3.先を生きる人。
本屋に入って気まずくなった鷲尾と別れて、買い物を終えたら入り口近くで待ち合わせようと約束してそのまま別々に店内を回った。漫画本は1階、文庫本が2階にあり俺はエスカレーターへと向かった。
(……浮かれすぎたな)
俺にもああいう話が出来るという嬉しさからつい舞い上がってしまったことを反省しながらゆるりと本を眺めた。『普通』が分からないからついに憧れてこれが『普通』なんだと舞い上がって距離を詰めすぎてしまった。そもそも普通ってなんなんだろうな……。
誰もが一度は考えてしまうが、最終的に正確で具体的な答えにたどり着かない人間の永遠の疑問を普通に感じながら一ノ瀬は色々とりどりの本の装丁を眺める。
(……そういえば、こうして本屋に長い時間いたこと無かったな)
伊藤とちょっと都心のほうに遊びに行く最中に欲しい雑誌とかあるがあるってたまに本屋に行くこともあるけれど、こうして2階まるまる本屋であるところは来たことがなかった(ビルのなかにあって1フロアの半分も無いところばかりで)し、その買い物も伊藤が目当てのものを買ったらすぐ終わる。特に興味があるという訳ではなかった。だって漫画喫茶行って好きに読むことが出来るから。だけど、たまにはこうして動物の写真だったり癖のある不思議なイラストの表紙を見てどんな本なのか想像するのも楽しい。
漫画は少しずつ読むようになったけれど本は未だ読んでいないからここでいくつか買っても良いのかもしれない、伊藤がいなくてその部屋で過ごしていて手持ち無沙汰になっているから丁度いいように思える。
そう考えて気になった表紙の本を手にとって冒頭だけ読んでを繰り返し厳選した結果一冊選んで、もう一冊は何も見ずにその題名だけを見てレジへと向かった。一冊は捨てられた犬と傷ついた青年の話、もう一冊が先程鷲尾が漫画を買うと言っていた『君に伝えたい』の文庫版で、つい衝動的に買ってしまった。
正直動物ものも恋愛ものも初めてだからそれぞれどういう感情が芽生えるのか俺にも想像出来なかったが、少しでも理解出来ればいいと思ってのことだった。絵で見るよりも文字でみたほうが何となく勉強な気もしたからである。
集中して選んでいたせいか、携帯を開いてみると結構な時間が経っていたことに驚く。連絡こそないものの既に買う物が決まっていてさっぱりとしている性格である鷲尾なので既に目当ての物を買っていて結構待たせている可能性が高く、急いで動く階段を歩いて下った。
エスカレーターを下って、ぐるっと回ったところに本屋の出入り口がある。走ると周りに迷惑をかけてしまうので気持ち早足で向かう。
出入り口近くになって鷲尾の姿が無いかキョロキョロと周りを見回せば、すぐに探していた人物の姿を見つけた。見つけた、けれど。その近くに見慣れない人物がいて、何やら鷲尾と話しているようだった。
(誰だろう、友だち……は今までいなかったと言っていたが……)
鷲尾と話している相手が小中の同級生とか塾仲間とかも想像出来たけれど……その相手が少し、いや結構激しい格好をしているせいかそんな感じには申し訳ないが見えなかった。
(あれ……メッシュって言うんだったか?)
伊藤と同じぐらいの金髪にこめかみ部分に赤い色が入っている、この真夏の日も真上にある暑い時間なのにも関わらず全身黒い服を身に纏っている男性が真面目そうな男子高校生に絡んでいる、客観的に見るとそうとしか思えない光景である。
証拠に周りも通り過ぎ様に2人とチラチラと見ていて「誰か呼んだほうがいいんじゃない?」「あれカツアゲ、だよな?」と話し込んでいる男女が近くで話しているのも聞こえた。
様子を伺ってみると、特に見知らぬ男性が敵意を持って話している訳でも鷲尾はいつも通りの態度なので見る限り特に問題が起こっているという訳では無さそうだ、喧嘩とかしたことないからこういうときどういう対応するべきなのか分からないので良かった。内心ホッとしながら2人に近寄り声をかけた。特に相手に害は無さそうだし、近づいても大丈夫だろう。まぁ、害があっても声はかけるつもりだったけどな。争わないに越したことは無いだろう。
「鷲尾、ごめん。待たせたな」
あえて相手のことには触れず、とりあえず鷲尾にだけ声をかけてみた。2人はこちらを向いた。、
「あ、あー!そうだ『鷲尾』だっ!」
鷲尾が俺に反応する前に見知らぬ男性が食いついてきて驚いてしまう俺に気づかないようでずんずんと俺に近づいてきた、と思いきやガシッと手を取られる。
「いやぁー俺の名字と近くて確か鳥の名前があったような〜ていう記憶はあったんだけどな!出て来なくてよ〜ありがとうな!つかすごい綺麗な顔してるなぁ!あんた名前は?」
「、一ノ瀬透」
勢いに圧されて警戒する間もなくつい聞かれるがままに名前を言ってしまった。知らない人に、とは思ったけれど癖のある容姿とは真逆に毒気の無い雰囲気が吉田を思い出させて警戒する必要もないか、と思えてしまう。不思議だ。
「おー!一ノ瀬ね!俺和久井 友沙(わくい ゆうさ)な!よろしく!」
「ああ、確かそういう名前だったか……。ところで一ノ瀬が困ってるから放してやってくれ」
「あ、ごめんごめん!」
手を取られたままで困っていると鷲尾が助け船を出してくれた。えっと……和久井、にパッと手を放され謝られる。
「いや平気だ、ところで2人はどんな関係なんだ?」
どういう関係性なのか気になって聞いてみる。お互い顔を見合って少し考えていたかと思えば。
「一瞬だけクラスメイトだったヤツ」
だな。
だねー。
と口を揃えて言われた。
――……一瞬、とは……?
――――
「立ち話もなんだしー」と和久井からの提案で本屋から移動した。移動している最中に詳しく2人から話を聞けた。
「話したことって1回はあった、よな?」
「むしろその1回しかない」
「ありゃまぁそーだっけか?」
「ああ。お前はその3日後いなくなったな」
「行かなくなるちょっと前に話しただけかー、俺良く覚えてたなあ!名前忘れてたけど」
「まぁ僕も名前忘れていたから何も言わないが」
和久井と鷲尾がリズミカルに話しているのを俺はただ聞くだけである。要約するとどうやら元々2人は同じ中学校だったが、1回しか話したことはなく和久井はすぐ学校に行かなくなったようだ。
名前もお互い忘れていたようだったけれど、それでも存在自体は忘れていなかったみたいだ。だから俺が鷲尾の名前を呼んで和久井がしっくり来た様子で、和久井が俺に自己紹介してくれて鷲尾も思い出したようだったのか。納得する。
「……そうか、僕のこと覚えていたのか。既に僕のことを忘れたものだと思ってた」
1回しか話したことのない自分のことを覚えていた和久井に心底驚いているような、でも少し嬉しそうな響きでそうつぶやいた。
「隣の席で疲れた顔で授業中はおろか休み時間もずっと勉強してるヤツがいたらそりゃーなぁ。まぁ俺も色々あったから名前を忘れちゃっていたけどな!」
和久井はあっさりと笑ってそう言ったあと「ところでー」と切り出し俺の方を見た。
「こんな美形さんと鷲尾はどんな関係で?」
「友だちだが」
「もうちっと細かくおしえてちょーだい!」
鷲尾が端的に答えれば直様そう言われて鷲尾は眉を寄せる。それしか答えようがない、と言っているようだったがそれでも何とか絞り出そうと少し黙ったあと。
「……同じ高校で、同じクラス」
「えーそれだけ?あの鷲尾がどうして一ノ瀬と友だちになってこうして一緒にいるのか聞きてぇー。」
渋々答えたけれどそれでもなお食い下がる和久井。色々あっての結果なのでちょっと言いにくいところがある、なにか言おうとして口を開こうとして鷲尾がじっと俺のことをまじまじと見てきてなんだろうかと困惑して何も言えなくなった。そのあとすぐふいっと俺からも和久井からも視線を外してボソリと呟いた。
「……初めて圧倒的な頭脳の差を見せつけられその上他者に対する配慮もある人間として出来ていて僕が初めて尊敬に値する人間だ」
そう好意的な意見を一直線に伝えてくれた。多少は鷲尾に嫌われてはいないという自覚はあって嫉妬されている部分があるのも知ってはいたけれど、そういうふうに俺のことを思っていたのは初めて聞いた。
鷲尾も言う気は無かったみたいだったから俺が知らないのも無理はないのだろうけれど……嬉しいと思うと同時に俺はそこまで大層な人間ではないとも感じてしまう。
今だって自分のことばかりで伊藤に我慢をさせている結果になっているのに。自分を認めてくれた嬉しさと実際は違うという卑屈さに胸が板挟みになった、胸が、苦しくなった。真っ直ぐな鷲尾の言葉を聞いてそう感じてしまって素直に喜ぶことができない自分に苛々する。
