3.先を生きる人。


 登校日なので授業は無く、出席だけ取って今日から少しずつ本格的に授業が始まるまでに身体を慣らしておくように、と締めて今日の学校の用事は終わった。部活動がある生徒はそのまま残っていたが、俺たちは特に学校には用事はないのでそのまま帰ることになったのだが……鷲尾と別れてすぐ俺は叶野を呼び止めた。

「話したいことがあるんだが、時間はあるか」
「うん?いいよ」

 叶野は驚きながらも快く承諾してくれた。

「伊藤は先に帰っていてくれ」
「おう、またバイトでな」

 伊藤は俺がこれから話そうとしていることを知っていてか何も言わずただ後でバイトで会おうとだけ。叶野も湖越に声をかける。

「誠一郎は先に帰ってて〜ちょっと俺は一ノ瀬くんと雑談してから帰る〜」
「おー、わかった。……気をつけてな?」
「わかってます……」

 湖越も何の躊躇いもなく頷いて伊藤と二人で高校最寄り駅まで歩いていく、二つの背中を見送った。
「立ち話もあれだし、ちょっと移動しよっか〜」
 叶野の提案に頷いて促されるままに歩みをすすめる。
 帰りに使う道と逆の道を歩いていくと少し大きな公園があった。夏休み中であろう小学生に混じって俺達と同じ学校と思しき男子生徒がちらほらいた、俺が自宅から駅まで歩くまでにある公園よりは大きな公園は金はないが時間がある学生が使うのにもうってつけだな、と納得する。
「あ、あそこあいてるね」
 叶野が指をさす先には自販機が隣においてあって後ろには大きめの木々たちがあり丁度日陰になっているベンチがあった、この炎天下自販機の隣で木の陰に隠れられるベンチに誰もいない、来るタイミングが良かったらしい。遠慮なく座ると後ろの木々たちにひっついている蝉たちの音が響くが、直接日光に当たるよりはましだ。近くにあった自販機でペットボトルの紅茶を買って口をつける。冷たい液体が喉を通る感覚が心地よい。

「ふぃ〜生き返った〜……。あっ俺に話ってなにかな?」
「叶野は……吉田から話、聞いてる……よな?」
「……夏祭りのことだよね?」

 緩やかで穏やかな空気が少し張り詰めるのが分かる。
 子どもの声と野太いきっと俺らの学校の生徒であろう男子高校生の騒がしい声が聞こえる、苦情にならなきゃいいな……なんて、少し現実逃避。

「ああ、端的にどう思う?」
「どう思う?!え、ええ〜と……吉田くんからすると誠一郎に梶井くんに謝ってほしい、のかなぁって……」
「それは多分違うと思う」
「えっ」

 叶野が意見してくれたのにも関わらずそれを尊重するどころか否定する自分に少しの嫌悪感。けれど今はそれに気にしていることは出来ない、緊張で胸がいっぱいだからだ。


「梶井と湖越に、仲良くしてほしいんだと、おもう」


 きっと、いや絶対にそうだ。いや、否定しておいてあれだけど吉田としては確かに何か言ってしまったことを一言謝ってほしいのかもしれないけれど、それだけではないんだろう。謝るだけではなく、あの素であろう梶井にもう一度会うにはきっと湖越と和解するのが一番なのだ、きっとそれは吉田も梶井も望んでいることだ。
 湖越は……どう思っているのか俺には分からない。だけど叶野なら、小学校からの親友であり空気も読める叶野なら、和解できるよう上手くやれるんじゃないかって、そう思った。唇を湿らせて、叶野を見つめて、誘う言葉をだす。

「だから、湖越と梶井の和解を、一緒に手伝ってくれないか?」

 声は震えていないだろうか、手は緊張から炎天下にも関わらず冷たくなってしまっている。
 蝉の音も今の俺の耳には聞こえなくなった、それに疑問を抱く余裕もない、俺の言葉の返答を、ただ黙って待った。しばらくして、叶野は口を開く。苦しそうな表情を浮かべる。その表情で答えがわかってしまった。

