寝言はヒモ脱却してから言え!

 2024年2月17日10時27分上野駅にて。
 博物館やアメ横に動物園が有名な駅である。
「いやー結構人多いねえ」
「そうね」
 奏斗とともに上野駅に降り立った。外国観光客や少し年配の女性、博物館や動物園が目当てなのか家族連れやカップルなど、いろんな人が歩いている。そんな私たちも周囲からすればきっとカップルに見えるのだろう。実際これから行くのはパンダが有名な動物園だから目的も間違えていない。私と奏斗は恋人ではないけれど。
 隣の奏斗に視線をやると目が合いニコッと笑いかけてくる。ゆるっとした雰囲気の彼の笑顔は何だかこちらの心を柔らかくさせる何かがある気がする。


 何故私たちがこんな日の当たる健全な時間にカップルが行くようなところに向かうことになったのか。端的に言うと、まあ、私の気紛れだった。昨日の夜、いつも通りダラダラと炬燵でコーヒーを飲んでいるところでふと奏斗が見ている動物の動画が目に入ってそう言えば長らく動物園とか行ってないな、最後に行ったのいつだっけと考えていたら久しぶりに動物をぼーっと眺めるのも悪くないかなとそう思って。でも平日ならともかく休日に一人で行くのは勇気がいる。それなら目の前の奏斗を巻き込んでしまおうなんて思い立ってそう誘ってみた。



「ねえ、明日動物園行かない?」
 そんな突発的な私から誘いに炬燵に足を突っ込み、テーブルに突っ伏して動画を見ていた奏斗は目を丸くして起き上がる。さっきまで最早日常会話の一つと化した「結婚しない?」「寝言はヒモ脱却してから言え」というやり取りをした直後の誘いで、我ながら突拍子もないなあなんて思う。

「え、おれと?動物園?」
「うん。動物園。あんたが動物の動画を見てるから行きたくなったから行こう。いいわよね」

 自分で言っていておいてあれだけど随分と自分勝手な言い分だなと思いつつも、強ち間違えてもいないことなので構うものかと開き直ることにする。よく動物の動画を見ているのだから動物が嫌いと言うわけでも無いでしょう。たまにあの獣特有の臭いがだめという人もいるけれど。

「よっしゃー凛さんとデートだ」

 そう言って笑う奏斗の表情はいつもみたいな私の顔色を伺う探るような笑顔とは違う、もっと子どものような無邪気さを感じた気がした。

「おれね、実は動物園はじめましてなんだよね」

 動物園に入ってすぐ奏斗はそんなことを呟いた。独り言のようなそれは騒がしい子どもの騒ぐ声と動物の鳴き声の中でも私の耳は聞き逃さなかった。小学校の遠足とかで行かなかったのとか家族と出かけたりしなかったの、とか聞きたいこともあったけれど、あまりに奏斗の目が輝いているように見えたのでこんなことを今聞くのは野暮な気がして感じた疑問はスルーすることにした。

「そうなの。それならあそこでゾウを連呼している男の子と同じぐらい楽しみだった?」
「うん。いつもテレビとか動画でしか見たことなかったけど……臭いすごいね。慣れてないからかな」
「そのうち慣れて気にならなくなるわよ。まずはレッサーパンダを見に行きましょう」
「う、うん。あ、あとゾウとキリンと……パンダもいるんだよね。あとトラとゴリラにハシビロコウと、カモノハシと」
「大丈夫、動物は逃げないからゆっくり見ていきましょう」

 私が想像していた以上に奏斗は動物園に行くのを楽しみにしていたらしい。そういえば今日朝起きたとき楽しみすぎて眠れなかったなんて言っていたわね。どうせ私を楽しませるためのお世辞と思っていたけれど、本当だったみたい。こんなにそわそわして今にも走り出しそうな雰囲気を醸し出してくるんだもの。これが演技だったら俳優になれそう。

(面白い子だわ)

