2.人間として。

 梶井がいなくなって、あの後俺と湖越のあいだに気まずい空気が流れて「忘れたって、本当なのか」とやっぱり気になったみたでそう聞かれて「……ああ、放課後にでも叶野たちも呼んでぜんぶ説明するよ。」と答えてとりあえずは教室に戻ることした。
 教室に戻れば先生はおらず……とより、なにかあったみたいで教室はざわめいており落ち着かない様子だった。いや、教室どころか学年中がざわめいて廊下に出ている生徒がちらほらいるぐらいだ。

「あ、戻ったか。おかえり」
「……ただいま、どうしたんだ、これ」
「携帯電話見てみろ」

 軽く手を振って戻ってきた俺に話をかけてきてくれたのは伊藤で、この状況はなんなのか聞いてみるとそう言われて通りに、鞄の中にある携帯電話を取り出してみてみると小室が過去にしたことが書かれているメールが届いていて、目を通せば吐き気すら催すほど当時のクラスメイトに酷いことをして自殺未遂を図るほど追い詰めたことを事細かに書かれていた。

「……これさ、1年生みんなに届いているみたいだよ」
「そう、か。その本人である小室は?」
「項垂れてその場から動けなくなっていたところをやってきた先生に回収されたぞ」
「……そうか」

 どうしてこんなに1年生のいる階がこんなにざわついているのかを叶野が、この場にいない小室の理由は鷲尾が教えてくれた。
 小室に対して俺は憤りを覚えているし、先ほどまでの散々人のことを罵る小室のことを思い出せばやっぱり許せないと思うし憎しみに近い感情を抱いている。
 それでも、こうして過去のことを暴露させられて動けなくなったことを聞くと『ざまあみろ』とか、そう思えなかった。好きではないけれど、再起不能にして叩き潰したいとまでは思っていなかったから。他のクラスメイトが小室に対して好き勝手なことを言っていたのは聞こえたが、それを否定することは出来なかった(小室の立ち振る舞いはやっぱり褒められたものではないからだ)けれど、俺たちは何も言えずただ無言でその場に立ちすくむしかできなかった。

「……全部。あいつの、仕業だ」

 湖越の呟きはざわめく教室にかき消されて誰の耳にも聞こえてなかった。ただ、俺の脳裏に拒絶した湖越と拒絶された梶井のことが焼け付いて離れなかった。
 そして、梶井に言われた言葉は確かに俺のなかで引っ掛かりをおぼえた。


 あの後、岬先生がやってきて今日は諸事情によりこのまま帰された。好奇心旺盛なクラスメイトが小室のことを聞いていたが、ただ困った顔で「ごめんね、現段階は何も言えないかな」とだけしか返されなかった。
 色々あったもののテストは明日から普通に行われることも告げられ、てっきりもうテストどころではないだろうと高を括っていたであろうクラスメイトたちは「えーーー」と嫌そうに叫んだ。




 どこにも寄らずにすぐ帰って勉強すること、とは言われたもののこのまま解散すれば正直テスト勉強どころではないし、ちゃんと俺のことも言っておきたいと思って駄目元で伊藤たちに話したいことがあると言ってみると快く頷いてくれた。そうして頷いてくれるぐらい皆の中でさっきのことが引っ掛かりになっているのだろうと分かった。誰にも見つからないところと思い伊藤や鷲尾と話したあの広場に向かい、話し合った。
 俺が呼んだからには俺のことを話すべきか、と思い話し出そうとしたが「すまない、先に僕のことを話してもいいだろうか?僕も、ちゃんと話しておきたいんだ」と言って、叶野も「俺も話したいことあるんだよね、いいかな?俺もみんなに知ってほしいことあるんだ」と言われた。伊藤と湖越のほうを窺うとすでに鷲尾と叶野に頷いていたから、俺も頷いて返した。

