2.人間として。
今俺と希望は帰り道とは逆の方向、学校の裏門へと向かっている。鷲尾が呼びだしたのだ。
本来呼ばれたのは、希望だけだったが……昼に希望が『朝鷲尾くんから手紙貰ってさ』と相談されてその手紙を見せてもらうと『話したいことがある。放課後裏門に来てほしい』と達筆で大きな文字でそう書かれていた。
俺は行くべきではないだろうと思った。俺が呼ばれた訳ではない。希望一人で来いとは書いていなかったが誰かと一緒に来いとも書かれていない、普通に考えれば手紙を受け取った本人だけがそこに行くべきだろう。……昨日のことを許せないと思って口も利きたくないと言うのなら、『行かない』という選択肢だってできる。
昨日鷲尾に言われたことを考えれば、希望にとって深く傷つくことを言った鷲尾のことを許さなくてもいいんだ。でも、希望は……謝られたのなら許さないといけない。周りにそうのぞまれているから、自分の意志と関係なく謝れたのなら許さないといけないそんな固定概念にとらわれている。
いくら理不尽な目にあっても、それでも謝られたなら許さない駄目だとそう押し付けられてきたから。
希望はなにも言わない。どんなに嫌な気持ちになっても恐怖から『大丈夫』と言ってしまう。泣きたくても笑って、怒りたくても笑って。前は俺には言えていたことも、今では言わなくなってきた。俺に頼りっきりは良くないと思っているのか……もう純粋に希望を心配していた俺じゃなくなってしまったからなのかは、分からない。
それでも、希望は俺に鷲尾から手紙で呼び出されたことを言ってくれた。自分を犠牲にしようとして心配させないように強がろうとする希望が俺にそうサインを送ってくれた。
昨日傷ついたのに俺にも何も言わず作った笑顔のままの希望に俺は悲しい気持ちになりながらも何も言うことができない。
せめて、理不尽なこと言われても笑顔で遠ざけることは出来ても怒りを爆発させて掴みかかることができない希望の代わりに俺がそうしよう。そうすることが俺が唯一誰かのために出来ることだから。
希望と外で昼食べて授業が始まるギリギリで戻ってくると、何かあったのはクラスの雰囲気を見て察したが、鷲尾も一ノ瀬も伊藤も変わった様子がなかったから首を傾げながらも深くは聞かずそのまま放課後を待った。
小室の姿が無かったことに気が付いたのは出席で名前を呼ばれているときだったが、特に関わり合いになったことがないヤツでよくサボっていたから特に気にするべきではないと判断した。
授業も帰りのHRも終わり、鷲尾が教室を出たのを見てすぐ俺と希望も出たのだが……下駄箱のところで立ち止まってしまう。希望に合わせて俺もその足は止まる。
何を言われるか分からない、もしかしたら昨日よりも酷いことを言われるかもしれないし、謝られたら謝られたで苦しい思いをするのが目に見えているところへこれから行くと分かっているから、足取りが重くなったんだろうと理解した。
俯いてしまった希望に「俺だけ行くか?」と聞いてみるが少し間が合った後首を横に振って拒否される。どんな気持ちで拒否したのか顔が見えないから分からない
苦しくとももう逃げたくないという気持ちなんだろうと察するけれど足が動かなくなるぐらい怖いと思っているはずだ。
こいつがなにを考えているのかわかる、小学校からいっしょにいる親友だから。分かるんだ、でも分かっていてもどう俺は声をかけていいのかわからなかった。希望の赤茶色の髪から徐々に視線が床のほうへ移っていく。
希望が大事だ。それは変わらない思いだ。今度こそ、変わらないはずのおもい。だけど、それは本当の意味でなのか俺には分からない。分かるなら、希望を励ます言葉はすらすら出てくるんだろうか。気分も徐々に降下していく。
「あ”ー……っくそ!!」
「!」
唐突に聞こえてきた声は、俺でも希望でもないモノだった。その苛立ちの声と同じように荒々しい何かを殴りつけるような音が聞こえてくる。声と音のするほうを希望と共に見てみると、そこには壁を蹴りつけていたようで片足を壁にめり込ませている伊藤がいた。
自分を落ち着かせるためなのか興奮からきたのか荒く呼吸を繰り返していた。最近穏やかな面しか見て来なかったから記憶から薄くなっていたが、そう言えば伊藤は喧嘩を売った先輩らを無感情に殴り続け学校中で恐れられていたヤツだった。
こんなに荒々しいところを実際見たのは、初めてだった。どんなときもだるそうで無表情だった。最近では穏やかに笑ったりしている姿に見慣れていた……ああ、だけど今日朝は鷲尾と言い合っていたか。それでもここまで苛立っていなかったけれど。
少しだけビビりながら伊藤のとなりを通り過ぎる奴らを横目に話しかける。
「おい、どうした?一ノ瀬となんかあったのか?」
「……」
そう聞いてみると、片足をもとに戻しながら(壁が若干凹んだような気がする)無言で頷いた。
今までも伊藤に何か変化あるとすれば一ノ瀬関連だったから、そう聞いてみると案の定だった。最初怒っているのかと思ったがどうやら凹んでいるようだ。
「どうしたの?なにか言われたの?」
あんなに伊藤に対して絶対的な信頼を置いている一ノ瀬が伊藤を傷つけるようなことを言うなんて、とさっきまで無言でいた希望が気になって聞くが伊藤は目を伏せながら首を横に振って溜息を吐く。
「……透はなにも悪くねえよ。俺がもっと……」
希望の問いに答えるのかと思いきやこれ以上言葉を続けるつもりはないようで、あー……と言いながら自分の髪の毛を両手でかき交ぜてでっかい溜息を吐いた。悔いているようにも見える。
「話聞くか?」
「いや、いい」
このまま置いて行くのも、と思い少しぐらいなら話を聞こうかと思ったが伊藤はまた首を振った。
「…心配してくれてありがとうな。このまま透を待つわ。ちゃんと話し合うから気にしなくていい」
そう言って力なく笑いかける伊藤に少し罪悪感を覚えた。伊藤の話を聞けば、それなりの理由になって鷲尾のところに行かなくて済むなんて考えていたことに今気づいたんだ。伊藤が悩んでいることを言い訳にしようなんてことを、そんなことを無意識に思っていた自分に嫌悪感を覚える。伊藤はそのまま自分が蹴っていた壁に寄りかかる。
「そう、か。また明日な」
「おー。引き止めちまって悪かったな。気を付けて帰れよ」
居心地が酷く悪くなって、いつも通りにそのまま伊藤と別れようとする。希望も伊藤に手を振った。逃げるようにこの場から去ろうとそんなことばかり考えていた。
「あ、叶野。透はお前のこと心配してるし、俺もしてるからな。あんま抱え込むなよ」
「…………っあ、りがとう」
「ん。じゃまた明日」
思い出したように希望にそう声をかけた。声をかけられた希望は驚きながらも労わってくれる伊藤に礼した。
ひらひらとこちらに雑に手を振る伊藤と今度こそ別れた。
「……よし、行こうか」
希望が聞いていなかった朝の一ノ瀬の言葉を昼に伝えた。
悲しそうな顔をしながらもどこか嬉しそうにみえた。今伊藤からかけてもらった言葉も、今希望は嬉しそうだ。
鷲尾のもとへと向かう、勇気をもらったようだった。顔は強張っているし笑顔もぎこちなくて弱弱しいが、その足は重々しくもちゃんと動く。鷲尾のもとへちゃんと向かおうとしている。
「おう」
本来なら俺が希望を励まさないといけないのに、俺はなにも言えなかった。それどころか悩んでいる伊藤のことを気にかけてそれを心配して理由を聞こうとして鷲尾のもとへと行くのを遅らせようとする良い言い訳にしようとした自分が悔しかった。
そんな気持ちをおくびにも出さず、希望の言葉にうなずいた。
