2.人間として。
母さんが自分よりも小さい弟の勇気を連れて行ったのを俺は見ていた。それを、見送った。
「希望、お母さんと勇気は買い物に行ってくるからお留守番よろしくね」
家を出る寸前、母さんはしゃがんで俺と同じ目線になって目を真っ直ぐ見てそう言った。いつも通りを演じる笑顔を貼り付けて、でも目が潤んでいたのは俺の願望だったのかは分からないけれど、惜しむように俺の頭を撫でている手が妙に記憶に残った。『母さんは、うそついている』小学校4年生だった俺にも分かるほどの違和感がそこにあった。
ただの買い物だったら、いつもなら俺も連れて行ってくれるか勇気とともに留守番しているかのどっちかだった。いつもの買い物なら、母さんはそんなに大きな荷物を持っていくなんて見たことない。そんな大きな荷物を持っていくときは、旅行ぐらいだったけれどあきらかに旅行のときより量が多くて、家の中にある母さんと勇気のものが少なくなっていることを俺は知っていた。
いつもと違う雰囲気にあきらかに母さんが嘘ついていることを知りながら。俺はいつも通りの仮面を貼り付けた。
「分かった。行ってらっしゃい、気を付けてね母さん」
笑顔で母さんに騙されたふりをして俺は頷いた。勇気は気が付いていないようで「おもちゃ買ってー!」と母さんにねだっていたのをどこか遠い意識でそれを聞いていた。
「いってきます」
「いってきまーす!お兄ちゃんの好きなチョコも買ってね!ね、ね?」
「……そうね」
「……いってらっしゃい」
なにも気が付いていない勇気に俺は複雑な気持ちになった。母さんに選ばれて羨ましい。だけど留守番を言い渡された俺のことも気遣ってくれる弟に、なんだか悲しい気持ちになった。俺もいっそ、気が付かなかければよかったな。そうすれば駄々をこねることもできたかもしれなかった。
「はやく、帰ってきてね」
分かってる。勇気はともなくもう母さんは帰る気がないのを。それでも、せめてもの訴えとしてそう告げた。俺の訴えに母さんは曖昧に笑ったままなにも答えず玄関の扉を開けた。二個下の無邪気な勇気の笑顔と悲しげな母さんの笑顔のふたりの姿を玄関先まで見送った。「ごめんね」そう母さんが俺を見ながら口パクで告げられ、扉は閉められガチャリと鍵をかけられた。
母さんと勇気がいなくなって静かになって。母さんが最後なんて言ったのかを脳が理解したと同時に……その場にへたり込んでしまった。
「……かあさん、勇気」
「いかないで。おれを、おいていかないで」
すでに扉が閉められて聞こえていないとわかっていたけれど、力なくそうつぶやいた。母さんが思い直して引き返して、扉を開けて、俺を抱きしめて『ごめんね』と言ってくれることを願った。願いだけじゃなくて『おいていかないで』と泣いてその腕や足に絡みついて喚きちらして引き留めればよかったのかな。でも、俺はお兄ちゃんだから。弟の前で泣くなんてみっともない。母さんに、迷惑な子と思われたくなかったから、そう願うことしかしなかった。
結局父さんが帰ってくるまで玄関の扉は開くことはなかった。帰ってきた父さんは玄関先でへたり込んでいる俺に驚いていた。動けずにいる俺を抱えてリビングへ移動した。俺のことを心配していたのか早足でリビングへと向かっていたけれど徐々にその足取りが重くなった。
俺以外人の気配がないことを察したんだ。ソファに座らせて、すぐ父さんは俺を抱きしめた。
「すまない、希望。すまない……」
「……おれは、だいじょうぶ、大丈夫だよ。父さん」
不仲だったから。本当は俺分かってたんだよ。家のなかの母さんのものと勇気のものが少なくなっていたの。
