2.人間として。


 その日は「今日はうち泊まってけ」と誠一郎の言われるがまま久しぶりに泊まりに行った。誠一郎の家族はみんな俺のことを快く迎えてくれた。きっと俺の瞼が腫れていることに気が付いてんだろうけれど、知らないふりをしてご飯を食べさせてもらって誠一郎の弟や妹たちと遊ばせてもらった。「お父さんには連絡しておくから気にしなくていいからね!明日の学校もサボりな!たまにはバチも当たらないでしょ!ねぇ!?」と豪快に笑って言ってくれた。
 お言葉に甘えながらも学校には行こうと思って笑ってそれに頷いたけれど、次の朝誠一郎が俺を布団に出さないように弟たちを使っていたことに驚くことになるのはまだ知らない。

――きっと誠一郎がなにか言ってくれたんだろう。

「はーなーしーてーよー……」
「だーめ!にいちゃんがのぞみにいちゃんを布団から出すなって言ってた!」
「はなしたらいっちゃんでしょ?じゃあだめ!」
「えー……」

――ピンポーン。

 次の朝、学校へ行くため起きて布団から出ようとする俺を掴んで離さない弟くんたちと格闘していると、呼び鈴が聞こえてきた。こんな朝早くからなにか用事でもあるのかな、と首を傾げているとドアが開く音がしてしばらく間が合った後、のしのしと複数人こちらに歩いてくる音が聞こえてくる。
 もしかしてこっちに歩いて来てる?父さんかな……、いやでも父さんだけにしては多いような?首を捻っている間に足音はこの部屋の前で止まり、勢いよく引き戸がスパンと音を立て開いたなと思うと同時に飛び込んでくる誰かがきた。

「にいちゃーん!!久しぶり!!」
「わ、勇気!?」
「えーなにしてるの!?混ぜて!」
「いいよー!」
「なんで、ぐえっ!」

 ここにはいないはずの勇気が勢いよく俺の上に乗り上げてきて呻き声が漏れ出た。最後に会ってからそんなに日は空いていないはずだけど、乗られたのは久しぶりで小学校のとき別れて以来のことであのときの感覚でいたから思わぬ衝撃にまた意識が夢の中へ飛びそうになる。

「わーい!久しぶりの兄ちゃんだー!」
「っ、ゴホ……ゆ、勇気?なんでここに?」
「……希望」

 勇気の無邪気な笑顔に戸惑っていると、俺の名前を呼ぶ声が聞こえた。申し訳なさそうで後悔しているかのような、そんな響きをもった女性の声。俺はこの声の主を良く知っている。やはりここで聞こえるはずはやっぱりないはずのもの。
 目を見開いて振り返ると、そこには……静かに俺のことを見ている母さんと気まずそうに右斜め下を見ている父さんがいた。有り得ない組み合わせだ。父さんと母さんと勇気、みんなでいるなんて。驚きすぎてなにも言えない俺のところへ母さんはそっと歩み寄って、座り込む……かと思いきや崩れ落ちた。

「母さん?」
「っごめんなさい、のぞみ。ごめんなさい、ごめんなさい……!」

 蹲りまるで土下座のようにその額を誠一郎の家の床に擦りつけて謝り続けた。

「どうしたの、母さん、」

 今までに見たことのない母さんに俺は背中をさすりながら問う。謝る声の中には嗚咽が混じっていて泣いているのが分かって、また戸惑ってしまう。どうしたの?なにかあったの?そう聞こうとするけれど、ずっと泣いていていよいよどうすればいいのか分からなかった。

「あらあら、大丈夫かい?奥さんはちょっと休んでいなさいな。お水持ってきたよ!ほら、旦那さんから説明してやんな!」
「あ、はい……」

 誠一郎のお母さんがやってきて、母さんに水を手渡して、ずっと扉の近くにいた父さんの肩を引っ叩いて急かした。

「ほら、叶野家以外のやつらは朝飯食え!」
「えーもうちょっと!」
「いいから行くぞ。来ねえと飯は全部俺が食う。」
「それはだめ!のぞみ兄ちゃんまたお泊りに来てね!」

