2.人間として。


 鷲尾和季が登下校に使用するのとは真逆の叶野希望をわざわざ裏門にまで呼びだしたのか。まぁその答えは単純だろう。
 生真面目で時間に気にしてばかりでいたときの鷲尾和季ならば、相手のことを何も考えずただこっちのほうが自分の帰り道に近いからと答えたかもしれないが、昨日の内になにがあったのか知らないけれど少し空気が読めないけれど真面目でただの良い奴になってしまった。
 今その質問をして返ってくるとされる答えは学校内で比較的裏門のほうが人目につかない場所だから、だと思われる。その判断は正解。
 一般的な生徒が裏門に行くときなんて普通ならゴミ捨てにいくときぐらいなもので先生らは先生たちが帰るときにかいかないだろうし、裏門を使用して帰る生徒もいないわけではないけれどそこまで多い訳でもない。校庭に行くにしても体育館に行くにしても裏門とは逆の方向で裏門から職員玄関は近いけれどまだ教師は業務を終えていないのでこっちに来る用件なんて限られている。
 誰にも邪魔されずに話せて、かつ周りを気にする叶野希望が気にせずに話せるような状態にしてくれている。そこらへんを鷲尾和季が計算しているのかまでは分からないけれど、放課後に裏門で呼び出すと言う選択はかぎりなく正解に近いと思われる。

 周りには確かに誰もいない。先生もクラスメイトも先輩も一ノ瀬透も伊藤鈴芽もだれもだれも。この場にいるのは鷲尾和季と叶野希望、そして叶野希望を心配したであろう誠一郎くんだけだ。それを踏まえた上で鷲尾和季は叶野希望に謝罪した。その頭脳を使って考えに考えた上で謝罪したのだろう。

と、おれこと梶井信人はわしおくんの背中が小さくなっていくのを見ながらそうおもったのでしたっ!

「まさかおれが聞いてるなんてだーれもそうぞうしてないよねぇ」

 おもしろくないけど勝手に笑ってしまう。
 今おれがいるところはさあどこでしょう?はい、時間切れ!答えは体育館の一番端のトイレでしたー!ここが一番裏門に近くてさ~ありがたいことにわしおくんたちは目の前で話してくれたからつつぬけでした~。
 屋上だと声きこえなくなっちゃうからね~やっぱり気になることはちゃーんと自分の耳で聞いていたいからさ~。あんまり格好いいところじゃないのがざんねんかな~?
 まっ誰も見ていないんだから格好いいも格好悪いもどうでもいいことだねっ!あ、それにしても~計算ミスっちゃったなぁ~。便座に蓋をして立って彼らの様子を窓から見ていたが、降りてそのままあぐらをかく。よいこはまねしちゃだめよん~おれは悪い子だからいいの。
 小さい窓は開けっぱなしにしているから外から誠一郎くんが叶野希望を慰める声が聞こえてくる。あーむかむかする。
 まさかねぇ、あんなにはやく鷲尾が立ち直ってしまうなんて予想もしてなかったのよ。おれの誘いに乗ってしまった鷲尾が叶野希望を傷つけて、それを誠一郎くんが庇う。そこまでは想定内。
 それに傷ついて教室を飛び出すのは想定外だったけどまぁ許容範囲内。叶野希望が居心地悪くなって、鷲尾がさらに叶野希望を傷つけるようなことを言うなら万々歳ともおもってた。

 だけどここでおれの計算もしていなかったところが動いてしまった。そう。一ノ瀬。時期外れの転校生、予想もしていなかった存在。実際見たのはあの保健室の1回だけ。それも遠目で後姿だ。きっと一ノ瀬はおれの顔を知らないだろうね。どうでもいいけど。
 自分の計算が外れることもまああるけれど、大筋が外れなければあとでいくらでも軌道修正できる。それでも念には念を押すべきと考えかるーく彼のことを調べた。
 それなりの過去があってそれを罪だと責められ続けてきたんだってねぇ。……まぁ……そこはどうでもいいか。それより性格だ。五十嵐や岬のようなタイプだとめんどうになるしねぇ。前にいたときどんな感じだったのか知ることができた。それだけでとりえあえずじゅーぶん!
 目を惹く美形。大人しくて静かでまるで彫刻のように恐ろしく思うほど美しい。寡黙で何を考えているのか分からない。話をかけにくい雰囲気がある……などなど。
 とにかく暑苦しい行動派ではないことが分かった。それなら邪魔にならないと知った。害を及ぼすような存在になりはしないと思えた。不真面目で不愛想でほとんど不登校だった伊藤を嬉々として楽しそうに学校に来るようになったのを見て察するべきだったか。
 なのに。意外な行動力あることにもおれは保健室で見ていたから知っていたのに放置した。自分の怠慢だったか。

