寝言はヒモ脱却してから言え!
11月26日、20時を少し過ぎたところ、都心のマンションにて。
(駅から徒歩5分って、めちゃくちゃ便利だね)
おかげで寒い外からすぐに抜け出すことが出来る。今までの『御主人様』は駅から離れたところばかりだったし、ここまで大きなマンションでもなかった。これが本当のキャリアウーマンというものなのだろう。何となく納得して入口に入って『503』と番号の後に呼び出しボタンを押す。プツっとした変な音するのは無機質なエントランスとご主人様の部屋とつながった証である。
「やっほー」
『奏斗くんいらっしゃい〜今開けるね〜』
簡単なやり取りの後、ガラス張りの扉が開く。女性の一人暮らしらしくオートロックのマンションで外観もおしゃれで、拘りが垣間見えた。エレベーターに乗りながらさっきまでメッセージのやり取りをしていた、金曜の夜から土曜の夜まで過ごす凜さんのことを思い出す。
凛さんの第一印象は、今にも泣き出しそうなお金持っていそうな女性がいるなあ、だった。
染めたことのなさそうな真っ黒だけれど手入れのされたさらさらの髪に、つり目がちの勝気な雰囲気のあるきりっとした美人さん。美人さんが着るには随分と可愛らしい恰好が何だか庇護欲をそそった。何より宿無しご主人様なしの自分にとって着飾っているのに幸せそうには見えない落ち込んだ様子の女性は、言い方は悪いけれど良いターゲットだった。
あわよくば今度のご主人様になってくれないだろうかという邪念もあって彼女を誘った。
その容姿の雰囲気的にキャリアウーマンっていうやつなのかと思って話しかけたら、派遣社員で金はないといわれて顔には出さなかったけれど驚いたし、そのときまではワンナイトしたどこの馬の骨ともわからない自分を警戒してウソをついているのかと思いきや、嫌がるのを宥めながら家に行ってみると失礼ながら納得した。安さを優先させたような外観とキッチンと廊下が一体化しているリビングの境目すらないワンルーム。お金はないというのは本当だったのだと理解したのである。そこまで考えているとエレベーターがポン、と軽い音とともに停止し鉄の扉が開く。『503』のルームプレートの下にあるインターフォンを鳴らすとカチャリと開錠の音が響いてやっとご主人様との対面である。
「きたよー麻耶ちゃん」
「いらっしゃ~い……って、奏斗くん、くさい~」
「まじで?」
リビングのドアを開くとふわふわのピンク色のルームウェア着た麻耶ちゃんが立ち上がり出迎えてくれたけれど、自分のジャケットの袖を顔に近づけてみるけれど、鼻が麻痺しているのかよく分からずに首を捻った俺のことなんてお構いなしに背中をぐいぐいと押される。
「うん。ニンニクと多分豚骨のいい感じの臭さが漂ってる~リビングに来るのはお風呂入ってからね~。歯も念の為みがいて〜」
「はーい」
今のご主人様は麻耶ちゃんという女の子。28歳で俺とタメということもあり、いつものご主人様よりも砕けた口調で話すことができる。
麻耶ちゃんからも許可を頂い使わせて頂いているのは甘い匂いのするシャンプー、トリートメント、ボディーソープ。順につけて洗い流すを繰り返している間に麻耶ちゃんとの出会いを思い出す。凜さんのところにお泊りをしたその次の日に、アプリで今日の夜に飲みに行ける人で募集していた女の子にメッセージを入れたのが今の御主人様となる麻耶ちゃんだった。ふわふわしていてのんびりとした話し方をする自分が可愛らしいと理解し尽くした雰囲気の女性の麻耶ちゃんという女の子。麻耶ちゃんのおすすめの上品なバーへと向かって、雑談もそこそこに今俺に居場所がないんだ、今日だけでもいいから一緒にいてほしいと遠回しの行く当てのない自分のことを曝け出しつつ、きみといたいんだと手を握って訴えかけた。何度か流されたけれどそれでもと食い下がると麻耶ちゃんはカラカラとウィスキーと氷を回しながら流し目で俺の肩に寄り掛かりそっと耳元でこう囁かれた。
『じゃあ、私の心も身体も気持ちよくさせてくれるバイヴになってくれる〜?』と。
そのふんわりとした雰囲気と話し方とは真逆な直接的な表現を使う彼女に一瞬驚いたけれど『もちろん、俺一生懸命頑張っちゃうよ』と微笑みかけて丸みのある華奢な肩に腕を回して頬にキスをした。
次の朝……確か火曜日だったかな。世間では平日で麻耶ちゃんも社会人として朝早くから出勤の準備をしているのをお湯を沸かしながら見ていた。朝食は食べない派らしいので飲み物だけでいいらしいので、俺は少しでも彼女の朝の時間短縮のために動く。
『奏斗くんいいわね~。うん、私の家にしばらくいていいよ~』
『本当?いいの?』
『うん~でもその代わり自分でできることはしてちょうだいね~。あとは私のことを気持ちよくさせて~』
『あはは、もちろん。住まわせて貰うんだから少しぐらいは麻耶ちゃんの助けにはなるつもりだよ。バイヴとしての役割もちゃんと果たしますとも』
『うむ、よろしい~』
俺の返事は百点満点だったようで麻耶ちゃんは満足げに頷いて、機嫌よさそうにアイロンで髪をくるくる巻き始めた。それを見てなぜかそういえば凜さんと約束していたことを思い出して駄目元で聞いてみる。
『金曜の夜から土曜の夜まで違う女の子のところに行くけれどいいかな』
『いいよ~。案外誠実だね~』
『そう?』
『うん~私特に奏斗くんの行動を制限するつもりはないから好きにして~。お小遣いも後で決めよっか~』
こんな感じで、凜さんとの関係も継続しつつも新しいご主人様を見つけることが出来た。でも何となく凜さんも新しいご主人様である麻耶ちゃんも、すぐに俺とバイバイする気もする。特に理由はないけれど、今までの経験上元カレと別れたばかりの人とか自分の軸をしっかり持っている人はお別れが早い傾向があるのを理解している。
(そうなったら、そうなったで)
そうなっても何となく生きていけている。どうようもなくなったら、そのときはそのときで覚悟を決めるつもり。シャワーの栓をきゅっと締めて清潔なバスタオルで身体と髪を拭いて用意されているルームウェアを着て、浴室から出て麻耶ちゃんの待つリビングへと向かう。
「入ってきたよ」