「……本心を言うと快く引き受けて手伝ってあげたいんだけれど……ごめん」
「……そうか」
 叶野の細い声は掻き消されることはなくちゃんと俺の耳に届いた。届いたと同時にあの最後の叫びだと言わんばかりの蝉の音がまた耳に入ってくる。……断られてしまった。
 湖越と梶井が和解できるよう手助けして欲しい、そう叶野に俺は言った。その提案に目を見開いて驚いていたようだったが、俺の目を見て本気なのだと察したようで合わせていた視線を逸らして考える素振りをしたあと、もう一度ゆっくり目を合わせ……断られた。
 静かで言葉遣い自体は穏やかで優しいのだが、この決定は覆すことは出来ないという強い意志を感じて俺はただその回答に頷いた。納得さえしていた。
 叶野が手伝ってくれるか否かは半々かな、と最初から思っていたから驚きはしない。驚かない俺に叶野はフフ、と苦笑い。

「吉田くんからすると誠一郎は梶井くんを突き放したひどい人間だと思っているんだよね、そう思うのは人それぞれのことで、仕方のないことだよ。……だけどね、俺から見た誠一郎はすごく優しい人なんだ」

 叶野は青空を見上げて懐かしそう目を細めて続ける。

「謝ることを強要されたときには庇ってくれていじめのことを真っ先に気付いてくれて……不登校の俺を励ましてくれた。もしかしたら、誠一郎からしても綺麗な友情ではないのかもしれないけれど……それでも、俺からすると恩人であり、一番の親友なんだ」
 だから、叶野は目を閉じてすぐに開けて俺を射抜く。普段の温和で優しい空気感はそのままにでもその瞳は覚悟を決めた男らしい意志の宿った瞳をしていた。
「俺は誠一郎の一番の味方でいたい。本音を言うと俺も、梶井くんのことも吉田くんのことも気になるんだけど……、梶井くんの話題を出すと誠一郎、悲しそうで苦しそうにするんだ、本当につらそうにしていてこれ以上踏み込めば壊れちゃいそうだから……。だから、ごめん。和解させるための協力は今のところはできそうにないや。俺は誠一郎一人で梶井くんと話せるようになるまで……今は支えたいんだ」
 夏祭り、湖越たちが帰った後弱々しく自信がなさそうなのが嘘のように自信に溢れた堂々とした答えだった。やっぱり叶野は男らしい。
(……叶野らしい答えだな)
 誰かを傷付けたくないし出来ることならきっと和解したほうが良い、それでも親友が苦しむのは叶野にとって一番苦しいと判断したようだ。
 元々断られても何も言うつもりは無かったが、そこまでの覚悟を見せられてしまえば食い下がるなんて選択肢も思いつきもしない。叶野の覚悟に水を差す気にもならず、ただ頷いて返せば苦笑される。

「でも、応援してるよ。……なんて言うのはずるいかな」
 自嘲する叶野に首を振って否定する。そんなことはないって少しでも伝わって欲しい。
「叶野にとって湖越が大事な親友って分かった。……俺も当事者が伊藤だったら、たぶん叶野と同じようにしていたと思う」
 叶野たちも俺にとってとても大切な友だちだけど、もしも伊藤が湖越の立場であれば叶野と同じようにしていたし、吉田の立場であれば湖越にあたる人にあの態度を取ってしまう可能性は……高い。優先順位、とかではないと思う。ただ自分のなかで伊藤が一等大事、それだけ。

「応援してると言ってくれるだけでも、救われる。……このまま、湖越を支えてほしい」

 叶野も出来ることなら梶井と和解してほしいと伝わったから。もしかしたらこれから先俺は湖越を傷つけてしまうかもしれないから……叶野が湖越を支えてくれるのなら、少し安心する。

「断られているのに清々しいね、俺からすると一ノ瀬くんはちょっと眩しいよ。……俺も一ノ瀬くんみたいになりたかったなぁ」
「?叶野は凄いのに?」
 俺みたいに、と言われてもピンと来ない。俺なんかより色んなものを持っていて色んなことを知っている叶野は凄いな、とつい先程思っていたから余計によくわからない。首を傾げる俺に叶野は笑う。

「……すごくないよ。俺は、ぜんぜん。一ノ瀬くんのようには、なれない」

 そう言った叶野の表情は笑っているのに泣き出しそうに見えた、声をかけたかったのに何も言えなくなってしまった。


 あの後、すぐにいつも通りの笑顔で「そろそろ帰ろっか」と叶野から切り出されて、これ以上何も話せないだろうと判断した俺は考える前に頷いていた。
 駅までの帰り道何か話したようなような気もするけれどよく覚えていない、覚えているのは強い日差しが肌を焼いていく感覚だけ。駅までは一緒でも方面は違う、「またね、宿題ちゃんとやるんだよ〜」と言いながら手を振って階段を下っていく叶野の背中をみてじわじわと後悔した、叶野の言葉を否定しなかったことに。そんな自分にため息を一つ吐いた。