「え、一ノ瀬って鷲尾より頭いいの?!」
軽い声が聞こえた。思考に耽りそうになったところでその声が鼓膜を響かせ、ほんの少し忘れていた和久井のことを思い出した。……突っ込むところ、そこなのか。鷲尾も俺と同じことを思っていたようでどこか呆れた目で和久井を見ていた。そんな視線など気にしていない和久井は俺に近寄る。
「すっげー!やばいなぁ鷲尾ってめっちゃ頭いいんだぜ?」
「それは……知ってる。努力家というのも」
「授業でも全力で休み時間全て使って1人で勉強して家帰ってもきっと勉強してきたんだろうなぁーて想像出来るぐらいだし、孤独の戦いだよな!そんな鷲尾が尊敬に値する友だちが出来てもう俺嬉しく思っちゃってさぁ」
鷲尾は驚いて目を見開いて和久井を見た。和久井はその視線に気付いているのか気付いていないのかただ俺を見てニコニコと笑っている。
「……その割には名前忘れて……」
「まあそれとこれとは別として!」
「和久井、黙れ」
「えっ俺褒めたのに!?」
多分これは鷲尾の照れ隠しだ。父親がかなり厳しいと話のなかでそう言っている。たぶん、褒められ慣れていないんだと思う。勘、になってしまうけれど。
鷲尾がこちらを見ずに歩いている、視界に俺らが写っていないことを和久井はキョロキョロ確認するように見て、そっと俺に笑いかけて来た。
「ありがとな、一ノ瀬」
そして、さっきのおちゃらけたような雰囲気とは逆に穏やかにそっと耳打ちされた。
「……俺は何もしてない」
和久井からわざわざ礼を言われるようなことなんて何もしてない。たぶん、友だちになったこととかそういうことを指しているんだろうけれど、俺は本当に何もしてない。最終的にすべてを判断したのは鷲尾自身の力だ。俺の否定を彼はいやいやと首を振ってさらに否定する。
「例えば鷲尾自身が素晴らしい力を持っていたとしてもさぁ、それを認めて後押ししてくれる人がいないとその力は持ち腐れになることのほうが多いんだぜ?確かに鷲尾は強くて1人で立てるような力があったとしても、独りじゃあ限界になる。誰でも1人でも支えてくれるような人がいて、ようやく立ち上がる勇気を持てるヤツのほうが圧倒的に多い、俺もあのときは自分のことで精一杯で隣の席の鷲尾に気にかける事もできなかったから」
……話の最中、和久井の笑顔のなかに陰りがほんの少し見えた。進学校に通い、すぐに行かなくなったと言った目の前の彼も何か事情があるのだろう。そこは今深堀りするべきではないのだろう、きっと和久井は今その辺の事情の話をしたいというわけではない、のだろう。想像しか出来ないけれど、和久井はピンと真っ直ぐに伸びた鷲尾の背を眉を寄せ苦しそうに見つめていたからきっとそうなんだ。
「……余裕が出てきたときにふと思ったんだ。隣に座っていた疲れて切羽詰まった顔をしてたあの眼鏡はどうなったんだろう、あんときもっと話しかけておけばよかったかな、て」
まるで、後悔しているような響きだった。さっき1回しか話したことがないと言ってて名前もお互い忘れていた。お互いそのことをなんとも思っていないように見えたけれど、少し違ってた。そう見せていただけだった。
「俺が出来ないこと、あのときしようともしなかったことをしてくれた一ノ瀬に俺が勝手に感謝してる。あーそんだけっ!」
暗い感じになってしまった自分を恥じるようにわざとらしく明るく振る舞ってそう言った和久井。どこか居心地が悪そうだ。きっと、後ろめたかったんだろう。鷲尾が苦しそうにしているのを知りながらもそのまま辞めてしまったことを後悔……してるのかもしれない。俺は和久井じゃないから分からないけれど、たぶん。
今和久井は俺に勝手に感謝してると言っていた。それなら、俺も勝手に和久井に自分の意見を言ってしまおうか。そうしよう。
「……俺は鷲尾じゃないから分からないけれど、でも鷲尾は多分和久井に感謝してると思う」
俺の返しが予想外だったのか、その目が丸くなってきょとんとしている。
「おれ?俺こそ何もしてねえよ。つか何も出来なかったってさっき言ったじゃねえか」
少し苛立っているような声。それは俺に向けてなのか自分に向けてなのか……はたまた他の誰かなのかは俺には分からない。だけど言わせてほしい。
「行動には移せなかったのは確かなんだろうけどでも多分行動に移すだけが支えになる訳ではない。鷲尾は自分のことをずっと1人だったと言ってた、気にかけてくれるような同級生はいなかったって。だけど、違ったことがさっき分かったから……自覚していないだけで嬉しくて感謝もしてるんじゃないか、と思う」
「どういう……」
「だって、ずっと鷲尾を気にしてたんだろ?一言しか話していない隣の席のクラスメイトのことを何年も」
少なくとも目の前の和久井は口ぶりからして学校に行かなくなってしばらくしてからだとしてもそれでも年単位の長い時間鷲尾のことをずっと気にしてたんだ。たった1回しか話さず、名前も忘れていた、ただ隣の席だっただけのクラスメイトのことを和久井は覚えていた。
それは友愛じゃなくて自分が何も出来なかった後悔から切り離すことの出来なかった記憶として残っていたことだったとしても。ずっとかつての同級生の鷲尾の存在のことを和久井は忘れずに覚えていた。たとえ何も行動にできなかったとしてもそれでも……。
「さっき自分のことを覚えていた和久井に驚きながらも嬉しそうだったのは多分、そういうことだと思う。……まぁ、俺が勝手にそう感じてるだけ、だけど。和久井からして苦い記憶だったとしても、それでも独りだと言っていた鷲尾にとって1人でも自分のことを覚えていてくれた存在を知ることが出来て……嬉しかったんだと思う」
誰かに存在を認めてもらえる喜びは俺も痛いほど分かる、から。前の一ノ瀬透の記憶がなくても俺は俺だと言ってくれるひとが1人でもいれば、少しずつでも強くなれる。それだけで救われることもある。想ってくれていた事実があれば、それだけで。だから……。
「そこまで自分を責めなくても良い」
和久井の見開いたその目を見てゆっくりそう言った。だって、ずっと無理して苦しそうに笑っているから。以前の叶野のように。気になってしょうがなかった。俺の言葉に和久井は目頭を押さえ、空を見上げる勢いて顔を仰け反らせた。
「あ”〜……やっべ一ノ瀬に惚れそう!」
少し離れて歩いていた鷲尾にも聞こえるぐらいのわざとらしいぐらいの大きな声でそう言われて驚いて肩が跳ねた。
「はぁ!?」
そして何故かそれに素早く反応したのは鷲尾だった。
「うっそぴょーん!ぎゃはは!騙されてやんの!」
「おまえっ」
「……そういえば、どこに向かって歩いているんだ?」
このままでは経験上長くなりそうな雰囲気を察して、疑問を投げかける。流れで歩いていたけれど、今俺たちはどこに向かって歩いているのだろうか。そんな疑問が今更生まれて問いかけた。そういえば、と話に夢中になっていて俺同様に気が付かなった鷲尾が首を傾げたほぼ同時に。
「え?スタジオ。」
と、もう決めていたことを何故今聞くの?と不思議そうに俺を見る和久井に、鷲尾と俺はキョトンと目を丸くしてしまった。
――……スタジオ……?聞き慣れない単語を頭のなかで繰り返した。
――――
「はい!俺の中学のころの同級生の鷲尾とその友だちの一ノ瀬!何となくいっしょに来たよ!」
元気よく俺らのことを紹介してくれる和久井に申し訳ないが来たことの無い場所が珍しくてつい辺りを見回してしまう。これがスタジオ、というところなのか。意外と明るいところなんだな、何だか暗いイメージがあったけれど。
「お、そうなんだー。初めまして、鷲尾くんに一ノ瀬くん。俺は和久井 悠司(わくい ゆうじ)です。友沙の兄で、バンド組んでます。ドラム担当で一応リーダー……になるんかね??まあとにかくよろしく」
穏やかで少し垂れ目の黒髪の男性がそう自己紹介しながら手を差し伸べられる、その手をとって握手する。申し訳ないけれど髪色も雰囲気も真逆だからかあまり似ていないように感じた。でも笑ったときに出来るえくぼの位置が同じ場所にあるな。そうぼんやりと勝手に印象付けていると和久井さん……お兄さんの方の肩越しにひょこっと和久井……弟の方が顔を覗かせ、そのまま顎を肩に置いた。
「和久井だと被っちゃって面倒くさいし名前で呼んでくれよ〜俺のこと友沙でもウサでも良いぞー」
丁度ややこしいなと感じていたところでそう言ってくれて有難い、のだが。
「うさ?」
ウサというのはどこから来たのだろうか?聞き返してみると和久井……のお兄さんはまた突拍子もなくと苦笑する。
