2.人間として。


 突然の空気を切り裂くと言わんばかりの大声を誰が発したのか、一瞬理解できなくて反応が遅れる。意識を戻せば、岬先生が桐渓さんに掴みかかっている光景が目いっぱいに入り、思わず立ち上がり後ずさる。誰も俺の反応を気にせず、岬先生と桐渓さんは互いを見ている。

「そりゃあ、あんただって親友を失って苦しかっただろうけれどなぁ!一ノ瀬くんは目の前で肉親が亡くなってるんだぞ!それこそ記憶が無くなるぐらい、そのぐらい辛いことだったのにっ!そのことをずっとあんたはそうやって責め続けたのかっ」

 いつもの穏やかな口調とさっきまでの冷静さが嘘のように岬先生は荒い口調で責め立てた。急変した岬先生に桐渓さんは暫く呆然としていたが、徐々に何を言われているのか理解が追い付いたのかキッと岬先生に睨み返した。

「っなんで俺が責められなきゃならなあかんの?!そもそもこいつが飛び出さなきゃ良かったんや!そうすりゃあ灯吏も薫もっこいつを庇って死なずにすんだのにっ!
んで、こいつは6年経った今でも思い出そうという気もない!思い出そうとするのすら嫌がるんやで?!いつまでもそうやって何を考えているのか分からん無表情で、何も傷ついてなんかいない面見てたら吐き気がするっ!
悪いのは透や、俺やないのにっなんで俺を責める?!」
「あんたはその場にいたのかよっ!その事故が起こった直後、あんたはいたのか?!」
「…!いなかった、けどっ!」
「一ノ瀬くんがほんとうに飛び出したって言う確証はあるんですか!それが本当だとして!あんたがそうやって延々と責める立場なんかじゃないっ!一ノ瀬くんは両親を失ったのを見て記憶を失くしたんじゃないですか、それぐらい辛いものだったんじゃないですか!何も分からない一ノ瀬くんが、よくわからないのに最初からそうやって責められてたら、思い出したいという気持ちも持てないんじゃないですか!」
「そんな俺のせいにしたいんかっ」
「あなたのせいでしょう!あなたは、目の前で親しい人がいなくなる姿を見た苦しさがどれほどのものってことを知っているんですか!?知らないでしょうっ?知らないからそうやって心無く一ノ瀬くんを責められるんです!」
「それじゃあ、あれか?その場にいなきゃ俺は透を責める権利もないってことか?!」
「そうですよ!その場にいない誰もが責められるわけがないんですよっ、そもそも!子どもにすべてをその重責を押し付けることが間違っているんですよ!権利とかそう言うのじゃなくて、人権です!」
「なら、俺のこの感情はどこに……!」
(どうしよう、俺はどうすればいい)

