2.人間として。
アイコンタクトで考えが通じるようになった透に嬉しく思う。そのぐらい俺は透のなかで大きな存在になっているのだろうと分かって嬉しく思ってしまう俺はきっととんでもなく浅ましい人間だと思う。……もしかしたら、梶井と会うことになってしまうかもしれない。そんな可能性を思い浮かべてしまい、今すぐに透を追いかけたい気持ちになったが、この場を放っておけなかった。
「俺は悪くねえ!!梶井だ、梶井が俺をそそのかしたりしなけりゃ、あいつがこいつのことを教えたりしなきゃ、おれはこんなことしてねえよ!!っだから、おれじゃねえ、俺じゃねえんだよ、そうだよな、なぁ?」
なおも自分の責任をとろうとせず喚きちらす小室を置いて行く気にもならなかった。俺にとって透はとても大切な親友だ。一番の親友であり、俺の生きる意味と喜びと悲しみを教えてくれた存在。誰よりも大事な人。それでも、俺のなかで透とは別に叶野も鷲尾も湖越も、大事な存在だと思える。梶井の名前を呼び走り去っていった湖越のことも気になるが、それは透に任せる。
透にここを任せられたしな。……守るだけが、親友じゃねえもんな。俺も透を信じよう。
「ふざけんなよ、てめえ」
「ひっ、てめ、また人を殴るのかよっ!」
んなことしねえよ。胸倉掴んで立たせてるだけだ。
荒々しくなっているのは認めるけどな。俺は殴りかかられなけりゃ自分から手を出したりしねえ。殴り返さなきゃ殴られ続けるんだからよ。そんな状況にならなきゃ誰かを傷つける気はねえよ。まあ殴りかかってくるような度胸はこいつにはねえし大丈夫だろ。それよりも。
「てめえはいつになったら言葉で人を殴るのを辞めるんだ?」
いつもいつも、誰かを傷つけようとする言葉しか吐こうとしないこいつはいつになれば辞めようとするのか聞いた。
この雰囲気を見る限り1回や2回じゃないだろう。どういうつもりかしらないが、それは突然殴りつけていると同じじゃないのか。そう思って聞いた。
「は?殴るとかぶっそうなこと言ってんじゃねえよ!俺はただの悪ふざけだ!」
「その悪ふざけで散々傷つけてるじゃねえか。言葉は外見じゃ分かんなくとも、人の心をぶん殴ってるじゃねえか。外見上の怪我よりもよっぽど性質が悪い」
加害者側はふざけていただけの言葉でも、言われた側はそうは思わねえよ。少し考えればわかるだろうが。
「知らねえよ!そんなんで傷つくほうが弱い証拠だろ!」
「……ふーん」
言い切る小室の胸倉を解放した。解放されて勝ったと言わんばかりの円満な笑みを浮かべている。
「そもそも!俺は梶井に言われただけ……」
「黙れ。てめえはもう話すな。その声、不愉快だ」
もう、その声を聞くだけで吐き気を催してくる。自分がどんな表情を浮かべているかわからないが、周りのクラスメイトも叶野も怯えたように身を竦ませているのを視界の端に捉えてしまった。この場に透がいなくてよかった。
すでに何度かやらかしてるが、今は本当に見られたくなかった。たぶん見られてもきっと透は変わらずに接してくれるけれど、俺個人が見られたくない表情を浮かべているから。
「なっ……」
「てめえに殴る価値もねえよ。触りたくもねえ。金輪際その不愉快にするだけの声、出すなよ」
じわり。目の前のこいつの目を見ながら本心を言えば、こいつはどういうことかその目に涙を浮かべ始めた。なんだよ。
「こんなんで傷ついてんのかよ?てめえのほうが糞ザコじゃねえか。自分がしてきたことのほんの一部を返されただけでこのざまじゃねえか」
ほんの少しだけ本心を言っただけで、今にも泣き出しそうになっているこいつを嗤う。いつも思う。弱い奴ほど良く吠える、と。こいつも俺を殴ってきた奴らも。
「梶井に教えてもらったから自分は悪くない?馬鹿じゃねえの。その情報を貰ってこうして叶野を傷つけようとしたのはてめえの判断だろ?叶野のことを勝手に話した梶井も梶井だが、それを話された上でわざわざクラスメイトに聞こえるぐらい馬鹿でかい声でバラされたくないことをバラしたのはてめえの判断だろ。そのへんを梶井一人のせいにしてんじゃねえよ。自分の行動と言動には自分で責任持てよ。糞ザコにはそんなことも分かんねえのかよ」