「うん、臭い消えたわね~ちなみになに食べてきたの~?焼肉~?」
「ううん、豚骨ラーメンだよ」
「へ~男の人ってそういうの好きよね~」
「うーん……俺ね、ラーメンって初めて食べたんだよね」
「そうなの〜?食べる機会とかなかったんだ〜?カップ麺とかは~?」
「んー家族が体に悪いとか何とかで食べさせてもらえなかっただよね。カップ麺は、まあ今までの女の子のところにいたときには食べたよ」
「ふうん、過保護だったんだね〜。というかあんまり他の女の子の話をしないの~。マナーは大事よ~」
「ごめんごめん」
怒っても拗ねてもいないようだけれど、マナーとして軽く咎められる。目の前の女の子以外の話をするのは確かに誠実ではなかったな。反省。あんまり出さないように気を付けてきているんだけれど、麻耶ちゃんとは同い年だからか少し気が緩んでいらないことまで口に出してしまう。
「麻耶ちゃんはラーメン屋とか行かないの?」
「行かないな~。行ってもミニラーメンの半分で満足しちゃうかな~」
「ええー足りるの?」
「足りる足りる〜燃費悪いみたいだからね~甘いものならいくらでも食べれるけれど~」
「可愛い女の子の食べ物は甘いものなんだね」
「私はそうだね〜。甘いものは幸せになれるから、いいよね~」
可愛いの部分を否定しないところが何だか好ましい。自信過剰でもなく事実だからかな。同性からはあまり好かれない印象はあるけれど、あまり気にしなさそう。ふわふわな女の子の見た目をしているけれど芯がしっかりしているのだ。同い年という共通点以外にも麻耶ちゃん自身がさっぱりしているから話しやすいと感じるのかもしれない。
(麻耶ちゃんはラーメン食べに行くのは好ましくないみたいだから、誘うのはよそう)
世の女性全員に当てはまるわけではないだろうけれど、少なくとも麻耶ちゃんはよくないと分かってラーメンのことを話題出すのはやめようと思う。
会話もそこそこにソファーに並んで座る俺に寄り掛かってくる。男性物のブルーのもこもこのルームウェアに顔を埋めてくる。たぶん麻耶ちゃんが着ているものと対になっているものだ。そのまますん、と匂いを嗅がれた。
「ん、ふふふ。いい匂いになった〜」
「うん、麻耶ちゃんの匂いに包まれたね」
「奏斗くんが私のものになった感じがしていいわね〜」
バイヴとしての役割を果たすべく、そっと柔らかく抱きしめて言葉を明け渡す。もこもこしているのに脚は出ているルームウェア。暖かな空間の中ではこのぐらいで丁度いいんだろう。するりと程よく肉の乗った太ももを撫でると甘く息を吐く麻耶ちゃん。
「今日も素敵だね。全部かわいい。でも、中身はかっこいいところも俺には可愛く思うよ」
「んっ、ふふ〜そうでしょ〜っ、あん」
女性を褒めるとき、外見のことだけではあまり喜ばれない。最初だけは喜んでくれるけれど、段々と自分の内面の部分も知ってほしい、見た目だけだと薄っぺらく感じられてしまうみたいで機嫌を損ねてしまうのだ。
俺はバイヴだから気持ちよくさせないとね。
「奏斗くんは、はあっ、ふふ、いいおとこ、ね~」
「ありがと。ね、ちゅーしよ?」
「んう」
よく言ってくれるお褒めの言葉を飲み干すように唇を塞いだ。麻耶ちゃんを甘やかすように抱く。ふわふわのルームウェアのなかはどこも柔らかくて、甘い匂いに包まれているからか、味も甘味な気がした。
シャッという音とともに閉じた視界でも伝わってくる光に、重たい瞼を開いて身体を起こす。
カーテンの前にいた乱れた髪の麻耶ちゃんが欠伸をした俺に気付いてニコッと笑って近づいて顔を寄せられる。それに応えて頬に唇を寄せる。
「おはよう〜」
「おはよ……」
回っていない頭でオウム返しのように挨拶をすると、クスクスと小さく笑う。小鳥のさえずりのようなくすぐったいそれに俺も笑って返す。いつもよりも気の抜けた、あまり格好いいとは言えないものだと思うけれど麻耶ちゃんは特に気にした様子もなく、抱きついてくる。
「と、言ってももうお昼に近いんだけどね〜」
「まじかー……寝過ぎたかな」
「たまにはいいよね〜お昼何食べる〜?外でもいい〜?」
「いいよ。麻耶ちゃんの行きたいものがいいな」
「じゃあ、近くのカフェ行こ~。とってもおしゃれなところがあるの~」
「いいねえ」
「じゃあほら〜顔洗って目を覚まして〜」
あっさりとどこに行くのか決まり麻耶ちゃんは俺に準備を促したあと、自分もピンで前髪を上げて今日着る服を選び始める。
女の子を待つのはいいけれど、女の子を待たせるなんてありえないので俺は言われた通り洗面所へと向かう。
俺が戻ってきた頃には麻耶ちゃんは着替え終えていて、化粧するために俺と交代する形で洗面所に入っていったのを見送って俺も着替える。男は色々考えても女の子みたいにそこまで時間はかからないので楽だ。早々に着替え終えてせいぜい髪を整えるだけになって、現在洗面所を使用している麻耶ちゃんが終わるまではすることもなくなり、冷蔵庫から出した野菜ジュースをコップに注いでソファーに転がってスマホを取り出してアプリを開いて適当な動画にタップして暇を潰した。今流行りの動画配信者が何か紹介するのを頭に叩き込むでもなく、ただぼーっとしていた。それが見終わる前に関連動画を適当に漁っての繰返しをして、たまにちゃんと全部みたりしていると麻耶ちゃんが戻ってきた。大体1時間ぐらい。目を大きく見せるコンタクトも入れてバッチリと化粧をして、髪も巻いていて準備がしっかり終わらせたことを知らされ、スマホをロックしてテーブルに起きコップに残った野菜ジュースを飲み干してからすぐに髪を整え歯を磨き、俺達は外に出て手を繋ぐ。いい天気だった、麻耶ちゃんのお家は乾燥機で乾かしちゃうから関係ないけれど、洗濯日和だなあ。
行きたいと言っていたカフェは歩いて15分ほどのところにあった。
「ここだよ〜」
「へえ、おしゃれなところだね」
「私の先輩が内装のデザインをしたところなんだって〜」
黒と赤色がメインの少し昔の外国っぽい雰囲気のお店だった。
