2.人間として。
勉強会する許可を岬先生からもらう際『鐘が鳴るまでなら残っていいよ』と言われていたのを、チャイムの音を聞いてやっと思い出した。それまで熱中しており、時間を気にすることも忘れていた。
「ん……?チャイム鳴ったのか、随分早い気がするな……」
「え、もうこんな時間ですと!?」
2人も俺と同じように集中していて、チャイムの音が鳴ったことによって時間の経過に気付けたようで顔をあげて時計を確認していた。
時刻は17時半。この間のときと同じように長くいてしまったらしい。時間って1人でいると長いのに誰かといると短く感じるのはなんなのだろうか……。帰りの準備をし始めた。
「お、まだいたか。よかった」
するとガラッと図書室の扉を開けてひょいっと顔をのぞかせていたのは叶野たちと勉強していたはずの伊藤だった。俺がまだいたことにホッとしている様子だ。俺もすでに伊藤は帰ってしまったと思っていたから、うれしい。
胸あたりが暖かくなってふわふわとした感じになる。伊藤、どうした?と嬉しいくせにそう聞こうとしてしまう寸前。
「あっやっほー!すずたん、ひさぶ~!」
「すずたん、どう、し……あ」
吉田も伊藤がそこにいることを認識して勢いよく手を振りながら吉田命名のニックネームを叫ぶものだからついつられて伊藤と呼ぶつもりがすずたんと呼んでしまった。
口が滑った。なんて呼んだのか自分の口がなにを言ったのか理解した瞬間に口を抑えたが、すでに言葉は発した後で普通に伊藤に話しかけるつもりだったからそれなりの声量でのままするりと言ってしまったものだからこの場にいる全員聞こえてた。
帰りの用意をしていた鷲尾が固まって吉田はじっと俺のほうを見て、こちらに来ようとした伊藤の足が止まってしまった。
さっきも吉田の伊藤の呼び方が衝撃的過ぎてオウム返しのように呟いてしまったが、そのときは本人が目の前でもなく吉田の付けたニックネームを復唱していただけだったので特に誰も突っ込むことはなかったが、今は違う。思いっきり伊藤のほうを見て、そう呼んでしまったのだ。
「おぉ?イッチもすずたんのニックネーム気に入った?気に入った系?ならばイッチもそう呼ぼうずっ!だれもおれのつけたニックネームで呼ばないんだもん~!」
どうしはっけーん、と目を輝かせて嬉しそうに言う吉田以外は沈黙を保ったままである。俺も無言で、伊藤の顔を見れない。俺の発した言葉は暴言を吐いたりなにか失礼なことは言っていないし、傷付けるような言葉でもない。好意的に捉えるなら親しい友人に対して親しみを込めてあだ名で呼んだともいえる。
そう、別に何のことはない。伊藤の苗字ではない名前を少しもじって呼んだだけ。そもそも命名は吉田であり、誰も呼ばれないそのあだ名を呼ぶのも有なのかもしれない。
落ち着かそうとして宥めるような声もある。落ち着け別に恥ではないだろう、親しい友人に親しみを込めてあだ名で呼んだだけ、そうだろう。と、自分を弁護する声が聞こえるし、その通りだと思う。
だがその通りだと言い聞かせて冷静になろうとする頭とは真逆に、自身の顔が真っ赤になっているのを自覚する。
(この湧き上がる羞恥はなんなのだろうか……!)
