寝言はヒモ脱却してから言え!
2月29日木曜日14時35分。今日は月末。
事務員として派遣された私は人手不足だからと棚卸しとして在庫の数えさせられている。ガムテープやセロハンテープなど雑用品のある倉庫から出る。あまりちゃんと掃除されていないせいで埃っぽくて何となくスーツが汚れた気がしてパンパンとはらった。
「ええ〜そんなことないですよぉ」
ふと女性特有の甘ったるい猫撫で声が聞こえてくる。ちらりと目線だけ動かして声のする方向を視界にいれる。女特有の媚びた声の主は亭主も子どももいるいい年齢の……奥様である前野さんである。
男性社員や立場が上の人にはああやって媚びるように身体すらくねくねしているけれど、派遣含んだ女性社員への当たりは酷いものである。挨拶しても素っ気ないか機嫌が悪いと無視されることもある。男性がいないと機嫌悪いのも隠さない。イケメンと話してしていると舌打ちされる。などなど、まあ、女性の悪いところ詰め込んだ感じの人だ。上の立場の人にはさすがに私たちへと同じでは無いけれど、それでも素っ気ない。
「もう少し若ければ林くんにアピってたんですけれど〜」
「前野さんまだまだお若いじゃないですか」
「やだ〜そんなに若く見えるぅ?」
「あはは……」
「お疲れ様です」
引き攣った笑顔で前野さんを相手する林さんに内心同情しながらも軽く会釈しながら横切った。何となく助けてほしそうだったけれど前野さんに目を付けられると会社で居心地が悪くなる。申し訳ないけれど気付かないふりをした。前野さんは若い林さんに夢中なようでスルーされた。ボディータッチをしているのを見ると、こう思ってしまう。
(痛い)
自分はああなるまいと他人事のように感じていたけれど、30を過ぎた今の私には他人事ではないことに危機感を覚える。いや、今は仕事中だ。感傷はまた今度にしよう。そう決めてコピー機の前に立った。
「お疲れさまですぅ」
「……お疲れ様です。澤田さん」
トコトコとこちらに歩いて来たのは去年新卒で入社した澤田さん。黒髪ストレートをハーフアップにした小柄でピンク色のブラウスと淡い水色のスカートが似合う可愛らしい女の子だ。甘えて男性社員に仕事を押し付けてくる悪癖がある、所謂同性に嫌われるタイプの子だ。無視されないだけ前野さんとはまだましとも言える……のかしら。
「ねえねえ、木崎さんは結婚とかまだなんですかあ?」
「……まずは相手を探すところから、ですね」
「そうなんですねー木崎さんって美人さんだからもう相手いるのかと思ってましたあ。私今の彼と結婚も考えているんですけれどお、なーんか刺激がないっていうかあ……木崎さんどう思いますぅ?」
「えーっと……ほら、結婚ってタイミングもありますから。案外違う人と結婚したりもあるかもしれですよ」
「そうですかねえ、まあ私まだ若いですしあまり考えなくて良いかもしれませんねえ。あ、木崎さんはまだまだお綺麗ですから、がんばればぜんぜんいけますって!」
「あはは……そうだといいですね」
ナチュラルマウントには苦笑いで当たり障りのない返事で終わらす。がんばれば、か。頑張らないと
(瑠奈。元気かしら)
澤田さんを見ていると瑠奈のことを思い出す。そう言えば瑠奈も同性から嫌われるタイプだったなあ。瑠奈にマウント取られると腹立ってつい言い返してしまうけれど年下の子にはそこまで怒る気にならない。若いな、ぐらいにしか思わない。瑠奈には年明けに連絡したぐらいで会ったのは昨年だ。澤田さんを見る度に親友のことを思い出す。……最近SNSにも浮上していないし、連絡してみようかしら。
「あ〜林さあん。仕事終わり一緒にご飯行きませんかぁ?」
「え、と」
「ちょっと澤田さん。あなた仕事しなさいよ」
「ええー?前野さんに言われたくないですぅ」
前野さんとともに現れた林さんを見つけるやいなや私のことは眼中から消えたようで、すっと駆け出しご飯の誘いをする。爽やかな雰囲気の林さんと話していた前野さんは澤田さんにあきらかにムッとした顔をして噛み付くけれど、澤田さんは笑顔で(ただし目は無)応対する。
漫画ならきっと火花が生まれていただろう。
林さんは縋るように私を見るけれど、私はこの修羅場を無視して本来の仕事に戻る。変に巻き込まれるのはごめんだ。私は派遣なのだから、前野さんや澤田さんと違って問題起こしたらすぐに切られてしまう存在だ。
(どいつもこいつも、仕事しなさいよ)
心の中で悪態をつきつつ与えられた業務をこなした。やりたくもない仕事を自分の生活のためにする。いつからこんなにつまらない人間になったのかしらね。
18時15分、仕事を終え社員さんや同じ派遣仲間との雑談も程々に切り上げて会社の外に出たときにスマホを覗くとそう刻まれていた。今日は棚卸しもあって修羅場に巻き込まれかけた上に週の中で一番人間が老けた顔をするという木曜日だ。いつもならさっさと帰って最後の金曜日に備えてうだうだしながらも迎える、のだけれど。
(……一杯だけ、飲もうかな)
今日は、そのまま帰る気にならなかった。家にいたくない、というよりはモヤモヤを持ち帰りたくないという気持ち。駅とは反対方向に私は歩く。
「いらっしゃいませ」
「1名で」
「はい、1名様ご案内します」
愛想のいい女性店員に案内されて奥のカウンターに通される。木曜日だけれど意外と仕事終わりの会社員で賑わっていた。それでも1人で飲むような人はあまりいないみたいで、もうひとりいるぐらいなものだった。私以外にも1人で飲む人もいるのねと思いつつもレモンサワーと漬物を頼んだ。まだそこまでお腹は空いていない。頼んだものはすぐに来た。
一口レモンサワーを飲む。刺激と酸っぱい匂いが少し思考をスッキリさせてくれる。人参の漬物をつまむ。