 俺から離れなかった誠一郎の弟たちは誠一郎の声でわらわらと行ってしまった。俺に引っ付いているのは勇気だけになって、なにがなんだか状況が全く分からない俺にそっと「今日はわがまま言って良い日になったからな」と耳打ちして誠一郎も出ていった。わがままを言って、良い日?どういう意味なのか分からず首を傾げてばかりの俺に「……ぼくのお兄ちゃんだもん」と少し拗ねた勇気の声に反応する。誠一郎の弟たちにやきもち妬いたのかとこんな状況でも微笑ましく思う。そっとその頭を撫でると気持ちよさそうにしながらも不貞腐れた顔をした。

「別にいいもん、ぼくはこれからはまた一緒に住めるし、またいっしょに寝れるもん!」
「……え?」

 本日何度目かの驚きか分からない。また、いっしょに?バッと母さんと父さんのほうを振り返る。

「あら、おばちゃん邪魔になっちゃうから出るわね。話し合って落ち着いたら下降りなさいね!朝ご飯あなたたちの分作ったからね!」

 空気を察知したみたいで誠一郎のお母さんも出て行って、ドシドシと遠ざかっていく音を聞きながらも父さんの目をじっと見た。説明を求める俺の視線に居心地の悪そうにしていたがしばらくすると布団から未だ出れず誠一郎から借りた寝間着のまま勇気に抱き着かれたままの俺と目を合わせるように座った。

「希望すまなかった」

 真剣に俺と顔を合わせて静かにそう謝って、さっきの母さんと同じように土下座のように床に額を押し付けているかもしれないと思うぐらい深々と頭を下げられた。

「とうさん?」
「……あの日も、お前を傷つけて。そしてまた傷つけてしまった。希望がどれだけ家族みんなでいることを望んでいたのか分かっていなかった。無神経ですまなかった」
「……いいよ、だってふたりにだって事情があったんでしょ?」

 むしろ、俺のほうが無神経だった。2人はすでに承知の上で距離をあけていたのに、俺のわがままで無理矢理その距離を縮めていた。仕方のないことだよ。そう言って笑う。そんな俺をさらに苦しそうな顔をされてしまった。……なにかいけないこと言っちゃったかな?なにが悪かったんだろ……。笑ってくれないと悲しくなる。

「いや、希望は悪くない。希望にそんな顔をさせていたことに気が付かなかった自分が不甲斐なくてな……」
「……?」
「……それだけじゃないわ、のぞみ……」

 お水を飲んで落ち着いたのか、さっきよりも少し冷静になった母さんも口を開いた。今にも泣き出しそうな顔をしている。その顔は……出ていったあの日と浮かべていたものとよく似ていた。

「あなた……学校でいじめられているのよね?」
「っ」
「すまない、昨日の夜誠一郎くんから連絡があってね。あまりこのことを聞かれたくないとは思っただが……話すべきだろうと決めたんだ」

……それで、か。

「……ごめん。そんなことでわざわざ来てくれたんだね。でも、俺は大丈夫だよ。遅れちゃったけど今から学校に行くよ」
「希望!」

 余計な心配かけてしまったことやわざわざ朝早く来てくれたのが申し訳なくて、今から用意してもHRには間に合わないけど午前中の授業から出れる。そう思って布団から出て用意しようとすると、母さんと父さんに同時に怒鳴られた。ビクッと体が震えた。
 昔はそれなりに勇気と一緒にいたずらしたりして怒られたことはあったけれどこうして怒鳴られたことはなかった。スッと出てくる手。最近よく殴られる。その拳と母さんの手が被って見えた。反射的に身構えて目を閉じた。
「!」
「っ」

 怯えて身構えてしまう俺のことを父さんも母さんも悲しそうに見ていたことを気付かなかった。衝撃は訪れることは無くて、訪れたものは優しいぬくもりだった。驚いて目を開けると抱えている勇気ごと俺は母さんに抱きしめられていた。

