3.先を生きる人。


 最近、透と距離があるように感じている。自分がため息をついたことにも気づかないぐらい悩んでいた。好きな雑誌を買いに駅前のコンビニに来て、目当てのものを手にとってみても心は踊ることはない。
 このまま帰るのも……と考え適当な雑誌を立ち読みすることにしても、頭の中にあるのは透だけだ。海に行ったときは感じなかった、たぶんこの間……9日前だったろうか、補習を終えたらバイトに行くと言っていた透が急遽来れないことになってからだ。
 具合が悪くなったのかと見舞いに言ってもいいか、とメールで聞いてみると『大丈夫。ごめん、ちょっとひとり考えたいことがあるんだ。ありがとうな』と返信が来た。……なんとなく、ショックだったけれどゴンさんには『たまには1人で考えたいこともあるんだからこのままそっとしておきましょ?』と宥められた。
 そりゃ、透だって1人で何か考えたいときだってあるだろう。俺にも言いたくないことだってあるかもしれない。頭では、分かってる。分かってるけれど。割り切れないのは何故だろう。

「はぁ……」

 あの日から俺のため息が止むことはない。昨日もゴンさんに注意されたばかりなのに無意識に行っているものだからどうしようもない、と開き直りつつある。でも透に嫌われたわけではない、はず。急遽休んだ次の日には普通にバイトしにやってきたし、俺への態度もいつも通りそのものでくだらない話をしても普通に笑っていた……だからこそ疑問はさらに大きくなっていく。
 何か悩んでいるのなら教えてほしい、そう思うのは俺のわがままなんだろうか。透から言ってくれるのを待つべきなんだろうが……でも知りたくて仕方がない、俺の知らないことがあるのが嫌だ。でも透が言いたくないのなら無理に聞き出したくない。相反する気持ちがぶつかり合う。もう何度目かのぶつかり合っている。
 俺は透が大事で大切な存在だと想ってる、透も同じ気持ちだとそう勝手に思い込んでいた。でも、少しその自信が揺らいでいる。
 最近の透は俺以外とも交友を深めている。それ自体は良いことだ。俺と別れて以降の透はいつもひとりだと聞いていたから、いろんな人と関わってひとりじゃなくなって、透の良いところを知ってくれている良い奴らばかりが透の元にいるのだから……今まで心配していた親友が俺以外にも頼りになる奴らがいるのは、俺だって嬉しい。

――でもなんだろうか。このモヤモヤする感情は。ひとりじゃない、誰かといっしょにいて誰かと笑っている透を見れるのが嬉しいのに。そうじゃない!て喚き散らしたくなるこの衝動は。ぐるぐるして頭が混乱する。落ち着こうとして今度は意識的に息を吐いた。

 たぶん、俺は焦っているんだと思う。透は別れる前から、主にこの目つきが悪いことで人から疎遠されていた俺が理由になってしまうけれど……透は俺以外の同級生はおろか先生を含んだ誰も彼もを寄せ付けようとしなかったから。俺には透がいて、透には俺がいる。
 それだけで世界は完結していて、少なくとも俺は透さえいてくれればそれでいいやって思ってた。
 透がそこにいるだけで俺の世界はいつもキラキラしてた、今も昔も。その世界に入ってもいいと思えたのは透の両親ぐらいだった。透の父さんと母さんはいつだって穏やかで俺にも笑いかけてくれた。
 仲の良い俺らを微笑ましく見つめてくれたから。一時期、本当に一瞬だけ透と透といた過去を憎んでいたこともあったけれど、ゴンさんと会えて正常な俺に戻ってからまた透と会えて。記憶もなく酷い扱いをされてきた透にとって俺のことを存在できる身近な人間として受け入れてくれた。俺に全信頼を置いて頼ってくれるのが嬉しかった。すごく嬉しくて嬉しかったけれど……少し辛かった。記憶が無くても透は透だって俺の言ったことを違えることはない。だけど……今は、ほんの少し、思い出してほしいという気持ちが芽生えつつあるのを感じてる。それを感じるたびに潰しているつもりだったけれど、透に通じてしまったのかもしれないと危惧していた。
 俺と透しかいなかった世界に色んな人が関わるようになって透はそれを受け入れて笑っているのを見てしまって、俺に何も言わないで考えるようになって、喜ばしいことを素直に喜べないのは俺に芽生えてしまった『思い出してほしい』が伝わってしまったのかもしれないと疑心のせいだ。
 傷つけたくないから、傷ついているところを見たくないからこのままで良いと言ったのは俺なのに身勝手に思い出してほしいと思ってしまっているのが通じてしまったのだろうか。俺から離れないで。そう女々しく願ってしまうほど透と離れるのは嫌なんだ。

