる。
「今どう?」
「どれのこと?」
「うーん……じゃあ、まずは仕事のこと!」
「仕事ね。まあ、いつも通りよ。相変わらず派遣社員」
「でもさ、この間撮ったねこちゃんの写真、バズってたじゃない?広告収入で食べたりとかできないの?」
「んー……まあ多少はね?でも安定してないし。派遣なら副業オッケーだから続けてるわ」
「そっかあ……あのね、凜ちゃんごめんね」
「?」
「前態度悪かったというか……マウントとってた。ごめん。あのとき本当はあまり、その、妊活とかうまくいっていなくて。」
手を合わせて頭を下げてくる瑠奈に驚いて凝視する。前、確か幸喜と別れた後にご飯食べに行ったときのこと思い出す。あのときは私も余裕がなくて表面上は笑いあっていたけれど、どろどろとした感情が渦巻いた会話をしていたことを。どっちから喧嘩を売るような物言いになっていたのか覚えていないけれど、でもきっとお互い様だったと思う。
恐る恐ると私のほうを見上げてくる彼女の姿に、首を振る。
「ううん、私も……馬鹿にしたような物言いになっていたと思う。ごめんなさい」
私も頭を下げて謝罪した。少しの沈黙の後、瑠奈と目が合う。お互い情けない顔をしていて、同じタイミングで噴き出した。
「あははは、なんかこうして本音で話せたの、久しぶり」
「そうね。大人になると建前ばっかり上手くなっちゃうからね。ねえ、瑠奈」
「ん?」
「これからも友達でいようね」
「!もちろんっ、親友だもんね」
私の言葉に無邪気に笑って頷いてくれる瑠奈に、私も口角が上がる。そしてひとつ思い出がよみがえる。
(そういえば、私その笑顔が好きだったのよね)
高校生時代。私は我は強くて、いじめられているわけではなかったけれど孤立気味で。瑠奈は容姿のせいか僻まれていてハブられていて。お互い女子から好かれていなくて、何となく一緒に行動することが多かった。ひとりでいる変な目で見られる時代だったから多分利害の一致だったけれど、段々瑠奈といるのが本当に楽しくなっていた。
『写真撮るのすっごいうまいんだねえ、ついつい凜ちゃんに写真お願いしちゃうよ』
『写真なら任せてよ!私、写真家になるのが夢なの』
『そうなの?すごいね!凜ちゃんならなれるよ!私は……その、お嫁さんになりたいなあ』
『恥ずかしがることないでしょ。いい夢じゃない。瑠奈可愛いし、お弁当も全部自分で作っているんでしょ?いい嫁になるわ。……いや、私がもらおうかな』
『えー不束者ですがっ』
日暮れの二人の教室でそんな会話をした。瑠奈は覚えていないかもしれないけれど、お互いの夢を馬鹿にされずに笑いあえるあの日々がとても好きだった。だから、そっか。いくらマウント合戦になっても絶交したいと少しも思わなかったんだな。瑠奈のいいところ知っていたから。瑠奈もそう思ってくれていたらいいな。
「彼とはどう?奏斗くんだっけ?」
「明日はラーメン食べに行くの」
「誕生日それでいいの?」
「それがいいのよ。生活に余裕なんてないしね」
笑いながらそう言うと瑠奈は首を傾げるけれど、私が不満なんてないと伝えれば納得してくれた。
「凜ちゃん幸せそうだね」
「……うん、瑠奈も今幸せ?」
「どうかなあ。まあ、前よりも気遣ってくれるよ」
「そう。あまり無茶しないでね。もう一人の身体じゃないからね」
「そうだねえ。元気に生まれてくれるといいなあ」
瑠奈のお腹にはもうひとつの命を宿している。今回の旅行はこれから本当に時間が無くなる前の思い出と気分転換も兼ねてのものだった。昔のような激しさのない、無理のない穏やかな観光だったけれど、楽しかった。
お腹を擦り目を伏せて慈しむような瑠奈の顔は『母親』そのもので。
ーーパシャ。
ついシャッターを押してしまった。
「あっ、もう、勝手に撮らないでよー」
「ごめんごめん、良い顔していたからさ。ほら」
「……私ってこんな顔するんだねー」
「後で送るね」
もちろんSNSに上げるつもりはない。けれど親友の母の顔を残しておきたくなった。知らない自分の表情を見た瑠奈は感心していて、私は嬉しくなる。自分の知らない表情を魅せることが楽しい。だから写真家になりたいと夢見てここまできたのだ。心の中が充実感に満たされていると瑠奈のスマホが鳴る、瑠奈は私に断りを入れて画面を確認する。
