2.人間として。
「……鷲尾くんに話しかけてたのは、勉強を邪魔しちゃおうってそんな気持ちもあったんだよ」
少しの怯えと申し訳なさと居心地の悪さを感じつつもそれでも僕と目を合わせて、そう言われた。そう言われて戸惑いを覚え無かったと言えば嘘になる。僕が対人経験が少ないせいか叶野がそう言うのを隠すのが上手いのか、そういった負の感情を僕に覚えているとは思いもしなかった。
しかも、客観的に見れば勉強ばかりして人との関わりを持とうとしない僕よりも、人懐っこくて明るい叶野のほうが好まれているはずなのに、その叶野が僕を羨ましいと感じている可能性なんて考えたことも無かった。叶野にそう思われていた事実は衝撃を受けたしダメージが全くないとは言えない。だが……。
「……そうか。それが、叶野の『本当』なんだな」
それ以上に叶野の『本当』が聞けたことへの嬉しさが勝る。前は思ってもいない返事だったから、それより断然良い。……きっと『友だち』に近付けている。
僕の返答に勢いよく胸をぎゅうっと握りしめて苦しそうな表情を何故か浮かべ始めた叶野にどうしたのだと問うけれど「なんでもないっ!」と顔を赤くして言われてしまう。熱でも出たのではないかと聞いても「大丈夫、だいじょうぶだから」と必死に返されてしまう。
ひとまずは叶野の言うことに納得することにして(体調が悪くなったらすぐに言えと一言添えて)話を進めることにする。まさか僕にそんなことを思っていたなんて驚いたが……僕としてはあまり気にすることではないと考える。
「僕に話しかけてくるお前を最初は確かに邪魔だと感じていた。無駄に話しかけてくる奴なんて、小学生のとき以来だったからな。……そいつらも、そのうち話しかけて来なくなったが。あのときは何も思わなかった。僕は父の言う通り勉強だけして勉強だけ頑張ろうと思っていたからだ」
「……」
話しかけてくる奴らもそのうち話しかけて来なくなって、遠巻きに僕を見るだけ。そうするようにそうなるように僕自身がそうしてきたことで彼らは何一つ悪くない。彼らを否定して『邪魔な存在』と断じてきた僕自身がした結果。勉強の結果を求めるあまり対人関係の結果を疎かにしてきた僕のせいだ。だけど。
「それでも。お前は話しかけてきたな。冷たくしてもぞんざいに扱っても鬱陶しいと言っても。いつも、確か毎日くだらないことだったり突っかかってきたりしてきたな」
邪険に扱ってきた自覚はある。それでもなお、こいつだけは。叶野は、僕に真っ直ぐに向かってきた。でも、と眉を寄せて困ったような表情を浮かべているのはきっと悪いことをしようとした罪悪感だろう。
叶野からすれば本当にただ単に僕の邪魔をするためだけに話しかけてきただけに過ぎないのかもしれない、だが他のクラスメイト……いいや学校中が腫物扱いをされた伊藤にも、その伊藤と仲良く登校していた上美形である一ノ瀬にクラスメイトが困惑していたなか、普通に話しかけていたのだから普通に叶野希望という人間は『優しい』のだと分析する。それに……。
「叶野が僕の『邪魔する』ためだけに話しかけてきたのが本当だとしても、僕はそれでもいい。どっちでも構わない。僕は、毎日話しかけて来てくれた叶野に感謝している」
たとえそれが根っからの善意から来るものだとしても悪意から来るものだったとしても、結果として僕は良い方向に向かうことが出来たのだから。
「だから、ありがとう」
「……俺の本当を見て醜いところを直視してるのに、それでも良いなんて言える鷲尾くんに俺こそお礼言いたいぐらいだよ……」
「嘘吐かれるより今の方が断然良い。作り笑いよりその泣きそうな顔の方が好ましい」
