3.先を生きる人。


「……ん、」

 深く沈んでいた意識が浮上して瞼が自然と開く。昨日確か、本を読み返して……ああいつの間にか眠ってしまったみたいだ。確かお風呂には入ったし歯も磨いたはず、日中あれだけ眠くて仕方がなかったことのに関わらずなんだか変に目が覚めてしまって眠れなくて、それで暇つぶしに本を捲っていたらそのまま寝落ちしてしまったようだ。確か9時半ぐらいまで起きていたような記憶はあるが……まあ、いいか。
 伊藤の普段使っている布団で眠ることに気恥ずかしさを誤魔化すことにも成功した。今日伊藤が午後には帰るって言っていたから午前中には荷物を自分の家に運び出さないとな。
 今何時だろうか、時間を確認しようと枕元に置いていたはずの自分の携帯電話を探そうと身を起こそうとするが。
「?」
 身体に妙な拘束感があることに気が付いた。何か俺の身体、特に右腕から左腰にかけて重みも感じた。何が自分の身体に乗っかっているのか?確認しようととりあえず重いなにかを掴んでみた。
「!、ぅっわ……?」
 無機物が乗っかっているかと思い込んでいて冷たい感触が伝わってくると思っていたら、思った以上に生温い柔らかくて驚きと躊躇いが混ざった声を上げてしまう。一瞬何か分からなくてすぐに手を放した。
(クーラーのせいか冷えてはいたけれど、人の肌の感触、だった)
 よく耳を済ますと真後ろから「グー……がっ……」といびきとも寝息とも付かない声のような呼吸音のようなものが聞こえてきた。
 誰か眠っている、そう気が付いてその人物を確認しようとそっとその腕を柔く掴んで少し持ち上げて身体をくるりと回しながら起き上がる。
 一瞬俺の後ろで眠るのはゴンさんかと疑ったけれどすぐに打ち消した、ゴンさんは茶化すような話し方でいつもくねくねしてふざけているようなことを言ったりするけれど、きっと一線を引いている、伊藤がここにずっと暮らしているのをみると信頼している、だから俺もゴンさんを信頼する。
 それなら、誰がここに眠っているのか?答えは決まってる。
「……いとう」
 鋭い黒曜石のような色の瞳の意志の堅い三白眼は閉じられ、口を大きく開けている伊藤はいつもは頼りになって強く俺を支えてくれる普段の姿とは違ってまだ幼さを感じさせるものだった。心臓がバクバクと高鳴る。
 ゴンさん以外この家でこの部屋で眠っているとするなら、伊藤しかありえない。だけど、どこか信じられなかった。まだ帰ってこないと思い込んでいた、だって今日の午後には帰るって言っていたのに何故か俺のとなりで眠っている。
 どういうことなのか寝起きも相まってよくわからないけれど……、とりあえず何にしても予想以上に早く伊藤の顔が見れたことが嬉しい。
「おかえり、伊藤」
 ずっと触れたかったふわふわの金髪に手を伸ばすと、自然とそんな言葉が出てきた。

「……」

 まじまじと眠っている伊藤を見つめながらまた隣に寝転んだ。そして布団の上に置いたその腕を取って自分の頬に寄せる。
(何か、眠っているときにこう、頬を撫でるような感覚があったような気がしたけど、伊藤の手だったのだろうか?)
 エアコンの風が効いているなかで眠ってしまったので冷えて目を開けることは出来なかったが意識がほんの少しだけ、覚醒にまで至らないほどではあったが浮上していたとき、自分の頬を撫でるような感覚があった気がした。気がした、だけでその後すぐ意識が深いところまで行ってしまったので確証は無かったし自分に進んで触れてくるのは一人ぐらいしか見当たらなくてその人物は絶対にここにいるわけがないと思っていたので気のせいかと考えていたが、伊藤が昨日の夜に帰ってきたのであれば納得する。……何故撫でてきたのかは分からないけど。まぁ俺も眠っている伊藤の髪を撫でているしそこのところはおあいこ、ということで。そう勝手に自分を納得させた。