「ゆうさって伸ばして言うとウサって聞こえるだろ?最初は小さい頃それに気付いた俺が呼んでだらこいつ気に入ったみたいでさ。」
そうニックネームの由来について説明してくれた。
「そーそーウサって呼んじゃってー」
その肩に変わらず顎を乗せて兄の答えに満足したのか「にひひ」と和久井……ウサは笑っている。
「俺のことは悠司と普通に呼んでくれな」
「はい、えっと……悠司さん、ウサ。改めて俺は一ノ瀬透です、好きに呼んで大丈夫です」
「僕は鷲尾和希。鷲尾と呼んでください、お願いします」
……鷲尾は変なニックネームを付けられる頻度が高いせいか念押しに名字で呼ぶよう訴えた。悠司さんはそんな鷲尾にも朗らかに笑いかける。
「おっけ、じゃあ一ノ瀬くんに鷲尾くんね。弟とも俺とも仲良くしてやってねー。……あと友沙そろそろ顎どけてくれない?お前が話す度に顎が動く振動が伝わってきて気持ち悪いんだよ」
ウサの頭を軽くペシペシと叩きながらどくよう訴える悠司さん。ウサはそんな悠司さんにいたずらを思いついた子どもみたいにニヤッと笑う。
「えーと?こういうのがいやなのー?」
そう言うとわざと何度も振動が伝わるように大きく口を開けたり締めたりを繰り返し行い始めた。
「だー!もうやめい!」
「いでっ」
しつこいウサに先程よりも強めの力を入れて叩いたようでベシンッと少し鈍い音がした。
衝撃に驚いたのか頭を抑えながらその肩からウサの顎がようやく離れた。
「ちょっと、かわいい弟の頭をそう遠慮なく叩いちゃいます?」
「どけてって言っているのにそれを聞かない優しくないかわいい弟へ弟想いの優しいお兄ちゃんがしつけしたダケダヨー」
頬を膨らませて抗議するウサに悠司さんは爽やかに笑って言い返した。ウサはそんな悠司さんに「DVだ!」と口を尖らせ、悠司さんは「はははー」と感情無く笑う。
「あ、あそこでベースをいじってる黒マスクの白髪のヤツは野村 等壱(のむら ひといち)な」
悠司さんが指した方向を見るとこちらに混ざること無く淡々とギターを膝に乗せリズミカルに弦を弾いている男性が確かにいた。……目の前の和久井兄弟の存在が濃すぎて他に人がいると思わなくて少しビックリした。
「おーい、等壱も一言挨拶しろー!」
「……よろー」
悠司さんに声をかけられて、仕方なく本当に渋々といった様子でゆっくり視線を向け軽く会釈して一言こちらにそう声をかけると直様手元のギターへと視線を戻してしまった。
「相変わらず無愛想で人付き合い悪いなぁ。もーノームってばっ!」
「マイペースなヤツなんだよ。悪いな」
呆れるウサと申し訳無さそうな悠司さん。それは構わない、連れられたとはいえ勝手に急に来ているのは俺らだし歓迎されないのも無理はないかなと思う。ただ、そのウサの呼び名はなんだろうか……。
「ノーム??」
鷲尾も俺と同じように疑問に感じて聞き返した。
「野村だからノーム!」
「友沙が等壱に初対面で勝手につけて何故かライブでも等壱がそう名乗ったんだよなぁ。ちょっとマイペースな奴だけど悪いやつじゃねえからよろしくしてやってくれな」
「はぁ……」
……ウサに対してさっき初めて会ったのに何故か親近感湧いたのって、吉田にどこか似ている、からだな。顔とか背とかは全く似ていないけれど、明るくて活発な雰囲気とかにぎやかなところとか……ニックネームをとりあえず付けるところとか。
鷲尾もそれを察してか少し顔が引きつっている、少し特徴的なニックネームを付けられることが多いせいだろうか。最近では叶野の呼ぶ『わっしー』に反応しなくなってきたので慣れてきたのかもしれない。吉田の『かっちゃん』にはまだ抵抗しているけれどそれももしかしたら時間の問題かも?
「そういえば2人ともなんかニックネームあったりする?」
「いや、特に……」
あまり呼ばれたくないニックネームなのだろう、珍しく目を泳がせながら下手に嘘を付こうとする鷲尾を見て……弄りたくなってしまった。
「……俺はイッチて呼ばれることある。あと鷲尾もわっしーって1人呼ぶやつがいる」
「なっ!?一ノ瀬!」
せっかくごまかそうとしたのに、とそう鷲尾の顔に書いてあるようだった。俺のことを凝視する鷲尾を視認しつつも目線をそっと外してなんでも無い顔をした。
「ほうほう!なんだあるんじゃん!今俺つけようとしちゃったじゃん!いいねいいね!イッチとわっしー!俺もそう呼ぼーっと!」
……やっぱり、か。鷲尾がニックネームは無いと言おうとしたとき、ウサの目が輝いていた気がしたからもしかしたらと思ったらやっぱり新たなニックネームを付けようとしたらしい。
どうせニックネームで呼ばれるのならせめて最近受け入れつつある『わっしー』のほうが良いんじゃないかと思ってのことだった。……まぁ、鷲尾を弄りたいと思ったところも結構ある、それは否定できない。
鷲尾が睨んでいるのを感じながらも、本気で怒っている訳ではないのを知っているのでそちらを振り返らずじっとする。
「まーとにかくここで好きにしてていいよ。俺らも自由にしてるし。そういえば2人ともなんか音楽やってたりするの?」
「……いえ、たまに友人に聞かされるぐらいで」
「僕もだ。……だけど、どう音を奏でているんだ?」
伊藤がここにいたらもしかしたら楽しかったかもしれないな、音楽を一緒に聴くことはあっても演奏することにそこまで興味が持てない俺とは逆に鷲尾はたまにしか音楽を聴かないのは同じだったが身を乗り出してドラムをまじまじと見つめる。
「おお、わっしー興味津々じゃんっ!」
「それなら習うより慣れろ!よし、いっちょ体験させてあげよう!」
楽器に興味を持つ鷲尾に和久井兄弟のテンションが上がっている、すごく楽しそうだな。
「え、あ、いや、そこまででは……」
「いいからいいから!はい、とりあえずドラムからどうぞっ!」
まさか演奏までさせてくれると思っていなかった鷲尾が遠慮しようとするけれど、ぐいぐい押されついには悠司さんによって強引にドラムの椅子に座らせられ、スティックまで持たされてしまった。
俺に視線を向けてどうにかしてくれ、と訴えられたけれどこれはどうすることも出来ないな。すぐに2人を止めるのを諦めて頑張れの意で鷲尾に視線を送った。悠司さんはすでにスイッチ入ったかのように熱心にドラムのことを教え始めてしまい、鷲尾も素直にそれを聞いている。
「イッチもやる?」
「……俺は、いいかな」
ウサがせっかく誘ってくれたけれど、断った。興味も持てない俺がやっても教える方もつまらないだろうし……これは勘だが俺には音楽の才能は皆無だと感じている。
演奏が下手なだけなら良いが、楽器に何か支障を来す可能性も否定出来なかった。基本的に俺は勉強や運動がそこそこ出来てもそれ以外のことが得意ではないし苦手だ。実際前の学校の音楽などの技術系は知識はともかく実技はボロボロで総合評価は他と比べると低い。リコーダーすら使い物にならなくなったこともある、そうなるとギターやドラムがどうなるのか……俺にも分からないのでやめておくことにする。
「そう?まー気が変わったらいつでも言ってくれな!」
「わかった、ありがとう」
食い下がることもなくさっぱりとしているウサに安堵する。せっかく誘ってくれたのにな、と後ろめたかったのでウサのように引っ張ることもなくかと言って何度も誘うでもなくあっさりと流してくれるのはありがたかった。ウサも悠司さんと同様に鷲尾のもとへと行った。
鷲尾も最初こそ俺に助けを求めるような目で訴えてきたけれど、すぐに悠司さんたちから次から次へと教えられてそれについていこうと頑張っていていつの間にかドラムに集中していった。しばらく鷲尾が教わっている様子を見ていたけれどやっぱり俺にはああやって器用に手を動かすことは出来ないなと判断する。教わる気もないのにこのまま突っ立って鷲尾たちのほうを見ているのは迷惑かな。どうするか思案しているとガサ、と音が聞こえて視線を向ける。俺が手に持っていた袋のことを今思い出した。
ここまで来ておいて読書を始めてしまうのはさすがに失礼だよな。いくら手持ち無沙汰とはいえ読書を始めるのも失礼に当たる気がして一瞬でその考えは消えた。とりあえず、座っていようか。
立っているだけ、となると悠司さんたちも俺に気を使ってしまいそうだし、せっかく鷲尾が勉強以外に意欲的になっているからそのやる気を削がれさせるようなことはしたくない。座れそうなところは、と視線を彷徨わせる。
「ここ座れば?」