いつだって言う側は言われる側のことなんて何も考えていない。言われる側にも問題あるとかよく言われたりするが、それは言う側は何も悪くないと庇うに値するほどの理由なんだろうか。言う側は絶対言われる側のことを『人間以下』としか見ていない。ああ、腹が立つ。
叶野の事情なんてなにも考えず自分が楽しみたいからとこいつは叶野に暴言を吐いた、透にもそれを向けていた。透だってあまり話さないけれど散々罵られて蔑まれて責められてきた、それを悲しみながらも『平気だ』と自分に言い聞かせてきた透の事情を少しも知らないくせに。裏では自分でも気づかずに感情すら失ってしまうほど苦しんでいるのを知らないくせに。
なにも知らないで知ろうともせず目の前の快楽だけを追いかけようとするこいつにも、記憶がないのを一番戸惑っている本人を差し置いて責め続けていた桐渓も。俺のことを知ろうとせずにただ容姿だけを見て『俺』を判断した家族も。同級生も先生も大人も。
みんな、みんなみんなみんなみんなみんなみんなみんなみんなみんなみんなみんなみんな。
『死ねよ』
「落ち着け」
嗤いながら呪詛を吐こうとした俺に、待ったをかける声が妙に大きく聞こえた。振り返れば、じっと俺を見ている鷲尾と目が合った。止める声は鷲尾。
「伊藤くんまで、小室のとこまで堕ちなくていいよ」
傷つけられていたのに、俺のことを気遣い宥めるように困ったように笑いながら言うのは叶野。2人からの毒のない視線に自分がなんて言おうとしたのかハッと冷静になる。いくら嫌いな奴でも、最低なことを言いそうになった自分に驚く。
「俺はもう平気。だって……こうして怒ってくれる友だちもいるしね」
怒ってくれてありがとう。そう笑う叶野に罪悪感。さっき言いそうになった言葉は叶野のこともあったが、ほとんど私怨も含まれていたからだ。おう……それだけ言って俯いた。俺が俯いたのと同時に今度は鷲尾が小室と目を合わせた。
「な、なんだよ」
「貴様は醜いな」
冷めた声で言い切った。小室はあまりにはっきりと言われたものだから逆に上手く言われたことが理解できなかったのか呆然としてる。間抜け面な小室に構わず鷲尾は言葉を重ねる。
「奇遇……いや、きっとわざとなのだろうな。僕もとある人間に一ノ瀬のことを教えられた。誰なのかは言わないがな。貴様と同じように一ノ瀬のことを晒すようなことをしてしまった。叶野にも失礼極まりないことをしてしまった。確かにきっかけはそいつに教えられたことだ。だが実際に行動に移せてしまったのは誰でもない僕だ。そこから逃げようとする人間は僕以上にとんでもなく愚かで醜い人間が他人を言い訳にする姿は客観的に見て、とんでもなく醜いことだと知ることができた。そこだけ感謝しておこう」
とんでもないことを言っているのが聞こえた。色々飲み込めないが、わざわざ鷲尾が今ある人間にと言っていたが、たぶん小室と同じ人間……梶井に同じように言われたんだろう。そして小室と同じように自分の思うがままに行動して、叶野を傷つけた。結局行動に移せてしまったのは鷲尾も小室も同じだ。だけど、鷲尾は一回逃げたがちゃんと受け入れた。そして謝る際には梶井の名前も出さなかったし、梶井だけのせいにする発言もしなかった。鷲尾も小室も結果として同じことをしてしまったけれど、その後の落とし前は全く違う。
「鷲尾くんはちゃんとしてる。俺、今初めて梶井くんが関わってること知ったよ。小室と比べなくていいんだよ、そんなに自分を下にしなくてもいいよ」
「……僕はこいつと同じだろ」
「ちゃんと謝れて誰のせいにもしない地点で同じじゃないよ。自信もってー!」
「そう、だろうか」
「そうだよー!」
