寝言はヒモ脱却してから言え!
『これがすき、あれはきらい。あそこは行きたい、これは行きたくない』
幼いころは素直に口に出していた単純な好き嫌い。特に何も考えずに声に出していた。当時の好き嫌いはよく覚えていないけれど、甘いホットケーキを出されたときとクリスマス会で貰った猫の写真集のことは覚えている。
ホットケーキは母さんの得意料理で中学まで必ずおやつとして出されていてそれに飽きてもういらないと断ったし、猫の写真集はきっと同学年の保護者が作ったきっと今見ればあんまりクオリティは高くないかもしれないけれどそこに映された真っ白な猫の気ままな姿は貰ってから毎日見るぐらい気に入っていたことをよく覚えている、おばあちゃんからクリスマスに貰ったピンク色の洋服に見向きもせずに。
『せっかく出してやったのになんて口の利き方をするの!!ほら、食えよ!!私が作ったものをちゃんと食べなさいよ!!』
『ゲホっ、うえ……』
いらないと言ったホットケーキを母さんは力いっぱい掴んで俺の口に無理矢理突っ込んでとても苦しかった。思わず吐き出した俺の頭を掴んで柔らかいホットケーキに顔面を押し付けられてメープルシロップが鼻に詰まって気持ち悪かった。
『そんなものいらないだろ!』
『やめてよ、やめて!』
毎日見ていた真っ白な猫の写真集は目の前で火を点けて燃やされて無残な黒いカスになったそれを泣きながら眺めることしかできなかった、泣きはらした俺におばあちゃんは一度も着ていなかったピンク色の洋服を着せて満足げに笑っているのをどこか遠くで眺めていた。いつまでも俺が笑わないのが気に食わなかったみたいでその後首を絞められた。
いつもねじ伏せられてきた。俺の嫌いも、好きも。
好き嫌いはよくないのだと与えられるもの……特に女性の全ては必ず愛すべきだと。
気に入らない返事に暴力を振るわれてぶたれて蹴られて時には首を絞められた。俺の身体に馬乗りになって首に手を回してぐうっと喉仏を抑え込むようにして体重をかけてくる。
俺の身体が大きくなってからはそういうことはされなくなったのは母さんとおばあちゃんが穏やかになったのか、俺が母さんとおばあちゃんが気に入る返事をすることが上手くなっていたのかもう分からない。中学ぐらいまでだったかな。今の俺はホットケーキと猫の写真集のことしか覚えていないけれど身体が小さいころは何度もされてきた。だから。
俺が今首を絞められているのは夢の中のことだとすぐに分かった。
「っ、う、やめ……は……っ!……あ、はあ、はあ……」
目を覚ませば白い天井とふわふわの布団に包まれていて、ここが麻耶ちゃんの家だと分かって身体の力が抜けた。スマホを見ればもうすぐ12時になるところで、麻耶ちゃんは仕事に行っていて俺一人だけの空間だ。ここのところ俺が上手く眠れていないことには気が付いているのかな、麻耶ちゃんのことだから気付いていても見ないふりをしてくれていそうだな。その見た目によらず干渉しないところが好ましかった。起き上がり顔を洗って服を着て水を飲みながらソファーに座る。
「ふう……」
やっとここが母さんとおばあちゃんがいる夢ではなく誰もいない現実であることにホッとする。
最近首を絞められる夢を見るんだ。母さん、あるいはおばあちゃんに。今のは……誰だったのかな、顔が燃えているみたいに赤いことしかわからなかった。これはいつものことだからあまり気にすることじゃないんだけれどね。
あんな夢を見るのは初めてじゃない。まあまあよく見る夢だから。
