2.人間として。
次の日岬先生に、酷く悲しそうに自分に憤りを隠せない顔で頭を下げて謝られた。生徒の前であんな乱暴になってしまったこととか怖がらせてしまったこととか色々言っていたけれどもうそれも気にしていないから平気、そう答えた。
むしろ……俺のために怒ってくれたこと自体は嬉しいことだった。
(さすがに自分はそんな人間だったのかそう疑問に感じていたことは伝えられなかった)
「一ノ瀬くんのまえであんな格好悪い姿見られたのは恥ずかしいんだよね……」
「岬先生は、格好いい大人ですよ」
どうしてか凹んでいる岬先生にそう伝える。こんなに生徒である俺のことで自分の年齢としても教員としても上司である桐渓さんに一直線に怒れるのだろう。きっとそれは岬先生がとても真っ直ぐだから。
生徒を守るためなら、嘘偽りなく本当の意味で誰にもでも怒れる人なんだ。そう思える。そんな人は今まで俺は見たことなかった。淡々としている大人や冷たく罵り詰る大人や、何を考えているのか分からない大人、変な笑顔で俺を見てくる人は今まで見てきたけれど。
こんなに目が輝いている大人は見たことが無かった。真っ直ぐ俺を見つめる伊藤と同じようでいて、岬先生はそれよりもっと穏やかな感じ……うまく言えないけど……。
俺はそんな伊藤を格好いいと思っている。そして、生徒のことを大事に想っていてそのためならなんだって出来てしまいそうな岬先生を『格好いい大人』だと、そう思える初めての大人だった。
本当に思っていたことだったが、岬先生は「一ノ瀬くんは優しいからなぁ」と照れたように頬を掻きながらもそんなことを言われてしまった。本当のことなんだけどな……。
とにかく俺が本当に昨日のことを気にしていないと言う意志は伝わったようでそれ以上昨日のことを掘り返すのは止めてくれた。
「一ノ瀬くんこれ……桐渓さんに何かされたら連絡してほしいな、あっもちろん他に悩みがあるのならいつでも聞くからねっ」
それでも俺のことを心配してくれて、そんな言葉とともに岬先生の連絡先の書かれた紙を手渡される。
「……あり、がとうございます」
変な沈黙の後またしても変なところで詰まりながらも岬先生の純粋な好意が嬉しくて、でも恥ずかしくなって目を合わせず礼を言った。
「どういたしまして」
少しおかしそうに笑いながら岬先生はそう返した。しばらく岬先生の携帯番号とアドレスの書かれた紙をまじまじと見てしまった。
岬先生から手渡された紙をポッケにしまい込んで教室に戻ると『すぐ戻る』と言う俺の言葉を信じてくれた伊藤と鷲尾が昼飯を食べずに待ってくれていたようで伊藤は自分の机、鷲尾は俺の机にそれぞれ弁当を置いている。
「ほんっとお前頭かてえなぁ……」
「貴様がボーっと生きているだけだろう」
……うん。周りはどこか2人の会話にハラハラしている様子が見て取れるが、別に何のことはない。ただのコミュニケーションだ。2人なりの。たぶん。
「……待たせた」
「おーおかえり」
「戻ったか」
2人に声をかければ俺の方に顔を向ける。視線を感じながらも席に着いてコンビニで買ったパンとおにぎりを取り出した。
「いつでも俺が作ってやるのによ」
「そうはいかない」
よく俺に昨日の夜の残り物を詰め合わせた弁当をくれるけれど、それが毎日となるとさすがに申し訳ない。伊藤からすると特に造作のないことなのかもしれないが、ただでさえよく晩御飯を作ってくれたり俺の1人暮らしを手伝ってくれたりしてもらっているのだ。材料代はほとんどこっちが払っているとは言え伊藤がなかなか払わせてくれないからたまに伊藤に払ってもらっているときもある。
たぶん伊藤からすると何のことも思っていないのだろうが……親友とは言え『親しき中にも礼儀あり』である。
1人で出来ることはしないと。……となると、祖父の遺産を使ってばかりではなく俺自身も働くべきか……。
「アルバイト、か……」
「アルバイト……?」
「……したほうがいいんだろうな……」
「透がバイトか。なにしたいんだ?」
「…………なにができるんだろ……」
小声のはずなのに鷲尾が聞き返してきたので、特に何も考えず発言していたのでふわふわとほとんどオウム返しに近い反応をしてしまう。なにがしたいか……と言うより、俺にはなにができるのだろうか。つい考えこんでしまう。
「学生なのだから、別にアルバイトとかしなくてもいいんじゃないか?」
――俺の事情を知らない鷲尾が首を傾げて聞いてくるのをみてなんとなく苦い気持ちになる。少しも鷲尾は悪くない。わかってはいるが、どこか解せない気持ちになる。
「あ?てめえ俺の前でよく言えるな」
「別に絶対に必要な訳でもないだろう?」
「俺にもいろいろ事情があるんだよ。このガンテツ」
「どういう意味なんだ、それ?」
いつもならここらへんで叶野が鷲尾に突っ込んでそれにつっかかって、湖越が冷静にそれを突っ込んでいるところなのだろうが……それは今はない。
何故なら、今叶野たちはどっかに行っている。たぶん他のクラスで昼めしを食べているのだろうと予想する。2人とも今この教室にすらいない。
あの日から、叶野たちと随分距離が出来てしまった。
進んで叶野たちは俺や伊藤の方にも行こうとしなくなった。そして、鷲尾にも。挨拶はするし普通に話しかければ返っては来る。けれどあの薄く壁の張った笑顔のままで。距離を取られているのが分かってしまうほどの薄くて透けているけれど強固な壁だった。
そんな常に緊張した状態でいさせるのは疲れてしまうだろうから、俺からも積極的に話しかけるのはやめた。
正直あの日の叶野の取り乱し様は見ていて苦しくなるもので何か重いものを抱えているのではないかとそんな心配もあったが、俺が突っ込んでいってさらに傷つけてしまわないかの心配もあって。
叶野には湖越と言う頼れる親友もいるようだから少しだけ安心している。小室もどこか不服そうにしているけれど何も言わないことに安堵する。表面上は平和だ。何事もなかったかのように。
クラスメイトもなにも言わずに深く鷲尾と叶野に突っ込むことなく各々過ごしている。時折鷲尾が叶野に対して視線を向けていて、叶野は鷲尾のことを見もせずにいることに気が付かないふりをした。
……なんだかさみしい、な。
前の学園のときより遥かに今が楽しいと思うのに。前まで叶野と湖越とがいたときのに、今はいないのが……寂しい。前まではここで賑やかに過ごしていたのに、な。前と違うことがひどく寂しくて、少し虚しい。
