ゆめみる少年。


「…………」

 会話をするどころか、思考する気力すらわかなくなって、ちゃんと答えを探さないといけないという気持ちとは裏腹に少しも頭が働かない。
そんな僕をみかねたように両手を上げて仕方ないなあと一言。

「じゃあ、ヒントをあげるよ」
 トイプードルはいつの間にかいなくなっていて代わりに小学校の頃の夏休みの課題としてプチトマトを育てるときに使用するような安価で、丈夫とはとてもじゃないけれど言えない植木鉢があって、か細い茎が土からにょきっと生えていた。
でもその頼りない茎や植木鉢の安っぽさとは真逆に、実っているものはまるで農家の人が育てたような立派で真っ赤なトマト。
少し歪に丸い大きなトマトを少年は指先でいたずらしながら『ヒント』を告げる。

「もっとさ、自分の内側のことじゃない?他人がどうこうじゃなくて、もっと主観的なもの、感情的なもの」
「内側……」
「だって、今まできみ、他人から見た自分のことばかりだよ。そういうんじゃないよ、きみが取り戻したいものはさ。言ったでしょ?きみ自身のことだと、他人がどうこうじゃないんだ」
「……きみは、僕の本当の答えを知っているんじゃないの」
「さあねえ」

 こちらを見透かしてくる発言を繰り返し行う少年に僕はいよいよ不気味に思う気持ちを隠すことができなくなっていた。僕の答えを知っているのなら、わざわざ僕から言わなくても、いいだろう。
さっさと答えを教えてくれればいいのに。
僕がそう思っていることは顔に出ているだろうに、少年は気にする素振りすらも見せなかった。
僕に対して「取り戻したいものはなにか」と聞いているのに、何故少年はそんなに適当なのか。
イライラしながらも、ヒントを得て、今度はすぐに出てきた。
常々思っているけれど、受け入れ難くて口に出したくないものだったが、もうこの問答という名の尋問が早く終わってほしかった。詰まる喉を駆使して絞り出す。

「嫉妬しない自分、評価されたいと思わない自分」
「ちがうでしょ」

 やっとのことで重い感情を堪えて言えたのに、少年は間髪入れず首を横に振った。

「ちがう、わけない、僕の取り戻したいのは、他人に嫉妬しない、評価されなくても構わないとそう思っていたかつての僕……」
「だからさあ、取り戻したいものを聞いているんだってば。何度言わせるの?今欲しいものじゃないんだって。
元々手に入れてないものは含まれないよ?」
「っ、そんなことない!ちゃんと僕にだって……」
「そんな時期がちゃんとあったって?じゃあそれっていつ?」
「それ、は……」

 突然聞かれて出てくるものでは無いだろ、心で思いながらもいつそんな自分がいたのか考えようとしたけれど、少年は問いかけてきたにも関わらずこちらに思考させる時間もよこさず、さらに言葉を畳みかけてきた。

「いつもきみは褒められたいから絵を描いていて少しずつ絵から漫画へと変わっていっただけじゃない。
絵よりもストーリーのあるもののほうが評価されやすいからって理由だったでしょ?
最初は漫画家を夢見ていたから描いた訳じゃなくて、漫画を描ける自分とそれを褒めてくれる両親や友達がいたから更に描き続けた。
周りとは少し違うことが出来たら先生だって褒めてくれるもんね。それが気持ちよかったから自分には才能がある、漫画家になれるんじゃないかって思っちゃったんだよね」
「ちがうっ」
「違わない。なにひとつ違うことは無い。
きみは幼い頃から自分より絵がうまい人が羨ましくて、評価されないと面白くなかった。
ね、そうでしょう?」
「…………」
「でもさ、そんな自分を否定しなくてもいいんじゃないの?他人に嫉妬するからこそ絵や話のセンスを磨こうと思える、評価されたいからこそ努力しようと思える。嫉妬しちゃうのも評価されたいと思うのは極めて自然なことで、大多数の人間が表には出さなくても心の底では感じてしまうことだもの。
むしろ『自分は他人に嫉妬しません』とか『評価されなくても自分にとっては価値がありますので気にしません』だの宣うお綺麗な人間は努力も必要に感じないし他人に興味がないってことだ、そんな奴らには心をえぐるような面白い物は描けない。
僕はそう思うけれど、きみはどうだい?」