 鷲尾はいつも通り真顔で真剣にはきはきとした通る声で話し始める。幼少期から勉強で結果を出さなくてはいけない環境下にいてそれが正義であり当たり前のことであると信じて、友人を作ることを『無駄なもの』として言い聞かせてきた。
 上手くできなかったことへ父に謝罪をしてもそれを受け入れられることはなく、捨て置かれて、それでも何とか齧りついて、頑張って勉強して塾も家庭教師も増やして。努力を惜しまず、ストイックに勉強だけしていた。

「勉強が出来る一ノ瀬に嫉妬していた。僕は努力しても一ノ瀬に届かないと分かってしまったんだ。そこを梶井に突っ込まれてな」
「そう、だったのか」
「ああ。だが僕は梶井のせいだけにするつもりはない。きっかけは梶井だが、実際に行動に移したのは僕自身の責任であり梶井を責めるべき点は本人に許可なく勝手に誰かに過去のことを言ったことだけだ。……謝罪して受け入れられなくても、誠意を見せることが大事なんだと一ノ瀬に言ってもらったおかげで、僕は今までにないほど清々しい気持ちになれた。だから、ありがとう」
「……うん」
 最後にお礼を言われてどう反応していいのか分からないし、俺はそんな大したことしていないと思ったから否定したくなったけれど鷲尾は穏やかに笑ってそう言うから無碍にすることもできなくてただ頷くだけしかできなかった。

 鷲尾が話し終えて叶野も最初は話にくそうに、だが知ってほしいと言っていた通り頑張って伝えてくれる。家族がバラバラになってそれをバラされたこと。少しだけ修復出来そうになったけれどやっぱり駄目で、その上受験した進学校いじめられて新しく出来たはずの友人にも疎まれていた。
 いじめられた原因となったのは、叶野が自分の満足する努力をして結果を出したことが全ての原因ではないが起因した理由なのだと言う。……そのいじめの主犯に好意を抱かれていたと言われたときは、どう反応するべきなのか迷った。
「とんでもない人に好かれたんだよね……。誠一郎が隣にいたおかげで俺は立ち直れたけれど、傷を持ったままでさ」
「そうだろう、な」
「うん。それがテストを本気でやるの、怖くなっちゃった本当の理由。でも伊藤くんに昨日そんなもので友だち辞めないって言ってくれたし。それに……一ノ瀬くんも、明日のテスト本気でやるんだよね?」
「ああ」
「そっか、うん。それなら、もう俺は大丈夫」
 俺が大丈夫だからと言って叶野も大丈夫なわけでは、と一瞬思ったけれど「俺は大丈夫」と今までに無い無邪気にそう笑って言う叶野に出してしまいそうな言葉を押し込んだ。

「自分の話ばかりですまないな」
「すっきりした、ありがとうね~!よしどんとこい!」
「……」
 鷲尾の話も叶野の話も聞き終わって、俺の話になるのだが……何となく話しにくい。それと言うのも、鷲尾も叶野も痛くて辛い過去があって、それを2人は乗り越えているのか受け入れたのかふっきれたのか分からないけれど悩んでいるように見えなかった。
 そんな中で、未だ多少は受け入れたもののそれでもまだ完全に受け入れてすら出来ていない俺が、このことを話してしまっていいのだろうか。何も成し遂げていないのに、話してしまって責められたりしないだろうか。
「透、大丈夫だ。」
 勝手に疑って怯えてしまう俺に、伊藤はそう言って笑う。俺には、伊藤がいる。それが俺にとって一番の支えで心強くて……甘えてしまっている。その事実に胸が痛んだ。でも、話せる勇気を貰えた。
「……少し、いやかなり重い話になってしまうけれど、いいだろうか」
 自分でも重たい話だと分かっているので、ワンクッション置いてみる。
「俺の話聞いてくれたんだから今更だよ!ね?」
「ああ、俺も気になっていたしな」
「友だちのこと、聞きたいと思うのは普通のこと、だろ?」