「……っごめんなさい、あなたにそう言わせてしまって、がまんさせて……気付いてあげられなくて……、ごめん、ごめんなさい、ごめんねっ!のぞみ……っ」
「かあ、さん」

 泣きながら謝る母の声に、反射的にまた「大丈夫」と言いそうになったけれど、言葉は出て来なかった。どんな言葉でも今発したら泣いてしまいそうだった。すでにじわりと目じりに涙が溜まっているからあぶない。母さんの抱擁に抱きしめかえすことも抵抗することもできなくて、ただ勇気を抱きしめた。勇気からすればきっと痛いと思うぐらいの力が入ってしまった、それでも勇気はなにも言わずにただ俺に抱きしめられてくれていた。固まってしまった俺に父さんは問いかける。

「希望は、どうしたいんだい?」
「おれ、は……」
「希望のことを気づくこともできず傷つけてばかりだが……希望は、大事な家族なんだ。母さんからしても勇気からしても……俺からしても」
「……」
「今さら、なんて思われてもおかしくない。けれど……せめて、希望の望んでいることを今日は叶えたいんだ。教えて、くれないか?」

…………俺の望むこと。そんなの決まっている、だけど言って良いの?母さんの肩越しに父さんの顔見てそう訴えた。力強く頷いてくれた。だけど……いいのかな。俺は表立ってわがままを今の今まで言ったことが無い。
 クラスメイトも、俺よりも違う誰かが大事だったから俺からなにかしようと自発的に言えずにいた。なにかを強請るという行為をあまりしてこなかったから、どういうものなのか分からない。どういえば、どう伝えるべきなんだろう?どうしよう……許して、くれるかな。

『今日はわがまま言って良い日になったからな』

 ふとさっき誠一郎に言われた言葉を思い出した。今日は、わがまま言って良い日。望んでいることを伝えてもいい、そんな日。例えば父さんと母さんが許してくれなくても、誠一郎が許してくれた。そっか。今日は……わがまま言って良い日。

「っみんなで、いっしょに暮らしたい」
「ああ。あとはないか?どんどん言ってくれ」
「……もう、いじめられたくない、学校、行きたくないっ!!もうやだよ、くるしい、つらいぃ……っ!」

 弟の前とか迷惑になっちゃうとかいろんなことを思い浮かべた。でも、もうそんな意地や気遣いも出来るほどの余裕は俺にはもうなかった。涙もぼたぼたと零れて鼻水も出てしまって母さん服が汚れてしまうことが気になったけれど、母さんは俺のことを離すことはなかった。父さんは静かにうなずいてくれた。それにホッと安堵してまた涙があふれたのに。

「おにいちゃん、今日いっしょに寝ようね!」

 ずっと俺に静かに抱きしめられていた勇気が心底嬉しそうな顔でそう言うものだから、俺……だけではなく父さんも母さんも涙腺が崩壊してしまい、それにつられて勇気も泣き出して結局下に降りられるようになったのはとっぷり1時間後だった。みんなして瞼を腫らしながら用意してくれた朝ご飯を食べた。
 誠一郎の弟たちはすでに学校に行ったようでいなかったけれど、誠一郎のお母さんと心配して学校に行かず残ってくれた誠一郎がいた。俺のことを心配してくれていたみたいで、俺たちが泣き腫らした瞼を見てギョッとしていたけれど、すっきりした俺を見て心底安心したようだった。

「勝手に話しちまって悪かったな」
「ううん、むしろありがとう」

 連絡したのは誠一郎だった。勝手に話してしまったことを謝られたけれど、俺としては感謝したい。誠一郎が話さなかったらきっと今日俺は羽佐間くんに『きみと付き合う』と答えていたと思う。地獄の日々が継続されてしまうことにならなかったことに心底感謝してる。

「そうか。まぁ落ち着いたらまた泊まりに来いよ」
「うん、次は勇気も連れていくよ」

 勇気の同世代の子もいるし、きっと小学校も同じになるだろうから仲良くしてくれたら嬉しい。今さら一人二人増えたところで変わんねえから好きなときに来いとそう笑って約束して、家に帰った。家族みんなで、家に帰った。
 そんな当たり前のことが、とても久しぶりで……また泣きそうになったのは俺だけの秘密。