 少年は最後に問いかけてきた。そこで僕は気がついた。この少年は僕が目を背け続けた現実を突きつけ壊してくるようでいて、そのくせ僅かな希望を与えていることに。
否定のなかに確かに肯定の意を明らかにしているけれど、甘やかしているわけじゃない、それがお前という人間なのだと嘲笑っているのだ。
弧を描く口元がそれを表していた。
ギリリと唇を噛み、否定の言葉も出せずただ目から何かが込み上げてきそうなのが腹正しくて悔しくて、情けなくて。
小学生のときに先生に叱られたときのように早くこの時間が終わってくれ、目の前の存在に急用ができていなくなってほしい、そう祈ることしか僕にはすることはなかったけれど、やっぱりどちらも僕の祈りは叶わない。

「さてと……もうこれ以上は自分で考えても出て来なさそうだし、僕から教えてあげる」

 ギシ、カタン。少年はパイプ椅子からゆっくり立ち上がり、トマトが生えた植木鉢をそのままに軽やかに僕に近づいてくる。

「残念だよ。僕はとても悲しいよ。
あんなに大事で大切だったはずのものを思い出すことももうできないなんてさ」

 近づいてくる声とともにズビ、鼻をすするような音も聞こえた気がした。まさか泣いているのか、と思ったけれど顔を上げることができない。
でも次に告げられた言葉には無反応ではもう、いられなかった。

「創作を心から楽しんでいたその気持ちを、きみは取り戻したいとおもうどころか、すっかり忘れちゃったの?」
「……え?」

 一瞬何を言われたのか分からなくてフリーズしたあと、脳が追いついてきた頃に弾かれたように座っている僕の真隣に佇んでいる少年のほうを見上げた。
少年は変わらずにフードを目深に被りどんな瞳で僕を見ているのかはわからないけれど、にやけていた口は一ノ字にしていた。
何故かその腕の中には芽が出ていないただ土が埋まっている深い青色の鉢植えを重たそうに大事そうに抱えていた。

「たのしんで……?」
「絵を描くことも話を作るのも描きたかったシーンにやっと辿り着いたときのワクワク感、登場人物たちが自分の手で吹き込まれていくドキドキ感とかだよ、昔のきみはそれが楽しくて仕方なくて、クオリティを上げるために日々努力してた。
周りの子もきっときみのキラキラした瞳に自分も自分もって集まってきたんだよ、多分ね」

 少年に言われて確かに、前の僕はただ創作することが楽しかった。誰かに嫉妬して自分も負けていられないと努力し続けた、少しでも多くの人に僕の描いた物語の子たちを好きになってほしくて、評価されたら本当に嬉しかった。
それだけで、良かったのに。
いつから僕はこんなになってしまった?
いつから僕は、こんなに醜くなってしまった?

(そうか、その楽しさの上に嫉妬などの負の感情が降り積もっていつしか根っこにあったはずのものが、見えなくなって忘れてしまっていたんだ)

あんなに、楽しかったのに。
全てが輝いて見えて自分も輝いてみたくて、頑張っていただけだったのに。

ーーーいつから、僕はこうなり果ててしまったんだ。

純粋にただ絵を描くことを、漫画を創ることが楽しくて仕方がなくて時間を忘れて没頭していた自分はいったいどこに行ってしまったんだ!!

