2.人間として。
その日から俺の生活は変わってしまった。クラスメイトは俺のことなんてそこにいないかのように振る舞い無視されて、登校すると上履きが隠されたり中に画びょうや砂をいれられて、机はゴミだらけだったり水浸しだったり落書きだらけだったり、その日によって違ったけれど俺に対してしていることは明白だった。
……認めたくないけれど、俺はいじめのターゲットにされている。泣きたくて喚いてなんでって問い詰めたい気持ちになりつつも、顔に出さないように冷静を装って俺は上履きや机を綺麗にした。
先生にバレないよう。父さんにもバレないように、いつも通りを装った。すでにいつも通りじゃないのに。それでも、まだ受け入れたくなかった。母さんと勇気が出て行ったのを受け入れたくないのと同じぐらい、俺には受け入れがたいものだったから。だって、今まで俺はいじめなんてされたことがなかったから。
いじられるようなことを言ったりそんな行動したりなんてしなかった。心当たりもない。それにもうすぐ夏休みだ。あともう少し、我慢すれば良いんだ。
夏休みが明ければきっといじめも治まっている、そう思い込むことにした。終業式を迎えるその日まで、俺へのいやがらせは続いた。そして、三木くんと俺が話すことも無かった。
「おっのぞみおひさー!」
「進学校って忙しそうだよなぁー最近どうよ?」
「久しぶりー。まぁまぁかな~」
夏休みに入り卒業して以来なかなか会えなかった中学の友だちと連絡を取り合い、久しぶりに会うことになった。誠一郎は部活があって後から合流する予定だ。誠一郎とも入学して以来連絡も取り合えなかったから嬉しい。久しぶりに友だちと話せて、ずっと沈んでいた気持ちは向上する。
俺の様子を窺う友だちにそれなりにやっていると返した。……本当のことなんて、言えないよね。
「湖越さ、1年だけどレギュラー取れそうなんだってさ」
「えっすごい!」
「すっかりムキムキになっちまって、女にすっげーモテるんだよ」
「こいつ湖越に妬いてるんだよ」
「はえー……誠一郎モテるんだ……」
親友の思わぬ変わりっぷりに目を白黒させることしかできない。入学前までよく遊んでいたけれど、そのときは俺よりも少し身長が高いぐらいだったから。そっか……元々体格が良かったのが無駄な肉が無くなって筋肉になったんだ。ずっと頑張ってたもんね。あとで会ったらなにか奢ってあげよう。
「あ、のぞみさ。木下って覚えてるか?」
「うん、もちろん」
色々あったし、ね。
「あいつもさ、湖越と同じ部活入ってるんだけど」
「へぇ~」
「湖越ほどじゃねえんだけど、なんていうかとにかく頑張って湖越に付いていこうとしてるんだよ」
木下くんが?誠一郎に?どういうこと?と首を傾げる。
「木下さ、あの日のことずっと後悔してるっぽくてさ。それで、湖越みてえに強くなりてえって、でお前に胸張って会えるようになりたいんだってさ」
「……え?あの日って……」
木下くん関連で思いつく『あの日』は一つしか思い至らなかった。そう、母さんと勇気が出て行ったことをクラスのみんなの前で言われてしまったことを。
あの日以来木下くんと卒業式の日まで話すことはなくて、今もアドレスを交換もしていない状態だった。今集まっている彼らも夏休みになってようやく連絡を取ることが出来たし、誠一郎には部活が忙しそうで連絡したら迷惑かなと思って未だメールも送れてなかったから、木下くんの現状を今初めて知った。
「で、さ。のぞみが良けりゃなんだけど、この後さ木下も呼んでもいいか?」
「のぞみが会いたくねえならそれでいいんだけどさ、あいつも反省してるっぽいから……どうだ?」
「……」
なんでもない顔しつつも、心配そうに俺のことを見る元クラスメイト。この二人は木下くんがしたことを怒っていた人たちで、俺が木下くんを許してると言っても気が収まらなかった2人だった。
木下くんが謝罪したのは俺の家でのことだったから他の人は誰も見ていなかったから、ちゃんと謝ったのかずっと疑っていたんだよ。誠一郎と木下くんとこの2人は同じ中学校。俺は未だ木下くんのアドレスも知らないのに2人は知っているような口ぶり。