 そう笑ってくれたり真剣に頷いてくれたり、それだけで泣き出しそうになるが何とか押し留めて、一息吐いて話し始める。
 話している最中、時折相槌を打って時折頷いて返してくれた。どちらにしても真剣に静かに俺の話をみんな聞いてくれた。
俺には過去が無いと言うこと。その原因が目の前で両親を交通事故で亡くなったのを見てしまったことで……俺が赤信号のなか飛び出してそれを庇ったせいだった。伊藤は引っ越す前からの友人であり、こっちに来て俺からすると初めましてだった。それにも関わらず俺のことを受け入れてくれた、大事な友人なのだとそう伝えた。そう言いると、その場は静寂に包まれる。次に訪れる言葉たちを想像して知らず知らずのうちに掌に汗が滲む。

 最低だ、こんな薄情者だったのか、説教できるような立場じゃないだろ、そう言われるのかもしれないと身構えていた。だけど。

「そんなことが、あったのか……」
「一ノ瀬、きみも色々あったんだな。大変だったな」
「そっか……伊藤くんと親しいけれどなんかちゃんと噛み合っていなかったり違和感を覚えた理由がよくわかったよー。一ノ瀬くん、お疲れ様」

 何とも言えない顔をする湖越にこちらに寄り添ってくれる鷲尾、気遣いながらもいつも通りの声音で接してくれる叶野。思っていたような批判を受けることなく、戸惑いながらも受け入れてくれた。逆に俺が戸惑うほど、すんなりと。

「孤立していた俺に普通に接してくる奴らなんだから、心配することねえっての」

 戸惑う俺の肩をポンと叩いて、伊藤は歯を見せてそう笑う。
「まあね~。一応俺にも色々あったしさ。むしろ話してくれるの、嬉しかったよ。信頼されてるーって思えたもん!」
「苦しんでいることを態々責めたりなんてしないさ。大したことはない問題、とは言えないが。辛いことだとは僕にも分かる。こういうとき何も言えないが……でも、僕はいつも通り接させてもらう」
「……そうか」

 叶野と暖かい言葉と、鷲尾の不器用だが優しい言葉をかけてくれたのが、嬉しかった。
案外、世界は俺にそこまで厳しくないのかもしれない。そう思えるほどうれしい。桐渓さんのことや両親が亡くなった後は祖父に預けられて亡くなったのをきっかけにここに来たことまでは言えていないけれど、いつか折を見て伝えたい。
 きっと、彼らなら受け入れてくれるから。

「流れをぶった切ってるようで悪い、が……伊藤は辛くなかったのか?その、一ノ瀬に忘れられて、しまったんだろ?」
「そりゃ……まあ多少は、な。少しも辛くないと言ったらうそになるけどな」
「……っ」

 湖越は伊藤の立場を重んじてそう問う。伊藤からすれば俺は自分のことを忘れていた人間である。そう疑問に思うのは普通のことだ。そう聞く湖越も少し気まずそうにしていた。伊藤は少し躊躇いながらも頷いていた。それに胸がずきんと痛んだ。

「でも、透が帰ってきていつもの日常に透が傍にいるだけで俺は嬉しいと思ったから。記憶は無くてもやっぱり透は透で……俺の親友だから。」

だが、伊藤は笑って言い切った。
 伊藤の答えに「それなら、いいんだ」と複雑そうな顔で湖越は一応納得して「わ~聞いてるこっちが照れてくる~!」と叶野は何故か頬を赤らめ「こういうのを親友と呼ぶのか」と学んでいる鷲尾が視界の端にいるのは見えた。