 俺だけがうだうだ考えていても仕方がない、夏祭り前には話したいと思っていたから夏祭り前日になってしまうけれど……昨日「明日遊びに行かないか」と誘ってみたけれど謝られながらも先約があると断られてしまった。
「誰かと会うのか」とか、聞き返そうとしたけれど出来なかった。これ以上知らない透を知ってしまうのが恐いと思ってしまったから。

(でも、やっぱりちゃんと聞いたほうが良かったかもしれない)

 ゴンさんに明後日夏祭り当日は早めに来るよう言われて晩飯を出されて聞くタイミングをさらに見失ってしまったのだ。……俺から聞かなくても透が教えてくれるのを期待していたけれど、メールは来ても俺の期待したものではなかった。勝手に期待して勝手に落ち込んでいる。

 このままの気持ちで明日楽しめるのだろうか。せっかく望んでいた祭りなのに、不安になった。

……結局立ち読みした雑誌の内容は全く頭に入らず目当てだった雑誌と今日はバイトも休みなので適当な炭酸飲料とポテチを持ってレジに向かう。
 レジ近くにあるフライヤーのアメリカンドッグが目についたのでそれも頼む。店員がアメリカンドッグを持ってきている間に時間を確認しようと携帯電話を取り出せば1件の新着メール。透だろうかゴンさんだろうか、そう予想を付けながら何も考えずにメールを開いた。

「……チッ」

 誰からのメールか認識した瞬間、ここがどこなのかも考えず無意識に舌打ちしてしまう。忌々しい。ただでさえ良くない気持ちがさらに悪くなる。

「お待たせしました〜。袋はおわけいたしますか〜?」

 接客している若い女性店員は間伸びた穏やかな声で聞かれてハッと意識が戻る。

「……一緒でいいです、飲み物だけそのまま持っていきます」
「かしこまりました〜シールだけお貼りしますねぇ」

 ……この女性店員は肝が座っているのか接客になれているのか俺が来ても少しもビビらずに接客してくれる。舌打ちを聞いたのか聞こえていないのかどちらにしてもいつもどおりの鉄壁な笑顔で飲み物だけシールを貼り雑誌などは全部ひとまとめにされ手渡され、釣り銭が丁度あることを確認して「ありがとうございましたー」の声を背に店の出口へ向かう。
 外はギラギラとしていて、出た瞬間熱気に襲われる。あちい、そう言いたくなくてもつい言葉に出してしまうほどの熱さが容赦なく身を焦がしていく。手に持っている炭酸飲料の蓋を早速開けて口を付けた。
 一瞬で500ml入っているうちの3分の1は無くなってしまった、さっさと家に帰らないとあっという間に買った飲み物が無くなってしまうな、と足を動かそうとしたが、ふと駅前を見てみるとそこには見覚えのある人物がいた。
 ……ずっと頭がいっぱいになっていた相手、透だ。この間俺と一緒に買ったノースリーブのグレーのパーカーを着ている、その日本人放れした灰色の瞳や青にも見えるほどの黒髪に、何もせずとも勝手に人目を集めてしまう美しい容姿は見間違えようがなかった。誰かを待っているのだろうか、滴る汗を拭いながら視線は誰かを探しているようだった。

 ……こうして普通の男子高校生がやっていることを同じことを普通にしているだけなのに透の場合はその美貌のおかげでいろんな人から視線を集めている。

 それに気付いているのか無視しているのか、そんな視線を気にすることはなかった。いつから待っているのかいつ待ち人が来るのかとか色々と考えてしまうけれどとりあえず声をかけてみるか、待っている人が来るまでの暇つぶしにはなるだろうと思って透のほうへ歩みを進めようとする。が、そっちに行こうと決めていざ足を動かそうとした瞬間。

「あ……」

 透の視線は白い大きめな車がやってきたことでそこに一つのところに集中して、もたれかかっていた背を伸ばして少し駆け足でその車の元へ向かい、運転席のほうでいくつか言葉を交じあわせたあとくるっと迂回して助手席のドアを開けて乗り込んで、そのままどこかへ行ってしまった。俺に気づくことなく視線をこちらに向けることもなく。
「さっきの子すごい美形だったねー!」
「あの車かなりの高級車だし、どっかの金持ちの子なんだろうな」
「モデルの撮影とか?」
 透が行ったあと透のことを見ていた奴らがざわざわとうわさ話を始めたのを俺はどこか遠くで聞こえていた。

(あいつ、誰だよ。透と何の関係があるやつなんだよ)
(なんで俺になにも言ってくれないんだよ!)