(奏斗と初めて来た場所で、同じ席ね)
考えることはやっぱり、奏斗のことだった。
家に帰っても奏斗のことを考えてしまうだけだから、と外食したのに結局奏斗を影を追いかけている。2週間前、奏斗への気持ちを自覚した私は、気持ちの深みに嵌まることが怖くて先週嘘をついて遠ざけようとした。けれど会えない分、会いたくなった。久しぶりの新しい恋は30歳の私を臆病にさせた。枯れていたと思い込んだ気持ちに振り回される。
明日の夜奏斗に会える。それが嬉しくて、苦しい。
私は、自分のことを知っている。強いふりをした弱い人間で、誰かをもう好きにならないと強がったのに結局誰かを好きになってしまう。私と奏斗は、何度か寝たこともあるけれど、そういう関係じゃない。友人にしては重くて恋人にしては軽すぎる宙ぶらりんな関係。奏斗が求めているのは恋人ではなくて宿主。私は自分だけの生活で精一杯で、もうひとり養えるような能力なんてない。彼にとって私の好意なんて必要ない。1人を縛り付けるような真似は私はごめんだけれど、強欲で醜い私はもっとほしいもっと見てほしいと強請るのをやめられない。
奏斗が好き、奏斗も私を好きになって欲しい。奏斗の好きに私の存在を入れてほしい。そんな欲が止められない。今奏斗に会ってしまうとワガママを言ってしまいそうになる。好きとこぼれてしまうかもしれない。そんなこと言ったら奏斗は逃げたくなってしまう、私もそんな自分が嫌で遠ざけたくなってしまう。それでも、私ひとりを特別にしてほしい、でも奏斗には自由に自分の好きを追求してほしいなんて、矛盾した感情がせめぎ合う。答えは今も出せない。
奏斗に会いたいのに、こわい。
「はあ……」
ため息が出る。30の女である私が20代の男の子である奏斗に好きになって欲しいのだとすがるなんて悍ましい光景を想像して吐き気がした。
「凛?」
「……あ」
ふと、聞き馴染みのある声で私の名前を呼ばれて驚いて振り返ると、そこにはヨレヨレのワイシャツをした短髪の男性……以前彼氏だった幸喜が目を見開いて私を見下ろしていた。
「……久しぶり、ね」
「ああ。既読にならないから心配したんだ」
「まあブロックしたからね」
(気まずい)
これ以上話す気はないという意思表示のつもりで幸喜から目をそらしてジョッキに口をつけたのだけれど、幸喜は何を思ったのか私の隣に座った。
「……なに」
「そんな冷たくするなよ」
前にあったときよりも随分と顔の皺が増えたな、白髪も目立つような気がする。あと酒臭い。何時から飲んでいたのだろうか。月末の木曜日なのだから仕事があっただろうに。
20代には適わないにしてもまだ幸喜は30代なのにここまで老けるのだろうかと首を傾げるぐらい今の幸喜はみずぼらしい。とは言え今の私は彼とは無関係だ。カウンター席はガラガラなのにわざわざ真隣に座る他人の男のせいで食事どころではなくなってしまったので、お店には悪いけれどもうお会計してしまおうかと考えていると、テーブルに乗った私の手になにか生ぬるいものが乗ってきた感触に驚いて見ると、幸喜の手が乗っかっていて鳥肌がした。
「今のため息って、俺のことを考えてのことだよな?やっぱり俺がいないと寂しかったんだよな?」
「寝言は寝て言え」
手を思いっきり振り払い、席を立つ。これ以上戯言に付き合っていられない。やっぱりもうお会計をしてしまおう。カバンを持って行こうとしたけれど、手首を掴まれた。
「凛、頼む!話を聞いてくれ!」
「やめて、放してよ!」
幸喜に大きな声で言われたから私もつい声を張り上げてしまった。しまった、と思ったけれど時既に遅く店内に私たちの声が響き渡る。先程よりも客が増えた店内で私たちは目立ってしまう。せめて外で、と思うが、すっかり酔っ払い男に成り果てた幸喜に空気を読むなんて事ができるはずがなく、掴まれた手首も力が強くて振りほどけなくて、大きくため息を吐くのをなんとか堪えた。幸喜はお構いなしに懇願してくる。
「なあ、頼むよ!俺にはお前しかいないんだ!」
「店に迷惑になるでしょ、本当にやめて。触らないで」
どれだけお願いされたとしても私はもう幸喜への気持ちは欠片もない。ブロックした後未練はあったけれど、今は何も動かない。……色々約束しても破ってばかりじゃない。生ぬるい手にときめくこともない。さっさと諦めてほしいのに幸喜は食い下がってくる。
「なんでだよ、いつもは何も言わなかっただろうが、あのぐらい、なあ、これからはお前だけしか見ないから……」
「ずっと我慢していたのよ。もう我慢は疲れたのよ。私もう幸喜のことは忘れていたわ」
どれだけ責めたって怒ったって泣いたって、浮気を辞めなかったじゃない。どれだけ訴えても無駄だと、怒るのも泣くのも疲れたから我慢して何も言わなくなっただけ。でも、その我慢することすらもう疲れ果ててしまった。貴方とは長い付き合いだったから、いなくなったときどうしても喪失感があって何度もブロックを解除してしまうと思ったか分からない。
そう言えば、奏斗がブロックすることをおすすめしてくれて、ブロックを解除しようと負けそうになったときには奏斗からのメッセージが来て解除を中止しての繰り返しをしていたら、いつからか、私のなかから幸喜はいなくなっていた。それに今、気が付いた。
「そんなわけない!凛は俺のこと好きだっただろ!!意地はるなよ、お前を理解してやれるのは俺だけだって、凛だって気付いているだろ?俺だってお前のことが必要なんだよ」
機嫌を取るような、猫なで声に私の思考が止まって身体も動けなくなった。
意地を張るな?
理解してやれるのは俺だけ?
気付いているだろ?