「う………んー」
「あ。温度あげないと」

 寒いのかその剥き出しの二の腕をさすり始めるのを見てやっとエアコンの温度をあげないと、と思った。そういえば伊藤が俺を抱きしめるような形になっていたのって寒かったからだろうか、それなら申し訳ないことをした。リモコンは……、ああ伊藤の後ろにあるな。
 冷えたせいか布団の中で丸くなり始めた伊藤の後ろにエアコンのリモコンが置いてある。
「……、よっと」
 わざわざ立ち上がって取りに行くのも面倒なので眠っている伊藤に覆いかぶさるように身を乗り出し片手でそっち側の布団に手を付いてもう片方でリモコンを取ろうとした。
 ギリギリ取ることに成功して操作して温度をふたつ上げてミッションを達成する。そのまま戻ろうと手をこっちに戻そうとする。
「う〜〜ん」
「っわ、」
 ほぼ同時に伊藤がごろりと寝返りをうち仰向けになった。半端な体勢になっていてかつ俺の手首より少し上のところに伊藤の肩らへんにぶつかり不意な衝撃に驚いてズルっとシーツを滑った。
 急なことで対処できずにそのまま下にいる伊藤の胸の上にダイブしてしまった。慌てて起き上がろうとした。
「んあ”……?」
 ドン、と衝撃のせいで先程よりはハッキリとした声を出した伊藤が起きてしまった。弱った、まだ寝かしてあげようと思っていたのに。
「……おはよう、伊藤。」
「おは……ん……?」
 変に取り繕うのももういいやってなってそのまま伊藤の胸の上で挨拶した。伊藤は俺を見ながら最初はボーッとした顔をして、だんだんこの状況に違和感を覚えたのか首をかしげた。そして。
「っ、あっ悪い!俺、汗臭えからっ」
 という予想外の反応。逆に俺が驚いてしまう。慌ててふためいている伊藤を凝視してしまう。
「きのう、その風呂入ってねえから、シャワーとかも!」
 文法が間違いだらけだ。よほど焦っているんだとわかる。今の今まで全然匂いとか分からなかったが?俺が起き上がると伊藤も慌てて起き上がったところでTシャツの襟のところに顔を寄せて匂いを嗅いだ。
「……確かに、汗の匂いするな」
「〜〜〜悪いっ!」
 感想を伝えると伊藤はその嗅がれたところを手で抑え顔を真っ赤にして部屋を飛び出していってしまった。余裕もなかったのか扉を閉めずに。
「……あ、臭いって意味で取られたか……」
 そういうつもりじゃなかったんだ、たださっきまで気にならなかったのに改めて嗅ぐとちゃんと汗の匂いがした。汗と……たぶん伊藤のにおい。布団と同じにおいがしていたから、たぶん伊藤の体臭かもしれない。決して臭いとは思っていない、むしろ好ましいとも思う。ただ落ち着くのに何故か腰辺りがもぞもぞするのは……なんでだろう。顔も熱くなるし、不思議だ。首を傾げるがまぁそこはいいかと思考を投げた。
 それより伊藤を傷つけてしまったのかもしれないのでちゃんと謝らないと。あと……早く帰ってきたのは何か事情があるんだろうか、出来たら理由を聞けたらいいなと思いながらこれから誰もいなくなる部屋の冷房をリモコンで電源を消して俺も部屋から出た。

 下に降りてみたけれど伊藤の姿はなく、ゴンさんだけだった。近くにいたゴンさんに挨拶もそこそこに伊藤のことを聞いてみる。
「伊藤は?」
「シャワー浴びてるわよん〜お着替え持っていってくれる?よっぽど慌てていたみたいで何も持っていかないでお風呂場に直行しゃったからん」
 ああ、だから風呂場の方から水が流れる音が聞こえるのか、申し訳ないことをしたな……言葉足りなかった……。ゴンさんの言葉に頷きもう一度上に登って服を漁る。……パンツ、持っていくべきだよな。見る限り手ぶらで行ったみたいだし同じのを履くのも嫌だろうし履かないのも気持ち悪いだろう。
 普段どんなやつを履いているかどうかまでは知らないので、とりあえず、まあ目についた黒と赤のボーダーのボクサーを服と服の間に入れて持っていくことにした。別に異性の下着でも無いのだから緊張することもないのに、何故か落ち着かなかった。何故か少し緊張する。
 急がないと伊藤が出てきてしまうだろう、そう自分に納得させながら早足で部屋を出て下に降りた。
「伊藤、着替え置いておくから」
「あ、ああ。さんきゅ」
 風呂場は洗面所と繋がっている、扉越しにそう声をかけて閉めている洗濯機の上に伊藤の着替えを置いた。そのまま顔も洗ってしまおうと蛇口を捻った。
「透」
「……ん?」
 名前を呼ばれて顔を拭きながら返事をする。
「……ただいま」
「……おかえり」
 どこかぎこちない空気のなかではあるが、その言葉にどこか安堵した。

 洗面所から戻るとすでに朝食の準備が出来ていて、椅子に座る。そのまましばらく経つと髪を雑にタオルで拭きながら伊藤がやってきて隣に座った。ゴンさんもやってきて座って朝食をとり始める。みんなで納豆を混ぜているなか、ゴンさんが伊藤に「そういえばどうして連絡しなかったのん?一言いってくれればよかったのに〜」と、問いかけた。
 ゴンさんにも早く帰る連絡をしてなかったのか?俺にはともかくこの家の主であるゴンさんには一言伝えるべきだと思うし信頼できる大人であるゴンさんに対してそれを怠るような伊藤でもないだろう。
「あー……ちょっと携帯電話がぶっ壊れた」
 温かい白米の上に納豆をかけながら視線を合わせずそう答えた。
「ええっ!それは大変じゃないっどうするのん?」
「今日携帯ショップ行ってくる。一応直るかどうかも見てもらうつもりだが……大分破損してるから買い直しになるだろうな……」
 疲れたようにため息をつく伊藤。携帯電話は決して安い買い物ではないだろう。壊れただけでもショックが大きいだろうにその上金までかかる。……この伊藤の疲れ具合からそれだけじゃないような気もするけど……。
「……それなら、一緒に行くか?」
 口の中のものを飲み込んでからそう聞いてみた。伊藤のことが心配、というのもあるけれどここのところ二人では遊んでいなかったから、どうだろうかと思ってのことだった。
 もし伊藤が一人でゆっくりしたいと言うのならそれはそれで構わないとも思う。随分疲れているようだったから一人になりたいのかもしれないけれど、一応聞いてみた。
 俺を気遣っているようだったらやっぱりやることあったし(伊藤の部屋に置いてある俺のものの片付けとか)気にしなくていいと答えよう、そう思っていた。
「いいのか?」
 先程まで沈んで暗い瞳だったのに、俺のほうを見る伊藤の表情は驚きながらも嬉しそうだった。……全然、さっきの俺の考えは杞憂だったみたい。誘った俺を気遣っているようではなさそうだった。
「……」
 声には出さずに頷いてみるとパアッと明るくなって笑顔になっていく伊藤の顔を間近で見てドクっと心臓がまた高鳴った。
「じゃあ11時ぐらいになったら行こうぜ!」
「……うん」
「その後遊びに行こうぜ?最近あんまり二人では遊びに行かなかったし。なにしたいか考えておいてくれよ、俺も考える」
 体全体で楽しみだという感情を伝えてくる伊藤に俺はこれ以上なにも言えなかった。ただ熱くなった顔を隠すように普段よりももっと下を向いてひたすら納豆ご飯をかきこんだ。