苦し気で今にも泣きだしそうな表情の叶野にそう言うのは可笑しいのかもしれないが……、自分の意志を押し殺して酷い顔色で笑顔を作って僕のことを許そうとされるよりも今の方が断然良い。隠し事できないのが僕だから、そう半ば開き直ってそう素直に思ったことを口にする。叶野はぽかんと口をあけて間抜け面を数秒晒したかと思えば、肩を落として脱力した。
「……あはは……」
そして、泣き出しそうな顔で笑った。以前のような作り笑顔に似ていたけれど少し違っていて、その目に涙が薄ら滲みながらもその浮かべる笑顔も本当のものに見えた。泣きそうで悲しそうなのに、穏やかに見えたからだろうか。
「酷いこと言うよね~。……うん、鷲尾くんのそう言うところ俺も好きだよ」
「そうか」
「…………ありがとうね」
叶野は抱えていたものの何もかもをおろしたような顔で、笑って僕に礼を言う。今までにないほどの優しい笑顔で、僕の気分もなんだか清々しかった。これで叶野とのわだかまりが消えた気がした。
もちろん僕のしたことは忘れるつもりはない、この気持ちはもちろん忘れずに。でも『友だち』として叶野とも一緒にいたいと思った。
「もうさ、この間のことは気にしなくていいからね。俺はもう大丈夫だから、またいつも通り……ううん前よりもう少し近い距離でこれからもよろしくね!」
会計を終えて叶野と僕は反対方向なのでその場で別れる際明るくそう言ってくれた。
「……ああ、よろしく頼む。また来週な」
「うん!じゃあまたね!」
手を振られて、それを返すのは恥ずかしくでも返したくない訳ではないので、小さく手を挙げてそれに返す。
そのまま叶野と別れた。この後特に塾は無く自習ぐらいしかすることがないので特に焦ることもなく自宅まで歩いていくことにした。腕時計を確認すると15時ちょっと過ぎたぐらい。少し遅くなることは母親には言ってあるから大丈夫だろう。
帰る途中何度か叶野の言葉を思い返しては顔が(特に口が)緩んでしまうのを堪えた。僕のしたことは忘れることはないだろうけれど……それでも叶野に許された上に前よりも近くに来ても良いと言ってくれた。
僕は『友だち』なんていらない。そう思ってきた。でもそれはそう思い込もうとしていた、の間違いだったんだ。だって、今僕はとても嬉しい。
誰かといることが『友だち』と言える存在が近くにいる。じわじわと胸が熱くなる感覚はこの間一ノ瀬の笑顔を見たときとよく似ていた。少し違う気もするが多分気のせいだ。誰かといるのが、誰かと話すのが、とてもうれしい。嬉しい、嬉しい、と内心馬鹿みたいにそれしか考えず、それなりに距離があったはずだったが体感としてはいつの間にか自宅に着いていてそのままの気持ちで玄関の扉を開ける。
「……随分遅かったじゃないか。和季」
扉を開けると出迎えたのは母ではなくこの時間は仕事のはずの父だった。高揚していた気持ちが一気に下がったのを感じながらも何でもない表情で父の顔を見る。
「父さんこそ。随分早い帰りですね」
言葉だけで特に驚いてはいない。そろそろ来るか、とは察していたからだ。流石に仕事を早く上がってくるとは思っていなかったが。
「そんなことより和季、どういうことなんだ?」
「どのことでしょうか?」
父がどういう話をしたいのかなんてそれしかないのを分かっていながら敢えて聞いてみる。我ながら性格が悪い気もするが、僕から言い出したくないことなのだから仕方がない。
これで、もしも。常と違う僕のことを気にかけてくれる言葉を発したのなら僕の『分かっている』は勘違いとなる。そうなることを望んでいる。僕の分かっていることをそのままを父が告げるのなら。僕の望まぬことをするのなら、僕の父に対する反応のすべてが変わることとなる。性格の悪いことをしていると自覚しながらもそうしないといけないと思った。他の誰でもない僕自身のために。真っ直ぐ逃げ出さずに父の目を見た。僕の問いかけ返しに呆気に取られている表情を浮かべている。そして、何を言われたのか理解したようでカッと顔を真っ赤にしたのを見て、もう察してしまった。