中学卒業、高校卒業、大学入学みたいに新しい環境になったときとか。おばあちゃんが亡くなって母さんが精神科病院に入院したときとか。大学卒業して就職して一人暮らししたときとか、新卒で入った会社に退職届を出したときとか。いつの間にか見なくなって、忘れたところにまた見る。その繰り返しだった。
どうしてこんな夢を見るのか考えたこともあったけれど、そのうち考えるだけ無駄だと感じてからなあなあにしていた。でも、今回はタイミングがはっきりしている。先週、凛さんとデートしたあの日からだ。
『いいじゃないの。好きなものは好きで。私の欲しい言葉を投げかけてくれる奏斗も嫌いじゃないけれど、自分自身の好きなものに目を輝かせるあなたを見るのは結構好きよ』
そんなこと、初めて言われた。
凜さんに、いや、誰にも俺の昔のことは言ってない。俺のことなんて誰も気にしていなかったし、わざわざ言うことでもないと考えていたから。いつも女の子のことを考えて行動して言葉を出していた。相手が気持ちよくなれるようにするのが俺の役目だと、そう思ってきた。
好きなものに目を輝かせる俺のことを好きだとそう言ってくれる、なんて。信じられなくて、でも嬉しくて、凜さんのスマホの中の俺はいつもよりもキラキラしていて少し恥ずかしくて、くすぐったくて。凜さんが俺を真っすぐに映しているあの瞳がたまらなく心地よかったんだ。
ソファの上で体育座りしてぼんやりと麻耶ちゃんの部屋を眺める。
いつも転がり込む女の子の中で多分一番綺麗で大きな部屋。建築デザイナーってきっとすごい職業なんだろうな。俺にはよくわからないけれど……好きなことに打ち込む子って本当にすごいや。そういえば麻耶ちゃんも凜さんも『好きなもの』を話すときはキラキラしているな。俺も凜さんの目からそういう風映っていて、それを撮りたいと思ってくれたのかな。
「うれしい、な」
母さんやおばあちゃんに喜ばれるよりも、空気が読めると今まで一緒にいた女の子たちに言われることよりも麻耶ちゃんに気持ちよくさせてくれるバイヴと認めてもらうよりも、何よりも嬉しいと感じる。意識せずに口角が勝手に上がる。胸がふわふわする。『俺』のことを知って『俺』を受け入れてくれることがこんなに気持ちいいことだなんて思ってもみなかった。
(明日、俺どんな顔で凜さんと会えばいいんだろ?)
こんな気持ちになるのは初めてのことでどう処理をしていいのか分からない。でも決して凜さんに会いたくないわけではない、むしろ逆で、でもどんな表情で凜さんと顔を合わせいいのか分からない。今までの俺、どうしていたんだっけ。
そんなことを考えたのと同時にスマホが鳴る。確認すると凜さんからのメッセージですぐに開いた。
『ごめん、ちょっと体調が悪くて明日明後日は会えない』
『え、体調大丈夫?俺のことは気にしなくていいからゆっくり休んで。最近寒暖差激しいからかな?あ、お見舞いに行こうか?』
『ありがとう。ううん、大丈夫。インフルエンザも流行っているし、奏斗は来ないで』
『そう?欲しいものあったらいつでも言ってね?お大事にね!』
明日明後日どう凜さんと顔を合わせようかなと悩んでいた矢先のメッセージ。凜さん一人暮らしだし、すごく心配で本当はすぐにでも駆け出していきたいけれど来ないでと言われてしまったから俺は何もできない。……凜さんの恋人という立場だったのなら、遠慮なく凜さんの家に行って看病したって文句言われないのかな。なんてことを思ってしまうぐらい心配で拒絶にちょっとだけ、勝手に傷ついた。俺は凜さんの傍にいられないろくでなしなのに。
「……大丈夫かなあ」
一人で住むには俺には広すぎる部屋の中で呟いた自分の声は随分と情けないもので、きっと今の俺の表情も声と同じようなひどいものなんだろうなあと他人事のように思った。そのときには夢のことなんて忘れていた。
