3.先を生きる人。
「この人『みっちぃ』って呼べとか言ってけど、この人の本名『剛田厳蔵(ごうだ ごんぞう)』な。そこからとって俺はゴンさんって呼んでる。透もそう呼べよ」
「やめてぇ!もう捨てたお名前なのよぉ!みっちぃのほうがかわいいでしょ?ねぇとおるちゃん!!」
「……じゃあ、ゴンさんって呼びます」
「どうしてぇ!!」
その逞しい身体をくねらせながら訴えられたけれど、伊藤の言う通りにみっちぃさんではなくゴンさんと呼ぶことにした。どうしてもみっちぃさんと呼ぶのは違和感があって仕方がない。
買い出しから帰ってきた伊藤に「もう平気か」と恐る恐る、と言わんばかりに聞かれて伊藤は何も悪くないのに申し訳ないな、と思いながら頷けば嬉しそうに笑われる。
伊藤にはやっぱり笑顔でいてほしいな、と思いながらゴンさんが俺らに話しかけられたのでそれに返した際俺がみっちぃさんと呼んだらゴンさんって呼べよと言ってくれたので、その通りにすることにした。
「透困ってんだからそう駄々をこねるなよ」
「せっかくみっちぃって呼んでくれる希少な子だったのに!いかつい名前だからいやなのにぃ!」
「もうすぐ43のおっさんがなにぬかしてやがる」
「現実的なことを真顔でさらっと言わないで頂戴!!」
「良い名前だと思います。ので、そこからとって呼ばしていただきたいです」
みっちぃさんと呼ぶのが違和感があるということもあるけれど、俺自身こうなってからあまり名前で呼ばれることがなかったから……俺を呼ぶ声が聞こえたら怖いことをされるって内心身構えてしまうこともあったけれど、伊藤に名前を呼ばれるようになって俺は嬉しかった。
俺は自分がされて嬉しかったことは出来る範囲でやりたいと思う。だから、名前からとって読んでみたいと思った。
ーー本人が良ければ、になるが。伊藤はそう呼べと言ってくれたけれど、本当に彼がゴンさんと呼ばれたくなくてみっちぃさんと呼ばれたいのならそうしようと思う。
「駄目、でしょうか」
「あらやだ首傾げかわいい」
「……?」
「ゴンさん、話が逸れるから」
「ごめんなさぁい~でも可愛くない?」
「……ノーコメント」
「すずめちゃんったら恥ずかしがりやなんだからぁ」
「うっせ!」
「……??」
……よくわからないこと言われたけれど、結局ゴンさんと呼んでしまっていいのだろうか。話がずれてきてしまっていることを薄々察して、盛り上がっている二人にどう話しかけるべきなのか悩む。
二人を見ることしかできずぼんやりと眺めていると俺の様子に気付いた伊藤がハッとした顔になる。
「で、結局どうなんだよ」
「ええ、そうねぇ~とおるちゃんの真っ直ぐな目と首傾げに免じて『ゴンさん』と呼ぶことを許可するわぁ」
「……ありがとうございます?」
「なんで上から目線なんだよ」
「すずめちゃんは本当とおるちゃんのことになると食いついてくるわねぇ~。あまり生意気してるとちゅぅしちゃうわよ~!」
「あっすいませんでした」
「冗談よ!だから引かないで!敬語使わないで!とおるちゃんの後ろに隠れないで!」
……賑やかだ。楽しそうに会話を繰り広げているのをみて第一にそう思う。表情豊かなゴンさんとドライで冷静な伊藤のテンポよく流れる会話を聞きながら、そう言えば俺以外と話している伊藤をまじまじと見るのは初めてなことに気が付く。
叶野たちと一緒にいるときだってほとんど俺は伊藤のとなりにいて、俺以外と話しているときもあるけれどほぼ毎回俺に気遣ってくれているようでその会話に入れてくれるから、こうして俺以外と話している伊藤はちょっと新鮮だ。
伊藤だって、俺以外と話すこともあるだろう。俺が知らないだけで、きっと俺がいない間もこうやってゴンさんのところで働いたりしているのと同じように誰かと一緒にいて交流していることもあるだろう。……俺がいないときとかさ。うん、普通のことだよな。
叶野と湖越は親友だけど放課後は別々の友だちと遊んだり、たまに昼だって別のところで食べたりしているのだから、いくら親友とは言えいないときだって離れ離れのときだってある。
俺と伊藤だって互い以外の友だちとそれぞれの場所で遊んだってそれだけで離れるような関係ではない、と思う。なのに、なんだろうか。この胸あたりの感じるしこりのようなものは。なんだか、嫌な気持ちだ。