でも、言えなかった。だって、俺の荷物は減った様子なんてなかったから。俺が置いて行かれるなんて、わかりたくなかったんだ。
母さんが勇気だけ連れて行ったのは、きっとまだ小学校1年生で平均より身長も低くて身体もまだそんなに強くて自分がいないといけないと思っていたから。
俺を置いて行ったのは俺は『しっかりしたお兄ちゃん』と思われていたから。そう、思われるようにしていたから。甘えたいの我慢して弟に譲って、母さんの手伝いをして、父さんとも仲良くお出かけしていたから。学校生活もそれなりに順調で身体も丈夫だったから、俺は『置いて行って大丈夫』と判断された。
心底申し訳なさそうに謝る父さんを宥めるようにその背をトントンした。ここで一緒に泣いていれば、もう少し父さんも俺を見てくれたかな。心配、してくれたかな。
俺、素直って言われるけど案外こういうとき意地張っちゃうから。特に家族には心配されたくなかったから。泣きたいの我慢して笑う。俺が泣いちゃうと、迷惑になっちゃうから。父さんのほうが、きっと辛いから。
自分が辛いのなんてどうってことない。自分の傷を見ないフリして目の前の父さんの気分を少しでも上を向いてほしくて懸命だった。
小学校4年生、夏休み明けすぐ母さんは勇気を連れて県外に住む祖父母のもとへ行ってしまった。置いて行かれた俺はいつも通り小学校に行く。
残酷なまでに、誰にでも平等に朝はやってくる。
ーーーー
しばらく。そのまま『いつも通り』を演じて過ごす。いつも笑顔を貼り付けて。学校も家もそうしてやり過ごした。友だちと話しているときも、授業中も体育のときも、休みの時間もお昼の時間も。
父さんといるときも、仕事や母さんへの連絡とかで忙しそうな父に代わりご飯を作ったりお風呂を沸かしたりしているときも、塾のときも。
なんでもない顔を貼り付けながら、どこか胸に穴が開いたかのような虚しさがあった。家に帰っても出迎えてくれる母さんも勇気もいない。クラスメイトに『最近弟来ないね』とか『なんでご飯自分で作ってるの?』とかよく聞かれるようになったけれど本当のことを言わず曖昧に笑って誤魔化した。
自分から説明してしまえば、母さんと勇気がいない事実を認めたことになってしまうから。まだ認めたくなかったから。口に出したくなかった。
俺なりにいつも通りにしていたつもりだった。でもたぶん数人は俺のいつもと違う様子に違和感を持っていて、そしてその違和感を『心配』してくれたのはひとりだけだった。
「のぞみさ。最近冷たいよな?」
「え」
掃除の時間の終わりかけのときだった。あとは掃除の際移動させていた机を午後の授業が始まる前に掃除前のときに戻すだけ、というときに突然友だちの木下くんから大きな声でそう言われた。笑顔がひきつる。
彼はいつも何かといっしょにいた。幼稚園からの付き合いもあってなんとなく扱いが分かっていたし、やんちゃでいたずらっ子の木下くんといて大変だけど悪いひとじゃないから、と思っていっしょにいた。
最近は忙しくて俺が遊べないのを不満に思っているのは顔をみて分かっていたけれど、こんなに人が多いところで堂々と言われるなんて思わなかった。
「そんなことないよ?」
「うそだ?」
「……えっと……」
「ほら。最近おれの話シカトしてんじゃねえかっ」
確かになにか話しかけられているのは分かっていたけれど、家族のことがどうしても頭から離れなくてぼんやりしていて木下くんのはなしを聞いていなかったことになる。それは申し訳ないことしちゃったな、そう思ってすぐ謝ろうとしたけれど。
「それに!のぞみ嘘ついてたよな!最近弟が希望のところに来ないのも帰ってご飯作ってるのも、弟は忙しいとか母ちゃんの手伝いするからとかじゃなくて、お前のかあちゃんと弟は出て行ったからじゃん!先生に聞いた!なんで言ってくれないんだよ!」
