おれのともだち。

 最初は誰の声を聞こえていないように、目を気にしないようにした。
(罵倒する声を聞きたくなかったから、冷たい視線を見たくなかったから)
 声を出すのを辞めた。
(誰も自分の声を求めていなかったから)
 表情を出すのを辞めた。
(誰とも共有できないなら必要ないから)
 最後に、もう何も感じないようにした。
(何も感じなければ、楽になれたから)

 なにを言われてもどう見られても何も感じていないふりをした。
 1人で平気なんだって言う顔を張り付けていたらそれがいつのまにかとれなくなってしまった。
 自分の思う寂しいも悲しいも、2人からの憎みや苦しみの眼も、何もかもを感じなければ、感じないようにしないと、きっと俺は壊れてしまっただろうから。
 感情を出さないことで、彼らへの贖罪だとも考えた。きっと悲しいとも楽しいとも感じずに生きることで少しでも、謝罪しようと思った。
 それが誰にもなれない『俺』の唯一出来る声が届かない返事も聞こえない彼らへの謝罪。

 きっとこれからも俺は何も思い出せない両親に謝りながら、思い出す日を待ちながら(かと言って積極的に思い出そうとせずに)日々を過ごしていくんだろうと、そう思っていた。

――――

 俺は、『一ノ瀬 透(いちのせ とおる)』と言う名前らしい。俺はそう呼ばれている。
 もう6年前になるんだろうか、記憶喪失の状態で目を覚ました。そのまま俺の記憶は戻る気配はなくそのまま俺は過ごしている。俺を預かっていた祖父がつい最近亡くなり、俺は前に暮らしていたというアパートに暮らすことになって最寄り駅から3駅先の高校へ転校することになった。
 引っ越してきたのはゴールデンウイークの最終日の今日。荷物を運び終え、明日からは新しい学校が始まる。
 携帯電話を見れば明日何時に来いと言う指示の連絡が入っている、軽く目を通して必要なところだけ見てパチンと折り畳み式の携帯電話を閉じた。最後まで見てもどうせ嫌味だろうから見る気もならない。……何にしても買うものだとか段ボールに閉じたものを開けても衣類しかないし、とりあえず買い物できるところや最寄り駅までの道を確認しに行こう。そう思って、携帯電話と小さな財布と鍵を持って、家を出た。

 アパートの部屋も前に暮らしていたところらしいが、こうして玄関を開けて閉めても外観の剥げて塗装前の色がほとんど見えているのを見ても、劣化して踏むとギシギシと不安定な音が鳴る錆だらけの鉄の階段を下っても記憶が思い出す気配もない。
 自分が過去のことを積極的に思い出そうとしていないせいなのか、前の俺が思い出すことを拒んでいるのかわからないけれど、どちらにしても結果は変わらない。記憶を思い出せない、それだけの事実しかない。
 今日もきっと彼から思い出せたかと急かすメールが来るのだろう、メールだけなら良いが電話が来られたら面倒だ。前々から両親の古くからの知人であると言う彼は祖父よりも粘着質に嫌味を言いながら、自分に思い出すことをすごい強要してくる、なんと言うか、執着がすごい。
 母の父であると言う祖父も俺のことを責めていたけれど、彼ほどではない。正直祖父もあまりの執着ぶりに彼のことをひいていたのではないかとも思う。……それは祖父が俺のことを心配しているんではなくて彼がそのぐらい異常に見えたからである。憎しみはきっと祖父のほうが強い感情を持っていたのではないか。今となってはわからないけれど。
 階段を下り切って最寄りの駅まで歩く。今日は晴天だったが、さすがに17時過ぎているので薄暗く風も冷たく感じた。小学生ぐらいであろう子どもは俺の隣を楽しそうに友だちとじゃれ合いながら走り去っていく。今から家に帰るんだろう。何故か通り過ぎる前にすごい見られた。なぜだろう。引っ越し業者の人にもどうしてかすごい見られた。なぜだろう。
 ……俺にも、ああやって小学生ぐらいのときじゃれ合いながらあの家に帰ったんだろうか。もしかしたら小学生のときの知り合いに会うこともあるかもしれないが、もう6年がたっている。覚えている人に会うのは至難の業とも言えるだろう。