「突然の呼び出しだったが来てくれたか。感謝する。」
裏門へ行くと鷲尾は真っ直ぐ立ってこちらに声をかけてきた。目の前の鷲尾は昨日の動揺と不安定さがなくなって、背筋を伸ばして垂れ目なのに気が強く威圧的に感じるいつも通りの鷲尾だった。
俺がいることは予想済みだったようで、特に驚いた様子はなかった。昨日のことがあって身構えていたが変になる前の鷲尾であることに安心したのだ。
希望が俺とは全く違うことを考えていたなんて気が付かなかった。
――――
今日初めて見た鷲尾くんの顔は昨日の怒った顔でも苦しそうな顔でも悲しそうな顔でもなくて、テスト返却前のようにいつでも自分に自信のある堂々としたものだった。
そんな鷲尾くんを俺は不信に思ってしまう。昨日あんなに俺に激高して掴みかかってきたのが嘘のように、今鷲尾くんは静かで穏やかだったから。たぶん、テスト返却前までよりももっとずっと穏やかだ。だっていつもの鷲尾くんなら放課後になって随分経ってやってきた俺らに『なにをちんたらしている放課後になってもう数十分経つ』とか『貴様らと違い僕は時間が少ないというのに』とでも言いだしても不思議じゃない。
それに、呼び出していない誠一郎がやってくることに何のリアクションもないのもおかしい。いつも通りの表情なのにいつも通りではない態度の鷲尾くんに、違和感がぬぐえない。
「……なにか僕の顔についているのか?」
「え、いやっ……」
違和感だらけでつい鷲尾くんを凝視してしまった俺に身動ぎしながら問われてしまった。無意識にじっと見てしまったことに気が付いて慌てる。
「で?いきなりこいつを呼び出してどうした?まだ言い足りねえことあるのか?」
慌てる俺をフォローしているのか、いつまでも呼びだした理由を言わない鷲尾くんにしびれを切らしたのか、昨日鷲尾くんを責めたときと同じ口調で誠一郎がそう聞く。
鷲尾くんから朝俺の席を通りがかりに折り畳まれた紙を渡されて、放課後裏門に来てほしいって書かれていたのを昼誠一郎に俺は確かに相談した。
俺だけでは、怖いから。誠一郎も来てほしいって言う気持ちを、相談というか……察してほしいと願いながら相談という体で手紙のことを言った。
詰られてしまうのも怖いけれど、謝られても俺にとって謝罪は……怖いものだから。せめて一番信頼できる誠一郎に一緒にいてほしかった。それを察してくれた誠一郎が『俺も行く』と言ってくれたのはとてもありがたくてホッとした。本当のことで嘘ではない。
けれどその荒い言い方ではまるで挑発しているかのようで、鷲尾くんにそう言ったらその言い方に腹が立って話したいことを話せなくなってしまうじゃないか。
一緒についていってほしいと願ってそれを叶えてくれたのに、鷲尾くんからの話が怖いくせにそんなことを思って誠一郎を叱ろうとした。そもそも、俺が鷲尾くんの顔を凝視して話し出せなかったのに。
でも、俺の心配はいらなかったみたい。
「……いや、すまない。さすがに緊張しているところで凝視されたものだから、なかなか言い出しにくくてな」
誠一郎の言い方を気にするでもなく言われたことを受け止めて、謝罪までした。それに驚いてしまったのは俺だけじゃなくて誠一郎もだった。
「これ以上叶野を傷つけるつもりはない。……ただ、昨日のことを……謝罪したいんだ」
「……ずいぶんと、昨日と違うね。鷲尾くん」
つい棘のある口調になってしまったのは自分でも分かった。
あまりに昨日までと違いすぎる鷲尾くんに混乱して、そしてどこか醜い感情があった。俺の口調に誠一郎は驚いていたけれど今自分の目に映るのは鷲尾くんだけ。
今更なんだよ、そんな怒りを覚えたのもあったけど、それよりも頭を占めていたのはただ疑問だった。
どうしてそんなに、変わってしまったの?今までに出したことのない冷たい口調に自分でも驚くほどだ。でも鷲尾くんは俺に対して驚いてはいない。ただ苦しそうな顔をしてた。
「そうだな。たぶん、一ノ瀬に教えてもらったから」
「……鷲尾くんって一ノ瀬くんのこと気に入ってるよね」
一ノ瀬くんが神丘学園にいたと聞いて鷲尾くんは即反応した。そしてこちらに関わり合いになることが増えた。その前にも俺は鷲尾くんに声をかけていた。なのに、鷲尾くんから俺のところに来たことが無いことに今思い至って……どうしてか、苛立ちを覚える。その苛立ちのままに口が動いた。
「謝罪したいって言うのも一ノ瀬くんに言われてのことなんだよね?」
「……そうだ、一ノ瀬がそう教えてくれた」
「ふーん。鷲尾くん自身が考えてのことじゃないんだ」
「……」
なんでこんなに冷めた言葉が出てしまうのか、自分でも分からない。ただ、どうしてか……鷲尾くんの口から一ノ瀬くんの名前聞くことや影響を受けているのを分かってしまうのが、嫌な気持ちになる。
痛いところを俺は突いてしまったみたいで、鷲尾くんは口を噤んだ。なんでこんなこと言っちゃうんだろうおれ。誰にも嫌われたくないのに。誰にももう、嫌いだったなんて言われたくないのに。どうしてこんな言葉出てしまうんだろう。
「……ぼくは、今まで知らなかったんだ」
自己嫌悪している俺に、鷲尾くんはポツリとつぶやいた。顔を上げれば鷲尾くんは俺を見下ろしていた。真剣な眼で顔で。
「誰かを傷つけてしまったときに誰かを泣きそうな顔をさせてしまったときに、僕はなにをするべきなのか。僕は今まで、きっと知らぬうちに色んな人間を傷つけてきたんだとおもう。それに気付かないでいた。不要なものと切り捨てた。友なんていらない。独りでいい。勉強さえ出来ていればいいんだと、そう教えられてきた」
懺悔するかのように言葉を紡いでいく。いつも堂々としていて通る声をしているのに、今随分弱々しい。
「……他の誰でもない、僕のせいなんだと分かっている。
独りで良いと選択したのは僕。勉強だけ出来ればいいと決めたのも僕。そして、お前……叶野を傷付けたのは誰でもない僕だ。傷つけたのはわかった。だけど、今まで知らなかったことを僕にはどうしていいのか分からなかった。『謝罪する』という選択肢すら思い浮かばなかったんだ。……僕が謝罪して、良くなったことなんてなかったから。結果を出さねば不要なものだと切り捨てられたから……」
そこまで言って、鷲尾くんは一回区切る。鷲尾くんを見れば唇を血がにじむほどに噛みしめていて、苦しそうで悲しんでいるようにも憤っているようにも、見えた。
俺にとって謝罪されることが怖い思い出であるのと同じように、鷲尾くんにとって謝罪することに嫌なことがあったんだと分かってしまった。
鷲尾くんにとって謝罪は軽くできるものではない、そう分かってしまったんだ。
「けれど、一ノ瀬が教えてくれた。謝罪するのは誠意を見せることであって許しを乞うものではないって、許されなくてもそれでも謝るべきだって。そう、教えてくれたんだ。確かに叶野の言う通り僕自身が考えた答えではなくて教えてもらったものだ。だけど、謝り方は全部自分で考えたんだ。それで、分かった気にはなっていけないんだろうが……」
また、区切る。次は唇を噛みしめている訳ではなくて、浅く深呼吸している。そして意を決したように俺の顔を真っ直ぐに見る。意思の強さが鈍く輝く黒真珠のような瞳に心臓がドキリと脈打つ。
「叶野……昨日、酷いことを言って傷つけて悲しませてしまって、すまなかった。湖越も大事な友人を傷つけて、すまなかった」
短くも心底昨日のことを後悔して苦しそうな声で謝罪された。
――ああ、どうしよう。……俺は……許したくない。でもそんな意志を俺は求められていない、求められているのは『許す』『いいよ』の言葉だけ。