隠していた(認めたくない)ことを突然前触れもなく皆の前で叫ばれたのを理解できなくて、目を見開いて彼のことを見ているしかできなかった。どうして。どうして、おれのことあばくの。
「俺たち友だちじゃねえのかよ、なんで隠したりするんだよ!」
悲痛な顔して叫ぶ木下くんが俺の顔を見ている。
確かに隠すことになったのは認めるよ、未だ自分のなかでも受け入れることができないことをただ周りに言えなかっただけだけど、結果として木下くんの言ってることは嘘じゃない。
本当なら、隠し事して嘘までついたのは俺だから、眉を寄せて悲しそうな顔して俺に叫ぶ木下くんに謝るのが正しいことだと思う。頭ではそう分かってる。
「希望って木下にかくしごとしたのか?仲良いと思ってたんだけどな。」
「しかも嘘まで吐いたのかよ、それはちょっと……」
「え、叶野くんのお母さんと弟くんが家出て行ったの?それほんとう?」
クラスメイトの前で大声で木下くんが言ってしまったから、俺でさえ認めたくないことがクラスメイトのほとんどに知られてしまった。
嘘ついてでも自分を守っていたかった俺を責める声と母さんと勇気が家出て行ったのを驚いている声がひそひそとでも俺の耳に入るぐらいの大きさで話しているのが聞こえてしまった。
「……」
怒っているけれど泣き出しそうな顔をして俺の謝罪を待っている木下くんに俺はなにも言えなかった。謝らないと、というのは頭ではわかってる。だけど、どうしても納得できなくて言葉が出て来なかった。
どうして。おれがあやまらないといけないの。
きれいとはとてもじゃないけれど言えない感情が胸あたりを渦巻いている。いくら友だちでも言いたくないことがある俺が悪いの。
まだ母さんと勇気が出て行ったのを現実として受け入れられていないのを誤魔化してなにが悪いの。
いずれはバレてしまうかもしれないけれど、ほとんどのクラスメイトに知られたくないことを叫ぶ木下くんにはなにも言わないのはなんなの。
なんで、おればっかりがまんしないといけないの。
木下くんだって、いっつも宿題忘れていっつも俺の答え映して、それが先生に間違えを指摘されたらすぐおれを責めるくせに。それでいっつもおれが謝ってるじゃないか。
それでもその場の空気を悪くしないように笑って謝っているのに。
学校でもそうして過ごして、学校が終わったら塾にも行って、塾がない日も忙しそうな父の代わりに家のことして、父さんが帰ってくるのも遅いから母さんと勇気がいない家では俺は一人ぼっちで、さみしいのも……泣きたいのも、がまんしているのに!
泣いて縋りつくのも、我慢したのに。
帰っても遅くまで誰もいない寂しさなんて彼には分からないし、きっと俺が2人が出て行ったのを見てどう思っているのも想像もしたことないんだろう。
ただ『自分』に構ってくれなくて不快なだけ。それだけだよ、どうせ。木下くんのことだもん。おれ、知ってるよ。それだけで先生に聞いて、それだけの理由でみんなの前でばらした。
木下くんの人柄とでも言うのだろうか。
木下くんはやんちゃでいたずらっ子で、幼稚園のころから大人のひとに怒られたり同い年の子に泣かれたりしたけれど、大人たちには仕方ないなと甘くされたり悪戯されて泣いていた子は次の日は笑い合っていたりして。
俺もまぁ木下くんなら仕方ないかな、と甘かった自覚はあったけれど。でも、今は。
「叶野、はやく謝れよー!」
頬をふくらませて涙目で俺のことを見ている木下くんに思わず苛立ちを覚えてなにかこの場の空気をこわすようなことを言ってしまいそうで俯いて耐えて俺がいつまでも謝らずにいると、彼を可哀想に思ったのか俺を肘でつついて急かされる。なんでおれが、あやまらないといけないの。がまん、しないといけないの。