「というか……なんで透ここにいるんだ?いや、全然良いんだけど、不思議でよ」
「私が泊まって行きなさいよって言ったのよん!」
「は?」
「だってぇ透ちゃんのお家暑そうだったしぃ……それに」
「それに?」
「……おほほほほ!なんでもないわん!」
「なんだって言うんだよ……」

 ゴンさんと伊藤の会話は聞こえていたけれどそれに入ることは出来なかった。

――――

「じゃあちょっと俺は話してくるからちょっと待っててくれ」
「わかった」
 最寄り駅から2駅先の駅ビルのなかのオレンジ色が特徴な携帯ショップにやってきた。伊藤は店員に壊れた携帯電話が直るかどうか聞くためカウンターへと向かっていったのを見送り、俺は飾られている携帯電話に目を向ける。
(……画面に指を乗せるだけで反応するのか、最新機種ってすごいな……)
 ここ最近発売されたスマートフォン、というものをいじって遊んでみた。俺が使っている携帯電話とは違って折りたたんだりはしないし文字を入力するようなボタンもない、大きい画面がただあるだけだ、すべてこの画面内で済んでしまう、らしい。
 タッチしたりスラッシュしてみたりするとそのとおりに動く文字入力も画面内をタッチすると確かに入力される、普段使っている携帯電話と全く違うので戸惑うけれど結構面白い。
(けれど、やっぱり結構な値段だな……)
 スタイリッシュなデザインで格好いいなと思うがその値段はさすがは超最新型というべきか、簡単に買い換えようと即決出来る値段ではない、そもそも俺の場合は九十九さんに相談することから始めないといけない。多分これにしたいといえば良いと言ってくそうな気もするが、まだ使えるし絶対に買い替えたいと思うほどまではまだ行かない。
 スマートフォンを置いて違う携帯電話も見てみることにする。一概に携帯電話と言ってもそのデザインや色はそれぞれ結構違う。
 少し前までは二つ折りではないものが主流だったみたいだけど今では大体の携帯電話は二つ折りが当たり前になっている。
 スラッシュ型というものもあるが、やはり圧倒的に二つ折りタイプが多い。そんな柄が書かれていたり、閉じていても誰から着信が来たかわかるようになっていたりそうでなかったり……とにかくいろんなデザインがあって面白い。
 俺が使っているのは白を基調とした二つ折りの何の特徴もないどこにでもあるような普通の携帯電話なので異なるデザインを見ていると新鮮な気持ちになる。
 見本として置かれている携帯を弄っては戻しを繰り返していると、店員話し終えたらしい伊藤が戻ってきた。
「……ただいま」
「おかえり。……駄目、だったんだな」
 肩を落として沈んだ様子の伊藤を見て壊れた携帯電話を直せるか否かの結果を察してしまう。伊藤は頭を掻く。
「何となくまぁ分かってたけどよ……内部が破損してるから直すことは出来なくはねえけど、データが全部ぶっ飛んでるから全部初期設定になっちまうし、かなりの金額になるから新しく買い替えたほうが結果的にお得だってよ」
「そうか……」
 がっくりとしている伊藤にどう声をかけていいのか分からなくて相槌しか打てなかった。さっき伊藤に見せてもらった壊れた携帯電話は歪んでしまってバッテリーすら嵌めることも出来ないほどだった。それを考えると店員の回答は予想通りではあったが、ほんの僅かだが期待していたがやはり駄目だった。身構えていてもやっぱりショックだろう。