 目の前で2人が怒鳴り合っているのを見ていて自分の胃が痛くなってくる。2人は自分のことで言い合っている。桐渓さんは俺を責めたい責める権利があると主張する、岬先生は俺のことを責めることができないと庇ってくれる。
 どちらも自分の……俺のことが理由でこうして怒鳴り合っている。喧嘩、している。今俺は……どうしたらいいのか、分からない。どんな気持ちで俺はこの言い争いを見ているのが正解なんだろうか。
 信号無視して飛び出して両親はそんな俺を庇って亡くなったのを目の前で見てしまった。それがショックで記憶喪失になった。事実はどうあれそう結論付けられている。
 轢き逃げされて目撃者も防犯カメラの映像も無く、事故当時の状況を知るのは両親と轢き逃げした運転手と俺だけだが、両親は亡くなり轢き逃げの犯人も未だ捕まっておらず俺は記憶喪失で実際のところは誰も分からないまま。
 ただ、俺は信号を渡った先のところで倒れていて、両親の遺体を向いた状態で気絶していたらしい。誰かがこの事故の原因に、一つの仮定を理由付けてそれがいつの間にか『誰も知らないはずの事実』になっていったんじゃないかと予想する。『俺』は信号無視をしないが『前の俺』がどんな感じだったのか今の俺には分からない。あまり聞きたくないと思っていたけれどこうなるんのなら伊藤に少しは聞いておくべきだったかと後悔する。
胃が痛いのは、桐渓さんに責められているからというのもある。
 悲しそうに痛そうに怒る桐渓さんに対して思うところがない訳がない。もし……伊藤を失ったら……その原因が目の前にあれば、桐渓さんと同じことをしないという自信はない。
 俺も痛いのはいやだ。責められるのも怒鳴られるのも暴力を振る分けれるのも、本当はとてもいやなことで出来ることなら逃げたくて避けたいと思う。でも、責め立てる桐渓さんのことを完全に切り捨てることはしてはいけないことなんだとも思う。散々電話やメールを無視してしまう俺がこう思うのは矛盾しているかもしれないけれど……。桐渓さんが俺を責め立てるのは、理解はできてしまう。
 桐渓さんは、生徒のことばかりで親友と幼馴染を失った自分のことを考えない岬先生に怒っているけれど、記憶のない罪を責められる俺のことは考えていない。
 俺も今まで桐渓さんは苦しいんだろうなと考えて今までのことを受け入れてきたけれど、本当の意味で桐渓さんの立場になったことはなくて、最近になってようやく桐渓さんの辛さが少しだけ理解できるようになったと思う。
 結局想像でしかできない……伊藤をもし失ってしまったことを考えてしまうと、桐渓さんの叫びが分かってしまう。
 少しでも桐渓さんのことを知れたと思ったけど、桐渓さんは俺のことなんて見ていなかったのを、さっき知ってしまった。

 そして……岬先生も、俺のことを見ていない。いや、どうだろう。そう言ってしまうと嫌な意味になってしまうか……。けれど俺には上手い表現が見つからないんだ。
なんていうべきなのかわからないけれど、岬先生は確かに俺を庇ってくれる。それは、とてもうれしいことなんだ。今までそうやって庇われたこと、なかったから。だからだろうか。
――戸惑ってしまう。

 岬先生は、優しい人だ。とても生徒思いで、鷲尾を追いかけた俺にも教室を出て行った鷲尾にもその気持ちも汲んでくれる、今まで『俺』が接してきた大人たちのなかで一番優しく人間味があるかもしれない。
 どこまでも真っ直ぐな人だ。俺のことを、悪いと少しも思っていないんだろう。俺のことを信じてくれる。責める桐渓さんに怒りを覚えて俺を庇って怒ってくれている、何の見返りもなく素晴らしいひとだ、生徒を何の疑いもなく一心に信じてくれる。
 分かっている。岬先生は、それでいい。その真っ直ぐさが嬉しくてありがたい。ただ、俺の気持ちの問題なんだ。

(俺は岬先生にこんなに庇われるほど、優しい人間だろうか)

 そんなことをなぜか思ってしまうんだ。俺を……生徒のことを想って、桐渓さんに言い返している岬先生を見て、そんな冷たいことを思ってしまう。
 誰のせいでもない、優しくされることに慣れていない俺が勝手にそんなことを考えて、勝手に胃を痛めているだけ。
 俺を庇って亡くなったのか分からないけれど、記憶を失ったのは紛れもない『事実』だから……それは、責められてもおかしくないところだと思っている。『前の俺』も『俺』も知っているのに俺を見ようとしない桐渓さんと、『前の俺』を知らないけれど『俺』を信じて『前の俺』のことも信じようとしてくれる岬先生。

 なんだか、変な気持ちになる。良い気持ちではない、どちらかと言うと悪い気持ちだ。桐渓さんだけじゃなくて、岬先生にもそんなことを考えてしまう。正確に言えば怒鳴り合っている2人を見ていると、だ。
 なんで過去の記憶を失う前の俺のことでこんなに言い合っているのか。知らない俺のことも庇おうとする岬先生に信じられない気持ちになる。責める桐渓さんの気持ちのほうが、理解できる。
 俺のことを見ていないのに、俺のことで言い争う2人に、どんどんヒートアップしていく2人に心底困惑してどうすればここから抜け出せるのかどうすればこの言い争いが終わるのか、このいつまでも平行線の終わりのない言い争いに苦しくなってくる。