「うそついたんだろ?」
「嘘つかれたそいつが可哀想だろ!」
知られたくないことバラされて、謝りたくなんてないのに謝ることを強要される俺はなんなんだろう。
「はやく!」
そんな俺の心情なんかより木下くんが今にも泣きだしそうになっているほうがみんな大事みたいで、急かす声が増えていく。……また、おれは我慢しないといけなんだ。そう思うと悲しい気持ちであふれると同時に胸のどこかが冷めていく。
そんなに自分が認めたくないことを言わないのがだめなのかな。なんか、もういいや。みんな俺のことなんて、どうでもいいんだろうね。
何かと手伝ったり宿題を見せてあげたりする俺よりもいたずらばかりだけど愛嬌があって素直で楽しい木下くんのほうがきっとみんな好きなんだろう。俺も泣きたくなる。だけど、我慢する。わきあがる涙をこらえて、少しも謝りたいと思っていないけれど、悔しいと思いながらも俯いたまま『ごめんね』の言葉を声に出そうとする。
「っま、まま、待って!なんで、叶野くんばかりみんな責める、の!?」
今にも泣きそうな彼のことを心配する人たちは俺らの周りを囲んで、俺に謝罪を求める声が大きいなかで、聞き慣れないどもりながら言葉に詰まりながらそれでも大きな声を振り絞る声が教室に響いた。驚いて俯いていた顔を上げると、そこには俺のことを庇うように両手を広げている湖越くんが立っていた。
ーーーー
「ここえくん……?」
心底驚いてしまう。まさか、湖越くんにこうして庇われるなんて予想もしてなかった。むしろ……俺のこと嫌いと思っていた。
「っんだよ、デブタ!希望を庇うのかよ!希望が悪いのに!責められて当然だろ、うそつきなんだから!」
木下くんはよく湖越くんのことを『デブ』と『ブタ』を掛け合わせた失礼なあだ名で呼んでいた。確かに、湖越くんは周りの子と比べると肉付きの良い身体をしていた。身長はおれより少し低いけれど体重はたぶん倍以上あるかな?いつも下を向いていて、誰かに話しかけられてもうまく答えられなくて人と目を合わせるのが苦手なのか常に下を向いていた。声も音読しても聞き取るのが難しいぐらいの小さいもので。
やんちゃな木下くんはよくからかっていた。俺はそれを近くで見ながらも木下くんの意識を他に移したりは出来ても、止めることは空気をこわしてしまいそうで出来ずにいた。
俺も……湖越くんが転校してきたときには両親の仲はもう最悪であまり気にかけることもできなかった。木下くんがクラスメイトを引き連れて湖越くんをいじったりしているのを見かけても何度か見過ごしてしまった。
クラスの中心的な存在である木下くんに逆らおうとする子はいなくて、むしろ木下くんに気に入られようと湖越くんをいじったり失礼なあだ名で呼んだりする子が多かった。
俺は幼稚園のときからの付き合いだったおかげか木下くんに気に入られていたから、気に入られようとする行動はしなくても大丈夫だったけれど木下くんはクラスでは絶対的な存在だったからその場の空気を壊さないようにはしていた。
たまに気にかけることは出来ても全面的にそんな湖越くんをかばったりすることは出来なかったし、その呼び方は辞めようとやんわりと促すことは出来ても強く言うことは出来なかった。
そんな中途半端な俺に、湖越くんはどう思っていたのか俺は知らない。でも、きっとどっちと付かないことをする俺は嫌いだろう、安全なところにいて動こうとしないくせに良い顔をする俺のことなんて。と勝手に予想してた。それなのに。
「だだだって!ぼくだったら言いたくないとおもう!