 俺は……その伊藤の答えを聞いて、純粋に嬉しいと思う。ただ……。


『ずーっと何も考えずただ甘やかしてくれる伊藤くんに依存していればいいよ!』


 梶井の言葉が脳裏に浮かんで張り付いて離れなくて、嬉しいのに伊藤の言葉は俺を肯定してくれるのに……もやもやするんだ。



 話し込んでしまって随分と時間が経っていて、いつも通りの下校と同じ時間になっていることに気が付いて、帰ることになった。バス組の鷲尾とはここで別れて、高校最寄駅へ叶野と湖越と向かい方面は2人とは逆なのでここで手を振って別れた。
「なんか、ずっと凹んでるみてえだけどどうした?」
「……」
 電車を待ちながら雑談をしていると突然、伊藤にそう切り出されて言葉に詰まる。伊藤は不思議そうな顔で俺の顔を見ている。俺は躊躇った。素直に梶井に言われたことを言うべきか。いや、そうすると伊藤のことだからきっと怒ってくれると思う。……どうしよう。
「まあ言いたくねえならいいけどよ」
「……いや、」
 俺の意志を尊重しようとする伊藤にまた『甘やかされている』と感じてしまい、つい伊藤の提案に何も考えずに首を振ってしまった。

「……テストが終わったら、話す。今日はちょっと……」
「ん、分かった。俺もテスト勉強気合入れるわ。透もちゃんと頑張れよ」
「……もちろん、だ」

 なんだか、自分の首を自分で絞めたような気持ちになった。俺のしていることはただ先延ばしにしているだけだと分かっている。……ただ、俺もちょっと今日は色んなことが起こりすぎて、冷静になりたかった。きっとテストを終えた自分ならちゃんと言える……はず。そうテストを終えた少し先の自分にすべて任すことにして、今の自分はしっかり勉強して万全の状態でテストに挑もうと思う。

 そう言い訳してしまうのは、きっと自分の悪いところだとおもう。

――――

「打ち上げなり~!テストお疲れ様でしたっ!!」
「お疲れ様」

 テストが終わって叶野の誘いでラーメン屋にやってきた。勿論、俺だけじゃない。
「お疲れさん」
「やっと終わったな……今回のテスト期間は特に長く感じたわ」
「……悪かったな」
 伊藤たちも一緒だ。またこうしてこのメンバーで行けると思わなかったとまでは言わないが、難しいのだろうかと不安になっていたから嬉しい。

「それにしても……まぁまた、伊藤くんとんでもないもの頼んでるね……」
「『泣く子もついに無表情!激辛ラーメン』……刺激臭のせいか肌がいてえんだけど」
「うめえのに。湖越、ちょっと食ってみろよ」
「俺かよ!なんでだよ、一ノ瀬と仲良いんだろ?そっちに一口やってやれよ」
「透は辛いの苦手だから」
「一ノ瀬くん辛いの苦手なんだ~」
「伊藤は自分が異常であることを認めろ」

 ……前よりも距離が近くなったと思うのは気のせいじゃないと思う。
 とりあえず、俺は伊藤のことすべてを肯定したいと思っていても否定したいと思ったことはないが、いかんせんこの辛いものが好きで平然としているところは理解できないと思う。こればかりは鷲尾の意見に同意してこっそり頷いた。

「……そう言えば、最近あまり時間に追われていないな」

 前々から気になっていたことを今ふとまた思い出したので、思い切って聞いてみることにした。なにを聞いているのか、と疑問を浮かべている表情の鷲尾に具体的に聞いてみる。

「少し前の鷲尾だったらいつも時間に追われていただろう?塾や家庭教師の時間に。最近は少し余裕があるように見えるから」
「……」

 鷲尾は少し驚いたようでわずかに目を見開いて俺を見る。……騒がしい店内の中、いつまでも反応もなく静かに俺を見ている鷲尾に、何かまずいこと聞いてしまっただろうかと焦った。もしかしたら『余裕に見える』の言葉が『暇に見える』と捉えられていないか心配になった。