木下くんと会ってほしいとそう言った。誠一郎と同じ部活だったことも知らなかった。誠一郎がレギュラー取れそうなことも、女の子にモテていることも。
おれは、なにもしらない。
「いいよ。俺も木下くんとずっと話したかったんだ」
心のなかのモヤモヤをしまい込んで、いつも通りの笑顔でそう答えると目の前の二人は安堵して、メールを打ち込み始めた。それは笑顔で見ていた。
『俺だけなにも知らなくて寂しい』
そう思ったことを誰にも察されないように。
――――
確かに木下くんに勝手に家のことをばらされたときは泣いて彼を責めたけれど、心の底から謝ってもらえたからすでに俺のなかで怒りはなくて。遅れて誠一郎と木下くんが二人でやってきて、俺がいることを木下くんは知らなくて「の、のぞ……!?」と目をこれでもかというぐらい見開いて、まるでお化けでも見たあとのように腰を抜かしてしまった。それに2人は爆笑して、誠一郎が木下くんを起き上がらせた。
おろおろしている木下くんに、俺は極めていつも通りに「木下くん、久しぶり」と笑顔で声をかけた。誠一郎のように俺に胸張って会えるようにがんばっていると聞いていたけれど、現在の木下くんはまったくあっていなかった。
それでも、いつも通りに接してくる俺に慣れたのか段々普通に話してくれるようになった。俺はすでに木下くんに謝罪を受け取っている。だから、なにも気にすることはないんだよと言い聞かせるように話しかけた。
「もう俺に罪の意識を持たなくても、良いんだよ」
そう伝わるように話した。それが伝わったのかどうかは分からないけれど、木下くんは申し訳なさそうにしながらも、前みたいに明るい話し方はしなかったけれど、俺に謝ることは無かった。だけど。
「……叶野、ありがとう」
前の名前呼びから苗字呼びになったのに少し違和感をおぼえつつ、あえて「なんか言った?」と聞こえたないふりをした。
「……聞こえてないならいいや」
「そう?あ、そうだ。アドレス交換しようよ」
「っうん!」
なんでもない顔でそう提案すると嬉しそうに頷いてくれた。木下くんの晴れ晴れした顔を見て、俺の選択は間違っていないんだと、これが正解なんだと、そう確信した。ただ、俺は……どうしてか胸あたりが苦しくなった。なんでだろう。こうして、みんな笑ってくれるのに。
どうしてだろう。
「希望、久しぶりだな」
「うん。誠一郎、身長随分伸びたねぇ……」
「そうか?希望は縮んだか?」
「誠一郎がでかすぎなんだって!」
「ハハハ」
あのあと1時間ぐらい雑談して、そろそろ帰ろうと言う話になって誠一郎以外とその場で別れて2人で帰った。久しぶりの誠一郎は、すごい身長が伸びていて軽く見上げないと誠一郎と目が合わないぐらいだ。話ながらとなりを歩く誠一郎を覗き見る。
出会った当初は周りの子よりもぽっちゃりで人見知りで上手く話せていなかったのが嘘みたいに、周りの子よりも逞しい身体つきになって堂々とした立ち振る舞いでもうどもったりしていない。きっと今が成長期なんだろうな、中1でこのぐらいならまだまだ伸びるだろうな。
「そう言えば最近忙しくて連絡全然取れてなかったが、希望のほうはどうだ?そっちの中学校は楽しいか?」
しばらく俺の身長いじりしていたけれど、中学校が違って連絡も取れていなかった俺の様子を聞いてくる誠一郎。話の流れとしては違和感はない。だけど、どう答えようか迷った。……本当は『誠一郎に話そう』そう思っていた。家族が本格的にばらばらになりそうなこと、学校での俺への扱いのことを。
誠一郎には話せる、そう思った。だけど。
「進学校って言われてたけど、みんなとあんまり変わんないよ。最初は緊張したけどさ、仲の良い子も出来たんだ!」
「へぇ、なんかすごい真面目なやつばっかりだと思ってたけどそんなでもねえんだな。まぁ希望がいるぐらいだもんな」
「不敬!」
言わなかった……いや、言えなかった。だって、誠一郎は今大事なときだ。俺のことを話してしまったら心配させてしまう。それに……やっぱり小学校のときと同じように認めたくなかったんだ。
家族が揃わなくなることも。……俺が、いじめを受けることになってしまったことも。それに、まだ希望(きぼう)を捨てている訳ではなかった。