「……あー……、俺って、ほんとう、さいていだなぁ」

 階段を下りきった叶野が苦しそうに胸ぎゅうっとおさえつけて悲しそうにその表情を歪ませていたことを俺は知らない。

――――

(整理出来なかった、だってそりゃそうだよ、やっと俺昨日自分の気持ち受け止めたところなんだから。好きになったって、自分が傷つくの、分かっているのに)
 今日だって、鷲尾くんは俺と話しているのに無意識に離れた一ノ瀬くんに目を追っているのをみてしまった。
 胸が締め付けられる。だけど、卑怯な安堵も覚えていた。
 だって、一ノ瀬くんは伊藤くんのことしか見ていないし伊藤くんも一ノ瀬くんしか見ていない。勿論、恋愛的に。否定していても傍から見ればどうしたって互いを想い合っている深い仲の2人にしか見えない。
 まだ鷲尾くんは自分の気持ちに自覚していないみたいだけれど、伊藤くんと一緒にいる一ノ瀬くんをみて苦しそうにしているのだから、一目瞭然だった。だから、たとえ鷲尾くんが自覚したところで一ノ瀬くんが鷲尾くんのことをそういう対象としてみることはないんだと、安心している。
 ああ、俺は好きな人の恋すら応援できない。好きな人が叶わない恋をするのだと安堵すら覚えている、なんて醜い人間なんだろう。
 いいなぁ。一ノ瀬くんは、鷲尾くんに好かれていて、自覚は無いけれど好いた人にちゃんと好かれていて……。
 一ノ瀬くんが心底羨ましくて、自分の醜さが酷さが際立って苦しくて、体の中はぐちゃぐちゃだ。そんな浅ましい気持ちを持っている自分では一ノ瀬くんのような綺麗な気持ちで誠一郎たちの和解のお手伝いなんて出来るわけがない。
 もちろん、誠一郎への確かな友情もあるけれど、俺のこの醜い感情がどっちが大きいのかなんてもう考えたくない。
 俺は結局目を逸らすことを選んだ。これでは前とは変わらない。人間、分かっていても簡単に変えられないこともあるんだと、痛感する。

(一ノ瀬くんが、顔だけが綺麗な内面が酷い人なら、よかったのに。ああ、でもそれだと鷲尾くんは一ノ瀬くんを好きにはならないのかな。外も内も綺麗だから皆焦がれる、本来ならば俺が一ノ瀬くんを羨ましいと思うこと自体、烏滸がましいことだ)

――そこまで考えて、ずんとさらに気が重くなる。


 ……俺自身の意見を大事にしてほしいと言ってくれた、今の俺が息をしやすくしてくれた優しい友達になんてことを……。


 後悔からか胸が締め付けられた、くるしい。悍ましい自分に吐き気がする。

 最低だ、ほんとうに、おれは。

 自己嫌悪にいつかの日のように線路へと飛び出したくなる衝動を抑えて、電車を待った。

――――


 帰り道は悶々とした。否定したかったことを出来なかった自分が不甲斐ない。けれど、後日何の脈絡無く叶野は凄い人だと言うのもいまさらとしか捉えてくれないだろう。大事な友だちと何か少しずつすれ違っている気がして、焦りを覚える。
 この感覚は叶野だけじゃなくて、伊藤以外のみんなに少し感じ始めている。不仲ではない、だけどちゃんと噛み合っていない、何とか回ってはいるが、部品が少し違っていてちゃんと歯車が合っていないような、不思議な感じ。……大事なのにな、みんな。
 初めてちゃんと出来上がったんだと胸を張って言える交友関係、みんな大事でこの縁を大切にしたいのに、上手くいかない。原因が分かりやすく見えていれば対処も考えられるんだが、これは感覚でしかないのでどうしていいのか分からない。
 そんなことを考えていたらすぐに自分の最寄り駅、また一つため息を吐いて電車を降りた。


「おはようございます」
「おはよう〜透ちゃん!」

 バイトであり今日のお昼はこちらで食べると言っていたとおりゴンさんの店に行くと快く出迎えてくれる。
 いつも通りふりふりの格好をして元気にその大きな身体をくねらせているゴンさんにホッと安心する。純粋に一人の子どもとして接してくれることがこんなに安心感があるのかと思う。
 無意識に入っていた肩の力が知らず識らずのうちの抜けてよくよく店内を見渡して首をかしげる、いつもゴンさんの仕込みの手伝いをしている伊藤の姿が無かったのである。