「勉強だけしていても分かんねえことあるだろ?」
「貴様は勉強しなさすぎだとおもうが?」
「……仲良いな」
虚しい気持ちを2人に見せないように、案外互いのことを見ている伊藤と鷲尾にそう言うと「仲良くない!」と仲良くハモって返ってきたからつい笑ってしまう。
もうじき6月が終わる、そして7月がやってくる。色んな思惑とともに……残酷に平等にそして優しく時間は流れていく。
――――
そのまま6月が終わった。日々を受け流して悠々と時間はそのまま過ぎ去って……期末テスト週間が始まった。
「さぁそれではー!おべんきょうかいをはじめましょー!」
目の前に明るい髪色を1つに結わえた少年が突然訪れたかと思えば空いていた席をずるずると引きずり向かい合って座っていた鷲尾と俺に近寄り、ぴったりくっつけて満足気にふふんと笑ったあと両手を挙げてそんなことを元気よく声をあげた。
「……うん」
「いや待て待て!誰だ、貴様っ!一ノ瀬も流して普通に始めようとするな!」
「つい……」
あ、良かった。鷲尾が突っ込んでくれた。いや、つい流してそのまま勉強会してしまおうとした俺だが、俺もどうしていいのか分からなかったんだ。現在放課後。場所は図書室。
名前も知らない少年の言った通り勉強会をするところだった。本来ならば鷲尾と2人で、だが。誰なのか知らないオレンジ色の髪をしたひと(たぶん同い年だとは思うのだが)が普通に俺らの方に来て俺のとなりに座って人懐っこい笑顔で冒頭のセリフを言ったものだから俺はこいつと知り合いだっただろうか、また忘れてしまったのだろうかと怯えて何も言えなくなってしまった。
自分の記憶に自信がなかったが、鷲尾の反応を見る限り俺の記憶は正しいものであったと証明できる、安心した。
「えっおれ名前言ってなかった!?」
「……知らないな」
「顔は知ってるが名前は知らん」
「あっちゃー脳内だけでじこしょうかいしてたー!もうともだちのつもりだったのよー!というか!かっちゃんおれの名前知らないなんてひどーい!」
「かっちゃん……?」
ガーンっとこの間伊藤に勧められた漫画の主人公みたいに驚いた顔をしたあとすぐに「じゃあじこしょうかいしまーす!」とニコニコしながら手をあげた。
表情がコロコロ変わりゆくのにこちらのほうが置いてけぼりにされている気がする。こちらのリアクションを待っているのかじーっと俺の方を見るので、とりあえず頷いた。
「おれ!となりのクラスの吉田 悟(よしだ さとる)!たつみせんせーのクラスだよー!好きなものはおせんべいとりなちゃんとおしばいです!よろぴくね~」
「……吉田、ていうんだな。初めまして、よろしく」
「うわーいイッチによろしくされた~!はじめまして〜あくしゅあくしゅ~」
少しの邪気も感じさせないどこまでも純粋で子どもみたいな笑顔で手を普通に握られてそのままぐるぐる回される。じっとそのされるがままに回されている繋がれている吉田と自分の手を見てみる。
幼い雰囲気と同じようにその重ねられている手も俺のよりも小さく感じた。伊藤に握られているよりも小さくて伊藤のより暖かく感じて伊藤よりも弱い力だ。
伊藤の方がゴツゴツしているようにも感じる。決して吉田に手を握られて嫌なわけではない。特に不快感もない。触れられていることに、特に何の感想はない。
けれど、伊藤に感じるものと違う気がする。なにが違うんだろう。内心首を傾げる。
「言いたいことはそれなりにあるが、貴様も勉強したいのか?」
「そうなのですよ!していい!?さしつかえなければイッチとかっちゃんに教えをこいたいところなのですがっ!」
「……いいよ」
「ハァ……一ノ瀬がいいなら構わないがな……。でも教えてもらうなら僕ではなく一ノ瀬の方がいい。僕も一ノ瀬に教えてもらうために呼んだしな」
「ほんと!?ありがとう、イッチ!かっちゃんっ!本日はイッチはおれとかっちゃんのせんせいだねっ」
「……その『イッチ』て」
「うんっ『イッチ』はきみのこと!一ノ瀬だからね~。で、『かっちゃん』は鷲尾のことねっ!ずーっと心のなかで呼んでたけどきょう初めて言葉に出した~!」
「なんだその呼び方。辞めろ」
「だがーことわーる!!」
バッテンマークまで指で作ってまで拒否する吉田に苛立ったように舌打ちする鷲尾。『わっしー』と『かっちゃん』どっちのほうが鷲尾のニックネームにいいのだろうか、そんなことを一瞬考えてしまう。
今この場にいない、今この場で叶野の名前を出したり関連することを口に出すのは何となく憚れた。
「吉田」
「はいっ」
「……どの科目を聞きたいんだ?」
予想以上の活きが良い声に少し驚いてしまいながらも聞きたいこと聞く。文系なら俺や鷲尾より叶野の方が良いと思う。俺らのクラスで叶野に伊藤と湖越が英語を教えてもらっているからそっちのほうがいい。そう思って聞いてみた。
「数学です!この間のテストでついに一桁になってしまったのに危機を覚えたところです!」
「……そうか」
これまた元気よく答える吉田に頷いて返した。
数学なら答えが一つしかないので対応しやすいことに安心する。
「……なにをどうすれば、一桁になるんだ……?」
「チッチッチッ……人には苦手なものと得意なものがあるのだよっかっちゃん!」
「何故そんな胸を張っていられるんだ、貴様……」
僕がそんな点数とったら……と自分が一桁台をとってしまったことを考えて鷲尾が青ざめて黙り込んでしまう。
もう自分のニックネームに突っ込む気力が湧かないほどの沈みようだ。
「…とりあえず教科書の復習からしよう。最初からやってみて、わからないところがあったら聞いてほしい」
「はーい!」
自分のことじゃないのに落ち込み始めてしまった鷲尾はとりあえず置いておいて、前に伊藤に勉強を教えたときと同じように指示する。
伊藤のときもそうだったが大体最初に分からないものを分からないままにしたから次の問題が分からなくなるのだ。とりあえず最初からやることを勧めると吉田はそれに素直にうなずいて取り掛かる。
そしてすぐ綺麗にシャンと真っ直ぐに挙手をして分からないところ聞いてきたのだった。
――――
「イッチ!ここわかんない!おしえてっ!」
「ん」
このやり取りはすでに何回目か。最初から数えていないけれど、結構な回数だと思われる。吉田は分からないところがあればすぐに聞いてくれるからありがたい。他の科目も一緒だが初期にやったところが分からなくてそれをそのまま分からないままにしておくと次の問題がどんどん分からなくなっていく。
