3.先を生きる人。


「ごめん」

 シンプルにそんな言葉しか出てこなかった。あまりに陳腐で言い慣れている言葉でもどかしいけれどそれしか出て来ない。

「いや、透は悪くねえよ。俺が勝手に不貞腐れてただけで、ちゃんと説明するつもりだったんだろ?」
「そうだけど……」
「じゃあ良いよ」

 謝る俺に簡単に良いと言ってくれる伊藤が……酷く申し訳ない気持ちになる。伊藤の表情は既にいつもどおりで怒っていないとそう言っている。梶井に言われたことを思い出して落ち込む。これでは依存と何が違うんだろうか。


「九十九さんは俺の保護者みたいなもので……」
「その役割は桐渓がやってるんじゃねえのか?」

 気落ちしながらも伊藤が良いと言ってくれるのならこれ以上俺には何も言えない、九十九さんのことを説明しようと口を開いたが、早速突っ込まれてしまった。もっと順序よく話さないとな。
「表向きは、な。でも、あの人が俺に対する扱いは九十九さんも知っていたから心配いているんだと思う」
「そいつも桐渓のこと知ってんなら最初からその九十九ってやつが保護者代わりになればいいんじゃねえの?」
 伊藤の指摘は間違っていない。前の家にいたときも俺に対する桐渓の扱いはぞんざいだったし、九十九さんや他の人がいる前でもさすがにぶたれたりとかはしなくても、嫌味を言われたりあからさまにぶつかったふりをされたこともあった。
 あの家にいたときやここに来た当時には未だ九十九さんとちゃんと話が出来ていなくて、最近ようやく腹を割って話をすることが出来たぐらいだが、それでもまだ九十九さんのほうが良いと俺だって思ったぐらいなのだから、伊藤の指摘は正しいものだ。だけど……。
「九十九さんは祖父の秘書だったから、亡くなって色々忙しかったんだと思う。……ちゃんと連絡取れたのも、ここ最近だったし」
「それにしたってよ……」
「桐渓さんを俺の保護者として任命してここに引っ越すように書かれていたんだ。……事故の後、俺を引き取ってくれた亡くなった祖父の遺言、にな」
 納得の行かない伊藤の声を遮るようにして続けた。正直あまり話したくなかったこと、だった。気まずくなるのが分かってたから。
 俺のことを憎くて仕方がなかった祖父に可愛がられることはなくともここまでお金を出して育ててくれた恩義がある。……何も返すことも出来ずに知らないうちに亡くなっていた。入院していることもそのまま亡くなったことも、葬式にすら参列させてくれず見送ることすら拒絶された俺に出来ることが祖父の遺言を聞く。それだけだった。亡くなった方の遺言は聞かなければと思う。それが、自分が納得の出来ないことだったとしても。
 俺の言葉に気まずそうに「そう、か」と伊藤から返ってきた、やっぱりあまり話したいと思える話題ではなかった、だけどこれだけは知っていてほしい。

「……でも、悪いことばかりじゃないんだ」
「え?」
 驚きに目を見開いた伊藤の瞳を見て言葉を重ねる。
「最初は慣れない場所に来て桐渓さん以外誰も知らない誰もいないところに来て不安だった。だけど、ここに来て伊藤に会えて、叶野たちに会えた、いい友達優しい先生いいバイト先に巡り会えた。桐渓さんじゃなくて九十九さんが保護者だったら良かったのに、と俺も思ったことはあったけれど……」
「あったのか」
「あった。でも、どちらにしても一緒に住むわけではないし最初こそ九十九さんだったらとやっぱり何度も思ったけれど」
「何度も?」
「何度も」
 ついつい本音が出てしまいその都度伊藤にオウム返しされるが、ここには九十九さんも桐渓さんもいなくて目の前の伊藤しかいないので構わないだろう。

「だけど、今は伊藤が一緒にいてくれるから俺はもう大丈夫なんだ」

 確かに伊藤のおかげで俺は食事も困ることはなく家事の仕方も教えてくれた安心感もあるけれど……それだけではなく、伊藤と会う前まで俺が見えていた世界はどこか霞んでいて暗く沈んでいるようにしか見えなかった。だけど、今見えている世界は優しいもので、厳しかったり激しいこともあったりするけれど確かに俺は色鮮やかに全てが見えているように感じてる。
 それは、きっと九十九さんが保護者の代わりになっていたとしても簡単に知ることが出来なかったんじゃないかな。過去の俺も今の俺も認めて笑ってくれて、そして俺にも笑っていてほしいとそう言ってくれる伊藤がいるから……だから、俺はもう大丈夫。
 それにもう九十九さんからも桐渓さんからも逃げないって、決めたから。