心のなかでそう叫んだ。ドッドっと心臓の動きが早まるのを感じる。事実だけを言えば伊藤のことを吉田命名のあだ名を呼んだ。それだけの話で堂々としていればいい。そう落ち着こうとする理性と相反する気持ちが理性を上回るのを感じる。
すぐにそう呼んでしまったことを謝るなり堂々と振る舞うなりすればよかったのに、今自分はそのどちらもしていない。今視界には床しか見えていない。
それでも何か言わないと、とそう思って「……すまない」と乾いて張り付いてしまった喉から絞り出した。
変な空気になってしまっていることを肌でビシビシと感じている。伊藤がどんな顔をしているのか気になるが、知りたくない。恥ずかしい。
吉田がなにか言っているけれど何も聞こえない。顔を上げられずにいる俺を哀れに思ったのか鷲尾が口を開いた。
「……まだ残っていたのか、すずたん」
と、俺が事故でそう呼んでしまったのが無かったことのように鷲尾が伊藤に向かってそう聞いた。いつも通りを装うとしているのは分かったが、どうしても違和感があるのかその声は少し震えていた。
「……っは!?」
「おおーかっちゃんも気に入ってくれたんだね!」
少しの間があったあとに固まっていた伊藤が反応し吉田の歓声が響く。
そこまで聞いてようやく顔をあげられた。瞬間思いっきり伊藤とばっちりと視線が絡み合うことになって、不自然なまでに後ろに顔を逸らしてしまう。
「かっちゃんは辞めろ。いいじゃないか。すずたん、良い響きじゃないか」
鷲尾はしっかり吉田の自分の呼び名を拒否しながらそう続ける。……ちなみに、鷲尾はさっきの俺と同じように伊藤の顔を見ず下を向いている。手で自分の顔を隠すように眼鏡のフレームを抑えていてほとんど見えないけれど、隙間から見える顔が赤くなっている。
やっぱり伊藤のことをああ呼ぶのは普通恥ずかしく思うのだ、そう分かって安堵する。
決して吉田のネーミングセンスに文句を言うわけではないが『すずたん』という響きのせいなのか、恥ずかしくなるのだ。
2人ともおれのつけたニックネームを気に入ってくれた!と喜んでいる吉田には申し訳ないのだが……。鷲尾は伊藤のほうをチラッと見た。俺も伊藤のほうを見る。うっかり呼んでしまった俺とそれを庇ってくれたのだろう鷲尾のなにかを訴えるかのような視線に伊藤は戸惑ったようにたじろいで『なにを言ってほしい』のか察してくれたようだ。
「……あ”ー!すずたんって言う呼び方は辞めろ!いくら透が気に入っても無理だ!呼ばれるこっちの身になってくれ!」
これでいいか!と言わんばかりにこちらを睨む伊藤に俺は頷いた。俺の蒔いた種を結局伊藤によって回収してくれた、あとで伊藤に謝るとして今は感謝する。もちろん俺を庇って伊藤に突っ込みやすくさせる空気を作ってくれた鷲尾にも感謝しないといけない。
「ええーおれのことヨシヨシでもヨシリンでもさっちんでもなんでも呼んでもいいからさぁ~!すずたんで呼ばせてよ~!」
「断る!つかてめえがそう呼ばれてえだけだろっ」
「ばれちった~」
伊藤に拒否されてもなお食い下がろうとする吉田に、そして別に怒っているわけではないが凄みのある伊藤に特に恐れるでもなく自分のペースを崩さない吉田に畏怖を覚えたのであった。
「……鷲尾、ありがとう。助かった」
「あのままだとこっちも面倒だったから構わん」
2人から目を離さずに鷲尾に感謝を述べれば素っ気ない返事が来た。鷲尾のほうを横目でみる。……その表情はまた手で覆い隠されていて眼鏡ぐらいしか見えなかったが耳が赤くなっていた。嬉しくなったがあまり突くと鷲尾はきっと照れてしまうから、見られていると感づかれる前に自分の視線を伊藤たちのほうへと戻した。
ーーーー
あのあと見回りのついでに様子を見に来たのか図書室に不釣り合いな賑やかな声に不審に思ったのか、岬先生が様子を見に来るまで伊藤と吉田の言い合いは続いた。両者譲らず。でも、岬先生の「えっと盛り上がっているところごめんね。そろそろ下校の時間なんだ」と気まずそうにそう言われて冷静になったのか「……すんません」と低い声と「ごめんなさーい!」と明るく高い声が同時に響いたのであった。
「結局すずたんってよぶのはだめ……。かっちゃんもだめってふたりともほんっとケチんぼ~!」
図書室を出て靴を履き替えていると吉田が少し落ち込んだ顔をしてそう伊藤と鷲尾を見て言う。伊藤と鷲尾は冷たい目で一瞥するだけで何も言わない。2人は吉田への扱いをそうすることを決めたようだ。良いのだろうか、と一瞬思うが吉田は特に気にしていない様子で傷ついてはいないし良いんだろうな。一人で勝手に納得する。
別に傷もなにもついていないどころか気にしているそぶりもないが、ただ構われてないことへの不満があるが「はくじょうものっ」と2人へ不満を零してぐるんと俺の方を向いて少し驚く。
俺と目が合ってさっきまでの不満そうな顔から蔓延の笑みへと変わる。俺よりも身長が低いので自然と吉田が上目遣いとなる。少し釣り気味だけど大きなこげ茶色の目がランランと輝いている。そのせいか自分と同い年と言うのを忘れてなんだか年下の男の子を相手している気持ちになる。
「イッチはイッチでいいよねっ!?」
「……いいよ」
「やった~!イッチはやさしい!」
突然の問いかけに驚きながらも断る理由はないので何のことなく頷く。俺が頷くと喜びを隠すことなく全面に出す。そんなに嬉しいことなのだろうか?