夏休みさえ明ければ、きっとテスト前と同じように戻れるはずだって。三木くんも前と同じように接してくれるはずだって。そう、言い聞かせてた。
「まぁなんかあったら言ってくれよな」
「もちろんだよ」
誠一郎の善意にそう答える。
また俺は嘘を吐いた。
――――
現実逃避のように夏休み明けのことを考えないようにして、誠一郎や木下くん、連絡を取り合った同級生と遊んだ。
夜、誰もいない家に帰ってきてもボーっとすることもできなくて(そんなことしたら現実と直視しなくてはいけなかったから)ギリギリまで寝ずに宿題して。宿題が終わってしまっていたら只管勉強した。他のことをしていれば、現実を見ずに済んだから。
夏休み最終日の夜も、同じように目が霞むまで勉強してからようやく布団の中に入った。大丈夫、大丈夫大丈夫。怖くない。学校も、クラスメイトも怖いものじゃない。
もう、みんな普通になってる。もういじめなんて無くなってるはず。三木くんも俺に話しかけてくれるはず。
おなかが痛くなりながら、そう自分に言い聞かせてから眠りについた。
始業式が始まる前の教室。教室に入る俺を一瞥しただけで誰も挨拶さえしてくれなかった。三木くんと、目が合った。だけどすぐに逸らされてしまったことによって『まだ終わらない』ことを察してしまった、分かってしまった。
「……っ!」
泣きそうになるのを堪えて、自分の席に着こうと歩みを進めると座っていたクラスメイトが思いっきり俺の脛を蹴ってきた。突然の痛みに悲鳴を上げることもできなくて、でもなんとかこけずに踏ん張った。
「んー?なんか俺の足に当たったんだけど」
「れいげんしょーってやつ?こわー」
俺の存在は空気と同じものという設定らしくて、あきらかに故意で蹴ってきたのに足になにか当たったとそう話している。
相手のほうもそれが分かっているんだろう。チラッと俺へ視線を向けながら笑っている。彼は話したことはないけれど髪を赤に染めていて目立っていたし顔立ちも整っていてノリもよさそうなクラスメイト、周りに人が集まっていて楽しそうにしていた。今俺に笑みを向けているけれど……いつも通りの笑みを浮かべているのが、鳥肌が立った。
痛みと悲しみで、目じりに勝手に涙が溜まる。でもそれを見られたくなくて俯いて、痛む脚をそのままに引きずるようにして席に着いた。
どうしよう、どうしようどうしよう。終わらない。俺への扱いは夏休み明けてもなお続く。むしろ悪化しているように感じる、どうしよう。嫌だ。この空気は、いやだ。空気がうまく吸えない。とにかく、今日が終わったらすぐ帰ろう。
明日から怖いけれど……でも今日はすぐ終わるから、とにかく逃げないと。帰りのHRが終わったら、すぐ……。
そう決めていた。胃を痛めながら先生の話を聞いて誰にも絡まれないように休み時間はギリギリまでトイレにいた。その甲斐あって誰も俺のほうへ来なかった、このまま今日帰れることを願った。
だけど、それは叶わない。帰りのHRが終わって先生が行って、俺もそれを追いかけるようにすぐ教室を出ようとしたけれど。
「おい、待てよ。」
「!?あぐっ!」
「わぁ、だっさ」
さっき足を蹴ってきたクラスメイトが下を見ずに早足だった俺の足を引っかけてきた。そのまま顔面から床に突っ込んだ俺をわらう。笑っているのは彼だけでなく複数人。……俺の気にしすぎだと思いたいけど、たぶん、三木くんのわらい声も聞こえた気がする。
「なぁってば」
「いっ……!」
無様に床に転がっている俺の前髪引っ張って前を向かされる。
痛みで目が閉じてしまって、生理的な涙が出た。ぼやける視界のなか、目の前のクラスメイトの楽しそうな笑顔が見えて、俺は心底ゾッとした。なにをされてしまうのか、わからなかった。俺を虐めることが楽しくて仕方の無さそうな彼の笑顔が怖かった。
「そんな怯えなくてもいいんじゃね?……あーでもその顔いいな~……」
後半は俺にしか聞こえていないぐらいの音量だった。小さな声だったけれど心底嬉しそうな声に鳥肌が立って、自分の生命に危機感を覚えた。
「っはなして!」