上から目線のいかにも自分こそが私の理解者なのだなんて言ってきた幸喜。言われていることがしばらく理解できなくて固まっていると幸喜は何を思ったのか微笑みながら掴まれた手首はそのままに空いた手で私の頬に寄せられた。触れられる寸前にやっと私の思考が動き出して答えを導き出した。
「なあ、凛。俺と……」
「いらない」
「は……」
宙に浮いた手を軽くはたき落とした。幸喜は私の行動と言葉に酷く驚き、手首を拘束する力も緩んでいたのでその間に振りほどいてまっすぐに幸喜を見つめて私の出した答えを告げる。
ちゃんと、お別れをしよう。
「あんたみたいな、私の誕生日も浮気してすっぽかす最低男なんてもう必要ない」
きっと幸喜と私は長く一緒に居すぎたんだとおもう。幸喜は私の写真を撮るのを好ましく思わなかったのは仕方がない。浮気したのはよく分からないけれど、たぶん私といるのに幸喜のなかに飽きが生まれたことから来ているのかも。ずっと一緒にいられる恋人は世界にはたくさんいて、学生のとき私たちもその中の恋人に入ると信じていたけれど、違ったんだよ。幸喜は私を理解した気になって、私は幸喜といるのは一番だと意固地になっていた。もう、お互い『好き』ではなくなった。一緒にいても、もう、私たちは息詰まる関係にしかなれない。
……もしも、幸喜の家を飛び出した直後にそう言われたのなら、ううん、奏斗に会わなかったら、私は幸喜の生暖かい体温を求めてしまっていたと思う。
「今の私には写真を撮ってほしいとそう言ってくれる人がいるの。私が私のことを好きになれる、彼といると前向きな気持ちになれるそんな人といるの」
でも、私はもう他に好きな人がいる。
あの日の私の熱を呼び覚ましてくれる、そんな人が。器用そうに見えて自分のことが分からなくて迷子になっている奏斗の隣で一緒に好きと嫌いを探したい。
「その人と一緒にいたいから、私は幸喜といられない。私は幸喜といても幸せになれないし、幸喜も、私じゃないほうがいい。だからもう、ここで関係は絶ちましょう」
奏斗といっしょにいたい。
奏斗が同じ想いだなんて思えないけれど、年上の私を好きになってくれないと思うけれど、それでもいいの。奏斗の好きが、奏斗自身が分かるようになってくれたら、良いと思える。
お互い自分が幸せになれる人といたほうが良い。案外穏やかな気持ちで心の内を幸喜に言える事ができた。
だけど幸喜はもしかしたら、本当に私を自分の所有物とでも思っていたのかもしれない。
「っこの、クソ女!黙って俺の言う事聞けよ!」
「!」
受け入れてくれると思っていた私が拒絶したこと、アルコールが入っていることで凶暴さが全面に出ていたらしい幸喜が目を吊り上げて手を上げようとしてきた。今まで暴力と無縁でいた私は身体を震わすことしかできず、来るであろう衝撃に目を閉じた。でも、想像していた痛みは訪れることはなく、その代わり誰かに抱き寄せられた。ふわりと漂うシトラスの香り。
「え、かなと?」
目を開くと視界いっぱいに緩くウェーブのかかった暗めの茶髪が良く似合う垂れ目の彼……奏斗がいた。どうしてここに?今日は木曜日だよね?間違えていないわよね?聞きたいことはいっぱいあったけれど、私を見つめる奏斗の目が熱っぽくて恥ずかしくて言葉に出来なかった。そのまま幸喜から遠ざけるように腕の中に閉じ込められてしまった。近い体温、心臓の脈打つ音が聞こえて顔どころか身体が熱くて仕方がない。ワイシャツ越しの奏斗の掌が汗ばんでいるような気がした。
「なんなんだよ、てめえ!部外者が出てくるな!」
奏斗の腕の中にいるから幸喜の表情は分からないけれど、声が聞こえる。
怒鳴る声は濁っていてとても汚いもののように感じた。
――パシンッ!
そしてすぐに木霊したのは乾いた音、肌を思いっきり叩いたような音に吃驚した。一瞬奏斗が幸喜に何かされたのかと思ったけれど「なにしやがる、くそくそくそ!!」という幸喜の喚き出す声が聞こえて奏斗は無事だったことに安堵する。でも、次の奏斗の言葉に息を止めた。
「ううん。俺だよ。凛さんがいっしょにいたい人。で、俺も凛さんにいてほしい人なんだよねえ」
その声を聴いた瞬間、周囲の声が何も聞こえなくなった。思考だけは妙にクリアなのに、心臓はバクバクしていて破裂しそうで、でも、ずっとここにいたいのだと甘えたくなる。
(ヒモとくっついていていいの)
(もう30の私と20代の奏斗と釣り合うの)
自分の中の冷めた私が浮かれそうになる私を押し止めようとしてくる。
あれだけ私を好きになってほしいと求めていたのに、いざ、与えられたら逃げようとする。随分と臆病になった。逃げ道ばっかり探して、諦めることこそが大人なのだと言い聞かせて好きなものから遠ざけて、なりたくない大人になった。逃げたくなる。でも、どうせいつかの私はあのとき奏斗から逃げなければよかったと後悔することになる。いつか捨てられるのではないかと言う恐怖も生まれるだろうけれど……。
でも、どうあがいても苦しいなら、今の私が一緒にいたいと心から想う人とともにいることを選ぼう。
今は、ただ。
そっと熱い身体に心を預けることにした。
奏斗に手を引かれてお会計もせずに店を出た。幸喜のことなんてまったく眼中になくてどうしようと立ちどまりそうになった。
『あいつに払わせちゃお。凜さんを傷つけた罰にしてはまだまだだけどさあ……』
奏斗にそう言われて、ああ、そういえば彼に私はあんなに傷つけられてきたのだから、このぐらいはいっかとお酒も入っているせいかすんなりとそう思えた。
気付けばあっさりと私の家の中で、しばらく沈黙が続いた後私がそっと口を開いた。
「喧嘩、慣れているの?」
「うーん、まあ修羅場には慣れてるほうかなあ。暴力は嫌いだけどねえ」
「そう……」
幸喜と対峙していたとき、妙に肝の座った様子にそんなことを聞いてしまったけれど、会話はあっさりと終了した。それはそうだ、本題はそこじゃない。どう切り出していいのかと言いあぐねていると奏斗が重たそうに唇をこじ開けた。