 いつも可愛いくてこちらの気分をよくさせてくれる耳触りの良い言葉を与えてばかりの奏斗の素がこんなところで垣間見れることになるとは想像していなかった。驚くとともにいつもの奏斗よりもラーメンを美味しそうに食べてこうして目をキラキラさせている方が好ましく感じた。
「ゴリラ・トラの住む森?うわあ、気になる……」
「じゃあ、まずはそっちから見ましょうか」
「いいの!?」
 本当は威嚇しているらしいけれどただ可愛いでしかない立ち上がり手(前脚)を挙げるレッサーパンダをまずは見たかったけれど、隣にいる成人男性があまりにキョロキョロと辺りを見回しうずうずしている近くにいる幼稚園ぐらいの子どものようなことをしてくる奏斗を優先することにした。まあ、私は言っても何度も見ているからね。初めての人を優先したほうがきっと楽しいでしょう。そう思い、私たちは先にゴリラとトラが住まう森へと足を向けた。

「ゴリラって意外と怠けているんだねえ」
「どんなイメージだったのよ」
「いつも胸叩いている感じ?」
「そうそう。いつも活動的な?あとそこまでイケメンじゃなかったなあ」
「……それってちょっと前流行ったイケメンゴリラのこと?」
「カレンダーにもなったよねえ。ずっと前のご主人様トイレに飾っていたよ」
「どんな趣味よ。ちなみにゴリラの世界ではあまりモテないみたいよ」
「え、そうなの?人間の価値観とゴリラの価値観の相違だねえ。あ、トラは予想以上にねこちゃんだった」
「まあ、ネコ科だし……って、奏斗。猫のことねこちゃんって言ってるの?」
「ダメ?」
「ダメじゃないけれど」
「ダメじゃないけれど?」
「あざといわね」
「えー……」

 ゴリラとトラの住む森を見てからようやくレッサーパンダのところに向かう……つもりだったのだけれど。キリン……なんて呟くものだから、ついつい足がそちらへと向かって行ってしまった。仕方ないわよね、だってこんなに楽しそうにしている成人男性なんてあまり見ないのだから。



「首なっがー……え、キリンって首折れても生きてるんだよね、やば」
「縄張り争いになるとすごい勢いでぶつかり合うものね、本当よく生きてるわ」
「そんな睫毛ばっさばさの可愛い顔しちゃって激しいことするんだもんねえ……」

 キリンを見上げている奏斗の横顔から見える睫毛も男の子にしては長いような気がする。寒いけれど雲一つない青い空の下、柵を掴んでいる大きな手と横顔を間近で見て、何かがうずいた気がした。
(?)
 胸に手を当てて首を傾げた。何に対してう疼きを覚えたのか一瞬分からなかった。でも、それは前の私が嫌になるほどに感じていた衝動であることにすぐに気が付いて、スマートフォンを手に取る。昔いつも持ち歩いていた相棒よりも軽くて頼りなくて落ち着かないけれど、撮れないよりはましだと思う。

「ねえ、写真撮ってもいいかしら」
「うん、いいよ」

 私の問いかけに奏斗はあっさりと頷く。こちらを少しも見ずにただただキリンだけを見て。普通の女の子なら、素っ気ないとも取れる奏斗の態度に怒るのかもしれない。拗ねてしまうかもしれない。でも今の私には集中している奏斗こそ求めているからよかった。私が声をかけてしまったことで彼のありのままが消え失せていつもの笑顔になってしまうことが一番求めていなかった。
(撮りたい。今の奏斗を)
 久しぶりに感じた、今私の目で見たものを切り取りたいという気持ち。そんな衝動に従う快楽が楽しくてたまらない。
 キリンの写真はもちろんだけれど、私は動物を柵を掴みギリギリまで近づいて無意識に口角を上げて長い睫毛越し目を輝かせている子どものような奏斗を撮りたくてたまらなくなってしまった。スマートフォンのカメラを起動させて奏斗に向ける。カシャリ、そんなシャッター音は周りの喧騒に掻き消されてしまったのか、熱中していて耳に届いていなかったのか、撮られていることにも奏斗は気が付いていない様子だった。数枚彼の写真を撮った後、キリンを撮る。

(……良い顔。ああ、どうせもう、熱なんて冷めてしまったからと言ってカメラを持ってこないなんて、なんてことをしてしまったんだろう)