さっき悠司さんたちに言われて一言渋々声をかけてすぐにベースを弄っている悠司さん曰くマイペースである野村さんに自分の隣の空いていたスペースを指をさしながらそう促される。
ベース練習の邪魔になるだろうかと思って選択肢から除外していたが、本人から誘われたからには特に断る理由は無かった。そこ以外座れそうなところがなかったのでむしろ助かった。
「ありがとうございます」
「別に。ああ、本とか読んでても良いよ。あいつらも俺も気にしないし」
少し間を空けて座るとまたベースに視線を戻してしまったけれど、そう言ってくれた。俺が手持ち無沙汰で何をしようか迷っていたのを見ていたようだ。
黒マスクで顔が隠されているのでどんな表情を浮かべているのか分からないし、声も抑揚無いため淡々と聞こえるけれど、たしかに悪い人ではない、というか良い人だと思う。
「そうですか?なら、遠慮なく」
その厚意に甘えて濃い青い袋から本を取り出した。何も考えず出てきたほうを読もうと思ったので見ないで適当に取り出した。小説版『君に伝えたい』ではなくもう一冊のほうが出てきた。『きみとぼくのものがたり』という本だ。
捨てられた犬と傷ついた青年の話で少し前伊藤と見た番組でおすすめの本で紹介されていたというのも思い出してつい買ってしまった。そういえばこの話も確か来年だっただろうか、映画化されるらしい。本を読んで気に入ったら見に行ってみるかな。そう考えながらペラっと頁を捲る。
「……それ、ここで読む?」
「……だめですか?」
早速まえがきから読もうとすると隣から声をかけられた。勿論、野村さんから。じーっと俺の方を見てそう聞かれた。
口元が黒いマスクで隠れて分からないためどうしてもその少し白目の割合が多いその瞳に視線が向く。……野村さんを見ていると何となく、伊藤を思い出した。伊藤のほうが黒目が小さくて吊り目だけど、一重で男らしい目とか雰囲気とか良く似ている。
「泣くよ?」
「……はい?」
――想定外の返事につい聞き返してしまう。
「だから、それ読むと泣くよ?」
……聞き間違いではなかったようだ。無表情(に見える)で淡々としているのに反したこと言われて脳が少しバグりそう。
「……野村さんは、泣いたんですか?」
「号泣よ」
しつこいかもしれないが、改めて確認するように問うと同じことを言わせる俺に苛立つこともなくポツリと先ほどと似たような返答がきた、今度は疑問符ではなく断言された。そこまで念押しされてしまうとここでは読む気がなくなってしまった。
「……じゃあ、これは?」
それならば、ともう買った一冊のほうを取り出し野村さんに見せる。最近流行っているかつ映画化される『君に伝えたい』の表紙がよく見えるようにしてみる。
「ああ、これね。泣くよ。漫画の方もうるっと来たけどね、小説版は漫画では描ききれなかった心理描写が文字でこちらの気持ちを揺さぶってくるもんだからヤバいよ。俺的には小説の方が泣ける。だけど漫画は漫画で絵も綺麗だし分かりやすいよ」
「なるほど……」
漫画版も小説版もすでに網羅しているようだ。何となく、楽器を扱うことに長けている人ってずっとそれを弄っているような印象だったが、イメージが覆された。良い意味で。
ギターを弄りながらではあるが俺が話しかけても嫌そうな雰囲気は特にない。……勇気を持って初対面の人と話せるチャンスだ。
「本、詳しいんですか?」
「まあまあかな?悠司には呆れられウサには怒られるぐらいに買い込んで読み耽って飽きたら売るを繰り返してる」
「……結構詳しいですね」
呆れられて怒られるぐらいってどれぐらいの期間行っているんだろうか。とにかく本は好き、という認識で良いようだ。
「野村さんのおすすめの本とかありますか?今日から読書を始めようと思ってて」
「良い趣味。いっぱいあるよ、でも俺割とすぐ売っちゃうから貸せないや」
「あ、自分で買うので大丈夫ですよ」
「そう」
ベースから目を離して漸く俺の方を見た。興味のあるかないが分かりやすくていいと思う。空気読むのは苦手なので伊藤たちのように分かりやすいと俺としてはありがたい。……逆に俺は分かりにくいだろうから少し、いや結構申し訳ない。嫌な顔せず一緒にいてくれるみんなに感謝を忘れないよう気をつけたい。俺を視界に映したその瞬間ピシッと何故か固まった。
「……顔面格差が生まれる」
そして、よく分からないことを言われて聞き返したがはぐらかされ、おすすめの本を教えられその内夢中になっていった。
「ピアスそんなにあけてて痛くないんですか?」
話題はおすすめの本から野村さんのあいているピアスへ。ひと段落着いた頃だったので違和感のない話題変更のはず。耳にも結構なピアスが開いているが眉のところや目と目の間のところにも細長いピアスが通っているのが痛々しくも思うし不思議な感じもする。つい自分の目の間のところを触ってしまう。野村さんは急な話題変更に気分を害した様子もなくのんびりと答えてくれる。
「今はそうでも。穴が安定するまではドクドクしたり膿んだりするけど。今日みたいな暑いときはちちゃんと消毒しないとやっぱり膿むよ」
「へぇ……大変そうですね」
「周りにあけてる子、いないの?」
「……そういえばいないです」
考えてみるとよく一緒にいるメンバーのなかでピアスがあいているやつが誰もいないことに気付いた。鷲尾や湖越があいていないのは何となく分かるが、イメージ的にあいていてもおかしくないだろう伊藤や叶野もあいていない。二人とも興味はあるようだが踏み切っていないらしい。梶井は……どうだっただろうか、耳元が髪で隠れていて分からなかった気がする。今度会ったときこっそり確認してみよう。
「ふーん、きみはあけたい?」
「……怖いっすね」
ちら、と目の前の耳を貫通している金属たちを見やって答える。本人は平然としているけれど見ているほうはかなり痛々しいし、ピアスを開けるということはやはり自ら身体に穴をあけるということだ。思わず耳を抑えて答えた。
「まぁあけたいと思ったときにあけるのが1番だしね。ちなみにほら、俺ここにもあいてんのよ」
指をかけて顔を隠す黒マスクをぐいっとずらして口元が顕になる。
「……うおぅ……」
思わず変な声を上げてしまう、いや失礼だと思うけれども、驚いてしまって。
「変な声、すごいっしょ」
少し得意げに薄っすら口角を上げている野村の唇や顎に見る限り10本、鼻にも1本あいている。伊藤の好きなアーティストのジャケットの写真にそのぐらいピアスがあいている人を見たことあったが実際会ったのは初めてでつい驚いてしまった。
「すごい、ですね」
そうとしか言えない、悠司さんもウサも耳にも顔にもあいているけれど想像の範囲内というか、意識を向けるほどではなかったのだが、ここまで来ると最早すごいとしか言えない。素直な俺の反応に気分が良くなったのか先程よりも機嫌が良さそうに見える。
「今度舌にもあけようとおもってんの」
「へぇ……、」
まだあけるのか、それが1番最初に出てきた感想だったが、本人がそうしたいと言うのなら俺からは何も言うまい。……少し、どんな感じになるのか気になるけど。
「あけたら写真撮って見せてあげる、ということでメアド教えて。赤外線通信しよ」
「え、あ、はい」
急に携帯電話を差し出されて俺も少し慌てて携帯電話を取り出す。まさか初対面の人とこうしてアドレスを交換することになるとは想像打にしていなかった。言われるがままに赤外線で送り合う。野村さんのほうを見てみると黒マスクを外しているところで、それを見てふと気が付いた。
「……あの、もしかしてマスクつけてたのって……」
「初対面で俺の顔見るとビビられるからね。まあ目付きも悪いからピアスを隠していようと疎遠されやすいんだけど。きみに見せちゃったしもういいかなって。マスク鬱陶しかったし。向こうの彼も驚かんでしょ。ああいう感じのタイプの子ってピアスで動じないし」
「……そうですね」
淡々として何も気にしていない口調で自分のことを客観的によくわかっている口ぶりで話し、しっかり鷲尾のことも見ていたようでどういう感じのタイプなのか言い当てていて、なんだか凄いな、と感心した。『大人』だな、とふわりとしたことを思った。そう思った具体的な理由は上手く説明はできないが、何となく。その後アドレス交換していた俺らに気付いたウサが「え、俺も教えてよ!」と入ってきて「じゃあそのまま俺とも交換しよー、わっしーもしようなー」と悠司さんも入ってきて鷲尾も俺もウサ悠司さん野本さんの三人全員とアドレス交換した。
そちらも鷲尾に楽器を教えるのが一段落したようだった、交換している最中携帯電話の画面内右上に表示されている時間を確認する。ここに入ったのは14時ぐらいだったが今17時になるころで時間の流れがかなり早くて驚いてしまう。