「……鷲尾が努力してるのは俺もわかってるつもりだ。怠けているようにも手を抜いているようにも見えない。でも、以前までは切羽詰まっているように見えたのが、今はゆとりがあると言うか……」
「……そんな焦らなくとも、一ノ瀬が人のことを軽んじるようなことをすような奴ではないと言うことは僕にもわかっている。だから、伊藤。睨むのは辞めてもらおう」

 焦りが通じてしまったようで呆れながら俺を宥めてくれたとともに突然鷲尾の口から伊藤の名前が出て、振り返る。俺と目が合った伊藤は、気まずそうにしている。

「睨んでたのか?」
「いや……それなりの付き合いをしておいて、そう言う勘違いするのかって、つい思っちまって」
「もう少し僕のことも信頼してもいいんじゃないか?」
「……ああ、そうだな。善処する」

 鷲尾の突っ込みが刺さったようでばつの悪い顔をしている。鷲尾は厳しく非難するような眼で伊藤をじーっと見ていて、伊藤をどうフォローすべきか考えていると
「ははっ」
 鷲尾はふわっと厳しい表情を和らげた。一瞬聞き間違いかと思うほどの穏やかに思わず出てしまった笑い声と見間違いかと思うほど穏やかな笑顔だった。

「いや、伊藤。お前慌てすぎだろう」
「うっせーよ!てめえに罪悪感をおぼえたのが恥ずかしいわ!」
「そう言うのを覚えるぐらいには自覚あるのか、お前」
「あー本当うぜえ!」

 苛立っている伊藤とそれをからかっているような鷲尾の会話を聞きながらラーメンを啜る。俺にはしないであろう態度をとる伊藤を新鮮な気持ちで見やったあと、また鷲尾に視線だけを向ける。……いつも眉間に皺を寄せて、真面目で堅い雰囲気で近寄りがたいところがあった。休み時間も勉強してて、放課後も時間に追われるように終わったと同時に下校して。
 誰かと進んで関わろうとしなかった鷲尾。それがこんなに穏やかに笑えている。眉間に皺がまったくなくて眉を下げて、口角を上げて歯を見せて……きっと年相応に笑っている。

「鷲尾ってこんな風に笑えるんだな」
「……あっう、うんっ、そうだね……」

 湖越が叶野にそう感心して話しかけて、叶野は遅れながら反応する。彼が胸に手を当てて首を傾げていたのに気が付かず、ラーメンをまた啜った。

「余裕……ゆとりがあるように見えるのなら、焦るのを辞めたからだろうか」

 伊藤を一通りからかい済んだのか、不貞腐れつつあるのを見てやりすぎたと感じたのかは分からないけれど俺の質問の答えを話し始めてくれた。語るように話す鷲尾の表情は、さっきみたいに笑みを浮かべている訳ではないが静かで穏やかだった。

「一ノ瀬たちを見ていたら……そんな焦らなくてもいいのではないかってそう思えた。何故かは分からないが……。
もう少し、一ノ瀬たちといっしょにいる時間を増やしたいと思えたんだ。きっと、それが僕にとって『楽しい』と言うことで……ああ、上手く言葉が出ないな。もちろん勉強できるに越したことはないしやっぱり大事だ、その考えは変わらないが……、塾や家庭教師を減らしたいと思えてしまうほどお前たちと過ごすこういう時間が好きなんだと思う」