 小学校4年生俺はここを引っ越した。父が職場が変わり職場が提供している家族所帯専用の寮へ行くことになったから、引っ越すことになったらしい。きっと俺のことを覚えている人間はいないだろう。
 でも自分のことを『一ノ瀬透』なのだと認識してすらもしていない俺には、覚えていないぐらいがきっと良い。覚えていない、と言う俺の言葉で傷つく人間がいないなら、それに越したことはないだろう。
 そのまま道なりに歩いていくとすぐに公園を見つけた。時間も時間なので遊んでいる子どもは少ない、でも子ども特有の高めのにぎやかな声はまだ聞こえてくる。俺が帰るころにはもう誰もいないんだろう、と思った。
 あの子どもは家に帰れば母親が出迎えてテレビを見たりして過ごして、夕ご飯を食べて父親が帰ってきて、今日会ったことを言ったりじゃれたり、きっと楽しい夜の時間になるんだろうな。
 俺もそんな子どもだったんだろうか、普通に友だちと遊んで両親から愛を受けて、一緒にいることを喜んでいたんだろうか。今ではそれを調べる術もない。
 家族としての両親を知っているのは記憶のある自分だけだから。忘れてしまった俺には分からない。前のところにいたときは気にならなかったことが、こちらで少し歩いているだけでそんなことを考えては消える。
 前の綺麗なだけの家と周りの目ばかり気にするような学校の環境と責める彼と祖父の目がないせいだろうか。前のときよりも、今のほうが少し、優しい気持ちになれる、からだろうか。なんて。

 今まで思ったこともないことを考えてしまった。さっさと、最寄り駅の確認をして買い物をして帰らないと暗くなる。取り払う様に首を振って切り替えて、歩くスピードを上げた。視界に大きな文字で『スーパー』と書かれている大きな薄紫色の建物が見えたので、あそこが買い物するところか、と確認しつつ先に駅へ行くため曲がった。なにかを誤魔化すように無理矢理思考を変えて歩みを進めた。

「……透?」

 まさかそんな俺を公園から出てきた『誰か』が、じっと見て『俺』の名前を呟いて呆然と見ていたなんて想像していなかった。

――――

 家から最寄駅まで大体15分前後、自宅最寄駅から高校最寄駅まで16分ほど、高校最寄駅から水咲高校まで10分足らず。
 誤差はあるが、合わせると40分ぐらいか。
 明日は8時半には学校についておきたいから、7時50分ぐらいに家を出れば間に合うだろう。
 駅前にはコンビニもあって薬局もある。時刻表を確認するために改札前まで入ったが、服屋も雑貨屋も料飲店もそれなりにある。
 どうやらこの駅は急行は止まらず各停でしか止まらないようだったが、それなりに人も住んでいるようだった。物凄く便利というわけではないようだが、普通に暮らしていく分なら困ることはないだろう。
 少し見ただけではあるが、自宅の近くはスーパーと公園ぐらいしかなく、少し離れているし閉店時間も決まっているのですぐにこれが必要となると言うものを買う際には少し不便かもしれない。とは言えそのぐらいはよっぽどの非常時以外は誤差の範囲だ。とりあえず今日のところはもう駅付近には用はないので、スーパーで買い物するために来た道を戻った。
 ……何故か道行く人の視線がすごい。疲れたからと言うのもあるが。
 正直、人の視線は苦手。どうも誰かに見られるのが好きじゃない。
 誰かと目を合わせたくなくて、パーカーのフードを被って下を向いて視線に耐えて、信号が青に変わった瞬間にその視線から逃げるように早足でその場を去った。