何に対して嫌な気持ちになっているのか分からず、謎の不快感にまた不快になる。
「……透?」
「?」
「どうした?すげえ力で掴んでるけど」
不思議そうに声をかけられたことが不思議で首を傾げる。掴んでいる、と言われてふと自分の左手が何かを掴んでる感覚があってそちらを見た。さきほどの会話の中で伊藤が俺を盾にしてゴンさんから逃げた際、俺の肩を伊藤が掴んでいたのだか。
その伊藤の手をなぜか俺が握りしめていた。それも結構な力が加わっていて俺はなんで声をかけられるまで掴んでいたことにも気が付かなかったのか疑問に思うほどだ。
「……なんでだろう。無意識だった」
「そうか?どうしたんだろうな」
「さぁ……分からない」
不思議そうにしているところ申し訳ないけれど自分自身が不思議なのだから答えようがなかった。俺の無意識下のよくわからない行動に俺と伊藤はただ首を傾げるしかできなかった。
何かを分かっているかのような意味ありげにそんな俺らのことをゴンさんはニヤニヤしていることには俺も伊藤も気が付かなかった。
俺の不可思議な行動はとりあえず流すことにして、そのままゴンさんも交えて会話する。……といっても大体は伊藤とゴンさんが話をしているところを聞いているだけだったけれど。
今はさっきみたいな訳の分からない不快感はなくて2人の会話に時折頷いたり感心したりしてた。
「ところで、とおるちゃん帰らなくてだいじょうぶなのん?」
「あ……一人暮らしなので」
「あらそうなの!1人が寂しいときはここで寝泊まりしてくれていいからねぇ!ね、すずめちゃん!」
「ああ……、俺ほぼ毎日ここにいるしさ、いつでも来いよ」
「……うん」
やっぱりここで暮らしているのかと思ったのは間違いではなかったか。じゃああの部屋はやっぱり伊藤の部屋か。……それなら。
「伊藤とゴンさんは、家族なんですか?」
「ううん~違うわよぉ、言ってしまうと親戚でも従兄弟でもなんでもなく少しの血の繋がりも無いわねぇ~」
「……そう、なんですか」
「気持ちとしては息子のようなものなんだけれどねぇ」
「母親って呼んでいいのか父親って呼んでいいのかわかんねえな……」
「そこは母親でしょう!」
「……いや、ねえな……」
すごく親しそうにしていたから、てっきり家族……にしては伊藤とは似ていなかったので親戚とかだろうかと思っていたのだが違ったようだ。明るく否定するゴンさんを見てそのあと隣に座っていた伊藤のほうを見ると居心地が悪そうにもぞもぞしてた。俺がそれを見ていると目が合って『あっ』と声が出そうな表情をした。
「……なんか、言うの遅くなって悪い」
「いや……驚いたけど、気にしてないよ。そういうのを言えるタイミングって難しい、よな」
少し間が合ったあと謝られた。今まで言い出せなかっただけだと、伊藤のことを大分知れた今ではなんで黙っていたのかとかそんなことを思わず、納得する。責めない俺にホッとしたようだった。
「ねぇとおるちゃんってバイトしてるのん?」
「いえ……やりたいとは、思っているのですが」
吉田との会話でもあった通り、やろうと思っていた品出しの仕事はすでに打ち切られてしまったし今も応募しているバイトは大体コンビニなどの接客ばかりでコミュニケーションがうまく出来ない俺には難しいというのは火を見るよりも明らかである。
あまり、自分が遊ぶためだけのお金は祖父の遺産から引き出したいと思えないからやりたいとは思っているのだが。
「じゃあ、良かったらここで働かないかしら?ちゃぁんと22時前には帰らせてあげるから安心してねぇ」
「え」
「はっ!?」
落ち込む俺にゴンさんからまさかの提案に俺と伊藤は驚きの声を上げる。
ーーーー
「なんか、あの人いっつも唐突だからよ。悪いな、色々と……」
「いや、丁度バイトを探していたし……俺にとってすごく有難かった」
スクールバックを肩に下げ、自分の濡れてしまった制服を貰ったビニール袋に入れそれを持ちながら歩いているせいで一歩前へ進むたびにガサガサと音が鳴った。その提案はありがたいけれど俺は表に出ることは上手にできないと思うから断ろうとしたのだが。
