寝言はヒモ脱却してから言え!

 11月26日、14時17分、東京のカフェにて。
 ガラス張りの黒と赤を貴重とした店内にはアンティーク調の大きな時計やどこかの絵画が飾られていて、コーヒーカップの内側に花びらが咲いていて、ひとつひとつがお洒落なお店だった。いつもの私ならばまず選ばないような肩のこる店だ。正直コーヒーの味もよく分かっていないし、腹の満たされない小さなチーズケーキと大きな皿に余ったスペースにベリーソースが曲線をえがいている所謂SNS映えするようなそれへ価値を見出だせていない私からするとどうしてこれでそれなりの金を払わないといけないのだろうか。
 早々に食べ終えてしまった私とは違って前に座る彼女は焦れったいほどゆっくりとオレンジピールの入ったガトーショコラにフォークを差し込んでいるのをぼんやりと見つめながら、最近あったことを話している。彼女のリクエストでこのカフェになったことを思い出したのと、話した内容に彼女が反応を示すのはほとんど同じタイミングだった。勿論、約10年付き合っていた幸喜と別れたことである。

「ふぅん、幸喜さんとお別れしちゃったんだあ。なんか意外、結婚すると思ってたんだけどなあ。凜ちゃんとお似合いだったし。もちろん浮気したのはドン引きなんだけどね?でもさ、雰囲気とかもう熟年夫婦の域だったじゃない?女癖悪い以外は悪いように見えなかったよ」
「私も。なんだかんだ10年付き合ってたからこのまま結婚するんだろうなあって考えていたよ、まだ現実感ないや。服選んでもらったのにごめんね」
「ううん。凛ちゃんにしては可愛すぎたかな〜て思ってたの。あ、もちろん似合ってたけどね?」
「あはは、分かってるよ。私もなんだかんだ30になったんだし、もう少し考えたほうが方が良かったかな?なんて思ったりして……瑠奈は全然似合ってるから羨ましいな。昔から変わらないもんね」

 見えない火花が見えるようだった。人好きするような笑顔で言外に互いを罵る。こんな関係になってしまったのは一体いつからだっただろうか。唇から滑る言葉たちはまるで私の意識外から勝手に外へと出ていく。それを空気と彼女をあえて傷つけるものへと変える。

「幸喜さんと別れちゃったし凛ちゃんって、まだまだ独身を謳歌しそうだね。いいなあ、気楽な一人生活!私割と早くに結婚しちゃったから自由ってあんまりないんだよねえ」
「そうだね。えっと、瑠奈は23で結婚したんだっけ?凄いよね。私がそのぐらいのときは、勉強したいことがいっぱいでそんなこと考えている余裕なんて無かったよ」
「まっすぐだもんね。なんだか、凜ちゃんって一人でも強く生きていけそうな雰囲気あるよね。いいなあ、私なんて誰かがいないと生きていけないや」
 そう言う彼女は珍しく少し沈んだように見えた気がした。私も少し焦る。だって、いつもなら言葉通りではなく、マウントを取るためだけの言葉だったのに。ここで追い打ちをかけれるほど私は瑠奈のことが嫌いではないのだ。
「……まあ、そういう生き方もあるんじゃないの。一人よりも誰かがいたほうがさみしくないし」
「そうかな?ねえ、凛ちゃんは……」
「ん?」
「……ううん、なんでもない。それよりさ、これ見てよ。この間保護猫カフェ行ったんだ、すごい可愛くてさあ……」
 何か言いたそうな雰囲気だったけれど、自ら打ち切ってスマホの中を見せてくる。旦那と行ったのだろう、顔は写っていないが太く逞しい手が小さな真っ白な子猫を優しそうに撫でていて、子猫は気持ちよさそうに目を細めている微笑ましい画がそこにあった。写真を撮った瑠奈もきっと幸せそうに笑っているのだろうか。
 猫可愛い!と笑顔とともに零す。猫、というか動物全般は好きだしそう思うのは本音だけれど、どうしても頭で浮かぶ猫と戯れる幸せそうな瑠奈とその旦那の光景に、表に出ているものと真逆のドロドロとした醜い感情を覚えてしまう私はとっても汚くて愚かな人間なのだろう。
 こんなだから私はどこまでも不安定な人間なのだろうと痛感する。