麻耶ちゃんは一見楽しそうにおしゃれなお店を楽しみ写真映えを狙っている女の子っていう雰囲気を装っているけれど、瞳を形どる目元目尻は緩やかに細められているものの、目の本体は鋭く先輩がデザインしたという内装を見ている。いや、見定めている。何なら俺に声をかけていたときから既に仕事モードの目になっているみたいだ。うーん、俺にはよくわからないなあ……。店員さんに差し出されたメニューを見ながらそう思った。
麻耶ちゃんはカフェが好き……というよりも、職業病ということもあって休日は外に出てこうしてあちこちで外食することが多い。特に新しいところ。なんだっけ、建築デザイナー?ていうんだっけ。今は美術館の外観を手掛けているとか。成功すれば昇進も夢ではないと、まったりゆったりとした麻耶ちゃんの雰囲気とは真逆にその中身は『夢』というものに燃えている。就業時間外も勉強して、休日にはこうしていろんなものを見ている。家にもそういう勉強の本がいっぱいあるし、動画で英語の勉強もしているのを俺は知っている。金曜の夜から土曜の夕方までが集中して勉強する時間としているからこそ、俺がいないのはむしろありがたいとも言っていた。純粋に凄いなと思う。
今まで御主人様にもこういうタイプはいた。女優を目指している人、アイドルとして頂点に立ちたい人、影響力のあるインフルエンサーになりたいとか。挫折して実家に帰るということを決めたほとんど。一番悲しいのは入院することになる子だ。大変な子だと自殺未遂もあった。でも、勿論僅かながらに成功する子もいる。
その場合俺は基本的に追い出されるんだけれども、まあ仕方がない。冷静に考えればろくに就職もせずに女性の家に転がり込んでいる男なんて、現実から覚めた女性からするとろくでもないのだから正解だ。たまにテレビとか動画サイトでかつての御主人様を見ると良かったなあと思える。スキャンダルで週刊誌に酷いことを書かれていると少し悲しくなる。俺は不誠実なヒモだけれど、御主人様のことには一途だし、かつての御主人様のことも忘れてないよ。麻耶ちゃんも海外勤務する夢が叶うといいな。俺には無いものを持っている、尊敬するよ。
「どうしたの〜?上の空〜」
いつの間にか見定めを終えていた麻耶ちゃんもメニューを見ていて、いつまでも動かない俺に首を傾げている。
「ん、麻耶ちゃんはいつも頑張っててすごいなーって思ってさ」
「ふふ、ありがとう〜。どれにするの〜?デザートも頼んでいいよ〜」
「本当?嬉しいなー。じゃあ、俺オムライスと……チーズケーキがいいな」
「わかった〜。あ、すいません〜」
「はい、ただいまお伺いします」
麻耶ちゃんは近くにいた店員のお姉さんを呼んだ。すぐに注文票とボールペン片手にお姉さんはやってきて、丁寧にお辞儀をする。
「お待たせいたしました、ご注文をお伺いします」
「えっと〜オムライスとカルボナーラと、食後にガトーショコラとチーズケーキで〜。あ、飲み物何にする〜?」
「うーん、あ、アイスレモンティーでお願いします」
「あとは温かい紅茶のミルクありで〜」
「かしこまりました。お飲み物は食後にケーキとご一緒でよろしいでしょうか」
「はい〜。奏斗くんも大丈夫〜?」
「うん、大丈夫」
「繰り返します。オムライスとカルボナーラ、食後にチーズケーキとガトーショコラ、アイスレモンティーと紅茶ミルクあり、以上でよろしいでしょうか?」
「大丈夫です」
「あ、小皿を一つお願いします〜」
「わかりました。メニューをお下げいたします」
メニューを渡し、お姉さんはしゃんと背中を伸ばしてホールへと歩いていった。この店に似合う清潔感に溢れた綺麗な人だった。
「楽しみね〜」
「うん。お腹空いてきたよ」
「ちょっとお手洗いに行ってくるわね〜」
「はーい」
そう断ってポーチ片手に席を立つ麻耶ちゃんの目はまた少し厳しくなっていたことに気付かないふりをして簡単に見送る。
オシャレな外観と内装で素晴らしいけれど、トイレの場所は少し分かりにくいところ、かな。俺は適当に麻耶ちゃんの考えていることを予想する。トイレの場所をあからさまに分かりやすいのは考えものだが、分かりづらいのもお客のためにならない、みたい。
難しいよね。俺はあまり気にしないところだけれど、こういうデザイナーさん的には色々思うところであり、考えなくてはいけないところなんだろうなあ。仕事熱心だなあ。感心しつつメッセージアプリを確認する。凛さんからの連絡はやっぱりない。
せいぜい木曜日と金曜日に待ち合わせのことで連絡を取り合うぐらいなのは、きっと俺が他の女の子といることを考慮してのことだと思う。遠慮がちというかなんというか。確かにご主人様がいる身で凜さんと連絡するのはご法度かもしれない。凜さんと俺の関係はちょっと不思議だ。ご主人様でもご主人様候補でもないのにこうして関わり続けている女性というのは初めてだ。他の女の子と会ってもいいなんならその日いないのは都合が良いと言ってくれる麻耶ちゃんもちょっと変わっているけれど。凜さんとの関係に俺も計りかねているところが少しある。少しぐらい連絡頻度が上がっても、なんて思う。麻耶ちゃんがこちらに歩いてくるのが見えてスマホをテーブルに置く。
「ただいま〜」
「おかえり」
「お待たせいたしました」
麻耶ちゃんが戻ってきてすぐにお姉さんが料理が乗ったトレイとともに現れた。タイミングいいなあ、見計らっていたのかな?そうだとするとすごいプロ魂だなあ。コト、コト、机に置かれるオムライスとカルボナーラ、小さな皿を置いて、お辞儀をして「ごゆっくりどうぞ」と告げて去っていく。
「おいしそうだね~」
「だねえ。写真撮る?」
「そうね~」
俺に言われて麻耶ちゃんはスマホを取り出し、カルボナーラとオムライスを二つ一緒とそれぞれ単品で撮った後、まずはカルボナーラを豪快にかき混ぜる。半熟卵がまんべんなく全体に行き渡ったところで小皿に移して、それを自分の方に寄せて後は俺に差し出される。
「食べてほしいな〜?」
「ありがたくいただきますとも」
「ふふ~助かる~」
そう微笑むとくるりくるりとパスタを巻いて頬張ったので俺も渡されたカルボナーラを食べる。うん、滑らかな生クリームと卵とベーコンが良い感じに絡み合っていて美味しいね。
「カルボナーラに生クリームを入れるのって日本だけみたいみたいよ~」