「話を戻すけれど俺と九十九さんが話した内容、いやその前にバイトを休んだ理由なんだが……ん?どうした?」
「……いや……」

 話が随分と脱線してしまった。昨日のことを話そうと口を開こうとしたけれど、伊藤がぼんやりと俺のほうを見て反応が鈍いことに首を傾げる。
 顔も赤く見えるから具合でも悪いのだろうか、それなら出来ることなら顔を見て話したいことだったが仕方がない。伊藤は何時からなのか分からないけれど、明日もあるし今日はもう解散して帰ってからメールで詳しく書いて送ろうと提案したが断固『そういうわけじゃない、今聞きたい』と赤ら顔の伊藤に譲ってもらえず、折衷案として具合が悪いのなら無理そうならすぐに言って欲しいとお願いして快諾してもらえた。伊藤の体調に不安を感じながらも、話すことを望むのならとようやっと本題に入ることが出来た。
 まず話したことは一昨日バイトを休んだ理由だった、梶井に伊藤を依存先にしていて自分のことばかりだと指摘されて言い返せなかった、梶井の指摘は全て事実だったからだ。今まで桐渓さんからのぞんざいな扱いから逃げたかったのにそれから抵抗せず甘受していたのは両親への罪の意識と……俺自身がその暴力と暴言を受け入れることを免罪符にして思考を放棄していた、今俺を甘やかしてくれる伊藤という存在が生きてほしいと言ってくれたのが嬉しかったから依存先を変えただけだと、そう言われた。
 愚かな俺が気付こうともしなかったことを梶井は遠慮なく突きつけてきた。否定できなかった俺を、あのとき梶井はどう思っていただろうか。……俺は伊藤のことを大事だと思ってる、決して依存ではないと言いたかった。
 だけどそれを証明する術を俺には何もなかった、すぐに否と唱えることが出来なかった地点で俺もそう無意識に思っていたのかもしれない。
 それを否定するためには俺に出来ることを伊藤の力を借りず俺だけで考えるべきだと感じたしあの精神状態でバイトをしても迷惑にしかならないと判断して細かいことを何も言えず休んでしまったこと。考えた結果、すぐにでもその証明が出来ないけれど自分が今向き合わなければいけないことを少しずつやっていくべき、という結論に至った。
「それがその九十九ってやつと話すことだったのか?」
 伊藤に力強く言葉に頷く。
「元々昨日久しぶりに会って話そうと約束していたし……九十九さんならちゃんと俺が話したいこと、聞いてくれると思ったから」
 そしてそう付け足した。梶井の指摘が無ければ未だ……いや、もしかしたら一生九十九さんと昨日のように腹割って話せなかったかもしれない。それに、九十九さんのことを俺は一昨日の地点であまり雑談という雑談をしたことがなかったけれど、それでも自分の話をちゃんと聞いてくれると思った。少なくとも俺から見て桐渓さんに両親のことを聞くよりも九十九さんとしっかり話をするほうがまだ難しくないほうだ、と感じていた。
「で、どうだったんだ?」
「……九十九さんは俺のことが見えていなかったし俺も九十九さんのこと、見えてなかった」
 九十九さんから見た俺は無表情で傷ついていないように見えてた。俺から見て九十九さんは分け隔てなく接してくれるけれど何を考えているかよく分からない大人だった。
 誰かに助けを求める前にすぐ諦めて何も言わずにずっと耐えていた、今から考えてみてもきっと俺は同じように助けを請わなかったと思う。だけど一言でも誰かに……九十九さんじゃなくても前の学校、神丘学園の先生なり同級生なり零してみたらもしかしたらもっと早く誰かを信頼出来るようになったんじゃないか、と自分自身に反省することが見つかった。
 ここに来て伊藤と出会って漸く自分以外のことを考えられるようになったから、当時の自分では考えもつかなかっただろう、そう思えるようになったことを進歩と前向きに捉えてる。話すことの大事さを知った。
「もっと、ちゃんと話そうって思えた」
 思っているだけでは伝わらない、伝えないほうが良いこともあるんだろうけど俺はあまりに言葉が足りないから。俺には多いぐらいがきっと丁度いいんだ。
「……どれだけ話せばいいのかどこまで言って良いことの範囲なのか、難しいな」
 自分の意思をちゃんと伝えるべきだと思っても、考え無しに伝えて誰かを傷つけることなってしまえばそれは本末転倒だ。
 自分の意思を言わずにいるのも他人と分かり合えず距離が広がる一方となってしまうが、伝え過ぎたその言葉が相手を傷つけるナイフとなるのも俺は身を以て知ってる。
 目に見える傷ではないから、他人から見ても傷つけた本人ですらも分からない可能性があって、一生消えることのない傷になることもある。言葉って難しい、率直にそう思う。