「和季、お前は私を舐めているのか?勝手に塾を減らした上に勝手に家庭教師を解約して!それを受け入れたあいつもあいつだが!お前は良い大学に入るのだろう?何故努力しない!?どうして私の期待を裏切ることばかりするんだ!!」
父の反応は僕の予想通りであり、僕が分かっていたことだった。……少しだけ。期待していた。塾を減らして家庭教師は解約した僕の行動に、普段ならば絶対にしないであろう、父の言う努力をすることに熱心で裏切ることをしたくなかった僕のことを、何かあったのかと気にしてくれているのではないか、と。だが。
「今度こそ私の期待に応えてくれる、そう思っていたのに!!」
父は『僕のこと』なんてどうでもよかったらしい。自分の『期待に応えてくれる子ども』が欲しかっただけだった。分かってしまった。知ってしまった。……それを、知ってしまえば。もう知らなかったころには戻れない。
僕のことなんて何も見ていなくて、興味も持たない父に対する怒りが沸いてきた。それを抑えるつもりは毛頭無い。
「……お前に愛想は尽きた、そうあんたは僕に言ったんだろう」
目の前で喚きちらす奴が幼いころあんなに尊敬していて……大好きだった大きな父と同じ存在とにわかに信じがたい。……見たくない姿にさせてしまったのは自分のせいだろうか、少し前ならそう思ってしまっていた。だが、今の僕はもう違う。
自分の意見を押し付け相手の意見を聞かないのは他人同士でもおかしい。それをされるのが親子ならもっとおかしい。親だから、そんな理由で子どもが無力化する必要性はもうない。そう分かったから。僕は、父に反論する。そもそも、父が言ったんじゃないか。
あの日、高熱を出して高校受験に出ることすら叶わなかったあの日。ぼうっとする頭で時計を見て絶望的になった僕を追い打ちをかけるかのように。
結果を出さねば意味がないんだと。
僕には愛想が尽きたって、そう言ったじゃないか。
「『もう好きにすればいい』そう切り捨てたのは誰でもないあんただろ」
今の今までだって、僕は勉強してたときあんたは何も言わなかったじゃないか。塾の時間を増やしても家庭教師の時間を多めにしても、少しの時間があれば机に齧りついていたのを知っていたはずなのに。何の反応を僕に示してこなかった。責めることも褒めることもせずただ放置されてきた。少しでも父の期待に応えたい、そう思っていたことをあんたは知っていたはずなのに、何も言わなかったじゃないか。それなのに、何故今塾の時間を減らして家庭教師を解約した今になって、あの日言った『好きにすればいい』の言葉を本当の意味で僕がし始めたころにそう言うんだ。矛盾する父の言動にじっと真っ直ぐにその目を見た。
「なっ……和季、お前はそんな子じゃなかっただろう?それにあの日言った言葉はすべてお前を奮い立たせるのもので、本当に自分の好きにするとは思っていなかったんだ。勘違いさせてしまったのはすまない。それは謝る。だが、それを言葉通りに受け取るほど、お前は子どもだったのか?違うだろう?」
僕の視線に狼狽える父はもうあの日尊敬していた姿は無かった。奮い立たせるため?ふざけないでほしい。僕は父の言う言葉は傷つけるものばかり鮮明に思い出せてしまうほどに傷ついたのに。
自分の言動を謝りながらも僕にも責任があるような口をきく。そうか、察しの悪い僕が悪いのか。自分は悪くないと。そうか。
――――そうか。
「ああ。僕は子どもだよ」
苛立ちも通り越して今驚くほど僕は冷静に、淡々とそう告げる。目の前の父は間抜け面だが、それに構わず話を続ける。