 鷲尾はおれの思った以上に簡単に動いてくれた。そこはうれしいごさんだったねっ。自分自身ですら醜く嫌悪するところをおれは甘く受け入れたフリして、自分の気持ちの思うがままにすることをおすすめしただけだ。
 別に一ノ瀬に対しておれはなんのうらみはない。でも目的のために一つ頑張ってもらうことにした。甘やかしてくれるやつがいるようだしまぁいっかと思った。一ノ瀬は誠一郎くんや叶野希望と仲が良くなった。それだけでおれの計画の一つを果たしてもらうことを決めた。
 おれの意図はほかにもある。だけど今回の計画は目的は一つだけ。

 叶野希望を再起できないほどズタズタめちゃくちゃに傷付けることだ。その前向きすぎるほどの名前とは全く真逆のところ、絶望へと堕としたい。
 僕はあいつを傷つけないと気が済まないって言うのは八つ当たりもあるかな?でも僕の最終目標では必要不可欠なことでもある。ま、どっちにしても僕のためだけどね。自分が世界の中心で自分のことしか興味ないのに他人のことなんて気にしてられないよ。

 でもちょっと今回の計画は失敗。叶野希望を傷つけることには成功したけど、まさか鷲尾が謝罪するなんてねぇ……。一ノ瀬のことを見誤って放置してしまったおれのミスだねぇ。
 まぁ、まだとりもどせる。すべてにおいて失敗はつきものだよねぇ。失敗は成功のもと~ってね。おれからすると幸いにも鷲尾の言葉は叶野希望は届いていない。
 上っ面の許しを跳ねのけられてショックだったんだねえ。あーあ、まーだ泣いてるよ。外から叶野希望がすすり泣く声が聞こえてくる。傷ついてくれているねぇやったね。あー…、鬱陶しい。

 でも鷲尾はもう使えないかあ。空気が読めず自分も他人も気遣うことのできない鷲尾じゃなくなっちゃったしねぇ。本来ならもっともっと弱いところを突っつきまわしてひっかきまわしてぐちゃぐちゃに甘く惑わせてあげて、飴と鞭を与えつつ上手く利用するはずのコマだったんだけど……一ノ瀬が昨日追いかけて何か話したみたいでただのいい子ちゃんになっちゃった。ああん盗聴器でもつけてればよかった。
――もう!もりあがりにかけちゃうなぁ!このままおれのほうに来て最初はおれの言うこと聞いて途中から目を覚ましてしまって自分のしたことに後悔して苦悩する感じだったらおもしろくなったのに!いい子になるならもっとやらかした後のほうが絶対良いのにっもったいないよっわしおくん!一番おいしい立場にいたのにすぐ目覚めちゃうとかおれちゃん興ざめですっ!生温い展開になっちゃったじゃない!
 まさか一ノ瀬が追いかけるなんて予想外も良いところだ。んもーまあこれまた予想外に叶野希望が謝罪されて何故か勝手にダメージ受けているから、完璧に失敗したわけじゃないけどさぁ。でもコマが潰されてしまったのは事実。さぁて、本当は鷲尾にやってもらうつもりだった大一番の役はだれにやってもらおうかなぁ~。

「ほかにいいこま、いないかなぁ?」

 いい加減叶野希望のか細い声と、誠一郎くんのそいつを慰める声に吐きそうになるからトイレを出てそのまま校舎と体育館を結ぶ渡り廊下へ向かう。鷲尾の代役をだれにしようかな~。そう考えながら体育館を出ようとした、その瞬間下品な大きな声が聞こえる。

「チッ!どいつもこいつもっほんっとに!うぜえ!うざくてきもいっ」

 馬鹿みたいな喚き騒いでいる。あとなんか蹴ってる音も聞こえてくる。そーっとバレないよう覗き込めば八つ当たりのごとく壁を傷めつけ、苛立っているのがよくわかる大きな声で「くそ、くそ!」と叫んでる……確か彼らのクラスメイト?がいた。
 ばかみたいな話し方をしてばかみたいに髪を明るくしている、まぁ見た目の通り頭まで軽いであろうヤツだ。
 見た目三下の異様に絡んでくる感じの小物臭のする不良だねぇ。……そうねぇ。もーこいつでいっかなぁ。
 鷲尾がやってくれた方がダメージ与えるかなぁと思っていたけどあの叶野希望の様子を見る限り、誰がやってもあまり変わらないだろうし。
 一通り学校の生徒らを調べてみたけどこいつもばかみたいな見た目の通りやっぱりばかなことばかりする子だし、今日も無駄に一ノ瀬や鷲尾に絡んだりしてるし。いっかな。