謝られたからには、許さないと、気にしてないって言わないと。そう言うのをのぞまれてきた。今までも、きっとこれから。そうしないと、空気を壊してしまう。俺がしてはいけないことをすることになってしまう。
鷲尾くんは俺に許されることを望んでいる。謝罪することに嫌な思い出があるにも関わらず、俺に謝りたくて謝罪してくれる。俺はそれにかえさないといけない。
鷲尾くんの想いに比べれば、俺なんて大したことなんてない。俺が我慢すれば、良いんだ。だいじょうぶ、おれは俺を騙せる。押し殺せ。空気をよまないと。また嫌われる。
――――
「……いい、よ。許すよ。俺気にしてない、からさ」
目の前にいる叶野がそう言った。不自然なまでに震えた声で。
謝って許してもらえなくとも、謝るべきだと昨日一ノ瀬は僕に教えてくれた。そう教えられたけれど、やはり謝って許してもらえると言うのならそれに越したことはないとおもう。僕にとって謝罪なんて結果を出さねば結局意味を成さないものと教えられてきて、思い込まされてきたものだったから、父のように言われるのは悲しくて辛いから……やはり僕は弱い、な。到底一ノ瀬のようになれない。
一ノ瀬に謝ったときには『いいよ』と言ってくれた、許してくれた。伊藤は『いつも通りにしてくれ』と言われた、許してくれたのかは正直よく分からないが謝罪を僕に求めていないというのは分かって僕は言われた通りいつも通りに接することにした。もちろん伊藤を傷つけたという事実は忘れるつもりはないが、表面上は、一先ずそうした。
一ノ瀬は僕に笑みを浮かべながら、伊藤は僕に怪訝そうな顔をしながら。それぞれ僕を見てそう答えをくれた。本音で、こたえてくれた。
「叶野、僕が言うべきなのではないだろうが……」
僕はただ強気で自分に自信があるように見せているだけで別に強い人間ではないのだと一ノ瀬を前にしてそう知ってしまった。僕はあんなに強くて美しい人間にはなれない。
強くない僕は出来ることなら謝ったのなら許してほしい。僕なりに真剣に考えたのだからそこを評価して、それに返してほしいと思ってた。だが、今叶野は僕の望む答えを返してくれているのに、僕は嬉しくない。
顔を上げると震えて不安定な声と同じぐらい、昨日と傷つけてしまったのと同じぐらい青ざめて泣き出しそうなくせに笑みをつくる叶野を見ても、なにもうれしくない。
気にしていないと言ってくれたのに安堵もできない。
だって、どう見たって叶野は……『本当』では無いことを無理矢理形にしているのだから。
「僕のことを、許せないと思ってるだろう」
僕が指摘するべきではないことは、さすがに僕でも分かる。僕は加害者で今謝罪をした。叶野は被害者で今謝罪を受けた。それに『いいよ』と叶野は言ってくれた。
叶野が(被害者が)僕を(加害者を)許してくれる言葉をくれたのに、僕は叶野の言葉を否定した。『許す』とまで言ってくれたのにそれに否定の言葉を投げかけられるなんて想像もしていなかったのか叶野は僕の顔を見て信じられない顔をされる。
すぐまたあの冷たく壁を作った……否、自分が傷つかないように自分が傷つけないようにするための防壁のような笑顔を浮かべた。
「鷲尾くんは、俺に許されたいんだよね?」
「……できることなら、な」
さっきから叶野は僕の心の柔いところを突っつくように話す。周りのことをよく見ている奴だから相手の弱いところを突くことなんて叶野ならきっと意識しなくてもできるだろう。
僕は叶野の言葉を否定できない。許されることなら許されたいと思ってしまうんだ。
「ならいいじゃん。俺が許すって言ってるんだから俺の意志でそう言っているのだから、いいじゃんか。わざわざ自分の傷深めることないじゃん。いいよ、俺は許すからさ」
軽薄に笑い笑いながら僕に投げやりにそう言う叶野。今度は声は震えていなかったけど、本心ではない酷く薄い言葉だった。謝罪だけさせて貰えるなら僕自身は許されなくたっていい、なんて言ったらうそになる。できることなら許されたい。
――僕は嘘を言えない。言うつもりもない。お世辞も空気を読むことも、僕はうまく出来ない。
きっとここはこのまま叶野の言葉を受け入れるべきなんだろう、きっとその方が楽だ。僕にとっては。だが僕は言う。僕は空気を読めないから思ったままを伝える。また傷つけてしまう結果となってしまっても、僕は。嘘をつけないのだから。
「それは叶野の本音じゃないだろう。」
叶野に、本音でぶつかられたい。謝って『許す』と笑ってくれたのなら僕にとって一番喜ばしい結果だ。謝っても『許さない』と憎まれるのなら僕にとってとても苦しい結果だ。
後者の結果となったなら、苦しくて辛い。昨日のことを僕は悔やみ続けるだろう。だが、それは仕方のないことだ。
叶野が『自分の意志』でどちらかを選択したなら、僕はどちらの結果でも受け入れるべきだ。許されるのならもう二度と傷つけないよう心に刻み、許されないのならせめて償えるなにかを考えて行こうそう決めていた『叶野自身の意志』を無視して謝られたからって作った笑顔で言葉だけで『いいよ、許す』と言われても僕は納得できない。どっちでもいい、許すでも許さないでも嫌いでも憎いでも、いい。本音じゃないより断然良い。
「っえ、ほんとうだよ?ほんとうのこと……」
「ぼくは……叶野の本当の意志を聞きたい。叶野自身の意見を聞きたい。叶野の『本当』を教えてくれ」
泣き出しそうな顔をする叶野に胸が痛んだ。ああ、そんな顔をさせたい訳ではないのに。それでも僕は叶野の言葉を遮った。僕がこんなこと言える立場ではないのはわかる。僕が誰かに言われたら貴様何様だと言ってしまうだろう。それでも、もしこれで今度こそ叶野に『許さない』と叫ばれて殴られても僕に悔いはない。このことで叶野の本当を引き出せるならそれはそれでいいとも思えた。
目の前の叶野は荒く肩で息をしている。血走った眼で僕を見ている……というよりも、睨んでいると言った方が適切だろうか。
「俺に、許しを求めていないの?」
「……許してくれるのなら許してほしい。だが無理してそう言われるよりも……叶野の本音をぶつけてほしい」
心から思って許すと言うのと、無理して許すと言うのは違う。一ノ瀬に許すと言われたときには安堵しか感じなかったのに、叶野の許すという言葉には違和感を覚えている。
どっちも同じことを言っているのにかかわらず僕の感じるものは違っていて、同じことを言う2人の違いは何だと考えれば直ぐ分かった。
一ノ瀬は心から思っての言葉で、叶野は本音じゃないのだと。
「許しを求めていないと言えば嘘になる。でも、もう僕は叶野を傷つけたくない。無理して笑ってほしくない。悲しんでほしくない。僕は叶野の本音を聞きたいんだ。許さないでもいい、嫌いでもいい……僕のことなんて、無視してもいい。叶野に僕はそれだけのことをしたんだと言う自覚は今はあるから。叶野の思ったままを言ってほしいし、やってほしい。周りや……僕のことも何もかもを気にせずに叶野自身の意志を聞かせてほしい。僕はそれだけのことをしたんだ」
自分の頭のくせに上手く考えが纏まらない。支離滅裂であることもわかる、それでも少しでも叶野に伝わるよう願いながら思ったままを話した。これ以上傷つけたくない、悲しませたくない。
叶野は優しいから、僕のことを一ノ瀬が許して伊藤にも受け入れられたと教えられていたとしたら叶野も周りや僕に気遣って許すと言ってしまっても不思議ではないことに今気づいてこれなら先に叶野に謝るべきだったかと少し後悔する。
だが時間は戻らない。後悔先に立たず、自分に落胆する。