(……浮かれすぎたな)
俺にもああいう話が出来るという嬉しさからつい舞い上がってしまったことを反省しながらゆるりと本を眺めた。『普通』が分からないからついに憧れてこれが『普通』なんだと舞い上がって距離を詰めすぎてしまった。そもそも普通ってなんなんだろうな……。
誰もが一度は考えてしまうが、最終的に正確で具体的な答えにたどり着かない人間の永遠の疑問を普通に感じながら一ノ瀬は色々とりどりの本の装丁を眺める。
(……そういえば、こうして本屋に長い時間いたこと無かったな)
伊藤とちょっと都心のほうに遊びに行く最中に欲しい雑誌とかあるがあるってたまに本屋に行くこともあるけれど、こうして2階まるまる本屋であるところは来たことがなかった(ビルのなかにあって1フロアの半分も無いところばかりで)し、その買い物も伊藤が目当てのものを買ったらすぐ終わる。特に興味があるという訳ではなかった。だって漫画喫茶行って好きに読むことが出来るから。だけど、たまにはこうして動物の写真だったり癖のある不思議なイラストの表紙を見てどんな本なのか想像するのも楽しい。
漫画は少しずつ読むようになったけれど本は未だ読んでいないからここでいくつか買っても良いのかもしれない、伊藤がいなくてその部屋で過ごしていて手持ち無沙汰になっているから丁度いいように思える。
そう考えて気になった表紙の本を手にとって冒頭だけ読んでを繰り返し厳選した結果一冊選んで、もう一冊は何も見ずにその題名だけを見てレジへと向かった。一冊は捨てられた犬と傷ついた青年の話、もう一冊が先程鷲尾が漫画を買うと言っていた『君に伝えたい』の文庫版で、つい衝動的に買ってしまった。
正直動物ものも恋愛ものも初めてだからそれぞれどういう感情が芽生えるのか俺にも想像出来なかったが、少しでも理解出来ればいいと思ってのことだった。絵で見るよりも文字でみたほうが何となく勉強な気もしたからである。
集中して選んでいたせいか、携帯を開いてみると結構な時間が経っていたことに驚く。連絡こそないものの既に買う物が決まっていてさっぱりとしている性格である鷲尾なので既に目当ての物を買っていて結構待たせている可能性が高く、急いで動く階段を歩いて下った。
エスカレーターを下って、ぐるっと回ったところに本屋の出入り口がある。走ると周りに迷惑をかけてしまうので気持ち早足で向かう。
出入り口近くになって鷲尾の姿が無いかキョロキョロと周りを見回せば、すぐに探していた人物の姿を見つけた。見つけた、けれど。その近くに見慣れない人物がいて、何やら鷲尾と話しているようだった。
(誰だろう、友だち……は今までいなかったと言っていたが……)
鷲尾と話している相手が小中の同級生とか塾仲間とかも想像出来たけれど……その相手が少し、いや結構激しい格好をしているせいかそんな感じには申し訳ないが見えなかった。
(あれ……メッシュって言うんだったか?)
伊藤と同じぐらいの金髪にこめかみ部分に赤い色が入っている、この真夏の日も真上にある暑い時間なのにも関わらず全身黒い服を身に纏っている男性が真面目そうな男子高校生に絡んでいる、客観的に見るとそうとしか思えない光景である。
証拠に周りも通り過ぎ様に2人とチラチラと見ていて「誰か呼んだほうがいいんじゃない?」「あれカツアゲ、だよな?」と話し込んでいる男女が近くで話しているのも聞こえた。
様子を伺ってみると、特に見知らぬ男性が敵意を持って話している訳でも鷲尾はいつも通りの態度なので見る限り特に問題が起こっているという訳では無さそうだ、喧嘩とかしたことないからこういうときどういう対応するべきなのか分からないので良かった。内心ホッとしながら2人に近寄り声をかけた。特に相手に害は無さそうだし、近づいても大丈夫だろう。まぁ、害があっても声はかけるつもりだったけどな。争わないに越したことは無いだろう。
「鷲尾、ごめん。待たせたな」
あえて相手のことには触れず、とりあえず鷲尾にだけ声をかけてみた。2人はこちらを向いた。、
「あ、あー!そうだ『鷲尾』だっ!」
鷲尾が俺に反応する前に見知らぬ男性が食いついてきて驚いてしまう俺に気づかないようでずんずんと俺に近づいてきた、と思いきやガシッと手を取られる。
「いやぁー俺の名字と近くて確か鳥の名前があったような〜ていう記憶はあったんだけどな!出て来なくてよ〜ありがとうな!つかすごい綺麗な顔してるなぁ!あんた名前は?」
「、一ノ瀬透」
勢いに圧されて警戒する間もなくつい聞かれるがままに名前を言ってしまった。知らない人に、とは思ったけれど癖のある容姿とは真逆に毒気の無い雰囲気が吉田を思い出させて警戒する必要もないか、と思えてしまう。不思議だ。
「おー!一ノ瀬ね!俺和久井 友沙(わくい ゆうさ)な!よろしく!」
「ああ、確かそういう名前だったか……。ところで一ノ瀬が困ってるから放してやってくれ」
「あ、ごめんごめん!」
手を取られたままで困っていると鷲尾が助け船を出してくれた。えっと……和久井、にパッと手を放され謝られる。
「いや平気だ、ところで2人はどんな関係なんだ?」
どういう関係性なのか気になって聞いてみる。お互い顔を見合って少し考えていたかと思えば。
「一瞬だけクラスメイトだったヤツ」
だな。
だねー。
と口を揃えて言われた。
――……一瞬、とは……?
――――
「立ち話もなんだしー」と和久井からの提案で本屋から移動した。移動している最中に詳しく2人から話を聞けた。
「話したことって1回はあった、よな?」
「むしろその1回しかない」
「ありゃまぁそーだっけか?」
「ああ。お前はその3日後いなくなったな」
「行かなくなるちょっと前に話しただけかー、俺良く覚えてたなあ!名前忘れてたけど」
「まぁ僕も名前忘れていたから何も言わないが」
和久井と鷲尾がリズミカルに話しているのを俺はただ聞くだけである。要約するとどうやら元々2人は同じ中学校だったが、1回しか話したことはなく和久井はすぐ学校に行かなくなったようだ。
名前もお互い忘れていたようだったけれど、それでも存在自体は忘れていなかったみたいだ。だから俺が鷲尾の名前を呼んで和久井がしっくり来た様子で、和久井が俺に自己紹介してくれて鷲尾も思い出したようだったのか。納得する。
「……そうか、僕のこと覚えていたのか。既に僕のことを忘れたものだと思ってた」
1回しか話したことのない自分のことを覚えていた和久井に心底驚いているような、でも少し嬉しそうな響きでそうつぶやいた。
「隣の席で疲れた顔で授業中はおろか休み時間もずっと勉強してるヤツがいたらそりゃーなぁ。まぁ俺も色々あったから名前を忘れちゃっていたけどな!」
和久井はあっさりと笑ってそう言ったあと「ところでー」と切り出し俺の方を見た。
「こんな美形さんと鷲尾はどんな関係で?」
「友だちだが」
「もうちっと細かくおしえてちょーだい!」
鷲尾が端的に答えれば直様そう言われて鷲尾は眉を寄せる。それしか答えようがない、と言っているようだったがそれでも何とか絞り出そうと少し黙ったあと。
「……同じ高校で、同じクラス」
「えーそれだけ?あの鷲尾がどうして一ノ瀬と友だちになってこうして一緒にいるのか聞きてぇー。」
渋々答えたけれどそれでもなお食い下がる和久井。色々あっての結果なのでちょっと言いにくいところがある、なにか言おうとして口を開こうとして鷲尾がじっと俺のことをまじまじと見てきてなんだろうかと困惑して何も言えなくなった。そのあとすぐふいっと俺からも和久井からも視線を外してボソリと呟いた。
「……初めて圧倒的な頭脳の差を見せつけられその上他者に対する配慮もある人間として出来ていて僕が初めて尊敬に値する人間だ」
そう好意的な意見を一直線に伝えてくれた。多少は鷲尾に嫌われてはいないという自覚はあって嫉妬されている部分があるのも知ってはいたけれど、そういうふうに俺のことを思っていたのは初めて聞いた。
鷲尾も言う気は無かったみたいだったから俺が知らないのも無理はないのだろうけれど……嬉しいと思うと同時に俺はそこまで大層な人間ではないとも感じてしまう。
今だって自分のことばかりで伊藤に我慢をさせている結果になっているのに。自分を認めてくれた嬉しさと実際は違うという卑屈さに胸が板挟みになった、胸が、苦しくなった。真っ直ぐな鷲尾の言葉を聞いてそう感じてしまって素直に喜ぶことができない自分に苛々する。
「え、一ノ瀬って鷲尾より頭いいの?!」