「ねえ、凛さん。おれ、凛さんのこと、好きだよ」
「……ほんとうに?」
奏斗の言葉についそう返すと、彼はくしゃっと、今にも泣きだしそうな子どもの顔になった。ああ、しまった。奏斗を疑っているわけじゃないのに。疑うのは臆病になってしまった私のせいで奏斗のせいじゃないの。
ごめんねを言う前に奏斗が言葉を零す。
「どうしたら信じてくれる?おれ、わかんないんだよ、好きとか嫌いとか、でも、凛さんとはずっといっしょにいたい。凛さんがおれのこと好きって言ってくれてほんとうにうれしかった。俺じゃなくてあの元カレさんと一緒にいることを選んだらどうしよって、吐きそうだったんだよ。すき、すきだよ、凛さん。もう凛さんのところにしか行けないよ。おねがい、がんばって就職する、もうほかの女の子のところにいかない、だから、おねがい。俺だけの凜さんになって」
ぽろぽろ、と思ったことをひたすら声にしているような奏斗。いつもの笑顔はどこに行ったのか悲哀にこもっていて、懸命さがこれでもかと伝わってくる。
静かに訴えかけるようなのに強烈で、縋るように私の手を力強く握る。私はその手を握り返した。
奏斗がこんなに本音を曝け出してくれたのだから、私も隠しごとをするのは良くないと思った。
「それを言うのは、私じゃない?私、30超えて、あなたはまだ20代でしょう?私ぐらいの年齢になると、その、結婚とか子どもとか、意識しちゃうから」
今のご時世、男女問わず結婚に縛られない人が多い。私もまだ縛られたくないと思うこともあるけれど、どうしても重くなってしまうの。子どもを持つという想像ができないけれどいつかはやっぱりほしいと思ってしまうから、奏斗からすると重荷に感じるかもしれない。
「……俺、前、よく気軽に結婚する?なんて言えたよね」
怯えを吐き出した奏斗は硬い表情。ああ、やっぱり嫌かな。近付きたいのか遠ざけたいのか私にも分からないけれど、心が冷える。
「半端な気持ちで言うべきじゃないよね、その重み、俺にはわかってなかったんだね、ごめんね」
やっぱりだめかな。泣きたくなって俯いてしまう。
「でも、あえて言うよ」
頬に手を添えられて、目の前の真剣な目と私の頼りない目が合った。
「結婚しよう、凜さん」
重くて相手を縛る言葉だと、そう理解した上で奏斗はそう言った。
『うれしい』
他の誰でもない私だけを求めるその言葉に、心が震える。何も考えずに頷いてしまいたくなる。でも、その行動を押し止めたのは理性の残った頭の中の私。奏斗は、ヒモだ。私は、ヒモを養うことはできない。
「……寝言はヒモ脱却してから言って」
「あは、やっぱり凜さんは手きびしいや」
私のいつも通りの、でも真剣な返事に奏斗はいつも通りのどこか達観したように笑って手を引いた。その熱を、今度は私が掴んだ。
「夫婦って支え合うものなのよ。全部寄り掛かるつもりはないし、そこまで収入のことを言うつもりは無いけれど、ヒモはいや。……奏斗の好きな仕事、いっしょに探そうよ」
「俺の、好きな仕事……」
「私はまだ奏斗のことをちゃんと知らない。奏斗も私のことを知ってるわけじゃない。それに、私だって派遣社員で正社員じゃないから、奏斗のことをそこまで言える立場でもない。お互い社会からすると不安定な立ち位置という意味では変わらないから……だから、これからどう生きるか、二人で考えよう?一人で諦めることは、もうしなくていいの。私を支えてほしいし、奏斗を支えたい。そんな関係から、はじめましょう?」
「ふたりで」
「うん。……平たく言うと、恋人、になりましょう、と言っているんだけれど」
どうかしら?と最後だけ震えてしまって一気に頼りなくなってしまったけれど、私を抱きしめてきた奏斗も同じぐらい気弱な声で安心した。
「りんさん、俺、すごくさ、胸がいっぱいでくるしいけれど、すっごくここにいたいよ」
「ここにいてよ、おねがい、私はもう奏斗といないほうが苦しいよ」
「うん、おれも」
満たされた気持ちで力の限り目の前の熱をがむしゃらに抱きしめた。奏斗も離さないと言わんばかりの力で咳が出そうになるぐらい縛るように抱きしめられる。お互いの熱が伝わるように。そんな祈りを込めて。
「奏斗が好きよ」
「っ、うん、うん……おれも、凜さんのこと、だいすき」
しばらく抱きしめあったあと、至近距離を目を合わせてどちらからともなくキスをした。
心が繋がったような、そんな感覚に奏斗と幸せだねと、少し涙目で顔を赤くして笑い合った。
――ピピピピ。
「んん……」
スマホで設定されていた目覚ましが鳴り、意識を浮上させて操作して止める。
ぼんやりとする頭で隣に視線をやるとそこには健やかに寝息を立てる奏斗の姿があって、昨日のことは夢でもなんでもなく、奏斗と気持ちを繋げたことの証明だった。少しずつ覚醒していく頭はまず喜びで満ち溢れた。
あの後、何度かキスして抱きしめ合った。そこまでは覚えている。でも、肌と肌を触れ合わせた記憶がなくて、お互い寝間着にも着替えず洋服のままでベッドでふたり眠っていたことから、記憶通りいつの間にか寝てしまっていた。
『大事過ぎて、どう抱いていいのかわからない』
こんなこと、今まで言われたことなんて無くて、性欲とかではなくただ共にいることが嬉しいと思える相手になれたことが嬉しかった。
それなら今日はただ抱きしめ合ってキスをしようと決めて、思う存分身体触れ合うだけにしたのだ。
「すー……」
(……きれいね、あ、そうだ)
未だ夢の中の奏斗が覚めないようにそっとベッドから抜け出して一眼レフカメラを持ち出して、レンズ越しに彼を映し、シャッターを押す。
外は曇っていてもうすぐ雨が降り出しそうで、部屋は薄暗くて、写真を撮る環境は最悪と言ってもよかったけれど、それでも。
「ふふ、素敵な写真が撮れた」