 せっかく掃除していたのに。いつものように荷物になるからと持ってこなかった自分を恥じた。あと数か月で解約することになる思い入れのないスマホで撮ってしまったことに言いようも無い不快感を覚えた。……自分が一眼レフカメラで色々設定して考えて撮ったものよりも遥かに綺麗に取れているそれに何とも言えない気持ちが生まれる。
(あまり、スマホで写真撮ったりもしなかったけど……)
 これは確かにカメラを買う人が少なくなるのも頷ける。スマホだけ持っていければ大体のことが事足りる世界で、荷物を減らすことが出来る。カメラを持たなくなったときはこの身軽さに驚いた。楽だと思う気持ちと寂しいと思う気持ちは少しだけ前者に軍配が上がった。今まで必死にしがみついて、いつしか重荷になっていったカメラ。
 でも、今の私は……あの重さが恋しかった。ポツリと誰もいない部屋で残されたカメラのことを想ってしまう。
 長らく使われずに放置されているかつての相棒。ずっと一緒だと疑ったことなんてなかったのに。死ぬ寸前まで写真を撮り続ける。それが私の夢であって私の生まれた理由であって私の使命だと心から思っていた。今思えば何とも青臭くてたまらない。
(いつから。こうなっちゃったのかしらね)
 つまらない女、なんて。
 なりたくなかったのになあ。

「両生爬虫類館なんてものあるんだ!?」
「!」

 センチメンタルにどっぷりと浸っていたら奏斗の驚愕の大きな声が思考の中に割り込んできてすうっと現実に引き戻される。そこにはキリンのことはしっかり堪能できたらしい奏斗が園内マップを広げている姿。両性爬虫類館。名前の通りヘビとかオオサンショウウオとかリクガメとかいるところで、動物が目当てに来る人が大多数であろう上野動物園内にあるそこは少しマニアックだと思う。ヘビとか苦手な人だっているもの、生き物全般が好きじゃないと行こうという気にもならないだろう。少なくともデートでそこに行くカップルは少人数だと思う。

「あるわね」
「へえ〜…………」

 行こうとも行きたくないとも言いださない私をチラチラと伺う奏斗。行きたいけれど私が嫌ならやめておくべきだろうけれどできれば行きたいと言外に訴えてきている。そんな奏斗に私は吹き出しそうになる。少しだけ意地悪をしちゃった。顔に出さないようにしながら奏斗と目を合わした。

「両性爬虫類館ね」
「うん……」
「そうね、行きましょうか」
「!うんっ行こう行こう!」
「あはは、焦らないでよ。こけるわよ」

 私の手を引いて両性爬虫類館へと向かう奏斗に自然と笑みが零れる。

(今度また出かけるとき。カメラは持っていこう)

 
 両手で収まってしまうほどの小さくて持ち運びやすい軽くてたまらないスマホで写真を撮るたびに女々しくて情けない気持ちが降り積もっていった。

「ええー、もう閉園時間?」
「辺りも暗いし、動物たちももう」
「そっかあ、残念……あっ、レッサーパンダ見てない!凛さんごめん!!凛さんが行きたいって、レッサーパンダ見たいって言っていたのに……」

 気付けば閉園時間30分前で、私が行きたいと言ったレッサーパンダを見ずに終わってしまったことに奏斗はショックを受けていた。
(そう言えば、そう言ったわね)
 途中から写真を撮ることに熱中していて自分がレッサーパンダを見たいと言ったことすら今奏斗に言われてやっと気が付くぐらいすっかり忘れていた。
 
「時間だから仕方ないわよ」
「ほんとうにごめん……」

 奏斗への慰めと捉えられたのか私が強がったと感じたのか、奏斗の表情は浮かないものだった。

(本当に気にしていないんだけれど……)

 言い方が悪かったかしら。
 でも、どう言ってもちゃんと伝わらない気もした。どうしてこうも私の行っていたところに行けなかったことにここまで落ち込んでいるのか分からないけれど、そうもしょんぼりとされるとこっちが悪いことをした気持ちになって仕方がない。……あまり見たくないわね。

「じゃあ、今度保護猫カフェに付き合ってよ。それでいいわ」
「!うん、俺めっちゃ付き合うよ!保護猫カフェ……って普通の猫カフェと何が違うの?」
「触れ合うというところはあまり変わらないけれど、里親を募集しているところでもあるというところかしらね。保護された野良猫や捨て猫たちがいるところだからね」
「そうなんだねえ……そっか、保護ってそういう子たちのことを保護しているってことなんだねえ」

 奏斗は少し寂しそうに呟いた。さっきよりは明るくて笑顔にもなったけれど、陰があるものだった。
 私はあえてそれに気が付かないふりをした。なんとなく奏斗に思うところがあるのかもと感じたけれど、それを踏み込めるほどの仲じゃない。
(よくわからないわね。私たち)
 身体の関係はあるのに、恋人じゃなくて。友人としては随分と歪。かといってセフレにしてはこうして出かけることにお互いに特に何とも思わない。奏斗はヒモだけれど、私は奏斗のご主人でもない。あえて名前をつけるのなら一体なんだろう。何度も考えるけれど、やはり答えは出ないまま。私は会話をすることを決めた。


