寝言はヒモ脱却してから言え!

 9月23日11時ちょっと前。俺は今は羽田空港のなかにあるカフェに来ていた。目の前には砂糖をたくさんいれたダージリンティーとガトーショコラに口を付ける麻耶ちゃんが座っている。それを俺はコーヒーを飲みながら眺めていた。
 麻耶ちゃんに会うのはもう7か月ぶりぐらいだった。

「12時25分に出発するのよ~」
「へえーまだ結構ゆとりあるね」
「そうでもないわよ~こうしてのんびりしていたら時間って結構あっという間よ~。30分前にはゲートはくぐらないといけないしね~」
「ふうん、ゆとり持って行動しないといけないんだね。イタリアってどのぐらいで着くの?」
「14時間45分ぐらいね~」
「わあ、腰バッキバキになりそう」
「絶対になるわねえ~」

 久しぶりに会う麻耶ちゃんは相変わらずふわふわの可愛らしい恰好で、のんびりとした口調で、甘いものが好きだった。ただ、ハーフアップができるぐらいの長さのあった髪は今は肩につかないぐらいのボブカットになっていた。少し驚いたけれど麻耶ちゃんに似合っている。

「奏斗くんに見送ってもらうなんて思いもしなかったわ~」
「そう?連絡くれたの麻耶ちゃんじゃん」
「まあねえ~。私結構奏斗くんといるの楽しかったから~何も言わないのもさみしいかなあって思ったからメッセージだけで終わらすつもりだったのに~まさか来るなんて~。凛さんには言ったの?」
「言ったよ」
「言っちゃったのね~……」

 麻耶ちゃんは珍しくがっくりと肩を落とす。どうしてそんな残念なものを見たときのような反応をされたのか分からずに首を傾げていると麻耶ちゃんは呆れたようにため息を吐いた。

「嫌な顔されなかった~?」
「?少し複雑そうな顔されたかな」
「そりゃあね~他の女の子、ヒモだったとき養っていた女の子のところに行くなんて複雑でしかないわよ~……」

 はーあー、と二度目のため息を吐かれた。よっぽどのことだったのかな、あまりの麻耶ちゃんの反応にやらかしてしまったのではとドキドキし始める。

「今度から凜さん以外の女の子と二人きりで会わない、会っていても凜さんには言わないのが得策よ~」
「嘘をつくのって良くないんじゃないの?」
「優しい嘘というものもあるのよ~」
「ふうん?……でも、きっとだめだろうなあ。凜さんには嘘つきたくないや……」

 元カレのことを思い出すと怒りがこみあげてくる。あんな素敵で真っすぐに自分を見てくれる人を好き勝手に傷つけたあの男。今まで誠実じゃなかった俺だけど凜さんにだけは誠実でありたい、だからこそ嘘を吐くことが出来なかったけれど……それこそ凜さんを傷つけちゃったのかな……。俺の言葉に今度は麻耶ちゃんが驚いた顔をされた。

「それが許される関係は素敵なことね~。凜さんが大人の女性で良かったわ~」

 すぐにコロコロと笑う、さっきまで諭すような大人のような顔をしていたのに今は子どものような顔で笑うのだから女性っていろんな顔ができて面白いなと思う。

「奏斗くんの好きなところはね~女のことを女だからって下に見ないところよ~」
「?男も女も関係でしょ?」
「その普通ができない人が多いのよ。世間ってね~」
「あー……」
「そういえば今奏斗くんって働いているのかしら~?今の反応思い当たるところがある顔をしているわよ~」
「んーまあ、まだアルバイトなんだけれどね?俺の場合は逆だねえ、女性の方がお客さんに好かれて、男の俺には警戒する人がいるんだよね」
「どうしても女性は柔らかい、男性は硬いっていうイメージはぬぐえないものね~」

 さっきまでにっこにこだったのに俺が来た瞬間表情を強張らせられることがあって、そのたびにへこむ。ある程度は仕方がないと思うけれどね……たまにどうしようもないぐらい落ち込むことがあって、そのときは職場の人や猫たちに慰められ、家に帰ったら凜さんに「お疲れ様」と声をかけられていれてもらったコーヒーを飲むと大体復活しているからちょっと現金だよね。無意識のうちに頬がほころんだ。それを見ていて麻耶ちゃんは穏やかに笑いながら問いかけてきた。

「ふふ~、ねえ奏斗くんは今しあわせ~?」
「しあわせ……」

 改めて考える。幸せ。俺にはよく分からないものだった。女の子に優しくするのはあくまでも当然のことであって機嫌をよくさせるための言動と行動もどこか脅迫されているような気持ちがどこかにあった。楽かどうかでいうなら女の子に養ってもらっていたあの日々の方が働くこともせずに衣食住が保証されていたから前の方が楽だったと思う。今は決まった時間に起きて家を出て通勤して、男女問わず顔色伺って、ビビられたり猫に噛まれたり引っ掻かれたり、たまに理不尽なことを言われて疲れてもお小遣いよりも少ないお給料をもらう。到底一人で暮らせるようなものではなくて、今までの女の子たちがどれほど頑張ってお金を稼いでいたことを痛感して、自分が情けなく感じることも増えた。ぬるま湯に浸かっているような日々に比べて酷く刺激的で上がったり下がったりと自分でも気持ちを抑えられなくなることもあって、翻弄されてばっかりだ。でも。
「ただいま」
「おかえり」
 先に凜さんが帰っているときに言えるその挨拶に帰りを迎える挨拶がとても素晴らしいものだと気付いた。俺が先に帰ったときに帰ってきた凜さんを出迎えるのもとても心が柔らかくなる。
 一緒にご飯を作ったり散歩に行って野良猫を撫でたり、駅前のラーメン屋に行っておいしいねって笑い合って、抱きしめ合って、キスして、朝を迎えておはようと言える毎日。
 誰かと自分の気持ちを共有できる心地よさは、前では味わえない。
 満たされている今の日々が、きっと、俺の幸せというものなんだと思う。