――苛立ちと悲しみと……自分の身勝手さに頭はぐちゃぐっちゃで、頭が真っ白になった。

 気がつけば右手に持っていたペットボトルは力の入れ過ぎてしまってべっこりとヘコんで中に入っていた液体は溢れてほとんどが地面に吸い込まれていた。

――――

「お久しぶりです、透様」
「……久しぶりです、九十九さん」

 車内という密閉空間でつい緊張してしまって知らず知らずに肩に力が入ってしまう。12時半ごろ駅前に迎えに来ると言われたので待っていたが、待っていたのはたった数分にも関わらず汗が止まらなくて困った。
 事前に言われた通りの車が来たので暑さのあまり即乗り込んでしまった。可能な限り布面積のすくない服、と思って着てきた袖のないパーカーの首元をバサバサと上下に振って冷気を取り込もうとする。
「……誰かに変なこと、されたりしてませんよね?先生方だったりクラスメイトだったりバイト先の方だったり」
「?いいえ」
 突然そんなことを聞かれて、首を傾げながらも否定する。九十九さんの言う『変なこと』が何のことかいまいちわからないけれど、前にも中学に上がって寮生活になる際には『保険体育の勉強を一緒にやろうとか補習しようとかそういった誘いを受けたときはいかなる場合でも断ること、変に身体を触ってくるような輩がいたら即私に言ってください』とそういえば言われていたからきっと似たようなことだろう、前の学校のときは確かに保険体育の勉強を一緒にやらないかと誘われたことはあったけれど九十九さんの言うとおり断ったし、今の学校では数学などを教えることはあっても保健体育限定で学ぼうとするような人はいなかったし、変に身体を触ってくるようなやつだって……あ、そういえば一回だけ伊藤と叶野に触れられたな。
 まぁあれ以降無いし、きっと『変に触ってくる』に当てはまるのは小学生のとき良く家にいた親戚……だったのだろうか?よく知らない男に妙にニヤつきながら触れられたときはぞわぞわ鳥肌が立つほど嫌だったから、きっとこれが九十九さんの言う『変なこと』なんだと認識する。
 それなら、叶野と伊藤にくすぐられたり伊藤に触れられたりのは『変なこと』には入らないだろう。くすぐられるのは嫌ではあるが鳥肌が立つほどではなかったし、伊藤に触れられるのは……そもそも嫌じゃない、し。
「そうですか、それなら良いです。……ちなみに、雄哉様はちゃんと透様の保護責任をとっておりますか?」
「……」
 ホッとしたように見えたけれどすぐさままた質問される。雄哉さん……桐渓さんの下の名前。聞かれて引っ越してきてから昨日までのことを思い返してみたが、保護責任……というのはどういうことかはわからないけれど、漫画とかドラマとかでよく見る保護者のことが世間一般の普通でありそれが保護責任とすると……桐渓さんは保護責任を取っていないこととなる。
「……彼も相変わらずのようですね」
「……」
 なにも言わない俺に察してしまったようでため息を吐きつつそう言った。
「そろそろ着きます。詳しいことは店でまた聞かせてくださいませ」
 そういえばどこに行くのか何も聞かされないでこのまま運ばれていたことに気付く。車に付けられているカーナビにある時計を確認すると時刻は1時を少し過ぎたあたり。昼食をともに、と言われてきたので朝軽くパンを食べたぐらいでそのまま何も食べていないのでお腹は空いている。
 ……アメリカンドッグ、はさすがにないよなぁ。今無性に食べたいんだが……待ち合わせより少し早めに行ってコンビニで買って食べてから行けばよかったなとこっそりと後悔する。