――――

 あの後、復讐も裁判もどうでもいいからあの学校から離れたいと言う俺の意見を尊重してくれて(両親からすると訴えたいと思っていたみたいだけど……やっぱり羽佐間くんから逃げたかった。さすがに誠一郎は羽佐間くんに付き合えって脅されたことは両親に言っていなかった、ホッとした)両親が手続きしてくれたので俺はもうあの学校に行くことなく転校した。
 転校先は誠一郎と一緒の市立中学校だ。最初の内は学校のなかのカウンセラーに通うだけですぐに家に帰っていたけれど、徐々に保健室登校に切り替えて学校にいる時間を長くして、なんとか1年生最後の期末テストに間に合って、通常クラスに登校出来るようになった。

 家に帰れば母さんがいることがとても嬉しかった。普通なことで当たり前なことが、信じられなくて最初のうちはつい泣いてしまって母さんに心配されてしまった。
 勇気も今までの俺との距離を埋めるかのようにとても甘えてくれて、一緒によく寝ていた。父さんもなんだか顔が穏やかになっていつも俺に「どうだった?」と聞いてくれるようになった。今でもそれは続いている。その問いにいつも「誠一郎がいるから平気」と答えている。今でも変わらない。誠一郎は俺が学校に行かず自宅で安静にしていたときも、保健室登校しているときも休みの時間になれば遊びに来てくれた。誠一郎だけじゃなくて木下くんや元クラスメイトがやってきてくれたりして寂しさはなかった。俺は恵まれている。あの日々が嘘のように。あの日々は悪夢だったんじゃないかと思うほど。

 家族とまた一緒に暮らせるようになって俺のことを理解してくれる友だちがいて、安心できる環境のなかで俺は過ごしている。分かっている。もう俺のことを傷つける人はいないことを、もし傷つける人がいれば助けてくれる環境下であることも。だから。これは俺だけの問題なんだ。


 保健室登校は、教室にはいかないだけで普通に勉強している。人が多いなかで授業を受けることが難しいかもしれないと考えてのことだった。これでも一応今まで進学校に行っていたから、市立中学校での授業はほとんどすでに習っていたことだった。だけど。

 知っていることも分からないフリをするようになってしまった。期末テストどころか授業も宿題も勉強も、真剣にできなくなった。あきらかに下がった成績に父さんも母さんも驚いた顔をしていたけれど、なにも言われなかった。たぶん今まで無理して真面目に勉強してきたから、その反動だろうと思われていたのかもしれない。でも違うんだよ。
 赤点ではないにしても今までのなかで一番低い点数を採った俺を周りの人たちもこれが理由でこっちに転入してきたんだと思われていたけれど、誠一郎はやっぱり違ってて『どうしたんだ?』と責めるでもなくそう聞いてくれたのが嬉しかった。
 誰にも吐き出せない、だけど誠一郎だけには話した。信じれたから。今の俺が唯一疑うこともしないで一心に信じられる友だちだから。

「……誠一郎、俺ねもう本気で打ち込むのがこわいよ。テストも授業も」
「……そうか」
「分かってるよ、真剣にやっている子からすると失礼なことは……。でも、俺から皆が離れていじめが始まったきっかけが勉強だったから……こわい。怖いんだよ本気でやって、また、誰もいなくなっちゃうのが。」
「……俺は希望のとなりにいるからな。無理なんてしなくていい」
「……うん、ありがとう」

 親友の優しい言葉に俺は微笑んだ。誠一郎ならそう言ってくれる、そう知ってて俺は言った。俺ってずるい、ね。ちゃんと勉強して本気で打ち込むべきなんだと思う。でも、あの日々のことが過って消えなかった。
 誠一郎が離れるなんて疑っていない。だけど『誠一郎一人が俺の味方でいてくれればそれだけでいい』と言えるほど俺は強い人間でもなかった。三木くんのこともあって、初めて会う人に対して信じることもできなくなった。
 裏切られたら、そう思うと新しく誰かを信じて友だちになるなんて、出来そうになかった。かと言って冷たくすることもできなくて、結局やっぱり作り笑顔で取り繕ってなんとか皆の輪に入った。中学校2年生になって、俺のことを考慮した学校側は誠一郎と同じクラスになれた。
 進学校からここに来たって言うのは結構噂になっていたみたいで転校してきた理由を聞かれたりしたけれど全部誤魔化した。明るく『勉強に付いて行けなかったんだー』笑って言えばみんな笑ってくれて、深く突っ込まれることはなかった。今度はうまくいった。これでいい、本音隠して勉強もテストもすごく悪いとまで行かないぐらいでちょうどいいんだ。そうすれば、目を付けられることなんてないのだから。
 誰かを信じるなんて恐ろしい、かと言って一人でいるのも寂しいと思う自分が情けなく思いながらも、誠一郎は『それでもいい』と受け入れてくれた。自分を責めながら「これでいいんだ」と言い聞かせた。

