3.先を生きる人。

「っ梶井……また、お前か……!」

 桐渓さんは忌々しげに彼の名前を呼んだ。珍しい。大体の生徒には内心はわからないけれどにこやかに接している桐渓さんだ。ここまであからさまに俺以外に苦々しい態度を取るのはあまりないことだ。

「はぁーい、おひさしぶり〜みんなのノブちゃんですよ〜。なーんちゃってねぇ〜」

 桐渓さんの反応とは対称的に茶化すようにそうおかしそうに笑いながらそういった。

「あ、揉めてる感じだったり?それならほかのせんせ呼ばなきゃね〜どうやらせんせは一ノ瀬のことキライみたいだし〜?」
「ちょ……やめろ!」
 俺らから背を向けて大きいリアクションと行動をわざとしているように、くるっと回ってえっと〜岬先生ならいるかな〜と梶井が大きい声を出すと桐渓さんは俺から手を離して梶井を止めるべく手を伸ばした。
「……他に誰かいなくてよかったねぇそーんな一生懸命になられちゃうとほんっとうに疑われちゃうよ?」
「っ」
 手が届く寸前振り返って桐渓さんに向けてからかうような口調で、かといって親しみを込めているようには到底見えない態度で笑う。
「というかさぁ、そんな一ノ瀬に話したいことあるなら人目のないところでやってくんなーい?こんな誰にでも見られるようなところじゃなくてさ、呼び出すなりなんなりすればいいじゃん。ま、そんなことすれば多分伊藤が黙ってやしないけどさ」
「うっさいわ!」
「伊藤が恐いからコソコソ一ノ瀬に突っかかってました〜なんて素直にいえないもんねぇ」
「黙れ!あー!もうええっ!」
 弱いところをガシガシと抉ってくるような梶井の物言いに本当のことなのか何も言い返せない桐渓さんは梶井にわざとみたいにぶつかりながらその横を通り過ぎようとした。
「子どもに本当の言われたからって逃げるのかよ。どっちがガキだよ」
「っ!」
「……?」
 思いっきりぶつかられたにも関わらず梶井の反応は静かなもので、通り過ぎる際真横を通り過ぎる寸前梶井は桐渓さんになにか言っていたようだったけれどそれは小声で俺からはなにか言ったか?と疑問に思う程度にしか聞こえなかったが、桐渓さんは近かったからか聞こえていたようで梶井の声が聞こえたかと思えば、桐渓さんはバッと梶井を見て、睨みつけて舌打ちをして今度こそ通り過ぎていった。「まーたねー」となんの感情を籠っていない声で手を振って梶井はその背を見送る。

 ……そして無音。梶井と2人きりになった。
 吉田から梶井と仲良くしようと言われて俺はわかり合いたいと思っていたからそれに頷いたけれど、いざ2人になったとき俺はどう梶井と過ごせばいいのか考えていなかった。
 まだ会うのはずっと先の話だと思っていたから、まさかこんなところで会ってしかも2人になるとは思わなかったし……あんなところ見られるとも思ってなかった。
 桐渓さんとのことは伊藤にだけしか今のところ言っていない、叶野たちにもいつかは言いたいけれど混乱させてしまうかもしれないと懸念していつ言い出すか悩んでいた。どう見たって梶井からすれば俺と桐渓さんがああして不自然に言い合っているのは違和感でしかないだろう。
 梶井と会うのだってあの屋上以来見かけてすらいなかったから1ヶ月ぶりで俺は嫌われているからどう声をかけて良いのかわからない。けれどなにか言わないと。

「さっきのは……」
「あんなのどうでもいい」

 言葉が纏まっていなかったけれどとりあえず声を、と思ったが冷たくバッサリ切られた。最早目も合わせることもされない、取り付く島もないというのはこのことかとどこかの冷静な頭でそう思う。……吉田すまない、仲良くなれる気がしない。どうしよう。

「……ほんっと、一ノ瀬は良いよねぇ」

 梶井が口を開く。ここで声をかけられるとは思っていなから少しだけ驚く。けれどすぐに言われた意味を考える。言葉だけなら褒められているけれど……これは絶対真逆なことを言われているのはさすがに分かる。

「……どういう意味だ」
「そうやって黙っているだけでも気付いてくれる人がいてさ。自分のことで逃げても全部忘れてもそれでも甘やかしてくれる人間がいてさぁ。でもさ、どうせあれでしょう?」