頭を抱えて髪の毛をぐちゃぐちゃに掻き回しながら僕は俯いた。
嘆きや悲しみや怒りやらがしっちゃかめっちゃかになって、どうしようも無い感情でいっぱいだった。
そんな僕を見下ろす少年は、それでも言葉を投げかけてくる。

「今のきみにとって漫画を描くと言うことはただの義務感。ただの自己陶酔にできるものであり承認欲求を満たすためのものに成り下がったんだ。
映画や漫画や小説やドラマやアニメを見て読んで勉強して努力しなくても、面白くなくても漫画というものを形にするだけで、漫画に詳しくない人からすれば『すごい』て言って貰えるんだもん」
「もう、やめてください」

 耳を塞いで首を振って懇願を口にする。なのに少年は辞めない、耳を覆っているのにその声はすり抜けてくる。

「夢をみるだけなら誰でもできる、夢を語るだけなら楽しいだけで終われる。夢を見続けながら現実を見て努力できる人間だって夢やぶれて終わる方が多数。きみはなにになりたかった?なんのために漫画家になりたいと思ったの?」
「やめて」
「最初に抱いていたはずの気持ち、創作する上で大事な原点すら忘れていたくせに」
「やめ」
「漫画家になりたいって言った癖に、同じように夢を見て応援してくれている篠崎さんにさえ自分の漫画をみせられない、だのに評価されないと傷付いてもうやめたいってすぐにおもうぐらいならもう趣味でいいじゃん。漫画家にならなくても漫画は描けるんだし。
まあ、他人には夢があるって言った方が響きが良いし、自分も酔える、夢を語っている間だけは現実をみなくても済むし。
とてもお手軽な酔い方だね、お酒と違って身体にも良いし?
あはは、いいじゃんいいじゃんっ!
いつまでもそうやって自分の殻に閉じこもっていれば!
そうすれば誰かから傷つけられることもない、その代わり誰かにきみの漫画が響くことなんてないけど!
ずっと自分が傷つかない方向に戦わない方向に馬鹿みたいに向いてればいいんじゃないかな!!」
「〜〜〜っ、うるさい!!」

 思わず立ち上がり、少年に手を伸ばした。倒れたパイプ椅子も少年が腕に抱えている鉢植えも気にすることなく首元に手を伸ばしてこちらに引き寄せる。その拍子に鉢植えを離してしまい、ガシャン!と割れる音が響き僕と少年の間に無残に割れ土が溢れる、それに構わずパリンパリンと僕は割れた陶器を更に踏みにじった。それどころじゃなかった。少年にとっては大事なものかもしれないそれを気にする余裕もなくただただ腸が煮えくり返りそうなほど激昂していた。

「うるさい、うるさいうるさいうるさい!!うるせえ、うるせえんだよ、何なんだよ!お前は!!
そんなに僕に現実を突きつけるのが楽しいのか!
そんなに僕を笑いたいのかよっ、それでお前はどうしたいんだよ!僕が見たくなかったもの、気づきたくなんかなかった醜いところも、洗い出して曝け出して晒して!いったいなにがしたいんだよ!!ふざけんな!!」
「僕はきみに問いかけただけ。きみは僕の質問に君の意思で答えたんだから。
恨まれても困るよ」

 こちらは何度も少年を揺さぶり唾が飛びそうなほど声を張り上げているのに、淡々としている少年の声にカッとマグマのような悔しさと情けなさが増す。
僕に襟元を掴み上下にしていたせいで、パサリとフードが落ちたのはぼやける視界のなかでも確認できたけれど、少年がどんな顔をしているかどんな表情で僕を見ているかまでは分からなかった。

「……お前は、僕に死んでほしいのか。だから、こうして追い詰めてくるのか……?」

 ひとつの可能性に行き当たり、そのまま問いかけた。そうとしか思えないほどに少年の言葉のすべてがこちらを追い詰めてくる。それなら合点が行くと同時に、話の途中で追い詰めながらも妙に希望を与えてくることだけは納得できなかった。
もし、少年に頷かれた場合僕はどうするのか。そこまで考えは及ばなかった。
「まさか」と心底驚いたように心外であると訴えてきた。

