寝言はヒモ脱却してから言え!

「おはよう、凛さん。よく眠れた?」

 見慣れない天井と慣れない枕。隣には知らない男がいて、目を覚ました私に気付いて挨拶される。
 首から胸元まで露わになっているのを見るに、男はどうやら裸のようだった、私も普段あるはずの身体の締付もなく解放的なのできっと同じなのだろう。裸でどこかのホテルで男女が眠っている。
 ……この状況は、明らかにやらかした後であることを物語っていた。
 いつまでも私の反応がないことに首を傾げているこの男はきっと自身の顔の良さをわかっているのだろう、パッチリとした二重の垂れ目で整えられた眉毛に通った鼻筋に薄い唇の甘い顔立ち、その割に太く喉仏の出ていて肩幅がある男らしささが共存しているどこか色っぽい男。
 緩くパーマのかかった暗めの茶髪が男の雰囲気も相まってよく似合っていると思う。
 ベッドに寝転ぶ朝日に照らされた、甘い顔立ちのガッチリとした骨格の男。
 伸びている腕とチラチラと見える腹筋も程よく筋肉がついていて肌もシミやニキビも見当たらず美しい。
(良い画。写真に収められるかな)
 最近あまり湧かなくなった熱が一瞬身体の内部に灯ったが、すぐに沈静化して現実に引き戻される。
 ……そんなことどうでもいいのだ。

(なにがどうなってこうなってるの)
 
 奥から鈍く痛む頭を押さえながら昨夜のことを思い出そうとする。
 幸か不幸かどれだけ酔っていたとしても記憶が完全に飛ぶことはないのだ。
 状況をひとつひとつ整理していこう。
 確か、1人で外を歩いたところでこの男にナンパされたのだ。
 それだけは覚えている。
 いつもなら適当に追い払っていたけれど、昨日の私は妙に自棄になっていて……?
 なんでそんなに自棄になっていたんだっけ?
 そもそもなんで私は1人出歩いていたんだっけ?
 …………あ。

(そうだ、私、あいつ……幸喜と別れたんだ)

 ここで一度も染めたことのない黒髪の男……昨日まで彼氏だった、牧原幸喜という人間のことを思い出すことができた。見知らぬ男と一夜を共にしてしまった直後に思い出すべきことを今やっと思い出すことができた。
 できることならば、ずっと忘れたままでいたかった。



 時間を昨日に遡る。
 2023年11月3日。昨日私はめでたく30歳を迎えた。
 25を超えた辺りから年を取っていくのが色んな意味で嬉しくなかったけれど、最近忙そうな幸喜が誕生日から連休最後の日曜日まで一緒にいようとそう言ってくれて嬉しかった。本当に、うれしかったの。

(まだかな)

 待ち合わせは11時。今は10時半、早く来すぎてしまった。

「お待たせ」
「もう、遅いよ!」
「ごめんごめんっ」

 私と同じ電車を降りてきた男の子に対して既に改札を出た先にいた彼女らしき女の子が頬を膨らませて怒りを形にしている。だが、それは可愛い女の子の戯れみたいなものであることは見ているだけでもわかった、男の子は破顔して謝りながら肩を抱いて駅ビルへと向かっていった。連休初日の都心の電車は混んでいる。
 カップル、夫婦、子どもを連れた家族、外国人観光客などなど。私は人込みを眺めつつ改札を出た転職サイトの広告が貼ってある柱に寄り掛かって幸喜を待った。
 今日の私の恰好はアイボリーのフレアスリーブニットにコーヒーブラウンのハイウエストプリーツスカートに黒のブーツとバックに、大きめなピアス。いつもパンツスタイルの私からすると少し責めた可愛らしい恰好だ。
 前に会ったとき、こういう格好の女性っていいよな、と言われたのを気にしたわけではない。
 たまたま、親友におすすめされたのがこういうのだった、それだけだ。……少しでも幸喜が嬉しい顔を見れたら私も嬉しいけれど。
 時計を確認すると10時50分。メッセージアプリを開くと『着いたよ。改札を出てすぐのところで待ってるからね』と猫のスタンプ。どちらも私から送ったもので、返信どころか既読すらついていない。
「……」
 嫌な予感を押し殺してメッセージアプリを閉じてSNSのタイムラインをスラッシュしていく。なにか気が紛れるものがないか、なんでもいい。そう思いながらも目は流れていくばかりで結局無駄だったけれど、何かしていないと落ち着かなくて、何かが崩れ落ちてしまいそうだったのを堪えるためには必要な行為だった。