「すずたんもかっちゃんもみならいたまえよ~!」
俺の右腕を抱き、すごく得意気に二人に言う吉田がなんだかこう……可愛らしいな。男に対してこう言うのは違うかもしれないが。くるくる変わる表情のせいなのかその雰囲気のせいだからなのか判断はつかなかった。
少しやんちゃな男子高生よりももっと明るいオレンジの髪色をしていてパッと見たときはとても派手な奴と思った。
どうも素直に俺の教えに従って頑張っていたのを見ていたからか、同い年の吉田には少し申し訳ないことかもしれないが……良い奴なんだが、なんだか年下を相手しているような気持ちになる。決して下に見ているとかではないけれど、なんだろうか。庇護欲と言うのだろうか。
何も考えず身長差で俺より下にある少し跳ねている目立つ色の頭をつい撫でてしまった。
「うひひ、なーに?イッチ?」
「あ……すまない、つい。嫌だったか?」
「ううーん!イッチの撫で方はきもちいいのでとくべつです!もっと撫でてもいいのですよ~!」
パッと手を引っ込めようとしたがその手を追いかけるように吉田の頭がぐいぐいと自分の手に押し付けられてしまった。……ほんっとうに吉田に申し訳ないが、次は犬猫を連想させられた。
いいのですよ、と言いながら気持ちよさそうに笑う吉田が猫だったらきっとゴロゴロと喉を鳴らしていただろうし、犬だったらしっぽを振っていただろう。
この間伊藤と帰っていたときには機嫌が良いらしい猫がこちらに寄ってきたので撫でてみると喉を鳴らされて、また違う日にスーパーで一人買い物をして帰る際に入り口前にリードを繋がれていた柴犬っぽいのが俺をじーっと見てしっぽを振っていたから近寄ってみるとさらにしっぽを振られたのを思い出す。
どちらも可愛いと思っていたが、もしかしたら俺は結構動物が好きなのかもしれない。失礼を承知の上で吉田を見ながらそう思った。
「一ノ瀬、いつまで吉田を撫でているんだ」
「……ん、ああ。すまない」
無心で撫でていたらしい。いつまでも吉田を撫でている俺に痺れを切らした鷲尾が呆れたようにそう言われてようやく帰ろうとしていた今に気が付く。
撫でるのを辞めると同時に吉田が「さっかえろー!」と俺の手がからするりと抜けて昇降口のほうへ進んでいった。犬……いや、吉田は猫っぽいな。気紛れなところとか今みたいに撫でられたら満足する猫のような感じが。
呆れたように溜息を吐いて鷲尾も昇降口へ進んだので俺もそっちへ行こうとする。が、足が進まない、というより止まることしかできない。
「……伊藤?」
「……」
進もうとして一歩踏み出したと同時に吉田に抱かれていた方の右腕を柔く今まで無言だった伊藤に捕まれてしまった。
振りほどこうと思えばすぐにでもふりほどけるほどの柔く掴まれているだけだが、無理に解くつもり気もなく伊藤を見つめる。じっと伊藤のほうを見つめる。俺の方をチラッと見るけれどすぐに逸らされてしまう。
その表情は……何とも形容しがたい。悲しんでいるようにもとれるし怒っているようにもとれるように眉間に皺を寄せているけれど、傷ついたとかではなさそうなので少し安心する。
それならどうしたのだろうか?首を傾げる。不思議そうに伊藤を見つめる俺に居心地が悪くなったのかそれとも普通に言う気になったのか口を開いた。
「……撫でるなら」
「うん」
漸く話し出した伊藤に頷きながら撫でる?と疑問になってすぐにさっき俺が吉田を撫でたことを指しているのかと自分で答えを出した。同い年の吉田を子どもや犬猫扱いするなと言われるだろうか、そう思っていると。
「俺で、いいだろ」
「……うん?」
どういうことだ?言い辛そうにしていてやっと言葉に出せた伊藤に変な返しをしてしまった。俺が悪いのだろうか。いや、でも俺も驚いてしまったし自分の耳を疑った。