 知らず俯いてしまう俺に伊藤はぽん、と後頭部にその手を置いて軽く撫でられた。

「そう思っていることを忘れていないんならきっと大丈夫だろ」
「……そう、だろうか」

 正直、先程梶井と話した俺の言葉が相手にどう伝わっているのか不安だし、さっきだって伊藤に何も言わなかったことで機嫌を損ねてしまった。その不安が伝わったのか伊藤は少し気まずそうに目を逸らす。

「さっきのことは透の話を聞かないで早合点した俺が悪いんだから気にすんな。俺は分からないことは分からないって言うし、出来ることなら透のことを理解したいから聞きたいことを聞くけれど、傷つけそうだったら言いたいことも言いたくないとも思うんだ」
「……複雑、だな」
「人間ってそんなもんじゃねえか?俺は透を大事にしたいし分かり合いたいと思うけど、全員が全員分かり合える訳なんかねえし。分かり合えてたら争いなんか起こらねえし」

 伊藤はこちらを気遣い傷つけるようなことを言わないけれど、変に取り繕ったりはしない。思ったことは伝えてくる方だと思う。
 落ち込む俺を宥めるように力強くも優しく頭を撫でながらも事実を伝えてくる。内心、伊藤の言っていることを肯定する。
 分かり合えるのなら、俺は桐渓さんとも小室とも一緒に入れたんだろう。でも桐渓さんも小室も分かり合えることはないと断言出来る。小室が悪意で叶野を傷つけようとしたことは許すことは出来ないし、桐渓さんも……彼へ感じる罪悪感とか罰とかを別として考えてみるとやっぱり許すことは出来ない、と思う。
 病室で目を覚ました何も分からない俺を怒鳴り詰り、わざわざ家にやってきては嫌味に近いことを言われて誰も見ていないところで蹴られたり髪を引っ張られたりされたことを思い出すと強い嫌悪感に見舞われる。そう感じることが絶対に正しいとは言えないけれど、そう思ってしまうものは仕方がない。
 何人か分かり合えない人間がいるのは仕方がないとしても、それでも今まで話すこと無くどう思っていたのか分からなかった九十九さんと分かり合えたように、梶井と分かり合える日が来る……だろうか?表情が分かりやすいと思っていた吉田の突然変貌を見て少し自信がなくなる。……やっぱり、無理なんだろうか。弱気になる俺に伊藤は気付いたのか気付いていないのか。
「まぁ内心本音を言えば分かり合えないかもしれないと思う相手とそれでも分かり合いたいと思うのもきっと当たり前の感情なんだろうけどな。さ」
 そうあっさりといとも容易く、俺が考えつかなかったことを言ってくれるのだ。
「当たり前?」
「人間だしなぁ、親しくなりたいと思える相手には知りたいし知ってほしいと思うんじゃね?」
「親しく……」
「俺らだって見た目は真逆で価値観も違うけどこうして一緒にいて互いに楽しいと思えるのは分かり合えた結果だろ?叶野と鷲尾だって好みも性格も違うけど、色々あったけど今は上手くやってるし」
 伊藤の言うことに確かに、と納得する。表情豊かで優しい伊藤と暗く何を考えているかわからないと言われることが多かった俺、賑やかで空気の読める叶野と真面目で厳しい印象の鷲尾、確かに冷静に客観的に見ると真逆だが仲が良いと思う。
「お互いのことを知ろうとする上でぶつかることもあるし、そのせい喧嘩だってしちまうけれどそれも一つの距離の縮め方だろ」
 伊藤とはあまり喧嘩しないけれどそれでも少しずつ約束や譲り合いはあったし、叶野たちは夏休み前にひと悶着があったところだ、まだそのことは記憶に新しい。意見と意見のぶつかりあいが距離を縮める方法でもあるのだとそう見たばかりだったんだと気付いた。
「それでも全部を分かり合うのは無理なんだろうがな、一緒にいれば知らないところもドンドン出てくるわけだし、そんときにまた喧嘩しちまうだろうな。でも、それでも良いとも思う。無理して分かりあえなくても、お互いを大事にすることは多分出来るだろ。透が……相手を大事にしたいという気持ちがあるのならきっと大丈夫」
 大丈夫、そう言う伊藤の声が優しく身にしみる。そうか、完全に分かり合えないのは決して悪いことではないんだ。1番分かり合えている、1番仲が良いと感じている伊藤でさえまだ俺が知らないことがあってきっと伊藤もそうなんだ。
 全て分かち合うことできなくても、相手が大事だとそう思えるならばきっと……俺なりに彼への距離の答えが見つけることが出来る、かも。