「えっ、そうなの?普通にあっちでも入れてると思い込んでた」
「うん~卵とチーズでがんばったソースを使うんだって~」
「ええー。というかカルボナーラってどこの国のやつ?」
「イタリアよ~。あっちの方も行ってみたいわね~」
「ヨーロッパだっけ?」
「ええ~。日本でも真似てイタリアのデザインで作られたおうちもあるし学ぶことも国内でできるけれど~。やっぱり一度は生でその建築を見てみたいわ~。優美で繊細なデザイン、素敵よね~。水の都もイタリアよ~」
「あ、あのなんかすごい水があるところ」
「そうそう~イタリアといっても地域によってデザインが全くちがうの~。空気感もちがうでしょうね~。日本の武骨なデザインもいいけれどね~。あとドイツも気になるわ~。ドイツはデザイン大国と呼ばれていてね~」
「うんうん」
カルボナーラが運ばれきたときよりもキラキラしていて楽しそうに建築のデザインについて語り出す麻耶ちゃんはとっても可愛くて、すっごく格好いい。
(いいな)
麻耶ちゃんは小皿に入る分しかないのですぐに食べ終わり、俺は食べながらなので相槌を打つことだけで精一杯だったけれど、話はちゃんと聞いている。こんなに饒舌に語る彼女を適当にあしらうなんてことはしない。俺の世界に無い知識を披露してくれる彼女たちの存在はとっても眩しくて、儚いものだ。いずれ別れが訪れる。それまでいてくれる存在だから。カルボナーラもオムライスも食べ終えてもなお麻耶ちゃんの熱は続く。
「ロシアの教会はね~とっても独創的なのよ~ちょっと宮殿っぽいというか~」
「失礼いたします。空いたお皿、お下げいたします。食後のケーキと飲み物を持ってきてもよろしいでしょうか?」
「あ、お願いします」
「それでね~」
「うん、そんなに宮殿みたいなんだ?」
「そうなの~見て見て~」
「へえ!これって教会なんだね。なんかイメージと違うなあ」
「同じ教会でも全くちがうのよね~お国柄というのかしら~?面白いわよね~」
さっきと違う、店員のお兄さんに聞かれたことに俺が返せば、まだまだ話したりない様子の麻耶ちゃんにスマホの中の画像を見せてくれる。屋根?が三角錐みたいになっていて金色でピカピカしていて、壁は白。ステンドグラスがあって上に十字架がある俺のイメージの中の教会とは全然違っていて確かに面白いな、と思った。
「お待たせいたしました」
「わあ〜おいしそうね〜!」
「おお、本当だっ」
ヒートアップしてきた話はあっさりとお姉さんが持ってきてくれたケーキに流される。うん、こういう猫のような気まぐれな女の子もまた魅力的。人全般にも言えることだけれど、色んな顔があるよね。見定めている厳しい目、好きなものを語るキラキラの目、好きな食べ物を前にしてわくわくの止まらない目。凛さんの目はいつも何処か暗くて寂しそうだ。ただ、俺が結婚する?と聞いたときに返すときだけはそれが無くなってくれるのでちょっとだけホッとするから、ついつい会うたびに聞いてしまう。
「ん〜!おいし〜〜!!」
「あは、口の周りにチョコ付いてるよー」
「あら……ううん〜どうせ汚れるわ〜あとで拭く〜」
「効率的だねえ」
麻耶ちゃんはガトーショコラを口いっぱいに頬張り喜びをあらわにする素直さを可愛らしく感じながら、俺は赤い甘酸っぱいソースがかかったチーズケーキを食べる。目の前の彼女はパスタよりも嬉しそうな顔でケーキをどんどん減らしていき、時折ミルクと砂糖を入れた紅茶に口をつける。甘い食べ物と甘い飲み物の合わせ方ってとんでもなく甘いことにならないのかな、と思って先週質問してみたけれど「甘いものは食べ物も飲み物もなんでも来いよ〜。私はいくらでも入るわよ〜」と何とも頼もしい答えを聞いてからはもう聞くまい。
(甘いなあ)
決してこの小さいけれど濃厚なチーズケーキがまずいとは思わないけれど、甘みが纏わってくる舌先が少し嫌になってレモンティーで流し込む。砂糖は入れなくて正解だったと自分の選択にハートを押したいや。
妙に舌の根っこがあの味の濃いラーメンを求めているような不思議な感覚があった。なんだろ、この感じは。
(あ。ラーメン、食べたいな)
ふと思ったそれが、俺が今食べたいものなのだと訴えていた。すると、なんだか目の前のチーズケーキをこれ以上食べる気にならずフォークを止めてしまう。
「……」
「どうしたの〜?」
「あ、ごめん。ちょっとお腹いっぱいになっちゃったみたい」
「そうなの〜めずらしいね〜。でも私のカルボナーラも半分以上食べてもらっているから、そうなるのも仕方ないわよね〜」
「ごめんね」
一度止めてしまうともう手を付けようとも思えなくなってしまった。麻耶ちゃんは主食のほぼ2人分食べたのだから仕方ないと納得していたけれど、正直まだお腹の空き自体はある。金曜地点なら食べれたはずだ。でも胃のところが重たく感じて入りそうにない。女の子の前で俺は初めてギブアップした。
「ううん〜私こそいつも食べてもらっているから〜ごめんなさいね〜。それなら私がケーキを食べてもいいかしら〜」
「もちろんだよ」
そもそもこの食事は麻耶ちゃん持ちだ。俺に謝ることなどない。むしろ残してしまった結果となったのが申し訳なかった。でも麻耶ちゃんは気分を害した様子もなく、食べ残しになってしまったチーズケーキも食べ始めまた可愛い顔をする。
「わ〜こっちもおいしいわね〜!」
そう言う麻耶ちゃんの顔が、昨夜分けた餃子を頬張った凛さんを思い出させた。熱そうにしながらも笑っていた。凛さんも美味しいもの食べるときは影がなかったなあ。
女の子がご飯食べるところって幸せそうでいいよね。
「……そうだね」
「奏斗くん、そんなふうに笑えたのね〜」
「え?」
「なんかふわふわした笑い方〜いつも優しい笑顔だけどね〜」
「そんなに違うかな?」
「そうね〜。ちゃんと説明できないけれど〜雰囲気が違うわね〜」
麻耶ちゃんはそれだけ言うとケーキに集中し始めた。このときの俺は麻耶ちゃんの気のせいだとと思い込んでいた。女の子の観察眼をケーキのように甘く見ていたのだった。甘い紅茶のような雰囲気とともに刃物のような鋭さを併せ持っているのが女の子なのだと分かるのは少し先のことだった。