何故こんなにも素直に分からないところを聞けてそれを飲み込む力があるのに、テストが一桁台をとってしまったのか疑問に思うほどだ。
「ここはこの公式を当てはめればいい。で、さっきやった応用のと同じ原理で……こうだな」
「おおーなるほどー!こう?このこたえ?」
「ああ、正解だ」
「よーし!ありがと、イッチ!」
少し教えれば吸収が早いみたいですぐに理解する。
ただ少し突っかかってしまったところを吉田はそのままにしてしまっていただけでちゃんと教えれば普通に学習する……あれだ、やればできる子、だ。
分かったことが嬉しかったのか鼻歌交じりで次の問題に取り掛かっている。この分ならとりあえず赤点は免れる点数はとれるだろう。そう確信する。
「一ノ瀬、すまない。この問題なんだが……」
「…………それは、塾の宿題か?」
相変わらず塾の問題をやって先を進んでいる鷲尾に少し呆れながらも鷲尾らしいと思い直した。「うげーなにこれ呪文?だれか生きかえったりする?」と鷲尾の問題集を覗き込んだ吉田が不思議そうに見ていた。
吉田の言った意味が分からず鷲尾と首を傾げると「もーこんどゲーム大会しましょうねぇ!おれのことわかりたいならRPGやろう!貸すよっ」とむくれてそう言われてしまった。それをやれば吉田の言っている意味がわかるのだろうか、と少し興味をもつ。
しばらく問題に打ち込んでいた吉田だったが「もう疲れた!おかしたべよ!きゅうけいだーい!」と叫び(今図書室だが俺ら以外誰もいないので咎める理由はない)どこからか小さい袋に入ったチョコレートをくれた。
携帯電話の時間を確認すればすでに1時間以上ぶっ通しで勉強していた。最近は予習復習もしなくなって今日久しぶりに頭を動かしたからか少し疲れを感じたので俺も休憩することにした。
鷲尾は吉田に渡されたチョコを頬張りながらも区切りが良くなかったのかそのままノートに書きこむ手は止めることはなかった。「……ありがとう」そんな静かな図書室でも聞こえるか聞こえないかぐらいの声量でチョコをくれた吉田にそうお礼を述べた。
「今日はイッチのとなりにすずたんはいないのね!」
「すず、たん?」
「伊藤鈴芽たんのこと!」
「……すずたん」
「可愛くない!?」
「……すずたんは、叶野に英語を教えてもらってる」
「のぞみーるに?あ、叶野くんのことね!そっかー確かに英語できそうな顔してるもんね!明日にでもおしえてもらおっと!」
「のぞみーる……」
「前はのぞみんって言ってたんだけどね、すずたんと被るからやめたの!」
「……そうか」
吉田の呼び方とその本人に結び付けるのになかなか時間がかかる。すずたん……のぞみーる……。改めて名前を読むと2人とも綺麗な名前しているんだな、と思った。
伊藤は鈴の芽と書いて『鈴芽』で可能は『きぼう』とかいて『のぞみ』と読む。
なんのことなく良い名前だなと思った。でもそれは特に吉田に言う必要性がないのでそのまま沈黙になりそうだった。
「……そう言えば吉田は、さっきお芝居が好きって言ってたけどそれはドラマを見るのがってことか?」
さっきの吉田の自己紹介を思い返して気になった……いや、見た目に寄らずせんべいが好きと言ったり「りなちゃん」と誰なのか分からない名前を出されたことにも、色々とつっかかりを覚えたが、一番不快にさせず一番話しやすいところを話題に出した。
おしばいが好き、と言うのはどういう意味なのだろうか。ドラマ鑑賞とかではないのだろうか、と気になってきた。
「ん?見るのも好きだよー!でも一番はそのおしばいの人を演じるのがすき!」
「…演劇、てことか?」
「そうそう!おれ演劇部なんだよねー」
「へぇすごいな。……今度、見てみたいな」
「文化祭でやる予定だからみてみてっ!夏休みはその練習するからさー!そっちにしゅうちゅうしたいし!かのうな限り補修したくないのですよ!」
「……それなら、がんばらないとな。俺も教えるの、がんばる」
キラキラした目でやりたいことをやるために、それが邪魔にならないようテストをがんばりたいと意気込んでいる吉田が何故か眩しいものを見るような気持ちになりながら、その意気込む吉田を応援するべく俺も頑張って教えようとそう吉田に言う。
「あは!うん、よろしくね、一ノ瀬せーんせ!」
一回きょとんとした顔をしたあと、すぐ嬉しそうに朗らかに笑いながら改めてよろしくされた。全力の笑顔に少し居心地が悪くなるが、俺も頷いて返した。
次吉田が引っかかりそうなところはどこだろう、と教科書を軽く読み込んでみる。
「……お前は、補修さえとらなければ気にならないのか?テストの点数が、一般からみて低くても?」
今まで静かに勉強に打ち込んでいた鷲尾が顔を上げるとどこか信じられないものを見ているような……そんな視線で吉田を見ている。
今ではあまり見なくなったが、伊藤を見る周りの学校の奴らの目を思い出した。鷲尾にとって吉田は珍獣扱いなのだろうか。
「うん!」
そんな鷲尾の視線を物ともせず全力で吉田は頷いた。
「というか!かっちゃんみたいに気にしすぎるほうがめずらしい!ここってかっちゃんとかイッチみたいな、そんなあたまのいいのがうじゃうじゃ通うような学校じゃないしねっ!今までがどうだったのかわかんないけどさっ。そんな息苦しそうにしなくてもいいんじゃない?最近はそこまでじゃないけどさ~」
「……お前、そんなに僕のこと見てたのか?」
「今日まで名前覚えられなかったみたいだけどさっおれ結構かっちゃんに話しかけてたんだぜ?」
となりのクラスである吉田にそこまで知られていることに驚いているが、吉田は怒りも焦りもせずただ純真な笑顔で答える。つい2人の会話を教科書を読みながら聞き耳を立ててしまう。同じクラスではなく違うクラスの吉田と鷲尾が話しているのが新鮮な気持ちだ。
「おれはおれだもん!おれは補修したくないから赤点じゃなければいいやってそうおもってる!」
「勉強しなくて、それが原因でこれから困ることが起こるとしても?」
「まぁそんときはそんときだよねぇ。かっちゃんにとって重要なことはおれにとって重要じゃないように、おれにとって重要なことがかっちゃんにとって重要じゃないことだし。それで困ることになったらそんときなんとかしようとおれは考えようと思いました!まる!」
(作文?)