「すずめちゃんをお探しかしらん?学校から帰ってきて自分の部屋に荷物置きに言ったまま戻ってこないのよねぇ、いつもなら着替えてすぐに降りてくるのに……ちょっとわたし手が離せないから様子見てきてもらってもいいかしらん?」

 何故か戻ってこない伊藤も不思議だが、自分の荷物は伊藤の部屋に置かせてもらっているしバイト用に汚しても良いTシャツに着替えるためにも一回俺も二階へ行かないといけなかった。
 伊藤の様子を見るついでの自分の用事も済ませようとスクールバックを持って二階へ上がる。階段を上っていても伊藤の部屋の扉をノックしても考えてしまう。
 少し力を抜くことは出来たものの、さっきの考え事は未だに頭の中でぐるぐるしていて、気は晴れないままだった。
「っ?」
だが扉を開けて、すぐ床に座り込み項垂れている伊藤の姿に驚いて鬱々とした考え事は一瞬で消えてしまう。驚きすぎて目を擦って改めて見ても状況は変わらず、伊藤は微動だにしていない。
「……どうしたんだ?」
 戸惑いながらも声をかける、このままにしておくという選択肢は無い。俺から声をかけない限り動きそうにない、と判断してのことだった、挨拶は無しに単刀直入に何故固まっているのか問いかける。
 俺の声にピク、と身体を震わしたあと、ギギギ……、と油がさされていない錆びついたロボットのようなぎこちなさでこちらを振り返る伊藤。
「……透、どうしよう」

 その手には宿題に出されていた数学冊子と少し皺ついた理科のプリント……って、あの……まさか……まさかだよな?

「シュクダイ、オワッテナイ」

 絶望に染まり過ぎたせいか片言の伊藤の言葉を聞いて思わず天を仰いだ。
 あまり勘は良くないくせにこういうときは当たる、否項垂れた姿とその手に持つものでそう推理出来てしまったのだ。
 ちなみにこれは夏休み残り6日の出来事である。伊藤は理数の宿題をすっかりすっぽ抜けていたらしい。

――――

 理科はまだ良い、プリント4枚あるが教科書とノートに全て答えが書いてあるから探せば何とかなる。問題は数学だ。得意な人は得意、苦手な人は苦手とほぼ完全に二つに分かれてしまう教科だ。
 しかも……人のことを悪く言うのもあれなんだが、数学担当教師の牛島先生は教え方があまりよろしくない、たとえ得意な人でも牛島先生の教えでは苦手意識を持ってしまうことも考えられる。その癖何故か宿題が多い、数学冊子(表紙も中も再生紙使用)は問題用紙が25枚分もある。……それらを6日で終わらすのは、かなりの難易度だ。
 元々計算や公式を覚えるのが苦手で長期休みのおかげでテストのときに覚えた公式がすっかり抜けてしまった伊藤からすると、かなりの。

 1日は理科を片付けて残りの5日は数学を徹底することになった。

「しぬ、頭がしぬ……」
「分かった5分休憩で」
「5分っ!?」
「ん。頑張ろうな」
「、おう……」

 5日も切っていたので悠長には出来ないため、休みたがっている伊藤には申し訳ないが少し厳しめに接する。
 正直教えている俺も頭が重くなってきているけれど伊藤のため頭痛を隠して気持ちは鬼にする。俺の答えを書き写すのは最終手段のつもりでいる。
 伊藤も最初はそれを期待していたようだけれど俺が「出来る限りは自分でやろうな」と確固たる意思で言えばそれが伝わったようで文句も言わず言う通りに問題に向き合っている。決して意地悪で書き写すことを拒否したわけじゃないし本当に間に合わないのなら写しても良いと思うけれど、猶予はまだ5日あるし、ゴンさんも事情を伝えれば宿題優先しなさい!とバイトを休みにしてもらえたのだ。学校は学ぶところであり遊んだりするところではない……なんて前の鷲尾みたいな硬いことは言う気はない。
 ただ単に出来ることは自分でやったほうがいい、というのが俺の意見。

 忘れたのならもう一度叩き込む。数学は一回躓いたり忘れたりしてそのまま放置するとついていけなくなる。たとえ伊藤が理数系の大学に進まず、将来使うことのない科目だとしても今現在はちゃんと覚えないといけないものなのだ。分からないのならそれはそれでいい、何回でも根気よく教えるだけだ。