 梶井の顔を見ればいつのまにかその眼は俺を映していた、その瞳には蔑みと嘲笑が込められている……それだけでは無いとはおもう、だけどそれはなんて言って良いのかわからない。悲しい、いや少し違う気がする。

「少し前までは桐渓に責められることが唯一の罪滅ぼしで存在理由だって免罪符にしていたんでしょ?そうすればここにいてもいいんだって思える方法で、理不尽を抗わずに理不尽を受け入れて、そうして自分が楽になることを選んだんでしょ。自分自身の意思でさ」
「……」

 少し前までの記憶もなく誰にも求められず存在意義がわからなくなっていた不安定な俺にとって桐渓さんにああして責められることが、存在理由なんだと定義していると言われた。
ーー俺はそれを否定できない。
 何故梶井がこのことを知っているのだろうかとも思ったけれど今は置いておこう。梶井の言うことを頭ごなしに否定するものではない、否定する言葉なんて思いつきやしない。だって、梶井の言うとおりだ。
 不安定で両親は自分が原因なんだと言われていた俺にとって『罰』を受けるためにここにいるんだと思うことが俺の唯一の『逃げ道』で『楽な道』だった。伊藤に打ち明けたとおり今まで受けてきた理不尽が痛くて辛くて嫌だったのは本当。でも嫌だ悲しい苦しいと思うと同時に、考えることを放棄していたんだ。
 両親が亡くなったのは俺のせいだでも確証はないだけど思い出したくない思い出すのが恐ろしくてどうしようもない。
 両親が亡くなったのは俺のせいなんかじゃない、思い出したくないけれどいつか思い出して証明してやる、と啖呵切るという選択肢もきっと俺にはあったんだ。だけど、俺は弱くて。そんな選択肢は思いつきもしなかった俺は傷つきたくないから傷つく道を無意識に選んでいたのかもしれない。抗わず、逃げる道へ。自分の力では自分の道を作れるほどの強さがなかった俺は、自分を責め立ててくる人の作った道を歩いてた。こうされればせめてもの罪滅ぼしになるんだと自分じゃない誰かに決めてもらってた。ずっと、そうして逃げてた。

「今は『伊藤鈴芽』という無条件に自分を甘やかして傷つけたりしない依存先が現れた。次の自分に存在意義を見出してくれる人を大事にするようになった。自分を大切にしてくれるなら自分も返したいとまで思える。でもだからといって桐渓に言い返せるほど強くなったわけじゃない。大事にしてくれる人がいる今でも罰されることを望んでいるから。だから強くは言い返せたりはしない。さっき拒絶はギリギリしてたけれど、それは一ノ瀬あんた自身の意志じゃないよ。結局依存先が変わったからそれに合わせて変化しただけ。不安定な一ノ瀬は誰かがいないとすぐに自分の存在意義がわからなくなるからねえ」

 何も言えなかった。自分自身の意志で生きていくと決めたのに桐渓さんに関しては完全な拒絶は俺には出来ていなかったから。ただ俺が傷ついたら伊藤も傷つくから、それだけは嫌だと思った。だから、桐渓さんを拒絶することが出来たけれどそれは自分の意志というよりは伊藤のためと言われると否定できなかった。もうよくわかんない。
 俺はなにを持っていればどんな意志があれば『一ノ瀬透』と呼べるのか、こうやって誰かに言われるだけですぐに揺らいでしまうのならそれは本当に『本当』と呼んで良いのか分からない。

「そうやって逃げて楽なところにいるくせに、一ノ瀬の場合は必ず誰かが助けに来てくれる。……そういうところほんっとうに腹が立つ」

 何も言えずただ立ち尽くすだけの俺に梶井は自身の少し癖のある髪をぐちゃぐちゃとを掻き回し苦々しく呟いてすぐ階段を登っていった。話していた際その紫の瞳はずっといろんな感情で蠢いていて苦しそうに見えた、ように思う。

 補習で学校に来て帰ろうとしたら桐渓さんに連れられそうになるし、梶井に自分の気がついていなかった情けないところを指摘されて、ちょっと苦しい。汚い、とは分かっているけれど少し階段に座ることにした。