「死んでほしいなんてそんなこと露にも思ってないよ?
僕はきみがいるからこうして存在している。きみも僕がいるからこそ『漫画家志望』という夢をもって生きているんだよ」

 少年は自慢するでも無く傲慢でもなく、只管いつも手に持っているのはスマホですと言わんばかりの普通で当然のことを話すように告げてきたのだ。

「うるさい、僕はお前なんて知らない!!」
「知っているよ、きみは。きみだけは僕のことを知っている。僕がきみに死んでほしいと思われているようだけど、逆だよ。僕はきみに望まれないと生きられない。きみが僕の生殺与奪の権利を握っているんだよ」
「っそんなわけがない、僕は知らない、きみのことなんて分からない!お前は誰なんだよ、僕の何なんだよっっっ」

 そう叫ぶように問いかけたところで、瞳に溜まりに溜まった水がついにボロリと溢れ、ようやく溺れていたように濁っていた視界がクリアになって、フードがとれた少年の顔が認識できた。そこにいたのは。
ーーーそこに、いたのは。

「僕はきみ、きみは僕だよ」

 泣きそうな笑顔で目を細めて僕を見つめていた少年の顔は……紛れもない『僕』だった。
 正しく言えば今の僕と同じ姿ではなくて、もう少し若い、今よりも肌の張りがあってあどけなさと素直さの残る少し過去の僕がそこにいた。まさかまさかの状況にどうしていいのかわからなくなった、というより混乱していた。
 思わず瞳を彷徨わせ、視界の端に映ったのは僕と少年の間にある割れた植木鉢と散乱した、紛れて球根がむき出しになっているのが妙に目に焼け付いたのとほぼ同時に少年……過去の僕が胸ぐらを掴む今の僕の腕をそっと寄り添うように握られた。

「きみが夢を諦めて、夢を追っていた時期を否定したら僕は死んじゃうよ。
まだ僕は死にたくないよ、だってまだまだ描けてない。描き終わってなんかない。
描きたい漫画はまだ尽きていない。今の僕だってそうでしょう?
ただ、まわりの評価に雁字搦めにされて描けなくなってしまっただけ。ねえ、お願いだよ。
どうか、僕を殺さないで」
「……あ、」

 苦しそうに笑いながら、辛そうにしながらも慈悲深い暖かな瞳で今度は過去の僕が今の僕に懇願した。それをみたら僕は胸が苦しくなって、でも優しい気持ちとさっきまで僕が取ってしまった態度に後悔してなにか言いたくてでもやっぱり声が出せなくてどうしていいのかわからなくなってしまった。すると少し沈黙を置いたあと、過去の僕は「あ」となにか気が付いたような声を上げた。

「……そろそろ、起きたほうがいいかもね」
「っ!?」

 突然過去の僕が僕を突き飛ばした。普通なら床に尻もちをつくだけのはずなのに、いつまでも休憩室の床に臀部がつくことは無く、そのまま勢いよく僕はどこかに落ちていく。バイト先の休憩室の光景と僕を見下ろすパーカーを着用した僕が遠ざかっていく。真っ暗な暗闇に視界を奪われてもなお落ちていく感覚が収まらない。すっかり僕の姿が見えなくなって、声も届かないはずなのに、どういうことか声が僕の耳に聞こえてきた。

「次に僕と会う時、きみは夢を諦めてしまったときなのかな?それとも念願の漫画家になれたときかな?また会えるそのときを楽しみにしてるよ。僕の質問に今度はノーヒントで間違いなく答えてね。
僕は出来ることなら……後者であることを望むよ。じゃないと僕は死ぬことになるから。
とりあえず今はこれだけ言わせてもらうね。
……またね、僕。
これからどうするのかゆっくり考えるといいよ、後悔が出来る限りない選択肢を、どうか。
どうか」

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