 再生紙のため書き込んでは消すを何度も繰り返すとすぐにぐちゃぐちゃになってしまうので伊藤が持っていたルーズリーフで何度も計算し直した。

 何度も『数式を見るのもう嫌だ』と投げ出しそうになっているなんとか伊藤を宥めながら俺も伊藤が計算している間に先に躓きそうな問題を探し出してどう導けばいいのか何度も睨めっこした。

 こうして過ごしている間に8月31日、夏休み最終日はあっという間にやってきた。

「……あ”〜〜、終わっ、たぁ〜〜……」

 もうすぐ日が暮れるところで伊藤は両腕を天井へと向け身体をぐいーっと伸ばした後、糸でも切れたかのように机に突っ伏した。最後のページを確認する、うん、書き間違いや計算ミスは無さそうだ。
「お疲れ、よく頑張ったな」
「透のスパルタ指導のおかげでなぁ……」
「夏休み前半、もしくは中盤あたりで気付いてくれればスパルタ指導しなくても良かったんだけどな」
「……おっしゃるとーり……」
 厳しめに教えたことを避難するような伊藤の目を見ながら事実を突きつければ降参だと言わんばかりに机に両肘をつけてひらひらと手を振った。

「今度から気を付けような」
「おー……」

 すっかり疲れ切ってしまったようで返事にも覇気がない。携帯電話を見れば18時半、夏は日が落ちるのが遅いので外はまだ明るい。ちなみに今日はゴンさんはいない。
 普段着けているウィッグを外し、いつもの女の人の格好ではなく男性用スーツで行ったので雰囲気が随分違っていた。法事、だろうか。黒い短髪に化粧もせず黒いスーツだったせいか全くの別人に見えた。
 ただ「いってくるわねん!すずめちゃん戸締まりよろしく〜」と言葉遣いだけはいつも通りでこっそりホッとした。宿題のエールを送りながら家を後にしたゴンさん、深夜まで帰ってこないとも言っていた。普段ゴンさんが不在の場合、伊藤が夕飯を作ってくれるのだが……。

「今日は外食かコンビニ飯だなあ……」
「……そうだな」

 肉体的な負担は無いものの、5日間頭を酷使していたので精神的にも疲れ果てたようで、伊藤は普段節約のため夜はゴンさんの賄いか自炊をしているのだが、今日ぐらい自分を労っても良いと思う。
 俺が普通に料理が出来たら良かったんだけどな……。何度そう思ったか分からない。ただ塩だけとかそんな調味料を一つしか使わないような、シンプルな味付けならギリギリ大丈夫にはなってきた。
 見た目は平気なのになんでこんなに味が微妙になるのかと何度伊藤と首を傾げたかもはや数えてすらいない。

「今日は奮発してコンビニの良いアイスも買おうぜ、お互い頑張ったし」
「頑張ったのは伊藤だろ?」
 俺がやっていることはただ間違えたことをしていないかとあら捜しをしているだけなのだから『お互い』と言うのは違うと思う。
「なに言ってんだ、教える方も……いや、下手すると教える方が負担大きいだろ。ありがとな、問題が分からなさすぎて何回か八つ当たりしちまった」
 俺の考えなんて伊藤には手にとるように分かっているのか何も言っていないのに俺を労るように頭を撫でられる。しかもお礼までついてきた。
 白い部分の多い、多くの人はその三白眼を見て吃驚してしまう伊藤の目だけど、今俺に向ける瞳は慈しんだ、優しいもので、普段と違うから違う意味で驚いてしまうかもしれない。
 伊藤の目を見ていたらその直後優しい感触が突然訪れてビシッと身体が固まる。
(そんなに俺って顔に出やすいか?)
 そういえば叶野にも吉田にも案外分かりやすいって言われた。じわ、と頬が熱くなる。
「……はやく、いこ」
 急速に恥ずかしくなって財布と携帯電話を手にとって外に出ようと促すしか出来なかった。