「あ、迎えに来てくれるって」
「じゃあそれまで一緒にいるわ」
「えっ、いいよいいよ。奏斗くん待っているんでしょ?」
「親友で妊婦の瑠奈を置いていけるわけないでしょー」
「もー、みんな過保護!」
「大事だから仕方ないね」
「……私凜ちゃんが男の子だったら、絶対好きになってたわ」
「男の私?うーーーーーーーん、おすすめしないわよ。写真馬鹿だから」
「それもそうだねえ。凜ちゃんが女の子でよかったあ」
「どういう意味?」
瑠奈の旦那が来るまで話は止まず、気遣うからいいと断っているのを無理矢理車に押し込まれてそのまま最寄り駅まで送ってもらった。想像以上に瑠奈の旦那さんは優しそうで安心した。
「落ち着いたころ遊びに行くわね。元気でね」
「うん、また連絡する!凜ちゃん、良いお誕生日にしてね!」
声を掛け合い、ドアが閉まっても車が見えなくなるまで手を振った。
「ただいま、シロ」
「にゃあ」
現在の家の鍵を開けてドアを開けると、玄関にちょこんと座る小さくて真っ白な猫が出迎えてくれた。名前はそのまんま『シロ』で女の子。奏斗の働く保護猫カフェの当時推定1歳だった子。警戒心が強くてゲージから出てこようとせず、人とも他の猫とも触れ合うこともせずに、どう頑張っても奏斗にしか懐いてくれずとりあえず人馴れするためにと家に連れて帰ってきたのだけれど、対面してすぐに私に額を擦り付けてきて頭も喉も触らせてくれて、これなら問題はないのではとまたカフェに連れて行ってもまたゲージから出てこなくなってしまったという。カフェの環境が良くないのかと場所を変えてみたいして色々試してみたけれど、結局奏斗と私にしか懐かなかったみたいで、なんだかんだでうちの子になったのである。
必ず玄関で待っていてくれて、ただいま、といえば必ずおかえりと言わんばかりに鳴いてくれる。頭を撫でると喉を鳴らして喜んでくれるのがたまらなく可愛い。靴を脱いで廊下を歩くとシロが後ろからついてくる。立ちどまって振り返ると同じように止まって金色の目が見上げてくれる。やっぱり可愛い。うちの子がかわいい。そう思いながら写真を撮った。
リビングに着くとぐったりとソファで横になって目を閉じる奏斗がいた。
(疲れているみたいだし、寝かせてあげよう)
新しくやって来た猫がなかなかの曲者らしく苦労してると言っていたから、業務時間外でも職場の人とも話し合っているみたいだし、休ませてあげようと思ってそーっと扉を閉めた。つもりだったけれど、予想以上に音が大きくて奏斗の目を覚まさせるには十分だった。
「ん?ふぁ、あ、りんさーん、おかえり~」
「ただいま、奏斗。寝ててよかったのに」
「帰ってきたんだから出迎えないとねえ、ね、シロ」
「にゃーん」
同意を求められたシロは丁寧に返事をしてくれる。そう言われると何も言えなくなってしまう。
それならせめてコーヒーでも入れようと背を向けると、呼び止められた。
「ねえ、凜さん」
「なあに」
何となく何を言われるのか分かっている。そう、何度もくりかえしている会話だ。なんならヒモだったときからくりかえしている。私の返事はそのときに応じて少しずつ変わる。
「結婚しよ」
「寝言は寝て言いなさい。私たち、もう結婚してるわよ」
今は左手の薬指を見せながらこう言うことにしている。疲れていたり寝ぼけている彼は結婚しているにも関わらずこう言うのだ。ヒモ時代とは違って真剣だけれど、それでも結婚した今でもこう言うのだから、つい私は笑ってしまう。奏斗は私の言葉をかみ砕いて目の前の銀色の指輪を見つめた後、頬を赤らめた。
「あはー……、そうだったあ」
照れながら笑って誤魔化すようにシロの背中に顔を埋める奏斗が愛おしくてコーヒーのことを忘れて写真を撮った。飽きもせず突然写真を撮る私の奇行に呆れることも無く、微笑んで手招きをされる。
「凜さんもいっしょに映ってよ、ほら」
「……そう、ね」
「にゃー」
ついつい写真を撮るばかりで自分のことを撮るという発想がでない私を知っている奏斗は私に入るよう誘ってくれる。私はいらないのだと一度言ったら「みんなで一緒の方が俺は嬉しいし、凜さんが映っていると嬉しいんだよ」と言ってくれたから、誘ってくれたら何もいわずに一緒に写真を撮る。そのときだけは奏斗にスマホのインカメラで撮ってもらう。笑う奏斗とカメラ目線のシロと、ぎこちない私が映る。