私は幸福で満ち溢れていて、この気持ちに今日だけは誰にも邪魔されずに奏斗と浸っていたくなった。奏斗が起きるまで何度か写真を撮って、何度目かのシャッター音でぼんやりと目を開けていく姿を只管撮って、私が何をしているのか理解した奏斗はふにゃりと笑いかけて。
「カメラを持つ凜さんはこんなに生き生きしているんだね。すごく好き」
幸せな朝だった。いつの間にか出勤時間を過ぎてしまっていて、昨日からお風呂も入っていないことに気付いてもういいか、と笑えてきて会社に電話をかけた。
私はこの日、初めて病気以外の理由で会社を休んだ。
事務員として派遣された私は人手不足だからと棚卸しとして在庫の数えさせられている。ガムテープやセロハンテープなど雑用品のある倉庫から出る。あまりちゃんと掃除されていないせいで埃っぽくて何となくスーツが汚れた気がしてパンパンとはらった。
「ええ〜そんなことないですよぉ」
ふと女性特有の甘ったるい猫撫で声が聞こえてくる。ちらりと目線だけ動かして声のする方向を視界にいれる。女特有の媚びた声の主は亭主も子どももいるいい年齢の……奥様である前野さんである。
男性社員や立場が上の人にはああやって媚びるように身体すらくねくねしているけれど、派遣含んだ女性社員への当たりは酷いものである。挨拶しても素っ気ないか機嫌が悪いと無視されることもある。男性がいないと機嫌悪いのも隠さない。イケメンと話してしていると舌打ちされる。などなど、まあ、女性の悪いところ詰め込んだ感じの人だ。上の立場の人にはさすがに私たちへと同じでは無いけれど、それでも素っ気ない。
「もう少し若ければ林くんにアピってたんですけれど〜」
「前野さんまだまだお若いじゃないですか」
「やだ〜そんなに若く見えるぅ?」
「あはは……」
「お疲れ様です」
引き攣った笑顔で前野さんを相手する林さんに内心同情しながらも軽く会釈しながら横切った。何となく助けてほしそうだったけれど前野さんに目を付けられると会社で居心地が悪くなる。申し訳ないけれど気付かないふりをした。前野さんは若い林さんに夢中なようでスルーされた。ボディータッチをしているのを見ると、こう思ってしまう。
(痛い)
自分はああなるまいと他人事のように感じていたけれど、30を過ぎた今の私には他人事ではないことに危機感を覚える。いや、今は仕事中だ。感傷はまた今度にしよう。そう決めてコピー機の前に立った。
「お疲れさまですぅ」
「……お疲れ様です。澤田さん」
トコトコとこちらに歩いて来たのは去年新卒で入社した澤田さん。黒髪ストレートをハーフアップにした小柄でピンク色のブラウスと淡い水色のスカートが似合う可愛らしい女の子だ。甘えて男性社員に仕事を押し付けてくる悪癖がある、所謂同性に嫌われるタイプの子だ。無視されないだけ前野さんとはまだましとも言える……のかしら。
「ねえねえ、木崎さんは結婚とかまだなんですかあ?」
「……まずは相手を探すところから、ですね」
「そうなんですねー木崎さんって美人さんだからもう相手いるのかと思ってましたあ。私今の彼と結婚も考えているんですけれどお、なーんか刺激がないっていうかあ……木崎さんどう思いますぅ?」
「えーっと……ほら、結婚ってタイミングもありますから。案外違う人と結婚したりもあるかもしれですよ」
「そうですかねえ、まあ私まだ若いですしあまり考えなくて良いかもしれませんねえ。あ、木崎さんはまだまだお綺麗ですから、がんばればぜんぜんいけますって!」
「あはは……そうだといいですね」
ナチュラルマウントには苦笑いで当たり障りのない返事で終わらす。がんばれば、か。頑張らないと
(瑠奈。元気かしら)
澤田さんを見ていると瑠奈のことを思い出す。そう言えば瑠奈も同性から嫌われるタイプだったなあ。瑠奈にマウント取られると腹立ってつい言い返してしまうけれど年下の子にはそこまで怒る気にならない。若いな、ぐらいにしか思わない。瑠奈には年明けに連絡したぐらいで会ったのは昨年だ。澤田さんを見る度に親友のことを思い出す。……最近SNSにも浮上していないし、連絡してみようかしら。
「あ〜林さあん。仕事終わり一緒にご飯行きませんかぁ?」
「え、と」
「ちょっと澤田さん。あなた仕事しなさいよ」
「ええー?前野さんに言われたくないですぅ」
前野さんとともに現れた林さんを見つけるやいなや私のことは眼中から消えたようで、すっと駆け出しご飯の誘いをする。爽やかな雰囲気の林さんと話していた前野さんは澤田さんにあきらかにムッとした顔をして噛み付くけれど、澤田さんは笑顔で(ただし目は無)応対する。
漫画ならきっと火花が生まれていただろう。
林さんは縋るように私を見るけれど、私はこの修羅場を無視して本来の仕事に戻る。変に巻き込まれるのはごめんだ。私は派遣なのだから、前野さんや澤田さんと違って問題起こしたらすぐに切られてしまう存在だ。
(どいつもこいつも、仕事しなさいよ)
心の中で悪態をつきつつ与えられた業務をこなした。やりたくもない仕事を自分の生活のためにする。いつからこんなにつまらない人間になったのかしらね。
18時15分、仕事を終え社員さんや同じ派遣仲間との雑談も程々に切り上げて会社の外に出たときにスマホを覗くとそう刻まれていた。今日は棚卸しもあって修羅場に巻き込まれかけた上に週の中で一番人間が老けた顔をするという木曜日だ。いつもならさっさと帰って最後の金曜日に備えてうだうだしながらも迎える、のだけれど。
(……一杯だけ、飲もうかな)
今日は、そのまま帰る気にならなかった。家にいたくない、というよりはモヤモヤを持ち帰りたくないという気持ち。駅とは反対方向に私は歩く。
「いらっしゃいませ」
「1名で」
「はい、1名様ご案内します」
愛想のいい女性店員に案内されて奥のカウンターに通される。木曜日だけれど意外と仕事終わりの会社員で賑わっていた。それでも1人で飲むような人はあまりいないみたいで、もうひとりいるぐらいなものだった。私以外にも1人で飲む人もいるのねと思いつつもレモンサワーと漬物を頼んだ。まだそこまでお腹は空いていない。頼んだものはすぐに来た。