「……なんて偉そうに無責任に言ってみたけど、これが完全な答えだと押し付ける気はねえからな?改めて考えると難しいな……ぐちゃぐちゃになる、大丈夫か?この答えで」
 さっきまで淀みなく堂々と言っていたのに少し弱気になって自信無さげにうろうろと視線をさまよわせる伊藤に少し笑ってしまった。
「いや……ありがとう、俺なりに何となく答えが見つけられた気がする」
「そうか?それならいいんだけど」
 やっぱり、伊藤に頼っている自分に気付いて自己嫌悪を思えるけれど、でもきっとこの相談は大事なことだった。俺1人では梶井どころか吉田にも分かり合うべきだと言う俺の意見によって傷つけてしまったかもしれなかった。……こうして違う価値観を持った人物と対話することでないものを補っていくのが『人間』というなのかもしれない。何となく、自分なりにだけど何故人が人といるのかの答えが見つけられたような気がした。

 自分のなかでもやもやしたものが解決したところでハッ携帯電話を見る。

「……もう10時近い」
 すっかり話し込んでしまったようだ。時間を自覚すると立ちっぱなしだった足が痛くなった。この甚平だってゴンさんのところに行って返さないといけないのに。
「やっべ、ちょっと待ってくれ」
 伊藤は結構長い時間外にいて夜なのに暑い空気のせいで汗かいてすっかりぬるくなったであろう缶コーヒーをぐいっと一気に飲み干し、ゴミ箱に入れ少し早足でコンビニから離れた、俺もそのとなりに並んで歩く。

「明日は何時に出るんだ?」
「あー……7時にはゴンさんちを出ねえといけねえな」
「早くないか?」
「県外で車移動だからなぁ、あー息詰まる……」
「いつでもメールしてほしい、俺もする」
「朝早くからメールするわ。……あ”ー本当に嫌だ」

(俺も、いやだ)

 ほんの数日だけど伊藤がいないのが、いやだ。心底嫌そうにする声に内心同意しながらもそれでも明日早起きの伊藤を少し急かして、ゴンさんの家へと向かった。

――――

 暑苦しくて目を覚ます。外を見ればすでに明るかったけれど時間を見ればまだ8時で、この暑さであるということに軽く絶望する。
 扇風機をかけて眠っているものの、冷房がなく窓もそこまで大きくない狭いアパートの2階では家庭用扇風機ではこの真夏ではやはり限界がある。汗でTシャツが肌にはりついて不愉快だったのでシャワーを浴びてそのまま顔を洗って着替えてしまおうと布団から這い出た。
「……」
 癖で携帯電話を開くと新着メールが1件入っててすぐについ開いた。伊藤から、だったから。メールが届いたのはつい30分前だった。
『おはよう、まだ寝てるとは思うけど暇だったからついメールしちまったわ。今日も暑いな。熱中症には気をつけろよ』
 いつも通りの伊藤からのメールだった。何となく安堵してしまうのはきっと伊藤が無意識に心配だったからだろう、まぁ伊藤からすればすでに乗り越えている問題だろうから無意味な心配かもしれないけれど……そう思いながら返信する。
『おはよう、暑くて今さっき起きた、今から汗流しに風呂行くところだ。伊藤も気を付けて』
 仲の良くない家族とともに移動している伊藤が心配にもなったけれど、現状報告と熱中症を案じるだけに留めた。もう大丈夫なんだと言われているのにさすがにくどい気がしたから。送信ボタンを押して着替えを引っ張り出して今度こそ風呂場へ向かった。

 ……今日からしばらく伊藤に会えない日が続く、のか。そう考えるだけで憂鬱な気持ちになり、冷たい水を頭からぶっかけた。午後からバイトだったけれど、このままバイトに行く時間になるまで家にいたら暑さで死んでしまうかもしれないので朝飯を買いに行くついでに少しぶらっとしたり店にいたりして時間を潰してから店に行こう。
 冷たい水を浴びたことで少し冷静になってこのあとどうするかの算段をつける。よく今日までこの家で何とかなっていたな、と自分に感心する。
 どうせこの暑さでは髪もすぐかわくだろうと服に滴ることがないぐらいに拭って水に濡れたまま、携帯電話と財布だけ持って外に出た。……外気に触れるだけ室内よりはましかもしれないけれど、まだ午前中だというのに酷い熱気が肌を触れて嫌になる。げんなりした気持ちになりながら部屋の扉を施錠した。



「すずめちゃんいないのさみしいわねぇ〜」
「……そう、ですね」

 今日はお客さんも少なく繁忙時間にも関わらず空席が目立つ。ゴンさんもこうして俺に話しかけてくるぐらい暇らしい。やはりというか、話題は今この場にいない伊藤のことになった。