『とおるちゃんには皿洗いをおまかせしようと思うの~わたしとすずめちゃんだけだとなかなかお皿洗いに行けなくてたまちゃって仕方がないのよねぇ。洗っていないから使えるお皿がなかったりする事故が起きるから、そろそろ新しいバイトの子雇おうと思っててぇ~。表には出ないで皿洗いに専念してもらえればいいわよん。とおるちゃんさえよければ、になるのだけれど……どうかしらん?具体的な時間とか曜日とかは決まっていなくて暇なときに来てくれればいいし!』
料理は出来ないが、皿洗いぐらいなら俺にも出来ると思うし……曜日とか時間に縛られないのはかなり大きい気とも思う。こちらとしてはありがたい提案だが、心配になるほどそんなに緩くていいのだろうかと心配になる。
『いいのよぉ元々わたしひとりでこの店をやるつもりだったのだしぃ可愛い男の子ふたり一緒にやってくれるだけでわたしとしては寂しくなくてうれしいわ!』
そう女性口調で男らしく快活に笑ってくれて伊藤もここで働いていると言うこともあって警戒心が欠片も無くなった俺は気付いたら首を縦に振っていた。
「前に出ないでいいのもありがたい……」
別に人と関わるのが嫌いなわけじゃない。だけど得意ではない。料理のほうも破滅的だし。これがゴンさんや伊藤のやっているであろうことをやってほしいと言われていたとしたら……オーダーとるとき声が小さくて聞き返されたり料理の手伝いで大惨事になるのはすぐに想像がついた。
きっといつまでも慣れないで迷惑をかけてしまうだろうから、と断っていたと思う。ゴンさんも料理面は伊藤から聞いたかどうかわからないけれど、人と関わるのが得意じゃないのを察してくれたのかもしれない。
甘えてしまって申し訳ないが、初めてアルバイトが出来るところが伊藤がいるところというのがどうしても魅力的に見えたから一番の悩みが消えたせいで葛藤する間もなくつい頷いてしまった。
この辺は伊藤にも恥ずかしくて言えないな……。すぐに頷いてしまった俺を純粋に心配してくれた伊藤に、俺にはこんな下心があるんだとは言い出せなかった。
次に来たときにちゃんと契約しましょう、と今日のところは帰ることになった。伊藤は家まで送ると言ってくれたのでお言葉に甘えてる。ちなみに一回断ったけれど駄目だと拒否された。(そんなに俺は危なっかしいように見えるのだろうか)
「……透が表に出ると変な奴が沸きそうだしな」
「?何か言ったか?」
「いや、えーっと……一緒に働けて嬉しい、な」
「…………うん」
今の時刻は夕方でもうすぐ夜なのに空気が暑くて昼よりはましになったとはまだアスファルトも熱くて、冷房の効いたところにいるよりも俺の顔は赤かったと思う。
だけど、今もっと顔面の熱が上がった気がした。
ドッ、ドッ、と心臓の音が重くもなった気がする。夏風邪だろうか。なんて現実逃避してみたけれど、きっと違ってて。
自分が思っていたことを伊藤も思っていてくれたことが嬉しくて恥ずかしかった。少し慌ててしまって間が出来てそれを埋めようとして頷いては見たけれど、やっぱり頷いただけだと伊藤もどう反応していいのか分からないのか返答は無くて。
「……俺も、そう思ってた」
伊藤も恥ずかしいことを言ってしまったと思ったのかもしれないのに、俺は何も言わないなんてできなくて、ドクドクと熱くなっていく顔を知りながらも伊藤の顔を横目で見ながらそう言った。
伊藤は最初何を言われたのかわからなかったようで反応がしばらくなかくて言わない方が良かっただろうかと少し不安になった。
「っ、あ、お、そう、か」
俺の言ったことを理解したのか、一気に伊藤の顔も耳と首まで真っ赤になって挙動不審になったのを見てなんだか安心してしまった。……勿論、俺もまだ顔は赤いままなのはわかってるけれど。
恥ずかしいのに嬉しくて、嬉しいのに恥ずかしいこの気持ちはなんだろうか。しばらくお互い無言で同じ歩幅で歩く。
「あ、あー今度、海楽しみだな!」
話を逸らそうとしているのが丸わかりの声音でしどろもどろになっているから、吉田じゃなくても俺でもへただって分かる誤魔化し方だけど……この空気感がいやではないけれどどうしでも恥ずかしくて、それに乗ることにした。それに、海行くのは本当で、俺も楽しみなのも本当だ。