「そう言えばお昼を食べるのも忘れちゃったわね」
「あ、そういえば………ね、俺。またラーメン食べたい」
「また?好きよね」
「塩ラーメン食べてみたいんだよ〜」
「仕方ないわね」
 スマホで塩ラーメンが有名な店を検索する。そうしながら動物園から出るために足は進める。

 去年ラーメンを食べに行ってからというもの、奏斗はすっかりラーメンの魅力の虜になってしまったみたいで、二週間に一度はラーメンを食べに行っている。

「やったね!凛さんとしか食べられないから嬉しいなあ」
「ああ、今のご主人様はあまり好きじゃないんだっけ?」
「そうなんだよねえ。そんなに量食べられないんだって。甘いものはいっぱい食べるのにね、女の子って不思議だなあ」
「私も女よ」
「知ってるよ〜凛さんとっても美人で大人の女性」
「大人、ね」

 あまり大人って言葉が好きじゃなかった。大人になれ、て我慢しろと同意義だと噛みついた若い日々をつい思い出してしまう。大人、と言われるようになって複雑な気持ちになった。動物園のゲートを通り過ぎ、外に出た。会話は続く。

「奏斗は甘いものはあまり好きじゃないの?」
「うーん……嫌いじゃないけれど、そこまで量は食べられないかなあ」
「そうなのね。ま、奏斗はラーメンとコーヒーと……動物が好きだものね。甘いものとは正反対ね」
「え?」
「?」

 私が言った言葉にてっきり女の子も好きだよなんて返ってくると思い込んでいたのに、突然驚いた声を上げて立ち止まったので私も足を止めて振り返る。そこには、目を見開いて私を見下ろす奏斗がいた。私は首を傾げる。そんなに驚くことを言ったかしら。

「違うの?」
「いや、違わない、のかな?」

 聞き返したけれど奏斗は随分と歯切れの悪い答えで少しイライラした。
 スマホのロックを解除して先ほど撮った写真……奏斗がキリンを見上げてキラキラした表情をしている姿を見せた。てっきり動物だけを撮っていると思い込んでいたらしい奏斗は酷く驚いた様子を見せたけれど、それ以上に液晶の中の自分をまじまじと見ていた。

「……これ、おれ?」

 しばらくして酷く弱々しい声でそう聞き返されてしまった。私は一度深く頷く。

「ええ、おかげで良い写真が撮れたわよ」
「……俺、好きなものわからなくて。これが好きなんだって、そう言っていいのかな、て」
「ラーメンを月2回は食べて私の家に来るときはコーヒーを飲んで、気付けば動物の動画を見て実物の動物もあれだけ楽しそうにしていたじゃない。好き以外ありえないわよ」

 随分と弱気な態度を見せる奏斗にそう説得するように言ってみる。それでも奏斗の表情は晴れない。

「でも、おれ、許されない、とおもう」

 そう言う奏斗は、子どものように見えた。空虚を抱えた、どれだけ叫んでも親が迎えに来ることなんてないと諦めと、それでもなおいつか来てくれることへの期待を捨て去ることもできない宙ぶらりんな、不安定さがあった。冷たい風に靡く髪、日が落ちるのが遅くなったおかげで少し明るいけれど薄暗さの中の子どものような表情の男性の姿。哀愁漂うその姿は酷く、写真を撮りたいと想う気持ちが沸き上がった。
 スマホのカメラを起動させたくなる気持ちを堪えて私は答える。奏斗は何に許されないと言っているのか分からないけれど、自分の好きなものを制限させることこそ誰だろうと許されないことだ。それが家族、親であろうとも、だ。

「いいじゃないの。好きなものは好きで。私の欲しい言葉を投げかけてくれる奏斗も嫌いじゃないけれど、自分自身の好きなものに目を輝かせるあなたを見るのは結構好きよ」
「……!」