僕が言葉を発すれば発するほど、叶野の表情は歪む。
今にも怒りだしそうにも泣き出しそうにも見える。僕ののぞむものよりずっと険しい顔だった。でももう無理した笑顔は浮かべていない。あの壁を張った笑顔じゃない。
そんな表情をさせるつもりはなかったのに、と悔やむと同時に今のこの表情が本当の叶野なんだと思えば、なんてことないとも思えた。
「っ俺は!一ノ瀬くんや鷲尾くんのようにそんなに強くなれないっ」
「……?」
叫んだ叶野の声は悲痛だった。悲しんで苦しんで、痛みを知っている人間の声。だが、僕は叶野の言ったことを理解できなかった。
(本音を話すのに、強さなんているのだろうか)
そう思ってしまった。
前の僕ならば何も考えずそんな言葉を発していたが、僕以外の人間にも過去があって今があって意志があるんだと昨日漸く知ったからそう無暗に言葉を発さない。
……少しは前よりましになっただろうか。僕にとって隠すよりも楽なことでも、叶野にとってそうとは限らないんだとそう知った。
「本音なんてわかんない、わかんないよ!俺にも、もうっ!」
いつも笑っている叶野がこんなに取り乱してしまうぐらいのことを言ってしまったのだとは理解した。
本音の方が楽だろう、そんなに僕に気を遣ったりしないでほしいとそんな意味を含めていたのだが、叶野にとって違うようだ。僕の意志は矛盾している。叶野をこれ以上傷つけるつもりも悲しませるつもりもなかったのに、作った笑顔を引き剥がせたことに安堵を覚えてしまった。
取り乱す叶野に僕よりも後ろにいる叶野の親友である湖越のほうが驚いているのが見える。長い付き合いである湖越も見たことのない姿、だったのか?分からない。
ついには蹲ってしまう叶野に漸く湖越は動き出した。
「希望、落ち着けっ」
荒く呼吸を繰り返す叶野の背中を労わるように擦る。湖越は僕の方を見た。まるでもう叶野を傷つけるのはやめろ……土足でなかに入り込むなと言われている気がする。ついさっきまで驚いたように棒立状態であった湖越にそんな視線を受けるのは正直少し苛立ちを覚えるが、これ以上は叶野も冷静ではなく叶野の中の柔らかい部分に刃物を突き立ててしまったかの如く痛いところをついてしまったのはわざとではないにしても罪悪感を覚えていた。
まさか僕にとって普通のことを言っただけのことが叶野がここまで動揺すると思わなかったのだ。なにがあったのか、気になるがさすがにこの場で聞こうとは思えなかった。今日のところはここまでにしておくべきだと判断する。
どうやら僕の言葉は、叶野を意識的でも無意識でもどこまでも傷つけてしまうから……しばらく叶野たちと離れるべきなのかもしれない。しばらくがいつになるのか少し怖いが、仕方がない。でも、もう一つだけ必ず言いたいことがあって口を開く。刺激を与えないように、自分が出来る穏やかな口調を意識する。
「叶野、本当にすまなかった。傷つけるつもりはなかったが……いや、言い訳になるか。すまなかった。ただ……叶野が本気を出さずテストを受けたことがとても僕にとって衝撃的なことだったんだ」
「……真面目な鷲尾くんだから、不真面目な俺に怒っただけでしょ?」
僕のことを見ず吐き捨てるように告げる叶野。その背中は小さくて頼りない。胸が苦しくなったが僕の話を聞いてくれることは分かった。
「……それもあるかもしれない。だが、僕は何かとタイミングが悪くてな。すべてを犠牲にしてでも努力して勉強をしてもその結果を出すときに結果を出すためのスタート地点にも立つこともできなかった。それで、苦しい思いをした。僕が謝罪しても受け入れてくれなかった、結果を出さないのなら何も意味がない、とそう言われた。
だから今度こそ期待に応えるべく努力をしないといけない、そう思った。……体調に異変がない健康的な状態に本気を出さずテストに臨んだ叶野に信じられない気持ちになった」
「……」
「叶野。お前もきっとなにかあったんだろう。そうやって取り乱してしまうほどのことが、あったんだろう。そこを引っ掻きまわして傷つけたことには謝罪する。すまない。でも……」
言うか言わないか迷う、いや、言うべきではないと言うのはわかるんだ。
叶野をさらに傷つけてしまうことになってしまうかもしれない。分からないんだ。僕は叶野を傷つけてばかりだから。今日だって謝罪するためだけに来たのに、本音で言ってほしいとか偉そうに言った。でも、しおらしい僕なんて僕らしくないって伊藤が気味悪がったぐらいいつも通りの僕でいてくれることを望んでくれた。叶野が望んでいるか分からないけれど……それでも、僕は言いたい。
「その頭の良さを活用しないのは、酷く勿体ないことだと僕は思うんだ」
叶野の偏差値を僕は知らないし、中学どこに行っていたのかも塾に行っていたのかも知らない。一ノ瀬のように生まれ持ったものなのかも分からない。だが、少なくとも普通を上回るほどの頭脳があることを知っている。
真剣に勉強に取り組んでいるのかいないかも知らないけど、すぐに僕の間違った答えがわかるぐらい知識があるのを知ってる。その頭脳をフルに活用したらとても良い点数を採ることが叶野は出来るのかもしれない。本来ならば僕にもとりたくてもとれない点数をすぐ採れるかもしれない。それを使わずに廃れさせるなんて、勿体ない。嫌味ではなく本当に……純粋にそう思う。
僕の言葉に叶野も湖越も反応を示さないけれど、叶野がビクッと肩を震わせていたから僕の声が聞こえていないわけではないようだ。もう僕はこの場にいるべきではないことを察する。
「……僕が勝手にそう思っていることだ。叶野を責めている訳じゃない。加害者が偉そうに長々と時間を貰ってしまいすまなかった。時間をとってくれて帰り道じゃないのに裏門まで来てくれてありがとう。僕はもう行く。気を付けて帰ってくれ。……また、明日」
また逃げるようになってしまうが、僕がこの場にいることを望まれていないのを知りながら居座ることができなくて叶野たちに背を向けて歩き出す。僕の言葉にやっぱり反応はなかったが……仕方ないことだ。一ノ瀬や伊藤のときのようにすっきりすることは出来なかった。
結局僕はまた叶野を傷つけてしまう結果となってしまった。何一つ解決しなかった。……本音じゃないのに、許すと言われる想像は全くできなかった。一ノ瀬のときのようにはいかないだろうと思っていた。
いや、伊藤に謝罪したときも最悪殴られることを想定していたら、予想外のことを言われて驚いたものだが……あれも伊藤の『本音』で『本心』からの言葉だから受け入れることができた。『自分の本心』じゃなく『自分が望まれる答え』を告げられたときにはどう対処してよかったのだろうか、どう答えるのが正解だったのだろうか……。
あのまま許すという言葉を僕は受け入れるべきだったか?いいや、それだと叶野は傷ついたままだ。そもそも僕は昨日悪いと思ったのなら許される許されない関係なくとにかく謝るべきだと一ノ瀬から教わったばかりだ。
一ノ瀬にこのことを相談したくなったが、叶野の反応を見る限りこれは叶野のなかのすごい奥のほうに隠れていた秘密のことだと思うと簡単に言えるものでない。
――今はこのままにしておくべきだ。
今は彼と距離を空けた方が良い。……それが酷く苦しく思うのは、僕は叶野に『友情』を抱いているからだろうか。いつのまにか。そんな気持ちが育っていた。今それに気付いても、もう過去には戻れない。それなら……後悔しながら遠くで叶野を心配しよう。そして、いつか彼に償える機会があれば僕は僕なりに償おう。許してもらえなくとも、僕はそうしたい。