――――

 車が止まり降りるよう言われその通りに降りれば、ヨーロッパ風の大きな建物がすぐに目に付いた。金持ちが好きそうな……というか金持ちしか来れないであろうホテルだ、見ただけで分かる。そもそも車に乗った状態で重厚な門が開き何も戸惑いもなく九十九さんが発進しているのを見た地点で察するべきだったかもしれない。
 他に止められている車を見ても、今俺が住んでいる辺りでは見ないような大きくて高そうな車ばかりだし、暑さで判断つかなかったが九十九さんが運転していた車だって、きっと良い車だ。そういえば席は前に五十嵐先生が乗せてくれた車の椅子よりも随分と柔らかかく体重分沈んだ。

「……」
「お待たせしました、さあ行きましょうか」
「あの、俺、場違い過ぎませんか……」
「ああ、気にしなくて大丈夫ですよ。この時間帯は私達だけしかいないよう手配しましたし、食事も個室です。誰の目も気にしなくても大丈夫ですから」
「……」

 それもあるけれど、それだけではないのだが……。以前自分の住んでいたところが普通から見てかなり外れているところにいたのだと今更ながら自覚する。
 ……無事に九十九さんとの食事を終わらせることができるのだろうか。いつまでも動かない俺に九十九さんは首を傾げている。

(あ、伊藤に会いたい)

 同じ価値観で同じところにいようとしてくれる伊藤が一気に恋しくなったけれど、少しでもその伊藤とちゃんと向き合うために、まずは九十九さんと向き合うのだと決めたんだ。きっとそれが『自分』を知るためのモノになるから。
 決意を新たに、一歩九十九さんのほうへと近づいた。

――――

(とは、決めたものの……)

 トイレ(俺の知っているトイレとは違って随分広くて綺麗だけど)で深いふかーーい溜め息を吐いた。肩を回すとゴキゴキゴキッと鈍い音が鳴った、緊張からか筋肉が強張っていたようだ。

 何だか、もう、別世界だった。でかいロビーには噴水に始まってよくわからないライオンの置物とか絵画とか置いてあって少し待つよう言われたからそれらを見てもよく分からなかった。芸術ってなんだろうか。そもそも良さが分かっていないのだから当然か。
 黒を基調とした制服を身にまとった人と九十九さんが話したかと思えばすぐ移動、これまたアンティーク風の模様が刻まれた高そうなエレベーターの扉へと案内される。
 ロビーの床はたぶん大理石で、その後歩いた廊下からエレベーター内部まで暗めの赤い絨毯でサンダル越しでもふかふかしていた。……自分の履いているラフなサンダルと敷き詰められた絨毯の差が酷い。通された部屋は本当に俺と九十九さんしかいなかった、幸いそこまで広いわけでなかったけれどロビーに置いてあったのと同じライオンの置物があってなんだか疲れた気持ちになる。
 よくわからない模様の背もたれをしたふかふかな椅子に座ればすぐさま飲み物は何にするかから始まって適当なジュースにすればすぐさま飲み物とともに前菜から始まってその料理を食べ終えて次の料理が運ばれてくる。
おいしい、とは思う。
 肉なんて口の中にすぐに溶けてしまうほどの柔らかさだったし、サラダも綺麗に盛り付けられていてソースは料理人のひとがきっと計算されたところにかかっていたし、手が込んでいるのは分かった。
 デザートには鶴の形の繊細な飴細工が飾られているチョコレートケーキが出てきた、美味しかった。たぶん俺が食べたもののほぼ全ては近所スーパーはおろか駅前のデパートでも買えないもので、一般家庭ではきっと手が出ないほどの値段なのだと思う。
 九十九さんが支払うと言っているから値段の心配はしなくてもいいとは思う、けど。お腹は満たされたはずなのになんか物足りなさを覚える。あと、なんだか堅苦しい。息が詰まりそうな空間だった、慣れていないせいだろうか?
 この間海に行ったときに貰ったたこ焼きだとか伊藤が作ってくれたオムライスやゴンさんが出してくれた肉丼のほうが美味しいと思えてしまうし、ワイングラスに入った濃い葡萄ジュースよりも家で作り置きした麦茶のほうが飲みやすいと感じるし、上品で小さなチョコレートケーキよりも最近CMでやっているファスト店のクッキーの入ったアイスを食べたい、なんてことを思ってしまう自分は異常なのだろうか。
 何より前までは何の感情もなくそこにいて何の感想もなく口に運んでいた前の自分に今の自分が驚く。伊藤と会うまでは、なにも感じないようにしてきたからだろうか。