――自分からその手を外したりは、しなかった。

――――

「あっちぃな……、残暑厳しそ」

 外に出ると日が暮れる時間にも関わず熱気が漂っていた。冷房の効いた部屋から出てきたばかりなのにすぐに恋しくなった、叶うことなら外に出ずにいたいところではあるが仕方ない。
 この分だと9月もまだまだ暑そうだ、想像に容易くうんざりした気持ちになる。いつも行っているコンビニでいいだろう、駅前のコンビニ以外は遠いし。示し合わせたかのように足は駅の方へと向かっている、お互いどのコンビニだろうとなんでもいいからである。
「なに食うかなー」
「新しいのあるかな……」
「透は新商品好きだよなぁ」
 くだらない話をしていればあっという間にコンビニにたどり着いた。

 時間も時間だからかレジは並んでいて、店内も混んでいた。カゴを持って何となく入ってすぐの雑誌コーナーを流し見して(伊藤は迷うことなく音楽雑誌を手に取った、好きなバンドが表紙だった)、1番奥まで進んで飲み物を軽く見て、少し悩んでペットボトルの紅茶をカゴに入れたあと弁当や麺類のコーナーを覗く。
 カップ麺とも一瞬悩んだけれどコンビニでおにぎりやパンは買うものの弁当などはあまり食べたことがない、いや、あまりというかまず食べたことがないが正確か。
スーパーに売られている弁当よりもコンビニのほうが高くつく。祖父の遺産はまだまだあるが、今後何が起こるかわからないので現段階学費や生活費以外で使うつもりはない。バイトを始めてからはほとんど手付かずの状態である。
 不確定な将来のために……というのはほぼ建前で膨大な桁であるが故に逆に使ってしまうのに戸惑ってしまう、なので今日も自分で稼いだ少ない金で買い物をしようと思う。前に感じた自分が生きるために他人の金を使って食い繋いでいく罪悪感は大分減っただけ成長(退化?)を感じよう。
 話が逸れた、とにかく置いてある弁当を吟味した結果として飯にマーボー豆腐がかかっている見るからにこってりしたそれを手に取りカゴに入れようとして、紅茶しか入っていなかったのに何故か重くなったのを感じて中を見ると明らかに辛いであろう真っ赤なパッケージのカップ麺と缶コーヒーが入っていた、俺はそれらを入れた記憶は無いしカップ麺に至っては手に取る気にもならないだろう。
 そこまで見ていつの間にか隣りにいたすっかり見慣れた人物が俺の隣にいることに気付く、驚くことも無く今度こそ俺も自分が選んだものをカゴの中に入れた。そこでようやく隣にいた伊藤が口を開いた。
「なんだよ、マーボーチャーハンにミルクティの組み合わせって。体に悪そうだなぁ」
「……伊藤だって、見るからに体に悪そうだが」
 激辛カップ麺にコーヒー、人のことは言えないが胃に良くないだろ。指摘に指摘で返せばクツクツと少し悪い顔で目を細めて笑った。

「いいんだよ、たまには身体に悪いことでもして息抜きしようぜ、ゴンさんもいないんだしさ。よし、アイスも選ぼうぜ。ああスナック菓子もいいな」

 この間だってワクドナルドというファストフード店でハンバーガーを食べたばかり、というそんな野暮な突っ込みはしない。保護者のいないワクワク感、と言うのだろうか。
 自分の家にいても保護者がいない、束の間の子どもだけの時間。後でバレければ何をしても怒られない、そんな贅沢を味わおうと普通の日常の中のちょっとした特別な日を過ごそうと、伊藤はそう言っている。俺にとって保護者のいない状況が『普通』だと知った上で。

「……それなら」
「ん?」

 だけど俺の『普通』は伊藤にとっても『普通』のことだ。世間一般で言う普通とは外れている、だって伊藤はゴンさんと一緒に暮らしているけれど血の繋がりは全く無い、他人だ。両親や兄弟、もしくは祖父母、事情があって親戚の元にいたとても何かしらの血の繋がった人、と共にいるのが『世間一般で言われている普通の保護者』だとすると、伊藤や俺の『普通』は普通ではない、のだろう。
 そんなこと指摘しなくても分かっている、指摘したらそれこそ水を差す行為。けれど俺から見たゴンさんは……俺には両親の記憶がごっそり抜け落ちてしまっているがそれでも彼は『父』のようだ。特に伊藤とは本当に、それこそ血の繋がった父親よりも父らしいように感じた。
 俺が気にかけているところに俺も父性を感じているのかもしれない(格好はともかく)のだ。……で、今日はそんな『父のような』ゴンさんがいない。『保護者のいない自由』の時間を味わえる。なんだか甘美なもの感じた、だから、俺も伊藤に乗って、普段なら言わないようなことを言ってみたりした。