ぐっと胸を抑えながら震える叶野のことを考えて胸が締め付けられるように痛くなった。
本来呼ばれたのは、希望だけだったが……昼に希望が『朝鷲尾くんから手紙貰ってさ』と相談されてその手紙を見せてもらうと『話したいことがある。放課後裏門に来てほしい』と達筆で大きな文字でそう書かれていた。
俺は行くべきではないだろうと思った。俺が呼ばれた訳ではない。希望一人で来いとは書いていなかったが誰かと一緒に来いとも書かれていない、普通に考えれば手紙を受け取った本人だけがそこに行くべきだろう。……昨日のことを許せないと思って口も利きたくないと言うのなら、『行かない』という選択肢だってできる。
昨日鷲尾に言われたことを考えれば、希望にとって深く傷つくことを言った鷲尾のことを許さなくてもいいんだ。でも、希望は……謝られたのなら許さないといけない。周りにそうのぞまれているから、自分の意志と関係なく謝れたのなら許さないといけないそんな固定概念にとらわれている。
いくら理不尽な目にあっても、それでも謝られたなら許さない駄目だとそう押し付けられてきたから。
希望はなにも言わない。どんなに嫌な気持ちになっても恐怖から『大丈夫』と言ってしまう。泣きたくても笑って、怒りたくても笑って。前は俺には言えていたことも、今では言わなくなってきた。俺に頼りっきりは良くないと思っているのか……もう純粋に希望を心配していた俺じゃなくなってしまったからなのかは、分からない。
それでも、希望は俺に鷲尾から手紙で呼び出されたことを言ってくれた。自分を犠牲にしようとして心配させないように強がろうとする希望が俺にそうサインを送ってくれた。
昨日傷ついたのに俺にも何も言わず作った笑顔のままの希望に俺は悲しい気持ちになりながらも何も言うことができない。
せめて、理不尽なこと言われても笑顔で遠ざけることは出来ても怒りを爆発させて掴みかかることができない希望の代わりに俺がそうしよう。そうすることが俺が唯一誰かのために出来ることだから。
希望と外で昼食べて授業が始まるギリギリで戻ってくると、何かあったのはクラスの雰囲気を見て察したが、鷲尾も一ノ瀬も伊藤も変わった様子がなかったから首を傾げながらも深くは聞かずそのまま放課後を待った。
小室の姿が無かったことに気が付いたのは出席で名前を呼ばれているときだったが、特に関わり合いになったことがないヤツでよくサボっていたから特に気にするべきではないと判断した。
授業も帰りのHRも終わり、鷲尾が教室を出たのを見てすぐ俺と希望も出たのだが……下駄箱のところで立ち止まってしまう。希望に合わせて俺もその足は止まる。
何を言われるか分からない、もしかしたら昨日よりも酷いことを言われるかもしれないし、謝られたら謝られたで苦しい思いをするのが目に見えているところへこれから行くと分かっているから、足取りが重くなったんだろうと理解した。
俯いてしまった希望に「俺だけ行くか?」と聞いてみるが少し間が合った後首を横に振って拒否される。どんな気持ちで拒否したのか顔が見えないから分からない
苦しくとももう逃げたくないという気持ちなんだろうと察するけれど足が動かなくなるぐらい怖いと思っているはずだ。
こいつがなにを考えているのかわかる、小学校からいっしょにいる親友だから。分かるんだ、でも分かっていてもどう俺は声をかけていいのかわからなかった。希望の赤茶色の髪から徐々に視線が床のほうへ移っていく。
希望が大事だ。それは変わらない思いだ。今度こそ、変わらないはずのおもい。だけど、それは本当の意味でなのか俺には分からない。分かるなら、希望を励ます言葉はすらすら出てくるんだろうか。気分も徐々に降下していく。
「あ”ー……っくそ!!」
「!」
唐突に聞こえてきた声は、俺でも希望でもないモノだった。その苛立ちの声と同じように荒々しい何かを殴りつけるような音が聞こえてくる。声と音のするほうを希望と共に見てみると、そこには壁を蹴りつけていたようで片足を壁にめり込ませている伊藤がいた。
自分を落ち着かせるためなのか興奮からきたのか荒く呼吸を繰り返していた。最近穏やかな面しか見て来なかったから記憶から薄くなっていたが、そう言えば伊藤は喧嘩を売った先輩らを無感情に殴り続け学校中で恐れられていたヤツだった。
こんなに荒々しいところを実際見たのは、初めてだった。どんなときもだるそうで無表情だった。最近では穏やかに笑ったりしている姿に見慣れていた……ああ、だけど今日朝は鷲尾と言い合っていたか。それでもここまで苛立っていなかったけれど。
少しだけビビりながら伊藤のとなりを通り過ぎる奴らを横目に話しかける。
「おい、どうした?一ノ瀬となんかあったのか?」
「……」
そう聞いてみると、片足をもとに戻しながら(壁が若干凹んだような気がする)無言で頷いた。
今までも伊藤に何か変化あるとすれば一ノ瀬関連だったから、そう聞いてみると案の定だった。最初怒っているのかと思ったがどうやら凹んでいるようだ。
「どうしたの?なにか言われたの?」
あんなに伊藤に対して絶対的な信頼を置いている一ノ瀬が伊藤を傷つけるようなことを言うなんて、とさっきまで無言でいた希望が気になって聞くが伊藤は目を伏せながら首を横に振って溜息を吐く。
「……透はなにも悪くねえよ。俺がもっと……」
希望の問いに答えるのかと思いきやこれ以上言葉を続けるつもりはないようで、あー……と言いながら自分の髪の毛を両手でかき交ぜてでっかい溜息を吐いた。悔いているようにも見える。
「話聞くか?」
「いや、いい」
このまま置いて行くのも、と思い少しぐらいなら話を聞こうかと思ったが伊藤はまた首を振った。
「…心配してくれてありがとうな。このまま透を待つわ。ちゃんと話し合うから気にしなくていい」
そう言って力なく笑いかける伊藤に少し罪悪感を覚えた。伊藤の話を聞けば、それなりの理由になって鷲尾のところに行かなくて済むなんて考えていたことに今気づいたんだ。伊藤が悩んでいることを言い訳にしようなんてことを、そんなことを無意識に思っていた自分に嫌悪感を覚える。伊藤はそのまま自分が蹴っていた壁に寄りかかる。
「そう、か。また明日な」
「おー。引き止めちまって悪かったな。気を付けて帰れよ」
居心地が酷く悪くなって、いつも通りにそのまま伊藤と別れようとする。希望も伊藤に手を振った。逃げるようにこの場から去ろうとそんなことばかり考えていた。
「あ、叶野。透はお前のこと心配してるし、俺もしてるからな。あんま抱え込むなよ」
「…………っあ、りがとう」
「ん。じゃまた明日」
思い出したように希望にそう声をかけた。声をかけられた希望は驚きながらも労わってくれる伊藤に礼した。
ひらひらとこちらに雑に手を振る伊藤と今度こそ別れた。
「……よし、行こうか」
希望が聞いていなかった朝の一ノ瀬の言葉を昼に伝えた。
悲しそうな顔をしながらもどこか嬉しそうにみえた。今伊藤からかけてもらった言葉も、今希望は嬉しそうだ。
鷲尾のもとへと向かう、勇気をもらったようだった。顔は強張っているし笑顔もぎこちなくて弱弱しいが、その足は重々しくもちゃんと動く。鷲尾のもとへちゃんと向かおうとしている。
「おう」
本来なら俺が希望を励まさないといけないのに、俺はなにも言えなかった。それどころか悩んでいる伊藤のことを気にかけてそれを心配して理由を聞こうとして鷲尾のもとへと行くのを遅らせようとする良い言い訳にしようとした自分が悔しかった。
そんな気持ちをおくびにも出さず、希望の言葉にうなずいた。
「突然の呼び出しだったが来てくれたか。感謝する。」