一口レモンサワーを飲む。刺激と酸っぱい匂いが少し思考をスッキリさせてくれる。人参の漬物をつまむ。
(奏斗と初めて来た場所で、同じ席ね)
考えることはやっぱり、奏斗のことだった。
家に帰っても奏斗のことを考えてしまうだけだから、と外食したのに結局奏斗を影を追いかけている。2週間前、奏斗への気持ちを自覚した私は、気持ちの深みに嵌まることが怖くて先週嘘をついて遠ざけようとした。けれど会えない分、会いたくなった。久しぶりの新しい恋は30歳の私を臆病にさせた。枯れていたと思い込んだ気持ちに振り回される。
明日の夜奏斗に会える。それが嬉しくて、苦しい。
私は、自分のことを知っている。強いふりをした弱い人間で、誰かをもう好きにならないと強がったのに結局誰かを好きになってしまう。私と奏斗は、何度か寝たこともあるけれど、そういう関係じゃない。友人にしては重くて恋人にしては軽すぎる宙ぶらりんな関係。奏斗が求めているのは恋人ではなくて宿主。私は自分だけの生活で精一杯で、もうひとり養えるような能力なんてない。彼にとって私の好意なんて必要ない。1人を縛り付けるような真似は私はごめんだけれど、強欲で醜い私はもっとほしいもっと見てほしいと強請るのをやめられない。
奏斗が好き、奏斗も私を好きになって欲しい。奏斗の好きに私の存在を入れてほしい。そんな欲が止められない。今奏斗に会ってしまうとワガママを言ってしまいそうになる。好きとこぼれてしまうかもしれない。そんなこと言ったら奏斗は逃げたくなってしまう、私もそんな自分が嫌で遠ざけたくなってしまう。それでも、私ひとりを特別にしてほしい、でも奏斗には自由に自分の好きを追求してほしいなんて、矛盾した感情がせめぎ合う。答えは今も出せない。
奏斗に会いたいのに、こわい。
「はあ……」
ため息が出る。30の女である私が20代の男の子である奏斗に好きになって欲しいのだとすがるなんて悍ましい光景を想像して吐き気がした。
「凛?」
「……あ」
ふと、聞き馴染みのある声で私の名前を呼ばれて驚いて振り返ると、そこにはヨレヨレのワイシャツをした短髪の男性……以前彼氏だった幸喜が目を見開いて私を見下ろしていた。
「……久しぶり、ね」
「ああ。既読にならないから心配したんだ」
「まあブロックしたからね」
(気まずい)
これ以上話す気はないという意思表示のつもりで幸喜から目をそらしてジョッキに口をつけたのだけれど、幸喜は何を思ったのか私の隣に座った。
「……なに」
「そんな冷たくするなよ」
前にあったときよりも随分と顔の皺が増えたな、白髪も目立つような気がする。あと酒臭い。何時から飲んでいたのだろうか。月末の木曜日なのだから仕事があっただろうに。
20代には適わないにしてもまだ幸喜は30代なのにここまで老けるのだろうかと首を傾げるぐらい今の幸喜はみずぼらしい。とは言え今の私は彼とは無関係だ。カウンター席はガラガラなのにわざわざ真隣に座る他人の男のせいで食事どころではなくなってしまったので、お店には悪いけれどもうお会計してしまおうかと考えていると、テーブルに乗った私の手になにか生ぬるいものが乗ってきた感触に驚いて見ると、幸喜の手が乗っかっていて鳥肌がした。
「今のため息って、俺のことを考えてのことだよな?やっぱり俺がいないと寂しかったんだよな?」
「寝言は寝て言え」
手を思いっきり振り払い、席を立つ。これ以上戯言に付き合っていられない。やっぱりもうお会計をしてしまおう。カバンを持って行こうとしたけれど、手首を掴まれた。
「凛、頼む!話を聞いてくれ!」
「やめて、放してよ!」
幸喜に大きな声で言われたから私もつい声を張り上げてしまった。しまった、と思ったけれど時既に遅く店内に私たちの声が響き渡る。先程よりも客が増えた店内で私たちは目立ってしまう。せめて外で、と思うが、すっかり酔っ払い男に成り果てた幸喜に空気を読むなんて事ができるはずがなく、掴まれた手首も力が強くて振りほどけなくて、大きくため息を吐くのをなんとか堪えた。幸喜はお構いなしに懇願してくる。
「なあ、頼むよ!俺にはお前しかいないんだ!」
「店に迷惑になるでしょ、本当にやめて。触らないで」
どれだけお願いされたとしても私はもう幸喜への気持ちは欠片もない。ブロックした後未練はあったけれど、今は何も動かない。……色々約束しても破ってばかりじゃない。生ぬるい手にときめくこともない。さっさと諦めてほしいのに幸喜は食い下がってくる。
「なんでだよ、いつもは何も言わなかっただろうが、あのぐらい、なあ、これからはお前だけしか見ないから……」
「ずっと我慢していたのよ。もう我慢は疲れたのよ。私もう幸喜のことは忘れていたわ」
どれだけ責めたって怒ったって泣いたって、浮気を辞めなかったじゃない。どれだけ訴えても無駄だと、怒るのも泣くのも疲れたから我慢して何も言わなくなっただけ。でも、その我慢することすらもう疲れ果ててしまった。貴方とは長い付き合いだったから、いなくなったときどうしても喪失感があって何度もブロックを解除してしまうと思ったか分からない。
そう言えば、奏斗がブロックすることをおすすめしてくれて、ブロックを解除しようと負けそうになったときには奏斗からのメッセージが来て解除を中止しての繰り返しをしていたら、いつからか、私のなかから幸喜はいなくなっていた。それに今、気が付いた。
「そんなわけない!凛は俺のこと好きだっただろ!!意地はるなよ、お前を理解してやれるのは俺だけだって、凛だって気付いているだろ?俺だってお前のことが必要なんだよ」
機嫌を取るような、猫なで声に私の思考が止まって身体も動けなくなった。
意地を張るな?
理解してやれるのは俺だけ?
気付いているだろ?