 ま、タイミングが悪かったってことで。おれ自身はうらみないけど、他にうらみもらっちゃった人たちからのバチとでもおもってあきらめてね~。うーんでもそうだねぇ。探す手間がはぶけたことに感謝してあげよっか。

 ありがとうね。せいぜいおれの良いコマになってね。

「そんなにかべけっちゃってぇ。なーんかいやなことあったのぉ?こむろくん?」

 さぁ。そのおばかさんな頭を持っている小室くんならしんじてるよ?『俺は悪くない。梶井信人に言われたんだ。あいつが俺を唆したんだ』とみじめに泣きながらみーんなのまえで言ってくれることをね。

――――

 電車に乗って最寄り駅について、透の家まで歩いて移動する。気まずくて何も話さない……なんてことはなくて、いつも通りだ。
 話さないときは話さないが、なにか思いついたら普通に話す。驚くほどいつも通りだ。俺も透も。前のようなに俺と目を合わせないようしている訳でもなくて俺も何も気を遣っていない。透の言う通りこれから俺に話してくれることは本当に俺に話すこと自体忘れていたものらしい。それなら俺も身構えて聞かなくても平気そうだ。そう思った。


 俺は忘れていた。今の透は前の透とは根本的に変わらないが、色々麻痺していることを。


「俺、伊藤にどこまで話した……?」
 透の家に無事着いてテレビを見てボーっとして落ち着いたころに透にそう切り出された。
「あー……りょっ……記憶喪失の理由とか、それで周りに責められたとかは教えてもらった」
 心底どこまで話したのか覚えていないように俺に聞くものだから俺の方がなんだか気まずくなりながらも何でもないよう顔と声を意識しながら答えた。本当は気になってた。
 両親を失って記憶喪失になって……記憶のないことで酷く責められてきたこと。そして神丘学園にいたことぐらいしか俺は知らなかった。だから初めて学校に来た日。
 昼休みが終わっても戻ってこなかったのか、戻ってきたときなんであんな表情をしていたのか、俺は知らなかった。その理由を教えてもらっていなかったことに気が付いたのは叶野たちとした勉強会をして帰る際にたまたま桐渓と会った透の反応を見てのことだった。
 あのときは、泣きたいのに泣けない顔をしていた透を見て衝撃的なことがあったことにばかり目を向けていてそのことはすっかり頭から抜けていた。
 桐渓とどんな関係なのか、どうしてあの名門学園から一般的な公立高校に通うことになったのか、俺は知らないことばかりなんだ痛感する。なにがあったのか聞きたかった。でも、言いたくないことを言わせるのはと戸惑っていた。話したくないことなのかもしれない。それなら自発的に言い出すのを待とうと思ったのだが……ただ透は俺に言った気になっていただけのことだった。そうとは知らず勝手に悶々として勝手に透に八つ当たりしていた……穴があったらはいりてえむしろ掘りてえ……。

「……そう、か。あの日全部話していたと思い込んでた。すまない」

 俺の答えに透の方が驚いている。本当に話していたつもりだったようで、なんか、気が抜けた。

「でもこれから話してくれるんだろ?」

 申し訳なさそうな透を慌てて励ますようにそう言った。そう言えば透はああ、と力強く頷いて話し出した。
 この間ほど激しい感情は覚えないだろうと高を括っていたものだから、油断していた。そもそも、あんなに凛として時として頑固だけど男前な透があんなに自己評価が低くていつ消えてもおかしくないほど儚いヤツになっていたのだから察するべきだった。
 透自身が忘れていた部分の話を、透はなんでもない顔で話し出した。