軽い声が聞こえた。思考に耽りそうになったところでその声が鼓膜を響かせ、ほんの少し忘れていた和久井のことを思い出した。……突っ込むところ、そこなのか。鷲尾も俺と同じことを思っていたようでどこか呆れた目で和久井を見ていた。そんな視線など気にしていない和久井は俺に近寄る。
「すっげー!やばいなぁ鷲尾ってめっちゃ頭いいんだぜ?」
「それは……知ってる。努力家というのも」
「授業でも全力で休み時間全て使って1人で勉強して家帰ってもきっと勉強してきたんだろうなぁーて想像出来るぐらいだし、孤独の戦いだよな!そんな鷲尾が尊敬に値する友だちが出来てもう俺嬉しく思っちゃってさぁ」
鷲尾は驚いて目を見開いて和久井を見た。和久井はその視線に気付いているのか気付いていないのかただ俺を見てニコニコと笑っている。
「……その割には名前忘れて……」
「まあそれとこれとは別として!」
「和久井、黙れ」
「えっ俺褒めたのに!?」
多分これは鷲尾の照れ隠しだ。父親がかなり厳しいと話のなかでそう言っている。たぶん、褒められ慣れていないんだと思う。勘、になってしまうけれど。
鷲尾がこちらを見ずに歩いている、視界に俺らが写っていないことを和久井はキョロキョロ確認するように見て、そっと俺に笑いかけて来た。
「ありがとな、一ノ瀬」
そして、さっきのおちゃらけたような雰囲気とは逆に穏やかにそっと耳打ちされた。
「……俺は何もしてない」
和久井からわざわざ礼を言われるようなことなんて何もしてない。たぶん、友だちになったこととかそういうことを指しているんだろうけれど、俺は本当に何もしてない。最終的にすべてを判断したのは鷲尾自身の力だ。俺の否定を彼はいやいやと首を振ってさらに否定する。
「例えば鷲尾自身が素晴らしい力を持っていたとしてもさぁ、それを認めて後押ししてくれる人がいないとその力は持ち腐れになることのほうが多いんだぜ?確かに鷲尾は強くて1人で立てるような力があったとしても、独りじゃあ限界になる。誰でも1人でも支えてくれるような人がいて、ようやく立ち上がる勇気を持てるヤツのほうが圧倒的に多い、俺もあのときは自分のことで精一杯で隣の席の鷲尾に気にかける事もできなかったから」
……話の最中、和久井の笑顔のなかに陰りがほんの少し見えた。進学校に通い、すぐに行かなくなったと言った目の前の彼も何か事情があるのだろう。そこは今深堀りするべきではないのだろう、きっと和久井は今その辺の事情の話をしたいというわけではない、のだろう。想像しか出来ないけれど、和久井はピンと真っ直ぐに伸びた鷲尾の背を眉を寄せ苦しそうに見つめていたからきっとそうなんだ。
「……余裕が出てきたときにふと思ったんだ。隣に座っていた疲れて切羽詰まった顔をしてたあの眼鏡はどうなったんだろう、あんときもっと話しかけておけばよかったかな、て」
まるで、後悔しているような響きだった。さっき1回しか話したことがないと言ってて名前もお互い忘れていた。お互いそのことをなんとも思っていないように見えたけれど、少し違ってた。そう見せていただけだった。
「俺が出来ないこと、あのときしようともしなかったことをしてくれた一ノ瀬に俺が勝手に感謝してる。あーそんだけっ!」
暗い感じになってしまった自分を恥じるようにわざとらしく明るく振る舞ってそう言った和久井。どこか居心地が悪そうだ。きっと、後ろめたかったんだろう。鷲尾が苦しそうにしているのを知りながらもそのまま辞めてしまったことを後悔……してるのかもしれない。俺は和久井じゃないから分からないけれど、たぶん。
今和久井は俺に勝手に感謝してると言っていた。それなら、俺も勝手に和久井に自分の意見を言ってしまおうか。そうしよう。
「……俺は鷲尾じゃないから分からないけれど、でも鷲尾は多分和久井に感謝してると思う」
俺の返しが予想外だったのか、その目が丸くなってきょとんとしている。
「おれ?俺こそ何もしてねえよ。つか何も出来なかったってさっき言ったじゃねえか」
少し苛立っているような声。それは俺に向けてなのか自分に向けてなのか……はたまた他の誰かなのかは俺には分からない。だけど言わせてほしい。
「行動には移せなかったのは確かなんだろうけどでも多分行動に移すだけが支えになる訳ではない。鷲尾は自分のことをずっと1人だったと言ってた、気にかけてくれるような同級生はいなかったって。だけど、違ったことがさっき分かったから……自覚していないだけで嬉しくて感謝もしてるんじゃないか、と思う」
「どういう……」
「だって、ずっと鷲尾を気にしてたんだろ?一言しか話していない隣の席のクラスメイトのことを何年も」
少なくとも目の前の和久井は口ぶりからして学校に行かなくなってしばらくしてからだとしてもそれでも年単位の長い時間鷲尾のことをずっと気にしてたんだ。たった1回しか話さず、名前も忘れていた、ただ隣の席だっただけのクラスメイトのことを和久井は覚えていた。
それは友愛じゃなくて自分が何も出来なかった後悔から切り離すことの出来なかった記憶として残っていたことだったとしても。ずっとかつての同級生の鷲尾の存在のことを和久井は忘れずに覚えていた。たとえ何も行動にできなかったとしてもそれでも……。
「さっき自分のことを覚えていた和久井に驚きながらも嬉しそうだったのは多分、そういうことだと思う。……まぁ、俺が勝手にそう感じてるだけ、だけど。和久井からして苦い記憶だったとしても、それでも独りだと言っていた鷲尾にとって1人でも自分のことを覚えていてくれた存在を知ることが出来て……嬉しかったんだと思う」
誰かに存在を認めてもらえる喜びは俺も痛いほど分かる、から。前の一ノ瀬透の記憶がなくても俺は俺だと言ってくれるひとが1人でもいれば、少しずつでも強くなれる。それだけで救われることもある。想ってくれていた事実があれば、それだけで。だから……。
「そこまで自分を責めなくても良い」
和久井の見開いたその目を見てゆっくりそう言った。だって、ずっと無理して苦しそうに笑っているから。以前の叶野のように。気になってしょうがなかった。俺の言葉に和久井は目頭を押さえ、空を見上げる勢いて顔を仰け反らせた。
「あ”〜……やっべ一ノ瀬に惚れそう!」
少し離れて歩いていた鷲尾にも聞こえるぐらいのわざとらしいぐらいの大きな声でそう言われて驚いて肩が跳ねた。
「はぁ!?」
そして何故かそれに素早く反応したのは鷲尾だった。
「うっそぴょーん!ぎゃはは!騙されてやんの!」
「おまえっ」
「……そういえば、どこに向かって歩いているんだ?」
このままでは経験上長くなりそうな雰囲気を察して、疑問を投げかける。流れで歩いていたけれど、今俺たちはどこに向かって歩いているのだろうか。そんな疑問が今更生まれて問いかけた。そういえば、と話に夢中になっていて俺同様に気が付かなった鷲尾が首を傾げたほぼ同時に。
「え?スタジオ。」
と、もう決めていたことを何故今聞くの?と不思議そうに俺を見る和久井に、鷲尾と俺はキョトンと目を丸くしてしまった。
――……スタジオ……?聞き慣れない単語を頭のなかで繰り返した。
――――
「はい!俺の中学のころの同級生の鷲尾とその友だちの一ノ瀬!何となくいっしょに来たよ!」
元気よく俺らのことを紹介してくれる和久井に申し訳ないが来たことの無い場所が珍しくてつい辺りを見回してしまう。これがスタジオ、というところなのか。意外と明るいところなんだな、何だか暗いイメージがあったけれど。
「お、そうなんだー。初めまして、鷲尾くんに一ノ瀬くん。俺は和久井 悠司(わくい ゆうじ)です。友沙の兄で、バンド組んでます。ドラム担当で一応リーダー……になるんかね??まあとにかくよろしく」
穏やかで少し垂れ目の黒髪の男性がそう自己紹介しながら手を差し伸べられる、その手をとって握手する。申し訳ないけれど髪色も雰囲気も真逆だからかあまり似ていないように感じた。でも笑ったときに出来るえくぼの位置が同じ場所にあるな。そうぼんやりと勝手に印象付けていると和久井さん……お兄さんの方の肩越しにひょこっと和久井……弟の方が顔を覗かせ、そのまま顎を肩に置いた。
「和久井だと被っちゃって面倒くさいし名前で呼んでくれよ〜俺のこと友沙でもウサでも良いぞー」
丁度ややこしいなと感じていたところでそう言ってくれて有難い、のだが。
「うさ?」
ウサというのはどこから来たのだろうか?聞き返してみると和久井……のお兄さんはまた突拍子もなくと苦笑する。