「じゃあ、今日はありがとう。また遊ぼうよ」
「こちらこそ。新しい彼氏出来たら教えてね!」
「あはは、がんばるわ」

 結局夕方まで彼女と喋ってしまった。時折マウントの取り合いも起こったけれど、幸喜のことを色々愚痴を吐き出させてくれるからやっぱりありがたい存在だと思う。瑠奈からもまたちょっとした愚痴を聞いている。……妙な悪癖が互いに出来てしまったけれど。いや、瑠奈はどうだろう。もしかしたら瑠奈は悪意なく純粋に言っているだけで自分が過敏に受け取ってしまっているだけなのかもしれない。そうだとすると私は酷い人間だと感じる前に、意識を意図的にずらす。そうしないと自己嫌悪に潰されてしまいそう。
(……新しい彼氏、ね)
 最後に瑠奈から言われた言葉を電車に乗り込みながら反芻する。幸喜と別れたその日によくわからない関係の男、しかも年下の子と最近よく一緒にいるのだと言ったらどうなるのだろうか。
 なんだかんだ純粋なところのある瑠奈から非難されるかもしれない。最早純粋な友人とは言えない間柄になっているのに、軽蔑されるのは堪えてしまう自分が少し不思議だった。
 カフェのあるお高めの住居が並んでいる駅移動してギリギリ東京県内の駅から20分ほどかけて自宅へとたどり着く。駅から少し離れているおかげで東京にしては家賃が安い。アパートの二階への階段で登り、鍵を開けて靴を脱ぎ、中へと入っていく。
 ワンルームだからユニットバスとキッチンを通り過ぎれば居住スペースにすぐに辿り着く。着く前にひょこりと顔を出してくる笑顔の男が出迎えてくれた。

「凛さん、おかえりー」 
「ただいま。ねえ、今日はラーメン食べに行きましょ。駅前にある豚骨ラーメン」
「お、いいね!凛さんが少し休んだら行こうか。飲み物用意するね。コーヒーでいい?」
「自分でやるからいいわよ」
「いいからいいからーお座んなさい」

 私の腕を掴み緩く引っ張られそのまま連れられて肩をぐーっと下へと押され抵抗せずに座り込むと炬燵の布団をかけられて動けなくなってしまった。男……奏斗は機嫌良さそうにケトルに水を入れてスイッチを入れている。ラーメンに誘ったのは特に理由はない。
 おしゃれさを追求したカフェではお腹いっぱいにならなくて、駅前を歩いていると良い匂いがして食べたくなった。それだけである。奏斗には散々醜態を晒しているので取り繕うのも馬鹿らしいので、あっさりと誘うことができた。奏斗もラーメンに機嫌よさげにしているので好きなのかもしれない。男性のほとんどってこってりしたものを好む傾向があるけれど、奏斗も同じだったみたい。
 あの朝の後、奏斗は私の家にやってきた。ヒモを養えない、結婚はありえない、そう訴えてその場で解散を望んでいた私をなあなあに誤魔化して奏斗はついて来て、何となくまた一晩過ごしてしまった。人肌寂しくなっていたのをきっと見抜かれていたんだと思う。せめてこの三連休だけはこの家で過ごさせてほしい、今本当に宿無しなんだと訴えられて、私はそれを言い訳にした。本当は彼氏と過ごすはずだった三連休が手持ち無沙汰になって、空いた休日を仕事や生活で疲れてしまい、いつかは見ようと溜め込んでいた映画や読みたい本やしようと思っていた勉強に費やすことも考えていたけれど、それらすべてがどうも虚しく感じて、それを埋めてくれるものを求めていたから。丁度良く現れた男に持て余した空虚を埋めてもらった。私にとって都合のいい言い訳を与えて。
 三連休最後の夜にメッセージアプリで連絡先を交換して、奏斗は出ていった。そこでいつなら自分が泊まってもいいかと聞かれて何となく金曜から土曜なら、と答えてしまった。あれから金曜の夜から土曜の夜まで奏斗は私の家にいるようになった。
 10日の金曜の夜に私の家の近くのコンビニで待ち合わせて、また一夜を過ごす。抱き合うこともあれば無いときもある。これは私の気分次第だ。でも抱かれない日も裸でくっつけることはしている。奏斗はいいよ、と笑うだけ。虚しさが無いわけではないけれど、人の温もりを捨てられないでいて、今日に至っている。
 瑠奈との待ち合わせに向かう前まであのベッドの上で恋人でもない男と裸で抱き合っていた。なんて、瑠奈には言えなかった。