「……まーこうなったら仕方ねえな、半分覚悟してたことだし。このまま機種変するわ。何か良い携帯あるか?」

 はぁ、と深くため息を吐いて何とか切り替えようとしているのだろう。元気は無さそうだったが前向きに考えようとする伊藤に水を差すようなことは出来ない。さっきまでずっと携帯電話を見ていた俺に何かめぼしいものはあったかそう聞いてくる。
「うーん……、」
 特に何も考えずに取って開いては閉めて戻すを繰り返していたので、悩んでしまう。たぶんそこまで本気で考えることではないとは思うが。そう思いながらふと目に入ったものが気になった。
「?」
 ここは携帯ショップで、販売してるのは携帯電話……だけだよな?なんでデジタルカメラがここに立てかけられているんだろうか?
 不思議そうにそれを見ている俺に気づいた伊藤が同じところに視線を向けて、俺の反応に納得したように頷いた。
「ああ、それデジカメみてえだよな。でもそれもちゃんと携帯電話なんだぜ。画質が他の携帯電話に比べていいらしいぞ」
「へぇ……」
 そう言われてデジカメのようなそれを持ってみた、裏返すと確かに見慣れた表面だった。裏側のカメラ機能のためのレンズが他の携帯電話に比べてかなり強調されている、だからデジタルカメラに見えたのか、なるほど。
 二つ折りになっている携帯電話を開いてみると妙に画面の下らへんの空洞になっているが……強度は大丈夫なのか?
「……不良品?」
「いや、違う違う。それ画面のところが回転済んだよ、やってみ」
「……おお」
 伊藤に説明されたとおり上の部分を掴んで恐る恐る反対側に向けるとしっかり回転してカチッと音を立てて裏返った。
「これで自撮りしやすくなるんだよ」
「……ああ、そっかこっちから見えるもんな」
 なるほど。確かに携帯電話にはカメラ機能が付いているが、俺にはほぼほぼ使わない機能だったので盲点だった。よく写真撮っているひといるもんな、カメラと携帯電話を一体化させてしまおうという発想が凄い。くるくる回しながら感心する。
「……うん、俺それにするわ」
「?これでいいのか」
 もっと考えて時間をかけて選んでもいいのに。そう言外に伝えるが、伊藤はあっさりと頷いた。

「これがいい、これから先透といっぱい写真撮るからそれなら高画質がいいだろ」

 笑いながらそう言うから俺は何も言えなくなってしまう。

「付き合ってくれてありがとな」
「……どういたしまして」
 俺は特に何もしてないがそうお礼を言ってくれるならば、とそう返した。本当にあの携帯電話(色はさすがに俺が弄ってた真っピンクではなく黒いやつ)を契約してしまった。一応すぐに使える状態になってはいるがあまり充電がないのであまりいじることは出来ないみたいで何か調べたりすることがあるときは俺の携帯からしてほしいとお願いされそれに頷いた。
 携帯電話選び自体はすぐに終わったが、新規として契約していたので少し時間がかかってしまい携帯ショップを出る頃には午後1時過ぎになってしまった。

「腹減ったな、ワックに行こうぜ。確か1階にあったよな」
「うん」
 ファストフード店のなかでもかなり安価で買え味も良い、学生の味方ワクドナルド……略して『ワック』である。この間鷲尾とも行ったが他にも種類はあるし何度行っても良い。
 手頃な価格なのはやっぱりありがたいしな。そう思いながらエスカレーターを使って1階へと降りていった。

――――

 1時過ぎで昼食の時間から少しずれていたからかそこまで並ばずに頼むことが出来た。だが店内ではすでに食べ終えて話に夢中になっている同世代ぐらいの人たちでいっぱいで家で食べるべきだったか、と少し後悔した。
「透、こっちだ」
 先に頼んでいた伊藤が手を振って誘導してくれる、飲み物をこぼさないようにしながらも急ごうとするとその途中のテーブル席で中学生ぐらいの男女4人グループがいて、そのなかの大はしゃぎしていた男の子の手をぶつかってきた。
「、と……」
 急に真横から予備動作もなく避けきれなかったが少しぶつかった程度で飲み物も揺れたがこぼれてはいなかったことにホッとする。
「ってー!まじ最悪!超いてえんだけどっ!!」
「馬鹿じゃん、受ける!」
「えー?だいじょーぶ?」
 痛がるまだ声変わりしていないのか少し高めだが男の子の声と間の抜けた話し方の女の子の声が聞こえた。彼らは複数でいるため誰がどの声かわからないが、多分手がぶつかった子も何か発している。
「ごめん、大丈夫ですか?」
 ぶつかられた感じからあまり強くは打ってはいなさそうだが、痛そうな声だったので心配になり声をかけた。
「大丈夫じゃねえからこうなってるっ……!っあ、ななって、んすよ、ぉ、」
 手を抑えて痛がっている男の子がこちらを振り返って威勢よく怒鳴ってきた、と思いきや俺の顔を見るとその目は見開かれ尻すぼみになってしまった。
 どうしたのだろうか?他の子たちも何故か俺の方を凝視して呆気に取られたような表情を浮かべ静かになってしまっている。時折「え、やば」「は?やばくない?」などと言う声が聞こえてくるが、何がやばいんだろう。気になるが今伊藤を待たせてる。
 特に問題が無さそうなら伊藤のところへ向かおうと思うんだが……どうするべきだろう?とりあえずもう一度聞いてみて大丈夫そうなら行っちゃおうか。自分の中で結論づけて口を開く。と、同時にずしっと肩に重みを感じる。
「お前ら俺の連れに何か用か?」
「伊藤」
 伊藤の腕が肩に乗って俺の顔の真横に伊藤の顔がある。なるほど重いわけだ。心のなかで納得した。
「何かあったのか?」
「いや、ちょっと……」
 手がぶつかってしまった、と続けようとした。
「いえ!俺らが悪かったです!すいませんっした!!」
「ごめんなさい、この席どうぞ!」
 だがそれより先に彼らは捲し立てるようにそう言ったかと思えば『それでは!』と声を揃え、何を言われたのか理解する前にバタバタと慌ただしく席を立ち外へ出て行ってしまった。一体、なんだったんだろうか。
「なんだありゃ?」
「……さあ……」
 心底分からずお互い首を傾げる。……最近の中学生は落ち着きがない、で済ましていいかな?