(駅から徒歩5分って、めちゃくちゃ便利だね)
おかげで寒い外からすぐに抜け出すことが出来る。今までの『御主人様』は駅から離れたところばかりだったし、ここまで大きなマンションでもなかった。これが本当のキャリアウーマンというものなのだろう。何となく納得して入口に入って『503』と番号の後に呼び出しボタンを押す。プツっとした変な音するのは無機質なエントランスとご主人様の部屋とつながった証である。
「やっほー」
『奏斗くんいらっしゃい〜今開けるね〜』
簡単なやり取りの後、ガラス張りの扉が開く。女性の一人暮らしらしくオートロックのマンションで外観もおしゃれで、拘りが垣間見えた。エレベーターに乗りながらさっきまでメッセージのやり取りをしていた、金曜の夜から土曜の夜まで過ごす凜さんのことを思い出す。
凛さんの第一印象は、今にも泣き出しそうなお金持っていそうな女性がいるなあ、だった。
染めたことのなさそうな真っ黒だけれど手入れのされたさらさらの髪に、つり目がちの勝気な雰囲気のあるきりっとした美人さん。美人さんが着るには随分と可愛らしい恰好が何だか庇護欲をそそった。何より宿無しご主人様なしの自分にとって着飾っているのに幸せそうには見えない落ち込んだ様子の女性は、言い方は悪いけれど良いターゲットだった。
あわよくば今度のご主人様になってくれないだろうかという邪念もあって彼女を誘った。
その容姿の雰囲気的にキャリアウーマンっていうやつなのかと思って話しかけたら、派遣社員で金はないといわれて顔には出さなかったけれど驚いたし、そのときまではワンナイトしたどこの馬の骨ともわからない自分を警戒してウソをついているのかと思いきや、嫌がるのを宥めながら家に行ってみると失礼ながら納得した。安さを優先させたような外観とキッチンと廊下が一体化しているリビングの境目すらないワンルーム。お金はないというのは本当だったのだと理解したのである。そこまで考えているとエレベーターがポン、と軽い音とともに停止し鉄の扉が開く。『503』のルームプレートの下にあるインターフォンを鳴らすとカチャリと開錠の音が響いてやっとご主人様との対面である。
「きたよー麻耶ちゃん」
「いらっしゃ~い……って、奏斗くん、くさい~」
「まじで?」
リビングのドアを開くとふわふわのピンク色のルームウェア着た麻耶ちゃんが立ち上がり出迎えてくれたけれど、自分のジャケットの袖を顔に近づけてみるけれど、鼻が麻痺しているのかよく分からずに首を捻った俺のことなんてお構いなしに背中をぐいぐいと押される。
「うん。ニンニクと多分豚骨のいい感じの臭さが漂ってる~リビングに来るのはお風呂入ってからね~。歯も念の為みがいて〜」
「はーい」
今のご主人様は麻耶ちゃんという女の子。28歳で俺とタメということもあり、いつものご主人様よりも砕けた口調で話すことができる。
麻耶ちゃんからも許可を頂い使わせて頂いているのは甘い匂いのするシャンプー、トリートメント、ボディーソープ。順につけて洗い流すを繰り返している間に麻耶ちゃんとの出会いを思い出す。凜さんのところにお泊りをしたその次の日に、アプリで今日の夜に飲みに行ける人で募集していた女の子にメッセージを入れたのが今の御主人様となる麻耶ちゃんだった。ふわふわしていてのんびりとした話し方をする自分が可愛らしいと理解し尽くした雰囲気の女性の麻耶ちゃんという女の子。麻耶ちゃんのおすすめの上品なバーへと向かって、雑談もそこそこに今俺に居場所がないんだ、今日だけでもいいから一緒にいてほしいと遠回しの行く当てのない自分のことを曝け出しつつ、きみといたいんだと手を握って訴えかけた。何度か流されたけれどそれでもと食い下がると麻耶ちゃんはカラカラとウィスキーと氷を回しながら流し目で俺の肩に寄り掛かりそっと耳元でこう囁かれた。
『じゃあ、私の心も身体も気持ちよくさせてくれるバイヴになってくれる〜?』と。
そのふんわりとした雰囲気と話し方とは真逆な直接的な表現を使う彼女に一瞬驚いたけれど『もちろん、俺一生懸命頑張っちゃうよ』と微笑みかけて丸みのある華奢な肩に腕を回して頬にキスをした。
次の朝……確か火曜日だったかな。世間では平日で麻耶ちゃんも社会人として朝早くから出勤の準備をしているのをお湯を沸かしながら見ていた。朝食は食べない派らしいので飲み物だけでいいらしいので、俺は少しでも彼女の朝の時間短縮のために動く。
『奏斗くんいいわね~。うん、私の家にしばらくいていいよ~』
『本当?いいの?』
『うん~でもその代わり自分でできることはしてちょうだいね~。あとは私のことを気持ちよくさせて~』
『あはは、もちろん。住まわせて貰うんだから少しぐらいは麻耶ちゃんの助けにはなるつもりだよ。バイヴとしての役割もちゃんと果たしますとも』
『うむ、よろしい~』
俺の返事は百点満点だったようで麻耶ちゃんは満足げに頷いて、機嫌よさそうにアイロンで髪をくるくる巻き始めた。それを見てなぜかそういえば凜さんと約束していたことを思い出して駄目元で聞いてみる。
『金曜の夜から土曜の夜まで違う女の子のところに行くけれどいいかな』
『いいよ~。案外誠実だね~』
『そう?』
『うん~私特に奏斗くんの行動を制限するつもりはないから好きにして~。お小遣いも後で決めよっか~』
こんな感じで、凜さんとの関係も継続しつつも新しいご主人様を見つけることが出来た。でも何となく凜さんも新しいご主人様である麻耶ちゃんも、すぐに俺とバイバイする気もする。特に理由はないけれど、今までの経験上元カレと別れたばかりの人とか自分の軸をしっかり持っている人はお別れが早い傾向があるのを理解している。
(そうなったら、そうなったで)
そうなっても何となく生きていけている。どうようもなくなったら、そのときはそのときで覚悟を決めるつもり。シャワーの栓をきゅっと締めて清潔なバスタオルで身体と髪を拭いて用意されているルームウェアを着て、浴室から出て麻耶ちゃんの待つリビングへと向かう。
「入ってきたよ」
「うん、臭い消えたわね~ちなみになに食べてきたの~?焼肉~?」