 鷲尾にしては、随分ふわっとした感じの内容の話だった。だけど……俺にはなんとなく鷲尾の言っていることが分かった気がする。鷲尾と事情は違うけれど、前のところにいたときの俺はすることが勉強しかなかったから、それをしてた。それは鷲尾のように大事だからとかそう言うのではなくて、俺には勉強することはただの義務だった。
 授業が終わって寮に戻っても時折祖父の家に行ったときも、食事や風呂に入ったり眠るとき以外はずっと勉強してた。特別苦しい訳ではなかったが、楽しくもなかった。それしか知らないのだから別に苦痛とは思わなかった。でも伊藤と会って、叶野たちと知り合うようになってから『楽しい』と言うことを知ってしまった。
 俺のことを『一ノ瀬透』と見てくれて、対等にクラスメイトとして接してくる嬉しさや、触れ合いお互いを知っていく楽しさを知ってしまった。もちろん、この間みたいに人と人の意見の相違でぶつかり合って傷つけてあってしまう苦しさや悲しさもあるけれど、それでも、誰かと笑い合えて嬉しくて一緒に遊ぶのが楽しいって知ってしまうともう知らなかったころには戻れないし、戻りたくない。

「……それで良いと思う。自分のしたいことをするのが一番だ、俺もそうだから」
「一ノ瀬が肯定してくれるのなら、自分に自信を持つことができるな」
「一ノ瀬くんの言葉って重みがあって説得力があるよねー」

 そうだろうか?特に何も考えず意見を言っているだけで自分にはよくわからないが、伊藤も同意しているし否定するべきことではないか、と思い直してラーメンの汁を飲み干した。

「……一ノ瀬のその生クリームラーメンには誰も突っ込まないのな」

 湖越のその呟きは騒がしい店内で黙殺された。

――――

 ラーメンを食べ終えて会計も終わってさあ帰ろうかと言う流れになったところで、普段なら言いたいことがあってもその場の空気を壊さないことを選んできたけれども。

「えっと、鷲尾くん。これから時間あったりする?もうちょっと色々話したいなーって思ってるんだけど……」

 さっきから鷲尾くんを見ると変な動悸を覚えて妙に緊張してしまうけれど『いつも通りいつも通り』何度も頭の中で念じて話しかけた。話したいことは、この間のことだ。
 昨日少しだけ話をしたけれどみんなを交えてで、色んなことが一気に起こりすぎてちゃんと話せなかったし、ちゃんと鷲尾くんと2人でしっかりと話したいと思ったから。
 先ほどの会話で塾とか家庭教師を減らしたとはいっていたから知ってるけれど、それでもやっぱり勉強は大事って言う意識は変わっていないみたいだったからこの後塾とかが入っている可能性があって少し自信が無かったけれど、杞憂だったみたい。

「ああ。僕も叶野と話したいと思ってた」
「そ、っかあ。塾とかは大丈夫なの?」
「今日お前とちゃんと話すつもりだったからこの後何も予定をいれていない。心配無用だ」

 相変わらずきびきびとした口調で取っ付きやすくなったわけではないけれど、前よりも柔らかい表情と親しみを感じてくれているかのような口調で頷いてくれた。
 元々俺と話すつもり、だったらしい。……うーん、なんだろう。ふわふわするというかなんか、変な気持ちになる。

「と言うことで、みんなは先に帰っててー」
「おう分かった」
「じゃあ、また来週」
「うん、2人とも色々ありがとうね!」
「友だちなんだから気にしなくていい」
「じゃあな」

 さらっと男らしいことを言う一ノ瀬くんとあまり気にしないでさっさとしている伊藤くんはなんだかおもしろいなぁ。

「……大丈夫か?」

 一ノ瀬くんたちはちょっと先に行ったあと、誠一郎に小声で話しかけられた。心配そうに俺を見下ろしながらそう聞く誠一郎。
 俺は、いつも誠一郎に救われている。小学生のときだって中学生のときだって、今だって。自分の身を気にせず俺のこと味方してくれて、周りの人間に恐怖を覚えて信じられなくて苦しむ俺に『そのままでいいんだ』と肯定してくれた。
 高校に入って無理をしていないかいつも心配してくれてた。俺にはもったいないほどの親友。大事な、ともだち。大事な友だちだから。だからこそ。『親友』に信頼はしてこそのものであって『執着』をしてはいけないと思うんだ。
 俺の駄目なところ、治さないといけないところ、それを肯定してくれるのは俺は救われてきた。でも、だからと言ってそれにずっと甘え続けているのはきっと違うと思うから。
 誠一郎は、俺のせいで動けないことも絶対にあったから。……梶井くんとの仲が修復できないほどになってしまった今ではたぶん遅すぎるほどなのかもしれないけれど。それでも。俺も誠一郎も、このままではきっといけないんだ。