「あの日の言葉全てに傷ついて少しでもあんたの期待に応えようと努力してそれに何の言葉をかけてくれなかったのにも、最近変わってしまった僕に気にかける言葉を期待してしまったのも、僕はまだ人生始まって10年そこらしか経っていない人間の子どもだ。あんたの思惑全てを察することは出来ないし、今まで友なんていなくていいと切り捨ててきたからすっかりコミュニケーション能力に問題のある空気も読めない、そんな子どもだ」
今までなら父に子どもと言われたら頭に血が上っていただろう。そもそもこうして父に意見することすらなかっただろう。だが、僕は『子ども』でしかない。
親に色々口出されるような年齢ではないが、かといって『大人』とは言い切れないそんな立ち位置だ。
もうじき40にもなる『大人』の期待に応えて空気をすべて読み切るなんて未だ10代半ばの僕には荷が重いことだし、それを求める父もおかしい。
「っ屁理屈をこねるんじゃない!子どもは親の期待に応え続けるべきだ!」
「誰が、決めたんだ。僕は僕だ、親の期待に応えるために生まれた来たわけがない!」
「お前を生んだのは誰だと思ってる!!」
「あんたと母さんだろう、何を当たり前のことを?」
「……お前なんか、産まなければ……!」
今まで従順だった僕がちょっと反抗すればこれかと傷つくよりも先に呆れが来た。そもそも僕が産んでくれと頼んだわけではなく産んだことを決めたのはそっちだろう、そう言い返そうとした。
「あなた、なんてことを言うんですかっ!」
僕が口を開ける前、女性の大きな声が響く。一瞬誰の声か分からなかったのはきっと僕だけではなかった。その女性が大声を張り上げることもなければ、父に掴みかかることも今の今まで無かったのだから。
いつだって。僕のことを案じていたのを知ってる。きっと父よりも、彼女は僕のことを見てて心配していたことを最近知り始めた。だが、それだけ。先ほどのように父と僕が話しているのを心配そうに見ているだけで決して口を挟むことなんてなかった。
「和季さんは、私たちが望んで生んだ子……いいえ、あなたが望まなくてもっ私は和季を望んで生みました!それをあなたは……!」
それが今……彼女は、母は……母さんは、父に掴みかかり怒鳴った。
「おい、落ち着けっ」
「落ち着いていられるものですかっ!!」
あまりの剣幕に後ずさり母の手を掴み落ち着くよう促すが、母さんは負けじと声を張り上げる。普段僕のことを見守って……心配そうに見ているだけの母さんが、怒っている。
きっと怒り慣れていないのだろう(少なくとも生まれてこの方僕は怒った姿を見たことがない)細い身体が震え肩で息をして今にも泣き出しそうな顔をしながらも、それでも怒っている。父に食い下がる。
「私は、和季が幸せならそれでいい……生まれたとき、そう言いました。あなたはそれに頷きました」
「……ああ、そうだとも。私は和季の幸せのためを願って勉強をさせてきたのだ」
「ええ、学のない私には勉強が出来て良い大学に入ることが和季の幸せなのだろうと思ってます。……いいえ、そう思っていました」
「その言い方……過去形であることは故意か?」
「故意ですとも!あなたが和季にしてきたことを見て、そうあなたの言っていることが正しいなんて思えるはずがありません。和季の努力を見ようともせずただ結果だけを見て、それだけで和季のことを決めてしまえるような……そんな父親を、尊敬して愛している和季を見てしまっては、そう、思えるはず、が、ないわ……!」
「……かあさん」
ついには泣きながら訴え、力が抜けてずるずるとその場に座り込む母さんの肩に手をまわして抱きしめた。腕の中の母さんは、僕よりも思った以上に小さかった。その小ささに驚いていると、きっと父さんには聞こえないぐらいの声で何度も「ごめんなさい、かずき」「あなたを守れない母親で」「ごめんなさい」そう謝罪された。僕のことを何も言わず見守ってきた母さん。