「ううん、豚骨ラーメンだよ」
「へ~男の人ってそういうの好きよね~」
「うーん……俺ね、ラーメンって初めて食べたんだよね」
「そうなの〜?食べる機会とかなかったんだ〜?カップ麺とかは~?」
「んー家族が体に悪いとか何とかで食べさせてもらえなかっただよね。カップ麺は、まあ今までの女の子のところにいたときには食べたよ」
「ふうん、過保護だったんだね〜。というかあんまり他の女の子の話をしないの~。マナーは大事よ~」
「ごめんごめん」
怒っても拗ねてもいないようだけれど、マナーとして軽く咎められる。目の前の女の子以外の話をするのは確かに誠実ではなかったな。反省。あんまり出さないように気を付けてきているんだけれど、麻耶ちゃんとは同い年だからか少し気が緩んでいらないことまで口に出してしまう。
「麻耶ちゃんはラーメン屋とか行かないの?」
「行かないな~。行ってもミニラーメンの半分で満足しちゃうかな~」
「ええー足りるの?」
「足りる足りる〜燃費悪いみたいだからね~甘いものならいくらでも食べれるけれど~」
「可愛い女の子の食べ物は甘いものなんだね」
「私はそうだね〜。甘いものは幸せになれるから、いいよね~」
可愛いの部分を否定しないところが何だか好ましい。自信過剰でもなく事実だからかな。同性からはあまり好かれない印象はあるけれど、あまり気にしなさそう。ふわふわな女の子の見た目をしているけれど芯がしっかりしているのだ。同い年という共通点以外にも麻耶ちゃん自身がさっぱりしているから話しやすいと感じるのかもしれない。
(麻耶ちゃんはラーメン食べに行くのは好ましくないみたいだから、誘うのはよそう)
世の女性全員に当てはまるわけではないだろうけれど、少なくとも麻耶ちゃんはよくないと分かってラーメンのことを話題出すのはやめようと思う。
会話もそこそこにソファーに並んで座る俺に寄り掛かってくる。男性物のブルーのもこもこのルームウェアに顔を埋めてくる。たぶん麻耶ちゃんが着ているものと対になっているものだ。そのまますん、と匂いを嗅がれた。
「ん、ふふふ。いい匂いになった〜」
「うん、麻耶ちゃんの匂いに包まれたね」
「奏斗くんが私のものになった感じがしていいわね〜」
バイヴとしての役割を果たすべく、そっと柔らかく抱きしめて言葉を明け渡す。もこもこしているのに脚は出ているルームウェア。暖かな空間の中ではこのぐらいで丁度いいんだろう。するりと程よく肉の乗った太ももを撫でると甘く息を吐く麻耶ちゃん。
「今日も素敵だね。全部かわいい。でも、中身はかっこいいところも俺には可愛く思うよ」
「んっ、ふふ〜そうでしょ〜っ、あん」
女性を褒めるとき、外見のことだけではあまり喜ばれない。最初だけは喜んでくれるけれど、段々と自分の内面の部分も知ってほしい、見た目だけだと薄っぺらく感じられてしまうみたいで機嫌を損ねてしまうのだ。
俺はバイヴだから気持ちよくさせないとね。
「奏斗くんは、はあっ、ふふ、いいおとこ、ね~」
「ありがと。ね、ちゅーしよ?」
「んう」
よく言ってくれるお褒めの言葉を飲み干すように唇を塞いだ。麻耶ちゃんを甘やかすように抱く。ふわふわのルームウェアのなかはどこも柔らかくて、甘い匂いに包まれているからか、味も甘味な気がした。
シャッという音とともに閉じた視界でも伝わってくる光に、重たい瞼を開いて身体を起こす。
カーテンの前にいた乱れた髪の麻耶ちゃんが欠伸をした俺に気付いてニコッと笑って近づいて顔を寄せられる。それに応えて頬に唇を寄せる。
「おはよう〜」
「おはよ……」
回っていない頭でオウム返しのように挨拶をすると、クスクスと小さく笑う。小鳥のさえずりのようなくすぐったいそれに俺も笑って返す。いつもよりも気の抜けた、あまり格好いいとは言えないものだと思うけれど麻耶ちゃんは特に気にした様子もなく、抱きついてくる。
「と、言ってももうお昼に近いんだけどね〜」
「まじかー……寝過ぎたかな」
「たまにはいいよね〜お昼何食べる〜?外でもいい〜?」
「いいよ。麻耶ちゃんの行きたいものがいいな」
「じゃあ、近くのカフェ行こ~。とってもおしゃれなところがあるの~」
「いいねえ」
「じゃあほら〜顔洗って目を覚まして〜」
あっさりとどこに行くのか決まり麻耶ちゃんは俺に準備を促したあと、自分もピンで前髪を上げて今日着る服を選び始める。
女の子を待つのはいいけれど、女の子を待たせるなんてありえないので俺は言われた通り洗面所へと向かう。
俺が戻ってきた頃には麻耶ちゃんは着替え終えていて、化粧するために俺と交代する形で洗面所に入っていったのを見送って俺も着替える。男は色々考えても女の子みたいにそこまで時間はかからないので楽だ。早々に着替え終えてせいぜい髪を整えるだけになって、現在洗面所を使用している麻耶ちゃんが終わるまではすることもなくなり、冷蔵庫から出した野菜ジュースをコップに注いでソファーに転がってスマホを取り出してアプリを開いて適当な動画にタップして暇を潰した。今流行りの動画配信者が何か紹介するのを頭に叩き込むでもなく、ただぼーっとしていた。それが見終わる前に関連動画を適当に漁っての繰返しをして、たまにちゃんと全部みたりしていると麻耶ちゃんが戻ってきた。大体1時間ぐらい。目を大きく見せるコンタクトも入れてバッチリと化粧をして、髪も巻いていて準備がしっかり終わらせたことを知らされ、スマホをロックしてテーブルに起きコップに残った野菜ジュースを飲み干してからすぐに髪を整え歯を磨き、俺達は外に出て手を繋ぐ。いい天気だった、麻耶ちゃんのお家は乾燥機で乾かしちゃうから関係ないけれど、洗濯日和だなあ。
行きたいと言っていたカフェは歩いて15分ほどのところにあった。
「ここだよ〜」
「へえ、おしゃれなところだね」
「私の先輩が内装のデザインをしたところなんだって〜」
黒と赤色がメインの少し昔の外国っぽい雰囲気のお店だった。