 奏斗の入れてくれたコーヒーを飲んだ後、私たちは外に出て駅前まで歩く。
 ラーメン屋はそれなりの列ができていた。男性の一人客や集団客にカップルもそれなりにいて、結構にぎわっている。私たちも同じように雑談に興じていた。

「今日はどうだった?友達とランチだったんでしょ」
「いつも通りのマウントの取り合いよ」
「へえ?仲が良いわけではないんだ?」
「……そういうわけではないけれど。瑠奈とは高校からの親友なの」
「瑠奈さんってどんなタイプ?」
「一言で言うなら私と真逆かしらね。背も小さくて可愛らしい雰囲気で……将来の夢はお嫁さんで専業主婦になって旦那さんを支えるって言ってて。それをしっかり叶えているわね」
「確かに凛さんと真逆だね」
「次の二名でお待ちのお客様!どうぞー!!」
「楽しみだね!」
「……そうね」

 どういう意味なのか、と問おうとするけれど丁度良く店員に呼ばれて聞きたかったことは有耶無耶になって良い臭いで充満している店内へと吸い込まれていく。タイミングがいい。
 私はスタンダードにこの店の売りの普通の煮卵入りの豚骨醬油ラーメンをタッチして奏斗は大盛豚骨味噌チャーシュー麵と餃子を押していた。店員に麵の硬さスープの濃さ油の多さを聞かれたときには、私は硬さとスープの濃さは普通で油少なめにしていたのに対し、奏斗は麺硬めのスープ濃いめの油多めで頼んでいたときには驚いてしまった。
 これが20代と30代の差なのだろうかとつい考えてしまう。ただ単に男女の差だと思うけれど、ついついネガティブに色々考えてしまう。それにしても奏斗は細身の割には結構食べる方だな、と思って麺を啜りながらついつい奏斗の方を見てしまうと勘違いされたみたいで「そんなに見なくても言ってくれればあげるのに」と笑いながら餃子の皿を私の方に寄せてきた。そういうわけで見たわけではないけれど、でもくれるというのなら有難く貰おう。
「ありがとう」
 そう言って一つ貰う。さすがに一人でこってりラーメンと餃子一皿を食べきれる自信がなかったから頼まなかったけれど、本当はとても気になっていたからその申し出は本当にありがたかった。柔らかい生地噛むと肉汁が溢れて口の中が火傷しそうなほど熱かったけれど、それを凌駕するほどの旨味があってつい思ったことをそのまま言葉にしていた。
「うまっ」
「ね!餃子も美味しいね~いやあ、いいラーメン屋ができて嬉しいなあ」
 そう言いながら大きく口を開けて肉厚のチャーシューを頬張った。膨らむ頬と緩んだ口角に僅かに滲んでいる汗に奏斗は夜に見る姿よりも幼くて、ちゃんと人間なのだと感じさせられる。私も煮卵を放り込む。味が染みていて半熟の黄身がたまらなく美味しい。ラーメンの汁はさすがに全部は飲みきれなかったけれど、奏斗はしっかり最後まで胃の中に収めて手を合わせていた。まだまだ余裕そうなその顔に驚いてしまう。

「ねえ、奏斗は今まで我慢してたの?」
「えっなにを?」
「食べる量よ。私と食べるときそこまで食べてなかったでしょ?私と半分こにして特に不満そうにもしていなかったから、あなたはそこまで食べる方じゃないのかと思ってたんだけど」
「うーん。俺ね、あんまり空腹って感じないんだよね。ある分だけで満足できるというか……少なくても本当に大丈夫なんだよね」
「今日は随分食べていたわね?」
「俺ラーメンって食べるの初めてだったからね、ちょっと調子に乗っちゃったかも?」
「そうなの?!あんなにラーメン屋に行くの乗り気だったのに?」
「普段行かないようなところに行くのってテンション上がらない?凛さんの家に来るときいつも気になっていたところだったし。だから調子に乗ってあんなに頼んじゃったなあ」
「あなたが今の主から貰ったお金なんだし、別に私はいいんだけれど……よくその身体にあの量が入るわね」
「あはは。ここまでお腹が重たいのも俺初めて」
「知ってる?それって食べ過ぎたってことよ」
「こういうことを言うんだねえ」
 私の指摘に逆上するでもなく、本当に納得したようにしみじみと腹を擦る奏斗に、今まで彼はどう生きてきたのかと疑問に思う。ラーメンを食べるのが初めてだとか食べ過ぎの感覚を知らなかったとか、俗世に塗れているヒモ男のくせに、どこか浮世離れしていて放っておけない雰囲気をしている所以を感じてしまう。
 そういえば、いつの間にか二人して私の家の方向に向かっていることに気が付いて、私は奏斗に声をかける。