 ……あのあと、近くにあった自販機でスポーツドリンクを買っていつでも水分補給出来るようにして、まだそこまで腹も減ってなかったからブラブラと公園に行ったり駅前までの道をわざと遠回りしてみていつもなら15分ぐらいで着く道をその倍の時間をかけてみたりして、それからコンビニで適当にパンを買って外で食べた。
 夏休みということもあってかまだ9時を過ぎたぐらいにも関わらず、行き交う人は結構多い。平日の朝よりは少ないけれど。見る限り俺と同じように学生が多いように感じた。
 この間俺らが海に行ったように着いたらすぐに泳げるように既に水着をきている俺と同い年ぐらいの数人が笑い合っているグループや夏故に肌の露出の多い中学生ぐらいの女の子が足早に駅へと歩いているのをぼんやりと眺める、すでにパンは食べ終わった。
 これからどうするか。そう思いながら携帯電話を確認するのを辞められない。伊藤とのメールはずっと続いてる。あっちも退屈なのかメールを返せばすぐ返ってくるが繰り返しになってる。今明確に何かしたいと思うのが伊藤とのメールだけ、だ。
(……今だって、昨日伊藤とここで話していたときはもっと時間が早く感じたのにな、と思ってしまう)
 正確に言うと今だけじゃなくて、ずっと続いてる。バイトに行けば伊藤に会える当たり前の日と違って今日から数日とはいえ会えないんだ。そう思うと何だか、胸に穴が開いたような空虚感に襲われる。
『いつ帰ってくる?』
 謎の空虚感に襲われて思ったことをすぐに聞いてしまう、女々しいと自己嫌悪に陥る間もなくすぐに返信が着た。
『出来る限り早く帰ってくるつもりだけど、たぶん15の昼ぐらいになるな』
 今日を除いて4日後帰ってくるということになる。単純計算をして、ずんと気が落ちて行くのを感じる。あと4日間、かぁ……そんなに会えないのか。いやだな。
 そうは思っても簡単には帰れるような距離でもないし我儘を言って困らせたいというわけじゃないから、何も言えなくて当たり障りのない返事しか出来なかった。謎の空虚感は酷くなる一方で、この感覚は何なのかもやもやしながらバイトしている最中ゴンさんにたった今『寂しいね』と言われてようやくこの空虚感が『寂しい』という感情なのだと納得した。
 確かに昨日伊藤自ら今日からしばらくいないことが嫌だなと率直に思ったけれど、寂しいっていうのがどういうものなのか知らなかった、こんなに虚しくなるものなんだって初めて知った。
 左心房がズキズキと痛んで無意識に左手で擦ってしまったのをゴンさんはどんな表情で見ていたのか俺には分からない。

「……そういえばぁ、透ちゃんの家ってエアコン無いんだっけ?」
「あ、はい。扇風機はありますけど」
 突然そんなことを聞かれてなんだろうかと内心首を傾げながらも肯定する。
「扇風機だけって正直きつくなぁい?」
「……キツいです」
 今日だって朝暑くて起きたぐらいだったし汗が不愉快でシャワー浴びてきたのだ。扇風機では無理がある、正直生ぬるい風に鬱陶しささえ感じる。
 ゴンさんの店も忙しい時は暑くて仕方ないけれど、冷房は効いているし休憩時間とかお客さんがいないときとかはかなり快適だ。……仕事を終えてまかない食べたらまたあの閉め切って暑いあの家に帰らないといけないことを考えると気が重いな。今から家に帰るのが憂鬱になっていく俺にゴンは何か思い付いた顔をする。
「あらぁ!それならすずめちゃんの部屋借りたらどうかしらん?」
「……はい?」
 耳を疑うような提案をされて困惑する俺に天晴と言わんばかりの笑顔をゴンさんは向けていた。

――――

「ふむ、だから今一ノ瀬はゴンさんのところにいるんだな」
「ああ。今日伊藤の部屋から出てきたんだ、なんか変な感じがする」
 昨日のことを鷲尾に話しながらコーラを一口飲んでから出来る限り大きく口を開けてハンバーガーを頬張る、気を付けて食べたけれど後ろから挟んである具材が出てきてしまいどうしても苦戦を強いられてしまう。こういうのの上手い食べ方ってないものだろうか。
「結構大きいな、それ」
「ハンバーグ2枚とベーコンとレタスとトマトが入ってるからな」
「……よく食べるな」
 俺からすると鷲尾の白身魚のフライバーガーは物足りない気がするけれど、まぁどれくらいで満足するかとかどんなものを食べたくなるのか人それぞれだろうと心の中だけでそう呟いてハンバーガーの向きを変えてはみ出たほうを齧りついた。