気恥ずかしさがあるものの、この輪に入っている自分が誇らしいようなそんな気持ちになる。またひとつ大事なものが増えた心地よさ。自分で撮る写真は嫌いではないけれど、奏斗に撮ってもらった写真は特別なプレゼントのようで、いつもスマホのロック画面とホーム画面に迷ってしまうのは嬉しい悩みだろう。
「凜さん、これからもいっしょにいてね」
「ええ、もちろんよ」
「明日さ、やっぱりシロも行けるカフェに行こうよ。俺さ、今日のためにこっそりお金貯めてきたの。コーヒーとパスタが美味しいんだって」
「!そ、そう。ありがとう。でも私はラーメンも好きだからね」
「じゃあ、夜はインスタントラーメンにしよー」
「ふふ、麺ばっかり」
「安くてお腹いっぱいになるからねえ」
「にゃん」
話しながら奏斗の隣に座るとシロは私の膝の上で丸くなる。愛する人が隣にいて、暖かな重みを感じるこの愛しい日々がこれからも続けばいいと願う。
写真家になるという夢も中途半端で私は結局なんだかんだまだ派遣をしていて、奏斗もまだ経験を積んでいる最中で社員だけれど不安定な立ち位置で、そんななかで猫を飼っていて、世間一般でいう幸せな結婚というものとはちょっと違うのかもしれない。それでも、私たちは幸せだと胸張って言いたい。
色々あって綺麗ばかりではない人生だけれど、でも全部が醜いわけではない。
少なくとも奏斗と出会えたこと。それこそが私のきっと幸せ。これからもきっと思い悩んでしまうこともあるだろうけれど、彼となら頑張れる。
そう、思いたい。
「久しぶりに凜ちゃんと旅行に来れて楽しかったなあ」
「そうね、私も楽しかったわ。最後に旅行に行ったのは……学生以来かしら?」
「だね、大学卒業の記念からだっけ?」
「あのときは京都いったわよね。……鈍行で」
「交通費を削るって時間とメンタルと引き換えになるってあのとき初めて知ったよね~……」
一泊二日の箱根旅行に瑠奈とともに来ていた。今日は二日目で明日からまた日常が始まる。なんだかんだで瑠奈とは10年以上の付き合いで大人になった今も旅行に来ているのが少しだけ不思議に感じながら、昔の学生だったときの青かったころの話をした。過去の話もほどほどにお互いコーヒーに口を付けたところで話題が今に変わる。
「今どう?」
「どれのこと?」
「うーん……じゃあ、まずは仕事のこと!」
「仕事ね。まあ、いつも通りよ。相変わらず派遣社員」
「でもさ、この間撮ったねこちゃんの写真、バズってたじゃない?広告収入で食べたりとかできないの?」
「んー……まあ多少はね?でも安定してないし。派遣なら副業オッケーだから続けてるわ」
「そっかあ……あのね、凜ちゃんごめんね」
「?」
「前態度悪かったというか……マウントとってた。ごめん。あのとき本当はあまり、その、妊活とかうまくいっていなくて。」
手を合わせて頭を下げてくる瑠奈に驚いて凝視する。前、確か幸喜と別れた後にご飯食べに行ったときのこと思い出す。あのときは私も余裕がなくて表面上は笑いあっていたけれど、どろどろとした感情が渦巻いた会話をしていたことを。どっちから喧嘩を売るような物言いになっていたのか覚えていないけれど、でもきっとお互い様だったと思う。
恐る恐ると私のほうを見上げてくる彼女の姿に、首を振る。
「ううん、私も……馬鹿にしたような物言いになっていたと思う。ごめんなさい」
私も頭を下げて謝罪した。少しの沈黙の後、瑠奈と目が合う。お互い情けない顔をしていて、同じタイミングで噴き出した。
「あははは、なんかこうして本音で話せたの、久しぶり」
「そうね。大人になると建前ばっかり上手くなっちゃうからね。ねえ、瑠奈」
「ん?」
「これからも友達でいようね」
「!もちろんっ、親友だもんね」
私の言葉に無邪気に笑って頷いてくれる瑠奈に、私も口角が上がる。そしてひとつ思い出がよみがえる。
(そういえば、私その笑顔が好きだったのよね)