「ゆうさって伸ばして言うとウサって聞こえるだろ?最初は小さい頃それに気付いた俺が呼んでだらこいつ気に入ったみたいでさ。」
そうニックネームの由来について説明してくれた。
「そーそーウサって呼んじゃってー」
その肩に変わらず顎を乗せて兄の答えに満足したのか「にひひ」と和久井……ウサは笑っている。
「俺のことは悠司と普通に呼んでくれな」
「はい、えっと……悠司さん、ウサ。改めて俺は一ノ瀬透です、好きに呼んで大丈夫です」
「僕は鷲尾和希。鷲尾と呼んでください、お願いします」
……鷲尾は変なニックネームを付けられる頻度が高いせいか念押しに名字で呼ぶよう訴えた。悠司さんはそんな鷲尾にも朗らかに笑いかける。
「おっけ、じゃあ一ノ瀬くんに鷲尾くんね。弟とも俺とも仲良くしてやってねー。……あと友沙そろそろ顎どけてくれない?お前が話す度に顎が動く振動が伝わってきて気持ち悪いんだよ」
ウサの頭を軽くペシペシと叩きながらどくよう訴える悠司さん。ウサはそんな悠司さんにいたずらを思いついた子どもみたいにニヤッと笑う。
「えーと?こういうのがいやなのー?」
そう言うとわざと何度も振動が伝わるように大きく口を開けたり締めたりを繰り返し行い始めた。
「だー!もうやめい!」
「いでっ」
しつこいウサに先程よりも強めの力を入れて叩いたようでベシンッと少し鈍い音がした。
衝撃に驚いたのか頭を抑えながらその肩からウサの顎がようやく離れた。
「ちょっと、かわいい弟の頭をそう遠慮なく叩いちゃいます?」
「どけてって言っているのにそれを聞かない優しくないかわいい弟へ弟想いの優しいお兄ちゃんがしつけしたダケダヨー」
頬を膨らませて抗議するウサに悠司さんは爽やかに笑って言い返した。ウサはそんな悠司さんに「DVだ!」と口を尖らせ、悠司さんは「はははー」と感情無く笑う。
「あ、あそこでベースをいじってる黒マスクの白髪のヤツは野村 等壱(のむら ひといち)な」
悠司さんが指した方向を見るとこちらに混ざること無く淡々とギターを膝に乗せリズミカルに弦を弾いている男性が確かにいた。……目の前の和久井兄弟の存在が濃すぎて他に人がいると思わなくて少しビックリした。
「おーい、等壱も一言挨拶しろー!」
「……よろー」
悠司さんに声をかけられて、仕方なく本当に渋々といった様子でゆっくり視線を向け軽く会釈して一言こちらにそう声をかけると直様手元のギターへと視線を戻してしまった。
「相変わらず無愛想で人付き合い悪いなぁ。もーノームってばっ!」
「マイペースなヤツなんだよ。悪いな」
呆れるウサと申し訳無さそうな悠司さん。それは構わない、連れられたとはいえ勝手に急に来ているのは俺らだし歓迎されないのも無理はないかなと思う。ただ、そのウサの呼び名はなんだろうか……。
「ノーム??」
鷲尾も俺と同じように疑問に感じて聞き返した。
「野村だからノーム!」
「友沙が等壱に初対面で勝手につけて何故かライブでも等壱がそう名乗ったんだよなぁ。ちょっとマイペースな奴だけど悪いやつじゃねえからよろしくしてやってくれな」
「はぁ……」
……ウサに対してさっき初めて会ったのに何故か親近感湧いたのって、吉田にどこか似ている、からだな。顔とか背とかは全く似ていないけれど、明るくて活発な雰囲気とかにぎやかなところとか……ニックネームをとりあえず付けるところとか。
鷲尾もそれを察してか少し顔が引きつっている、少し特徴的なニックネームを付けられることが多いせいだろうか。最近では叶野の呼ぶ『わっしー』に反応しなくなってきたので慣れてきたのかもしれない。吉田の『かっちゃん』にはまだ抵抗しているけれどそれももしかしたら時間の問題かも?
「そういえば2人ともなんかニックネームあったりする?」
「いや、特に……」
あまり呼ばれたくないニックネームなのだろう、珍しく目を泳がせながら下手に嘘を付こうとする鷲尾を見て……弄りたくなってしまった。
「……俺はイッチて呼ばれることある。あと鷲尾もわっしーって1人呼ぶやつがいる」
「なっ!?一ノ瀬!」
せっかくごまかそうとしたのに、とそう鷲尾の顔に書いてあるようだった。俺のことを凝視する鷲尾を視認しつつも目線をそっと外してなんでも無い顔をした。
「ほうほう!なんだあるんじゃん!今俺つけようとしちゃったじゃん!いいねいいね!イッチとわっしー!俺もそう呼ぼーっと!」
……やっぱり、か。鷲尾がニックネームは無いと言おうとしたとき、ウサの目が輝いていた気がしたからもしかしたらと思ったらやっぱり新たなニックネームを付けようとしたらしい。
どうせニックネームで呼ばれるのならせめて最近受け入れつつある『わっしー』のほうが良いんじゃないかと思ってのことだった。……まぁ、鷲尾を弄りたいと思ったところも結構ある、それは否定できない。
鷲尾が睨んでいるのを感じながらも、本気で怒っている訳ではないのを知っているのでそちらを振り返らずじっとする。
「まーとにかくここで好きにしてていいよ。俺らも自由にしてるし。そういえば2人ともなんか音楽やってたりするの?」
「……いえ、たまに友人に聞かされるぐらいで」
「僕もだ。……だけど、どう音を奏でているんだ?」
伊藤がここにいたらもしかしたら楽しかったかもしれないな、音楽を一緒に聴くことはあっても演奏することにそこまで興味が持てない俺とは逆に鷲尾はたまにしか音楽を聴かないのは同じだったが身を乗り出してドラムをまじまじと見つめる。
「おお、わっしー興味津々じゃんっ!」
「それなら習うより慣れろ!よし、いっちょ体験させてあげよう!」
楽器に興味を持つ鷲尾に和久井兄弟のテンションが上がっている、すごく楽しそうだな。
「え、あ、いや、そこまででは……」
「いいからいいから!はい、とりあえずドラムからどうぞっ!」
まさか演奏までさせてくれると思っていなかった鷲尾が遠慮しようとするけれど、ぐいぐい押されついには悠司さんによって強引にドラムの椅子に座らせられ、スティックまで持たされてしまった。
俺に視線を向けてどうにかしてくれ、と訴えられたけれどこれはどうすることも出来ないな。すぐに2人を止めるのを諦めて頑張れの意で鷲尾に視線を送った。悠司さんはすでにスイッチ入ったかのように熱心にドラムのことを教え始めてしまい、鷲尾も素直にそれを聞いている。
「イッチもやる?」
「……俺は、いいかな」
ウサがせっかく誘ってくれたけれど、断った。興味も持てない俺がやっても教える方もつまらないだろうし……これは勘だが俺には音楽の才能は皆無だと感じている。
演奏が下手なだけなら良いが、楽器に何か支障を来す可能性も否定出来なかった。基本的に俺は勉強や運動がそこそこ出来てもそれ以外のことが得意ではないし苦手だ。実際前の学校の音楽などの技術系は知識はともかく実技はボロボロで総合評価は他と比べると低い。リコーダーすら使い物にならなくなったこともある、そうなるとギターやドラムがどうなるのか……俺にも分からないのでやめておくことにする。
「そう?まー気が変わったらいつでも言ってくれな!」
「わかった、ありがとう」
食い下がることもなくさっぱりとしているウサに安堵する。せっかく誘ってくれたのにな、と後ろめたかったのでウサのように引っ張ることもなくかと言って何度も誘うでもなくあっさりと流してくれるのはありがたかった。ウサも悠司さんと同様に鷲尾のもとへと行った。
鷲尾も最初こそ俺に助けを求めるような目で訴えてきたけれど、すぐに悠司さんたちから次から次へと教えられてそれについていこうと頑張っていていつの間にかドラムに集中していった。しばらく鷲尾が教わっている様子を見ていたけれどやっぱり俺にはああやって器用に手を動かすことは出来ないなと判断する。教わる気もないのにこのまま突っ立って鷲尾たちのほうを見ているのは迷惑かな。どうするか思案しているとガサ、と音が聞こえて視線を向ける。俺が手に持っていた袋のことを今思い出した。
ここまで来ておいて読書を始めてしまうのはさすがに失礼だよな。いくら手持ち無沙汰とはいえ読書を始めるのも失礼に当たる気がして一瞬でその考えは消えた。とりあえず、座っていようか。
立っているだけ、となると悠司さんたちも俺に気を使ってしまいそうだし、せっかく鷲尾が勉強以外に意欲的になっているからそのやる気を削がれさせるようなことはしたくない。座れそうなところは、と視線を彷徨わせる。
「ここ座れば?」
さっき悠司さんたちに言われて一言渋々声をかけてすぐにベースを弄っている悠司さん曰くマイペースである野村さんに自分の隣の空いていたスペースを指をさしながらそう促される。