 そんなに、日本人らしからぬ灰色の目が珍しいだろうか。珍しいという好奇の目、嫉妬の目、憎しみの目、そんな視線にずっとさらされ続けていたせいか、人の目が苦手だ。

 しばらく歩いていくと閑静な住宅街になってスーパーの字が見えるところまで戻っていた、ゴールデンウイークの最終日の夕方のせいか人がまばらにしかいないし、フードを深くかぶり下を向いているおかげでもう視線は追いかけてくることはなかった。それに安堵してそのままスーパーに行くことにした。
 買うものはたくさんあるが、細かいものは追々揃えていくとしてとりあえず今日は夜と朝と、昼の分の食料や飲み物と歯ブラシ歯磨き粉、フェイスタオルとボディタオルと……意外と買わなければいけないものが多い。
 前の家からは最低限の衣類ぐらいしか持たずに来たし、彼から送られてきたのは新しい学校の教科書と制服だけだった。引っ越してきて家に入って何故か既にあったのは段ボール一つといくつかの家具と洗濯機とハンガーぐらいのもので、段ボールに入っていたのは色あせていたアルバムと思われるファイル一冊だけだった。
 前の家にいたときは基本俺は全寮制の学園だったので寮生活で一人暮らしの真似事はしていたけれど、寮は最低限の生活用品は揃えられていたし祖父の家では召使いと呼ばれる人たちがいたので、ここまで1からすべてそろえることはなかった。1人で生活するのは予想以上に大変なことだと実感する。
 普通なら、引っ越しの準備とか誰かに手伝ってもらったりするだろうが、俺には味方はいないし友人と言う存在も出来たことはない。彼からここに引っ越すことを知らされたのさえも昨日だった。今日中には必要なものすべてを持ち帰るのは1人では難しい。
 一回彼は顔を出したもののこれが祖父が渡してほしいと言われた、と渡してきたのは通帳と印鑑、そして半年分の定期券のみ。

 どうやら祖父は俺にも遺産を残してくれていて、預金残高を見れば一般の高校生がお目にかかることのないであろう金額が入っていた。彼に冷めた顔で憎んでいたお前にも残してくれたじいさんに感謝せい、と言われたのでそれに頷いた。聞けば新しい学校の学費も今住んでいるこのアパートも買い取ってくれているのだとか、後は生活用品やらなんにでも使えと言われた。
 ただもうこの金が無くなったら何も支援はないし自分も助けんからせいぜい大事に使えや、とそう言って彼は帰っていったのだ。多少の浪費癖があってもそうそう金は使い切れないほどにあった。
 それでも、必要最低限に使うだけにとどめておこうと思う。このお金は祖父が稼いだ金であり自分の金ではない後ろめたさがあった。本当は祖父も自分の娘を失った原因の上記憶を失くした俺なんて支援もしたくなかっただろうけど、それでも俺はまだ無力な子どもだから、仕方なく俺に渡したんだろう。彼も、俺のせいで自分の親友の父と幼馴染の母を失っている、おまけも記憶もないのだから、どうしようもない気持ちなんだろう。

 俺のせいで二人は死んだ。そのうえ二人のことを俺は忘れた。
 俺は何も思い出すこともなくそのまま祖父は亡くなってしまった。
 それでも、思い出したいと少しも思わないのだ。なんて俺は冷たい人間なんだろう、なんで忘れてしまったんだろう。何度悔やんだかもう覚えていない。

 空を見れば随分と暗くなっている、携帯電話を見れば17時40分と記されている。歩んでいたはずの足はいつの間にか止まっていて、景色は変わっていない、あと5分ほど歩けばスーパーに着くだろうか。
 さっさと行こうと、そう思う。だけれど、足が動かない。自分のために、自分が生きるためのなにかを買わないといけないと、そう思うと足が妙に重い。

 どうして、自分は生きているのか。
 どうして、両親が亡くなった原因の俺が、そのうえ記憶も忘れてしまった俺が、どうして自分が生きるための買い物をしなくてはいけない。

 薄情な俺なんて、『一ノ瀬透』ではない自分が、入院したことも死に目にも連絡をせず……葬式も呼びたくないぐらい憎んだ俺に遺した祖父のお金を使うのも、罪悪感しかない。
 祖父が亡くなったことを知ったのだって昨日だった。一週間、祖父が亡くなってすでに経っていてやっと知って、そのまま引っ越すと言われて。見送りもしていないし、墓の場所も教えて貰えてない。……それなのに、俺の生活のために祖父の金で買い物をしたくないと思った。
 俺がいなければ彼らはきっと幸せだったのに。

 二人じゃなくて、俺が、死んでいればよかったのに。

「……あ」

 自分の罪が塗り重ねられていく感覚に足から力が抜けてその場にぺたりと座り込んだ。幸い俺以外に周りに人はいない。

 ……もう限界なのかもしれない。

 なにも見て見ないふりをして、なにも感じないふりをしていても、それはあくまで『フリ』なだけで、いつか綻んでしまうものだ。6年、そうして生きてきた。自分自身が限界だと今も自覚は無いけれど、足に力が入らなかった。ずっと背けていた問題が一人になった今、浮き彫りになったんだ。