「うん、幸せだよ」
「そう~それならもう私の連絡先はブロックしましょうね~私もブロックするわ~」
「えっ」

 俺の答えに満足そうに頷いた後、そう告げられた。驚く俺を置いて麻耶ちゃんはスマホをポチポチと操作し高と思えばすぐにテーブルに置いた。固まる俺を見て促してくる。

「ほら、奏斗くんも~」 
「おれ、麻耶ちゃんとはこれからも友達でいたいんだけれど」
「そう言ってくれるのは嬉しいけれどね~、だめよ~」
「どうして?」

 男女関係なく対等に話をしてくれる、良い友達だと思っている。さっぱりしている麻耶ちゃんとはこれからもふわっと繋がっていくんだと勝手に思っていた。だから突然ブロックしましょうと言われて驚いて焦ってその理由を聞く。

「私たち、純粋な友だちじゃなくて男と女としての関係もあったでしょう~?いくら凜さんが奏斗くんがヒモであることを知っていたとしても私のことを受け入れてくれたとしても~やっぱり気分がいいものじゃないのよ~。どこで歪みになるかわからないからね~。私もこれから人生をともにしたいひとが現れたときに、やっぱり誰かに堂々と言える関係じゃないし~今は友人関係だと言っても過去の事実で疑われてしまって、幸せが壊れたら嫌だもの~。奏斗くんのことは友達だと思っているからこそ、私とは離れたほうがいいわ~。これからの奏斗くんの幸せにためにね~」
「でも……連絡を取り合うぐらい……」
「過去のことはね、断ち切ることが一番なのよ~。幸せな未来のためには過去のことを持ち出してはいけないの~。そっと心にしまうっておくぐらいで良いのよ~」
「……」

 優しく諭すように、でも有無を言わさない空気があって俺は口を挟めなかった。確かに、麻耶ちゃんと俺の関係は一般では普通ではなくて、爛れているものだ。お互いに恋愛感情はないけれど身体を重ねて恋人でも夫婦でもないのに俺は麻耶ちゃんに養われて麻耶ちゃんは俺にお小遣いをくれた日々は無かったことにならない事実。
 麻耶ちゃんの言う通り、交流がある限り俺たちについて回って、どっかで幸せとは程遠いところに辿り着いてしまう可能性があった。
 反論ができない俺に麻耶ちゃんはやっぱり穏やかに笑う。

「なかったことにしなくてもいいの、でも、今に過去に引き続けられるのはきっと前を向けなくなるからね~」

 そう言って立ち上がった。

「そろそろ行くわ~。バイブになってくれてありがとう~。お互い幸せになりましょうね~。自分の分は自分で払うから奏斗くんもそうしてね~」

 俺のことを待たずにさっさと麻耶ちゃんは自分の分のお会計を済ませて、その後で俺もコーヒー代を払う。まだ店の前で待ってくれていた麻耶ちゃんへと近づくと追いつかれない程度の速さで俺の前を歩いた。

「ばいばい」

 そして、麻耶ちゃんは並ぶ人たちの前に立ってやっと振り返り、俺を見てそう言ってさっさと行こうとする。このまま俺は何も言えずに別れていいのだろうか。でも、どういえばいいのか、何を言えばいいのか分からない。どうしよう、色々考えて、もうすぐ麻耶ちゃんの番になったところで、俺は声を張り上げた。

「麻耶ちゃん!」

 大きな声だったせいで他の人たちも俺を見た。でもどうでもよかった。麻耶ちゃん本人が驚いたように俺を見たとき、やっと最後に言うべきことがなにか理解してそのまま口にした。

「今まで、ありがとう!!おれ、幸せになるから、麻耶ちゃんも幸せになって……これから一生会わなくても俺、麻耶ちゃんの友達だから、ずっと、祈ってる!」

 はあはあ、と肩で息する俺を麻耶ちゃんは目を見開いた後、今まで見たことがないぐらい嬉しそうな笑顔を見せてくれた。あの日々よりも少し眉に力を入れた強気で格好いい笑顔だった。
 そして麻耶ちゃんは数度手を振って、俺から背を向けてゲートをくぐっていくのを見送って俺も彼女から背を向けた。そして振り返ることはなかった。
 きっと麻耶ちゃんも振り返ることをせずに飛行機へと歩いている。
 色んなことを教えてくれて、幸せに後押ししてくれた麻耶ちゃんのことを俺は忘れない。凜さんとはまた違う大事なことを教えてくれた恩人で、会わなくても、きっとずっと友達の子。幸せを願う友達だからこそ、俺も麻耶ちゃんの連絡先をブロックして凜さんに「今から帰るね」とメッセージを送ってスマホをポケットに捩じりこんだ。

(さようなら、麻耶ちゃん。どうか、幸せに)

 俺はこれから先も幸せにしたい人の元へと帰るべく足を進めた。
 今、無性に凜さんを抱きしめたくて仕方がなかった。
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