言いたいことを合わせると『撫でるなら俺でいいだろ』……と言ったのか。え、どういうことなんだ?戸惑いを隠せずにいると伊藤は吹っ切れたのか俺の肩を掴まれた。
「俺の方が透のそばにいる。家にいる頻度だって高い。俺の方が先に透に勉強を教えてもらったし。今日だってがんばった。透の見てないところだけどな。でもがんばった。透も鷲尾とだけかと思ったら何故か吉田いるし、しかもあだ名までつけられてそれを受け入れているし。いきなりすずたんって呼ぶし。本当ビビった」
「いや、それはすまない。本当に」
よく分からないままに伊藤の話を聞いていたが『すずたん』て呼んでしまったのは正直失態であり申し訳ないと思っている。反射的に謝罪してしまったが、伊藤の言いたいことが具体的によくわからない。力説されるがよくわからない。
伊藤の言っていることは『確かに』と思う。だが、どうつながって最初の『撫でるなら俺にしろ』に繋がるのか分からない。
「……俺んときは。テストの結果が出たときしか撫でなかっただろ。俺に打ち解けたのももっとさきだったのに、なんで吉田はすぐ受け入れてるんだよ……。俺より近くねえか。さっき無自覚だっただろうけど吉田に笑いかけてたぞ、お前」
伊藤は不服そうに言っていたが徐々に俯いていく。俺の肩は掴んだままに。俺と伊藤の顔の距離はかなり間近なためにその顔が真っ赤になっているのが良く見える。それって……、まるであれだ。
「……やきもち、か?」
「あーそうだよっ」
そう聞けば、俺の顔を見て大きな声で肯定した。驚いてしまう。いや、大声を出されたことではなく。やきもちを妬いていることに。そしてそれを肯定した伊藤に芽生えた感情にも。
「悪いかっ」
「……いや、うれしい、かも、しれない」
じわじわ自分の頬が熱くなっていくのが分かる。さっきの羞恥とはまた違う感じがする。目が泣きたいわけではないが潤んでくる。
さっきのように心臓が早く動くのではなくて大きく聞こえる、トクントクン、と自分の耳からそう聞こえる。肩から伊藤の手のひらに伝わっていないのか心配になる。伊藤の手のひらの温度がじわじわと布越しに俺に移っていくのが、きもちいい。
心配になるのに、口元が緩んでしまうのを手の甲をかるく唇を当てて隠しながら恥ずかしいけれど気になって伊藤と目を合わす。
なんで嬉しいんだ、とか聞かれたら困ってしまう、そう思ったが伊藤は目を見開いたままに「そう、か」とだけ呆然と呟いて肩から手を放される。
「あ、」
放されて、夏なのだからいくら伊藤と言えど触れられれば熱くて放れられたら解放されたとホッとするのに、何故か残念そうな響きになった無意味な一文字が思わず自分の口から出る。恥ずかしくていよいよ目を合わせられなくて目を逸らす。
「とおる、」
そんな俺をどう思ったんだろうか。伊藤が俺の名前を呼んだ。低い声につられて伊藤を見てしまう。熱に浮かされたような赤い頬と潤んだ目に、真剣だけどどこかぎらついた黒目と目が合う。
それを見て金縛りにあったように固まって動けなくなった。怖い訳ではない。むしろ、……触れて、ほしい。
俺の方へ伸びてくる伊藤の手をただ俺は見ていた。実際はどうなのか分からないけれど、妙にゆっくり感じた。ゆるりと裸の手首をなぞられて身体が震える。くすぐったいような、ぞわぞわするような、変な気持ちになる。
変な声が出そうになるのをそっとかみ殺した。恥ずかしい。もっと触れられたらどうなるのだろうか。ちょっとだけ怖くなりながらも、期待した。
徐々に伊藤の手のひらが二の腕の方へと移行しようと上へ上へと昇ってくる。自身に他人から触れられるのは目の前の伊藤ぐらいなもので手は何度か握ってる、でもその上のほうには医者以外誰にも触れられていない。
触れられるのに慣れていないところだから、こんな過剰に反応してしまうのだろうか。呼吸が乱れる。目の前の伊藤も、荒く呼吸している。顔が近いからその呼吸も口元を隠す手に当たるしその、興奮したような顔もよくみえる。