2月26日、週明けに凜さんに連絡して体調を聞いてみるとただの風邪だったみたいでもう治ったという答えで俺は心底安堵した。今週は会えるんだとそう思うと勝手ににやにやして自分のことを気色悪いと思いつつもやめられなかった。
その日夜に帰ってきた麻耶ちゃんが何かを見透かすような視線を俺に送っていたことに、気付くこともできなかった。
2月29日。そういえば今年はうるう年だったけ、去年も29日までなかったけ?なんて思いながらスマホを眺める。そんなことよりも明日は二週間ぶりに凜さんと会える日だ。
『体調はどう?明日は大丈夫そうかな?』
『ええ、私は大丈夫。奏斗も体調大丈夫?』
お昼休みを狙ってメッセージを送ると5分ぐらいで返信が届く。口角が勝手に上がっていることにも気が付かないまま画面をスライドして文字を打ち込む。
『ぜんぜん元気!凜さんと会えるの楽しみにしてる!』
『わたしも』
返信はとっても簡潔で少し素っ気ないものだったけれど、それでも俺と同じことを想っていると返ってきたことが嬉しくて笑ってしまう。
「へへっ」
でも急上昇した気持ちは突然芽生えた『お世辞だったらどうしよう』というネガティブなもので覆いかぶさって次は凛さんとのやり取りとにらめっこした。
「……気を使ってくれているだけかも?」
見た目はクールビューティで少し冷たい印象を受ける凛さんだけれど、結構気遣い屋さんだから本当はそう思ってないけれど俺がこう言うから同意だけしている可能性は十二分にあり得ることだ。はっきりとした物言いをするけれど案外繊細な人だからね、前の彼氏にずっと浮気されていても言いたいことも言えずに我慢し続けていた凛さん。
「どんな人だったんだろ」
凛さんに一途に思われていたくせに、他の女性のところに行って彼女を傷つけ続けていた酷い元彼とやらは。凛さんは今もまだ元彼のことが好きなのかな。凛さんと俺の関係が始まった頃はよく話していたけれど、今はあまり聞かなくなった男。
凛さんの強く意志の持った目を潤ませてぐじゅぐちゅにさせた男、どうして凛さんはそんな男のことを好きだったんだろ。……一夜の寝床のためにそんな弱った凛さんにつけ込んだ俺がこんなこと、言える立場じゃないんだけれど。
「……なんか、もやもやする」
胸あたりが何か、靄がかかったみたいな気持ち。
切り替えようと水を飲んでも凛さんのことと元彼のことと俺のことで延々と悩んでしまう。こんな気持ちで明日凛さんと笑えるのかな。こんなこと初めてのことでどうすればいいのか分からない。一人の女性のことを考えるのも、前の男のことを考えるのも、俺のことを考えるのも何もかもしたことがないことだもん。わかんないよ。誰かのことも自分のことも考えたことなんてなかったんだもの。ソファーに転がってうにうにと悶える。
「ただいま〜」
「!お、おかえり、早かったね」
のんびりとした可愛らしい声が響いてめちゃくちゃビックリした。起き上がり見上げるとそこにはいつも通りふわふわとした見た目の麻耶ちゃんがいて驚いたと同時に安心した。
「あら~?今日半休だって言っていなかったかしら~」
「初耳だよ」
「あらま~」
スマホを覗いてみると17時を少し過ぎたところで、凛さんから返信が来てから3時間ぐらい経っていたことに驚きつつも立ち上がり麻耶ちゃんの好きなアップルティーをピンクの花柄が描かれた白いマグカップに注いで砂糖を5杯入れて手渡した。最初は甘すぎるんじゃないかと思っていたけれど今では麻耶ちゃんが飲むのだからこのぐらいは入れないとという気持ちで、すっかり慣れた。麻耶ちゃんといるのは心地よかった。優しくて甘やかだけれどあまり干渉してこなくてとても気楽だった。最初から俺のことを『バイブ』として求めていると言ってくれたからか、それとも俺よりも大事な夢があるからかそれ以上になることは無いと安心できた。今まで麻耶ちゃん以外にもいたけれどあまりそういう人って長続きしないんだよね。