 ……伊藤から少し離れて自分のことを考えてみようと思っているのに、すぐに連想させてしまう。今の『俺』という人間はきっとほぼ伊藤の存在で構築されていると言っても過言ではないのかもしれない、そのぐらい『俺』のなかで伊藤はとんでもなく大きな存在……大きすぎて、しまうんだとおもう。
(少しずつでも俺はちゃんと自分がするべきこと、しなくてはいけないことをしないと)
 それは、俺が今の今まで逃げ続けていたせい。弱虫な自分のせい。それを自覚しておいて今まで逃げていた。もう辞めよう。トイレの割には随分と綺麗で少し重たい扉を開けた。

 誰に対してもちゃんと俺は『一ノ瀬透なのだ』と胸張って言えるようになるために。



「お戻りになりましたね、そろそろ帰りましょうか……」
「九十九さんは、俺の記憶がなくなった直後どう思っていましたか。今現在はどう考えて、いますか」

 戻ってきた俺に九十九さんは声をかけてくれたが、俺は声そのものは聞こえていたけれど何を言われたのか聞こえなかった。結果として無視する形になったがそれに後悔出来るほど器用なことは出来ない。聞き取るほどの余裕がなくて、聞き返すことなんて考えもない。
 震える声と楽なほうへ逃げてしまおうと言う甘やかす脳内。それらを抑え込んで九十九さんに今まで聞いてみたくて、聞いてみたくなかったことを聞いた。
 記憶がない俺のことを、どう感じているのか。九十九さんは今の今まで俺のことを責めることは無かった。俺が記憶喪失となった直後にはすでに淡々と起こったであろうことを教えてくれたし、激昂する祖父と桐渓さんを宥めることもあった。
 褒められたり表立って庇われたことはないけれど、それでも俺に気にかけてくれて一時期家によく居た親戚の人が俺に触れているのを目撃して以降は見ていないし……あくまでも義務的で表情の変化も乏しいので完全に俺の味方ではないにしても、それでも憎しみと悲しみを向けられ続け友人もいない生活のなかで、九十九さんの存在は当時の俺にとってありがたい存在だった。『人間扱い』をしてくれる存在がいてくれたから、俺は完全に気が狂わなくて済んだんだと最近気がついたんだ。……そんな九十九さんは、本当は俺のことをどう思っていてどう感じていたのか、気になっていた。問いかけられた九十九さんは一瞬驚いたように目を見開いたけれど、すぐにいつも通りの無表情へと戻る。だが、どこか怜悧なものだった。

「どうしてそんなことを聞くんです?わざわざ透様のことを私がどう思っているのかなんて聞かなくてもいいのでは?それに私が答えて透様を傷つけるようなことを言ってしまったら、どう受け止めるおつもりで?」

 丁寧な口調で吐き捨てるように投げかけられる。雰囲気が変わったように見える。切れ長の目が俺を射抜くように見つめている。身体がひやりと冷えた。
――逃げたい、でも、逃げたくない。

 九十九さんに聞かれたことは……俺も考えてた。親切にしてくれていた無意識に心の拠り所のようにしていた九十九さんの内心がもしかしたら憎くて仕様がないけど、それこそ本当に義務として俺の面倒を見ていただけだと言われてしまったら俺は立ち直れないほど落ち込む、とおもう。
 母さんの世話係もしていた、と教えられたから死因となった俺に思うところがないわけがないだろう。

「……もしかしたら、泣いてしまうかもしれないですね」
「……あなたが、ですか?」
「俺は結構泣き虫ですよ。今の所に引っ越してきて知りましたけれど」

 驚いた顔をする九十九さんに苦笑して答える。初めて会ったその翌日に……伊藤に泣かされるぐらい。ずっと、ずっと泣きたくて仕方なくてでも泣いても受け入れてくれる人なんていないから、俺が悲しむこと自体死んでしまった両親に申し訳なくて出来なかったから。ああ、でも。
 そういえば俺が泣いたのはあの病室で目を覚まし記憶喪失が分かって詰られたあの日、それだけだった。あれ以降泣いてもどうしようない、泣くこと自体烏滸がましい、そんな意識が強くて泣くことを我慢していたから。
 泣かない俺に、周りがどう感じていたんだろうか。そこまで考えつかなかった。……聞きたいこと、増えたな。

「それでも、聞きたいんです。もう知らないフリをするのを辞めたいから……。俺が、ちゃんと一ノ瀬透だって胸張って言えるようになりたいから」

 真っ直ぐに驚いた顔をしていたけれどすでにいつもどおりの無表情でいる九十九さんの目を見据えて言い切った。

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