 傲慢でわがままだけど、誰か、俺を見てほしい、誰かに肯定してほしい。
 誰でもいいから、俺が『一ノ瀬透』だと認めてほしい、受け入れてほしい。
 俺がここにいてもいいんだと、記憶がなくても、それでもいいんだって、言ってほしい。
 嘘でもいいから、すぐに嘘ですって言ってもいいから。
 それでもいい、から、何もかもを忘れていても、俺は俺なんだって、俺の名前を呼んで。


 幸せになれなくていいから、誰か、自分の存在を、『俺自身』を知っていて。
 そのあと、責められてもいいから、一回でいいから、うそでいいから。
 ついには上半身の力も入らなくて手を地面について上半身まで倒れないように支えた。
 ……大丈夫、分かっている。少ししたら、いつも通りに振る舞うから。少しだけ、本音を出したかった。
 何も言わないで、せめてこの場だけは俺を責めないで。
 わかってる、わかってるから。

 俺が俺なんだと受け入れられるなんてこと、ないんだってわかってるから。

「!」

 そう言い聞かせていると、誰かに腕を掴まれ引っ張られて項垂れていた上半身は強制的に上を向いた。
 上を向けば、三白眼が印象的な……たぶん俺と同い年ぐらいの、人口的な金髪をした……少し多分地毛であろう黒に近い茶色の髪が見え隠れしている……男の子が、きっと普段であれば強面と呼ばれるであろうその顔は眉を寄せて俺を心配そうに見ていた。
 地べたにも関わらわず座り込んで項垂れていたのを見て、心配されてしまったんだろうか。
 心配かけてしまった、俺のことなんて気にしなくていいから、大丈夫だ、とそう言おうとした瞬間に、彼は

「だいじょうぶか、透!?」

 『俺』を見て、そう言った。俺のことを見て『俺の名前』を、言った。
 何年も動かしていなかったであろう表情が、驚きに目を見開いていたなんて気付きもしなかった。

 そして見て見ぬフリしていた心は、高揚して熱を持っていて、きっとこれが、『喜び』なんだって、そう馴染んだ。

――――

「立てるか?」
「……うん」

 彼が俺を立ち上がらせるべく力を入れたので、その流れに逆らわずにその力を利用して立ち上がることに成功した。
 さっきまで力が抜けていたのが嘘のようだった。彼と目線が近くなった、と言うか同じと言っても過言ではなかった、身長は俺と同じぐらい。意外と距離が近くなったことに驚いたのか、彼は少し後ずさりをした。
 そして彼は俺をまじまじと見た。視線が苦手なので少し居心地悪い、でもフードを被っているし彼の目はなんだか優しいから、いつもよりは平気、な気がする。

「……やっぱり、透…だよな?よかった、勘違いじゃなくて。すごい、久しぶりだな!本当は公園からお前を見ててさ、でも見間違えかともちょっと思って、また戻ってくるの待とうと思ったんだけど、そっち見ると項垂れているの見て驚いちまってさ。つい、まだ透だって確認してなかったのにお前の名前呼んじまった。」

 親し気に話しかけてきて少し照れたように笑う彼。公園のときから俺のことを確認していたらしい、今顔を見れて『一ノ瀬透』だと完全に確認がとれたらしい。……俺を『一ノ瀬透』と呼んでくれる彼は誰なんだろうか。
 口ぶりからすると俺のことを知っている、きっと、引っ越す前の友人、なんだろうか。話しかけているのに何も声をかけず静かに凝視している俺に気付いたようで、嬉し気な顔が一気に悲し気な表情になって俺の胸も苦しくなった。
 