「あのね~私、海外に行くことになったの~」
「え、突然だね」
「まだ正式ではないし結構先の話だけれど~ほぼ確定だ言われたのよ~。たぶん9月末には向こうにいくことになるわね~」
「そうなんだ、どこに行く予定なの?」
「予定通りならイタリアよ~あちらの建築は日本とは異なるから楽しみで仕方ないわ~。イタリア語は前に勉強していたけれど、最近全くだったからまた勉強しないとね~」
「そっか。頑張ってね。俺はどうしようかなあ……金曜と土曜開けてもらえる子いるかなあ」
麻耶ちゃんが今年海外に行く。驚いたけれど、納得する。
俺が居心地が良いと思える子ってそういうこと俺よりも大事なものがあるからあっさりそちらを優先する。今までそれに不満に思ったことはない。夢が叶うのはいいことだよね。麻耶ちゃんも建築デザイナーとして海外勤務をするのが夢だったからね。嬉しいな、絶望に喘ぐよりも希望に輝く姿が人って綺麗だもん。凛さんも、カメラのこともっと話してほしいな。もっと知りたい。最初がとても痛々しかったからその分幸せになってほしいよ。できれば俺もそれを見ていたい。
「ねえ~奏斗くん~」
「んー?」
「もうヒモはやめたほうがいいと思うわよ~」
「え、どうして?」
突然干渉するようなことを言われて不快感よりも驚きが勝った。
今まで俺が凛さんのところに行っても今までもこれからもヒモだと思うと言っても『そうなのね〜』としか言われなかったのに突然そんなことを言うなんて。今になって説教でもしたくなったのかな?夢に向かっている人間からすると俺って不愉快だと思うし。そんな予想をしながら麻耶ちゃんの言葉の続きを待った。
「好きな人がいるならせめてバイトでもいいなら、働いた方がいいわよ~」
「……え?」
「まあ、その凛さん?だったかしら〜その人が夫を養いたいというタイプなら別だけれど~」
「いや、前プロポーズしたら寝言はヒモ脱却してから言えって怒られた」
「あらま~じゃあ頑張らないとね~」
「え、待って。俺って凜さんのこと好きなの?」
「少なくとも私の目からそういう風に見えるわね~」
「麻耶ちゃんの勘違い……」
「私割と鋭いタイプよ~」
麻耶ちゃんの笑顔は崩れない。いつも通りの温和で優しい。だけれど、目の奥は笑っていない。冷たいというわけではないけれど、こう言っている。
『逃げるな』と。まさかの麻耶ちゃんからの言葉に俺は狼狽えるばかりで、逆に目の前の彼女は冷静に砂糖たっぷりのアップルティーに口をつける。
「無自覚さんだったのね~私が言うのも少しおかしいかもしれないけれど~その気持ちは大事にするべきだと思うわ~。好きってとーっても素敵なことだもの~」
「そんな、でも、俺今までそんな……」
「ふふ〜好きになるって言うのは理屈じゃないのよ~。心が訴えているものだから、いくら頭で考えったってむだなのよ~」
「え、恋ってこわ……」
「怖いわよね〜」
何とか口角を上げながら茶化すようにそう言っても麻耶ちゃんは言葉を撤回することはなかった。……俺が凛さんが好き?わかんない。わかんないけれど、今この部屋にいるのは酷く居心地が悪かった。
「……ちょっと、外、出ます」
「はーい、いってらっしゃい~。気を付けてね〜」