あまりに自分を下に位置すると言う鷲尾に叶野はなだめている。少しだけいつも通りのテンションになりつつあるのが分かってホッとする。……途中から小室だけは呼び捨てにしているところから一線を引いているんだなと感じる。今も小室のことを少しも見ていない。
戸惑っている奴が多いこの狭い教室のなか、穏やかな空気になりつつある叶野と鷲尾。たぶん、前よりも穏やかだ。まだ2人はちゃんと話し合えていないようだが、この感じだったら大丈夫だろう。
「なんなんだよ、おまえらっ」
さっきまで話の中心にいたのに、誰も視線すら向けることもされなくなった小室が苛立ったように吠えるが、叶野は何の反応を示さない。
鷲尾はチラッと見るだけで、その見るのも哀れなものを見るかのような視線だった。クラスメイトもさっきの小室の発言に引いたようで冷たいもので小室はたじろいだ。
誰の味方がいなくなって戸惑う様子を見せた小室を見計らったかのように、ヴ―……ヴ―……とバイブレーションとピロンと言う音や色んな曲が流れ始めた。携帯電話のバイブレーション、着信音だと思う。一つや二つ……いや三つぐらいが同時に鳴るなら、このタイミングで鳴るのも含めて偶然で済ませられるだろう。だが。
「な、んだよっなんでみんなの携帯が一斉に鳴るんだよっ」
クラスメイトの誰かが不気味そうにそう言う通り、ちゃんと確認は出来ていないがたぶんクラス全員の携帯が鳴っている。……俺の、携帯電話も。
誰かが一斉に同じメールを送信している、そう疑うのは自然の道理だ。だが、クラス全員が全員同じ交友関係を持ってアドレス交換をしている訳ではない。照らし合わせたわけではないけれど恐る恐る同時にその宛先不明のメールを開いた。
『1年B組の小室達也はいじめの実行犯で中学のとき何人もの同級生をいじめてときとして恐喝して不登校にして最悪自殺にまで追い込ませた』
そこから始まって、長々と話すのも躊躇うほどの陰湿ないじめの詳細がそのメールには書かれていた。そのメールを見た小室は、力が抜けたようにその場に座り込んだが、誰一人同情せずただただ冷えた目で見るだけだった。
やったことはドン引きするし許せないことをしたんだと憤りを感じながらも……それでも、誰一人小室の味方をしようともしないのが……なんだか虚しい気持ちになる。
こいつがしたことは最低だし許されないことだし、許せない。
だが、もしかしたら……透と出会わなかった俺も、こいつと同じだったかもしれないという可能性を否定できない自分がいた。
小室はそのまま授業が始まる鐘が鳴って、やってきた先生に驚かれてとりあえず保健室へと引っ張っていくまでそのまま項垂れたままだった。
「可哀想な、やつ」
心のなかだけで呟いて小室が先生に引きずられて教室を出ていく、その哀れな後姿を見送った。
――――
「……なに、どうしたの」
「梶井いるか!?」
「……知らないよ」
「そうか、サンキュ!……それならどこだ、あいつ……屋上にいるか……?」
教室を出た湖越を追いかけるが、すでに隣のA組の教室前にいてたぶんA組の誰かと話しているのが見えた。
今なら追い付くかと思って走って湖越のもとへ向かうけれど、その『誰か』と話し終えてしまったようでまた走って行ってしまった。……俺から逃げたわけではないとは思うが、何故かショックな気持ちになる。
「あっれーイッチじゃん!そんな走ってどしたのー?」
湖越を追いかけるべくそのままA組前を通り過ぎようとするけれど、多分湖越と話していたであろう『誰か』に話しかけられる。俺のことを『イッチ』なんて呼ぶのはただひとりで、その『誰か』を顔を見ずとも分かった。
「……吉田、か」
「やっほー!」
オレンジ色の髪に負けないほどの邪気のない明るい笑顔で手を振ってくれる吉田に少し気が抜けて、走るスピードを弱めその足を止める。
「湖越を追いかけてるんだが、何か聞かれたか?」
「んーのぶちゃんどこーって聞かれたけど、おれ知らないって答えちゃったー」