 今鷲尾と2人で家や学校の最寄り駅よりもう少し栄えている離れた街へ遊びに来ている。みんなで海に行った帰り道、電車で移動中鷲尾から俺と2人で遊びに行きたいと誘ってくれたことがあった。
 具体的な日程とか場所とか全く決めていなかったが、昨日の夜鷲尾からいきなりですまないが12日の明日はどうだろうかとメールが来てそれを快諾した。
 昨日の話を鷲尾にしている。『とおるちゃんならすずめちゃんの部屋を自由に使っていいわよん!』と戸惑う俺を半ば強引にバイトが終わったら4日分の着替えや歯ブラシを持ってまたここに来るよう言われ強引とはいえ約束したから言われた通り荷物をまとめて来ると伊藤の部屋を案内されて俺を置いて夜ご飯は20時からだからそれまで自由にしててちょうだい!と部屋から出て行ってしまい、部屋の主がいない部屋に1人取り残されて居心地が悪く、隅で体育座りしているときに鷲尾からそんなメールが来たのでありがたかった。
 何となく、伊藤に部屋を借りていることを伝えにくくてそれを隠しているというのも後ろめたくてメールしてるだけで居心地の悪さがどんどん増していっていたから鷲尾からのメールは誤魔化す言い訳になった。勿論鷲尾と遊びに行くのを楽しみにしていたのは本心である。すずめちゃんのお布団を使ってねと言われるがままに、敷布団の上に寝っ転がり夏用の薄手の毛布を身に包ませ冷房をかけて眠ったおかげで暑苦しくて途中で起きることもなく寝起きから汗で服が濡れることもなく快適だったが、腹の底がもぞもぞするような落ち着かなさはどうしても消えなかった。
(明日鷲尾と遊びに行くから寝ろ。何も気にせず眠ってしまえ)
 昨日寝る前に何度自分に言い聞かせたのか覚えていない。何とか遊びに行くからと強引に気にしないようにしながら眠りについて、今日もあまり意識しないよう意識しながら準備して鷲尾との待ち合わせ場所へと向かったのだ。
 ……伊藤の部屋に泊まるのがあと今日入れて3回あるという現実をどうするべきか、どう受け入れてどう処理するのかも考えないといけないことだが……。

「鷲尾が行きたい本屋ってどこにあるんだ?」

 今俺の目の前にいるのは鷲尾でありこれから時間を共にするのも鷲尾である。一旦伊藤のことは置いておくことにして、今この瞬間を楽しもう。違うこと考えたら鷲尾にも失礼だしな。
 まだ何をするか決めていなかったけれどさっき飯を食べ終えたら本屋に行きたいと言っていたのでその話題を振ることにした。
「ああ……ここに行きたくて」
「どこだ?」
 鷲尾はハンバーガーを片手に携帯電話をカチカチと操作してここだと言われたが画面が小さくよく見えず鷲尾のほうに身を乗り出した。
「っ」
 何故か距離を近づけた分、驚いたように遠ざけられてしまった。
「?ああ、悪い。汗臭かったか?」
 家を出る前にも消臭スプレーをかけたし、さっきもウェットシートで汗を拭いたけれど……臭うだろうか?自分の着ているTシャツに鼻を寄せて嗅いでみた。……少し臭いかもしれない。
「っや、そういうわけではない、突然近くに一ノ瀬の顔が近くにあって驚いただけ、だ」
「そうか?」
 いきなり近づいた訳でもそこまで近い距離でも無かったと思ったけれど……まぁ、驚かせてしまったのは申し訳なかったな。それにしても冷房が効いている店内で食べているのに何故鷲尾の顔は赤いのだろうか、そんな熱いものを食べている訳でもないのに。
 いつもと違って挙動不審になる鷲尾に首を傾げる俺、鷲尾は冷静になろうとしてか飲み物を飲もうとカップを手を取った。

――あ、そのカップ。

「鷲尾、それ俺のコーラ」
「ブハッ!?」

 そう指摘する頃にはすでに遅く鷲尾は苦手である炭酸を飲んでしまい、吹き出してしまった。むせて苦しかったのかかわいそうになるほど顔をさらに赤くして咳き込んでいる。ポケットティッシュを渡しつつ口直しに、と今度こそ鷲尾自らが頼んだコーヒーを手渡した。
(もう少し飲み物の距離を離すべきだったな、悪いことをした)
 吹き出して咳き込んでいる理由が誤って俺の苦手である炭酸飲料の代表格と言っても過言ではないコーラを飲んでしまったこと以外にもあるとは考えもつかなかった俺はただそう反省するだけだった。
(一ノ瀬の、一ノ瀬の飲んでたやつ、さっき口つけてた、炭酸で口内痛い、気管に入って痛い、けど、一ノ瀬の飲んでたやつに僕が口を……?あ、ああああああ!口内痛いのに、勿体ない!て、なぜ僕はそんな発想になる!気持ち悪い!!)
 まさか鷲尾の脳内が色々な要因でパニクっていたことには気づくことは出来なかった。