 私の言葉に奏斗はビクリと身体が震えた。かと思えば少し笑った。いつものものよりもぎこちなく不器用さのある笑顔。綺麗な作り物じゃない不格好なそれ。
「あは、は。好きってそんな適当な、ものなの?」
「割と適当よ」
 人の気持ちなんてあっという間に変わっていく。目に見えないものは本当に気が付かないうちに変容していくものだから、だから、奏斗が何に怯えているのか分からないけれど、きつく考えなくたっていいの。

「好きなものも嫌いなものも、そのうち変わるものじゃない?だから、あまり気負わなくていいわよ。どうでもいいものが好きになって、好きなものがどうでもよくなることだってあるんだから」

 あのときずっと好きだと思って、これからもこの想いは変わらないと信じていたあの頃を思い返す。そうして諦めというものを知っていくのだと、それが大人になるということなのだといつの日か知ってしまった。幸喜のことも……カメラのことも。全部。いつか変わっていってしまうものなのだと知ってしまった。知りたくなかったしこんな大人になりたくなかった。でも、いつの間にか抗うことすらしなくなった。変わらないものなんてないんだとそんな日々を絶望しながら自堕落に受け入れる。そんな毎日だった。

「でも……俺、凛さんを見ていると変わらない好きもあると思えるよ」

 だから、奏斗にそう言われて驚く。いつものような私を気持ちよくさせてくれるだけの言葉じゃないそれ。すっかり諦めを知った大人になり果てた私には酷く沁みる。

「そう、かしらね」
「うん。……ね、さっきの俺のこと撮りたいと思ってくれたでしょ」
「そっ、んなことは……」
「あは、声上擦ってる」

 奏斗は楽しそうに笑う。さっきの不格好なものじゃない、でも、いつものものともまた違う笑顔だった。とても綺麗だ。撮りたい。

ーーカシャ。

「あ、撮られた」
「!……ごめん、突然……、消すわ」

 さっきは我慢できたはずの衝動は無意識下に行動していて、抑えられることもできなかった。勝手に撮った写真を消そうと操作していると奏斗は慌てた様子で私の手を掴んで制止する。

「えっ、別にいいよ?というかいつでも俺のこと撮ってくれていいよ。どんな瞬間だって怒んないからさ」
「……私、集中すると空気も読まずに撮るわよ?そのせいで元カレにすごく怒られたんだから」
「どういうときに?」
「ふたりで旅行に行って、元カレそっちのけで風景ばっかり撮っていたときとか……夕日に照らされている元カレの顔とか。写真ばっかり撮っていたら俺のことも大事にしろ、て。そこからは気を付けてる」
「なんだか、うーん、元カレさんって凛さんが写真撮るの好きなの知った上で付き合ったんでしょ?それをやめさせるほうが俺わかんない」
「でも、嫌って言われたから……」

 当時を思い出すと苦々しい気持ちが湧き上がる。怒りに目を吊り上げて険しい表情で大きな口を開いて怒鳴らたこと。幸喜を放置してカメラに向き合っていた私が悪かった。それは納得しているし反省していたから、何よりも幸喜のことを優先してきた。……いつの間にか、幸喜は浮気するようになったけれど。結局私は何も残らなかった。それなら写真を撮ることを優先させた方が良かったのかな。どうせ、別れる運命だったなら。

「いいよ」
「えっ」

 頭の中を見られていたのかと思うタイミングで奏斗がそんなことを言うから驚く。奏斗は珍しく真剣な顔をしていた。でも、攻撃的じゃなくて、どこか優しいものだった。

「いいよ。俺、凛さんの写真撮る顔、すごく真剣で素敵だと思う。そういうところ見ていると……ずっとずっと好きだったものが凛さんの中にあって、好きなモノって綺麗なものなんだな、て感じるんだ」
「……」
「俺は、ずっと何が好きか何が嫌いか分からないまま生きてきたから、わかんないことばっかりでさ。でも、凛さんを見ていたらいつかちゃんと分かる気がする。……それに、うん。凛さんの射止めるような瞳の前に立つの、なんか、ゾクッとする。良い意味で」
「なにそれ」
「……なんだろうねえ?」

 奏斗の言葉に首を傾げれば本人もよく分かっていないみたいで同じように首を傾げられた。いや、私に聞かれても。

「だから、今度はさ。俺のこと好きなだけ撮ってよ。スマホでもいいけど、家にあるあの一眼レフカメラでも撮ってほしいな」
「気付いていたのね」
「凛さんの家いっぱい行ってるからねえ。今日持ってくると思ってたからスマホで撮ってて意外だったよ」