のぶちゃん……一瞬誰のことを言われたか分からなかったが『梶井信人』の名前を思い出して、下の名前からとっているのだろうと察した。
「梶井と仲良いのか?」
「んー仲良くしたいとおもってる!だけどあんまり教室に来てくれないのよー」
ニックネームを付けるほどその梶井と言う人間と吉田は仲良いのかと思ったが、そうなりたいと言う願望を口に出すのを見るとあまり話していないようだ。だけど、ちゃんと梶井とはなし自体はしたことはあるみたいだ。
「そうなのか。良かったら今度梶井のこと、今度教えてほしい。気になるんだ」
「おっ!いいよー!」
「ありがとうな。ちなみに湖越はどこ行ったか分かるか?」
話を聞く限り、ちゃんと梶井と話したことがある人とは会っていない(小室はカウントしていない)から梶井と同じクラスでかつ簡単に梶井をニックネームで呼べるような吉田なら少なくとも俺やクラスメイトよりも梶井のことを知っていそうだ。笑顔で頷いてくれた吉田にホッとする。そのまま湖越はどこに行ったか心当たりがあるか聞いてみる。吉田と話していてすっかり見失ってしまった。
「うーん知らないって言った後すぐいなくなっちゃったからなぁ~…、あっでもなんか『屋上』とかなんとかいってたかなー?」
考えこんでいたからあきらめて自力で探そうと思ったが、思い出したようにそう言ってくれた。これで隈なく探すと言う選択肢は無くなった。確証は無さそうだったが、何もないよりも断然良い。
「そっか、ありがとうな。じゃあまた」
「うん!またお勉強おしえてねぇ!」
「了解」
素直でどこまでも闇がない明るい笑顔に見送られて、階段へと走った。俺は、湖越と吉田が話しているところを見ていなかったから、俺の知ってる吉田の態度が湖越の前では違うことにも。
「……のぶちゃん、だいじょうぶかなぁ」
俺が去った後、梶井の名前が聞こえてざわめくA組の教室を前に、梶井のことを心底心配している吉田に気が付くことは無かった。直後、宛先不明の小室のことが書かれていたメールが学校中に届いていたが、携帯を教室に忘れていた俺がそのメールに気付くのは放課後になってのことだった。
――――
ノープランだ。勘半分と……あの日、のぶ……いいや、梶井と再会したときと同じ場所にいるんじゃないかって。そう思ってただ闇雲に階段を上る、のぼる。
自分が彼にしてしまったことを棚上げして、希望を傷つけたことに怒りを燃やしどう責めるかだけを考える。
どうして、こんなことをしたのかなんて理由もあえて考えようともせず、自分勝手にただ親友を傷つけられたと言う事実だけで梶井を責めようと思っている。
それがどれだけ愚かなことで、梶井がどう反論するかも考えず、ただ人を傷つけたことを免罪符とした。
「はっ……はあ……」
勢いに身を任せて階段を駆け上がり、上り切って立ち止まって息を整えた。他の学校はどうなのか知らないがこの学校では1年生のクラスが一番上の階だったことは幸いだった。
誰に言われたでもなくただ何となくで屋上にやってきたが、梶井がいる確証はない。むしろいない可能性の方が高いのかもしれない。だけどいる可能性もある。万が一、いるときを考えて呼吸を整えた。呼吸が正常になってすぐ屋上の重い扉を開けた。『立ち入り禁止』と赤い文字で書かれているにも関わらず、錆ついて普通の扉よりも重たくなっているけれど、それでもただ押しただけで開いた。
その地点で、自分の想像していた梶井がいない可能性といる可能性が反転する。それでも……いないことを願った。梶井が、信人が。だって、彼がいたのならば俺は。『のぶと』と『梶井信人』が同じ人物なんて思いたくないと逃げていた現実と向き合わないといけないのだから。
――俺のそんな気持ちとは裏腹に。
「あははは、やーっぱり誠一郎くんだぁ」
扉の開いた音が聞こえて、フェンス越しにどこか遠くを見ていたそこにいた人物が俺のほうを7月に入って暑いのに羽織っているクリーム色のカーディガンをひらりと舞わせながら振り返り、俺を見た。うねりのかかったその茶色い髪も、濃い紫色の垂れ目も、普通より少し肌の色が白いのも、昔のままで。むかしのままなのに。