 鷲尾が落ち着くのを待って呼吸が安定して出来るようになってもう歩いて問題ないと判断して席から立ち上がり店を後にし、本屋へ向かった。直射日光にアスファルトの照り返しが相まってせっかく冷めていた身体はすぐに熱を持った。
 暑さのあまりつい無言になりそうだったけれど何とか会話する。隣を歩く鷲尾も茹だるような暑さにうんざりした表情を浮かべてる。
「いつもどんな本を読んでいるんだ?」
「……辞書ばかりだ。物語があるのは教科書ぐらいなものだ。今までそう言った本を読む時間があるなら勉強していたから」
「そうか、俺もこの学校に来る前はそうだったな……」
 俺も伊藤に勧められるまで物語性のあるものは本はおろか漫画だって読んだことが無くて鷲尾に言ったとおり俺もそうだった。時間さえあれば机に向かって勉強をしていた記憶がある。
 本から学べることがあると神丘学園にいたとき国語の先生がそう言っていたことをふと思い出す。当時は良く分からなかったけれど今は何となく分かる気がした。
「何を買うつもりなんだ?」
「『君に伝えたい』という名の漫画本だ」
「……叶野に何か言われたか?」
「何故分かった?」
(やっぱり……)
 想像通りで苦笑いしたくなった。『君に伝えたい』というのはタイトル通り恋愛もので原作は少女漫画だ、俺も読んだことないけれど秋ぐらいに実写映画化されるらしく昨日テレビを見ていてそれのCMが流れる度にゴンさんが大はしゃぎで思いっきり肩を叩かれてジンジンと痛んだのを思い出す。ちなみに今も少し痛かったりする。