「まあ、よくわからねえけど、せっかく譲ってくれたしな。俺が取った席カウンターだったしこっちのほうが落ち着けるだろ」
 彼らの行動原理がよく分からないままだが、とにかく席を譲ってくれたのでそこに座って昼食を取ることにした。伊藤は最初に座っていたところから移動してきて漸く昼食をとることが出来た。
 この間頼んだやつも美味しかったが、来たからには前回とは違うものも食べてみたいので今日は焼き肉バーガーを頼んでみた。パンに挟んでいるのはハンバーグにレタス、そして焼き肉(豚肉だった)だ。
「どうだ、それ?」
「……ご飯が欲しくなる味の濃さだな、美味いけど」
 焼肉にかかる甘いタレでも結構な味の濃さだが、ハンバーグにかかっているソースも甘みが強いのが拍車がかかりレタスとパンだけでは中和されず、白米が欲しくなる。さすがに米類はファーストフードにはないので代わりにポテトを頬張る。
「そんなに味濃いのか。……あ、これ確かに結構うまいな。くそ食べにくいけど」
「やっぱり食べにくいよな」
 伊藤が食べているのはこの間俺が食べたダブルバーガーだ。美味しかったか?と聞かれたので食べにくいけど美味しいと答えた。伊藤も同じ感想だった。
 どうしても挟んでいるものの量やサイズが他のやつと比べると大きいので齧り付くと具が後ろから飛び出てくる。
 俺と違って伊藤は飛び出た具をそのままに前から食べていく。伊藤が悪戦苦闘しているのを見ながら俺も自分のものを食べ進める。味が濃いのでポテトを摘んだりコーラを飲んだりしながら。ある程度食べ終えて、後はポテトと飲み物のみとなった。
「ポテトしなしなになっちまったなぁ……」
「……伊藤はカリカリのほうが好きなのか?」
「どっちかと言うとな。やっぱり出来たてが1番好きだな」
「へぇ」
 鷲尾もほぼ伊藤と同じようなことを話してたな、ハンバーガーよりもポテトを先に食べ終えていたし。伊藤と違ってしなしなしてるのは許せないようだった。
 俺は特にこだわりは無いし特にどっちが好きとか嫌いとかはないから、絶対にこっちがいいとかは無い、どっちも芋の味だし。
「……」
「どうした?腹いっぱいになったか?」
 聞くかどうするか迷ってつい目の前の顔を凝視してしまったところ、視線に気づいて伊藤は首を傾げた。……突っ込んでいって良いのか分からないけれど……でもやっぱり気になった、から聞いてみることにした。
「伊藤の携帯電話、なんで壊れたんだ?」
 ちょっと落とすだけでそんなに歪むほど破損してしまうもの、だろうか?
 そんな疑問が伊藤に壊れた携帯電話を見せてもらったときからずっと浮かんで消えなかった。伊藤は『携帯電話が壊れた』とは言ったがその『理由』は話してなかった、落としたのなら落とした、水没したのなら水没したってそう伊藤の性格上あっさりと答えてくれそうなのに今回は壊れた事実だけ伝えただけでその理由までは進んで話そうとしない、壊れた理由を言わなかった訳は『誰かに簡単には言いにくい理由で壊れた』と、推測してしまってもおかしくない。
「……」
「……ごめん、どうしても気になって。言いたくないなら言わなくてもいいから」
 無言になってしまう伊藤に両手を振ってその答えを言葉にすることを拒否しても良い旨を伝える。
 踏み込んだことを聞いたという自覚は一応ある、それなら聞かなくてもいいんじゃないかとも思ったが、聞かないでそれでいつまでもモヤモヤして後々衝突することになってしまったら嫌だ、そう思い直して聞くことにした。勿論無理強いするつもりは無い。伊藤が言いたくないことなら言わなくても構わない。
「……いや、別に言いたくない訳では無いんだ。ただ聞いててあまり気持ちいいものじゃねえのと、愚痴っぽくなっちまうかも」
 居心地悪そうに目を反らす伊藤。でも、それを言うなら俺はどのくらい伊藤にとって全く聞いていて楽しいことではないことも愚痴っぽいことも話したのだろう。
 伊藤はそんな話もを嫌な顔せず真剣に聞いてくれたじゃないか。本気で怒ってくれたし心配してくれたじゃないか。面倒だって切り捨てることも適当に聞いて誤魔化すことだって出来たのにそれをしなかったじゃないか。

「……伊藤の話なら何でも聞くし聞きたいって思ってる。
俺だと頼りないかもしれないけれど、何か重たいものを持ってるなら背負わせてほしい」

 俺は伊藤と違って頼りにならないとは思うけれど。それでも、一人で抱え込むよりは幾分かはましになると思うから。俺がそう言うと伊藤はきょとんとした顔をした後眉を寄せながら笑った。

「透は昔も今も……頼りになるヤツだ。聞いてくれるか、俺の話。愚痴が大半だけど」
「うん」

 肯定する意を唱えてかつ首を縦に振って話を聞きたいと伝えた。伊藤は簡潔に話してくれた。

「前も少し話したと思うんだが、俺家族と仲良くねえんだ。4つ上の兄貴とは特に。でそいつに俺の携帯電話を勝手に持って行った挙げ句何度も踏みつけたみてえで、壊された。両親も兄をかばって俺を下げ落とすようなこと言ってきて、腹が立って前日に透に帰ってきてほしいと言われたのを思い出してそのまま勢いのままに帰ってきた」