口内がさらに熱くなって唾液が分泌される。背中に汗が伝う、じわりと熱くなる。
「はっ、いと……」
きっと、俺も伊藤と同じように興奮した顔をしているのを自覚しながら伊藤を呼ぶ。目の前の伊藤がゴクリと唾液を飲み込む音が酷く大きく聞こえる。
袖の隙間から伊藤の指が入ろうとした、はやく入ってほしいけど入ってほしくないと葛藤してしまう。どうしよう、拒否するかそのまま受け入れるか迷う。答えなんてないようなものだけれど悩んだ。自分の身体は石になったかのように動かなくてただ伊藤が触れてくるのをただ見ていた。
「うおーい!すずたんイッチ~なにしてるのーおそいよ~!はやくおいで~!かえろ~!」
「っ!」
「!?」
ひょいっと奥から俺らをのぞき込む邪気のない吉田と目が合ってハッとなる。それは伊藤も同じだった。そこでやっと自分の身体がちゃんと動かせるようになる。
「悪い、今から、行く」
「すずたんって、呼ぶなっ」
「待ってるよ~かっちゃんはもうふたりを待ちきれなくて帰っちゃった~」
「……それは……悪いこと、したな」
ぎこちない俺らの空気感に気が付いていない様子に安堵しながらなんとか返事をする。伊藤は「すずたんはやめろって……」と覇気のない声でそう言う。今、吉田に声を掛けられなかったらなにをしていたんだろう、なにをされていたのだろうか。
自分の袖のなかへと侵入されて、そのあとどこを触られていたんだろう。想像して……身体がぐうっと熱くなる。きっとどこを触れられても俺は抵抗も制止の声も上げないんだろうと気が付いてしまった。恥ずかしい。これは親友だから、だろうか。
吉田に腕を組まれたときには不快ではなかったが、さっきの伊藤の触れ方みたいなのような、撫でつけるような触れ方ではなかったから分からないけれどたぶんそう触れられるのは拒否していた。
伊藤に対する気持ちは他のひとへと向けるものとは違うのは知っていた、それは親友だからと思っている。……どうなんだろうか。分からない。でも、不快じゃないからいいか。なんとか自分を力ずくで納得させる。
そんな荒業は伊藤とまた目が合ってしまってすぐに吹っ飛んで、逃げるように吉田のもとへ向かった。互いに顔を見れないまま昇降口へ早歩きで向かう。
ーーーー
慌てて昇降口へ向かえば吉田が言った通り鷲尾の姿はすでになく申し訳ない気持ちになる。後でメールを送っておこう。
「やーっと来た!」
「……すまない」
「ま、いいけどねっ」
さあさあ行きましょ~と緩く告げて先頭を歩く吉田。心の広いやつでよかった。安堵した。伊藤とは目を合わせられないけれど。
夕日が眩しいな、と少し現実逃避混じりにそう思った。
「あっそう言えばすずたんってのぞみーるたちと勉強会してたんだっけ?」
しばらく歩きながら雑談をしていると、ふと思い出したように吉田が伊藤に話しかける。伊藤は最早そのニックネームで吉田を諦めたのか『のぞみーる』というのが誰のことなのか考えることに気を取られたのか、自分の呼ばれた方になにも言わず考える素振りを見せる。
「叶野のこと」
「あ?……あーそう言うことか。よくまあ……そんな呼び方思いつくな、お前」
「わーいほめられた~!」
「褒めてねえよ……」
教えるとしっくりこなかったように聞き返されたが、すぐ納得したようだった。叶野を俺らは名前で呼ばないが湖越は『希望』と呼んでいるのを思い出したようだ。
「英語教えてもらってたな。それがどうかしたか?」
「ん~のぞみーるげんきかなー?っておもいまして~」
最近あまりげんきそうには見えないからさ~、あとかっちゃんもちょうし悪そうだよね~。と続けた。変わらない口調でそう言うものだから不意を突かれた気持ちになる。何と言うか……よく見ているな、と思う。