「この間叶野とメールしててこの漫画の話になったがタイトルも知らんと返信したら……これ知らないとかまじでヤバいって言われて腹立ったから買いに行こうと思ってな」
「そうか……」
 こう言うとあれかもしれないけれど、鷲尾が漫画しかも恋愛ものを買うとは想像出来なかったが理由を聞くと納得する。相変わらず叶野は鷲尾に容赦が無い。
「内容は知ってるのか?」
「知らん。一ノ瀬は知ってるのか?」
「俺も読んだ訳じゃないけれど恋愛ものっていうのは聞くかな」
「ふむ……今までの僕が知ろうとしなかった未知の領域だな」
(あ、やっぱりそうなのか)
 予想通りの鷲尾に何となくホッとする。
 ……叶野ではないけれど、鷲尾がこれを読んだときの反応が気になった。いや、俺も恋色沙汰とは無縁の生活を送ってきて前も今の学校も男子校でバイト先も伊藤とゴンさんだけだが。
 女の子と接する機会はあと数年は無いだろうし、それに現状自分のことで精一杯でありそういうのを気にする余裕もない。……でも、クラスメイトの沼倉とかの反応を見る限り恋愛とか彼女の有無を気にするのが健全なのだろう。
 もし、記憶のこととかが解決したら俺も気になるのだろうか?あまり想像出来ないな……。今のところはこうして友だちと遊んでいる時間の方が有意義だと思う。
「……一ノ瀬は、本当に今まで誰かと付き合ったりしたことが無いのか?」
「本当だ。俺も鷲尾みたいに時間さえあればずっと勉強してたし、男子校だし俺にはまだ恋愛沙汰に興味を持つところまで行ってない」
 もしかして疑われているのだろうか。今までもクラスメイトに良く問われることだが、その度否定する。前は全寮制の男子校今は自宅から通学だが結局男子校だ、そもそも出会いがないしクラスメイトのように関心もないことを伝えた。
 そのことを伝えれば大体納得してくれていたけれど鷲尾は納得行っていないようだ。
「神丘学園は全寮制の男子校でしかも山奥で閉鎖的な空間だ、そのなかではそういったことに発展することはないのか?一ノ瀬に興味を持つ奴も多いんじゃないか?」
 それはあれか、男同士の恋愛の有無を聞かれている、という解釈で良いのだろうか。鷲尾から珍しく好奇心を感じて聞きたいことをちゃんと答えてあげたいのは山々だったのだが……。
「……周囲ではもしかしたらそういうこともあったかもしれないけれど、前の学校にいたときは今みたいに気軽に話せるような友だちはいなかったから、分からない。それに俺に興味を持っているような人はいなかったよ、勉強教えてくれと言われるぐらいで」
 鷲尾の期待に沿うことが出来なくて申し訳ないが、俺自身周囲に心を閉ざしていた時期で本当のところ何も話そうとせず表情を出さない俺のことをあのときのクラスメイトや担任教師がどう感じていたのか分からない。
 ちゃんと声をかけられたのは勉強のことぐらい(何故か保健体育という随分ピンポイントだったけれど、それも九十九さんに言われた通りに断ってしまったが)で、それ以外は義務的なやり取りだけだった。
「そんなものか」
「少なくとも俺の認識では。鷲尾はどうだったんだ?中学は共学……だったか?」
 前に中学は進学校というのは聞いていたけれど、共学かどうかまで聞いていなかったことに気付いて聞いてみると「そうだが」と頷かれてホッとして遠慮なく聞いてみることにする。
「鷲尾だって背もあるし頭が良くて少し目つき悪いけれど顔も良いし、普通に好意を抱かれそうだけど、そういうことは無かったのか?」
「……一度だけまぁ、告白というものを1学年下の女子にされたことはあるが」
「おぉ」
 なんだ、あるんじゃないか。告白をされたことのない俺より断然豊富と言って良いんじゃないか。そう思ったのだが……。
「そんなことに気を取られている余裕などない、と断った」
 鷲尾の続く言葉に浮ついた気持ちがズンと下がる。
「……まぁ、そうか」
 きっとそう言われた女の子はさぞ傷ついたんだろうけれど、鷲尾の過去の話を聞いているから俺から全面的に責めることも出来ない。
 1番にならないといけないとかそういうのは俺にはちょっと分からないけれど、でもそれが当時の鷲尾にとって自分自身を父親に認めてもらうためにやってきたことだから否定したりなんてできない、かな。父親、か。
 伊藤の話を聞く限り俺の父親も母親も俺のことを大事にしてくれていたとは聞くけれど、どうだったんだろうか。鷲尾のようにプレッシャーをかけられたりしたんだろうか。
「でも、今俺の恋愛事情を気にしたってことは鷲尾は気になるようになった、ことか?」
「……そう、なるのだろうか」
「へぇ……俺より先に進んでるな」
 考え込み自信の無さそうな鷲尾だが、誰かの恋愛が気になっているということはきっとそういうことなんだろう。
 事情の違いはあるけど、何となく『恋愛』というものが上級者向けに見えて雲の上の出来事のように感じる俺にとって気になっているという地点ですでに俺より鷲尾のほうがずっと先に向かっているように見える。
「誰か気になる人とかいるのか?」
 俺にとって本当に軽い気持ちで疑問に思ったことを口に出しただけだった。鷲尾がこんなに興味を持っているのだから、そういった意味で気になる人が出来たということなのかもしれない。もしいるとしたら男だらけの環境で誰に好意を抱いたんだろう、塾の子とかだろうか?
内心少しワクワクしながらもいつもどおりに聞いたつもりだった。『普通の男子高校生らしい』会話をしていることに少し気分が高揚していた。だから。

「っいない!」

 思わぬ強い口調で否定され驚いてしまった。鷲尾の発した声は予想以上に大きくて俺だけではなく、通行人も驚かせてしまってジロジロと見られてしまう。
「鷲尾?」
 目が合った人に軽く会釈して様子を伺うようにそっと声をかけると、ハッと自分が大きな声を出してしまったことに気が付いてバツが悪いようで俺から視線を逸してしまった。
「っすま、ない」
「いや、俺も悪かった。言いたくなかったら言わなくて構わないから」
 決して無理に聞き出したくてそう言ったわけでもないが、答えを強制しているように感じさせてしまったのかもしれない。鷲尾が誰か気になった人がいたのか本当にいないのか俺には分からないけれど、誰かに言いたくないのであればこれ以上聞くべきではないだろう。
「あ、本屋に着いた」
「……ああ」
 あからさまに話を逸してしまったけれど、本当に目当てだった本屋に着いたのでとにかくこの話題をこの場で終わらせたかった。鷲尾も異論はないようで流されてくれた。少し気まずい空気のなか、冷房の効いた本屋のなかへと入った。

「あれ?あいつって……?」

 鷲尾が大きな声を出したので周りにいたほとんどの人がこちらを振り返り、怪訝な表情をしながらも本屋へと消えていった高校生二人組を追いかける気はなく驚いたねーと声をかけたりそのまま俺らの存在を忘れた人たちのなか、唯一1人だけ俺らのほうを首を傾げながらじっと見つめ立ち尽くす誰かがいた。
 その誰かは顎に手をやり少し迷ったあと俺らを追いかけるように軽い足取りで本屋の中へと入っていった。

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