一ノ瀬と話して今まで好きではなかった母に対する目は確かに変わったが、それでもやはり『ただ僕のことを見ているだけ』のひとだという意識が抜けなかった。傷ついている僕に何も言わず、ただ見ているだけの、それだけのひと。だが、今の母さんの言葉を聞いて感じたことはちがった。母さんは言えなかったんだ。僕が、父のことを好きで母さんよりも好きで尊敬していたことを、僕を間近で見てきて知っていたんだ。
自分がなにを言っても、僕が聞かないことを、知っていたんだ。顔を覆い、しとしとと泣き始めた母さんを見て……ああ、僕は本当に自分を心配してくれていた人を蔑ろにしてきたのだと痛感する。
「ごめんなさい、母さん」
分かっていたつもりだった。だが、そんなことなかった。分かった気になっていただけだ。心から謝罪した。母さんに、初めてした。
ずっと。貴女を蔑ろにしてきて、僕を心配する声も態度も全部無視して、父さんしか見て来なかった僕を、それでも見捨てずに見守ってきてくれていた。それを知らず僕は今日までのうのうと生きてきたことに寒気をおぼえる。それと同時に、今知れてよかったとも思えた。
母さんに謝る僕を2人は目を見開いている。母さんのことを視界の端にしか見て来なかったのだからその反応も仕方のないことで、母さんに許さないと言われるのも仕方のないことだった。
「いいえ、いいえ……あなたを守ってあげられなくて、ごめんね」
そう泣きながらでも笑ってそう言ってくれて、僕は本当に周りに恵まれている、そう痛いほどに感じた。泣き出しそうになるのを堪えて父を睨みつけた。
「僕は……僕だ。あなたが望んで生んだ結果ではないが……それでも、僕は生まれた。僕が、生まれたんだ。『鷲尾和季』というひとりの人間が。僕は『鷲尾和季』だ。あなたの言うことを聞くだけの『玩具』なんかじゃない、ひとりの『人間』だ」
親が子を産むのが、子が親の言うことを聞かせるためだけ、じゃないだろう。子ども成長を見守るのが親なのではないのか。見守る、の範囲は勿論勉強も含まれているのだろうが、それだけじゃない。
人との関わり合いの中で得るものだってあるんだ。一ノ瀬たちと出会えて変われた意識。この変化はきっと良いものだと僕は思う。僕の話を聞かず制限して言うことを聞かそうとする父は、間違ってる。父親に僕はひとりの人間であることをこうして訴える。
「僕は、間違っていますか」
最後の希望をかけてそう問う少なくとも、僕の中では最後の情けの気持ちだった。これで、否定でも肯定でも良いが僕のことを考えてくれている返答であれば良い。そう思っていたのに。
「もういい!どうだっていい、お前なんかもう好きにすればいい!!」
叫ぶ父。僕の最期の希望を駄々こねる子どものように突き放された。それを聞いて全ての希望を父に持つことを辞めること決めたのは当然のことだった。会話で分かり合えることもある、先ほどまで叶野と話してそう知ることができたから、父とも分かり合えるのではないか、そんな希望を持てたのに。
僕の言葉は何一つ父に届かない。聞こうともしてくれずただ投げっぱなしにされる結果となった。もういい……もういらない。
「……ええ、本当の意味で好きにします。あんたにもう二度と、相談するつもりはない」
家族は母だけだ、そう思うことした。
あの後父は顔を真っ赤にして舌打ちをしながら荒々しく玄関の扉を開けて外に出て行ってしまった。残された母さんは「きっといつかちゃんと向き合えます。とりあえず、着替えてきなさい」と未だその目尻に涙をためながらも穏やかにそう言ってくれたので頷いて自室へ向かう。扉を開けて閉めて、閉め切った部屋のなかでずるずると座り込んだ。
「……僕にも、言えた」