「うん、大丈夫だよ」

 俺は心から笑ってそう言った。もう怖いものなんてここにはないのだから。あとは俺の勇気だけ。一歩踏み出す勇気だけ。それだけ。

「……そう、か。なら、俺ももう何もいわねえ。気を付けて帰れよ?」
「あはは、誠一郎お母さんかっ!じゃ、またね」
「……ああ」

 誠一郎にしては歯切りの悪い返事だった。だけど、俺は気付かないフリをした。俺のことを気にする視線を感じながらもそれも気付かないフリをした。……自分勝手でごめんね。でも、もうやめにしよ。

――依存し合う関係も、お互いを逃げ道にするのも、もう辞めにして。本当の親友になろう?



 学校の近所だとあのラーメン屋ぐらいしかないけれど、歩いて20分ぐらいのところには一応ファミレスがあるからそこに移動することにした。外で話すのは暑いしちゃんと腰据えて話したかったから。それは鷲尾くんも同じで、むしろ提案したのはそっちだったから驚いてしまう。
 歩きながら、本当に少し話していない間に鷲尾くんは変わっていた。一ノ瀬くんのおかげなのかな、そう思うと何故か胸がしくりと痛んだ。ほとんど無言で歩いてファミレスに着いた。
 席に案内され、このまま何も頼まずに居座るのも申し訳ないしなぁと適当につまめるフライドポテトとドリンクバーを頼んだ。話している最中に来られるのも、と注文していたものがくるまではまだ辞めておくことにしてドリンクバーへと向かう。
「……これ、どうやるんだ?」
「おお、初ドリンクバーなんだね。希少価値だ……」
 困惑している鷲尾くんにやり方を教えると「これ、面白いな」と感心していた。鷲尾くんって、こうしてコップを自分で取って自分で飲み物をいれたりすることも今まで無かったり、塾や家庭教師を沢山入れているところを見る限り結構良いところのお家だったりするのかな?
……子どものように目を輝かしている鷲尾くんを見て何とも言えない感情になったのは、俺にもわかんない。

 暑くて汗を掻いたせいで喉がカラカラで1杯目はすぐに無くなって2杯目に行ってもうなくなるかなと言う頃にフライドポテトが来た。正直、さっきラーメン食べたばかりで歩いたからといってあまり消化されている訳ではなくお腹いっぱいだけど、まあ食べられないことはないしね。とりあえずひとつ、とつまんだ。
「……えっと、さ」
 昨日からずっとちゃんと話そう、と思ってた。昨日は今日がテストだから、と辞めて今日絶対に鷲尾くんと話そう!そう意気込んで呼べたのは良いけれどどう話し出していいのか言葉に詰まった。色々シミュレーションしてみたけれど、やっぱり本番になるとそうもいかない。頭が真っ白になる。改まってちゃんと話そうとすると、どこから話していいのか分からなくなった。そう戸惑ってパニックになっている俺を察した様子。
「……先に呼んだのは叶野だが、すまないが僕から話しても良いだろうか」
 鷲尾くんから提案があった。俺が呼んだのだから俺から話すべきだろうとそう自分を責める声も聞こえたけれど……それに乗っかることにした。そのほうがいいかも、そう思ったから。