まるで小学生ぐらいが書いた作文のようにそう言うものだからつい内心突っ込みをいれつつこっそり鷲尾の様子を窺う。
「……そんな、ものか」
目を見開いてそんな考えもあるのかと衝撃を受けているのか呆然と呟いた。
「そんなものよ~。かっちゃんが頭硬すぎなのよ~。みんなちがってみんないい!それでいいじゃないにんげんだもの!ねぇイッチ!」
「……そうだな。吉田の言う通りだと思う。鷲尾の大事なものと吉田の大事なものはちがう。俺の大事なものも、きっとちがうんだろうな。皆違う。だからこそ、補え合える。助け合うって言葉があるんだろうな……」
唐突に俺に同意を求める吉田に少し驚いてしまったが(様子を窺っていたことはもろバレだったらしい)俺は頷く。俺は、伊藤に助けられてばかりだから俺も助けられたらいいのだが……。少しでも返せているかはわからないけれど、きっといつかは返せるように頑張りたいところだ。
「……一ノ瀬も、困ることあるのか?周りに……伊藤に、助けられているのか?」
「困ってばかりだよ。伊藤に問わず、みんなにな」
どうしてそんな戸惑っているのかわからないけれど、俺は随分周りの人間に助けられてる。口下手な俺にこうして普通に接してくれる鷲尾たちにも助かっているし、伊藤にはとんでもなく助けられている。だから、俺も返したい。
助けられて、うれしかった分のその倍返したい。それが出来ることなのか分からないけれど、そう心構えを造ることはいつだって出来ることだ。
「みんなで助け合いましょうや!なんたっておれたちは友だちです!」
「いつの間に貴様とも友だちになったんだ……?」
「今から!」
「……ふ、ははっ」
「おおーイッチがわらったぜ!」
吉田のとんでもなく、どこまでも前向きな答えに思わず笑う。前向きで純粋なその歯を見せた笑顔を見ていると、なんだか俺も釣られて笑ってしまった。鷲尾のムスッとした顔で問うのにそれに気にした素振りなく、かつ嫌味のない返しがとてもいいなと思う。
「やっぱり美形さんは笑顔もにあいますなぁ~。お、なになにかっちゃんみとれてますのん?」
「ハッ……いや、なんだ見惚れるって!」
「ええ~そんな照れんでもいいのに~」
「五月蠅いっ貴様のその言葉遣いはなんなんだ!」
「いろんな役やっているから、ついいろいろ混じっちゃんだよねぇ~。べんきょー再開する前にトイレ行ってくる~!」
どこまでも自分のペースを崩さない吉田に、鷲尾のほうがペースを崩されまくっている始末である。それが少しおかしかった。クスクスとつい笑ってしまいながら携帯を確認すると休憩して20分くらい経っていた。吉田が戻ってきたら勉強に戻ろう。と、吉田もどってくるその前に。
「少しは吹っ切れたか?」
「……少しは、な」
質問に鷲尾は目を伏せながら答えた。具体的には言わなかったけれど察してくれたようだ。俺の聞いたことはあの日から気まずくなってしまった叶野とのことだ。結局あれから視線すらも向けていない叶野に対して鷲尾は時間さえあれば叶野の様子を窺っているのを俺は見ている。
「僕のしたことはそう簡単には許されないことだ。罪滅ぼし、にさえならないだろう。それでも、もしも困ったようであればいつでも助けたい。それで許されたいなんて口が裂けても言えないが……もう相手がどう思っているか問わず、僕は確かに友情を感じてる。一回壊してしまった信頼でそう簡単に取り戻せないのも痛いほどにわかってる。どれほど叶野に嫌悪されても……もしも叶野が辛そうで悲しんでいるのなら、僕は真っ先に味方しよう。求められなくても、そうする。そう決めたんだ」
あの日。鷲尾と叶野たちがどんな会話をしたのか俺は知らない。気になりながらも知ろうともしなかった。当人同士の問題だから。俺が口出しするわけにはいかないだろう。わかっているつもりだ。
けれど、鷲尾が確かに悪いけれど心配しないと言う選択肢は思い浮かばなくて、鷲尾に「今日数学を教えてもらえないだろうか」と誘われて2人で話せるチャンスだと思った。ただ、その前に伊藤が叶野に英語を教えてほしいと言っていたから伊藤がいないのもわかっていた。
自分一人だけで鷲尾と話せるのか心配だった。吉田が来て話すのは難しいのだろうかと思ったけれど、彼のおかげで鷲尾のことが聞けた。
みんなちがっていい、そんな吉田の言葉が少しだけ鷲尾の負担を減らしたのかもしれない。俺には何もできないけれど……こうして気にかけてしまうことだけは許してほしい。
未だ苦しそうだけれど心の底からそう思っていると言うのはわかった。鷲尾は誰のことだと具体的に名前は言わなかったけれど、誰のことを指して言っているのか伝わった。鷲尾の本気も。
「そっか、鷲尾は強いな」
後悔してもそれでもなおめげない鷲尾はやっぱり、強いな。鷲尾と同じ立場だったら俺はきっと落ち込んでしまうだけで前に進めなかったと思う。堂々と背筋を伸ばしていられる、鷲尾は強い。俺よりも、もっともっと。
「そうでもない。一ノ瀬があの日追いかけてくれた。そして今吉田の話を聞いて、ようやく揺らぐことなく決められたのだから」
「……鷲尾の手助けになれたのなら、よかった」
自嘲気味に笑う鷲尾だが、前よりも吹っ切れたと言うべきかありのままの鷲尾を見れた気がした。そんな風に眉間に皺を寄せずに穏やかに笑う鷲尾……と言うか、それが苦笑いに近いものだとしても鷲尾の笑顔は初めて見れたかもしれない。
良かった。純粋にそう思う。あとは、心から笑えればいいな。いつか自嘲気味でもなく苦笑いでもなく『嬉しい』と言う感情からくる笑顔になれますように。
「たっだいま~!よーしすっきりしたし、おべんきょうかいを再開です!」
なんとなく静かになってしまったころを見計らったかのように吉田がにぎやかに帰って来たことがきっかけに勉強会を再開する。
「……吉田も、ありがとう」
「えー?なんか言った~?かっちゃん~」
「……なんでもない、かっちゃんって呼ぶなっ」
鷲尾の小さな言葉は俺が聞こえたぐらいだからとなりの吉田にも聞こえたんじゃないか思ったが、吉田は笑顔で聞こえたなかったように鷲尾を見て鷲尾は結局聞こえていないならそれでいいと判断したようで納得のいかないニックネームに抗議した。俺も二人の流れに合わせた。
「今更じゃないか?それ」
とだけ鷲尾に言った。吉田はどれだけ抗議しても聞かない気がするし、鷲尾も本気で嫌がってなさそうだからもうどうしようもないとおもう。