裏門へ行くと鷲尾は真っ直ぐ立ってこちらに声をかけてきた。目の前の鷲尾は昨日の動揺と不安定さがなくなって、背筋を伸ばして垂れ目なのに気が強く威圧的に感じるいつも通りの鷲尾だった。
俺がいることは予想済みだったようで、特に驚いた様子はなかった。昨日のことがあって身構えていたが変になる前の鷲尾であることに安心したのだ。
希望が俺とは全く違うことを考えていたなんて気が付かなかった。
――――
今日初めて見た鷲尾くんの顔は昨日の怒った顔でも苦しそうな顔でも悲しそうな顔でもなくて、テスト返却前のようにいつでも自分に自信のある堂々としたものだった。
そんな鷲尾くんを俺は不信に思ってしまう。昨日あんなに俺に激高して掴みかかってきたのが嘘のように、今鷲尾くんは静かで穏やかだったから。たぶん、テスト返却前までよりももっとずっと穏やかだ。だっていつもの鷲尾くんなら放課後になって随分経ってやってきた俺らに『なにをちんたらしている放課後になってもう数十分経つ』とか『貴様らと違い僕は時間が少ないというのに』とでも言いだしても不思議じゃない。
それに、呼び出していない誠一郎がやってくることに何のリアクションもないのもおかしい。いつも通りの表情なのにいつも通りではない態度の鷲尾くんに、違和感がぬぐえない。
「……なにか僕の顔についているのか?」
「え、いやっ……」
違和感だらけでつい鷲尾くんを凝視してしまった俺に身動ぎしながら問われてしまった。無意識にじっと見てしまったことに気が付いて慌てる。
「で?いきなりこいつを呼び出してどうした?まだ言い足りねえことあるのか?」
慌てる俺をフォローしているのか、いつまでも呼びだした理由を言わない鷲尾くんにしびれを切らしたのか、昨日鷲尾くんを責めたときと同じ口調で誠一郎がそう聞く。
鷲尾くんから朝俺の席を通りがかりに折り畳まれた紙を渡されて、放課後裏門に来てほしいって書かれていたのを昼誠一郎に俺は確かに相談した。
俺だけでは、怖いから。誠一郎も来てほしいって言う気持ちを、相談というか……察してほしいと願いながら相談という体で手紙のことを言った。
詰られてしまうのも怖いけれど、謝られても俺にとって謝罪は……怖いものだから。せめて一番信頼できる誠一郎に一緒にいてほしかった。それを察してくれた誠一郎が『俺も行く』と言ってくれたのはとてもありがたくてホッとした。本当のことで嘘ではない。
けれどその荒い言い方ではまるで挑発しているかのようで、鷲尾くんにそう言ったらその言い方に腹が立って話したいことを話せなくなってしまうじゃないか。
一緒についていってほしいと願ってそれを叶えてくれたのに、鷲尾くんからの話が怖いくせにそんなことを思って誠一郎を叱ろうとした。そもそも、俺が鷲尾くんの顔を凝視して話し出せなかったのに。
でも、俺の心配はいらなかったみたい。
「……いや、すまない。さすがに緊張しているところで凝視されたものだから、なかなか言い出しにくくてな」
誠一郎の言い方を気にするでもなく言われたことを受け止めて、謝罪までした。それに驚いてしまったのは俺だけじゃなくて誠一郎もだった。
「これ以上叶野を傷つけるつもりはない。……ただ、昨日のことを……謝罪したいんだ」
「……ずいぶんと、昨日と違うね。鷲尾くん」
つい棘のある口調になってしまったのは自分でも分かった。
あまりに昨日までと違いすぎる鷲尾くんに混乱して、そしてどこか醜い感情があった。俺の口調に誠一郎は驚いていたけれど今自分の目に映るのは鷲尾くんだけ。
今更なんだよ、そんな怒りを覚えたのもあったけど、それよりも頭を占めていたのはただ疑問だった。
どうしてそんなに、変わってしまったの?今までに出したことのない冷たい口調に自分でも驚くほどだ。でも鷲尾くんは俺に対して驚いてはいない。ただ苦しそうな顔をしてた。
「そうだな。たぶん、一ノ瀬に教えてもらったから」
「……鷲尾くんって一ノ瀬くんのこと気に入ってるよね」
一ノ瀬くんが神丘学園にいたと聞いて鷲尾くんは即反応した。そしてこちらに関わり合いになることが増えた。その前にも俺は鷲尾くんに声をかけていた。なのに、鷲尾くんから俺のところに来たことが無いことに今思い至って……どうしてか、苛立ちを覚える。その苛立ちのままに口が動いた。
「謝罪したいって言うのも一ノ瀬くんに言われてのことなんだよね?」
「……そうだ、一ノ瀬がそう教えてくれた」
「ふーん。鷲尾くん自身が考えてのことじゃないんだ」
「……」
なんでこんなに冷めた言葉が出てしまうのか、自分でも分からない。ただ、どうしてか……鷲尾くんの口から一ノ瀬くんの名前聞くことや影響を受けているのを分かってしまうのが、嫌な気持ちになる。
痛いところを俺は突いてしまったみたいで、鷲尾くんは口を噤んだ。なんでこんなこと言っちゃうんだろうおれ。誰にも嫌われたくないのに。誰にももう、嫌いだったなんて言われたくないのに。どうしてこんな言葉出てしまうんだろう。
「……ぼくは、今まで知らなかったんだ」
自己嫌悪している俺に、鷲尾くんはポツリとつぶやいた。顔を上げれば鷲尾くんは俺を見下ろしていた。真剣な眼で顔で。
「誰かを傷つけてしまったときに誰かを泣きそうな顔をさせてしまったときに、僕はなにをするべきなのか。僕は今まで、きっと知らぬうちに色んな人間を傷つけてきたんだとおもう。それに気付かないでいた。不要なものと切り捨てた。友なんていらない。独りでいい。勉強さえ出来ていればいいんだと、そう教えられてきた」
懺悔するかのように言葉を紡いでいく。いつも堂々としていて通る声をしているのに、今随分弱々しい。
「……他の誰でもない、僕のせいなんだと分かっている。
独りで良いと選択したのは僕。勉強だけ出来ればいいと決めたのも僕。そして、お前……叶野を傷付けたのは誰でもない僕だ。傷つけたのはわかった。だけど、今まで知らなかったことを僕にはどうしていいのか分からなかった。『謝罪する』という選択肢すら思い浮かばなかったんだ。……僕が謝罪して、良くなったことなんてなかったから。結果を出さねば不要なものだと切り捨てられたから……」
そこまで言って、鷲尾くんは一回区切る。鷲尾くんを見れば唇を血がにじむほどに噛みしめていて、苦しそうで悲しんでいるようにも憤っているようにも、見えた。
俺にとって謝罪されることが怖い思い出であるのと同じように、鷲尾くんにとって謝罪することに嫌なことがあったんだと分かってしまった。
鷲尾くんにとって謝罪は軽くできるものではない、そう分かってしまったんだ。
「けれど、一ノ瀬が教えてくれた。謝罪するのは誠意を見せることであって許しを乞うものではないって、許されなくてもそれでも謝るべきだって。そう、教えてくれたんだ。確かに叶野の言う通り僕自身が考えた答えではなくて教えてもらったものだ。だけど、謝り方は全部自分で考えたんだ。それで、分かった気にはなっていけないんだろうが……」
また、区切る。次は唇を噛みしめている訳ではなくて、浅く深呼吸している。そして意を決したように俺の顔を真っ直ぐに見る。意思の強さが鈍く輝く黒真珠のような瞳に心臓がドキリと脈打つ。
「叶野……昨日、酷いことを言って傷つけて悲しませてしまって、すまなかった。湖越も大事な友人を傷つけて、すまなかった」
短くも心底昨日のことを後悔して苦しそうな声で謝罪された。
――ああ、どうしよう。……俺は……許したくない。でもそんな意志を俺は求められていない、求められているのは『許す』『いいよ』の言葉だけ。