 確かに別に隠していたわけでもないから毎週家に奏斗に気付かれていてもおかしくなかったわね。今まで見て見ぬふりをしていたのか、わざわざ言うことでもないと思ったのか。まあ、どちらでもいいのかな。

「……今度は、持ってきていいかしら」
「もちろん、むしろしっかり写真を撮るところ見て見たいよ」
「見世物じゃないわよ」
「あは、分かってるー」

 今回、持ってこなかったのは荷物になるというのもあるけれど、普通の一般的な人から見ると一眼レフカメラを持っていくと所謂『ガチ』感があるらしくて、少し距離を置かれてしまうことがあるということもあったけれど、それは杞憂だったみたい。……というか、私が囚われ過ぎなのかしらね。人の目、というものに。
 でも、奏斗はそんな私のことを即答で頷いてくれて見たいとまで言う物好きだから、気にすることなんてないわね。

「そろそろ行きましょうか。この辺りに焼きあご塩ラーメンがあるみたいよ」
「おー!……って、焼きあごってなに?」
「あごっていうのはトビウオのことよ。大まかにいうとダシの一種ね」
「へえ……よくわかんないけれど美味しそうだね!行こう行こう」



 その後はラーメンを食べて、家まで送ると言ってくれる奏斗を断って上野駅で別れた。ひとりで電車に揺られている間も乗り換えている間も家に最寄り駅から自宅に帰る間もどこかぼんやりして何も考えられなかった。自宅の扉を閉めて廊下を歩き棚の上に乗った一眼レフカメラが目に入ってやっと思考が動き出した。

 奏斗はこのカメラのことをいつから気付いていたのか、最初からなら埃を被っていたことも知っていただろうに、今の今まで何も言ってこなかった。埃まみれだったから色々察して突っ込んでこなかったのかもしれない。私が思っている以上に奏斗は思慮深くて、一線を越えないようにしてきたのかもしれない。奏斗の性格ととるべきなのかヒモとして培ってきた経験なのか私には分からない。でも、気持ちが楽になった。

 一眼レフカメラを手に持つ。
 ずしりと乗っかってくる掌の重みがとても懐かしくて心地良い。
 かつての私はこの重みに耐えきれなくなってしまった。物理的にも精神的にも。昔は常に持ち歩いていたのが少しずつ持ち歩く頻度が減っていき、今では遠出もしなくなったから持っていくこと自体無くなって埃が降り積もっていくばかりだった。

「諦めた。つもりだったのにね」

 好きなものは好き。奏斗に言ったつもりだった言葉はそのまま私に帰ってきた。そして、変わらない好きもあるの思うと言う奏斗の言葉が胸にすとんと落ちる。

「……好きなんだから。仕方ないわよね。ごめんね」

 変わる好きも、変わらない好きも、あるのよね。長年の相棒と自分の好きという気持ちを無かったことにしようとしたことに謝罪をした。心が軽くなった気がした。ぎゅっとカメラを抱きしめて考える。
 また、奏斗と遠出したら。今度こそこの子を持っていこう。もしも奏斗に呆れられても、もう好きを隠せそうにない。
「今度は、どこに行こうかな」
 まずは約束していた保護猫カフェで、ああ、水族館とかもどうかしらね。奏斗は好きなものも嫌いなものも分からないと言っていたから、あえて全く関係ない……遊園地とかアスレチックとかも面白そうね。もっといろんな顔を見てみたい。そして撮らせてほしい。いつものようなご機嫌を伺うようなものじゃない、今日みたいにコロコロと変える表情を見せてほしい。来週会えるのが待ち遠しい。……あれ。

(なんだかこれって恋みたいじゃない)
「…………うそでしょ?」
 思わず頭の中で呟いたそれが妙に腑に落ちてしまって、首を振ってその気持ちは無い無いと無かったことにしようと試みるけれど、無駄な抵抗だった。
 ――とくん。
 奏斗の顔を思い浮かぶだけで胸が高鳴り、心が会いたいと訴えかけてくる。すっかり枯れていたと思い込んでいたのは夢だけではなく恋愛感情で、どちらも今日再熱してしまったのだと分かってしまった。

「うっそお……」

 呆然とする私にまたしてもタイミングよく奏斗からメッセージが来て、ふぎあ、と間抜けな声を上げて身体が跳ねてしまったことは誰にも言わずに墓場まで持っていこうと思う。
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