「コンビニスイーツとかつまみ系も、買おう」
「、ははっそれいいな!」

 高いし買わなくても別に何も問題のないそれらをあげてみた、気にはなっていた、だが絶対に買わなければいけないものでもなく、買う機会がなかったので今言ってみた。
――予想外だったらしい俺の言葉に驚いたような表情をしていたが、すぐに吹き出した。そんな伊藤があまりに楽しそうに笑うのでつられて俺も笑った。

「お、花火売れ残ってんな、やるか」
「そうだな」

 普段ならしないコンビニ内を散々物色してからレジに並んで次呼ばれるところで近くに並んでいた手持ち花火を伊藤が持ち出してきたのを俺は二つ返事で承諾したと同時に店員に呼ばれた、花火をさっと入れてレジへと向かう。



――まあ、うん。お互いテンションが上がりに上がっちゃって訳わかんなくなっちゃったんだとおもうんだ。

「……食いきれるか?これ」
「……食いきれない分は俺の家に置いておこう」
「そうしよう……」

 まさかレジ袋2つ(たぶん最大サイズ)も使うことになるとまでは思わず、食べきれない心配をしたのはコンビニを出てからだった。テンション上がると何するか分かったものではない、そう痛感しながらも後悔はない、とりあえずはこの熱気ではせっかく買ったアイスは家まで持つこと無く溶けてしまうだろうから食べながら帰路へ着くことにした。



 マーボーチャーハンはまあまあ。味が濃くて美味しかったが少し油っこい、食べ終えた容器をみればテカテカしていてやはり結構な量の油を使用しているんだな、と痛感する。
「うへぇ……腹重たっ」
「……コンビニスイーツもツマミ系も胃にやられるんだな……」
 食べたことがなかったから知らない事実だった。胃の辺りにムカムカとした痛みを感じるようになったのはさきイカを食べながらチャーハンを食べ終えた頃だったか、ロールケーキに手を出したころだったか今となっては定かではなかった。

 俺は弁当を温めて、伊藤はやかんで水を温めてお湯をカップ麺に注いでからテーブル席についたあとは袋のものを広げていく、出して行く事に徐々にお互いの顔が青ざめていく。コンビニのなかをまわったときのあの高揚感はすでに萎え、もはや後悔しかない。テーブルを埋め尽くす品々を流し見て……頭を抱えた。

「あ"ーもうむり!入らねえ!!」
「……そうか、おれはまだ、はい……う、ぷっ……」
「透!無理すんな!」

 何とかチーちく(ちくわの穴にチーズが埋め込まれている高い奴、普段のときに食べたらおいしいと思う)を食べたところでお互い限界がきた。やせ我慢しようとした矢先に腹から何かがせり上がってきそうで口をおさえたところで伊藤からストップがかかった。

「悪いけど、残ったやつは透の家に持って帰ってくれ……これから地道に消費していこうな……」
「そうだな……」

 大量のスナック菓子を袋の中に入れ直す。いくつか……伊藤しか食べないであろう辛いやつは退けて、袋を手渡される。中にはポテチやクッキーなどなど……当分はお菓子を買わなくて済むな、なんて少しの現実逃避。
 ため息を吐いてふとテーブルの端を見ると何か黄色がメインの派手なパッケージのものが置いてあった。入れ忘れだろうか、と何も考えずにそれを手に持って見てみると、そもそも口に入れるようなものではない、手に持って遊べるタイプの花火。
 こんなものいつ買ったか、と一瞬分からなかったがすぐにそういえばレジで呼ばれる前に伊藤がやろうぜ言ってそれを何も考えずに俺は頷いたな、と思い直す。
 まだやる時間あるだろうか、と携帯電話を確認してみるともうすぐ9時になるところだった。……未成年が出歩いていたら補導されてしまう時間である。そして明日は学校、始業式とHRぐらいではあるが夏休み期間と違って通常の学校通りに早く起きないといけない。
 花火にも消費期限はある、だがまだ湿気ることはないはず。今日のところは明日のことを考えてこのまま帰ってさっさとシャワーでも浴びて忘れ物がないか確認して明日に備えて早めに眠ったほうがいい。花火は来月のどこかでやってもいい、それこそ明日の放課後とかこの週末にでも。
 そう約束して今日は解散する。今すぐにでもこの家を出て伊藤と別れて明日を待つ。と、言うのが模範解答だろう。