むしろ……俺のために怒ってくれたこと自体は嬉しいことだった。
(さすがに自分はそんな人間だったのかそう疑問に感じていたことは伝えられなかった)
「一ノ瀬くんのまえであんな格好悪い姿見られたのは恥ずかしいんだよね……」
「岬先生は、格好いい大人ですよ」
どうしてか凹んでいる岬先生にそう伝える。こんなに生徒である俺のことで自分の年齢としても教員としても上司である桐渓さんに一直線に怒れるのだろう。きっとそれは岬先生がとても真っ直ぐだから。
生徒を守るためなら、嘘偽りなく本当の意味で誰にもでも怒れる人なんだ。そう思える。そんな人は今まで俺は見たことなかった。淡々としている大人や冷たく罵り詰る大人や、何を考えているのか分からない大人、変な笑顔で俺を見てくる人は今まで見てきたけれど。
こんなに目が輝いている大人は見たことが無かった。真っ直ぐ俺を見つめる伊藤と同じようでいて、岬先生はそれよりもっと穏やかな感じ……うまく言えないけど……。
俺はそんな伊藤を格好いいと思っている。そして、生徒のことを大事に想っていてそのためならなんだって出来てしまいそうな岬先生を『格好いい大人』だと、そう思える初めての大人だった。
本当に思っていたことだったが、岬先生は「一ノ瀬くんは優しいからなぁ」と照れたように頬を掻きながらもそんなことを言われてしまった。本当のことなんだけどな……。
とにかく俺が本当に昨日のことを気にしていないと言う意志は伝わったようでそれ以上昨日のことを掘り返すのは止めてくれた。
「一ノ瀬くんこれ……桐渓さんに何かされたら連絡してほしいな、あっもちろん他に悩みがあるのならいつでも聞くからねっ」
それでも俺のことを心配してくれて、そんな言葉とともに岬先生の連絡先の書かれた紙を手渡される。
「……あり、がとうございます」
変な沈黙の後またしても変なところで詰まりながらも岬先生の純粋な好意が嬉しくて、でも恥ずかしくなって目を合わせず礼を言った。
「どういたしまして」
少しおかしそうに笑いながら岬先生はそう返した。しばらく岬先生の携帯番号とアドレスの書かれた紙をまじまじと見てしまった。
岬先生から手渡された紙をポッケにしまい込んで教室に戻ると『すぐ戻る』と言う俺の言葉を信じてくれた伊藤と鷲尾が昼飯を食べずに待ってくれていたようで伊藤は自分の机、鷲尾は俺の机にそれぞれ弁当を置いている。
「ほんっとお前頭かてえなぁ……」
「貴様がボーっと生きているだけだろう」
……うん。周りはどこか2人の会話にハラハラしている様子が見て取れるが、別に何のことはない。ただのコミュニケーションだ。2人なりの。たぶん。
「……待たせた」
「おーおかえり」
「戻ったか」
2人に声をかければ俺の方に顔を向ける。視線を感じながらも席に着いてコンビニで買ったパンとおにぎりを取り出した。
「いつでも俺が作ってやるのによ」
「そうはいかない」
よく俺に昨日の夜の残り物を詰め合わせた弁当をくれるけれど、それが毎日となるとさすがに申し訳ない。伊藤からすると特に造作のないことなのかもしれないが、ただでさえよく晩御飯を作ってくれたり俺の1人暮らしを手伝ってくれたりしてもらっているのだ。材料代はほとんどこっちが払っているとは言え伊藤がなかなか払わせてくれないからたまに伊藤に払ってもらっているときもある。
たぶん伊藤からすると何のことも思っていないのだろうが……親友とは言え『親しき中にも礼儀あり』である。
1人で出来ることはしないと。……となると、祖父の遺産を使ってばかりではなく俺自身も働くべきか……。
「アルバイト、か……」
「アルバイト……?」
「……したほうがいいんだろうな……」
「透がバイトか。なにしたいんだ?」
「…………なにができるんだろ……」
小声のはずなのに鷲尾が聞き返してきたので、特に何も考えず発言していたのでふわふわとほとんどオウム返しに近い反応をしてしまう。なにがしたいか……と言うより、俺にはなにができるのだろうか。つい考えこんでしまう。
「学生なのだから、別にアルバイトとかしなくてもいいんじゃないか?」
――俺の事情を知らない鷲尾が首を傾げて聞いてくるのをみてなんとなく苦い気持ちになる。少しも鷲尾は悪くない。わかってはいるが、どこか解せない気持ちになる。
「あ?てめえ俺の前でよく言えるな」
「別に絶対に必要な訳でもないだろう?」
「俺にもいろいろ事情があるんだよ。このガンテツ」
「どういう意味なんだ、それ?」
いつもならここらへんで叶野が鷲尾に突っ込んでそれにつっかかって、湖越が冷静にそれを突っ込んでいるところなのだろうが……それは今はない。
何故なら、今叶野たちはどっかに行っている。たぶん他のクラスで昼めしを食べているのだろうと予想する。2人とも今この教室にすらいない。
あの日から、叶野たちと随分距離が出来てしまった。
進んで叶野たちは俺や伊藤の方にも行こうとしなくなった。そして、鷲尾にも。挨拶はするし普通に話しかければ返っては来る。けれどあの薄く壁の張った笑顔のままで。距離を取られているのが分かってしまうほどの薄くて透けているけれど強固な壁だった。
そんな常に緊張した状態でいさせるのは疲れてしまうだろうから、俺からも積極的に話しかけるのはやめた。
正直あの日の叶野の取り乱し様は見ていて苦しくなるもので何か重いものを抱えているのではないかとそんな心配もあったが、俺が突っ込んでいってさらに傷つけてしまわないかの心配もあって。
叶野には湖越と言う頼れる親友もいるようだから少しだけ安心している。小室もどこか不服そうにしているけれど何も言わないことに安堵する。表面上は平和だ。何事もなかったかのように。
クラスメイトもなにも言わずに深く鷲尾と叶野に突っ込むことなく各々過ごしている。時折鷲尾が叶野に対して視線を向けていて、叶野は鷲尾のことを見もせずにいることに気が付かないふりをした。
……なんだかさみしい、な。
前の学園のときより遥かに今が楽しいと思うのに。前まで叶野と湖越とがいたときのに、今はいないのが……寂しい。前まではここで賑やかに過ごしていたのに、な。前と違うことがひどく寂しくて、少し虚しい。
「勉強だけしていても分かんねえことあるだろ?」
「貴様は勉強しなさすぎだとおもうが?」