「別に、送らなくていいのに」
「そうはいかないっしょ?女の子一人夜道を歩かせるわけにはいかないでしょーよ」
「時間の無駄でしょ?」
「無駄じゃないよ。凛さんと少しでも話したいんだよ」
 ほしい言葉をそのまま渡してくる奏斗に抗う術など私にはない。幸喜のときは、今のところに引っ越してから私の家に来ることは無かった。いつも幸喜の家に私が行って、帰るときにはソファでスマホから目を離さずに適当に「おー」と言いながら片手をひらひらと振るだけ。
 幸喜は本当に私のことが好きなのか、そう疑問を何度も投げかけようとして、望んだ答えではなかったときのことを想像すると何も言えずに平気なふりをして冷たい扉を開けることしかできなかった。
 幸喜は今の私の家を知らない。だから、メッセージアプリをブロックするだけでいいのだ。待ち伏せされる恐怖に怯えなくていい。安心するとともに何故か、心が空虚だけれど。幸喜と奏斗とでは何もかもが違う。私へと態度も、関係性も、全てが真逆だった。
「ね、俺と結婚する?」
「しない。寝言はヒモ脱却してから言ってちょうだい」
「つれないなあー」
 簡単に結婚と言える若さが羨ましい。唇を尖らせて不満そうにしているけれど、奏斗は本気でそう言っているのではなく、私は拒絶すること前提で問いかけているのだけれだ。戯れのそれが私も嫌いではない。純粋にふざけあっている男友だちのような感覚。私も奏斗も互いに互いに対して本気ではないからこその気軽さだ。身体は繋げているのにね。
「じゃ、この辺で」
「ええ、気を付けて」
「あは、ありがとー。凜さんも身体に気を付けてね。また来週来るから!またね!」
 ちゅ、慣れたように頬に唇を落とされる。甘い恋人同士の一時の別れの挨拶のようなそれに、私は舞い上がることはない。奏斗は私の方を振り返ることなく、さっきの駅へと向かっていくのを背中が遠くなるまで簡単に見送って私も背を向けてアパートの階段を上る。
(奏斗と私の今の関係性って、ちゃんと言葉にするのなら一体どんなものになるんだろう)

「彼氏……ではないわね。同棲しているわけでもないし、かといって私が彼の主でもないし」

 自分一人しかいないのをいいことにコンクリートで作られた階段と廊下を歩きながら小さく声に出してボソボソ呟く。
 自分の飯で精一杯の私に人を養うことなんてできない。それは最初から伝えていることだ。だから食事代は折半だし今回のラーメンだってそれぞれでタッチパネルを使っていた。私が奏斗に施しているのはせいぜい寝る場所を提供しているぐらいだろうか。私からすると少しばかり電気代とガス代が増える程度だけで、寂しさを埋めてもらっている。奏斗から見るとあまり得していないのではないかと考えてしまう。金土以外のすべてはもう一人の女性のところにいると言っていた。男一人を養える上にお小遣いまであげられる余裕のある人らしいので、私なんかよりもそっちに入り浸っているほうが余程有益だろうに。そう思いつつも私からそれを指摘することはない。だって、それもそうだね、とあっさりと去っていくのが目に見えている。