謝られたからには、許さないと、気にしてないって言わないと。そう言うのをのぞまれてきた。今までも、きっとこれから。そうしないと、空気を壊してしまう。俺がしてはいけないことをすることになってしまう。
鷲尾くんは俺に許されることを望んでいる。謝罪することに嫌な思い出があるにも関わらず、俺に謝りたくて謝罪してくれる。俺はそれにかえさないといけない。
鷲尾くんの想いに比べれば、俺なんて大したことなんてない。俺が我慢すれば、良いんだ。だいじょうぶ、おれは俺を騙せる。押し殺せ。空気をよまないと。また嫌われる。
――――
「……いい、よ。許すよ。俺気にしてない、からさ」
目の前にいる叶野がそう言った。不自然なまでに震えた声で。
謝って許してもらえなくとも、謝るべきだと昨日一ノ瀬は僕に教えてくれた。そう教えられたけれど、やはり謝って許してもらえると言うのならそれに越したことはないとおもう。僕にとって謝罪なんて結果を出さねば結局意味を成さないものと教えられてきて、思い込まされてきたものだったから、父のように言われるのは悲しくて辛いから……やはり僕は弱い、な。到底一ノ瀬のようになれない。
一ノ瀬に謝ったときには『いいよ』と言ってくれた、許してくれた。伊藤は『いつも通りにしてくれ』と言われた、許してくれたのかは正直よく分からないが謝罪を僕に求めていないというのは分かって僕は言われた通りいつも通りに接することにした。もちろん伊藤を傷つけたという事実は忘れるつもりはないが、表面上は、一先ずそうした。
一ノ瀬は僕に笑みを浮かべながら、伊藤は僕に怪訝そうな顔をしながら。それぞれ僕を見てそう答えをくれた。本音で、こたえてくれた。
「叶野、僕が言うべきなのではないだろうが……」
僕はただ強気で自分に自信があるように見せているだけで別に強い人間ではないのだと一ノ瀬を前にしてそう知ってしまった。僕はあんなに強くて美しい人間にはなれない。
強くない僕は出来ることなら謝ったのなら許してほしい。僕なりに真剣に考えたのだからそこを評価して、それに返してほしいと思ってた。だが、今叶野は僕の望む答えを返してくれているのに、僕は嬉しくない。
顔を上げると震えて不安定な声と同じぐらい、昨日と傷つけてしまったのと同じぐらい青ざめて泣き出しそうなくせに笑みをつくる叶野を見ても、なにもうれしくない。
気にしていないと言ってくれたのに安堵もできない。
だって、どう見たって叶野は……『本当』では無いことを無理矢理形にしているのだから。
「僕のことを、許せないと思ってるだろう」
僕が指摘するべきではないことは、さすがに僕でも分かる。僕は加害者で今謝罪をした。叶野は被害者で今謝罪を受けた。それに『いいよ』と叶野は言ってくれた。
叶野が(被害者が)僕を(加害者を)許してくれる言葉をくれたのに、僕は叶野の言葉を否定した。『許す』とまで言ってくれたのにそれに否定の言葉を投げかけられるなんて想像もしていなかったのか叶野は僕の顔を見て信じられない顔をされる。
すぐまたあの冷たく壁を作った……否、自分が傷つかないように自分が傷つけないようにするための防壁のような笑顔を浮かべた。
「鷲尾くんは、俺に許されたいんだよね?」
「……できることなら、な」
さっきから叶野は僕の心の柔いところを突っつくように話す。周りのことをよく見ている奴だから相手の弱いところを突くことなんて叶野ならきっと意識しなくてもできるだろう。
僕は叶野の言葉を否定できない。許されることなら許されたいと思ってしまうんだ。
「ならいいじゃん。俺が許すって言ってるんだから俺の意志でそう言っているのだから、いいじゃんか。わざわざ自分の傷深めることないじゃん。いいよ、俺は許すからさ」
軽薄に笑い笑いながら僕に投げやりにそう言う叶野。今度は声は震えていなかったけど、本心ではない酷く薄い言葉だった。謝罪だけさせて貰えるなら僕自身は許されなくたっていい、なんて言ったらうそになる。できることなら許されたい。
――僕は嘘を言えない。言うつもりもない。お世辞も空気を読むことも、僕はうまく出来ない。
きっとここはこのまま叶野の言葉を受け入れるべきなんだろう、きっとその方が楽だ。僕にとっては。だが僕は言う。僕は空気を読めないから思ったままを伝える。また傷つけてしまう結果となってしまっても、僕は。嘘をつけないのだから。
「それは叶野の本音じゃないだろう。」
叶野に、本音でぶつかられたい。謝って『許す』と笑ってくれたのなら僕にとって一番喜ばしい結果だ。謝っても『許さない』と憎まれるのなら僕にとってとても苦しい結果だ。
後者の結果となったなら、苦しくて辛い。昨日のことを僕は悔やみ続けるだろう。だが、それは仕方のないことだ。
叶野が『自分の意志』でどちらかを選択したなら、僕はどちらの結果でも受け入れるべきだ。許されるのならもう二度と傷つけないよう心に刻み、許されないのならせめて償えるなにかを考えて行こうそう決めていた『叶野自身の意志』を無視して謝られたからって作った笑顔で言葉だけで『いいよ、許す』と言われても僕は納得できない。どっちでもいい、許すでも許さないでも嫌いでも憎いでも、いい。本音じゃないより断然良い。
「っえ、ほんとうだよ?ほんとうのこと……」
「ぼくは……叶野の本当の意志を聞きたい。叶野自身の意見を聞きたい。叶野の『本当』を教えてくれ」
泣き出しそうな顔をする叶野に胸が痛んだ。ああ、そんな顔をさせたい訳ではないのに。それでも僕は叶野の言葉を遮った。僕がこんなこと言える立場ではないのはわかる。僕が誰かに言われたら貴様何様だと言ってしまうだろう。それでも、もしこれで今度こそ叶野に『許さない』と叫ばれて殴られても僕に悔いはない。このことで叶野の本当を引き出せるならそれはそれでいいとも思えた。
目の前の叶野は荒く肩で息をしている。血走った眼で僕を見ている……というよりも、睨んでいると言った方が適切だろうか。
「俺に、許しを求めていないの?」
「……許してくれるのなら許してほしい。だが無理してそう言われるよりも……叶野の本音をぶつけてほしい」
心から思って許すと言うのと、無理して許すと言うのは違う。一ノ瀬に許すと言われたときには安堵しか感じなかったのに、叶野の許すという言葉には違和感を覚えている。
どっちも同じことを言っているのにかかわらず僕の感じるものは違っていて、同じことを言う2人の違いは何だと考えれば直ぐ分かった。
一ノ瀬は心から思っての言葉で、叶野は本音じゃないのだと。
「許しを求めていないと言えば嘘になる。でも、もう僕は叶野を傷つけたくない。無理して笑ってほしくない。悲しんでほしくない。僕は叶野の本音を聞きたいんだ。許さないでもいい、嫌いでもいい……僕のことなんて、無視してもいい。叶野に僕はそれだけのことをしたんだと言う自覚は今はあるから。叶野の思ったままを言ってほしいし、やってほしい。周りや……僕のことも何もかもを気にせずに叶野自身の意志を聞かせてほしい。僕はそれだけのことをしたんだ」
自分の頭のくせに上手く考えが纏まらない。支離滅裂であることもわかる、それでも少しでも叶野に伝わるよう願いながら思ったままを話した。これ以上傷つけたくない、悲しませたくない。
叶野は優しいから、僕のことを一ノ瀬が許して伊藤にも受け入れられたと教えられていたとしたら叶野も周りや僕に気遣って許すと言ってしまっても不思議ではないことに今気づいてこれなら先に叶野に謝るべきだったかと少し後悔する。
だが時間は戻らない。後悔先に立たず、自分に落胆する。
僕が言葉を発すれば発するほど、叶野の表情は歪む。