「……じゃあ、お願いしまっす」
「ああ」


「くどいようだが、もう一度だけ謝らせてほしい。すまなかったな。あのとき、僕はおかしかった」
「……。」

 深々と頭を下げて謝る鷲尾くん。『今は気にしてないよ』と言うのは簡単で。今までだって心に無いことを簡単に笑顔で言うことが出来た。今も、きっとそうするのは難しくはない。だけど。そう『嘘』を吐いたと言うことをすでに彼には見破られていて、それを少しの躊躇いを持ちながら指摘された。
 今まで隠し通せていた嘘を『嘘』と言われてしまったのだ。彼に嘘をつくのはすでに無意味だと俺は知っている。嘘をつくのは辞めにした。かと言って本音をぶちまけるのは未だ慣れないことで、どう返して分からず、無言を通した。それを知ってか知らずか俺の反応がないことに何も言わず、下げていた頭を上げて目を合わせた。一直線に俺を見つめるその目が少し胸が痛くなって疎ましくなって。とても、まぶしかったんだよ。

「俺はさ、鷲尾くんが羨ましかったんだよ」

 たぶん、鷲尾くんは俺の様子を見ていただけでまだ話していなかった。だけどその綺麗な黒い眼を見ていたら何も考えられなくて待てなくなって、勝手に言葉を発していた。突然脈絡もなく話し出す俺に、少し驚いた顔をされたけれど構わず何一つ思考することなく勝手に口が動いた。

「周りのことを気にせず勉強に打ち込むのを見て、自分のしたいように出来る羨ましくて仕方が無かった。友だちなんていなくても平気そうで、淡々の自分の信じる行動が出来る鷲尾くんのように、俺もなりたかった。俺だって、勉強したいのに。だけど俺は、誰かに気遣って目立たないようにしないとってそんな気持ちのほうが勝ってて」

 なんも考えていない。こうしないと嫌わちゃうとかもう苦しい思いをしないためにはどうすればいいのかとか俺がどう発言してどう行動すれば誰かに喜んでもらえるかとか、誰かに気遣わず誰かのことを何も考えず、ただ自分がどう思っていたかを言いたくて仕方が無くて。

――俺のことを鷲尾くんに知っててほしくて。

「……鷲尾くんに話しかけてたのは、勉強を邪魔しちゃおうってそんな気持ちもあったんだよ」

 どうせ、うそをついたところできっと鷲尾くんにはバレちゃうから。それならいっそ全部ぶちまけてしまおうって。今日……ううん、テストが始まるときから思ってたから。
 小室くんのことが無ければ俺の思っていたこととかもう少し静かにみんなに打ち明けられたかも。……クラスメイトに醜態見せることになっちゃったしね。
 期末テストだからか鷲尾くんや一ノ瀬くんたちが庇ってくれたからか(小室くんのことがあったから薄まったのかもしれないのは、少し複雑だけど……)そこまで俺に対して態度を変えるような人はいなかった。
 今日まで期末テストだったからという理由もあるかもしれない。もしも、テストが明けて態度を変えたりする人がいても、きっともう大丈夫。……たった今、鷲尾くんにぶちまけてしまったことにどう彼が反応するかでまたちょっと俺は不安定になってしまうかもしれない可能性もあるけど、それでももう隠し事はしたくないから。

 俺は、一ノ瀬くんのようになれないし鷲尾くんにもなれなくて、伊藤くんや誠一郎にもなれやしない。俺は俺だから。それならせめて自分が好きな自分でいたい。そう決めたんだ。

「……そうか。それが、叶野の『本当』なんだな」

 しばらく凝視され、無言が続いた後鷲尾くんが口を開いた。口調はいつも通り硬くて怒っているようにも呆れているようにも聞こえた。
 それに少し怯んでしまったけれど、話す鷲尾くんの表情は穏やかで口角を薄ら上げて微笑を俺に向けた。

「……っ」

 さっきの笑みよりも控えめだけど、今正面だってその微笑と向き合ってさっきよりも胸の高鳴りが強く感じてしまう。じわじわと胸が熱くなって、苦しくなった。思わず胸あたりをぎゅうっと抑えた。

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