「……花火、やるか」
「お、そういえばあったな!やろうぜ!!」

 模範解答を態々頭の中で導き出した上でこれからやろうと提案してみたら、伊藤は楽しそうにそれに乗ってガタと音を立てて椅子から立ち上がる。勢いが良すぎて椅子が倒れるのではないかと危惧したが大丈夫だった。

「やっぱり今日やらねえとな!うし、公園……だと補導されそうだし店の前でやるか!」

 8月31日、夏休み最後にやる花火はやっぱり特別に感じるのは俺だけじゃないみたいで伊藤は楽しそうに先に花火持って出ていてくれ!と言ってバケツどこだっけか、と呟きながら上に登っていったのを見送った。

「……はは、そんなにはしゃぐか?」

 伊藤の反応が面白くて、一緒に花火をするだけなのにすごく楽しそうで、はしゃいでいたその表情を思い返して……嬉しいのになぜだか泣きそうになった。
 胸がきゅう、と苦しい。伊藤が、笑うのを見ると、俺のことを自分のこと想ってくれている見ていると、こうなるんだ。
 ……これは本当に俺は伊藤を親友としてみている感情なのだろうか、そんな疑問が一瞬浮かんだけれどいつまでもこのままいれば何かあったかと心配されてしまう、とそう思って俺も立ち上がって花火を手に持ち外へ出た。



――花火は楽しかった。
 帰宅してお風呂に入って布団に入って明日のために眠ろうとする前につい30分前のことを脳内に浮かべぼぅ、と心の底から思った。
 両手で手持ち花火を持って吹き上がる火花が色を変えていくのをわいわい言いながら楽しんで、ねずみ花火が予想上に激しい動きをするのを目の当たりにして驚いたり……昔の俺もこうして両親や伊藤とともにやったりしていたのかな、とまでは聞けなかったけれど、そうであるといいなぁと漠然とそう思えた。
 伊藤のあの回る携帯電話で写真も撮ったりしたけど、暗くて何がなんだかよくわからないものばかりになっていた、それでも色々とモードを変えて試していたら段々綺麗に取れるようになった、最早カメラが本体だなあと伊藤の携帯電話を見てそう思った。
 最後、締めとして線香花火をして灯火が静かに消えていくのをお互いしゃがんで無言でじっと夏休みの終わりになんだかしんみりとしてしまう空気の中、ついに落ちてしまった線香花火にあーあと残念に声を出したあと、水を張ったバケツに入れてずっと同じ体勢だったせいで固まってしまった体を伸ばす。

「また来年もやろうな」
「うん」

 またやろうと、そんな約束をした。当然のように約束する伊藤に俺は何の躊躇いもなく頷いた。……そのときまで『俺』がいるかどうかは分からなかったけれど。けれど今日までは目を閉じて見ないふり。
 その後は時間も時間で、簡単に掃除して俺は菓子の入った袋を持って自分の家に帰った。伊藤が俺の家まで送っていくと言われたとき、いくらなんでもこれでも男子高校生だから平気だと断ってみても、危ないし安心させてほしいとそう食い下がられては何も言えず結局俺のアパート前まで送られてしまった。
 また明日、そう言って伊藤と別れて、自分の家について後手で鍵を閉めたと同時に訪れる虚無感。伊藤といて別れたあと、いつもこうなるんだ。楽しい時間があっという間に終わってしまったことや、さっきまでは伊藤といたのに一人になってしまうと分かってしまう寂寥感に苛まれて胸が痛む。
 それでも、明日にはまた会える、伊藤だけじゃない、優しいクラスメイトや頼れる先生のいる学校にまた通えるのだ。
 去年までは何とも思わなかった学校の再開が俺には喜ばしい。悩みは尽きないけれど、それでも死んだように生きていたあの日々を考えると幸せに思えた。

 ……自分が消える恐怖感も同時に味わっているけれど、それでも逃げようとはもう思えなかった。

 梶井のこと、湖越のこと、吉田のこと……桐渓さんのこと、そして俺の記憶のことを。目をそらせないことがどんどん増えていく。これからもっと衝突して大変なのかもしれない。
 でも、この夏休みが終わるこの夜だけは……自分に伸し掛かる全てを忘れて、9月1日を迎えることを楽しみしたい。


――もう、逃げないから。

 誰に許しを請うているのか、自分でも分からなかったけれど。熱の籠もって息がしにくいこの夏の夜が今の自分にはとても心地が良くて、今度こそ眠るため目を閉じた。


20/20ページ
スキ