叶野だけじゃなく鷲尾のことも言うものだから、もしかしたらあの鷲尾の起こしたことは誰かから聞いているのかもしれない。吉田の言う最近がどの期間を指しているかはわからない。
吉田がどれほど知っているかわからない、下手なことを言うわけにはいかない。俺は吉田のことをそこまで知らない、どれぐらいのことを告げてもいいのかわからない俺からは何も言えない。
聞かれた伊藤の様子を窺う。伊藤が俺と同じように悩んでいる様子だったらどうしようと思ったからだ。だが俺の予想に反して伊藤は答えた。
「今は元気じゃねえかもだけどそのうちたぶん元気になるだろ、二人ともな」
特に悩んだ様子もなく、かと言って吉田をなだめるようなものでもなく、普通に聞いた吉田に同じように普通に返した。具体的なことは何一つ言っていない『たぶん』が付くような不確定なものだった。
何の表情も変わらず結構雑な対応に見える。が、吉田はそれに対して笑った。
「そっかー」
そしてそれだけの相槌を打ってそのままこの会話が終わってすぐに吉田は俺に「さてさてイッチ今回のテストのご自信はいかかでございますでしょうかー!」と拳を作った手を縦にしてマイクに見立てて聞いてくるものだから多少混乱する。
唐突のインタビューに「……いつもと同じ」と返す。
「なんか強者って感じがする~」と無邪気な笑みの吉田に対して、チリチリ、胸の奥のほうが焦げていく感じがしてそんな自分に首を傾げた。
なんで、吉田が納得したのか伊藤は吉田の質問に考えこむ様子もなくすらすらと答えられたのか。俺にはなにも分からない。分からない、そう思うとまたあのじわじわと焦がされていくような気持ちになる。伊藤と吉田が話しているのを見ると変なのが止まらない。
「どうした?透」
不可思議な現象が治まることがないのが不快になってくるのを顔に出ていたのか違和感があったのか俺にそう聞いてくる伊藤と目が合うと、胸が焦がされていきそうなあの変な不快感が消えてなくなる。
「……いや、なんでもない」
「そうか?なんか不快感を覚えているような顔してたけど」
「今は平気」
納得していないであろう伊藤にそう言う。俺にだってよく分からない。
よく分からないことを説明は出来ない。とりあえずどういうことか今は平気。それだけ伝える。
「……んあ~……そう言う感じなのねぇおれ、もしかしなくてもおじゃまむし~……だよね~……もうしわけ~……」
「?なにか、言ったか?」
「んーん!」
吉田が小声でなにか呟いたような気がして問うけれど、一瞬ハッとした顔されたあとすぐ朗らかに笑いながら首を振られる。
「おれはさきいきますっ!『ドキッ☆運命の相手はとなりの席の王子様っ!?~血塗られた記憶編~』のドラマの再放送がもうすぐはじまっちゃーう!」
「お、おう」
「ので!これにてドロンさせていただく!じゃあね~」
「……テスト、がんばれ」
「ありがとう~ん!イッチのやさしさに触れられておれ最高にうれしい!こんどあそんでね~」
ばいばーい!勢いよくやってきたのと同じように勢いよく手を振って去って行く吉田の背中を見送って。
「……どんなドラマなんだろうな」
「……なんかよくわかんねえけど、人気らしい」
吉田の挙動が少しおかしかったが、不穏すぎるサブタイトルのドラマがどんなものなのか気になりすぎた。人気、なのか。あとで調べてみようか……。
吉田、賑やかな人だった。叶野も賑やかだけどまたちょっと違うにぎやかさだ、テンションが高い。でも素直で良い奴っぽかった。また話せたらいいなと思えるほどに。
それにしても…さっきのはなんだったんだろうか?ただ伊藤と吉田が話して、俺がきちんと理解出来なかっただけなのに。…それを思い出してまた胸が火で焙られている気持ちになる。ほんとう、これなんだろう。分からない。
「体調悪いのか?」