麻耶ちゃんは一見楽しそうにおしゃれなお店を楽しみ写真映えを狙っている女の子っていう雰囲気を装っているけれど、瞳を形どる目元目尻は緩やかに細められているものの、目の本体は鋭く先輩がデザインしたという内装を見ている。いや、見定めている。何なら俺に声をかけていたときから既に仕事モードの目になっているみたいだ。うーん、俺にはよくわからないなあ……。店員さんに差し出されたメニューを見ながらそう思った。
麻耶ちゃんはカフェが好き……というよりも、職業病ということもあって休日は外に出てこうしてあちこちで外食することが多い。特に新しいところ。なんだっけ、建築デザイナー?ていうんだっけ。今は美術館の外観を手掛けているとか。成功すれば昇進も夢ではないと、まったりゆったりとした麻耶ちゃんの雰囲気とは真逆にその中身は『夢』というものに燃えている。就業時間外も勉強して、休日にはこうしていろんなものを見ている。家にもそういう勉強の本がいっぱいあるし、動画で英語の勉強もしているのを俺は知っている。金曜の夜から土曜の夕方までが集中して勉強する時間としているからこそ、俺がいないのはむしろありがたいとも言っていた。純粋に凄いなと思う。
今まで御主人様にもこういうタイプはいた。女優を目指している人、アイドルとして頂点に立ちたい人、影響力のあるインフルエンサーになりたいとか。挫折して実家に帰るということを決めたほとんど。一番悲しいのは入院することになる子だ。大変な子だと自殺未遂もあった。でも、勿論僅かながらに成功する子もいる。
その場合俺は基本的に追い出されるんだけれども、まあ仕方がない。冷静に考えればろくに就職もせずに女性の家に転がり込んでいる男なんて、現実から覚めた女性からするとろくでもないのだから正解だ。たまにテレビとか動画サイトでかつての御主人様を見ると良かったなあと思える。スキャンダルで週刊誌に酷いことを書かれていると少し悲しくなる。俺は不誠実なヒモだけれど、御主人様のことには一途だし、かつての御主人様のことも忘れてないよ。麻耶ちゃんも海外勤務する夢が叶うといいな。俺には無いものを持っている、尊敬するよ。
「どうしたの〜?上の空〜」
いつの間にか見定めを終えていた麻耶ちゃんもメニューを見ていて、いつまでも動かない俺に首を傾げている。
「ん、麻耶ちゃんはいつも頑張っててすごいなーって思ってさ」
「ふふ、ありがとう〜。どれにするの〜?デザートも頼んでいいよ〜」
「本当?嬉しいなー。じゃあ、俺オムライスと……チーズケーキがいいな」
「わかった〜。あ、すいません〜」
「はい、ただいまお伺いします」
麻耶ちゃんは近くにいた店員のお姉さんを呼んだ。すぐに注文票とボールペン片手にお姉さんはやってきて、丁寧にお辞儀をする。
「お待たせいたしました、ご注文をお伺いします」
「えっと〜オムライスとカルボナーラと、食後にガトーショコラとチーズケーキで〜。あ、飲み物何にする〜?」
「うーん、あ、アイスレモンティーでお願いします」
「あとは温かい紅茶のミルクありで〜」
「かしこまりました。お飲み物は食後にケーキとご一緒でよろしいでしょうか」
「はい〜。奏斗くんも大丈夫〜?」
「うん、大丈夫」
「繰り返します。オムライスとカルボナーラ、食後にチーズケーキとガトーショコラ、アイスレモンティーと紅茶ミルクあり、以上でよろしいでしょうか?」
「大丈夫です」
「あ、小皿を一つお願いします〜」
「わかりました。メニューをお下げいたします」
メニューを渡し、お姉さんはしゃんと背中を伸ばしてホールへと歩いていった。この店に似合う清潔感に溢れた綺麗な人だった。
「楽しみね〜」
「うん。お腹空いてきたよ」
「ちょっとお手洗いに行ってくるわね〜」
「はーい」
そう断ってポーチ片手に席を立つ麻耶ちゃんの目はまた少し厳しくなっていたことに気付かないふりをして簡単に見送る。
オシャレな外観と内装で素晴らしいけれど、トイレの場所は少し分かりにくいところ、かな。俺は適当に麻耶ちゃんの考えていることを予想する。トイレの場所をあからさまに分かりやすいのは考えものだが、分かりづらいのもお客のためにならない、みたい。
難しいよね。俺はあまり気にしないところだけれど、こういうデザイナーさん的には色々思うところであり、考えなくてはいけないところなんだろうなあ。仕事熱心だなあ。感心しつつメッセージアプリを確認する。凛さんからの連絡はやっぱりない。
せいぜい木曜日と金曜日に待ち合わせのことで連絡を取り合うぐらいなのは、きっと俺が他の女の子といることを考慮してのことだと思う。遠慮がちというかなんというか。確かにご主人様がいる身で凜さんと連絡するのはご法度かもしれない。凜さんと俺の関係はちょっと不思議だ。ご主人様でもご主人様候補でもないのにこうして関わり続けている女性というのは初めてだ。他の女の子と会ってもいいなんならその日いないのは都合が良いと言ってくれる麻耶ちゃんもちょっと変わっているけれど。凜さんとの関係に俺も計りかねているところが少しある。少しぐらい連絡頻度が上がっても、なんて思う。麻耶ちゃんがこちらに歩いてくるのが見えてスマホをテーブルに置く。
「ただいま〜」
「おかえり」
「お待たせいたしました」
麻耶ちゃんが戻ってきてすぐにお姉さんが料理が乗ったトレイとともに現れた。タイミングいいなあ、見計らっていたのかな?そうだとするとすごいプロ魂だなあ。コト、コト、机に置かれるオムライスとカルボナーラ、小さな皿を置いて、お辞儀をして「ごゆっくりどうぞ」と告げて去っていく。
「おいしそうだね~」
「だねえ。写真撮る?」
「そうね~」
俺に言われて麻耶ちゃんはスマホを取り出し、カルボナーラとオムライスを二つ一緒とそれぞれ単品で撮った後、まずはカルボナーラを豪快にかき混ぜる。半熟卵がまんべんなく全体に行き渡ったところで小皿に移して、それを自分の方に寄せて後は俺に差し出される。
「食べてほしいな〜?」
「ありがたくいただきますとも」
「ふふ~助かる~」
そう微笑むとくるりくるりとパスタを巻いて頬張ったので俺も渡されたカルボナーラを食べる。うん、滑らかな生クリームと卵とベーコンが良い感じに絡み合っていて美味しいね。
「カルボナーラに生クリームを入れるのって日本だけみたいみたいよ~」