 合間合間に本当にあいつらうぜえ、うるさかった、と眉を寄せ心底鬱陶しげに話すのを見るとかなりストレスが溜まっていたようだ。ストローを苛立ちを解消させようとしているのかガジガジと噛みまくってボロボロになっている。飲みにくそう。

「……それは帰ってきて正解だったと思う」

 俺の『早く帰ってきてほしい』は本来言う気が無くついポロッと零れ出てしまったもので、俺個人としてはそんなことを言ってしまう自分の女々しさに悶える羽目になって後悔しまくってゴロンゴロンと身体を回しながら呻いていたけれど。でも、伊藤はその言葉を思い出して居心地の悪いところからさっさと出て行く決断ができたようだったから……結果として良かった、かな。恥ずかしいけれど。

 ……いや、そんなことより。なんで伊藤が家族からそんな扱いをされないといけないんだ?
 聞いた瞬間はいまいち脳が伊藤がされたことがピンと来なくて、徐々に訪れるモヤモヤとしたものがハッキリしてきてそれが何故血のつながっている伊藤に対しそんなことをするのか、という苛立ちに変わっていく。
「……なんで伊藤が」
「まぁ俺は父の祖父に顔とか性格がよく似てるみてえでよ、それこそ物心ついたときからもうこういう扱いだったんだよ。かなり厳しくされたんだとよ。」
「……そこに伊藤は関係無いよな」
「そうなんだよな。祖父に似てても血の繋がった、一応俺末っ子なのにな。ガキの頃はもうかなり傷ついたわ、今はもう鬱陶しくて面倒だけど最早嫌いもクソもねえけどな」
 伊藤はそう言い切って残ったポテトをまとめてザーッと口の中に入れてモリモリと咀嚼した。……伊藤の家族に対してこういうのもあれなんだが、正直ありえない。テーブルの下でぐっと握りこぶしを作って自分の中から湧き上がる衝動に耐える。
 伊藤に兄がいることに驚いた。てっきり俺と同じようにひとりっ子だと思い込んでいたから。そして妙に両親の影が薄かったのも気になった。まるでいないかのような空気のようだった。むしろゴンさんが伊藤の保護者感があるほどだった。だが伊藤の言葉で納得した。今の伊藤にとって両親も兄もすでに『どうでもいいもの』存在なのだと。だから鬱陶しいとか面倒くさいという感想はあっても嫌いになるほどの執着もすでに無い、ということなんだろう。記憶のない俺にすら親友と言ってくれるぐらい情深い伊藤をこんな風に冷めさせるほど酷い扱いをしてきたのか、伊藤の家族は。
 今現在目の前にいる伊藤は苛立っていてもその顔は傷ついているようには見えないので多分虫にまとわりつかれてうざいぐらいの感覚なのかもしれない、あるいは諦観か。すでに家族のことは割り切れているみたいだ。……ここまで来るまでに伊藤はどのくらい傷付いたんだろうか。どれほど、傷つけられてきたんだろうか。
 本当は家に行って伊藤の家族共を問い詰めたいぐらいだけど、伊藤はすでにその痛みから乗り越えている。今も俺に話してすっきりしたのかもう平気そうにしてる。
 今俺が怒ったところで、伊藤の迷惑になっても力にはなれなさそうだ。……昔の俺はその傷ついていた子ども頃の伊藤の力になれたのだろうか……。力になれていたら良いとも思うのに、それはそれで何故か心臓がもやもやするような感覚に襲われる、なんなんだろうか、これ。

「……あとさ、もう一つ。これは愚痴っつうか、あー悩み、か?そういうのもあるんだけど」
「?なんだ?」

 思い出したようにそう切り出す伊藤に首を傾げ、続きを促す。普段俺に相談することは今日の飯は何にするかとか品物を買うか否か迷っているときぐらいだったから少し珍しく思う。
 眉を下げ視線を彷徨わせて居心地が悪そう……というよりはどうしていいのか分からず困惑しているように見えた。