 人を信じなければ傷つくことは減る。真面目にテストを受けなくても別にいいや。みんなと同じようになれば、好意で殴りつけられることもない。だいじょうぶ、俺はこれでいい。

 幾度も自分を責めて幾度も言い聞かせて、俺は中学を卒業した。

(このままで、ほんとうにいいの?)

 そう疑問に思う自分をそのまま無視して、俺は高校へ入学した。

――――

 自分に嘘ついて、勉強から逃げ出していた俺。自分で選んだはずのことだ。自分で選んで勉強を真剣にしようとせずテストも手を抜いて、無難に公立高校へ入学を選んだ。でもきっと自分は本当はちゃんとやりたかった。だから、かな?鷲尾くんが誰とも関わり合いになろうとせず一直線に勉強を頑張っているのを見て『羨ましい』なんて、思っちゃったのは。そしてそれを邪魔してしまおうなんて思ってしまったのは。

 クラスに馴染もうとしなかった鷲尾くんを心配していたのは本当だけど、それ以上に勉強に集中している鷲尾くんを羨ましくて妬んだ。自分で真剣に勉強しないことを選んだくせに、勝手なことだけど、確かに嫉妬した。
だから、邪魔しちゃおうと思った。
 成績を落としてやろうとか絶望に叩き込みたい、とまでは思わなかったけれど。自分が出来ないことを平然とできちゃう鷲尾くんがなんだか、悔しくて。周りの意見に飲み込まれないところとか、自分の意見をそのまんま通すことの出来る、俺には出来ないことができる鷲尾くんが、俺の眼からするととても大きくて。無駄に絡みに行ったり、他の人には言わない暴言を冗談交じりだけど言ってみたりして。無視すればいいのに律儀に反応してくれる鷲尾くんに安堵をおぼえた。
 鷲尾くんは俺に怒ったりしなかった。失礼なことを言ってそれに対抗することを言われたりはしてたけれど、じゃれているの範囲内だった。彼のことを無意識に甘く見ていたんだ。真剣に勉強して本気でテストに精を出す鷲尾くんに対して俺は、真剣とも本気ともかけ離れていた。それを見て、鷲尾くんがどう思うかなんて火を見るよりもあきらかだったのに。

『真面目にやっている奴に失礼だろう!!』

 あの言葉が、一番心に来た。思い出すだけで胸が裂けそうなほど痛んだ。あのとき誠一郎の背に隠れていて庇ってくれたけれど……鷲尾くんのいうことはもっともなことだった。
 鷲尾くんからすればきっと俺のことは許せないものだと痛いほど分かった。鷲尾くんの言うことは間違ったことじゃない。ぐうの音も出ないほどの正論だった。……内心、俺のこと知らないくせに、なんて思ってしまったことは認めるけれど……でもそれと同じように俺は鷲尾くんのことをなにも知らないんだ。
 きっと俺が心から誰のことも信じられなくてテストに打ち込むことができないのと同じぐらいの訳が鷲尾くんにもきっとあるんだ。そう思って受け入れた矢先。責められた次の日鷲尾くんから手紙をもらった。責められて誠一郎に言い返されて出ていった鷲尾くんを一ノ瀬くんは追いかけた。
 俺は一ノ瀬くんが戻ってくるのを待つべきか考えたけれど、結局戻ってきてもなんて声をかけていいのかわからないと考え直して帰ってしまった……。鷲尾くんからの呼び出し。簡潔に放課後裏門に来てほしいとだけ書かれていたメモを持って心配した誠一郎と一緒に裏門へ向かった。