いつまでも考えこんでいる俺を心配した伊藤の手のひらが顔面に近付いてくる。冷静に考えれば熱があるのかどうか確認しようとしたんだろうが、
「……っ!」
伊藤の手が目の前にある、そう認識したと同時に俺の身体がビクッと震えた後固まる。思い出してしまった。下駄箱でのやり取りを。その手が俺の腕を這って変な気持ちになって変な声を出してしまいそうになったのを我慢していたのを。そしてそれが恥ずかしくて仕方がないのに、抵抗をしようとしなかった。
嫌ではない。嫌ではないのだが、やっと平静を取り戻せたのにまた触れられたら自分はまたどうなってしまうのか分からなくて、伊藤の手から逃れるように反射的に一歩、後ずさりする。
「?とお…………っあ”、あ”ー」
自分の手が俺に触れることなく宙を空ぶって、きょとりとした顔で首を傾げるがすぐにどうして俺が伊藤の手を避けたのか察したようで目を逸らす。
さっきのことを思い出したように自分の髪をぐしゃぐしゃと掻きまわしている、顔が真っ赤になっているのが分かる。
俺も伊藤と同じぐらい赤い顔しているんだろう。ドッドッ、心臓が早く動いているのが分かる。触れられていないけれど、前にいる伊藤に聞こえそうな気がした。
せっかくいつも通りになってきたのに俺のせいでまた変な感じになってしまった。落ち着こうと一呼吸。
「……かっ……えろうか」
いつも通りを意識して声をかけたけれど、息が詰まって変に上ずってしまった。声の出し方さえもうまくいかないことに内心そこの電柱に頭を打ち付けたい気持ちになった。変な間が出来たけれどそのまま思っていた言葉を出すことにした。
「お”…………。んん”っ……おう」
変な声になってしまって咳払いで立て直してあたらめて同意する言葉を出した。伊藤も俺と同じように焦っている。そう思うと少し安心した。でも何となく話しにくくて駅まで歩いていくのはほとんど無言になってしまった。
『今日は気まずいからここらでバイバイしよう』
なんて。俺もたぶん伊藤も思いもしなかった。
ーーーー
「……英語、大丈夫そうか?」
「あー……どうだろうなぁ」
今しても違和感のない会話、そうずっと考えてやっと出てきたのはそんな質問だった。ずっとこのまま無言なのはちょっと嫌だな、と思ってのことだった。かと言ってさっきのことを引っ張り出してしまうとまた変な空気になってしまうということを理解したのでなにを話すべきかとずっと考えていた。
そうだ、伊藤は英語を叶野に教えてもらっていた。思い出した。さっきのやり取りからほとんど無言で改札口をくぐって電車を待っているときそう聞いた。突然の俺の質問に動じることはなかったが少し不安そうだ。
「叶野の教え方は分かりやすかったんだけどな。そうじゃなくて俺がちゃんと身についているかどうかがわかんねえからなぁ……。範囲も今回広いし、あとで復習しねえと。その場限りじゃ意味なくなるしな……」
「ちゃんと学ぼうとして努力してるから、きっと伊藤なら大丈夫」
ちゃんと学びたい、何とかしたい。そう思えるのならきっと大丈夫だろう。努力して向き合えるのなら、悪いようにはきっと行かない。悪いように行ったとしたらそのとき考えればいい。そこまでは伊藤には言わなかったが。
「そうか。透がそう言ってくれると本当に大丈夫ような気がする」
「……褒められてるのか?」
「褒めてる褒めてる」
ニッと笑う伊藤を見ていると気が抜ける。何と言うのだろうか、伊藤の前ならなにも気にすることが無い気持ちになるんだ。
これが気を遣わない親友なんだろうか。……さっきみたいなのは、ちょっと特殊なんだろう。そう片づける。あと何分で来るだろう、そう思って時計を見る。
「鷲尾は随分吹っ切れた感じだったよな。あいつはもう大丈夫っぽそうだな。透なんか話したのか?」
「……そうだな。俺は別に、思ったことを言っただけだ……叶野はどうだったんだ?」