高校生時代。私は我は強くて、いじめられているわけではなかったけれど孤立気味で。瑠奈は容姿のせいか僻まれていてハブられていて。お互い女子から好かれていなくて、何となく一緒に行動することが多かった。ひとりでいる変な目で見られる時代だったから多分利害の一致だったけれど、段々瑠奈といるのが本当に楽しくなっていた。
『写真撮るのすっごいうまいんだねえ、ついつい凜ちゃんに写真お願いしちゃうよ』
『写真なら任せてよ!私、写真家になるのが夢なの』
『そうなの?すごいね!凜ちゃんならなれるよ!私は……その、お嫁さんになりたいなあ』
『恥ずかしがることないでしょ。いい夢じゃない。瑠奈可愛いし、お弁当も全部自分で作っているんでしょ?いい嫁になるわ。……いや、私がもらおうかな』
『えー不束者ですがっ』
日暮れの二人の教室でそんな会話をした。瑠奈は覚えていないかもしれないけれど、お互いの夢を馬鹿にされずに笑いあえるあの日々がとても好きだった。だから、そっか。いくらマウント合戦になっても絶交したいと少しも思わなかったんだな。瑠奈のいいところ知っていたから。瑠奈もそう思ってくれていたらいいな。
「彼とはどう?奏斗くんだっけ?」
「明日はラーメン食べに行くの」
「誕生日それでいいの?」
「それがいいのよ。生活に余裕なんてないしね」
笑いながらそう言うと瑠奈は首を傾げるけれど、私が不満なんてないと伝えれば納得してくれた。
「凜ちゃん幸せそうだね」
「……うん、瑠奈も今幸せ?」
「どうかなあ。まあ、前よりも気遣ってくれるよ」
「そう。あまり無茶しないでね。もう一人の身体じゃないからね」
「そうだねえ。元気に生まれてくれるといいなあ」
瑠奈のお腹にはもうひとつの命を宿している。今回の旅行はこれから本当に時間が無くなる前の思い出と気分転換も兼ねてのものだった。昔のような激しさのない、無理のない穏やかな観光だったけれど、楽しかった。
お腹を擦り目を伏せて慈しむような瑠奈の顔は『母親』そのもので。
ーーパシャ。
ついシャッターを押してしまった。
「あっ、もう、勝手に撮らないでよー」
「ごめんごめん、良い顔していたからさ。ほら」
「……私ってこんな顔するんだねー」
「後で送るね」
もちろんSNSに上げるつもりはない。けれど親友の母の顔を残しておきたくなった。知らない自分の表情を見た瑠奈は感心していて、私は嬉しくなる。自分の知らない表情を魅せることが楽しい。だから写真家になりたいと夢見てここまできたのだ。心の中が充実感に満たされていると瑠奈のスマホが鳴る、瑠奈は私に断りを入れて画面を確認する。
「あ、迎えに来てくれるって」
「じゃあそれまで一緒にいるわ」
「えっ、いいよいいよ。奏斗くん待っているんでしょ?」
「親友で妊婦の瑠奈を置いていけるわけないでしょー」
「もー、みんな過保護!」
「大事だから仕方ないね」
「……私凜ちゃんが男の子だったら、絶対好きになってたわ」
「男の私?うーーーーーーーん、おすすめしないわよ。写真馬鹿だから」
「それもそうだねえ。凜ちゃんが女の子でよかったあ」
「どういう意味?」
瑠奈の旦那が来るまで話は止まず、気遣うからいいと断っているのを無理矢理車に押し込まれてそのまま最寄り駅まで送ってもらった。想像以上に瑠奈の旦那さんは優しそうで安心した。
「落ち着いたころ遊びに行くわね。元気でね」
「うん、また連絡する!凜ちゃん、良いお誕生日にしてね!」
声を掛け合い、ドアが閉まっても車が見えなくなるまで手を振った。
「ただいま、シロ」
「にゃあ」
現在の家の鍵を開けてドアを開けると、玄関にちょこんと座る小さくて真っ白な猫が出迎えてくれた。名前はそのまんま『シロ』で女の子。奏斗の働く保護猫カフェの当時推定1歳だった子。警戒心が強くてゲージから出てこようとせず、人とも他の猫とも触れ合うこともせずに、どう頑張っても奏斗にしか懐いてくれずとりあえず人馴れするためにと家に連れて帰ってきたのだけれど、対面してすぐに私に額を擦り付けてきて頭も喉も触らせてくれて、これなら問題はないのではとまたカフェに連れて行ってもまたゲージから出てこなくなってしまったという。カフェの環境が良くないのかと場所を変えてみたいして色々試してみたけれど、結局奏斗と私にしか懐かなかったみたいで、なんだかんだでうちの子になったのである。