俺を見つめる瞳と三日月型にしたその口元は、見慣れないものだった。これに悪意だったり嘲笑だったりが付け足されていたのなら、俺は何も考えずに目の前の彼を責め立てていた。希望を……親友を傷つけた憎らしい奴だと、そう思って。だけどこれはなんなんだ。
この表情は。なんで、こんなに愛おしそう俺を見ているんだ。
「叶野くんをいじめたら来てくれるって思ってたよ」
戸惑う俺を知ってか知らずか彼は弾んだ声でそう話しかけてきた。
彼の声を聞いてハッとする、俺がなにを言いたかったか、キッと目の前の彼を睨んだ。
「っなんで、希望を!!」
希望は関係ないだろ、俺が悪いのだから俺だけを傷つければいい、そう言おうとしたけれど言葉には出せなくて。
「ああ、やっと僕を見てくれた」
俺の声が聞こえていないかのように、そう嬉しそうに楽しそうに笑いながらそう言うものだから、声が出なくなった。なんで。俺をそんな愛おしそうに見つめて楽しそうにしているんだ。どう見たってその瞳と仕草に俺への敵意を感じなかった。おれは。こいつからすれば憎まれていてもおかしくないのに。なんで、そう笑える?
「あは、ごめんごめん。つい嬉しくなっちゃってなにも聞いてなかった。で、なにかな?」
「……なんで、希望のことを暴露した。お前が憎いのは俺だろ?」
ちゃんと話を聞いてくれる気になったみたいで、次は俺も少し落ち着いてもう一度同じことを問いかけた。するとあっさり答えてくれた。
「だって、そうすれば誠一郎くんは傷つくでしょ?自分が傷つくよりも、一番近くにいた親友がいじめられた方が。自分自身がいじめられるよりも耐え切れないことだよね?それに……きみにも、僕という人間を刻み付けるには、これが一番手っ取り早かった。それだけのことで僕自身は叶野くんに対して何の感情は無いよ。いや、多少の嫉妬はあるけどね。そんなことよりも誠一郎くんがどうすれば傷ついてどうやれば効率的かなーって考えてたよ、まぁ鷲尾くんが良い子になっちゃったのが随分早くなっちゃったのは誤算だけど、誤差の範囲内だったよ、小室くんがいたおかげでね。大体は僕の想像通りに動いてくれたよ。このためだけに行動してきたんだから。叶野くんがどこまで傷ついたのか、とかはどうでもいいかな」
「ってめえ!」
希望のことをなにも考えていない梶井の言い分に頭に血が上る。ただこうして俺を呼び出す目的のためだけに希望を散々傷つけた挙句、何一つ悪いと思いもしない口調でそう言われた。
あまりのことに目の前の梶井に掴みかかって責め立ててやろう、そうカッとなった頭のままに梶井に近付く。どうして、俺のほうを振り向いた後微動だにせず両手を俺からなにかを隠すようにしているのか、これからただでは済まされないことをされそうになっているのに未だその笑みを崩さずむしろ深めていくのにも気付かずなにも考えず手を出そうとする。
だから少しも意識を向けていなかった、すでに動くことも想定していなかったところが動いた。ギィィィ……そんな重たい音がこの場に響いた。目の前の梶井は驚いたように目を見開いて俺の後ろを見ていた。それにつられて俺も首だけ動かして振り返った。
「湖越……いた。大丈夫、か?」
そこにいたのは、一ノ瀬だった。追いかけてくるとは思っていなかったから驚く。梶井のしたことは学年どころか学校中で知られていることだ。そいつに会おうとしようとした俺を追いかける奴なんていないと思い込んでいた。一ノ瀬は、転校生であの事件のとき確かにいなかった。だが、伊藤に多少は聞いているだろうに。伊藤も伊藤で一ノ瀬を止めることをしなかったのか。様々なことがぐるぐると頭のなかでまわる。なんて声をかけるべきか、考えあぐねている俺を置いて。
「……またあんたか」
背後から聞こえた声は冷めて温度のない声。さっきまで弾んですらいたはずの声が、すっかり冷めていて驚いてまた振り返る。