適当な服を着てほどほどに整えて俺は麻耶ちゃんの家から逃走した。格好悪いことこの上ない。逃走なんて彼氏いないと言っていたのに本当はいてその彼氏さんにブチギレられて殴られそうになってこの人とは別れるから俺と付き合いたいと言ってきた女性から逃げて以来初めてのことだった。しかも怒られていないのに逃げたくなったなんてさ……。
どうしてあんなに居心地が悪く感じたのかな。
電車に揺られながらぼんやりと考えた。的はずれなことを言われたから?説教だと思ったから?いや、そのぐらいなら別に今までもよくあったし、適当に流せたはずだ。それならなんで?それに凛さんが好きでしょうと言われても強く否定できなかった。
(きらいじゃない、けれど)
これが好きなのか分からない。恋なんて知らない。愛なんて知らない。好きも嫌いもない世界にいた俺にとって好き嫌いがわからなかった。
駅内のアナウンスを聞いてなんとなく降りて改札をくぐって町中を歩きながらぼーっと考える。とりあえず、最近指摘された俺の好きなものを思い浮かべてみた。
(結局好きがわからなくなってきちゃったな。それなら嫌いは……甘いものと、ピンク、かなあ)
やっぱり曖昧だ。うーん、よくわからなくなってきた。
(俺の好きなもの。ラーメン、コーヒー、動物。それ以外は、なんだろう)
身近なもので考えてみよう。
女の子、はどうなんだろう。母さんたちから言われて大事にしなければいけないと思っていたけれど、好きかどうかって考えると分からない。母さんもおばあちゃんも育ててくれた恩はあると思う。でも暴力を振るわれていたことを考えると簡単に好きとは言えない。あまり俺を外に出したくなさそうで、遠足も修学旅行も行かなくていいと言われたなあ、そういえば。
それなら父さんは……うーん、やっぱり分かんない。いつも家にいない人で、たまに帰ってきてもあまり話さなかったからなあ。生活費とか学費を出してくれたことは感謝するべきなんだろうけれど、俺に関心はなかったし、今も連絡先も知らない。俺が頑張れば連絡出来るかもだけれど、そこまで父さんに今日がない。きっとあっちも同じことだと思う。
くう、とお腹が鳴る。スマホを見ると19時を少し過ぎたところで、そう言えば今日何も食べてないやと気が付いた。この辺りは居酒屋が多いし、適当になにか食べようかな。誰からもメッセージは来ていなくて少し残念に思う。
「酒、かあ。どうなんだろうなあ」
女の子と行くなら、の前提で居酒屋を選ぶこともあるけれど、俺の好き嫌いの基準だと酒はどちらなんだろ。それを考えるのもいいかも、と見覚えのある居酒屋のドアを開ける。時間もいい感じで仕事終わりの人がいるから少し混んでいたけれど、木曜日のおかげで並ぶほどではなくて店員さんにすぐにご案内できるとすぐに通してくれた。
(ああ、そうだ。凛さんと飲んだのってここだったなあ)
凛さんが元彼にお別れを告げて俺と出会ったときに案内したお昼からやっている居酒屋だ。会社員らしき人たちで溢れていて活気があった。テーブル席が手前にあってカウンターは仕切りを挟んだ奥にある、奥の方は静かで女の子と話すのに丁度いい雰囲気だった。また凛さんと来ようかな。明日仕事帰りにでも久しぶりにどうかな、て。
頭の中で凛さんのことを無意識に思い浮かべることの理由に行き着くよりも先に声が響き渡る。
「凛、頼む!話を聞いてくれ!」
「やめて、放してよ!」
活気のある店内に男女の声が響く。わいわいとした和やかな店に似合わない修羅場を予感させる声。酔いが回ったお客さんの一人が好奇の目でカウンターを覗き込み「男女のもつれかあ?」と呟く会社員の男性よりも、男の言った名前に俺は驚く。
(……凛さん?)