「えっ、そうなの?普通にあっちでも入れてると思い込んでた」
「うん~卵とチーズでがんばったソースを使うんだって~」
「ええー。というかカルボナーラってどこの国のやつ?」
「イタリアよ~。あっちの方も行ってみたいわね~」
「ヨーロッパだっけ?」
「ええ~。日本でも真似てイタリアのデザインで作られたおうちもあるし学ぶことも国内でできるけれど~。やっぱり一度は生でその建築を見てみたいわ~。優美で繊細なデザイン、素敵よね~。水の都もイタリアよ~」
「あ、あのなんかすごい水があるところ」
「そうそう~イタリアといっても地域によってデザインが全くちがうの~。空気感もちがうでしょうね~。日本の武骨なデザインもいいけれどね~。あとドイツも気になるわ~。ドイツはデザイン大国と呼ばれていてね~」
「うんうん」
カルボナーラが運ばれきたときよりもキラキラしていて楽しそうに建築のデザインについて語り出す麻耶ちゃんはとっても可愛くて、すっごく格好いい。
(いいな)
麻耶ちゃんは小皿に入る分しかないのですぐに食べ終わり、俺は食べながらなので相槌を打つことだけで精一杯だったけれど、話はちゃんと聞いている。こんなに饒舌に語る彼女を適当にあしらうなんてことはしない。俺の世界に無い知識を披露してくれる彼女たちの存在はとっても眩しくて、儚いものだ。いずれ別れが訪れる。それまでいてくれる存在だから。カルボナーラもオムライスも食べ終えてもなお麻耶ちゃんの熱は続く。
「ロシアの教会はね~とっても独創的なのよ~ちょっと宮殿っぽいというか~」
「失礼いたします。空いたお皿、お下げいたします。食後のケーキと飲み物を持ってきてもよろしいでしょうか?」
「あ、お願いします」
「それでね~」
「うん、そんなに宮殿みたいなんだ?」
「そうなの~見て見て~」
「へえ!これって教会なんだね。なんかイメージと違うなあ」
「同じ教会でも全くちがうのよね~お国柄というのかしら~?面白いわよね~」
さっきと違う、店員のお兄さんに聞かれたことに俺が返せば、まだまだ話したりない様子の麻耶ちゃんにスマホの中の画像を見せてくれる。屋根?が三角錐みたいになっていて金色でピカピカしていて、壁は白。ステンドグラスがあって上に十字架がある俺のイメージの中の教会とは全然違っていて確かに面白いな、と思った。
「お待たせいたしました」
「わあ〜おいしそうね〜!」
「おお、本当だっ」
ヒートアップしてきた話はあっさりとお姉さんが持ってきてくれたケーキに流される。うん、こういう猫のような気まぐれな女の子もまた魅力的。人全般にも言えることだけれど、色んな顔があるよね。見定めている厳しい目、好きなものを語るキラキラの目、好きな食べ物を前にしてわくわくの止まらない目。凛さんの目はいつも何処か暗くて寂しそうだ。ただ、俺が結婚する?と聞いたときに返すときだけはそれが無くなってくれるのでちょっとだけホッとするから、ついつい会うたびに聞いてしまう。
「ん〜!おいし〜〜!!」
「あは、口の周りにチョコ付いてるよー」
「あら……ううん〜どうせ汚れるわ〜あとで拭く〜」
「効率的だねえ」
麻耶ちゃんはガトーショコラを口いっぱいに頬張り喜びをあらわにする素直さを可愛らしく感じながら、俺は赤い甘酸っぱいソースがかかったチーズケーキを食べる。目の前の彼女はパスタよりも嬉しそうな顔でケーキをどんどん減らしていき、時折ミルクと砂糖を入れた紅茶に口をつける。甘い食べ物と甘い飲み物の合わせ方ってとんでもなく甘いことにならないのかな、と思って先週質問してみたけれど「甘いものは食べ物も飲み物もなんでも来いよ〜。私はいくらでも入るわよ〜」と何とも頼もしい答えを聞いてからはもう聞くまい。
(甘いなあ)
決してこの小さいけれど濃厚なチーズケーキがまずいとは思わないけれど、甘みが纏わってくる舌先が少し嫌になってレモンティーで流し込む。砂糖は入れなくて正解だったと自分の選択にハートを押したいや。
妙に舌の根っこがあの味の濃いラーメンを求めているような不思議な感覚があった。なんだろ、この感じは。
(あ。ラーメン、食べたいな)
ふと思ったそれが、俺が今食べたいものなのだと訴えていた。すると、なんだか目の前のチーズケーキをこれ以上食べる気にならずフォークを止めてしまう。
「……」
「どうしたの〜?」
「あ、ごめん。ちょっとお腹いっぱいになっちゃったみたい」
「そうなの〜めずらしいね〜。でも私のカルボナーラも半分以上食べてもらっているから、そうなるのも仕方ないわよね〜」
「ごめんね」
一度止めてしまうともう手を付けようとも思えなくなってしまった。麻耶ちゃんは主食のほぼ2人分食べたのだから仕方ないと納得していたけれど、正直まだお腹の空き自体はある。金曜地点なら食べれたはずだ。でも胃のところが重たく感じて入りそうにない。女の子の前で俺は初めてギブアップした。
「ううん〜私こそいつも食べてもらっているから〜ごめんなさいね〜。それなら私がケーキを食べてもいいかしら〜」
「もちろんだよ」
そもそもこの食事は麻耶ちゃん持ちだ。俺に謝ることなどない。むしろ残してしまった結果となったのが申し訳なかった。でも麻耶ちゃんは気分を害した様子もなく、食べ残しになってしまったチーズケーキも食べ始めまた可愛い顔をする。
「わ〜こっちもおいしいわね〜!」
そう言う麻耶ちゃんの顔が、昨夜分けた餃子を頬張った凛さんを思い出させた。熱そうにしながらも笑っていた。凛さんも美味しいもの食べるときは影がなかったなあ。
女の子がご飯食べるところって幸せそうでいいよね。
「……そうだね」
「奏斗くん、そんなふうに笑えたのね〜」
「え?」
「なんかふわふわした笑い方〜いつも優しい笑顔だけどね〜」
「そんなに違うかな?」
「そうね〜。ちゃんと説明できないけれど〜雰囲気が違うわね〜」
麻耶ちゃんはそれだけ言うとケーキに集中し始めた。このときの俺は麻耶ちゃんの気のせいだとと思い込んでいた。女の子の観察眼をケーキのように甘く見ていたのだった。甘い紅茶のような雰囲気とともに刃物のような鋭さを併せ持っているのが女の子なのだと分かるのは少し先のことだった。