そこには笑みを浮かべている梶井、じゃなかった。作っているものでもなく、心からの笑みでもない、口を一文字に結んでなんだか不貞腐れたような、怒っているような……悲しんでいるような……少し拗ねているようにも見える表情で。
それは、俺が一番見慣れているもので。それは『のぶと』と『梶井信人』は同一人物であることを痛感させるものであった。
一ノ瀬によって引き出された表情によって、それを勝手に突き付けられたような気持ちになって、簡単に俺は絶望する。状況の掴めていない一ノ瀬はただ戸惑っている。
――――
吉田から聞いたことを頼りに屋上に辿り着く。鉄で出来た見るからに重たそうな扉だが、両の手で押してみると少しの力だけで案外簡単に開いた。ギィィィ……、耳障りな音を立てながら重たい扉を開けると、7月の少し雲の多い青い空が目いっぱいに飛び込んで目を細める。目が慣れて改めてその場を見てみると、吉田は湖越の言葉をちゃんと聞き取れていたようで湖越がそこにいた。
「湖越……いた。大丈夫、か?」
もうひとり、そこにこの暑いなか淡い色のカーディガンを羽織っている男子がいた。
湖越がここにいて話しているのだから、きっと、この人物が皆の言う『梶井信人』であると察する。緩く巻いているのかパーマなのか判断はつかないがふわふわとしたこげ茶色の髪型で、温和に見える垂れ目。……どこかで見たような気もするが、どうだっただろうか。皮肉にも記憶力には優れているほうなので一回見れば忘れることはないのだが……。笑っていればきっと取っ付きやすいんだと思う。ほんの少し見ただけでそう思えるほど顔立ちが優し気に見えた。実際笑えばどうなのかは俺には分からない。
「……またあんたか」
口角を下げて眉を寄せて冷たい目で俺を射貫いた。俺が屋上に来て反応したのは湖越が先だったが、口を開いたのは梶井が先だった。声だけでも苛立っているのが分かった。
「……邪魔、したか。それは悪かった」
湖越が屋上に行ったのだと言う絶対的な確証は無く、梶井がそこにいる可能性も低いと勝手に思い込んでいたので、屋上にいたとしても湖越しかいないだろうと高を括って扉を開け放てしまった。
万が一話し込んでいるようだったら様子だけ見るだけにしようと思ってはいたが、こんなに屋上の扉が音がするとは思わなかった。音のせいで話の腰を折ってしまったのなら申し訳ない、そう思い梶井に謝罪する。
「そうだよ。本当に……一ノ瀬って僕の計画の邪魔しかしないよね」
「……計画?」
不貞腐れたようにそう返してくる梶井の言葉のなかに『計画』という単語が出て来て首を傾げる。どういうことなのか分からなかった。だって、俺はこの梶井とはたぶん初対面で、もし初対面ではなくとも話したのは今が初めてだ。梶井の言葉に違和感をおぼえる。
「おい、一ノ瀬を巻き込むな!」
「いやー巻き込む気は無かったけどさ。一ノ瀬が自ら巻き込まれてくるんだもん。仕方ないよね」
普段温厚で怒るときは叶野を傷つけられたときだけの湖越が、焦ったように止めに入るが梶井は聞いてはいるもののその訴えを流した。梶井の言うなにかに俺は巻き込まれている気は無かったのだが。……俺は梶井にとって都合の悪いことばかりしているようだ。後ろ手に腕を組んで猫背の姿勢で俺のほうへゆっくりと歩み寄る。
じっとりと俺を見てくる。相変わらず表情は穏やかとは言えず、敵意を向けられていると思っても過言ではない。
梶井の瞳の色は遠くから見ていると黒だと思ったが、こうして対面して良く見てみると暗い紫色をしていた。不思議な色だった。俺も変わった瞳の色と言われてきたが、そうか、こういう気持ちになるのかと思った。綺麗だな。
「はじめましてぇ。おれ梶井信人っていうの。ああ、おれは一ノ瀬のなまえどころか多少はきみの過去も知ってるから二度手間だし時間の無駄だから自己紹介はいらないよ~。あー、一ノ瀬はいいよねぇ。伊藤くんって言う甘やかしてくれる人がいてさぁ。一ノ瀬はなーんも覚えてないのに。伊藤くんもすごいなあ、一ノ瀬は自分のことすべて忘れてるのに。それでもとなりにいられるって。ほんっと、怖いくらい忠犬だねぇ」