「叶野……昨日、酷いことを言って傷つけて悲しませてしまって、すまなかった。湖越も大事な友人を傷つけて、すまなかった」

 鷲尾くんの重い謝罪が俺にのしかかった。鷲尾くんの過去の断片を聞いての謝罪に内心『許したくない』と思いながらもそれを受け入れるつもりだった。だけど、鷲尾くんはそれを否定した。

 叶野の本当の意志を聞きたい。
 叶野自身の意見を聞きたい。
 叶野の『本当』を教えてくれ。と。

 俺の本当。そんなもの今はどこにあるか見失っていた俺にとってその言葉は取り乱してしまうのに十分だった。取り乱し、叫ぶ俺に鷲尾くんがどんな表情をしていたのか覚えていない、たぶん見ようともしなかった。だって、恥ずかしい。醜いところを見られてしまったんだ。……ああ、でも。
 卑屈になっている俺に鷲尾くんは真っ直ぐ見つめて、前のようにカッとなったりせずもう一度真摯に謝罪してくれたこと。

「その頭の良さを活用しないのは、酷く勿体ないことだと僕は思う」

 隠し事もお世辞も苦手な鷲尾くんが、そう言ってくれたことを鮮明に覚えている。前までは言われたことのなかった『また明日』の言葉にも驚きを隠せなかった。じわっと涙が浮かんで、その場に座り込んで泣くのを辞めることができなかった。

 しばらくしてようやく落ち着いて帰路に着いたとき、誠一郎は「お前は悪くない、そのままでいい」と言ってくれたけれど、ああやって鷲尾くんが俺に向き合ってくれて本音を隠すことなく言ってくれたのに。
(俺は本当にこのままでいいのかな)
 本当を言う鷲尾くんに、俺は自分に嘘をついたままでいいのか。そう、初めてちゃんと疑問を覚えることができた。最初は突っ撥ねていた鷲尾くんの言葉はじわじわと毒のように回っていく。
(まだ、俺は嘘を吐くの?)

 自分自身にそうやっと疑問を覚えてもなかなか向き合うことのできないもどかしさと戦うことになった。ずっと逃げてきた代償、なのかな。あの日以来鷲尾くんは俺に対して時折視線を投げかけてくるけれど、気付かないフリをしてやり過ごした。鷲尾くんと対峙するには、あまりに自分は汚くて、思考はぐじゃぐじゃでまとまらない。結果として鷲尾くんや……一ノ瀬くんたちも。一ノ瀬くんたちにはなんとか挨拶だけはしてるけれど、それ以外はちょっと避けてしまった。

 一ノ瀬透くん。GW明けてやってきた時期外れの転校生。とても、綺麗なひと。整っているなと思った羽佐間くんのことが薄れてしまうほどの美しい顔立ち、その灰色の瞳は自分が映ってしまうのが後ろめたくなってしまうほど綺麗だった。けれど、それ以上に中身が綺麗なひと。頭が良くて、少し自分に自信がなくて、でも周りの人のことを大事にしてくれるそんな人。
 そんな彼に友だちってなんなのかと問いかけられて、送った答えは俺が小学生のとき思っていた答えだった。今では、すっかり曇ってしまった答え。一ノ瀬くんに考えすぎなくていいと言っておきながらそう答えた自分は人間不信だ。本当は一ノ瀬くんが言ってくれたことは嬉しかったのに。自分が許したからと言って叶野は許さなくてもいい、と言ってくれたのが。俺のことを大事にしてくれたのに。俺は、自分のことばっかりで。怒鳴ってしまって。『許したくない』と『許さなくちゃ』がいっしょになってぐちゃぐちゃで。俺もどうしていいのか分からない。
 結局鷲尾くんに本音を言えなかった。あんなに真っ直ぐ俺に向き合ってくれたのに、俺はいつも逃げの体勢から崩せずにいる。鷲尾くんにも一ノ瀬くんにも俺は誠意のあるとは言えない態度ばかりで……伊藤くんももう俺のことなんてどうでもよくなっちゃっただろうなと思ってた。鷲尾くんとは違う意味で一人でいる伊藤くんに話しかけていたのは、ただの自己満足だった。伊藤くんも別に一人でも平気そうだったけれど、自分自身が孤立していたことを思い出してしまってのことだった。
『誰か、俺に普通の態度で話しかけてほしい』
 そうずっと思っていたから。1人でも平気そうでもなんでも伊藤くんが来たら挨拶したり話しかけていたのはそんな理由だった。彼のことを心配していなかった、とまでは言わないけれど、大元の理由はそんなものだったんだ。
 それが分かっていたのか、伊藤くんが俺に心を開いたりはしなかったし、深く話したり笑い合うようになったのは親密な仲を匂わせる一ノ瀬くんが来てからのことだった。
 俺なんかよりも一ノ瀬くんのほうが大事だろうし、今では伊藤くんにもだけど一ノ瀬くんにも冷たい態度をとっているのだから、俺に憤りを感じてはいてもそれ以外の感情はないだろうなと思っていたけれど。