「病室で目覚めたとき、祖父と桐渓さんがいたんだ。目覚めた俺を心配そうに見ていた。だけどすぐ記憶喪失であることが分かって様子が急変した」
「記憶がないことを責められている俺を見つけてくれた人が俺の現状を教えてくれた。あの人が祖父であることと、もう一人の男性は母の幼馴染であり父の親友であること、そして俺はさっき責め立ててきた祖父のもとへ行くことを」
「そのあと退院した。でも記憶がないことを責められてきた。それは祖父だけではなく桐渓さんも時間を割いて遠くから来て俺と顔を合わせてずっと責められた。……たまに、暴力もあった。祖父は俺のことを見たくないみたいで、俺を神丘学園にいれた。小中高一貫の中高から全寮制のな。小学生のときはさすがに全寮制ではなかったから家から通ったけど、あまり覚えてない。でも、責められたことと楽しくはなかったことは覚えてる」
「神丘学園に俺は馴染めなかった。言葉を交わすことはほとんどなかったのに、遠目から凄く見られていたから怖かった。学校も家も俺にはあまり良いものではなかった」
「すべてが怖くてその恐怖すら見ないことにして壁を作って何も聞かないよう感じないようにしていたらいつの間にか高校1年生になってた。伊藤と出会った、あの日だ。何も知らされないまま桐渓さんが突然やってきて適当に荷物纏めるよう急に言われ、俺はここに引っ越し、転校することになってた」
「何も分からない俺に桐渓さんは吐き捨てるように『お前のじいさんが亡くなった。その遺言通りに進めてるんよ』と教えてくれた。俺は何も知らされていなかった。葬式があったのも、そもそも入院していたことも」
「桐渓さんは俺の保護者代わりのようなものなんだ。俺のことは憎いけど祖父の遺言だから嫌々やっている。迷惑だからあまり目立つなって言われたのに、昨日目立つことしたから。だから、さっき保健室に行ってた。俺を心配してくれた岬先生もいっしょに。……相変わらず俺を責めるだけ責めて……俺の話はやっぱり聞いてくれなかった。それを聞いた岬先生が桐渓さんに掴みかかって……あとは伊藤も見ていたと思う」
「転校初日。俺昼休み終わっても戻ってこなかっただろ?あのときも桐渓さんに呼ばれて。メールも電話も出なかったことだけじゃなくて両親のこと責められていたんだ。俺が何をしても、悲しんでも笑っても気に入らなかった。もう、両親は俺のせいで悲しむことも笑うこともできないのに。庇ってくれたおかげで生きることを謳歌出来ていいな、て。そう言われた。そう言われ続けてきた」

 途中俺が質問したり、透が言葉が出てこなかったというかうまい説明を考えながら話していたから無言の時間もあったがそのへんを省略して透の言葉だけの説明だとこう教えてくれた。俺は時計を見ていないけれど話し終えた透がテレビに映っている左上の時間を見て「長話になった……」と少し疲れた様子で呟いたのに反応できなかった。

 ばかな俺の頭が透の説明したことがうまく理解できなくて。信じられなかった。

「……伊藤?」
「……なんなんだよ、それ……」

 ようやく追いついて透の説明がやっと理解できた。理解したと同時に、憤りを感じた。爆発する憤りをおさめるなんてできない。
 怒り。透をそんな目に合わせていた奴らに対する怒りが、俺のなかに滞って消えない。吐き気がする。透を責めて、透を遠ざけて、まるで厄介払いをするがごとく神丘学園に入れて、透の都合にお構いなしになにも知らされず引っ越して転校までさせられて。それに対して何の謝罪もない。むしろ迷惑をかけるなとそう言って。
 挙句の果てに……なんだよ、まるで透は幸せになることを阻止しようと、幸せにさせないと言わんばかりじゃないか。
 なんで、そう言えるんだよ。なんで何も知らない透に子どもに責めることができるんだよ。なんで、全部透が悪いってきめつけるんだよ!

「殺してくる」

 どうしようもないほどの駆け上がる怒りと憎しみと悲しみにどうしようもなくなって、色々と頭のなかを巡り結論が出た。立ち上がり玄関へ向かう。今ならまだ学校にいる。今から行けばあいつを殺せる。あいつを。桐渓を。
 透の祖父にもそれ以外の奴らも憎しみの対象ではあるが……俺の知るなかで一番分かりやすく憎しみをぶつけやすいあいつを一番殺してやりたい。そもそもさっきの保健室での出来事にも俺は苛立っていた。透や岬先生たちの手前なんとか抑えたけれど、もうむりだ。