だ、大好きなお母さんや弟が家を出て行ったりしたのを、見てたらっやっぱり言いたくないよ!」
俺からは湖越くんの後姿しか見えないけれど、その背中は震えていたのはわかった。勇気をふりしぼって、俺のことをかばってくれている。
みんなの前に飛び出して、大きな声を出して、きっと湖越くんは苦手で仕方のないことなのに。それでも、俺のことをかばってくれる。じわりとさっきとは違った意味で泣き出しそうになるのをこらえる。
「か、叶野くんの理由をきかないでせめるのも!あやまれって強制するのも!叶野くんにとって、言いたくなかったことをみんなの前で言う!そんな木下くんのほうが……ぜ、ぜったいに、おっおかしい!叶野くんに、あやまれ!!」
人の目を見るのも苦手なのに、真っ直ぐ木下くんを見てそう必死に大きな声を出して木下くんに言い返した。
俺からは湖越くんの顔は見えないけれど、きっと一生懸命に伝えてくれているのがひしひし伝わってくる。
「な、んだよ!このデブタ!!おれはおかしくない!ぜったいあやまらない!悪いのは、のぞみ!希望だもん!!おれじゃないもん!そうだよな!?みんなもそう思うよな!?なぁ!?」
今までにない湖越くんに教室は静かになったのに焦ったように顔を真っ赤にして、こちらを指さしてだだっこのようにそう叫んだ。木下くんは小学校にあがって……いや、今の今までこうして大人以外に真向から抵抗されるのは初めてだと思う。
クラスで絶対的権利を持つ彼の周りにいるのは、彼に気に入られようとする子、彼を嫌いながらもいじられたくないから表立ってなにも言えない子、やんちゃなところも木下くんらしいと受け入れている子、いじられたくないけれど強く言えない子、あとは、俺みたいなの。こうして堂々と俺に謝れと言う子はいなかった。
湖越くん。いつも俺は、いじられているところを見ているばかりしかできないのに、それなのにかばってくれたんだ。
「っなんか言えよぉ!なんで誰もおれのことかばわないんだよぉぉぉ!」
「うわっやめろよ!木下っ」
「きゃ、だれか先生呼んでっ」
叫んだのに怒ったのにいつものように誰も自分のことをかばってくれないのが悲しかったようで、近くにいたクラスメイトに掴みかかった。
それを見て俺は慌てて湖越くんの前に飛び出した。湖越くんと目が合う。眉を下げて悲しそうな心配したようなそんな顔をしてくれたから、俺は笑う。
「だいじょうぶ。……かばってくれてありがとう、ね」
少しでも気を軽くなってほしくて湖越くんにしか聞こえないぐらいの小さな声でそう言った。
「木下くん!」
掴みかかっている木下くんにパニックになってしまってにぎやかになってしまったみんなに聞こえるぐらい大きな声で彼の名を呼んだ。
ずっと俯いてだんまりだった俺の行動が気になるようで数人は俺の様子をうかがっている、木下くんも涙とか鼻水とかでぐちゃぐちゃで興奮していたからか顔も真っ赤になりながらも俺の声は聞こえていたようで掴みかかってそのまま取っ組み合いになる形になっていたがピタッと行動を止めて俺の顔を見た。
さっきまで俺に謝れと言っていた子は木下くんの動きが止まると同時に下から這い出て距離をとったけれど、それは木下くんの目に入っていないようで俺のことをじーっと見ていた。
「俺は木下くんに確かに嘘ついた。それは、ごめんね」
座り込んでしまった木下くんの近くで俺もしゃがんで勇気に言うように優しく謝った。いくら受け入れたくないことで言いたくないことではあったけれど、確かに木下くんに嘘をついてしまったことは事実だったから。その点だけは謝った。
「そ、うだ。希望がおれに嘘つかなければよかったんだっ」
「うん。そうだね。でもね……木下くん」
自分の意見はなんだかんだいつも通る木下くんは今回は少しなんかあったけどいつも通りだとそう思って胸をはっている。自分の意見はいつだって正しい、そう思える木下くんの自信は羨ましいと思うし尊敬するよ。……でも。