「叶野、英語教えてくれねえか?」

 だからまさか、伊藤くんがそう言ってくるなんて驚いた。
「俺でいいの?」
 驚きすぎてなんだかドラマや漫画みたいなことを言ってしまい、伊藤くんに怪訝そうにされた。

――――

「一ノ瀬と勉強しないのか?」
「してるけど、英語は叶野の方が得意そうだからな。透も同意してた」

 勉強が一段落したころ、誠一郎が伊藤くんに聞いたらこんな答えがかえってきた。

「……なんだか、恐れ多いな」

 俺みたいなのよりも断然一ノ瀬くんのほうが頭良いのに。あの神丘学園で1位とれるぐらい頭がいいのに……いつだって、堂々としているのに。

「まあ良い点数採ってるぐらいだし、苦手ではないんだろうけどな。国語とか英語はちょっと教えにくいって言ってたな」
「あー……イメージ的に理数系っぽいもんな」
「英語を教えるのは叶野のほうが絶対上手いってよ。確かに教えるのうめえな」
「そう、かな」

 こうやって褒められることは久方ぶりで反応に困る。そのあとこれ苦手、ああ俺もだわ、と伊藤くんと誠一郎がどこが苦手なのか話しているのを聞きながらもつい考えてしまう。

 ……一ノ瀬くんは、あんなに鷲尾くんに言われてクラスメイトにも噂されても、それでも今回も真面目に真剣に取り込むんだろうか。そして……その隣で伊藤くんは裏表なく素直に笑い合えるのは、どうしてだろう。

「どうした、何か俺の顔についてるか?」

 きょとんとした顔で伊藤くんにそう聞かれてしまう、見すぎたみたいだ。なんでもないよ、と言おうとしてすぐに辞めた。
 ふといっそ聞いてしまおうかと思った。きっと一ノ瀬くんや鷲尾くん、目の前の伊藤くんに感化されたとおもう。そうじゃなかったら、きっと聞けなかったと思う。俺、意気地なしだから。
 でも、きっと無意識のうちに『このままじゃいけない』と思っていたんだと思う。それが大きくなって、表に今出てきた。

「2人ともさ……俺が、テストを……本気でやっても、そのまま友だちで、いてくれる?」

 声は震えてしまったかもしれない。こう言うことを聞きたかったわけではなかった。さっき思っていたことを聞こうとしたらこんな言葉が出てしまった。だけど、一番知りたかった。俺が今一番知りたかった。
 前は本気でやって疎まれて、今は本気でやらずにいたことを責められて。どうすればいいのかわからなくなった。
 どっちにしても疎まれたり責められるのなら、自分が後悔しないほうがいいんだろう。でも、これが正解なのか分からなかった。俺は誰かに自分の決断を委ねてしまうほど弱い人間だ。だから。

「知らねえよ」

 伊藤くんの言葉は良く響いた。真顔だけど怒っている訳ではなく、ただ真っ直ぐ俺と目を合わせた。となりの誠一郎は目を見開いて伊藤くんを凝視している。驚く誠一郎と反対に、俺は冷静に伊藤くんの言葉を待った。