「父親の妹……俺から見て叔母に当たる人なんだけど。その人が何があったのか知って両親と兄を怒ってくれて、しかもしっかり弁償代ふんだくって俺に渡してくれた。
今まで味方になれなくてごめんって謝られて、何かあったら連絡してほしいって。そう言ってアドレスと携帯番号が書かれたメモをくれた」
「……良かったな」
 まともな人がいることにホッとして声をかけた。今まで味方になれなくて、の部分が引っかかったけれどちゃんと伊藤たちのことを客観的に見れる人がいるだけ大分ましだ、と思ってそう言った俺に伊藤は浮かない表情。益々困った顔になってしまった。どうしたんだろうか?
「良いこと、なんだろうけど。それは頭ではわかってる。だけど俺、よく分かんねえ。だって、親族には俺の味方なんていないんだってそう割り切って今まで何とかしてきたから」
 テーブルに肘をついて両の手で忙しなく顔を触れている、主に頬から鼻の脇を擦るようにして落ち着かない様子を俺はただ見ていた。はっきりと目に見えて伊藤は困惑していた。今まで、少なくとも5月に伊藤と出会って初めて会った。
「俺は血の繋がりのある人間とはきっと相性が悪いんだって。だけど俺には透がいてゴンさんがいて。今は叶野たちみてえにくだらないことで笑い合うことの出来る友達も出来て話をちゃんと聞いてくれる先生たちもいる、だから仕方ない。親族といる場所が居心地が悪い分それが以外のところはきっと『良い』んだって、そう思うようにしてきたのに」
「……」
「分かんねえんだよ、いきなり信頼してほしい、味方になりたいなんて言われても。俺には受け取れないものなんだって、そう言い聞かせて諦めていたものが突然目の前に来られても。欲しいときには来てくれなかったくせに……そう責めたくなる。でも、嘘は言っているようには見えなくて……、表立って言えない自分の秘密を俺に話してくれるぐらい叔母さんも覚悟して信頼して欲しいって言ってくれたのは確かに嬉しいのにっあいつの妹って地点で信じられるか分かんねえって疑う自分が嫌だ。だけど、どうしていいのか分かんねえ、何もかも分かんねえんだ……」
 伊藤は早口できっと頭の中がぐちゃぐちゃなのか話があちらこちらに飛んだり戻ったりして少しだけ混乱しているように見える。きっと話してる本人も混乱してることに気がついているだろう。
 でも、何となくではあるけれど……伊藤の考えていることが分かる気もする。俺もそうだったから。希望を持つってことは誰かに期待するってことだから。
 その『誰か』が他人なのか自分なのかはたまた無機物なのかなんなのかは人それぞれになるけれど、何かに期待して何かを信じるってことが希望を持つってことだ。
 伊藤は、たぶん……身内の誰かが自分の味方になるっていう希望を諦めきたんだと思う。希望という期待をしなければ、すべてを諦めてしまえば少しだけ気が楽になるから。
 そうすることで自分を守ろうとしてた、俺も伊藤と会うまで周囲の人間すべて諦めてた。どうせ俺の声なんて届かないんだって、どうせ俺の存在なんて誰も求めてなんかいないんだと。それなら自分が何かを求める気にもならなかった。
 ……伊藤と俺は全く共通点がないと思っていたけれど違うみたい。好みも嫌いなものも興味あるものも噛み合わなくて性格も反対だと思ってた。伊藤と『俺』は違う人間で大体のものの好みも嫌いなものも違うけれど、ほんの僅かだけど似てる。少なくとも『今の俺』からみるとそう感じた。
 この相談は昔の俺でもない今の俺に対してしているということが、こう言うと不謹慎だが嬉しかった。伊藤が頼ってくれるのが嬉しい。だけど……伊藤が望むような、その不安を取り除けられるかな……。

「……それなら、わかるまでそのままにしておけばいい」

 少し考えて伊藤が満足の行く答えを導けないかもしれない返答になってしまった。決して投げやりになったわけじゃない。考えた結果、そんな結論に行き着いた。
「分からないまま、で良いってことか?」
「……とりあえずは、分からないままでも良いと思うよ。だって伊藤も急に思いも寄らないことを言われて驚いたんだよな、それで戸惑ってしまってるんだよな」
 伊藤は俺の言葉に少し考え込むような仕草をした後、頷いてその目で続きを促してくるように真剣に一直線に見つめてくる。一息ついて自分を落ち着かせながら、声が震えないようにしながらも俺が考えた答えを伝える。
「その叔母さんは伊藤にすぐにでも答えを急かしてくる訳ではない、んだよな?」
「ああ、いつでもいいし気が向いたらでも理由はなんでもいいからって言われたな……」
 確認のために聞いたけれど、首を縦に振られて内心ホッとする。話を聞く限り叔母さんは伊藤に好意的なようだったから、ついちゃんと伊藤を待っててくれているという前提が勝手に自分のなかで出来上がっていた。伊藤が頷いてくれて安心した。きっと、その叔母はちゃんと伊藤のことを考えてくれていると半分確信できた。
「諦めてきたものを急に受け入れるなんて難しいことだ。柔軟に受け入れられるのはきっと一部の人間だけだと思う。……俺も、九十九さんとさえちゃんと向き合えるようになるのにだいぶ時間かかってしまった」
「でも透はもう受け入れられたじゃねえか」
「俺には俺のペースがあるように伊藤には伊藤のペースがあるから。……分からないことをそのままにし続けるのは良くないとは思うけど」
「?言ってること矛盾してないか?」
 分からないままでも良いと言ったのに分からないままにし続けるのは良くないと言われたら、矛盾しているようにしか思えない、確かに言葉通りに受け取られたら伊藤の指摘通り『矛盾』してるってことになるけど、俺が言いたいことは少し違う。少し考えて良い例えは無いかと思案する。
「……例えばさ、勉強していて何か躓いたりすることってあるだろ?それで焦って根詰めて問題に向き合っているときほど解けなかったりしてさらに焦って躍起になる、のはあまり良くないことだと思う」
 これを悪循環と呼ぶ。急いては事を仕損じる、とも言えるか。突然脈絡のないことを言われて伊藤は少し戸惑ったようだったが、勉強という学生にとって身近なものの例えだったおかげか考えやすかったみたいで顎に手をやって考えてくれた。
「あー……あるな。そんときは眠ったり休憩したりしたあとだと何か解けるようになったりするよな」
「それと同じだよ、問題を先延ばしにするのは悪いことではないしむしろ推奨されることだけど……その『問題』を故意に忘れたり嫌だからって無かったことにしようとする、そのままずっと分からないままで終えようとするのは、きっと自分にとって良くない。勉強をわからないままで終わらすのも心にもやもやが残る一方だ。……たぶん、誰かと向き合うのも同じ」
 これは俺の経験談。怖いから、良くわからないから、そう自分に言い聞かせて逃げて逃げ続けてそのうち辛いからって自分の感情すら無かったことにしようとして。
 ただ生きていること自体が俺の罪だと盲目的に信じ、自分のしたいことも罰だと思い込まされて自分も思い込んで。……結果として、心が限界を迎えて立てなくなってしまうほど苦しくなった。
 そんなところで伊藤と出会えたのは、運が良かった。伊藤が俺に優しくしてくれて、俺に生きてほしいって叫んでくれて、ようやく少しずつ動けるようになったんだよ。