「俺ね。母さんと勇気が出て行ったことまだ受け入れられないんだよ。認めたくないし、だれにもまだ知られたくないと思った。木下くんにもまだ言いたくなかった」
少しだけでもいいから、自分以外の誰かの気持ちのことも考えてほしいんだよ。言わなかったのと言えなかったの違いを、すべてを分かってほしいとまでは言わない。だけど、ほんの少しでも考えてみてほしい。
「は?いや、おれと希望の仲なんだから、隠すことないよな?」
「そうだね、俺も木下くんとはいい友達と思ってたよ。ねえ、木下くん。木下くんだったら、どう思う?木下くんのお母さんとお兄ちゃんが木下くんを置いて出て行くのを見送ったら。もう帰ってこないの分かっててそれを見送るときって、どう思う?どんな感情になるの?」
「え」
「靴を履いて辛そうな顔で『いってきます』て言われるの。もう帰ってこないのに、そう言われて2人は手を繋いで出て行くのを扉が閉まるのを見てさ。帰ってこないのは知ってるけれど少しだけ期待して帰ってくるの待つの。みんなはお父さんとお母さんがいるのに自分にはその片方がいなくなっているのを、木下くんは言えるの?みんなの前で言える?」
「あ……え、」
責め立てるように早口になってしまうのは、ゆるしてほしい。俺の立場が木下くん自身のことに置きかえたことを想像して青ざめている木下くん。泣きそうな顔をしてても俺の口は止まらなかった。
「俺は、無理だったよ。言いたくなかった。嘘ついちゃったのはごめん。だけど……少しだけ、俺の立場を自分に置いてみて考えてみて?おれね、強がりたかったんだ、まだ受け入れたくなかったんだよ。言葉にしたら嫌でも事実になっちゃうから。だから、言えなかった。いくら仲の良い友だちでも」
嘘をついたことに罪悪感を覚えた。俺と仲良くしてくれる木下くんのことは嫌いではなかった。無邪気でやんちゃで笑顔が似合う木下くんに嘘ついた。それでもまだ俺を置いて出て行ったなんて認めたくなかった。置いて行かれるなんて、認めたくない。認めたくなかった。
「認めたくなかったのに。だれにも、言いたくなかったの、に」
きみは、言った。言ってしまった。
「ど、うして、言っちゃうのぉっ……しかも!みんなの、まえでっ……う、ううううう……!」
ついにがまんできなくて、その場にへたりこんで床に突っ伏して涙があふれた。なんで、、どうして、おれいい子にしてたのに。ちゃんと言うことまもってたのに。
どうしていっちゃうの。母さん。どうしていっちゃったの、木下くん。ぎすぎすしないようにがんばったのに、どうしておいていくの。どうしてきずつけるの。がまんしたのにっがんばったのに!
「うえ、う、うううう~~~!!」
つぎからつぎへとあふれでる涙。いつになったら、帰ってくるの。いつになったらおかえりって言えるの。
ねぇ、母さん。さみしい、さみしいよ。泣き続ける俺の背中をなだめるように叩いてくれたのは、顔は見えなかったけれどたぶん湖越くんだった。大きな、手だったから。
木下くんは目を見開いたまま固まってて、でもだれも木下くんに手を差し伸べたり俺に謝罪するように求める声もなかった。だれかが呼んだ先生がかけつけるまで俺は泣き続けた。
ーーーー
あのあと先生に手を引かれて保健室へと連れられた。落ち着くまでここにいなさいとそう言われて、保健室の先生も慰めるように頭を撫でてくれた。それに泣きながら頷くしかできなかった。結局そのあと午後の授業を受けることも出来なかった。こんなに涙って出るものなのか、とぼんやりする頭でそう思った。
脱水を心配した保健室の先生にコップに注がれた水を飲まされたけれど、飲んだ分がまた涙となって溢れてしまってあまり意味を成さなかった。担任の先生が父さんに連絡してくれたみたいで、放課後の時間になって学校まで父さんが迎えに来てくれた。
仕事で忙しいのにたぶん早退して、急いでくれたみたいで息を切らしていつもはきっちりと整えている髪もぐちゃぐちゃになっているのがビックリして涙が止まっちゃった。
泣きすぎて目が腫れて真っ赤になっている俺と目が合う。父さんは俺と同じぐらい泣きそうな顔をしている。