 誰がどこを踏んだか分からない箇所に次は自ら腰を下ろすのか、と一瞬思ったけれどこの状態で1人で歩いて家に帰るほうが精神的にきついかも、と考え思いっきり体重をかけて深く座り込んだ。
「……」
 先程言われたことや自分がここに来るまでのことを思い出す。……俺って、なんなんだろう。考えて無意識にぎゅっと膝を抱える。俺は『俺自身』は本当は一体なにをしたいんだろう。
 今まで俺自身のため、て言いながらも結局すべて伊藤ありきで考えていたことに指摘されて気付いて。いつも自分のためじゃなくて、桐渓さんのため両親のため、伊藤のためって誰かのためにって言い訳してた。
 確かに自分の意志がないのと同じな気もする。『誰かのため』を免罪符にしてきた。
 記憶を思い出すのが恐いから思い出したくないという根拠なく思っていたけれど……俺は記憶喪失すらも、免罪符にしていただけなのかな。自分のことを知らなくても『記憶喪失』だから仕方ないと、ただの言い訳にしていただけなのかもしれない。
 伊藤はそれでもいいって言ってくれたから、でもそれにあぐらかいて甘えないようにってずっと言い聞かせていたつもりだったけれどそれすらも自信を持ってそうしてきたと言い切れない。依存先が変わった、それだけで俺が強くなったわけじゃなくて……。
――ああ、だめだ、ぐちゃぐちゃだ。考えがまとまらない。
 梶井の言っていることはすべて本当で口を挟むことも出来なかった。なにが本当でなにが嘘なのか、どれが自分の本当の本音なのか……。

「あれ?一ノ瀬くん?」
「あ……」

 周りに誰もいないと油断して少し冷静になろうと息を吐き切ろうとして、わざとらしく大きくはぁぁぁぁーと声と一緒にため息を吐ききったら声をかけられて驚く。声をかけて来たのは岬先生だった。
 また上に行こうとしたのかそれとも別の用事なのか判断はつかなかったけれど、特に桐渓さんがなにか言っていたとかではなさそうでたまたま通りがかったみたい。

「具合でも悪いの?大丈夫?」
「……いえ、大丈夫です」

 教室で体調に気をつけるよう言われた後なのに早速具合が悪くなった訳ではない。特に具合も悪くないし体調だけでみれば普通に帰路につける。でも少し帰り難い。
 このままもう少しだけここにいたい、けれど。用がない用が済んでいる生徒は帰るべきだろうとは思う。先生に見つかったなら特に帰るべきだろう。
 岬先生も忙しいだろうし、迷惑をかけたくないし心配されたくない。このままここにいたいと言えばここにいさせてくれるだろうけれど、岬先生は優しいから心配かけてしまうだろうから。そう思い直して立ち上がろうとする。けれど、俺が行動を移す前に俺のとなりに岬先生がドカッと座ってきた。予想外の岬先生の行動に驚いてじっと凝視してしまう。
「あはは、誰かに見られたら担任と生徒の二者面談てことにしちゃおう。なんとなく帰りたくない日とかもあるよね。座ってから言うのもあれなんだけど僕も隣にいていいかな?」
「あ……はい」
 穏やかにそう提案されて質問されて俺はただ頷いた。挙動不審であろう俺の態度を特に咎めることはなく朗らかに岬先生は話す。
「ありがとうね。そういえば2人で話すのは何気に初めてになるのかな?職員室だと他の先生もいるし一ノ瀬くんが1人でいることもあまり無いよね」
「……」
「学校はどう?あれからなにかされたりとかないかな?」
 実はついさっきまで桐渓さんと色々あり梶井とも色々ありました、と素直には言えなくて頷くだけでとどめた。普段の学校生活でたぶん支障は出ないはずだし、きっと大丈夫な部類に入る、はず。
「そっか、それなら良かったよ」
 嘘をついている気はないけれどそれでも安心したように笑う岬先生に罪悪感でチクチク胸が痛む。声にも出さずただ頷くだけの俺を咎めず「今日も嫌になっちゃうぐらい暑いよね」など返事があってもなくても平気な話題を出してくれるのが岬先生の優しさが表れている、気づかれない気遣いが出来る大人な人だ。……そういえば岬先生の下の名前って『優』と書いてすぐると読むんだったけ、名でその人を表すというのはきっとこの人のための言葉だろう。……俺の両親はどんな想いで俺に『透』とつけたんだろう。それすらももう知るすべはないけれど。
「……」
「ん?どうしたの、なにか僕に聞きたいことでもあるのかな?」
(……聞いて、みようか)
 すべてを打ち明けるほどの強さは未だ俺にはないけれど、軽くもしも岬先生だったらこの場合はどうしたらいいのかだけ……参考に聞いてみたい。甘えている訳じゃない。ただ、他の人の意見を聞いてみたい。それだけなら、きっと大丈夫なはず。