「休憩しても良いし目を逸らしても良いし逃げても良い。でも、分からないままを続けてなかったことにしようとするように振る舞うのだけは辞めろ。……それこそ1番後悔する、から」

 怖くても辛くても苦しくても、立ち止まって泣いて嘆いて苦しんでも、それでもそれを無かったことにしないで。
 その向き合うときが1番辛いと思っていても何もせず終わらせず後々辛かったと言えるようになったほうが、きっと心に靄がかかることはない。真剣な目で俺は伊藤の目を見てそういった、伊藤も真面目な顔で俺の話を聞いていた。眉間に皺を寄せ何か思うことがあったのか苦々しい表情を浮かべる伊藤。固くなってしまった空気感に気が付いた。
「……というのが俺のおすすめ。伊藤は伊藤なりの行動をしてみると良い」
「えっいや今断言してたよな?」
 つい熱が入って命令口調になってしまった自分を恥じながらそう言うと伊藤に突っ込まれてしまった、恥ずかしいな。
「まあこれは俺の経験上の話。この話を聞いたからと言って伊藤もこの通りに動けという強制力はない」
「いや、そうだろうけどよ。でも妙に説得力があるしそうしたほうが良いんかなって思わされる……」
「参考程度に受け取ってくれ。自分の考える最善に向かっていけ」
 えー……という伊藤の気の抜けた声につい笑ってしまった。あれだけ偉そうに言っておきながら急に方向を変えてきた俺に対して混乱して呆れられてしまうのは仕方ない。俺も支離滅裂なことを言ってるな、という自覚は一応ある。
 確かに逃げ続けて無かったことにはしないほうが良いと断言したけど、俺に言われたからってそうすることも無いとも思う。俺にとっての最善が伊藤にとっての最善とは限らないしな。難しい顔のままの伊藤に口下手で上手く伝えたいことを伝えられなくて申し訳無さが出てくる。
「伊藤がどう選択するのかどうなるのか分からないけど。でも最善な結果になっても最悪な結果になったとしても俺はとなりにいるよ」
 だから、思う存分悩んで迷って逃げて休んでも良い。立ち向かってもいいし無かったことにしてもいい。俺はこうしたほうが良いとは言ったが、伊藤自身がそうしたいと言うのなら俺はそれを否定する気は毛頭ない。どちらにしても俺は伊藤から離れることはない、と言いたかった。……。
「まあ……俺がいたところ何になるっていう話だが」
「なんでそこで卑屈になるんだよ」
「……自意識過剰かな、と」
 伊藤のように頼りになるわけでもなく叶野のようにその場を和ませること出来ないし、鷲尾のように喝を入れたり湖越のようにアドバイスが出来る訳でもない、本当に文字通り隣にいるしか出来ない俺が何いってんだ、という心の底からそんな言葉が湧き上がって自信が少しなくなってしまった。
 こうしたほうがいいって断言したくせに伊藤なりに最善を尽くせと言ったり隣にいるって言いながらも何も出来ないと卑屈になって……情緒不安定すぎるな、自分。
「……まあ、もう少し気楽に考えてみる。信頼してほしいって言われたからってこんな混乱することもねえよな」
「……そうか」
 話し始めたときより幾分もすっきりしたようで、いつも通りの落ち着いた口調でそう言った伊藤の表情はすでに通常時と同じで安心する。……結局俺がいなくても解決したような……。
「どんなことになっても透がいてくれんなら、もっと自分勝手に考えてみるかな。とりあえず今日は叔母さんの連絡先を登録するだけにするわ。ありがとな」
 ネガティブになりそうなところを察したかのようにゆるやかに口角を上げ微笑みながらそう言われて思考に入り込みそうになっていたところで油断しきっていたときにそう言われて何の心構えがなかった俺は何故か「……どいたま」としか返せなかった。



「そういや、透は飲み物何にしたんだ?」
「……コーラ」
「やっぱりハンバーガーと来たらコーラだよなぁ。王道の組み合わせだよなぁ。俺もコーラにした」
「そうか、それなら誤って俺のを飲んでしまっても混乱しないな。この前鷲尾が俺のを間違って飲んじゃって大変なことになったから」
 この間はカウンター席だったからなおさら間違いやすかったし、同じものならもし誤って飲んでもああはならないだろう。炭酸が苦手だって聞いていたから苦しかっただろうな、あんなに咳き込んで顔まで真っ赤になっていたし。

「……ふーん」

 伊藤はすでにポテトも食べ終えているのに、俺はまだ残っていたので夢中で食べていたので伊藤が面白くなさそうな、不貞腐れたような声でつまらなさそうな表情を浮かべていたことに気付かなかった。
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