ベース練習の邪魔になるだろうかと思って選択肢から除外していたが、本人から誘われたからには特に断る理由は無かった。そこ以外座れそうなところがなかったのでむしろ助かった。
「ありがとうございます」
「別に。ああ、本とか読んでても良いよ。あいつらも俺も気にしないし」
少し間を空けて座るとまたベースに視線を戻してしまったけれど、そう言ってくれた。俺が手持ち無沙汰で何をしようか迷っていたのを見ていたようだ。
黒マスクで顔が隠されているのでどんな表情を浮かべているのか分からないし、声も抑揚無いため淡々と聞こえるけれど、たしかに悪い人ではない、というか良い人だと思う。
「そうですか?なら、遠慮なく」
その厚意に甘えて濃い青い袋から本を取り出した。何も考えず出てきたほうを読もうと思ったので見ないで適当に取り出した。小説版『君に伝えたい』ではなくもう一冊のほうが出てきた。『きみとぼくのものがたり』という本だ。
捨てられた犬と傷ついた青年の話で少し前伊藤と見た番組でおすすめの本で紹介されていたというのも思い出してつい買ってしまった。そういえばこの話も確か来年だっただろうか、映画化されるらしい。本を読んで気に入ったら見に行ってみるかな。そう考えながらペラっと頁を捲る。
「……それ、ここで読む?」
「……だめですか?」
早速まえがきから読もうとすると隣から声をかけられた。勿論、野村さんから。じーっと俺の方を見てそう聞かれた。
口元が黒いマスクで隠れて分からないためどうしてもその少し白目の割合が多いその瞳に視線が向く。……野村さんを見ていると何となく、伊藤を思い出した。伊藤のほうが黒目が小さくて吊り目だけど、一重で男らしい目とか雰囲気とか良く似ている。
「泣くよ?」
「……はい?」
――想定外の返事につい聞き返してしまう。
「だから、それ読むと泣くよ?」
……聞き間違いではなかったようだ。無表情(に見える)で淡々としているのに反したこと言われて脳が少しバグりそう。
「……野村さんは、泣いたんですか?」
「号泣よ」
しつこいかもしれないが、改めて確認するように問うと同じことを言わせる俺に苛立つこともなくポツリと先ほどと似たような返答がきた、今度は疑問符ではなく断言された。そこまで念押しされてしまうとここでは読む気がなくなってしまった。
「……じゃあ、これは?」
それならば、ともう買った一冊のほうを取り出し野村さんに見せる。最近流行っているかつ映画化される『君に伝えたい』の表紙がよく見えるようにしてみる。
「ああ、これね。泣くよ。漫画の方もうるっと来たけどね、小説版は漫画では描ききれなかった心理描写が文字でこちらの気持ちを揺さぶってくるもんだからヤバいよ。俺的には小説の方が泣ける。だけど漫画は漫画で絵も綺麗だし分かりやすいよ」
「なるほど……」
漫画版も小説版もすでに網羅しているようだ。何となく、楽器を扱うことに長けている人ってずっとそれを弄っているような印象だったが、イメージが覆された。良い意味で。
ギターを弄りながらではあるが俺が話しかけても嫌そうな雰囲気は特にない。……勇気を持って初対面の人と話せるチャンスだ。
「本、詳しいんですか?」
「まあまあかな?悠司には呆れられウサには怒られるぐらいに買い込んで読み耽って飽きたら売るを繰り返してる」
「……結構詳しいですね」
呆れられて怒られるぐらいってどれぐらいの期間行っているんだろうか。とにかく本は好き、という認識で良いようだ。
「野村さんのおすすめの本とかありますか?今日から読書を始めようと思ってて」
「良い趣味。いっぱいあるよ、でも俺割とすぐ売っちゃうから貸せないや」
「あ、自分で買うので大丈夫ですよ」
「そう」
ベースから目を離して漸く俺の方を見た。興味のあるかないが分かりやすくていいと思う。空気読むのは苦手なので伊藤たちのように分かりやすいと俺としてはありがたい。……逆に俺は分かりにくいだろうから少し、いや結構申し訳ない。嫌な顔せず一緒にいてくれるみんなに感謝を忘れないよう気をつけたい。俺を視界に映したその瞬間ピシッと何故か固まった。
「……顔面格差が生まれる」
そして、よく分からないことを言われて聞き返したがはぐらかされ、おすすめの本を教えられその内夢中になっていった。
「ピアスそんなにあけてて痛くないんですか?」
話題はおすすめの本から野村さんのあいているピアスへ。ひと段落着いた頃だったので違和感のない話題変更のはず。耳にも結構なピアスが開いているが眉のところや目と目の間のところにも細長いピアスが通っているのが痛々しくも思うし不思議な感じもする。つい自分の目の間のところを触ってしまう。野村さんは急な話題変更に気分を害した様子もなくのんびりと答えてくれる。
「今はそうでも。穴が安定するまではドクドクしたり膿んだりするけど。今日みたいな暑いときはちちゃんと消毒しないとやっぱり膿むよ」
「へぇ……大変そうですね」
「周りにあけてる子、いないの?」
「……そういえばいないです」
考えてみるとよく一緒にいるメンバーのなかでピアスがあいているやつが誰もいないことに気付いた。鷲尾や湖越があいていないのは何となく分かるが、イメージ的にあいていてもおかしくないだろう伊藤や叶野もあいていない。二人とも興味はあるようだが踏み切っていないらしい。梶井は……どうだっただろうか、耳元が髪で隠れていて分からなかった気がする。今度会ったときこっそり確認してみよう。
「ふーん、きみはあけたい?」
「……怖いっすね」
ちら、と目の前の耳を貫通している金属たちを見やって答える。本人は平然としているけれど見ているほうはかなり痛々しいし、ピアスを開けるということはやはり自ら身体に穴をあけるということだ。思わず耳を抑えて答えた。
「まぁあけたいと思ったときにあけるのが1番だしね。ちなみにほら、俺ここにもあいてんのよ」
指をかけて顔を隠す黒マスクをぐいっとずらして口元が顕になる。
「……うおぅ……」
思わず変な声を上げてしまう、いや失礼だと思うけれども、驚いてしまって。
「変な声、すごいっしょ」
少し得意げに薄っすら口角を上げている野村の唇や顎に見る限り10本、鼻にも1本あいている。伊藤の好きなアーティストのジャケットの写真にそのぐらいピアスがあいている人を見たことあったが実際会ったのは初めてでつい驚いてしまった。
「すごい、ですね」
そうとしか言えない、悠司さんもウサも耳にも顔にもあいているけれど想像の範囲内というか、意識を向けるほどではなかったのだが、ここまで来ると最早すごいとしか言えない。素直な俺の反応に気分が良くなったのか先程よりも機嫌が良さそうに見える。
「今度舌にもあけようとおもってんの」
「へぇ……、」
まだあけるのか、それが1番最初に出てきた感想だったが、本人がそうしたいと言うのなら俺からは何も言うまい。……少し、どんな感じになるのか気になるけど。
「あけたら写真撮って見せてあげる、ということでメアド教えて。赤外線通信しよ」
「え、あ、はい」
急に携帯電話を差し出されて俺も少し慌てて携帯電話を取り出す。まさか初対面の人とこうしてアドレスを交換することになるとは想像打にしていなかった。言われるがままに赤外線で送り合う。野村さんのほうを見てみると黒マスクを外しているところで、それを見てふと気が付いた。
「……あの、もしかしてマスクつけてたのって……」
「初対面で俺の顔見るとビビられるからね。まあ目付きも悪いからピアスを隠していようと疎遠されやすいんだけど。きみに見せちゃったしもういいかなって。マスク鬱陶しかったし。向こうの彼も驚かんでしょ。ああいう感じのタイプの子ってピアスで動じないし」
「……そうですね」
淡々として何も気にしていない口調で自分のことを客観的によくわかっている口ぶりで話し、しっかり鷲尾のことも見ていたようでどういう感じのタイプなのか言い当てていて、なんだか凄いな、と感心した。『大人』だな、とふわりとしたことを思った。そう思った具体的な理由は上手く説明はできないが、何となく。その後アドレス交換していた俺らに気付いたウサが「え、俺も教えてよ!」と入ってきて「じゃあそのまま俺とも交換しよー、わっしーもしようなー」と悠司さんも入ってきて鷲尾も俺もウサ悠司さん野本さんの三人全員とアドレス交換した。
そちらも鷲尾に楽器を教えるのが一段落したようだった、交換している最中携帯電話の画面内右上に表示されている時間を確認する。ここに入ったのは14時ぐらいだったが今17時になるころで時間の流れがかなり早くて驚いてしまう。