「……仲良いな」
虚しい気持ちを2人に見せないように、案外互いのことを見ている伊藤と鷲尾にそう言うと「仲良くない!」と仲良くハモって返ってきたからつい笑ってしまう。
もうじき6月が終わる、そして7月がやってくる。色んな思惑とともに……残酷に平等にそして優しく時間は流れていく。
――――
そのまま6月が終わった。日々を受け流して悠々と時間はそのまま過ぎ去って……期末テスト週間が始まった。
「さぁそれではー!おべんきょうかいをはじめましょー!」
目の前に明るい髪色を1つに結わえた少年が突然訪れたかと思えば空いていた席をずるずると引きずり向かい合って座っていた鷲尾と俺に近寄り、ぴったりくっつけて満足気にふふんと笑ったあと両手を挙げてそんなことを元気よく声をあげた。
「……うん」
「いや待て待て!誰だ、貴様っ!一ノ瀬も流して普通に始めようとするな!」
「つい……」
あ、良かった。鷲尾が突っ込んでくれた。いや、つい流してそのまま勉強会してしまおうとした俺だが、俺もどうしていいのか分からなかったんだ。現在放課後。場所は図書室。
名前も知らない少年の言った通り勉強会をするところだった。本来ならば鷲尾と2人で、だが。誰なのか知らないオレンジ色の髪をしたひと(たぶん同い年だとは思うのだが)が普通に俺らの方に来て俺のとなりに座って人懐っこい笑顔で冒頭のセリフを言ったものだから俺はこいつと知り合いだっただろうか、また忘れてしまったのだろうかと怯えて何も言えなくなってしまった。
自分の記憶に自信がなかったが、鷲尾の反応を見る限り俺の記憶は正しいものであったと証明できる、安心した。
「えっおれ名前言ってなかった!?」
「……知らないな」
「顔は知ってるが名前は知らん」
「あっちゃー脳内だけでじこしょうかいしてたー!もうともだちのつもりだったのよー!というか!かっちゃんおれの名前知らないなんてひどーい!」
「かっちゃん……?」
ガーンっとこの間伊藤に勧められた漫画の主人公みたいに驚いた顔をしたあとすぐに「じゃあじこしょうかいしまーす!」とニコニコしながら手をあげた。
表情がコロコロ変わりゆくのにこちらのほうが置いてけぼりにされている気がする。こちらのリアクションを待っているのかじーっと俺の方を見るので、とりあえず頷いた。
「おれ!となりのクラスの吉田 悟(よしだ さとる)!たつみせんせーのクラスだよー!好きなものはおせんべいとりなちゃんとおしばいです!よろぴくね~」
「……吉田、ていうんだな。初めまして、よろしく」
「うわーいイッチによろしくされた~!はじめまして〜あくしゅあくしゅ~」
少しの邪気も感じさせないどこまでも純粋で子どもみたいな笑顔で手を普通に握られてそのままぐるぐる回される。じっとそのされるがままに回されている繋がれている吉田と自分の手を見てみる。
幼い雰囲気と同じようにその重ねられている手も俺のよりも小さく感じた。伊藤に握られているよりも小さくて伊藤のより暖かく感じて伊藤よりも弱い力だ。
伊藤の方がゴツゴツしているようにも感じる。決して吉田に手を握られて嫌なわけではない。特に不快感もない。触れられていることに、特に何の感想はない。
けれど、伊藤に感じるものと違う気がする。なにが違うんだろう。内心首を傾げる。
「言いたいことはそれなりにあるが、貴様も勉強したいのか?」
「そうなのですよ!していい!?さしつかえなければイッチとかっちゃんに教えをこいたいところなのですがっ!」
「……いいよ」
「ハァ……一ノ瀬がいいなら構わないがな……。でも教えてもらうなら僕ではなく一ノ瀬の方がいい。僕も一ノ瀬に教えてもらうために呼んだしな」
「ほんと!?ありがとう、イッチ!かっちゃんっ!本日はイッチはおれとかっちゃんのせんせいだねっ」
「……その『イッチ』て」
「うんっ『イッチ』はきみのこと!一ノ瀬だからね~。で、『かっちゃん』は鷲尾のことねっ!ずーっと心のなかで呼んでたけどきょう初めて言葉に出した~!」
「なんだその呼び方。辞めろ」
「だがーことわーる!!」
バッテンマークまで指で作ってまで拒否する吉田に苛立ったように舌打ちする鷲尾。『わっしー』と『かっちゃん』どっちのほうが鷲尾のニックネームにいいのだろうか、そんなことを一瞬考えてしまう。
今この場にいない、今この場で叶野の名前を出したり関連することを口に出すのは何となく憚れた。
「吉田」
「はいっ」
「……どの科目を聞きたいんだ?」
予想以上の活きが良い声に少し驚いてしまいながらも聞きたいこと聞く。文系なら俺や鷲尾より叶野の方が良いと思う。俺らのクラスで叶野に伊藤と湖越が英語を教えてもらっているからそっちのほうがいい。そう思って聞いてみた。
「数学です!この間のテストでついに一桁になってしまったのに危機を覚えたところです!」
「……そうか」
これまた元気よく答える吉田に頷いて返した。
数学なら答えが一つしかないので対応しやすいことに安心する。
「……なにをどうすれば、一桁になるんだ……?」
「チッチッチッ……人には苦手なものと得意なものがあるのだよっかっちゃん!」
「何故そんな胸を張っていられるんだ、貴様……」
僕がそんな点数とったら……と自分が一桁台をとってしまったことを考えて鷲尾が青ざめて黙り込んでしまう。
もう自分のニックネームに突っ込む気力が湧かないほどの沈みようだ。
「…とりあえず教科書の復習からしよう。最初からやってみて、わからないところがあったら聞いてほしい」
「はーい!」
自分のことじゃないのに落ち込み始めてしまった鷲尾はとりあえず置いておいて、前に伊藤に勉強を教えたときと同じように指示する。
伊藤のときもそうだったが大体最初に分からないものを分からないままにしたから次の問題が分からなくなるのだ。とりあえず最初からやることを勧めると吉田はそれに素直にうなずいて取り掛かる。
そしてすぐ綺麗にシャンと真っ直ぐに挙手をして分からないところ聞いてきたのだった。
――――
「イッチ!ここわかんない!おしえてっ!」
「ん」
このやり取りはすでに何回目か。最初から数えていないけれど、結構な回数だと思われる。吉田は分からないところがあればすぐに聞いてくれるからありがたい。他の科目も一緒だが初期にやったところが分からなくてそれをそのまま分からないままにしておくと次の問題がどんどん分からなくなっていく。