「のぞみ、すまない」
そして、そう言って抱きしめてくれた。力いっぱい抱きしめられながらもそう反射的にだいじょうぶだよ、と言おうとするけれどその前に父さんが言った。
「そんなに思いつめていたなんて、お前はしっかりしているから大丈夫だと思い込んでいた。ほんとうに、すまない。さみしい思い、させたな……。強がらなくていい、いいから、な……?」
「う……!」
母さんと勇気が出て行ってから。いや、その前からずっと俺は『お兄ちゃんだから』って自分に言い聞かせてた。おさないから仕方ないけれど勇気を優先する父さんと母さんにわがままも言えず、かと言ってたった一人の弟を嫌いにもなれなくて。
今回も母さんは勇気だけを連れていった。きっと母さんにも色々と考えていたと思うけれど……俺は『置いて行かれる側』だった。どうしようもないぐらいの『事実』が悲しかった。辛かった。ずっと、俺は泣きたくて。でもがまんしてわらってた。友だちに嘘ついてでも俺は守りたかった。
俺自身がその事実を認めたくなかった自分のことを。そして、勇気だけを連れて行った母さんのことを。
事実だけ見れば勇気だけを連れて俺を置いて行った母さん。
「かあさんの、ことはせめないで」
だけど……やっぱり母さんも色々考えてのことだったんだとも思うんだ。そうじゃなきゃ出て行くときあんなに辛そうな顔して俺のこと見なかったとおもう。俺のことを、扉が閉まるまで視線をそらすことなく見つめなかったとおもう。
俺と父さんを置いて勇気と連れて出て行った母さんのことを、俺は認めたくなかったし母さんのことを誰にも責めてほしくなかった。母さんが加害者にならないように、俺を置いて行ったのを認めたくなかった。
木下くんに言ってしまえば、俺は事実を認めないといけなかったし、母さんのことを責めるようなことを大きな声で言うのだろうと予想していたから。だから、だれにも言わなかった。言えなかったんだ。母さんが悪く言われるぐらいなら俺が悲しいことをがまんしてしまえばいいと思った。……まさか、ああやってみんなの前で言われちゃうとは思わなかったけど。
「ああ、お前も母さんのことも責めたりしない。でも……せめて、1ヶ月に1回だけでも母さんと勇気と会えるように父さんがんばるから」
いつもなら首を振ってがまんするんだけれど、首を振ろうとすると父さんが酷く傷ついた顔をするから、俺は頷いた。今までみたいには、きっとなれないのかもしれないけれど……それでも少しだけ望みがあるように思えた。
ーーーー
あの日以降色々とすごく変わった。まず、月に1、2回だけど母さんと勇気に会えるようになった。勇気も俺に会えてすごく嬉しそうで俺も嬉しかった。父さんと母さんは顔は合わせるけれど一言交わすぐらいでほとんど無言だった。それでも、俺と勇気へ向ける笑顔は2人も本当だった。だから、これから俺が頑張って繋いでいけたらいい。そうポジティブに考えることにした。
あと……俺は木下くんといることがほぼなくなった。俺は木下くんのことを嫌いになった、というわけではなくて。いい意味でも……悪い意味でも、木下くんは素直なだけだから。俺も嘘ついたのは本当のことだからお互い様、と思っている。
それにあの日の夜木下くんは木下くんのお母さんと一緒に頭を下げて家まで謝りに来てくれたから。
『本当に、うちの愚息が……ああ、本当にごめんなさい。ほら、あんたも謝りな!』
『……う……ごめんなさい……』
『え、いや、ううん、おれもウソつくことになってごめんね?』
『えっと…息子もそう言ってますし……どうか顔を上げてください』
木下くんのお母さんがこれ以上下がらないだろうなと思うぐらい頭を下げて、木下くんの頭をガッと掴んで下げさせているのを見たから俺も父さんも逆に慌ててしまった。菓子折りまで持ってきてくれて……なんだか申し訳ない気持ちになってしまった。
俺としてはもう怒っていないし、悲しいけれどやっと母さんと勇気がいないのを認められるようになったから木下くんに荒療治になったとはいえ感謝もしていたけれど、あの日以来木下くんに気まずそうに目をそらされ避けられるようになってしまった。