今にも怒りだしそうにも泣き出しそうにも見える。僕ののぞむものよりずっと険しい顔だった。でももう無理した笑顔は浮かべていない。あの壁を張った笑顔じゃない。
そんな表情をさせるつもりはなかったのに、と悔やむと同時に今のこの表情が本当の叶野なんだと思えば、なんてことないとも思えた。
「っ俺は!一ノ瀬くんや鷲尾くんのようにそんなに強くなれないっ」
「……?」
叫んだ叶野の声は悲痛だった。悲しんで苦しんで、痛みを知っている人間の声。だが、僕は叶野の言ったことを理解できなかった。
(本音を話すのに、強さなんているのだろうか)
そう思ってしまった。
前の僕ならば何も考えずそんな言葉を発していたが、僕以外の人間にも過去があって今があって意志があるんだと昨日漸く知ったからそう無暗に言葉を発さない。
……少しは前よりましになっただろうか。僕にとって隠すよりも楽なことでも、叶野にとってそうとは限らないんだとそう知った。
「本音なんてわかんない、わかんないよ!俺にも、もうっ!」
いつも笑っている叶野がこんなに取り乱してしまうぐらいのことを言ってしまったのだとは理解した。
本音の方が楽だろう、そんなに僕に気を遣ったりしないでほしいとそんな意味を含めていたのだが、叶野にとって違うようだ。僕の意志は矛盾している。叶野をこれ以上傷つけるつもりも悲しませるつもりもなかったのに、作った笑顔を引き剥がせたことに安堵を覚えてしまった。
取り乱す叶野に僕よりも後ろにいる叶野の親友である湖越のほうが驚いているのが見える。長い付き合いである湖越も見たことのない姿、だったのか?分からない。
ついには蹲ってしまう叶野に漸く湖越は動き出した。
「希望、落ち着けっ」
荒く呼吸を繰り返す叶野の背中を労わるように擦る。湖越は僕の方を見た。まるでもう叶野を傷つけるのはやめろ……土足でなかに入り込むなと言われている気がする。ついさっきまで驚いたように棒立状態であった湖越にそんな視線を受けるのは正直少し苛立ちを覚えるが、これ以上は叶野も冷静ではなく叶野の中の柔らかい部分に刃物を突き立ててしまったかの如く痛いところをついてしまったのはわざとではないにしても罪悪感を覚えていた。
まさか僕にとって普通のことを言っただけのことが叶野がここまで動揺すると思わなかったのだ。なにがあったのか、気になるがさすがにこの場で聞こうとは思えなかった。今日のところはここまでにしておくべきだと判断する。
どうやら僕の言葉は、叶野を意識的でも無意識でもどこまでも傷つけてしまうから……しばらく叶野たちと離れるべきなのかもしれない。しばらくがいつになるのか少し怖いが、仕方がない。でも、もう一つだけ必ず言いたいことがあって口を開く。刺激を与えないように、自分が出来る穏やかな口調を意識する。
「叶野、本当にすまなかった。傷つけるつもりはなかったが……いや、言い訳になるか。すまなかった。ただ……叶野が本気を出さずテストを受けたことがとても僕にとって衝撃的なことだったんだ」
「……真面目な鷲尾くんだから、不真面目な俺に怒っただけでしょ?」
僕のことを見ず吐き捨てるように告げる叶野。その背中は小さくて頼りない。胸が苦しくなったが僕の話を聞いてくれることは分かった。
「……それもあるかもしれない。だが、僕は何かとタイミングが悪くてな。すべてを犠牲にしてでも努力して勉強をしてもその結果を出すときに結果を出すためのスタート地点にも立つこともできなかった。それで、苦しい思いをした。僕が謝罪しても受け入れてくれなかった、結果を出さないのなら何も意味がない、とそう言われた。
だから今度こそ期待に応えるべく努力をしないといけない、そう思った。……体調に異変がない健康的な状態に本気を出さずテストに臨んだ叶野に信じられない気持ちになった」
「……」
「叶野。お前もきっとなにかあったんだろう。そうやって取り乱してしまうほどのことが、あったんだろう。そこを引っ掻きまわして傷つけたことには謝罪する。すまない。でも……」
言うか言わないか迷う、いや、言うべきではないと言うのはわかるんだ。
叶野をさらに傷つけてしまうことになってしまうかもしれない。分からないんだ。僕は叶野を傷つけてばかりだから。今日だって謝罪するためだけに来たのに、本音で言ってほしいとか偉そうに言った。でも、しおらしい僕なんて僕らしくないって伊藤が気味悪がったぐらいいつも通りの僕でいてくれることを望んでくれた。叶野が望んでいるか分からないけれど……それでも、僕は言いたい。
「その頭の良さを活用しないのは、酷く勿体ないことだと僕は思うんだ」
叶野の偏差値を僕は知らないし、中学どこに行っていたのかも塾に行っていたのかも知らない。一ノ瀬のように生まれ持ったものなのかも分からない。だが、少なくとも普通を上回るほどの頭脳があることを知っている。
真剣に勉強に取り組んでいるのかいないかも知らないけど、すぐに僕の間違った答えがわかるぐらい知識があるのを知ってる。その頭脳をフルに活用したらとても良い点数を採ることが叶野は出来るのかもしれない。本来ならば僕にもとりたくてもとれない点数をすぐ採れるかもしれない。それを使わずに廃れさせるなんて、勿体ない。嫌味ではなく本当に……純粋にそう思う。
僕の言葉に叶野も湖越も反応を示さないけれど、叶野がビクッと肩を震わせていたから僕の声が聞こえていないわけではないようだ。もう僕はこの場にいるべきではないことを察する。
「……僕が勝手にそう思っていることだ。叶野を責めている訳じゃない。加害者が偉そうに長々と時間を貰ってしまいすまなかった。時間をとってくれて帰り道じゃないのに裏門まで来てくれてありがとう。僕はもう行く。気を付けて帰ってくれ。……また、明日」
また逃げるようになってしまうが、僕がこの場にいることを望まれていないのを知りながら居座ることができなくて叶野たちに背を向けて歩き出す。僕の言葉にやっぱり反応はなかったが……仕方ないことだ。一ノ瀬や伊藤のときのようにすっきりすることは出来なかった。
結局僕はまた叶野を傷つけてしまう結果となってしまった。何一つ解決しなかった。……本音じゃないのに、許すと言われる想像は全くできなかった。一ノ瀬のときのようにはいかないだろうと思っていた。
いや、伊藤に謝罪したときも最悪殴られることを想定していたら、予想外のことを言われて驚いたものだが……あれも伊藤の『本音』で『本心』からの言葉だから受け入れることができた。『自分の本心』じゃなく『自分が望まれる答え』を告げられたときにはどう対処してよかったのだろうか、どう答えるのが正解だったのだろうか……。
あのまま許すという言葉を僕は受け入れるべきだったか?いいや、それだと叶野は傷ついたままだ。そもそも僕は昨日悪いと思ったのなら許される許されない関係なくとにかく謝るべきだと一ノ瀬から教わったばかりだ。
一ノ瀬にこのことを相談したくなったが、叶野の反応を見る限りこれは叶野のなかのすごい奥のほうに隠れていた秘密のことだと思うと簡単に言えるものでない。
――今はこのままにしておくべきだ。
今は彼と距離を空けた方が良い。……それが酷く苦しく思うのは、僕は叶野に『友情』を抱いているからだろうか。いつのまにか。そんな気持ちが育っていた。今それに気付いても、もう過去には戻れない。それなら……後悔しながら遠くで叶野を心配しよう。そして、いつか彼に償える機会があれば僕は僕なりに償おう。許してもらえなくとも、僕はそうしたい。
ぐっと胸を抑えながら震える叶野のことを考えて胸が締め付けられるように痛くなった。