「……俺のこと、忘れた、か?」
 そう切ない声の彼にそう聞かれて、俺は胸が痛んだ。

 どうして、俺は、忘れてしまっているんだろう、口ぶりからして彼は俺の友人なのだ。そして俺はあれ以降誰とも連絡を取っていない。彼は、6年間俺を待ってくれていたのだ。記憶のある俺のことを。右手で左の袖をぎゅうっと握りしめた。彼の顔を見れなくて頷いたあと、視線を逸らして告げた。
「……ごめん、なさい」
 俺のことを見て、心配してくれて透って呼んでくれたのに、俺はなにも返せない。散々さっき誰かに認めてほしいとか言っていたのに、返せるものを持っていないんだ。また俺は傷付けてしまった。『一ノ瀬透』じゃない俺には何の価値はないのに。そう分かっていたのに、あの日思い知らされていたのに、なんて愚かなことを望んだんだろうと後悔した。
 今から彼に俺は罵倒されるんだろう、最悪手が出てもおかしくない、だって俺はこうして俺を望んでいた彼を忘れた、そして彼のことを見ても思い出せもない自分が情けなかった。指先が白くなるほど握りしめて彼の反応を窺う。しばらくの沈黙のあと、彼の右手が自分に向かってきた。殴られるのだろうか、それで彼が少しでも気が済めば良いと思いながら来るであろう衝動に身構えた。

 けれど、彼の手は俺の頬や腹を殴るのでもなく頭の方へ向かい拳骨なのかと思いきや、目深に被っていたフードをぱさりと取られ、間髪入れず俺の頭を撫でてきた。

 ただ親しみだけを込めた、優しい手だった。

 驚いてどうしていいかわからずに逸らしていた視線を、彼の眼へと向けた。そこには冷たくて憎しみと怒りを込められたものではなくて、もっと暖かくて穏やかで、……優しくてほんの少し悲し気な眼をした彼が視界に入った。

「……そっか。なら改めて。俺は伊藤 鈴芽(いとうすずめ)だ。お前の親友な。また覚えておいてくれよ。
まぁ、なんだ、記憶は無くてもとりあえず言わせてもらうな。約束守ってくれてありがとな。おかえり、透」


 俺の目から逸らすこともなく、彼、伊藤は、少し微笑みながら優しくそう言ってくれた。いつの間にか痛くなるほど握っていた手にも伊藤の手が重ねられていて、自分よりも高めの伊藤の体温が伝わって、目頭が熱くなった。

――――

 あの後何も言えずに伊藤を見つめるだけの俺を、どこか照れくさそうに笑いながら「もう帰るのか?」と聞かれて、首を振って「……スーパーに」とだけ返した。
「なら俺も買い物付き合うわ」
 と、何でもないように言われて、こっちだ、と一緒に行く流れになった。どこか足取りがふわふわしているままに伊藤のとなりを歩いた、たまに彼の様子を窺っても普通の顔して普通に話しかけてくる。彼の低い声も聞き取ってはいるし内容も入ってこないわけではないけど、どこか遠くに聞こえた。いうなれば、夢うつつ、とそんな気持ちなのかもしれない。

「いつから引っ越してきたんだ?」と聞かれて「……今日」と答えれば驚いた顔をされた。
 これから生活用品をそろえる、と言うと「なら、今俺と会って正解だったな!」とにかっと笑う。三白眼で第一に目付きが悪いと言う印象を受けたし、きっと強面に入るであろう彼だが、そうして笑っている顔は幼く見えるし、記憶がない俺でも親しみを持たせた。
 前にいた学園ではないタイプだった。こうして誰かと歩くなんて、初めてかもしれない。一種の感動を覚えながら伊藤と話しながら……と言っても話をする伊藤に、下手くそな相槌を打ったり頷いたりしたりするぐらいしか俺は出来なかったが、それでも伊藤は楽しそうに笑う。
 戸惑いが大きいけれど、正直嬉しい、とおもう。夜と朝と、昼の分の食料や飲み物と歯ブラシ歯磨き粉、フェイスタオルとボディタオル、食器用洗剤スポンジ、洗濯用洗剤……あとまだ良いかと思ったが伊藤は薄いグレーの硝子のコップ入れられた。引っ越し祝いに買ってやる、と押し切られてしまった。
 スーパーには初めて来たが意外と色んなものが売っているのだと思った、それなりに大きいスーパーだったおかげか生活雑貨も充実していた。当初の予定よりもかなりの量になってしまったので伊藤がいてくれてかなりありがたかった。