上から目線のいかにも自分こそが私の理解者なのだなんて言ってきた幸喜。言われていることがしばらく理解できなくて固まっていると幸喜は何を思ったのか微笑みながら掴まれた手首はそのままに空いた手で私の頬に寄せられた。触れられる寸前にやっと私の思考が動き出して答えを導き出した。
「なあ、凛。俺と……」
「いらない」
「は……」
宙に浮いた手を軽くはたき落とした。幸喜は私の行動と言葉に酷く驚き、手首を拘束する力も緩んでいたのでその間に振りほどいてまっすぐに幸喜を見つめて私の出した答えを告げる。
ちゃんと、お別れをしよう。
「あんたみたいな、私の誕生日も浮気してすっぽかす最低男なんてもう必要ない」
きっと幸喜と私は長く一緒に居すぎたんだとおもう。幸喜は私の写真を撮るのを好ましく思わなかったのは仕方がない。浮気したのはよく分からないけれど、たぶん私といるのに幸喜のなかに飽きが生まれたことから来ているのかも。ずっと一緒にいられる恋人は世界にはたくさんいて、学生のとき私たちもその中の恋人に入ると信じていたけれど、違ったんだよ。幸喜は私を理解した気になって、私は幸喜といるのは一番だと意固地になっていた。もう、お互い『好き』ではなくなった。一緒にいても、もう、私たちは息詰まる関係にしかなれない。
……もしも、幸喜の家を飛び出した直後にそう言われたのなら、ううん、奏斗に会わなかったら、私は幸喜の生暖かい体温を求めてしまっていたと思う。
「今の私には写真を撮ってほしいとそう言ってくれる人がいるの。私が私のことを好きになれる、彼といると前向きな気持ちになれるそんな人といるの」
でも、私はもう他に好きな人がいる。
あの日の私の熱を呼び覚ましてくれる、そんな人が。器用そうに見えて自分のことが分からなくて迷子になっている奏斗の隣で一緒に好きと嫌いを探したい。
「その人と一緒にいたいから、私は幸喜といられない。私は幸喜といても幸せになれないし、幸喜も、私じゃないほうがいい。だからもう、ここで関係は絶ちましょう」
奏斗といっしょにいたい。
奏斗が同じ想いだなんて思えないけれど、年上の私を好きになってくれないと思うけれど、それでもいいの。奏斗の好きが、奏斗自身が分かるようになってくれたら、良いと思える。
お互い自分が幸せになれる人といたほうが良い。案外穏やかな気持ちで心の内を幸喜に言える事ができた。
だけど幸喜はもしかしたら、本当に私を自分の所有物とでも思っていたのかもしれない。
「っこの、クソ女!黙って俺の言う事聞けよ!」
「!」
受け入れてくれると思っていた私が拒絶したこと、アルコールが入っていることで凶暴さが全面に出ていたらしい幸喜が目を吊り上げて手を上げようとしてきた。今まで暴力と無縁でいた私は身体を震わすことしかできず、来るであろう衝撃に目を閉じた。でも、想像していた痛みは訪れることはなく、その代わり誰かに抱き寄せられた。ふわりと漂うシトラスの香り。
「え、かなと?」
目を開くと視界いっぱいに緩くウェーブのかかった暗めの茶髪が良く似合う垂れ目の彼……奏斗がいた。どうしてここに?今日は木曜日だよね?間違えていないわよね?聞きたいことはいっぱいあったけれど、私を見つめる奏斗の目が熱っぽくて恥ずかしくて言葉に出来なかった。そのまま幸喜から遠ざけるように腕の中に閉じ込められてしまった。近い体温、心臓の脈打つ音が聞こえて顔どころか身体が熱くて仕方がない。ワイシャツ越しの奏斗の掌が汗ばんでいるような気がした。
「なんなんだよ、てめえ!部外者が出てくるな!」
奏斗の腕の中にいるから幸喜の表情は分からないけれど、声が聞こえる。
怒鳴る声は濁っていてとても汚いもののように感じた。
――パシンッ!
そしてすぐに木霊したのは乾いた音、肌を思いっきり叩いたような音に吃驚した。一瞬奏斗が幸喜に何かされたのかと思ったけれど「なにしやがる、くそくそくそ!!」という幸喜の喚き出す声が聞こえて奏斗は無事だったことに安堵する。でも、次の奏斗の言葉に息を止めた。
「ううん。俺だよ。凛さんがいっしょにいたい人。で、俺も凛さんにいてほしい人なんだよねえ」
その声を聴いた瞬間、周囲の声が何も聞こえなくなった。思考だけは妙にクリアなのに、心臓はバクバクしていて破裂しそうで、でも、ずっとここにいたいのだと甘えたくなる。
(ヒモとくっついていていいの)
(もう30の私と20代の奏斗と釣り合うの)
自分の中の冷めた私が浮かれそうになる私を押し止めようとしてくる。
あれだけ私を好きになってほしいと求めていたのに、いざ、与えられたら逃げようとする。随分と臆病になった。逃げ道ばっかり探して、諦めることこそが大人なのだと言い聞かせて好きなものから遠ざけて、なりたくない大人になった。逃げたくなる。でも、どうせいつかの私はあのとき奏斗から逃げなければよかったと後悔することになる。いつか捨てられるのではないかと言う恐怖も生まれるだろうけれど……。
でも、どうあがいても苦しいなら、今の私が一緒にいたいと心から想う人とともにいることを選ぼう。
今は、ただ。
そっと熱い身体に心を預けることにした。
奏斗に手を引かれてお会計もせずに店を出た。幸喜のことなんてまったく眼中になくてどうしようと立ちどまりそうになった。
『あいつに払わせちゃお。凜さんを傷つけた罰にしてはまだまだだけどさあ……』
奏斗にそう言われて、ああ、そういえば彼に私はあんなに傷つけられてきたのだから、このぐらいはいっかとお酒も入っているせいかすんなりとそう思えた。
気付けばあっさりと私の家の中で、しばらく沈黙が続いた後私がそっと口を開いた。
「喧嘩、慣れているの?」
「うーん、まあ修羅場には慣れてるほうかなあ。暴力は嫌いだけどねえ」
「そう……」
幸喜と対峙していたとき、妙に肝の座った様子にそんなことを聞いてしまったけれど、会話はあっさりと終了した。それはそうだ、本題はそこじゃない。どう切り出していいのかと言いあぐねていると奏斗が重たそうに唇をこじ開けた。
「ねえ、凛さん。おれ、凛さんのこと、好きだよ」
「……ほんとうに?」