何故こんなにも素直に分からないところを聞けてそれを飲み込む力があるのに、テストが一桁台をとってしまったのか疑問に思うほどだ。
「ここはこの公式を当てはめればいい。で、さっきやった応用のと同じ原理で……こうだな」
「おおーなるほどー!こう?このこたえ?」
「ああ、正解だ」
「よーし!ありがと、イッチ!」
少し教えれば吸収が早いみたいですぐに理解する。
ただ少し突っかかってしまったところを吉田はそのままにしてしまっていただけでちゃんと教えれば普通に学習する……あれだ、やればできる子、だ。
分かったことが嬉しかったのか鼻歌交じりで次の問題に取り掛かっている。この分ならとりあえず赤点は免れる点数はとれるだろう。そう確信する。
「一ノ瀬、すまない。この問題なんだが……」
「…………それは、塾の宿題か?」
相変わらず塾の問題をやって先を進んでいる鷲尾に少し呆れながらも鷲尾らしいと思い直した。「うげーなにこれ呪文?だれか生きかえったりする?」と鷲尾の問題集を覗き込んだ吉田が不思議そうに見ていた。
吉田の言った意味が分からず鷲尾と首を傾げると「もーこんどゲーム大会しましょうねぇ!おれのことわかりたいならRPGやろう!貸すよっ」とむくれてそう言われてしまった。それをやれば吉田の言っている意味がわかるのだろうか、と少し興味をもつ。
しばらく問題に打ち込んでいた吉田だったが「もう疲れた!おかしたべよ!きゅうけいだーい!」と叫び(今図書室だが俺ら以外誰もいないので咎める理由はない)どこからか小さい袋に入ったチョコレートをくれた。
携帯電話の時間を確認すればすでに1時間以上ぶっ通しで勉強していた。最近は予習復習もしなくなって今日久しぶりに頭を動かしたからか少し疲れを感じたので俺も休憩することにした。
鷲尾は吉田に渡されたチョコを頬張りながらも区切りが良くなかったのかそのままノートに書きこむ手は止めることはなかった。「……ありがとう」そんな静かな図書室でも聞こえるか聞こえないかぐらいの声量でチョコをくれた吉田にそうお礼を述べた。
「今日はイッチのとなりにすずたんはいないのね!」
「すず、たん?」
「伊藤鈴芽たんのこと!」
「……すずたん」
「可愛くない!?」
「……すずたんは、叶野に英語を教えてもらってる」
「のぞみーるに?あ、叶野くんのことね!そっかー確かに英語できそうな顔してるもんね!明日にでもおしえてもらおっと!」
「のぞみーる……」
「前はのぞみんって言ってたんだけどね、すずたんと被るからやめたの!」
「……そうか」
吉田の呼び方とその本人に結び付けるのになかなか時間がかかる。すずたん……のぞみーる……。改めて名前を読むと2人とも綺麗な名前しているんだな、と思った。
伊藤は鈴の芽と書いて『鈴芽』で可能は『きぼう』とかいて『のぞみ』と読む。
なんのことなく良い名前だなと思った。でもそれは特に吉田に言う必要性がないのでそのまま沈黙になりそうだった。
「……そう言えば吉田は、さっきお芝居が好きって言ってたけどそれはドラマを見るのがってことか?」
さっきの吉田の自己紹介を思い返して気になった……いや、見た目に寄らずせんべいが好きと言ったり「りなちゃん」と誰なのか分からない名前を出されたことにも、色々とつっかかりを覚えたが、一番不快にさせず一番話しやすいところを話題に出した。
おしばいが好き、と言うのはどういう意味なのだろうか。ドラマ鑑賞とかではないのだろうか、と気になってきた。
「ん?見るのも好きだよー!でも一番はそのおしばいの人を演じるのがすき!」
「…演劇、てことか?」
「そうそう!おれ演劇部なんだよねー」
「へぇすごいな。……今度、見てみたいな」
「文化祭でやる予定だからみてみてっ!夏休みはその練習するからさー!そっちにしゅうちゅうしたいし!かのうな限り補修したくないのですよ!」
「……それなら、がんばらないとな。俺も教えるの、がんばる」
キラキラした目でやりたいことをやるために、それが邪魔にならないようテストをがんばりたいと意気込んでいる吉田が何故か眩しいものを見るような気持ちになりながら、その意気込む吉田を応援するべく俺も頑張って教えようとそう吉田に言う。
「あは!うん、よろしくね、一ノ瀬せーんせ!」
一回きょとんとした顔をしたあと、すぐ嬉しそうに朗らかに笑いながら改めてよろしくされた。全力の笑顔に少し居心地が悪くなるが、俺も頷いて返した。
次吉田が引っかかりそうなところはどこだろう、と教科書を軽く読み込んでみる。
「……お前は、補修さえとらなければ気にならないのか?テストの点数が、一般からみて低くても?」
今まで静かに勉強に打ち込んでいた鷲尾が顔を上げるとどこか信じられないものを見ているような……そんな視線で吉田を見ている。
今ではあまり見なくなったが、伊藤を見る周りの学校の奴らの目を思い出した。鷲尾にとって吉田は珍獣扱いなのだろうか。
「うん!」
そんな鷲尾の視線を物ともせず全力で吉田は頷いた。
「というか!かっちゃんみたいに気にしすぎるほうがめずらしい!ここってかっちゃんとかイッチみたいな、そんなあたまのいいのがうじゃうじゃ通うような学校じゃないしねっ!今までがどうだったのかわかんないけどさっ。そんな息苦しそうにしなくてもいいんじゃない?最近はそこまでじゃないけどさ~」
「……お前、そんなに僕のこと見てたのか?」
「今日まで名前覚えられなかったみたいだけどさっおれ結構かっちゃんに話しかけてたんだぜ?」
となりのクラスである吉田にそこまで知られていることに驚いているが、吉田は怒りも焦りもせずただ純真な笑顔で答える。つい2人の会話を教科書を読みながら聞き耳を立ててしまう。同じクラスではなく違うクラスの吉田と鷲尾が話しているのが新鮮な気持ちだ。
「おれはおれだもん!おれは補修したくないから赤点じゃなければいいやってそうおもってる!」
「勉強しなくて、それが原因でこれから困ることが起こるとしても?」
「まぁそんときはそんときだよねぇ。かっちゃんにとって重要なことはおれにとって重要じゃないように、おれにとって重要なことがかっちゃんにとって重要じゃないことだし。それで困ることになったらそんときなんとかしようとおれは考えようと思いました!まる!」
(作文?)