「……」
呆けた気持ちのまま、俺のなにもない過去をさらっと突然突き付けられた。驚きを通り越して目を見開くこともできず、静かに梶井を見つめるしかできなかった。視界の端で湖越が驚いた表情をしていたのがどこか遠くで見えた。
「伊藤くんがなにも言わないで甘やかしてくれるのを良いことに、それに胡坐かいて罪悪感をおぼえることなくそのとなりに普通にいる一ノ瀬もすっごいけどね!伊藤くんをよっぽど信頼してるんだねぇ。ま、それは良く言えばのはなしで、実際はとんでもなく甘ったれてるだけだね!!いいなー俺もなーんも考えずにだれかに甘ったれていたいな~」
嘲笑うように冷たい……いや、怒りを乗せた瞳でそうわざと楽しそうに言われる。目の前のその紫色の瞳は暗くよどんで『俺を傷つけたい』そう訴えていた。
そう言われて……言い返せない自分がいることに気が付いた。ぐっと突き刺されたかのように心臓と鳩尾が痛んだ。甘やかされているのは、俺も痛感していることだったから。図星を突かれてなにも言えない。
「あら、傷ついちゃった?めんご~!おれってばついほんとうのこと言っちゃうんだよねぇ~」
「おいっ梶井……!」
何も言えずにいる俺に特段悪いとは思っていない言葉だけの謝罪を梶井は告げるのを、いまいち俺のことを把握できずとも梶井が俺に対するものは失礼な態度であると認識して小室のときと同じように怒りを露わにしようとしたのは分かった。
「なあに、誠一郎くん」
「……っ」
だが、梶井が湖越のほうをふりかえると、その勢いはすぐに消えて俯き梶井から目を背けた。
「……まだ、僕を見てくれないのかぁ」
そんな湖越に梶井はポツリと途方に暮れた子どものようにそう呟く。
「あーあ、ほんと。一ノ瀬が転校してこなければ計画はうまくいってたのに。鷲尾くんも叶野くんもおれが傷つけたいだけ傷つけることも出来たし、伊藤くんもあのまま自主的に中退してたのに。なんでもう1年ぐらい遅れて来てくれなかったの?」
「……悪かったな。梶井のその計画は、俺がいなかったらどうなってたんだ?」
「えーそれ聞いちゃう?まあいいけどさぁ」
梶井の言う『計画』に、今までの行動と言動を察するに禄でもなさそうだとは思うが、邪魔者である俺に対して「いなくなれ」とは言わず『もう少し後に来てよ』と言うから何となく憎めない気持ちになって、どうしてこんなことをしているのか知りたくなった。俺の問いかけに驚き茶化しながらも答えてくれた。さっきみたいな不貞腐れた顔でも笑っていないのに笑顔を貼り付けているものでもなく、心底楽しそうに笑いながら。
「僕のことを誠一郎くんに刻み付けたかったから。もう二度と忘れさせないためにね」
自分を抱きしめながら、心底愛おしそうに笑う梶井。
「……そのために?」
「……そのためだけに。それ以外あるわけないじゃん。僕の行動する理由なんて一つしかない」
ついオウム返しをしてしまう俺に苛立ったように睨みながら、突き放すように梶井はそう答えた。
「ま、自分が忘れてもそれでも一緒にいてくれるひとがいるとんでもない人格者の一ノ瀬と万年ボッチの人格破綻者である俺はちがうんで~!理解しようと思わなくてもいいけどさぁ。一ノ瀬も伊藤くんのことを頭の中で殺してるわけだし?おれを軽蔑するようなこと言えるたちばにないと思うんで責めたりするのはやめてねえ?それされたらおれもおこっちゃうから~!」
口調は穏やかで茶化すように喋るが、梶井の瞳は確かに俺への『怒り』と『警戒』の色を持っている。言葉が足りず勘違いさせてしまった。俺はただ。
「……そんなつもりは、ない。ただ、梶井のこと知りたいと思っただけ」
「……」