――――

「あの」
「うん」
「自分の価値観が、自分の存在がよくわからなくなったとき……岬先生ならどうします、か?今まで信じていた存在理由が一緒にいる人の影響で変わっていただけで、自分自身は何も変わっていなかったかもしれなくて、本当の自分が分からなくなったとき、どうしますか?どうしたら……自分は自分だと言えます、か?」

 今、俺は俺が分からない。何をすれば俺なんだろう、何をしたら俺じゃなくなるんだろう。今自分がしたいことは本当に自分がしたいことなんだろうか、自分のことなのに自分を疑ってしまう。何よりも自分が信用ならない。……記憶喪失はたぶん関係なく。ぎゅうっと膝をまた抱え込んで岬先生の様子を伺う。

「……うーん……そうだなぁ……そういえば僕も散々一ノ瀬くんぐらいのとき悩みまくったけれど、結局今もこれだっていう答えは出てないなぁ」
「え」
「ああ、頼ってくれたのにハッキリした答え出せなくてごめんね!」
「いえ、そこはぜんぜん……意外、でした」

 岬先生の態度見る限り嘘をついているようにもはぐらかしているようにも見えない。困ったように眉を寄せて昔のことを思い出しながらも解答は未だ出ていなかったことに落胆したのではなく驚いてしまった。『大人』である岬先生が。俺の考えは顔に出ていたのか岬先生は苦笑いをした。

「僕だって偉そうに『先生』って名乗ってはいるけれど、その実中身のほうは一ノ瀬くんたちとあまり変わりはないんだよ、一ノ瀬くんたちよりもちょっとだけ先に生まれて先に生きているだけ。文字通り『先生』なだけ。頭の良さは一ノ瀬くんのほうが良いと思うよ」
「そんなことは.........」

 突然そんなことを言われてどう反応していいの分からない。桐渓さんに言われたことはあるけれどあれは嘲笑と皮肉なだけで褒められた訳では無い。
 神丘学園にいたときも言われたことはあるけれど純粋に褒められた訳ではなくて悔しげだったり無理して言われたりだった、だから岬先生のように当然のように自分よりも良いと認められて口に出されたことはなかったから、逆にどう受け取って応えていいのかわからない。

「あ、ごめんね。僕がそう言ったら反応に困っちゃうよね!とにかく一ノ瀬くんの疑問はみんながしてることだから、あまり気に病まなくてもいいんだよ」
「……」
「……と言っても、一ノ瀬くんからすると色々複雑、だよね?」

 言葉に出さずただ頷いた。岬先生は俺の記憶喪失のことを知っている。きっと桐渓さんからも色々聞いているんだろうけれど、それでも親身になろうとしてくれている。

「一ノ瀬くんは記憶のこととか、ちょっとだけみんなと違うところも確かにある。そこは僕にも否定はできないよ」
「……」
「でも、さっきも言った通り気に病まなくても良いんだよ。胸張って自分は自分だって言い切れる人って人の方が極僅かだからね。大人も子どももみんなそうだよ」
「……そう、なんですか?」

 みんな俺にはない生まれてから今までの記憶がちゃんとあるのに、それでも『自分』が分からなくなってしまうものなのか。俺の反応に苦笑しながら肯定する。

「そんなものなんだよ。そのぐらい不確定で不安定なものなんだよ『自分』って。むしろ悩めるうちが花と言うか……段々そんな疑問すら抱かなくなってなあなあにしてそのまんま、て言うパターンのほうが多いんじゃないかな?いつの間にか諦めちゃうんだよね、知らないままに生きてみんなと同じようになって無個性になっていく。
それを大多数は『大人』と呼んでいるよ、もちろんそうと呼ばない大人もいるけれどね。僕ぐらいの年齢で自分はどこにいるのかって疑問に思う人はまだ『子ども』なんだと言われちゃうぐらい」
「岬先生は……」

 今も答えは出ていない、とは言っていた。岬先生も諦めて『大人』になってしまったのだろうか。……勝手なことだけれど、そうだと嫌だな、と思ってしまう。

「答えは出ていないけれど……僕はまだ諦めていないよ。まだまだ探し途中だから『大人』だからと言い訳に諦めてしまった人たちからすれば、僕はきっと『子ども』だよ」

 俺の勝手な不安は岬先生の穏やかなでも芯のある口調にかき消された。となりに座る岬先生は俺の方を見ていなくてどこか遠くを見ていて懐かしんでいるような、自嘲しているような、どっちとも取れる笑みを浮かべている。