――あいつは殺す。

 あいつの言ったことは透を傷つけるだけじゃなくて、自分の幼馴染と親友……透の父さんと母さんのことも貶している。透のことを、透の両親を傷つけておいて許せるはずがない。
 ただ殺すだけじゃなくてひたすら殴り続けてその顔面をぐっちゃぐちゃにしてやりたい。整形しても治らないほどその高い鼻を粉々に砕いてやりたい。傷つける言葉を発する声帯を引きちぎってもう言葉を発することも呼吸もできなくさせてやりたいから舌を切り刻んでやりたい。
 頭に血が上って目の前の透がどんな表情をしているのかとかこんなことをすれば退学どころじゃないとか考えつかない。殺す殺したい殺してやる、それしか考えられなかった。

 外に出るべくドアノブを回した。

――――

 話し終えても何の反応がない伊藤を呼び掛ても何か言ったかと疑問に思うほどの小声だった、少し待っても何の反応のない伊藤にお茶を飲んだらもう一度呼びかけようと思った。その瞬間。

「殺してくる」

 物騒な言葉が聞こえて来た。聞いたことのないほどの冷たく無感情な声に背筋が凍った。俺へ向けた言葉なのかとギクリと腹の底から冷えてくるのを感じた。お茶なんて飲んでる場合じゃないか。何とか気管に入らず飲み干して慌てて伊藤の顔を見ると、そこには完全な『無』の表情の伊藤がいた。
 いつもの楽しそうで嬉しそうな笑顔でもあの日怒って叫んでくれた表情でもなくて、ただ酷く冷めた目で無表情で明確な殺意が見て取れた。
 その殺意は俺も感じたことがないものだ。それを俺に向けているのかと思ったがどうやら違って、伊藤は冷たい目で俺を見ることなく無表情ゆらりと立ち上がり玄関へと向かっていった。
 そのまま玄関に行くのを目で追いかけていたが、ハッとなって慌てて伊藤を呼び止める。何か物騒なことを言っていたことを思い出して嫌な予感がした。

「伊藤っ」
(少し、怖い)

 そんなことを思ってしまったが、すぐ俺も立ち上がって声を張り上げ彼の名前を呼んだ。そこにはドアノブに手をかけて今にも外に出ようとする伊藤がいた。

「どこに、行くんだ?」
「殺しに」
「……だれを」

 物騒な言葉が耳に届いたのは空耳ではなくしっかり伊藤本人が言っていた言葉だったようだ。伊藤は俺に背を向けたままだが、俺の声は届いていてちゃんと受け答えしてくれる。伊藤のほうへと気付かれないようにゆっくり歩み寄る。このままいかせてはいけないと、そう思った。
 その殺意を誰に向けるのか、何となく察したが一応聞いてみる。

「桐渓」

 俺の問いに伊藤は少しの迷いもなくすぐに返してくれた。予想通りだが、どう止めるべきだ。考える。『そんなことしなくていい、俺は気にしていない』と、言ってもきっときかないだろう。淡々としているのにどろりとした殺意に溢れている声と雰囲気にそう察する。
 ……言っていなかったことがもうないように、もう隠し事をしないように、伊藤を傷つけることがないように、全部を伝えた。
 今まで伝えていなかったことと保健室でのことをすべてを。伊藤がどんなことをするのかあまり考えていなかった。俺のために怒ってくれるだろうなとふわっと思っていたけれど、まさか桐渓さんに殺意まで芽生えるとは思わなかったんだ。
 確かに、俺は傷ついていた。けれど桐渓さんが俺のことを知ろうとしなくても、俺は知ってしまった。親友が失う理由が目の前にいたらその怒りをぶつけざる得ないことを。
 そして……伊藤もまた俺を親友を傷つけた桐渓さんを許せない気持ちになったと思われる。殺意さえ覚えてしまうほど。俺も伊藤がぞんざいな扱いをしている桐渓さんに怒りをぶつけたこと伊藤を過剰に怖がる周りに苛立ちを覚えたこともある。
 こういうのはあれなのかもしれない。俺のために殺意さえ覚えてくれることを。そしてそれを俺が止めなければ本当に実行しようとする伊藤に。俺は狂っているのか、ただ性格が悪いだけなのか分からないけれど、ただ純粋に「うれしい」と思ってしまった。
 あれだけ岬先生が桐渓さんに掴みかかっているのを見たときは不安になったのにそれがない。むしろ喜んでいる俺はどこかおかしくなってしまったのだろうか。分からないけれど、ただただ本当にうれしくて胸が熱くなった。でも、このまま伊藤を行かせることは出来ない。
「伊藤」
 呼びかけてもこちらを振り返ることはないけれど、出て行こうとしていないから俺の声は届いていて次に続く言葉を待ってくれている。
「夏、海に行こう。ああ、その前に期末テストか……勉強もしよう。で、夏休みは出かけよう。文化祭も一緒にまわりたい。学校に行こう、そして帰ろう。放課後どこか寄るのもいい。休日には遊びに行こう。冬休みには少し遠出するのもいい、で年明けたら初詣に行こう。俺といっしょに……伊藤といっしょに」
 初めて俺から色んな事を誘う。いつも伊藤から誘ってくれていることを自発的に誘う。いきなりいろいろなことを誘う俺に驚いたように目を見開いた伊藤が振り返る。その顔は驚きつつも嬉しそうで胸がぎゅうっと締め付けられたように苦しくなる。でもあたたかくて心地よい苦しさだった。あたたかくて、泣き出したくなるほどに。もっと、もっと……。