 油やにんにくの匂いで臭くなった衣類は洗濯機の中に投げ捨て、シャワーを浴びながらそう思う。
 随分と思考が脱線してしまった。改めて、彼と私の関係性はなんだろうか。またしても浮かんだ疑問に今度はすぐに答えを導き出した。
「セフレ」
 略さずに言うとセックスフレンド。本来はセックスだけするための都合のいい存在として使われている言葉だけれど、セックスもして普通の友人のようにラーメンを食べに行くような奏斗と私の関係性を表すのにこれが最適解な気がする。金土に抱き合って眠っているんだもの。うん、爛れている。
 下品な関係だけれどこの答えに妙にすっきりして、タオルで髪を拭きドライヤーのスイッチを入れた。
 乾かしながらメッセージアプリを無意識に開く。『こうき』と書かれた名前に新規通知は入っていない。当たり前である。私が彼をブロックしたのだから。幸喜からじゃない。私が別れを宣言した後ずっとメッセージの通知が止まなかった。奏斗に声をかけられて一夜を明かした後に色々話してひと段落したとき、ふと幸喜からのメッセージを見返そうとしたときに、奏斗がふわりと声をかけてきたのだ。
「幸せにしてくれない相手にどうして縋るの?」と。
 奏斗は心底不思議そうな顔をしていて純粋に疑問だったのだと思う。見下しているとかそういうことではなかった。でも、女々しく彼に縋りそうになっていた自分が腹が立って「そんなわけないじゃない」と言って勢いのままにブロックのところをタッチをしたのだった。
 ブロックしているから、いくら幸喜が新しいメッセージを送っても私が知ることはできない。でもその前に届いたものは見ることが出来る。
『話し合おう』
『戻ってきてくれ』
『なあ、別れたくないんだ』
『どこにいる?』
『凛』
『俺にはお前しかいないんだ』
 ブロックする前に届いたメッセージには、そのようなこといくつも送られてきている。ブロック解除したら、どうなるのかな。もう幸喜から何も届いていないのかな、それとも、まだ連絡しようとしてくれているのかな。その答えはブロック解除のところをひとつタッチすればいいだけ。それだけだ。
(見るだけなら、縋っていることにはならないよね?)
 誰に言い訳をしているのか、免罪符の代わりにスマートフォンを握りこんで指を彷徨わせた。そのとき、握りこんでいたそれが震えて画面に新しいメッセージが届いたことを知らせが入ってきた。反射的にタップして既読を付けてしまった。奏斗からだ。全くタイミングのいい。

『ラーメン美味しかったね。また行こうね!次は違うラーメン屋でもいいなあ。それまでは俺のこと捨てないでよー?』

 そんなメッセージの後につぶらな瞳から涙を流して首を傾げるウサギのスタンプは送られていて、肩から力が抜けた。ドライヤーを切って文章を打ち込む。

『あなたこそ、何も言わずにはいなくならないでよ?』

 いなくなるのは仕方ないとして、でも黙っていなくなるのだけはやめてほしい。
 せめて一言あれば、私はそれだけで飲み込める。そもそも奏斗との関係は脆いものだ。私に金があれば本当に彼の主になっていたのかもしれないけれど、そんな関係にもならなかった。
 金曜日の夜から土曜の夜まで熱を分け合う仲。一緒にいようと言った奏斗。他の主は彼の自由を許してくれているけれど、その主が駄目だと命じられたのなら奏斗は遠慮なく私を切り捨てるだろう。薄情とも思うけれど、それが彼なりの生き方なんだと思う。私はその生き方を受け入れられないし、ヒモを養えるほど稼げていないけれど、否定するつもりはない。愛してくれとも言うつもりはないし、そんな感情を奏斗には無い。でも、寂しかった。一人の気軽さはある。だけど誰とも一緒にいない私は誰からも求められていないではないかという焦燥感も共存している。
 それでも、ご主人様次第ではいつか奏斗と会わなく日々が訪れてしまうのだろうけれど、あの日みたいに待ち惚けされるのだけは嫌だった。それだけは、やめてほしい。立ち直り方が分からない。
 たった今幸喜のブロックを解除しようとしていた自分のことは棚上げで、そんなことを必死に願うだなんて可笑しい。もし、奏斗からメッセージが送られるのがもう少し遅かったのなら……私は性懲りもなくきっとまた幸喜のところに戻っていただろうから。そんなことをうだうだと考えていると返信がきた。

『俺ヒモだけど、そんな不誠実なことはしないよ。凛さんも大事な存在だもの。だから凛さん俺のことも大事にしてね』
『約束したからね。破らないでよ』
『おっけ!もちろんだよ!あ、俺はここらへんでっ。またね!』
『ええ、また。おやすみ』