父に反抗する言葉を、吐き出せた。手のひらを見れば震えていた。この震えは言いたいことを言ってしまった喜びと罪悪感から。今まで父の言う通りにしてきて口答え一つしてこなかった反動だ。高揚感と罪悪感。だが圧倒的に高揚感が大きい。
「言えた、んだ」
父を責める言葉と、母さんに謝罪する言葉。どこか達成感があった、これは今日のテストを終えたときと似ている。
本当にやりたいことをすることが、本当に言いたいことを言うことが、勇気が必要だが爽快な気持ちだ。僕の言葉が届かなかったのはショックだったが……けれど後悔はない。いつかは向き合える、とは母さんは言ったが、そんな日は想像もつかなかった。
とにかく僕は今まで言えなかったことを言うことが出来た。父さんにも母さんにも、叶野にも。結果はどうあれ、向き合うべきだとそう教えてくれた一ノ瀬のおかげだ。穏やかに僕に微笑む一ノ瀬の顔が脳裏に思い浮かんでドクンドクンと心臓が脈打った。
「……?」
胸が熱くなってぎゅっと抑える。そういえばさっきも一ノ瀬のことを見ていたら同じ現象が起こったがなんだろうか。
初めて僕のために追いかけて怒ってくれたひとが一ノ瀬だからか、少し親や叶野たちに感じるものが違う気がするが……どうだろうか。首を傾げつつ今一ノ瀬はどうしているのだろうかと制服から着替えながら気になった。
――――
「完全、とまでは行かねえけど、一応今まで通りになるのか?」
「……前より、本音で話せている気がするな」
「じゃあ前より仲良くなったってことだな」
――カタン、カタン。
規則正しく電車がゆられる音を聞きながら伊藤と話した。湖越は逆方面だったので改札口に入ってすぐ軽く手を振ってそのまま別れた。こちらを振り返ることなく反対のホームへ向かう後姿はとなりに叶野がいないせいか寂し気に見えた。……湖越が、梶井を拒絶したのを俺は見た。
梶井の俺に向ける視線は善意とは程遠く嫌悪されていたが、湖越に対しては違ってて。下の名前で呼ぶほど親しそうで、湖越を見るその目は優しかった。梶井がしたことを思えば湖越の態度は普通とも言える。……のだが、どうしても湖越に拒絶されたときの梶井が浮かべた表情が、脳裏に焼き付いて離れなかった。
ショックを受けたかのような表情とその後に見せた全てをあきらめた悲しい顔。幾度もフラッシュバックしながら伊藤と話した。
「……悪い方向には行っていない、と思いたいな」
湖越はともかく、叶野と鷲尾はきっと良い方向に向かっていると確信している。さっきの二人の会話を聞いてもう大丈夫、と思えた。だから俺は特に引き止めるでもなく安否を聞くこともしなかった。わざわざしなくてもいい、そう判断した。
叶野と鷲尾はもう心配無用だ。これからもきっと仲良くやっていけるだろう。だが、湖越は……梶井は、どうだろうか。
こう言うと薄情かもしれない、伊藤だって梶井のせいで停学になって今回だってほとんど梶井が引き起こした自体と言っても過言でもないんだろう。伊藤と梶井のことはすでに俺がここに来る前の出来事……過去のことであり、現段階梶井は伊藤に絡みに行ったのを目にしていないせいだからだろうか。
小室のときのように梶井を憎み切れず引っ掛かりを覚えてしまうのは、なぜだろうか。
「そういや……小室、来なかったな」
「……あんなことがあったから、かな。だけど、ほとんどはあいつの自業自得だと思う」
ふと出された小室の話題。先生に連れられて、今日まで顔を見ずテストが終わってしまった。
俺らのことも多少気まずいところではあるだろうが、それよりも己のした過去のことをクラス……いいや学校中の生徒に教師にバラされてしまったのだから。小室のしたいじめをつぶさに書かれていて目を通したが……酷い内容だった。