奏斗の言葉についそう返すと、彼はくしゃっと、今にも泣きだしそうな子どもの顔になった。ああ、しまった。奏斗を疑っているわけじゃないのに。疑うのは臆病になってしまった私のせいで奏斗のせいじゃないの。
ごめんねを言う前に奏斗が言葉を零す。
「どうしたら信じてくれる?おれ、わかんないんだよ、好きとか嫌いとか、でも、凛さんとはずっといっしょにいたい。凛さんがおれのこと好きって言ってくれてほんとうにうれしかった。俺じゃなくてあの元カレさんと一緒にいることを選んだらどうしよって、吐きそうだったんだよ。すき、すきだよ、凛さん。もう凛さんのところにしか行けないよ。おねがい、がんばって就職する、もうほかの女の子のところにいかない、だから、おねがい。俺だけの凜さんになって」
ぽろぽろ、と思ったことをひたすら声にしているような奏斗。いつもの笑顔はどこに行ったのか悲哀にこもっていて、懸命さがこれでもかと伝わってくる。
静かに訴えかけるようなのに強烈で、縋るように私の手を力強く握る。私はその手を握り返した。
奏斗がこんなに本音を曝け出してくれたのだから、私も隠しごとをするのは良くないと思った。
「それを言うのは、私じゃない?私、30超えて、あなたはまだ20代でしょう?私ぐらいの年齢になると、その、結婚とか子どもとか、意識しちゃうから」
今のご時世、男女問わず結婚に縛られない人が多い。私もまだ縛られたくないと思うこともあるけれど、どうしても重くなってしまうの。子どもを持つという想像ができないけれどいつかはやっぱりほしいと思ってしまうから、奏斗からすると重荷に感じるかもしれない。
「……俺、前、よく気軽に結婚する?なんて言えたよね」
怯えを吐き出した奏斗は硬い表情。ああ、やっぱり嫌かな。近付きたいのか遠ざけたいのか私にも分からないけれど、心が冷える。
「半端な気持ちで言うべきじゃないよね、その重み、俺にはわかってなかったんだね、ごめんね」
やっぱりだめかな。泣きたくなって俯いてしまう。
「でも、あえて言うよ」
頬に手を添えられて、目の前の真剣な目と私の頼りない目が合った。
「結婚しよう、凜さん」
重くて相手を縛る言葉だと、そう理解した上で奏斗はそう言った。
『うれしい』
他の誰でもない私だけを求めるその言葉に、心が震える。何も考えずに頷いてしまいたくなる。でも、その行動を押し止めたのは理性の残った頭の中の私。奏斗は、ヒモだ。私は、ヒモを養うことはできない。
「……寝言はヒモ脱却してから言って」
「あは、やっぱり凜さんは手きびしいや」
私のいつも通りの、でも真剣な返事に奏斗はいつも通りのどこか達観したように笑って手を引いた。その熱を、今度は私が掴んだ。
「夫婦って支え合うものなのよ。全部寄り掛かるつもりはないし、そこまで収入のことを言うつもりは無いけれど、ヒモはいや。……奏斗の好きな仕事、いっしょに探そうよ」
「俺の、好きな仕事……」
「私はまだ奏斗のことをちゃんと知らない。奏斗も私のことを知ってるわけじゃない。それに、私だって派遣社員で正社員じゃないから、奏斗のことをそこまで言える立場でもない。お互い社会からすると不安定な立ち位置という意味では変わらないから……だから、これからどう生きるか、二人で考えよう?一人で諦めることは、もうしなくていいの。私を支えてほしいし、奏斗を支えたい。そんな関係から、はじめましょう?」
「ふたりで」
「うん。……平たく言うと、恋人、になりましょう、と言っているんだけれど」
どうかしら?と最後だけ震えてしまって一気に頼りなくなってしまったけれど、私を抱きしめてきた奏斗も同じぐらい気弱な声で安心した。
「りんさん、俺、すごくさ、胸がいっぱいでくるしいけれど、すっごくここにいたいよ」
「ここにいてよ、おねがい、私はもう奏斗といないほうが苦しいよ」
「うん、おれも」
満たされた気持ちで力の限り目の前の熱をがむしゃらに抱きしめた。奏斗も離さないと言わんばかりの力で咳が出そうになるぐらい縛るように抱きしめられる。お互いの熱が伝わるように。そんな祈りを込めて。
「奏斗が好きよ」
「っ、うん、うん……おれも、凜さんのこと、だいすき」
しばらく抱きしめあったあと、至近距離を目を合わせてどちらからともなくキスをした。
心が繋がったような、そんな感覚に奏斗と幸せだねと、少し涙目で顔を赤くして笑い合った。
――ピピピピ。
「んん……」
スマホで設定されていた目覚ましが鳴り、意識を浮上させて操作して止める。
ぼんやりとする頭で隣に視線をやるとそこには健やかに寝息を立てる奏斗の姿があって、昨日のことは夢でもなんでもなく、奏斗と気持ちを繋げたことの証明だった。少しずつ覚醒していく頭はまず喜びで満ち溢れた。
あの後、何度かキスして抱きしめ合った。そこまでは覚えている。でも、肌と肌を触れ合わせた記憶がなくて、お互い寝間着にも着替えず洋服のままでベッドでふたり眠っていたことから、記憶通りいつの間にか寝てしまっていた。
『大事過ぎて、どう抱いていいのかわからない』
こんなこと、今まで言われたことなんて無くて、性欲とかではなくただ共にいることが嬉しいと思える相手になれたことが嬉しかった。
それなら今日はただ抱きしめ合ってキスをしようと決めて、思う存分身体触れ合うだけにしたのだ。
「すー……」
(……きれいね、あ、そうだ)
未だ夢の中の奏斗が覚めないようにそっとベッドから抜け出して一眼レフカメラを持ち出して、レンズ越しに彼を映し、シャッターを押す。
外は曇っていてもうすぐ雨が降り出しそうで、部屋は薄暗くて、写真を撮る環境は最悪と言ってもよかったけれど、それでも。
「ふふ、素敵な写真が撮れた」
私は幸福で満ち溢れていて、この気持ちに今日だけは誰にも邪魔されずに奏斗と浸っていたくなった。奏斗が起きるまで何度か写真を撮って、何度目かのシャッター音でぼんやりと目を開けていく姿を只管撮って、私が何をしているのか理解した奏斗はふにゃりと笑いかけて。
「カメラを持つ凜さんはこんなに生き生きしているんだね。すごく好き」
幸せな朝だった。いつの間にか出勤時間を過ぎてしまっていて、昨日からお風呂も入っていないことに気付いてもういいか、と笑えてきて会社に電話をかけた。
私はこの日、初めて病気以外の理由で会社を休んだ。