必ず玄関で待っていてくれて、ただいま、といえば必ずおかえりと言わんばかりに鳴いてくれる。頭を撫でると喉を鳴らして喜んでくれるのがたまらなく可愛い。靴を脱いで廊下を歩くとシロが後ろからついてくる。立ちどまって振り返ると同じように止まって金色の目が見上げてくれる。やっぱり可愛い。うちの子がかわいい。そう思いながら写真を撮った。
リビングに着くとぐったりとソファで横になって目を閉じる奏斗がいた。
(疲れているみたいだし、寝かせてあげよう)
新しくやって来た猫がなかなかの曲者らしく苦労してると言っていたから、業務時間外でも職場の人とも話し合っているみたいだし、休ませてあげようと思ってそーっと扉を閉めた。つもりだったけれど、予想以上に音が大きくて奏斗の目を覚まさせるには十分だった。
「ん?ふぁ、あ、りんさーん、おかえり~」
「ただいま、奏斗。寝ててよかったのに」
「帰ってきたんだから出迎えないとねえ、ね、シロ」
「にゃーん」
同意を求められたシロは丁寧に返事をしてくれる。そう言われると何も言えなくなってしまう。
それならせめてコーヒーでも入れようと背を向けると、呼び止められた。
「ねえ、凜さん」
「なあに」
何となく何を言われるのか分かっている。そう、何度もくりかえしている会話だ。なんならヒモだったときからくりかえしている。私の返事はそのときに応じて少しずつ変わる。
「結婚しよ」
「寝言は寝て言いなさい。私たち、もう結婚してるわよ」
今は左手の薬指を見せながらこう言うことにしている。疲れていたり寝ぼけている彼は結婚しているにも関わらずこう言うのだ。ヒモ時代とは違って真剣だけれど、それでも結婚した今でもこう言うのだから、つい私は笑ってしまう。奏斗は私の言葉をかみ砕いて目の前の銀色の指輪を見つめた後、頬を赤らめた。
「あはー……、そうだったあ」
照れながら笑って誤魔化すようにシロの背中に顔を埋める奏斗が愛おしくてコーヒーのことを忘れて写真を撮った。飽きもせず突然写真を撮る私の奇行に呆れることも無く、微笑んで手招きをされる。
「凜さんもいっしょに映ってよ、ほら」
「……そう、ね」
「にゃー」
ついつい写真を撮るばかりで自分のことを撮るという発想がでない私を知っている奏斗は私に入るよう誘ってくれる。私はいらないのだと一度言ったら「みんなで一緒の方が俺は嬉しいし、凜さんが映っていると嬉しいんだよ」と言ってくれたから、誘ってくれたら何もいわずに一緒に写真を撮る。そのときだけは奏斗にスマホのインカメラで撮ってもらう。笑う奏斗とカメラ目線のシロと、ぎこちない私が映る。
気恥ずかしさがあるものの、この輪に入っている自分が誇らしいようなそんな気持ちになる。またひとつ大事なものが増えた心地よさ。自分で撮る写真は嫌いではないけれど、奏斗に撮ってもらった写真は特別なプレゼントのようで、いつもスマホのロック画面とホーム画面に迷ってしまうのは嬉しい悩みだろう。
「凜さん、これからもいっしょにいてね」
「ええ、もちろんよ」
「明日さ、やっぱりシロも行けるカフェに行こうよ。俺さ、今日のためにこっそりお金貯めてきたの。コーヒーとパスタが美味しいんだって」
「!そ、そう。ありがとう。でも私はラーメンも好きだからね」
「じゃあ、夜はインスタントラーメンにしよー」
「ふふ、麺ばっかり」
「安くてお腹いっぱいになるからねえ」
「にゃん」
話しながら奏斗の隣に座るとシロは私の膝の上で丸くなる。愛する人が隣にいて、暖かな重みを感じるこの愛しい日々がこれからも続けばいいと願う。
写真家になるという夢も中途半端で私は結局なんだかんだまだ派遣をしていて、奏斗もまだ経験を積んでいる最中で社員だけれど不安定な立ち位置で、そんななかで猫を飼っていて、世間一般でいう幸せな結婚というものとはちょっと違うのかもしれない。それでも、私たちは幸せだと胸張って言いたい。
色々あって綺麗ばかりではない人生だけれど、でも全部が醜いわけではない。
少なくとも奏斗と出会えたこと。それこそが私のきっと幸せ。これからもきっと思い悩んでしまうこともあるだろうけれど、彼となら頑張れる。
そう、思いたい。
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