まるで小学生ぐらいが書いた作文のようにそう言うものだからつい内心突っ込みをいれつつこっそり鷲尾の様子を窺う。
「……そんな、ものか」
目を見開いてそんな考えもあるのかと衝撃を受けているのか呆然と呟いた。
「そんなものよ~。かっちゃんが頭硬すぎなのよ~。みんなちがってみんないい!それでいいじゃないにんげんだもの!ねぇイッチ!」
「……そうだな。吉田の言う通りだと思う。鷲尾の大事なものと吉田の大事なものはちがう。俺の大事なものも、きっとちがうんだろうな。皆違う。だからこそ、補え合える。助け合うって言葉があるんだろうな……」
唐突に俺に同意を求める吉田に少し驚いてしまったが(様子を窺っていたことはもろバレだったらしい)俺は頷く。俺は、伊藤に助けられてばかりだから俺も助けられたらいいのだが……。少しでも返せているかはわからないけれど、きっといつかは返せるように頑張りたいところだ。
「……一ノ瀬も、困ることあるのか?周りに……伊藤に、助けられているのか?」
「困ってばかりだよ。伊藤に問わず、みんなにな」
どうしてそんな戸惑っているのかわからないけれど、俺は随分周りの人間に助けられてる。口下手な俺にこうして普通に接してくれる鷲尾たちにも助かっているし、伊藤にはとんでもなく助けられている。だから、俺も返したい。
助けられて、うれしかった分のその倍返したい。それが出来ることなのか分からないけれど、そう心構えを造ることはいつだって出来ることだ。
「みんなで助け合いましょうや!なんたっておれたちは友だちです!」
「いつの間に貴様とも友だちになったんだ……?」
「今から!」
「……ふ、ははっ」
「おおーイッチがわらったぜ!」
吉田のとんでもなく、どこまでも前向きな答えに思わず笑う。前向きで純粋なその歯を見せた笑顔を見ていると、なんだか俺も釣られて笑ってしまった。鷲尾のムスッとした顔で問うのにそれに気にした素振りなく、かつ嫌味のない返しがとてもいいなと思う。
「やっぱり美形さんは笑顔もにあいますなぁ~。お、なになにかっちゃんみとれてますのん?」
「ハッ……いや、なんだ見惚れるって!」
「ええ~そんな照れんでもいいのに~」
「五月蠅いっ貴様のその言葉遣いはなんなんだ!」
「いろんな役やっているから、ついいろいろ混じっちゃんだよねぇ~。べんきょー再開する前にトイレ行ってくる~!」
どこまでも自分のペースを崩さない吉田に、鷲尾のほうがペースを崩されまくっている始末である。それが少しおかしかった。クスクスとつい笑ってしまいながら携帯を確認すると休憩して20分くらい経っていた。吉田が戻ってきたら勉強に戻ろう。と、吉田もどってくるその前に。
「少しは吹っ切れたか?」
「……少しは、な」
質問に鷲尾は目を伏せながら答えた。具体的には言わなかったけれど察してくれたようだ。俺の聞いたことはあの日から気まずくなってしまった叶野とのことだ。結局あれから視線すらも向けていない叶野に対して鷲尾は時間さえあれば叶野の様子を窺っているのを俺は見ている。
「僕のしたことはそう簡単には許されないことだ。罪滅ぼし、にさえならないだろう。それでも、もしも困ったようであればいつでも助けたい。それで許されたいなんて口が裂けても言えないが……もう相手がどう思っているか問わず、僕は確かに友情を感じてる。一回壊してしまった信頼でそう簡単に取り戻せないのも痛いほどにわかってる。どれほど叶野に嫌悪されても……もしも叶野が辛そうで悲しんでいるのなら、僕は真っ先に味方しよう。求められなくても、そうする。そう決めたんだ」
あの日。鷲尾と叶野たちがどんな会話をしたのか俺は知らない。気になりながらも知ろうともしなかった。当人同士の問題だから。俺が口出しするわけにはいかないだろう。わかっているつもりだ。
けれど、鷲尾が確かに悪いけれど心配しないと言う選択肢は思い浮かばなくて、鷲尾に「今日数学を教えてもらえないだろうか」と誘われて2人で話せるチャンスだと思った。ただ、その前に伊藤が叶野に英語を教えてほしいと言っていたから伊藤がいないのもわかっていた。
自分一人だけで鷲尾と話せるのか心配だった。吉田が来て話すのは難しいのだろうかと思ったけれど、彼のおかげで鷲尾のことが聞けた。
みんなちがっていい、そんな吉田の言葉が少しだけ鷲尾の負担を減らしたのかもしれない。俺には何もできないけれど……こうして気にかけてしまうことだけは許してほしい。
未だ苦しそうだけれど心の底からそう思っていると言うのはわかった。鷲尾は誰のことだと具体的に名前は言わなかったけれど、誰のことを指して言っているのか伝わった。鷲尾の本気も。
「そっか、鷲尾は強いな」
後悔してもそれでもなおめげない鷲尾はやっぱり、強いな。鷲尾と同じ立場だったら俺はきっと落ち込んでしまうだけで前に進めなかったと思う。堂々と背筋を伸ばしていられる、鷲尾は強い。俺よりも、もっともっと。
「そうでもない。一ノ瀬があの日追いかけてくれた。そして今吉田の話を聞いて、ようやく揺らぐことなく決められたのだから」
「……鷲尾の手助けになれたのなら、よかった」
自嘲気味に笑う鷲尾だが、前よりも吹っ切れたと言うべきかありのままの鷲尾を見れた気がした。そんな風に眉間に皺を寄せずに穏やかに笑う鷲尾……と言うか、それが苦笑いに近いものだとしても鷲尾の笑顔は初めて見れたかもしれない。
良かった。純粋にそう思う。あとは、心から笑えればいいな。いつか自嘲気味でもなく苦笑いでもなく『嬉しい』と言う感情からくる笑顔になれますように。
「たっだいま~!よーしすっきりしたし、おべんきょうかいを再開です!」
なんとなく静かになってしまったころを見計らったかのように吉田がにぎやかに帰って来たことがきっかけに勉強会を再開する。
「……吉田も、ありがとう」
「えー?なんか言った~?かっちゃん~」
「……なんでもない、かっちゃんって呼ぶなっ」
鷲尾の小さな言葉は俺が聞こえたぐらいだからとなりの吉田にも聞こえたんじゃないか思ったが、吉田は笑顔で聞こえたなかったように鷲尾を見て鷲尾は結局聞こえていないならそれでいいと判断したようで納得のいかないニックネームに抗議した。俺も二人の流れに合わせた。
「今更じゃないか?それ」
とだけ鷲尾に言った。吉田はどれだけ抗議しても聞かない気がするし、鷲尾も本気で嫌がってなさそうだからもうどうしようもないとおもう。