「大人になって思うけれど案外大人って『大人』じゃないんだなって思うよ。現に今僕は学生のときから変わっていない子どもだから」
「……俺にはまだよくわからない、です」
「あはは、僕が学生の頃も同じようなことを当時の先生に言われたけれど一ノ瀬くんと同意見だったよ。まぁ月並みだけど一ノ瀬くんも大人になってみれば分かるよ」
「大人がどうとか、俺にはやっぱりわからないです。でも……俺から見た岬先生は、生徒のことをちゃんと見てくれる優しい先生で……誰よりも頼りになる『大人』だと思ってます」

――いつでも。悪意や変な目で見られることしかなかった。それは同級生だったり大人だったり。それは岬先生と同い年ぐらいの人からゴンさんぐらいの歳の人までの『大人』にも同じことだった。
 俺のことを『子ども』とか『生徒』とかそう純粋に見られたことなんてなくて、前の学校のときの担任にも出席やテスト返却以外で名前を呼ばれたことは確かなかったように感じる。
 九十九さんは俺に気遣ってはくれたけれど手放しで褒めたりスキンシップやコミュニケーションもそこまで取るような人ではなかったたから、だから口下手で感情表現も下手な俺に奇怪なものを見るようにも腫れ物を触れるような扱いをせずに、他の生徒と同じように接してくれるのがなによりも嬉しかったし、桐渓さんから俺を守ろうとしてくれたこと、色々と桐渓さんから聞いているのにも関わらずそれでも俺と話してくれて、こうして相談にも乗ってくれる。
 岬先生の言う『大人』とか『子ども』とかやっぱり俺にはわからないけれど、俺から見た岬先生は大人のなかで一番頼れる人だと感じている。もちろんゴンさんや五十嵐先生も頼れる人だと思ってるけれど……なんだろう、精神的に強いのかな。うまく表現出来ないけれどそれは『俺』が胸張って言えることだ。

「……生徒がひとりでもそう言ってくれるだけで……なりたい『大人』になれたとこんなに感じられるんだなぁ」
「……?」

 小さな声でなにか言っていたけれど、隣にいたにも関わらず全然聞き取ることの出来ないほどの音量だった。首をかしげて岬先生を覗く。
 悲しそう……なわけでないけれど、すごく喜んでいるわけでもなさそうな複雑な表情。人ってどうしてこういろんな表情を浮かべることができるんだろう。俺の視線に気付いた岬先生は慌てて目を合わせた。

「ごめんごめん、それよりさ一ノ瀬くん自身の意見で言えたね」
「……あ」

 そうだ。岬先生が頼れる大人だと思ってそう言ったのは伊藤でも桐渓さんも関係ない誰でもなく他でもない『俺自身』の意見だ。指摘されるまで気づかなかったけれど……。

「とりあえずはそういうところからはじめて行けばいいんじゃないかな?まずは自分が何が好きで何が嫌いとか……誰にも聞かないで自問自答してみてそこから追いかけて行けばきっと一ノ瀬くんの求めている答えに近づくんじゃないかなって思うよ」

――……そっか。たった今自分の意見を自分の意志で伝えられていたんだ。
 自分がどこにいるのか、なんて俺だけが考えていると思い込んでた、だけどそれは『傲慢』だ。
 俺が特別なんかじゃなくて……みんな、俺と同じように悩んで苦しんで……そして答えを求め続けている。岬先生も、探してるって言ってた。何を以て自分なのか、何がなければ自分じゃないのか。
 今は分からなくてもいつか答えを見つけたい。いつになるのか分からなくても、自分が何者なのかどうかちゃんと知りたい。

「確かに一ノ瀬くんの場合はほんの少しだけ特殊だけれど……でも、無理しないでいいんだよ。他の人に言われたからやる、とかしんどくなっちゃうからね。自分のことを知りたいんだって、一ノ瀬くん自身の意志で言うのなら僕は止めない。だけど一ノ瀬くんが苦しんでいるのを見るのが辛いと思っちゃう人がここにもいることだけは忘れないでね」
「……はい」