「……ありがとう」
「おう!」

 一瞬何を言っていいのかわからなかったけれど、手伝ってくれたのだから感謝の言葉を述べるのが一番だろうと、伊藤に言えば嬉しそうに笑いながら元気のいい返事が返ってきた。……なにか言って返ってくるって、こんなにうれしいことなのか。伊藤なら、なにかを言っても無視されることない、と思ってもいいのだろうか。
 そう言えば自分にとってイレギュラーなことが起こったおかげか意識が伊藤にばかり行ってフードを被らなくても、あまり周りの視線や声が気にならなかった。ガサガサと袋を揺れて耳障りな音を出しながら帰路につく。
 当然のように伊藤は俺の家までもっていくつもりらしく、俺のとなりを何も言わずに歩いている。しばらく静かに歩いていたが、なにかを思い出したかのように伊藤が問いかけてきた。
「そういや、新しい家どこなんだ?」
「……前と同じ家。部屋も同じらしい。」
「まじか!あの家なのか、うわ、懐かしいな。家上がってもいいか?」
「……うん」
 正直家のことを聞かれてすぐに出てくると思ったのが、両親のことだと思ったから少し拍子抜けした。懐かしいと彼の口からその単語が出たと言うことは何回か家に遊びに来ているってことだ。両親と伊藤が顔を合わせていても不思議ではないし会いたがると思ったけど、そういう風にならない。
 伊藤の真意がつかめなくて、チラリと伊藤の様子を見るけど、目が合っても優しい色はそのままに笑顔でどうした?と聞かれた。ううん、とそれだけ返して歩くことに集中した。
 あの公園でよく遊んでたんだぜ、とかこの道あんまり車が来ないからよく透の家までかけっこしていたとか、小さいころの話をしてくれた。俺はどう返していいのかわからなくて頷くばかりになったけど、それでも伊藤は笑っている。俺に思い出させようとしているんじゃなくて、本当にただの雑談だった。証拠にこちらの反応を窺うことは一切なかった。


 ……何故伊藤は俺になにも聞かないんだろう。
 何故、忘れてしまった俺を責めたりしないんだろう。

――――

 伊藤からなにも問い詰められることなく、たまに沈黙しながら伊藤が好きなときに話しているのを俺が聞いて反応を返すだけだったけど、伊藤は終始楽しそうで、俺は話を聞きながら伊藤の表情が変わるのを見ていた。
 俺の意識が伊藤に夢中になっていたおかげで、出たときよりも帰りのときのほうが時間が早かった、あっという間に家の前だ。男子高生2人が錆ついた階段を上るとかなり不安な音が鳴る。後ろからやばいな、この階段。と伊藤の呟く声が聞こえた。鍵を取り出して、どうぞ、と家の鍵を開けて伊藤を招いた。
「お邪魔します」
「……うん」
 靴を脱いで家のなかに入るのに続くように伊藤も入ってきた。

「おー懐かしいな、こんな狭かったけか…。もう大体引っ越しの準備終わってるんだな」
「……荷物が少なかっただけ」

 荷物はこれだけ、と積み上がった段ボール二個を指させばまじか!と驚いた声がかえってくる。

「え、こんだけって足りるのか?」
「……足りなかったから、さっき買った」
「あっそうか……服とか興味ねえのか?」
「……ないよ」

 がさがさと袋を開けて品物を取り出してあるべき場所に置いて行く。調味料や調理器具まではさすがに持ちきれなくてそろえなかったので、今日のところはスーパーで売っていた弁当、明日の朝と昼の分でいくつかパンを買ってきた。伊藤はカレーを買っていた。レンジだけは買ってもらっていてよかった。温めて折り畳み式のちゃぶ台を広げて、ご飯を一緒に食べた。
 誰かと一緒にご飯を食べるのも初めてだ。前の学校のときは友人と呼べる人もいなかったのでいつも一人で学食を食べていた記憶がある。とりあえず明日はやかんやフライパン、なべなどをそろえていこう。
 テレビはつけず、相変わらず伊藤が話したいときに話して、たまに沈黙があるぐらいの静かな食事だった。いつ俺のことを細かく聞かれるのか、どう答えるか考えていたけれど、聞く素振りはなくていつしかご飯も食べ終わってしまった。