さっきまで全身を床を強打した痛みで動けなかったのが嘘のような俊敏な動きで彼の手を振り払って教室を出た。明日のことなんてなにも考えず、今の自分の身を守ることを優先させた。
「うっわー……いったー」
「あいつ最悪だな!明日謝罪してもらわないと!」
「そうだなぁ」
振り払われた手をわざとらしく痛そうにクラスメイトに見せつけて、俺へのヘイトを溜めていた彼……羽佐間くんは笑う。
(……うん、叶野ってやっぱり可愛い。欲しいなぁ)
誰にも気付かれないように愛おしそうに振り払われた手を見つめていたなんて、俺は知りたくも無かった。
次の日からいじめは激化した。羽佐間くんはあの日以来直接俺に手を下すことは無かったけど、いつも楽しそうに傍観していた。
トイレで何度も胴体部分を殴られて、掃除用具のモップを顔に押し付けられて、水かけられて。昼用に買ったパンをゴミ箱に捨てられた。教科書やノートを引き裂かれた。体育が終わった後、制服に着替えようとしたけれどYシャツを盗まれてしまったことも何度もあった。
無視されることはなくなったけれど、次は俺が触れるものが腐るとか菌扱いされた。……これなら無視のほうが何倍も良かった気がする。
先生が見ていないところをやってくるし、殴るところも見えないところと徹底されて、クラスメイトはおろか巻き込まれたくないようで他クラスの子も俺のことは見て見ぬフリだ。心配かけてしまう、そう思って父さんに言えなくて。母さんにも勇気にもそんなこと言えないし今会えば何を言ってしまうか分からなくて会えなくて……もう、無理だ。夏休みが明けいじめが激化して2週間、ようやく先生に言う決意をした。
俺さえ何も言わず耐えていれば何も問題ないクラスだったから、それが面倒ごとになるのが嫌だったみたいで『気のせいじゃないか』と再三言われてきたけれど、引き裂かれたノートや教科書、自分の殴られたおなかの痕を見せれば渋々ながらもやっと重い腰を上げてくれた。
……机に書かれていた落書きのこととか気が付いていたくせに。授業のとき教室をぐるっと回るのだから気が付かないわけがないんだ、机に油性で書かれた『死ね』などの暴力的な言葉があるんだから。
責めたくなるのを抑えた。けれど、そんな先生が動いてくれたことで安心してしまった俺も俺かもしれないね……。
「叶野をいじめてるやつは誰だ?主犯は?」
「んーそれ俺が指示したー。直接やってはないけどね。主犯は俺でーす」
帰りのHR、俺へのいじめの主犯は誰なのか聞く先生に羽佐間くんはすぐに挙手した。
「かのうー、ごめんねー」
頭を下げることもなくそれどころか立ち上がることもなく、ただへらへらと笑いながら砕けた体勢で椅子に座ったまま簡単に謝罪される。あのときの木下くんと違う、何の重みもないただの言葉だけの謝罪。
全く悪いと思っていない、反省も後悔もしていない、そんな形だけの謝罪。
『……許したくない、いや許せない』
初めて強くそう思った。何一つ誠意を見せず悪びれることも無く、いつも通りの笑みを浮かべているそんな羽佐間くんも。俺に直接手を出したのに羽佐間くんを「うわまじかよー」と笑っている彼らのことも。
腸が煮えくり返りそうな気持ちになって(そんな謝罪受け入れるはずがないだろ!?)そう心のなかで強く思い、その心のままに叫ぼうとする。そう叫ぼうとするのを止めたのは。
「……羽佐間は謝ったからもういいよな?叶野」
心底面倒くさそうに俺に言った、先生の声だった。一瞬何を言われたのか理解できなかった。だって、あの謝罪と言うのもおこがましいただの言葉を、謝ったと先生は認識してしまったのか信じられなかった。目を見開いて先生を凝視する。すると。
「羽佐間が謝ったんだからもういいだろ?」
「早くしてよ。私塾あるんだけど」
今まで静かにしていた他のクラスメイトもざわざわし始める。どうしていいのか分からなくなった。なんで。
俺はなにも悪くないのに。悪いのは、そっちじゃないか。どうして何一つ誠意なんて込められていない言葉を放ったのは羽佐間くんなのに。いじめられているのは、俺なのに。
本当じゃない謝罪に俺の意志じゃない嘘で返さなくてはいけないの?なんで、どうして。どうして、おれを責めるの?