木下くんの言うことを笑って受け入れていた俺のとりみだしてしまったのを見てショックだったのかもしれない。
俺を避けるようになったのと同じようにクラスメイトの木下くんの扱いが変わっていった。『前の木下ってすごい調子乗ってたよな?』とか『言われっぱなしでくやしくないか?木下もお前と同じ目に合わせようぜ?』と俺に謝ることを強制してきた子にそう言われたときは信じられない気持ちになったし呆れにも似た感情を覚えた。とんでもない手のひら返しに呆れる。
「調子乗ってるのはきみじゃないの?俺はもう木下くんに言われたこと気にしてないし、もう謝ってもらったから平気」
そう冷たく突き放した。
「きみ、気に入られようとして俺に謝ること強制してきたのにきみからはなんの言葉もない、そんなきみが一番……嫌い」
目を合わせてそう言うと泣き出しそうな顔して走り去って行ってしまった。木下くんのことを優先させて俺の気持ちを無視したのに、今さら味方ですって顔されてもむかつくだけなんだ。
他の子だって、あの日以降木下くんに冷たく当たって俺のことを気遣うようなこと言うけれど、あのとき庇おうとしなかった子たちにそう言われても……正直心が冷める。最初は隠せなかったけれど、徐々にその場を壊さないようにすることばかり選んでいたから「大丈夫だよー」と作り笑顔でそう返すようになった。代わりにクラスメイトに対して内心少しの距離を置いて話すようになった。だって、あのとき誰も庇ってくれなかった。
木下くんを良く思っていない子もいるのに、宿題うつさせてあげた子もいたのに、ね。後ろめたかったみたいで俺と目を合わせたりしなかった。ウソついたのに責める声だって荒げていたのに。俺のこと庇ってくれなかった。彼以外は、だれもいなかった。
最後に……あの日以降、俺は湖越くんと一緒にいるようになった。あの出来事の次の日の朝、登校してきた俺のことをどう接していいのかわからないのか遠目で見るクラスメイトたちのなかたった一人だけ。『かのうくん、だ、だいじょうぶ?』そう声をかけてくれた。彼だけは。俺のことを本当に心配してくれたんだ。木下くんのことを止めきれなくてやんわりとしか注意も出来ずたまにしか気にかけることが出来なかったのに。申し訳ない気持ちと同時に嬉しかった。
俺のことを心配してくれたのはきっと家族以外では彼が初めてだったから。
「うん、大丈夫だよ。ありがとう、湖越くん」
本当に嬉しかったから、少しだけまだモヤモヤしていたけれどそれが晴れて本当の意味で湖越くんに笑いかけることができた。それを見たクラスメイトも彼を押しのけて俺に話しかけてきた。そんなクラスメイトに相槌をそれなりに打ちつつ彼に話しかけた。
「湖越くん、きみのこと誠一郎くんって呼んでいい?俺のことも希望って呼んでいいからさ!」
彼となら、本当の友だちになれる。そう思った。初めて自ら親しみを込めて家族以外の誰かを名前で呼びたくて、自分の名前を呼んでほしくてそう聞いた。
「う、うん!」
湖越くん……誠一郎くんは頬を紅潮させて身体をもじもじさせながら頷いてくれた。本当の意味で俺にも友だちが出来たんだって。そう喜んだ。
『なんて都合がいい』
自分のなかでそんな冷めた声が聞こえた。それは誠一郎くんが話しかけたことによって俺がいつも通りだと知って誠一郎くんを押しのけたクラスメイトに言っていたのか……自分のことを棚上げに誠一郎くんに勝手に友情を感じた自分自身に向けて言っていたのか。もう、わかんないや。
でも少なくてもこのときの俺は本当に誠一郎くんに対して純粋に友情を感じたし、家族のこともこれからなんとかできると思ってた。
この純粋だった『友情』はお互いを『依存』させる歪なものになって。俺はどれだけ愚鈍だったのか思い知ることになって。そして、この先に進む中学校で『裏切り』の酷さを知ることになる。なんて。
このときは想像も……可能性も考えたこともなかったなぁ。