「そういや、透の新しい高校どこ?」
「……水咲(みさき)高校、だ」
「え、俺と一緒の高校か!同じクラスになれたらいいな!明日学校、一緒に行こうぜ」
「……うん」

 いつ出るか聞かれて予定していた時間を言うと、じゃあそのぐらいにさっきの公園で待ち合わせな!と笑顔で言われて頷く。

「……」
 なんで、嬉しそうにするんだろう。なんで何も聞かないんだろう。
 いくら時間が経っても、そんな素振りが無くて思わず伊藤をじっと見つめた。その目に、ああ、と納得したように携帯電話を確認して「もうこんな時間だったな、悪いな。」そろそろ帰るな!明日また、と俺の目線がまだ帰らないのかと催促だと勘違いして帰ろうとする伊藤に、思わず呼び止めた。

「……なんで、なにも聞かないんだ。俺は、伊藤のこと、忘れているのに」

 そう聞いてしまった。あえてなにも言わないでいてくれたのかもしれない、気を使ってくれたのかもしれない。それでも聞かざる得なかった。だって、前に聞かれて正直に俺が分かりませんごめんなさいって言ったら、頬を平手で叩かれて泣きながら返してくれ、と言われて、冷たい目で俺を見られた。
 だから伊藤の行動が理解できなかった。いくら親友だったからって、忘れてしまったと言う俺にそんな風に友だちのように接せるのかわからない。さっきは言えなかった『忘れてしまった』の言葉もつい、言ってしまった。てっきり人目のないところに行って俺に言いたいことややりたいことをやるのだと思っていたら、そんな素振りなんてなくて、ただただ伊藤は優しかった。
 どうしてなんだ、と伊藤の目を見ると、さっき謝ったときと同じ眼で俺を見返している。切なげに眉を寄せた、と思ったらまた笑顔で。

「だって、記憶とか関係なく、お前は『透』だからな!」

 そう言い切られてしまった。


 頭を軽く撫でて、じゃあ明日公園で!と言い残して家を出ていった。俺は固まってしまってドアの閉まる音が聞こえるまでその場を動けなかった。ばたん、と言う扉が閉まる音が聞こえて、思わず肩が跳ねた。後ろを振り返ればもう伊藤はいなかった。なんだかまるで夢のような、でもゴミ袋には伊藤が食べていたカレーのプラスチック製の容器が入っているし匂いもある。『伊藤鈴芽』は実物する。

「……お前は『透』か……記憶も、関係なく……」

 伊藤に言われたことを復唱した。テレビも付けず、伊藤がいない今俺しかこの家にいない。俺の声がこの狭い部屋に響いた。

 初めて。初めてのことばかりだ、今日は。
 初めて俺を心配してくれた。
 初めて誰かと買い物をした。
 初めて、俺が『透』だって言ってくれた。
 記憶とか関係のない『一ノ瀬透』なのだと。

 よっぽど、伊藤は『一ノ瀬透』を信頼してくれているらしい。彼のためには思い出さないといけないと思う、でもまだ思い出すのが怖い。……どうして、怖いと思うんだろう。記憶はない癖にこれだけは拒否しようとするんだ、脳が。辞めてくれと悲鳴をあげているかのように、無理矢理思い出そうとすると頭痛と耳鳴りが止まらない。
 そんなに、『一ノ瀬透』は両親を失ったことが苦しかったのだろうか。思い出すことを拒否するぐらい。
『俺』には分からない。……いろいろ考えていたらなんだか、疲れてしまった。いつもは誰とも喋らず誰とも顔を合わせずにいたし、きっと新しい高校に行っても変わらないんだと思っていたのが、今日は普通の人に比べたら少なくても俺にしてはかなり話した方だ。
 勉強とは違うところの脳を使った感じがする、頭もガンガン痛む。明日は初登校となるし、今日のところはもう風呂に入って寝よう、そう決めて風呂場へ向かう。携帯電話が点滅を繰り返しているのが視界の端に見えたが、今はスルーしよう。明日早めに起きて確認すればいい。

 きっと、彼からの連絡だろうから。初めて味わう高揚感を冷ましたくなかった。今だけは許してほしい。

 いつもは明日を待つだけだったけど、今日はちょっと違う。伊藤に買ってもらった薄いグレーの硝子のコップが目に映った。それを見た俺は、少し口角が上がっていたことに俺は気付かないままだった。


 ほんの少しだけ、『今までと違う』明日が来るのが待ち遠しく思った。
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