あまり思い出したいものでは無い。こんなひどいことを小室は楽しんでやっていた、自殺を行うほど追い詰めてそれでもなお今でもいじめようとしていたのだ、心底軽蔑する。小室のやってきたことは許されるべきではない、同情の余地はない。俺はそう思っている。だが、伊藤の感じるものは俺とは少し違うようだ。言い切る俺になんだか言い出しにくそうにしている。
「えっと」
「うん」
「怒らずに聞いてほしいんだがな」
「ああ」
「……少し、だぞ。ほんの少しだけだが、俺は……小室に同情してる」
「……え」
意を決したようにそう告げる伊藤に俺は驚きを隠せずに、目をいっぱいに見開く。人と人同士、感じるものは違うと言うことは分かっているが、それでも伊藤の感じていたものは理解できるとは言い難かった。
俺の思っていることは伊藤に通じてしまったようでひとつ溜息を吐いた。
「いや、もちろんあいつのしたことを思えば自業自得だと思う。悪口は言うは言われたくないことをばらすは、弱い者とか自分と対等な奴には噛みついておいて、自分がビビってるヤツには弱くなって、自分以外のことを何も思いやれないし自分のしでかしたことを責任をとろうともしねえで開き直りやがる。その上過去自殺しようと発想するまでに行くほど陰湿に粘着質にいじめていたのを知っちまったから、まあとんでもねえ屑の最底辺のやつだとは誰もが思ってるだろうし俺も思ってる」
「……そう、か」
庇い始める、とかそう言うのではないらしくて少し安堵する。小室のしたことは最低のこと。それは共通の認識だった。それなら……。
「何処に、同情してるんだ?」
疑問をシンプルに質問する。決して小室に同調している訳ではなく、むしろ批判的で庇おうとしている訳でもなさそうだ。だからこそ疑問になる。どうすれば、同情するのか。
「……」
「言ってほしい」
言い淀む伊藤に俺は目を合わせてそう言った。怒ったりしない、とか言いたくなったけれど確定できないことは言わないことにした。
無理強いはするつもりはないけれど、伊藤が俺に言ったということは俺に知っていてほしいと言うことだと思うから、怒ったりしないとは言えないけれど伊藤に見切りを付けたりなんてしない。きっと、伊藤にはちゃんと理由があるから。
しばらく見つめ合っていると、俺らの最寄り駅が着くことを告げるアナウンスが流れてお互いハッとする。周りのことを何も考えずに話していたから周りが気になったが、テストが終わった上昼食も食べた後で中途半端な時間と言うことがあり乗っている人は少なく、こちらを見たりするような人もいなくて少し安心する。……自意識過剰、という言葉がふと思いついて恥ずかしくなった。
「……透がいなかったときだったんだけどな」
電車を降りて改札をくぐりしばらく無言で歩いていると伊藤にボソッと小声で話しかけられる。あまり催促するのも、と考えてあえて何も言わなかったがそれが功を奏したのか分からないが話してくれる気になったみたいだ。相槌は打たず、目だけで続きを促す。あの日俺がいなかったとき……俺が湖越を追いかけていたときだ。
「小室のしでかしたことが書かれたメールが送られたとき。それを見た瞬間こいつ本当に屑だな、と思ってたしその寸前まで口論になってカッとなっていたから心底嫌悪してた。今でもその嫌悪はあるし、当時小室にいじめられていたヤツのほうが今の小室の何倍も何十倍も苦しんでいるとも思ってるし完全にあいつの自業自得で、許されないことだとおもう。……でも、よ」
何を言い合っていたのか気になるところではあるが、伊藤が怒るぐらいであり湖越を追いかける前のやり取りのことを考えるときっととんでもないことを言っていたのだろうと予想はついた。小室から受けていたいじめの被害者のことを考えつつも、それでも伊藤は言葉を出した。