「いやぁ俺言葉軽いじゃん?そりゃ叶野も納得いかないんじゃない?」
どういうことなのか羽佐間くんが俺を庇うそぶりを見せる。きみが、せめて普通に謝ってくれさえすれば俺は素直にその謝罪を受け入れられたのに。どうして元凶が俺を庇うそぶりをする。善人ぶっているのか。そう、か。
「それひどくねー?」
「差別じゃーん。叶野くんはぁ、そんなことしないよなぁ?ただ反応が遅れただけ、そうだろ?」
「許してくれるよな?」
クラスメイトの1人が俺へ視線を向けて問いかけた。逆らうなんてしないよな?そう馬鹿にしたような軽薄な笑みを浮かべて。少しだけ冷静な頭が、教室の状況を把握する。誰も彼もが、俺のことをクラスメイト……いや人として見ていないそんな冷たい目をしている。
この教室に俺の味方なんて一人もいない。そう、思い知らされてしまった。俺を虐げて楽しんでいる目と関わろうとしないように目を伏せている人と早く帰りたいと訴えている冷たい目だけ。
三木くんが楽しそうに笑っているのを見て……あきらめた。
「……うん。そう、だよ。もう……いいよ。許す、よ」
抗うことを、あきらめた。
「そうか。羽佐間もうするなよ」
「はーい」
「それじゃあHR終わり。号令」
起立、令。HRが終わる。各々放課後を過ごすべく立ち上がるなか俺は呆然と椅子の背に持たれて力なく座った。ショックだった。庇ってくれる人はいなくとも誰かしらは内心心配してくれたんじゃないかとそんな期待は粉々に砕け散り、自惚れた自分を恥じた。俺は、少なくともこのクラスで何も価値のない人間なのだとそう思い知った。
「せっかく勇気出したのにね。残念だったね」
「……」
ひっそりと俺にしか聞こえていない小さな声でだけど楽しそうにそう言う羽佐間くんに俺は何も反応することができなかった。
「叶野くん~チクったな?」
「お仕置きだな。」
ほら立てよ。そう腕を引っ張られてされるがまま連れられる。またトイレで水かけられるか。雑巾を顔につけられるか。サンドバックもあるかな。
なんだか、どうでもよかった。価値のない自分なんかなにされたっていいや。ああ、でも。この場に誠一郎がいてくれたら違ったのかな。なんて。
いつまでも他力本願な自分が馬鹿らしくて勝手に笑みが零れた。自分が愚かで哀れで悲しくて、色々な感情を通り越して思わず笑ってしまう。
(その諦めた暗い笑顔もいいねぇ。ああ、でももっと泣いてほしい。……あ、そうだ。あいつを使おうっと。なんだか最近俺に気に入られようとしてるし、たぶんうまくいくっしょ)
――――
水張ったバケツに顔面を突っ込まれたのはさすがに命の危機を感じて暴れて、バケツをひっくり返して水がかかったとかでまた腹を蹴られて咳き込んでも忌々しそうに唾を吐きかけられても、その次の日も学校に行った。
帰るころにはすでに夕方で急いで鞄の奥にしまっていたタオルで拭いて帰路に着いて、父さんが帰ってくる前にはいつも通りの俺を演じて笑みを絶やさなかった。学校では価値のない人間以下の俺だけど、それでも家族では『進学校に通っている息子』という価値が俺にはあるんだ。
「最近学校はどうだ?」
「楽しいよ。仲の良い友だちも出来たからさ」
父に聞かれて友だちがいると答えた。満足そうに笑みを浮かべているのを俺はそれに微笑み返した。
『勉強はどう?何か困ったことはない?』
『順調だよ。先生も良い人だよ』
母にメールで心配されて上手くやっていると伝えた。嘘吐いてでもこう返すのが正解なのだと言い聞かす。
『お兄ちゃんッ今度勉強教えて~!英語が全然わかんないよ~!』
「うん、もちろんだよ。いつなら空いてそう?」
弟の勇気とそんななんでもない会話をする。通常を装っていつも通りの声音を意識して話した。『家族に心配かけたくない』そんな一心で家族の誰にも相談せず、悩んでいるようなそぶりも見せずに、毎日学校に行った。
酷い子なんて年単位でいじめを受けている子だっている。俺はまだ3ヶ月も経っていない、もっと酷いいじめを受けている子だっている。俺だけが不幸なわけではない。俺以上に不幸な子だっていっぱいいるんだから……俺は、大丈夫。
いじめられる度、学校に行く度、家に帰る度、そう思うことでギリギリのところまで踏ん張っていた。出来る限り絡まれても淡々とするようにした。そうすればいつか飽きる。
きっと2年生になれば飽きているだろう。そう望みをかけて休むことなく通学する。
俺の考え通り、俺の反応が乏しくなってきたせいか少しずつ絡まれる回数が減っていった。相変わらず俺に話しかける子もいないけれど、それでも絡まれないだけましだった。最近ではちょっと絡まれただけでは動じなくなったし……このままいけば飽きる日も近いだろう。
そう高を括り始めてきたころ。みんなが次の期末テストの準備に取り掛かろうとして余裕がなくなってきたころの秋口。いじめられる前と同じ時間に出て、いつも通りギリギリまでトイレで過ごしてから教室に入ると皆が俺に視線を向けた。
「……?」
俺をいじめているグループ以外のクラスメイトには無視されているので視線を向けてくること自体珍しいことだ。
しかもその視線がどこか気まずそうな雰囲気だった。いつもは俺のことなんていないかのような扱いなのに。
今その視線はどこか同情的にも思える。……なんだろう。嫌な予感がするのは気のせい、だろうか。気のせいだったらよかったのに。
「へぇ、叶野のとこって親別居してるんだー。しかも父親と2人で今暮らしてるんだ?知らなかったなぁ」
まるで俺がいるのを察したかのように羽佐間くんの大きな声が教室に響いた。
(どうして、それを知ってるの?)