「…………」
 13時少し過ぎた頃。着いたときにはいた人たちはもう誰もいない。
 メッセージアプリを開いても2時間前に見たときと全く変わらない画面が映るだけ。
 まるで私だけが時間が止まっているよう感覚に陥るけれど、左上の時間だけは確かに進んでいて、私は待ち惚けを食らっていることを理解させられてしまう。
 朝食べて以降何も食べていないのに、空腹よりも虚無感が酷くてそれどころじゃない。
「……」
 少し考えて、決めた。このまま自分の家に帰って見ないふりをすることもできたけれど……今日ばかりは、もう限界だった。
『今から家、行くから』
 できることなら、家に着く前に返信が来てくれたら良い。
 足に根っこが生えたように重くて仕方のない足を動かして改札の中に入って、自分の家とは反対方向に向かう電車に乗り込んだ。相変わらず、スマートフォンは鳴ることはなく電車に揺られて30分すると彼の最寄り駅。改札を出る私と入れ違いでグレーの髪色の身体のラインを強調するようなぴったりとした服装の若い女性がホームへと入っていった。胃が痛くなるような花よりももっと人工的な甘ったるい香水が鼻について眉を顰めてしまう。派手な女性はこちらを一瞥もせずにカツカツと音を鳴らして行く、私も足は止めずに西口へと下っていく。歩いて15分でマンションに着く。

「……」

 見慣れた扉と部屋ナンバーの前に立ち、震えそうになる手を叱咤して扉を解錠してドアノブを回した。
 キイ、と高い音を立てて開けて玄関を見ると幸喜の革靴とスニーカーが目に入り女性のものはなかった。
 前はそれだけで安堵できた。匂いだって気付かないふりもできた。甘ったるい香水を。
「……っ」
 痛くなる胃に耐えながらブーツを脱いで廊下を歩く。リビングからは何かドラマでも見ているのか、声がしてくる。
「あ、いらっしゃい。凛」
 ソファでゴロゴロしながらスマートフォンを片手にこちらを視線を向けていつも通りに話しかけてくる、私の彼氏のはずの男。ネイビーのバスタオルを肩にかけてシャンプーの匂いを纏って上下スウェットの姿の幸喜。さっきまで何をしていたのか察せないようにと努力することも放棄している姿。連絡も無しに彼女を2時間以上待ち惚けをさせた幸喜。謝罪すらなく適当に出迎えてきた。ぼんやりとしていく頭に聞こえてきたのは男女の声。
『愛してる、愛してるわ!』
『俺も、愛してる!結婚しよう』
『嬉しいっ』
 視線をテレビへと向ける。液晶の中の男女はハッピーエンドを迎えているらしく、抱き合ってプロボーズしている、とっても幸せな光景だ。何があったのか見ていないから知らないし、このドラマなのか映画なのかも分からないしタイトルも興味ないけれど、とにかく最高の結末を迎えたのだということは理解した。
 今の私とは全く正反対すぎてなんだか笑えてくる。思わず笑ってしまう私に幸喜は何か勘違いしたようでその体勢のまま私の方を見ずに饒舌に話しかけてくる。
「随分可愛らしい格好してるね。もう30になったんだから、もっと考えればいいのに」
「……」
「あ、ごめん。本当のこと言っちゃったわ」
 ああ、冷める。覚めていく。今までの10年間のことを考えて都合の悪いことを見ないふり気付かないふりをしてた。でももうだめ。
 約束したにも関わらず放置して、スマートフォンを持っているのに連絡ひとつよこさず、謝罪もせずに私に似合わない格好だと笑い、甘ったるい匂いもソファに落ちる長い髪もそのままにしている神経が信じられない。
 なにより、なによりも、祝いの言葉ひとつなかった。
 電話でもメッセージでも直接でもなんでも『おめでとう』の一言があればきっと私は、それだけで満たされて今日も許せたのに。

「……る」
「え、なに?」
 あまりに小声だったからか本当に聞こえなかったのか聞こえないふりなのか定かじゃないけれど、へらへらしながら聞き返してくる幸喜のことが学生時代に出会ったときの硬派で不器用だけど優しかった彼とどうも繋がらなくて他人に見えた。
 だからかな、いつもなら飲み込むことができた言葉が簡単に感情的にあふれる。
 