そうだ。俺は知りたい。何故湖越を自分の存在を刻み付けようとして、どうして本人ではなく叶野を傷つけるようなことをしたのか。梶井と湖越とはどんな関係性なのか。こうして聞く限りでは、彼らはここ最近の付き合いでは無さそうだ。……友だちである叶野を傷つけて、伊藤を追い込んだりしたり、そう言うのを聞くと俺も梶井におもうところがない訳ではないのだが……。小室のようにただ自分のために誰かを傷つけて追い込もうとするのであれば、問答無用で問い詰められたのだが。
梶井も言動と行動を見ていると小室によく似ているように見える。だが『同じ』と言うには、どうにも梶井には複雑な事情があるようにしか見えない。そう言った事情を捨て置いて、ただ俺の感情のままに梶井を責めることは俺には出来ない。責めるにしては俺は梶井のことをあまりに知らない。
梶井からした俺のことは分からないけれど、少なくとも俺にとってたった今初めて梶井と知り合い話したのだから。相手のことを知らず責めたりなんてしたくない。話し合えて、分かり合えることもあると思うんだ。伊藤が、俺にしてくれたように。
「ふ、ざけんなよっ……!」
「……湖越?」
俺のことを驚きに目を見開いてじっとこちらを見つめている梶井に逃げることなく目を合わせていると、今まで無言だった湖越が声を荒げた、かと思えば。
「!?湖越、落ち着け!」
「うるせえっ!落ち着けるかよ!希望を……『親友』を傷つけられたんだぞっ!」
「怒りはもっともだと思うし気持ちはわかる、だが梶井の話も聞いてやれ」
あきらかに梶井に掴みかかろうとする勢いの湖越に、俺は止めに入る。体格も身長も湖越に負けているが、それでも何とか肩を掴んで止める。湖越に比べると細身であり体格差のある梶井が湖越にぶっ飛ばされたら怪我をする。そうすれば湖越だって騒ぎになってしまう。さっきの今では冷静になるのは難しいかも、とは思う。俺だって伊藤を傷つけられたらいやだと思う、だが……せめて少しぐらい話し合えるのなら話し合った方が良い。
湖越からは何も聞いていないが、梶井の話を聞く限り短い関係ではないと思ったからなんとか冷静に、と願った。
「なんでこいつの話を聞いたりしなきゃいけねえんだよ!こんな、頭のおかしい奴っ!どうせ大した理由なんてねえよ!!」
だが、湖越は拒絶した。確かに、叶野は梶井によって傷つけられたのだから怒りはもっともで『俺が梶井の話を聞いてやれ』と言うのは湖越からすると理解できないことかもしれない。あまりに取り付く島もない返事だった。
「一ノ瀬だってこいつに失礼なことを言われていたんだぞ?しかも伊藤まで傷つけてよ、そんなやつの話をお前は冷静に聞けるのかよっ」
「……難しいとは、おもう。だが……」
湖越の立場として考えてしまうと俺もなにをするか正直分からない、言葉に詰まって考えてしまう。理性ではちゃんと相手の話を聞くべきだと思っていてもその場の感情でどうなるのか俺にも分からなかった。だが、今の俺の立場は違うし、そもそも梶井と湖越はどんな関係性なのかも、梶井自身のことすら全く知らないのだ。どう返すべきなのか悩んでしまった。その間に梶井がいかに絶望して、区切りをつけてしまったのに気付けなかった。
「……そっか、誠一郎くんの中の『親友』に、僕はもういなかったんだね」
梶井は暫くの沈黙の後、静かな諦めと自嘲が入っているようにも聞こえる声音でそう言う。
梶井のほうを振り返ると泣き出しそうな子どものような顔をしていた、かと思えばすぐに目が笑っていない笑顔に戻った。いや、貼り付けている。
「……もういいや。はいはーい、おれがぜんぶわるかったでーす。みんなで慣れ合っててくださいな!おれはもう干渉しません!もうおれがなにをしたって意味ないんだってよーくわかったのでご安心をくださいませ~。一ノ瀬もずーっと何も考えずただ甘やかしてくれる伊藤くんに依存していればいいよ!」
誤魔化すようにそう言った梶井の言葉は確かに突き刺さる。ぷらぷらと振り向かず手を振って屋上から出ていく梶井の後姿を俺と湖越は呆然と見ていた。