凛という名前自体はそこまで珍しくない。でも、女性の声は聞き馴染があって、思わず俺は前にいた店員さんを押しのけてカウンターへと駆け足で向かう。そこには、スーツを着た男女の姿。男が女性の手首を掴んでいる場面。ふたりとも俺に背を向けている状態だったから顔はわからないけれど、でも、俺が間違えるわけない。ほぼ毎週一緒にいた彼女のことを、凛さんのことを。
「なあ、頼むよ!俺にはお前しかいないんだ!」
「店に迷惑になるでしょ、本当にやめて。触らないで」
「なんでだよ、いつもは何も言わなかっただろうが、あのぐらい、なあ、これからはお前だけしか見ないから……」
「ずっと我慢していたのよ。もう我慢は疲れたのよ。私もう幸喜のことは忘れていたわ」
「そんなわけない!凛は俺のこと好きだっただろ!!意地はるなよ、お前を理解してやれるのは俺だけだって、凛だって気付いているだろ?俺だってお前のことが必要なんだよ」
「……」
男の諭すような言葉に凛さんは掴まれている手を振り払う抵抗をやめた。
(え、うそ。やだ)
まさか耳障りのいい言葉に絆されてしまったのだろうか。受け入れてしまうのだろうか。俺は絶望的な気持ちになる。心臓がなる音が耳元で聞こえる。気持ち悪い。いやだ、凛さん。そんな男といたって幸せになれないよ。俺のことを、切らないで。
凛さんが無抵抗になったことを幸喜と呼ばれた男も復縁出来ると確信したのか掴んだ手首をそのままに空いた手をそっと凛さん頬に寄せる。俺はその手に凛さんに触れてほしくないと叫びたくなった。実際駆け出そうとした。
「なあ、凛。俺と……」
「いらない」
「は……」
でも、寄せられた手を軽くでもしっかりと叩いて凛さんは拒絶する。予想外のことに俺も男も驚く。あっけに取られている間にしっかり拘束されていた手首も振りほどきながら淡々と続けた。
「あんたみたいな、私の誕生日も浮気してすっぽかす最低男なんてもう必要ない。今の私には写真を撮ってほしいとそう言ってくれる人がいるの。私が私のことを好きになれる、彼といると前向きな気持ちになれるそんな人といるの。その人と一緒にいたいから、私は幸喜といられない。私は幸喜といても幸せになれないし、幸喜も、私じゃないほうがいい。だからもう、ここで関係は絶ちましょう」
(凛さん)
静かな、でも意志のはっきりとした声でそう言い切った。復縁する気はないのだと、他に好きな人だと遠回しに言った。あの男ともう復縁しないことに心底安心しながら、また心臓がドクドクした。さっきみたいな嫌な感じじゃない。もっと熱くて逃げたいようなここにいたいような変な気持ち。顔が勝手に熱くなる。
(今言っていたの、俺のこと?)
前向きになれる、一緒にいたい、て。写真を撮ってほしいって言ったの、俺だよね?え、俺だよね?2週間前そう話したよね。凛さん、俺のことそう思ってくれたの?……嬉しい、な。
「っこの、クソ女!黙って俺の言う事聞けよ!」
「!」
言う通りにならない凛さんに男は苛立ったのか手を振り上げる。凛さんは肩を揺らしながらも突然のことに反応できない様子で、俺は今度こそ凛さんに駆け寄った。
「え、かなと?」
突然の俺の登場に目を見開く凛さんが可愛くてたまらなくて俺の腕の中に閉じ込める。
俺は好きなものが分からない、嫌いなものも分からない。全てに対して普通としか言えなかった俺に好きなものを教えてくれた人。凛さんといると、俺は幸せ。凛さんも俺といるのが良いと言ってくれた。心あったかいな。嬉しいな。好きだな。
あ。俺凛さんのこと好きなんだ。だから、渡したくないって、俺との時間を切ってほしくないって、思ったんだな。手のひらに汗を掻くなんて初めて知ったよ。
「なんなんだよ、てめえ!部外者が出てくるな!」
凛さんを片手で庇うように抱きしめてもう片方で男の手を払った。凛さんみたいに軽くじゃない、思いっきりはたき落とした。
スーツを着た男が叩かれた手を抑えながら喚く。きっと俺とは違ってちゃんと就職している男なんだろうな。新卒で会社員になってすぐ退職届けを出して以降ヒモの俺にはしっかり者の凛さんと釣り合わないだろうな。そんなのわかってる。でも。
「ううん。俺だよ。凛さんがいっしょにいたい人。で、俺も凛さんにいてほしい人なんだよねえ」
お互いそう思っているのなら、きっと間違いじゃない。ううん、間違いだと思われないようにしなきゃだね。
本当は、ここで宣言しておいて凛さんの言う一緒にいたい人が俺じゃない違う人だったらどうしよう。内心そうちょっとだけ怯えたけれど、腕の中にいる凛さんの顔が赤くなって俺の腰に手を回してくれたので、俺は胸がはち切れそうになるほどドキドキした。