「別れるって言ってるのよ、人を下に見るのはいい加減にしろ!浮気男!二度と連絡してこないで!」
「え、うそだろ、りん、まって」
「うるさい!年甲斐なく若い子と浮気してるやつに格好のことをとやかく言われたくないわ!さようなら!」
「凛っ、いって!」
「ふん!」
 
 ブーツを履いて、部屋を飛び出す。私からの別れの言葉にはさすがに驚いたのか、ソファから立ち上がろうとしたのを合鍵をその顔面めがけて投げつけたので良いところにあたってくれたようで、鼻辺りを抑えて悶えているのを視界の端に捉えて少しだけ溜飲が下がる。
 マンションを飛び出して方向も見ずにちょうどやって来きた電車に乗りこんで苛立ちの気持ちをそのままに聞き覚えのある駅名が聞こえてきてとりあえず降りる。
 改札を渡ったところで見覚えがよくある出入り口にやっとここは派遣先の最寄り駅だということに気が付いたけれど、早足で目的も決めずにとにかく歩いた。
 無駄な時間を過ごしているとは理解しているけれど、そうでもしないとやっていられなかった。
(なんなのよ。本当に最悪!最悪最悪さいっっあく!)
 ドスドス、あの香水の女のような優雅とは到底思えない重たい足音である。ヒールは足が痛くなるわバランスが悪くなるわ歩きにくいわでどうしても苦手だった。身長もそれなりにあるので高さのあるものは履きたくない。
 そうなるとスニーカーやパンプス、少し底が厚いぐらいのブーツしか私には選択肢が無い。なんてことない好みの問題だ、なのに今の私にはそれすら気を落ち込ませる要因になってしまう。
 どうして、浮気したのが寄りにもよって私とは正反対の女性だったのだろう。
 私が好みじゃなくなったのなら、そう言ってくれればいいのに、そう言ってくれればすぐには無理でも別れに向けて覚悟を決めることができたのに。
「……っ」
 じんわりと涙が込み上げてきて立ち止まり、胸に手を添えて俯いて衝動に耐える。
 泣くな泣くな、私はこんなに弱くない、弱くないはず、だ。
 自分に言い聞かせて深呼吸を繰り返すと喉の奥から出てきそうだったものは、一応の落ち着きを見せてホッと安堵した。そのときだった。

「おねーさん」
「っ?な、に。気安く触らないで」
 軽薄な声とともに突然肩を抱かれ胸の上に置いた手を取られて驚いて反応が鈍ったが、すぐに手を振り払う。
 あまり力が入っていなかったみたいであっさり開放され、男の正面を見た。
 くっきり二重の垂れ目に整えられた眉毛と高さのある鼻に薄くて大きな口、アイドルのような花のある顔立ちではないけれど、親しみの持ちやすい雰囲気があった。
 緩くパーマのかかった無造作風のダークブラウンのヘアスタイルに、白のワイシャツと黒のチノパン、黒白のボーダーのロングカーディガンを羽織るというモノトーンでラフでありながら彼のゆったりとした雰囲気に似合っていた。顔を見てもやはり自分にはこの男に見覚えはない。怪訝な表情になっていることは自覚したうえで隠すこともなく、問うことにする。
「だれ」
「俺はね、通りすがりだよ。んで、今おねーさんをナンパしようとしている男だね」
「……他を当たってちょうだい。そんな気分じゃないの」
「そう言わずにさー」
「うるさい」
「おねーさんさ、だいじょうぶ?」
「なにがよ」
「泣きそうな顔をしていたからさ。いや、辛そう?苦しそう?とにかくそういう表情をしていたから。つい話しかけちゃった」
 どこから見ていたのだろうか。もしかしたら最初から見ていたのか、男は口角を緩やかに上げたまま眉を下げて悲しそうなものへと変える。ふわり。シトラスの香りが妙に優しく私の鼻腔を擽ってくるのが、なんだか泣けてきて、先程落ち着かせたものがまた込み上げてきてぐっと唇を噛む。男は私を安心させるように微笑みかけてくる。
  
「ね、ね。飲みに行こうよ。昼間から開店してる居酒屋を知ってるんだよ。おねーさんの話を聞きたいなあ。気晴らしになるかもよ?」
「……」
「俺奏斗って言うんだ。おねーさんは?名前だけでも教えてほしいなあ」
「……凛……」
「凛さんだね、いい名前だ。ね、行こ?」