 そろそろご主人様のところに着くところなのだろう。切られたことに縋ることなくあっさりと引く。三日月のような形の黄色の枕に顎を乗せて眠っている柴犬の近くに『グッドナイト』と書かれたスタンプが送られてきたのを確認してスマホから手を放して顔を上げる。見慣れた天井と電灯で代わり映えはない。
 奏斗は働かずに女性のところにいてお小遣いをもらったりするような男だけれど、誠実だと思う。
 凜さん『も』と言う、凜さん『だけ』ではない。奏斗は嘘を吐かない。私以外にも大事な存在はいるのだと教えてくれるのは有り難いことだ。自分だけが特別ではないのだと突きつけてくれる。私は未だ幸喜のことが忘れられないまま奏斗と身体を繋げている。特別ではないのが気楽で、良い。不誠実な誠実さが今の私の呼吸を楽にしてくれる。私がもしも幸喜とよりを戻したのなら、奏斗ともうこうして会えなくなるのだろう。
 それは惜しいと思う。幸喜といたときには忘れていた女として扱われることの心地よさと美味しいものを食べる気持ちを分かち合う楽しさをまた感じることが出来るのだから。
 最低だ。私は。

 ふと、向かった視線の先には、棚の上に置かれたまま放置された埃が被った一眼レフカメラ。
 すっかり使わなくなってしまった、かつての私の身体の一部だとも感じていたそれに気まぐれに手を伸ばして持ってみると、ずしりと重たく感じる。前まではどこに行くにも連れて行っていたのに。
 いつ、どんな写真を撮れるか分からないから、と人の目も気にせずに少し遊びに行くだけでも鞄の中にしまい込んでいたものだ。いつからだろうか。重いから、人の目が気になるから、と言い訳にしてこの子から遠ざかったのは。埃まみれにしていたことに、やっと気付いたほどに放置して、最後にこの子を持って行ったのがいつなのか思い出せなくてしまった。
「……明日、掃除しようかな」
 あんなに大事にしていたものをぞんざいにしてしまったことに罪悪感を覚えて、明日ゆっくりとしっかり掃除をしてあげようと思った。今の私にはあの頃の熱は思い出せないし、写真を撮る気持ちにもなれないけれど、物を大事にはしなけれど、と言い訳した。

 朝起きたらカメラを掃除して、買い物にいって、その後は自由に過ごそうと何となく明日の予定が決めてベッドに寝転び目を閉ざす。いつもなら、色々考えてしまう。
 親友に負けないように粗探しして自分の方が勝っているところをでマウントを取って、だけれど私自身には誇れる特技もなくて、一応結婚目前の彼氏がいたのに今は別れちゃって、やりがいのない仕事をして、夢も雑に諦めてしまって、何も持っていないもう30の女である自分がこの世の誰よりも必要とされていない人間なのだと、誰にもなれないのだと、頭を抱えてしまう。
 でも、今思い出すのは、口いっぱいにラーメンと餃子を頬張っている奏斗の横顔だった。
 ハムスターのように膨らんだ頬が少しおかしくてふと笑ってしまった。今日のことを思い出せば悩んでいたはずのすべてが少しだけ霞んだ。
 先行きは相変わらず行方不明で、何一つ解決などできてやしないけれど。何なら緩やかに破滅の道へと歩いている気もするけれど、考えるのはまた明日にしよう。今日はもう気持ちのいいまま眠ってしまおう。

(そういえば、あの臭いで女の子の部屋に行って大丈夫だったのだのかな)

 シャワーも浴びずにそのまま現在のご主人様のところに行ってしまった奏斗のことを心配しながらも、意識は緩やかで穏やかな波のような暗闇に抗うことなく受け入れて手放した。

「……」

 その日の朝はいつもの休日よりも早く起きることが出来た。休日に設定していた目覚ましよりも先に意識を浮上させてしまったが、頭はすっきりしていて深く眠ることが出来たのだと分かって、普段ならまだ眠ることができると二度寝していたけれど、ベッドから抜け出してカーテンを開ける。嫌になるほどの晴天で、とりあえずシーツを洗おうと思う。今日の予定を立てながら顔を洗うために軽い足取りでユニットバスへと向かった。

 今日が終わったら、また変わり映えのない仕事をして、何も変わることのできない自分に軽く絶望しながらいつも通りに過ごすであろう自分のことは見て見ないふりをすることにした。
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