「クラスメイトの誰もがひとりも、小室の味方になろうとしなかった。小室が力なく床に項垂れているのを見ても、そのあと先生に連れられるのを見ても、誰も小室のことを庇う……いや、気にかけることもしなかった。あんだけ小室と一緒にいた奴らも今では蔑んだ目で見てるしな。誰も本当の意味で『友だち』じゃなかったんだ……。小室のしたことは最低だと思う反面、こう思ったりもする。俺も、透と会わなきゃ同じだったかもしれねえってよ」
「同じ、じゃない」
「……とおる?」
自嘲気味にそう呟いて笑う伊藤に即座に否定する。俺は、その場にいなかったけど。
湖越を追いかけていたから突然暴露された小室の様子や先生に連れられた様子も……今の俺ではない『透』のときに起こった伊藤とのことも、俺はいなかったけれど。だけど、ちがう。伊藤は小室と違う。
「伊藤は、優しいひとだ。俺じゃない『透』と会わなくても、きっと、優しい。俺は今の伊藤しか知らない。俺じゃないとき俺と会っていたときも、俺がいないときのことも知らないけれど、でも。叶野や湖越は伊藤に気にかけていたんだろ。岬先生や五十嵐先生だって伊藤のことを庇った。それに、聞いた。岬先生が他の学校の生徒に絡まれていたのを助けたり枯れそうな花に水をやっていたこととか」
「なっ……」
自分のことを否定しようとする伊藤に俺は岬先生から聞いていたあれこれを伊藤にぶちまける。カッと顔を真っ赤にする伊藤にさらに言い募る。
「俺のこと、受け入れてくれただろ」
伊藤の知る俺じゃない俺を。何も言わずひとつも責めずに、ただ「帰って来てくれてありがとう」と「おかえり」といってくれた。
「まぁ、いなかったとき色々あって……」
「俺に寄り添ってくれるなんて、普通出来ないと思う」
「そりゃ透が何の事情もなく忘れるわけねえってわかってるしな」
「信じてくれるのが、嬉しいんだ」
俺を責める権利は伊藤にあるのに、それをせずただ俺のことを信じてくれる。誰かに言われたことかもしれない。けれど土壇場になればその人の本質が出るものだ。伊藤の本当は、きっと穏やかで優しいんだろう。
「俺は……伊藤の過去を知らない。俺と会う前の伊藤のことを。だけど伊藤は小室とは違う。万が一、伊藤が過ちを犯していてそれを暴露されたとしても、俺は伊藤を怒りながらもとなりにいる」
だって。俺は伊藤を好きだから。
――一番の友だちとして。
「伊藤も、色々とあったから思うところはあるだろう。小室に同情してしまうほどのこともあったんだろう。その辺は俺は理解できないけど……そう感じる伊藤を否定するつもりはない。ただ、分かってほしい。伊藤と小室はまったく違う。きっと俺と会わなかったとしても、伊藤の本質は変わらず穏やかで優しい。小室とは決定的に違うんだ。それだけは、分かってほしい」
徹底的に相手を痛めつけようとしてくる小室と、手を出したり相手を蔑むようなことを言わない伊藤は全く別物だ。俺は、小室が連れられるところも見ていないから特に同情したりは出来ないけれど。確かに誰一人として彼を気にかけもしないクラスメイトに当然だろうなという気持ちと誰も友だちじゃなかったのかと唖然とした気持ちになったが。
小室の場合は己から出た錆だ。でも、気にかけたりするのは罪ではないだろう。全く擁護は出来ないが伊藤がそう感じていることは、否定したくない。同じかもしれない、という言葉だけは否定するけどな。
「……透が親友で、良かった」
伊藤のホッと笑う顔を見て嬉しくなる。伊藤の感じるもの、俺の感じるもの、それが違っていてもこうして分かり合えるのはうまくいえないが、良いと思う。……伊藤がそう言ってくれたから、俺もちゃんと言える覚悟で出来た。やっぱり、俺は梶井の言う通り伊藤に甘えている。あの言葉はやっぱり引っかかって仕方が無い。