「……うん。あと4日、だ。この間買ったの、探さないとな」
「まだ出してなかったのかよ」
前に伊藤と買った水着を未だ出していなかったことを笑われてしまった。今度、海に行く。伊藤と……叶野と湖越と鷲尾と、で。
ーーーー
「せっかくさ、高1でこんなに仲良くなれたし!みんなで遠出したい!だから海行こー!泳ごーぜ!」
終業式後にそう叶野から提案されたのである。
「脈絡が分からん……すまないが僕は遠慮する、水着も持っていないし、たぶん泳げん」
「……水着は持ってるけど、俺も泳げるかわからないかな。俺が一緒にいても行っても楽しくないかも」
せっかく叶野からの提案で喜ばしいし伊藤との買い物の流れで水着を買ったけれど、神丘学園では初等部以外は水泳の授業は無かったし当時俺が一番塞ぎ込んでいたから水泳に出る気がなくていつも見学していた。
祖父や桐渓さんは俺をそういったところに連れて行くことはありえないし九十九さんもいつだって忙しそうだったけれど、8月と12月は特に忙しそうでその月は大体姿を見たことが無かった。……こうやって、誘うような誘われるような親しい友だちもいたことがなかった。
夏休みは寮にずっといた、お盆のときだけはどうしても寮も閉鎖されるから帰ってたけれど……記憶が無いとは言え、両親の墓参りには行くべきだろうかと考えていた俺だったが『忘れてしまったのに線香をあげるのか、どの顔を下げていくんだ』と祖父に言われてしまって、何も言えなくなった。寮にいるときは、家にいるときよりもまだ気が休めた。とはいえやっていることは自習か少しボーっとするぐらいなので家にいても寮にいても変わらなかった。
そんな俺が海に行ったところでみんな楽しめないんじゃないかと思ってしまった。泳げるかどうかも分からない、そんな俺なんかじゃ。何となく鷲尾も似た理由で断っているんじゃないかな……。
「別に、泳げねえならそれでいいんじゃねえの?」
「浮き輪もあるし、海で泳ぐだけが遊びって訳じゃないんだよ~!あ、もしかして大人数でちょっと遠出するのはだるい?」
「……いや、そう言うわけじゃ」
「ならいいんじゃないか?鷲尾はどうだ?」
「……」
「わっしー海こわいのかー!」
「そんなわけないだろ!」
「じゃあ決定だーい!いやっふー!!」
「っ、しまった……!」
「希望にしっかり乗せられたな」
こうしてみんなの優しい言葉に俺は拒否する術を知らず、鷲尾は叶野に煽られてまんまと乗せられてみんなで海に行くことが決定されたのだった。
ーーーー
「透たぶん泳げるだろうよ。まあ泳げなくても俺が教えてやるよ」
「……任せた。伊藤は最後いつ行った?」
「あー……そういや小学校以来だな。まぁなんとかなんだろ」
……少し不安になってきた。だけど伊藤は運動神経が良いみたいだし、久しぶりでもきっと伊藤なら大丈夫なのかもしれない。海、か。
なんだか俺が海に行ってあそぶというイメージが全然出来ない。テレビとかで海開きの特集で見たことはあっても直に感じていないせいだろうか。テレビで見る人たちはみんな楽しそうだった。家族、友人、恋人。老若男女問わず皆肌が焼けて痛そうにしながらも歯を見せて笑って楽し気だった。それは俺と同い年ぐらいの男子たちもいた。そのときは何も感じないようにしていたから分からなかったが、俺は結構海に友だちと遊びに行くということに憧れていたみたいだ。
笑い合って楽しそうにしているのを憧れて、憧れすぎて俺にはそういうところは不釣り合いだと思ってしまうほどに。いいのだろうか。
記憶が無い俺がこんな風に友だちとみんなと同じように遊んでも。俺なんかが、行っても良い場所なんだろうか。叶野から誘われたあの瞬間そんなことをすぐに思ったし、海に行く4日前になってもそう思ってしまうのは変わることが出来なかった。
「楽しみだな!」
でも、こうして俺に笑いかけて心からそう言ってくれる伊藤の顔を見たら……俺も、やっぱり楽しみたいと思える。
どんなところでも伊藤がいるのなら、きっと俺がそこにいっても大丈夫だなと思えるから……伊藤は不思議だ。不思議で……かけがえのないひとだ。