 具体的に誰かを対象にしているかの物言いに、もしかしたら桐渓さんになにか言われたのではないかと心配してくれたのかもしれないと予想する。前々から桐渓さんの俺への態度に対して非難していたからそう思ってしまうだろう。
 当たらずと雖も遠からず、今回は桐渓さんに何か言われた訳ではないけれど前回の言動などで疑われてしまうのも仕方ない、だろう。
 桐渓さんになにか言われたんだと岬先生は多分そう思っているんだと予想はついたから、それを訂正することも出来たし、梶井の名を出せばもっと岬先生は親身になってくれる、はず。


「……ありがとうございました」
「ううん、少しでもスッキリしたのなら良かったよ。じゃあ次の補習で最後だから、最後までよろしくね」

 穏やかに笑う岬先生にコクリと頷いて、その場から立ち上がり軽く礼をして下駄箱までゆっくり歩きながらさっき岬先生から貰ったスポーツドリンクに口をつける。

 桐渓さんに言われてきたことは確かに『俺』のことだけど、その瞳に映していたのは俺を通した『誰か』だった。『俺』は確かに原因だとしても桐渓さんの異様なまでの執着はその『誰か』と感じている。
 桐渓さんが俺へ向けた言葉は確かに俺へ向けた責める言葉だったけれど『俺だけ』に向けている言葉じゃなかったから……正直『上っ面』と感じる。
 うまく言えないけれどとにかく桐渓さんの言葉はこれ以上聞いても暗転も好転も出来ない、俺も桐渓さんも進むことも戻ることも出来ない、不毛な時間を費やすだけだ。
 止めることが出来るのは第三者視点がいないときっと出来ないことだ、俺がいくら抵抗しても躍起になってしまうだけだから客観的意見が無いと彼が冷静になることも出来ない。今は無理でもいつかは少しだけ聞く耳を持ってくれるかもしれない……やっぱり、俺性格悪いのかな。なんだか心配して声をかけてくて善意を表してくれる岬先生を利用しているように感じてしまって罪悪感を覚える。だけど桐渓さんはきっとこうしないと止まってくれない……悩むけれど、とりあえず頼って、みる。

 ……梶井とのこと……言えばきっと味方になってくれるとは思うけれど、やめた。選択肢にはあったけれどすぐに言わないと決めた。俺自身がちゃんと梶井と話さないといけないことだと感じたから。
 ただただ伊藤の優しさを甘受してばかりで、過去に向き合わず逃げて楽なところにいようとする俺に苛立っていた。
 自分自身自覚していなかった知られたくなかった……知りたくなかったところをグリグリと抑えつけられて、ゴリゴリと抉られた。本当のことを責められれば俺は何も言えない。梶井に私情がなかったと言うには思い切り腹が立つと俺に向けて言っていたからそれは違うとは思うけれど。梶井は『今の俺』を見てそう言っていたから。そう、言ってくれた。梶井はちゃんと俺を見て梶井自身の意見をぶつけてきた。それなら俺も梶井を見て俺自身の意見をぶつけるべき、だと思う。
 今ここで岬先生を巻き込んでしまえば、きっと俺と梶井の距離は空いたままだしこのままなにも出来ないままでいるのも嫌だ。俺自身の意志で、俺の意見を言わないと駄目だ。

「……今日、バイト休もう」

 補習が終わったらバイトに向かおうと思ったけれど、こんなぐちゃぐちゃな頭では逆に2人に迷惑をかけてしまいそうだから休むことにした。明日以降頑張るから、と内心情けなく言い訳をして2人のそれぞれメールを送った。吉田が上手く梶井を誘えたのなら次梶井に会えるのは10日後、夏祭りになる。それまでに色々考えをまとめておかないといけない。その前日には九十九さんと会う予定になっているから、少しでも聞きたいことを聞けるよう頑張らないと。……伊藤の力を借りずに、自分自身の力で。
 隠し事にするつもりはない、今はちょっと無理だけど後日俺の考えがしっかりと纏まったらこのことを伝えよう。存在を認めてくれる伊藤がいるのは確かに心強い、でもだからといって『伊藤』のことばかり考えての行動はきっと俺自身は何もできなくなってしまうから。
 今回は、できる限り俺だけで考えて実行してみたい。突っ走らないよう気をつけて、空回りしないようにはする。……かなり不安だけど、やってみよう。少しずつでも。
 ぐいっと雑に額から出てくる汗を拭って駅のホームへ早足で向かう。暑い、色々考えていて気持ちとしては忘れていたけれど身体はそんなことなかった、限界。今急げば丁度電車がくる頃合いで即乗れるはずだ。

 知らず知らずのうちに握りしめていたペットボトルがパキッと悲鳴をあげた。

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