 その声はまるで泥の中に引きずり込もうしてくる悪魔の囁きのように甘美で、抗えないもののように思えた。
 先程から幾度もポケットの中で震えるスマートフォンよりも男……奏斗と名乗る男の誘いに手を伸ばしてしまった。

 そこからの私は……まあ、みっともないものだった。
 昼から開いているという居酒屋は会社からそう遠くないところにあり、まだ外は明るいにも関わらず人は結構いて、でも男性女性が半々ぐらいでほとんどは私とそう年齢が変わらない客が多くて居心地のいい店に奏斗に連れられて、私は吐き出した。語り出すなんて生易しいものではなく文字通り、吐き出したのである。
 待ち合わせしていたのに遅刻するどころかメッセージをせずに既読すらつかなかったから家に行ったら、謝罪も何もなくただ何事もなくいつも通りに出迎えられただけだったこと。
 自分以外と行為していたのだと隠すつもりもない雰囲気だったこと。
 前々から浮気していたことには気が付いていたけれど、それを見て見ぬふりをしてきて、久しぶりのデートに以前好きだと言っていた恰好を参考におしゃれしてきたのに年齢のことを合わせて小馬鹿にしてきたこと。
 今まで親友にすら吐き出せずにいたことを、今日初めて会った奏斗に全部出したのである。
 奏斗は酒が回り支離滅裂で感情的になりながらも話すことをやめない私にうんうん、酷いねと面倒くさがる様子も見せずに相槌を打ってくれる。

「わたし、誕生日なのにぃ……」
「えっ、そうなんだ。おめでとう」
「なにもめでたくないいい!」
「うーん、そっかあ、そうだよね」
「……せめて、おめでとうの一言だけくれたら、それだけで、わたし、また1年を、過ごせたのに。また、見て見ないふりができたのに……」

 単純だけれど、私はそれだけでよかった。張りきった格好を馬鹿にされても、ほかの誰かと行った行為を隠すこともなく、待ち合わせしていたのに痺れを切らしてわざわざ家まで来た彼女に謝罪することもなく悪びれる様子も見せなくなくても、たった一言、メッセージでもなんでもおめでとうって、生まれてくれてありがとうって、それだけでいいのに。
 ジントニックの入ったグラスをぎゅっと握りながらそんな弱音を吐く私を奏斗はどう思ったのか、ふわりふわりと相槌を打っていただけだったのを少し雰囲気を変えた。

「でも、それは先延ばしにしているだけで凜さんはきっと幸せにはなれなかったと思うから、今別れられてよかったんじゃないかな」
 女々しい私を責めている、というよりは甘やかすようにそう言ってくれるのが、じんわりと私の胸にすとんと落ちて反発する気も起きなかった。
「……わかってる」
 奏斗の言う通り、たとえ今日を誤魔化せたとしても私は幸せにはなれない。あるのは、我慢と苦悩と執着だけで、そこに愛はない。幸喜に……たぶん、私にも。いつから、かな。
 幸喜が私を都合のいい女のように扱うようになったのは。学生のときは大事にしてくれたはずだったのにな。

「彼氏なし、派遣社員、夢も叶えられない30歳……怖いなあ、やだなあ。せめて結婚してくれたら、社会的地位が安定するのに、全部不安定。わたしには、なんもない」

 10年前はこんな風になるだなんて少しも思っていなかった。私はきっと働きながらも夢を追いかけて、世間に認知させられるような人間になって、大学のときから付き合い私を理解してくれる優しい幸喜と結婚するんだとそう思っていたのに。
(でも、今の私はなんだろう)
 結局幸喜とは冷え切った荒んだ関係になって、誰からも知られないどこにでもいるような派遣社員で、夢を追いかけるという熱すら失いつつある。こんなにも情けない大人になるつもりはなかったのに。
 どうしてこうなっちゃったんだろ。せめて幸喜と結婚すれば、なんて思って縋ってしまったのがいけないのだろうか。夢をさっさと諦めてしまえばよかったのかな。
「私はどこに行けるんだろ」
 このときの私は酒に酔い、10年付き合っていた彼氏と別れて、どうしようもなく弱っていた。きっと、漬け込みやすいことこの上無かったのだろう。
「とりあえず今はさ、ここにいてよ」
 ゆらゆらと宙を浮いていた左手をそっと取られて指と指を絡められる。
「俺のとなりにさ。ね?」
 甘えた声とともに繋がれた手の甲にそっと唇を落とされる。
 恋人のような甘い接触は久しぶりで胸が高鳴り覚えてしまい、私は逃れたいとも思えなくてただただぬるい熱の掌に甘えたくなってしまった。拒むなんてできなかった。一瞬幸喜の顔が浮かぶ。恋人になったばかりのときによく見た屈託ない笑顔は目の前の彼と全く似ていなくて安心して、奏斗に身体をゆだねた。