髪も黄色だけど、やっぱり伊藤を色に例えるなら俺には黄色だと思う。元気をくれる色、元気をくれる人。それが俺にとっての伊藤。
「うん」
そう頷いたときにはもう鬱々とした気持ちは消えて純粋に海に行くのが楽しみだなとしか思わなかった。
海に行ったらあれしようこれしよう、ああいうところの食べ物はおいしいとかそんな話をしていたらあっという間に家についてしまった。
夏休み前なら家に寄っていくのがいつもの流れになっていたけれど今日はあっさりと伊藤は「じゃあまたな」と帰っていくのを見送った。……寂しい、なんてことを感じてしまう。
そんなことを思ってしまったせいで今自分の纏っている伊藤の服をぎゅうっと握りしめた。俺が着ないであろうTシャツに伊藤を感じて少しだけ安心する。
安心したと同時に自分が同性の親友の服になにをしているんだろう、と冷静になってしまった。
「……とりあえず、お風呂はいろう……」
さっさと脱いで洗おう。そう決めて急いで家に入って風呂場へ向かった。……別に、少し惜しいとかそんなことは思っていないから。本当に。
寝間着として使用している半袖のTシャツと暑くて仕方ないのでハーフパンツを履いて、伊藤に借りていた服と濡れたYシャツを洗濯機に突っ込んで洗剤と柔軟剤を適当に入れて力強くスイッチを入れて、蓋を勢いよく閉じた。
「……これで良し」
こうすればあきらめもつく。もう何が諦めが付いたのかは聞かないでくれ。あっついから。
ガウンガウン、と洗濯機のまわる音が落ち着かなくなったので居間の方へ向かい携帯電話を開いた。叶野と伊藤と……吉田からも着ている。
複数になっていたから最初にメールが来た人順から返していこうと受信画面を開いた。
「……あ、」
下の方を見ていくとそこにあったのは九十九さんの名前。驚くことはない。だって、夏休みに会う予定でいつになるかまた連絡すると書いてあったのだからメールが来ていても不思議ではなくて、むしろ遅いぐらいといっても良い。
でも久しぶりに会うせいか、前と少し変わった俺になって初めて会うせいかなんだか緊張する。緊張から震えそうになる指を奮い立たせてメールを開く。
『お久しぶりです。連絡するといいながらまたしても遅れてしまって大変申し訳ございません。暑い日が続いておりますがお元気でしょうか。お会いする日程ですが、透様の都合さえよろしければ来月の9日はいかがでしょうか?』
8月9日。特に予定はない、その日で大丈夫であることを伝えると時間と場所を指定されて特に都合は悪くない……いやむしろ良すぎていいのだろうか、とも思ってしまうけれど九十九さんだから電車ではなく車で来るのだろう。それに了承すると『会える日を楽しみにしております』といつも通り堅い調子でメールの返信が来た。この家で話すわけではないことに少しほっとしてる。
ここで集まるのは暑すぎる。扇風機を付けても焼け石に水みたいなもので暑くて仕方がない。今は夜だから少しましだけれど、昼間はここにいるべきではないなと強く感じてしまうほどに暑くて仕方がない。
明日は補修もないし、本格的に暑くなる昼前にはどこか外に避難しないときついかもしれない。……ゴンさんは働きにくるのとは別にいつでも遊びに来てもいいと言ってくれたから、明日行ってみようかな。早速甘えているなと自分に呆れてしまうけれど命の危険があるのだから仕方がない。でもさすがに何も言わずに行ってしまうのもなとも思うので伊藤にメールで聞いてみよう。
返信ついでに明日も店に行っていいかどうかのメールを送ったあと、叶野と吉田からのメールも返した。
夏休み前に色んなことがあって、未だ解決していないことや分からないこともたくさんあるけれど……でも、不謹慎かもしれないけれど俺は今楽しくてこれからの夏休みが楽しみだ。伊藤から返信が来て『もちろん来てほしいだってよ。いつでも来いよ!』快く受け入れてくれたようでホッとしてそのあと嬉しい気持ちになる。
こんなに夏休みに予定が入るのはもちろん初めてのことだ。たのしみ、だな。……桐渓さんからなにも音沙汰がないのは、なんだか怖いけれど……そんな不安感も『水着を探さないとな』という目先の欲求によってすぐに打ち消された。一種の現実逃避かもしれない。