「伊藤と、一緒にいたい。伊藤といると嬉しい、伊藤といると楽しい。だから……行かないでほしい。俺のためにここにいてほしい。俺のとなりにいてほしい。できることなら、わらってほしい」

 俺を想ってくれるのは嬉しい。だけど、俺はなにより伊藤が隣にいてほしい。伊藤が本当にそんなことしたらもう学校にいられなくなってしまうから。
 伊藤が誰かを傷つけるのも見たくないと言う気持ちや桐渓さんが本当に殺されてしまうという恐怖も無くはないけれど…俺はこんなに自分本位だっただろうか……俺のためにとなりにいてほしい。もう遠くに行ってしまうのは嫌なんだ。伊藤と離れ離れなんて俺は本当に生きていけないんだ。伊藤の手も汚してほしくない。ぐっと伊藤の手を握ってどうかと懇願する。どうかその優しい手が俺のためでも汚されないように。どうかそのままの伊藤でいてくれますように。

「お願い」
「……ああ、そうだな。俺も、透ともう離れたくねえよ。これから、一緒に色んな事しよう。やくそく、な」

 いつもの俺の好きな笑顔で握られていない手で俺の頬を撫でられた、くすぐったくて身動ぎながらもいっしょにいてくれることがうれしくて笑う。
 さっきまでの殺意を纏っていたのが嘘のように穏やかな空気に安心した。しばらく玄関で2人で穏やかに笑い合う。

――――

「そういや、鷲尾どうなったんだろうなぁ」
「……どうだろう」
「教室出て行った後叶野と湖越いたんだけどよ、どこかぎこちなさそうだったんだよなぁ……」

 ようやくいつも通りに戻って夕方の空をボーっと眺めているとテレビを見ていた伊藤が気になったことを口に出したので俺も反応した。
 ちゃんと叶野に謝ることができただろうか。謝れたとしてどんな答えが返ってきたのだろうか。叶野は、ちゃんと自分の意志を言えたのだろうか。伊藤が会ったときぎこちなかったようだったから言えなかったのかもしれない。疑問は絶えない。
 気になって携帯電話を開いて……すぐに思い直して閉じた。

「……俺らから言えることはない、な」
「俺らからは聞けねえよな。……こういうのってもどかしいよなぁ……」
「そう、だな」

 心配だ。鷲尾はちゃんと謝れたのか、叶野はそれにどう答えたのか。正直すごく気になる。特に叶野は今日不安定に見えたから傷ついていなければいいのだが……俺らが口出して良いものではないのだ。
 聞きたいけれど聞いてしまうのは申し訳ない。俺らにはこれ以上できることはない、それでも気になる。もどかしい。

「どんな結果になっていようが、俺らはあいつらにいつも通りにしよう」
「ああ」

 もちろんだ。俺にとって2人とも、大事な友だちだから。

 ……もう皆で放課後集まって勉強会は出来ないのだろうか。もう皆で一緒に打ち上げとしてラーメンを食べることもできないんだろうか。それは……少しだけ、いや、結構さみしい。
 自分で思った以上に皆で店で食べに行くのが楽しかったんだ。現に今俺はこんなにがっかりしている。一つ溜息を吐く。溜息は橙色から濃紺へ染まっていく空に消えていった。

 これから、どうなるんだろうか。先を見せないこれからが不安になる、けど……。
 伊藤のほうに視線だけ向けて、目が合う。「なんだよ」荒い口調に反して優しい物言いに嬉しくて笑って「なんでもない」と答えた。

 伊藤がいるのなら、なんとかなる気がする。

 確証なんてないのに。なんとなくそんな自信が芽生えた。

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