「どんな答え期待してるか知らねえけど、お前の選択をこっちに任すな。こっちを言い訳にするな。確かに鷲尾に責められたのはきついことだと思うけど。でもその判断を誰かに任せてその答えた誰かを縛ろうとするな」
「……そうだね」

 真剣に厳しくも聞こえる伊藤くんの言葉に、笑いながら頷いた。『本気でやろうとなんだろうと友だちだ』なんて言葉を求めてしまった俺を伊藤くんは叱ってくれた。その場しのぎで言うのは簡単だけどね。
 いつかどっちかを俺は選択して、もしもこうして言ってくれた彼らが離れてしまったとき、俺はきっと彼らを責めてしまうだろうから。

「お前のことはお前で決めろ。俺も自分で『友だち』を決める。だから気にすんな。好きにしろ」
「……うん」

 見捨てるともとれる発言だけど、違う。こっちも勝手にするからお前も勝手にしろってことなんだろうな。と頭でわかっていても真っ直ぐすぎる言葉は今は耳に痛かった。

「ま。少なくとも、テストの結果とか頭が良い悪いだけで友だちを辞めるとかそんなちっちぇこと言わねえし。湖越もそうだろ?」
「当たり前だ」
「……そっか」
「お前もそんなもんで友だちじゃないってならないだろ?自分で置き換えてみれば簡単だ。そんなもんだ。俺の思考回路なんて叶野の数倍単純だし」
「そっか……」
「頭の良い奴はやっぱり考えすぎるよな」

 伊藤くん俺の今までを知らない。だからこそ力強くて優しい言葉だった。なんだか、悩まなくても良いかって思えた。俺も。親しい友だちがテストで散々な結果をとろうとなんだろうとそれを辞めたいなんて言わない。逆もまた同じ。
 きっと……テスト結果順位のせいで揺らいでしまった三木くんとの友情は『そんなもの』だったんだろう。裏切られたのは本当にショックで人間不信にもなったけど……今俺には「テストの結果なんて」と鼻で笑ってしまう人がいる。俺の思い悩んでいた部分がほんの少しだけ、小さなことと思えた。

「ありがとう。伊藤くん。……1つだけ、聞いていい?」
「ん?」
「一ノ瀬くんは、今回もテストを本気でやる?全力でやる?」

 あんなに言われてクラスメイトには噂話をされて嫌な思いをしても。神丘学園で1位をとるほどの頭脳を持っていても、この一般的な公立高校のテストも手を抜くことなく全力でやるのかな。まあ、愚問だったよね。

「見る限り本気でやっているように見えるな。でもそれは本人に聞いた方がいいとおもうぞ」
「それも、そうだね」
「透に限って手を抜くなんてないだろうけどな!」

 伊藤くんの言うことに納得したけど、打ち消してくるのはなんなのだろうか……ほとんど答えのような気がするような……いや、伊藤くんが嬉しそうだから突っ込まずにいよう。明日にでも一ノ瀬くんに聞いてみよう。それだけで……きっと、勇気もらえるから。一ノ瀬くんって、なんだか不思議なひとだよね。

「あと……最近避けちゃって、ごめんね」
「そう言うときもあるだろ。気にしてねえよ」
「でも」
「……停学明けたあとは普通に話しかけてくるのに、な。お前の避けるポイントわかんねえよ。まぁ、珍獣扱いされるなか普通に接してくれたのは正直ありがたがったけどな」

 ちょっとトイレ行ってくる。そう言って教室を出ていった伊藤くんを呆然と見送った。色々とあったけれど……俺のしていた自己満足は、伊藤くんに記憶されていて無駄ではなかったことが……驚いて、そして、うれしかった。

「大丈夫か、希望」

 いつも誠一郎はそう聞いてくれる。なにか俺が不快なことはなかったか、自分自身で言うのが苦手な俺に聞いてくれるのは嬉しい。
 その問いにいつも俺は「まあまあ」とか答えるかあいまいに笑って流したりしてた。だいじょうぶって答えてもどこか不安があって本心じゃなかった。

「大丈夫だよ」

 でも、今日はスルっと言えた。心に引っかかっていたもの、それの原因が分かってもうすぐとれそうだから、もう大丈夫。

少しだけ、俺に勇気がもてた、そんな気がした。


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