あと5分ぐらいか。そう頭の中で呟きながら伊藤に叶野の様子を聞いた。
俺はあれから叶野とほとんど話していない、伊藤も今日まであまり話していなかったが今日勉強会したから少し話せたのだろうか。吉田には通じたあの答えは俺にはよくわからなかった。話の流れとしても俺が叶野のことを聞いてもおかしくないだろう、そう思って聞いた。
「色々聞かれたんだけどよ、特になんも考えず思った通りを答えたら何か勝手にすっきりした顔してたぞ。よくわかんねえけど、多分大丈夫なんじゃないか?やっぱ頭良い奴って色々考えこむんだなーて逆に感心したわ」
「……へぇ」
俺がこうして叶野たちを友だちと呼べるのは俺に『考えすぎないで簡単でいいんだよ』と前にメールで言ってくれたおかげだ。
なんだかおかしかった。そう言っていた叶野の方が考えすぎているのが、矛盾している。自覚があるのかないのかはわからないけれど。でも、伊藤と話すとすっきりするのはわかる。だって伊藤の言葉に裏も嘘もなくてなにも隠すつもりがないから信頼できるから。だから、俺は今ここにいられる。
「つか鷲尾も俺のこと馬鹿にしやがるけど、あいつ鈍感っつうか頭硬すぎて周り見えてねえよなぁ」
「……叶野は周りを見すぎるから、意外と良いコンビになるかも」
「あーあれか。足して割るとちょうどいいってやつか」
「そうだな」
自分のことばかりで周りを見れなかった鷲尾と、周りを見すぎて自分を疎かにしてしまう叶野。どちらも良いところがあって悪いところもある。相性として悪くないかもしれない。……内心、互いのことを何も気遣うことなく言い合える伊藤と鷲尾は仲良くなれるしとても良いコンビだと思う。それは心のなかに閉まって言わないことにした。
伊藤が不機嫌になるだろうから、というのもあるけれど。さっき吉田に感じたときと同じようにモヤモヤするからである。この現象はなんなのだろうか…。日常生活で頻繁に起こるのであれば気が進まないが病院に行くべきか。
いや、それより先に九十九さんに相談するべきか。そう言えばこっちに俺が越してから……いや、具体的に言えば引っ越す2ヶ月前から連絡がないし姿も見ていない。
忙しい……んだろうな、祖父はかなりの資産家だったと思われるから、色々あるのだろう。特に九十九さんは祖父の秘書だったから大変だろう。
大変であるときに俺は何もできないからこのまま九十九さんからのリアクションを待つべきだろう。
話は流れて今日はなにを食べるかの話になった。何にもしても当人たちの問題でやっぱり俺から口を挟めるものではない。でも、叶野は俺は見れていないから分からないが、伊藤の口ぶりからするときっと大丈夫だろう。そう思った。
けれど、俺は知らなかったんだ。
「は、ははは……まじかよ」
「おおまじよん~」
悪意を以って誰かに傷つけられたこともある。でも、それは真実がどうあれ俺が起因するものだった。
「周りに囲まれて幸せそうに笑っているくせしてそんなヤツなのかよ、あいつ!」
「人間不信な人気者なのですよ、彼はね~」
「ははははは!まじ矛盾してるっ!うけるな!」
叶野が何をしたわけでもない。特に恨みも何もない。ただ『自分』のためだけに自分がほとんど接したことのない人間を傷つけることを容易に行える人間のことを。
「テストが始まる前日がさいこうのタイミングよん~。じゃ、よろしくねぇこむろくん」
「おうよ、あの調子乗ってる叶野をおろせるとか、まじたのしみだわ」
「たのしんでいただけてなにより~じゃあねぇ~」
知らなかったんだ。
「……最低な人間だ。あれと僕は同じ。僕と同じ最低な人間をどう使おうと利用したって構わないよね。だって、おんなじクズだもん」
誰かを傷つけて、自分すらも傷つけないと存在証明を確認する術を知らない、哀しい人間のことを。俺は、まだ会ってすらいなかった。