第一に思ったのはそれだった。自分の家庭事情は誰彼構わず話していないことだ。小学校のときは木下くんのことがあってそのまま学年の全員に知られてしまったからどうしようもないことだ。
けれど同じ小学校の子がこの進学校に通っているのは俺以外いないのは確認済みだ。……もしかしたら、この学校で通っている子のなかに俺の小学校の同級生の知り合いでもいたのだろうか。一瞬浮かんだ考えを取り消してそんな可能性に行き当たる。今では話さなくなったあの子を疑いたくなかったんだ。無理矢理かもしれないけれど、誰かが親戚とか友だちの友だちとかそう言うのでたまたま俺のことを知ってしまったんじゃないか。そう思ったんだ。
……そうだったら、良かったのに。それなら傷ついてもきっと耐えられたのになぁ。
「本人から聞いたから間違いないよ。それで僕、誘い断られたこともあったからさ」
「えーまじで?」
期末テストの前まで良く聞いていた声が聞こえくる。前に聞いた声よりも、上擦っていて甘く伸びているように聞こえたけれど同じ声だ。羽佐間くんと向かい合って楽しそうに、俺のことをすらすらと話す声。
前まではそうやって俺は彼と笑い合っていたのに。信用していたから、信用できると思えたから、信じられるとそう思っていたのに。そう思っていたから俺は、全部話したんだよ。どうして、そんな楽しそうに話しているの?羽佐間くんと彼の周りにいつもいる4人に囲まれて少し頬を染めて笑みを浮かべて。
俺の秘密を彼らとクラスメイトにも聞こえるぐらいの大きな声で話しているの?どうして。
「ど、うして、三木くん……っ」
久しぶりに学校で言葉を発した。出席をとるときの返事と授業で指されたときと、泣き声と呻き声以外ではかなり久しぶりのことだった。信じたくなかった。期末テストの結果が出て以降三木くんと話すことは無かったけれど、それでも積極的に俺を虐めようとしていなかったから、三木くんのなかで少しでも俺へ情があるんだと思いたかった。
俺の声は意外と教室に響いた、羽佐間くんたちと三木くんも俺の方を見た。俺の姿を捉えたときの三木くんが一瞬青ざめたような顔をしていたのは俺の都合の良いように脳が置きかえていたのだろうか。
「……っこの際だから言うけどさ!ずっと、叶野くんのこと鬱陶しかった!嫌いだった!!」
俺のことを一直線に睨みつけながらそう大きな声で三木くんはそう言う。
「……え?」
思わぬ三木くんの言葉に俺は間抜けに目を見開いて彼を見つめて固まっているしかできなかった。そんな俺にたかが外れたように、俺以外にも見られているのも構わず続けた。
「聞いてもいないそんな重いことを、僕がどれだけ気まずい気持ちになったか知らずにっずっと話続けてさ!話を聞いてほしいだけだったんでしょ!?否定されずに何も遮られずに、話聞いてくれるなら誰だってよかったんじゃないの!?」
「そんなこと……」
「どうだか!その叶野くんの話を聞いていたせいで俺全然テストに集中できなかったのに!なのに、叶野くんはなんで俺より順位高いんだよっ」
否定しようとしたけれど、それは三木くんの叫びに遮られた。俺の、せい?俺が三木くんを信用して話したことは、三木くんにとって……重荷になってて、それでテストに集中出来なくなった?俺だけが話してすっきりして、て。
俺は、
「本当、いい迷惑だった!」
……彼にとって『俺』は、ただただ迷惑な存在だったんだ。