 ホテルに連れられて、すぐに裸になって抱き合う。
「ハァっ、んあ、う、あっ、あっあ」
「誕生日おめでとう。生まれてくれて、俺と会ってくれてありがとう。凛さん」
 身体の奥からじんじんと訪れる快楽に揺さぶられながら言われたかったことを言ってくれたことが嬉しくて、でも、欲していた本人から何も貰えていないのがどこか虚しくて、快楽と喜びと虚しさが溢れてそれらは全て頬をすべる涙となってシーツに染み込んで全部消えた。

 シトラスと汗が混じった匂いと熱と湿ったほどよく筋肉のある張りのある肌、温い暖かさのある身体にくらくらした。



「……」
「あ、記憶はある感じだね。よかったよかった」
 見知らぬ男……正確に言うと昨日知り合ってナンパされて慰められ唆されて、一夜を共にした奏斗は安心したように息を吐いた。昨夜のことは夢でもなく現実であることを実感してしまって頭を抱える私とは真逆である。シーツに潜り込み動かなくなった私の耳に、奏斗の可笑しそうな笑い声が届いてくる。

「あ。そうだ、結婚する?」

 そして、とんでもないことを言ってきたのだ。思わず顔を出して奏斗を見る。

「は?」
「昨日言ってたよね?社会的地位が安定するとかなんとか……それなら俺と結婚しちゃう?」

 今日の朝食はパンでいい、と同じぐらいの軽いノリでそんなことを言ってくる奏斗。結婚なんて人生の墓場なんて例えられるほどの重たいもののはずだ。最近の価値だと軽いもののようとして扱われることが増えていったけれど、私からすると一生を共にするとても重たい契約だ。だけれど……いっそ私も簡単に頷いてしまおうか。奏斗から言ってきたのだから、別にいいだろうと、相手の責任にしてしまって、なんて考えてしまった。
 妙な非現実的な感覚を味わっていた私はふわふわとした心地のまま首を縦に振ろうとした。だが、次の奏斗の言葉によって現実に一気に引き戻された。

「まあ、俺就職どころかバイトもしていないし株?とかもやっていないんだけれどね」
「は……?」
「クリエイティブ系?っていうのでもなくて。インフルエンサーでもないんだよねえ」
「それって……」
「あ、ニートではないよ。実家は出てる。でも俺自身は働いていなくて、女性の家に好意で住まわせて貰っていたりしてるんだよね」
「ヒモじゃないの、それ」
「そういう感じだねえ、ねえ、どうかな?俺さ、昨日から宿無しなんだよね、前の俺のご主様ったら好きな人と付き合うから出て行ってーて言われちゃってさあ。ある程度お金はくれたんだけれども。でも住むところを今絶賛探し中。もちろん家にいさせてもらうときは家事はするし、浮気もしないよ。どうかな?凜さんは社会的地位が欲しいみたいだし、丁度いいし結婚しちゃわない?」

 一気にとんでもない事実を奏斗は私に突きつけてくる。すべてを嚙み砕くまで少しの時間を要し、言葉たちを飲み込んでやっと私の頭は動き出し、答えを導き出す。裸にも関わらず起き上がり、奏斗を見上げる。

「ね……」
「ね?」
「寝言はヒモ脱却してから言え!それに、昨日言ったでしょっ、私は派遣社員で稼いでいるわけじゃないから無理!!」

 凡そ一夜を共にし朝を迎えた男女とは思えないほど勢いのある怒声がホテル中に響き渡りそうなほどに張り上げられた。それを間近でくらった奏斗は驚いたように目を見開いて少しの間固まったかと思えば、肩を震わせて自分を睨み上げてくる私をまじまじと見てきた、かと思えば。

「あはは!凜さん、面白いね」

 そう言いながらカラカラと笑う奏斗は何だか随分と幼くて、さっきの澄ました顔よりも好感を持てるものだった。
 それでも、ヒモ男と結婚するなんてありえないけどね!
 ……でも、このシトラスと汗が混じった匂いのおかげで今この瞬間だけはあの浮気男のことも忘れることができたことだけは、感謝してる。
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