「……っは、」

 呼吸が乱れる。
 気持ち悪い。
 吐き気がする。
 誰も知らない事実なのに。

 それが本当か否かも俺も誰も分からないのに、俺のことなのに俺のことを知らないのに、俺が悪い俺の気持ちも分かってあげて、と言っている、俺の意志は一言も言っていないのに。俺を押し付けられている。
 それはだれ。俺は責められるべき?俺は庇われるに値するのか?分からない。自分のことなのに。自分が責められるのは怖い。自分が庇われるほどの人間とも思えない。わからない。どうされたいのか、じぶんが今どこにいるべきなのか。
 そもそも、俺は今どこにいるんだろう。誰も今俺のことを見てない。俺のことを視界にいれられていない、俺は本当にここに存在するのか。

――ほんとうは、ここにいないんじゃないか。

 冷静になればそんなこと有り得ないと一蹴できることも、今の俺には本当のことに感じて悲しくなった。手が勝手に震える。視界がぼやける。今にもその場に座り込んでしまいそうだ。
 少しだけ強くなれた、そう思えたのに。不確定な自分のことになると一気に不安になる。
 ここにいるひとはおれの存在証明にならない。だれか。『俺』を見てほしい。俺のことを、受け入れてほしい。
 前の俺だけじゃなくて今の俺だけじゃなくて、俺が悪いとか俺が悪くないとかじゃなくて、ただ『俺』を認めてほしい。
 俺は、ここにいるんだ。ここで生きているんだ。

  だれかだれか…だれでもいい……いや、だれでもじゃない。しゃがみ込んで背中をまるめて、保健室の床を見ながら……妄想した。
 出来れば可能であれば……伊藤に『お前はここにいる』って心から笑って言ってほしい。そんな妄想をしながら目を閉じる。目の前は真っ暗になる。頬をなにかが伝う感覚がしたけど、気のせいだろう。そう思って前のときみたいに何も見ないよう、何も聞こえないように……何も感じないように、閉じこもろうとした。

「透っ!」

 まるくした背中を伸ばす。それは自分の意志ではなくて、半ば強引に肩を掴まれて上を向かされたから。驚いて閉じた瞳を見開く。驚いたのは誰かにいきなり肩を掴まれたからだけじゃなくて、俺の名前を呼ぶ声が聞こえたから。俺のことを名前で呼ぶのは桐渓さんと……あとひとり。
 桐渓さんの声じゃなかった。いや、桐渓さんよりも俺の名前を呼ぶ頻度が高くて耳馴染みがあるのは、ただひとりで。でもこの場にいる訳がない。だって、先に帰ったはずだ。俺から背を向けて……事情を説明できない俺に怒って、先に帰ったのを俺は見送った……。

「……い、とう?」

 でも、俺の名前を呼んだ声は、目の前にいるのは……確かに伊藤。真剣な顔で……はじめて会ったあの日と同じような心配そうな顔で、眉をよせて俺を見ていた。名前を呼んだと同時に溜まった水滴が頬をまた伝う感覚がして慌てて拭った。
 心配されてしまう、と思ったが遅かった。それは伊藤にすでに見られていて苦しそうな顔をしている。

「……透行こうぜ。俺らはもう帰ろう、な?」
「は、なに勝手に決めて……」

 俺の手を掴み、立ち上がらせてそう告げる伊藤。突然の伊藤の登場に桐渓さんも岬先生も驚きを隠せず、さっきの俺と同じように目を見開いている。
 そんな2人のことを目にいれていないようで伊藤はそちらを見ることなく俺に優しくそう言ってくれる。俺も突然目の前に望んだとはいえ伊藤がいることに驚き混乱していてとりあえず伊藤の言葉に頷いてしまう。
 やっと今の状況を飲み込めた桐渓さんが伊藤に突っかかる。伊藤はそんな桐渓さんに面倒くさそうに溜息を吐いて一瞥したあと、扉のほうを振り返った。

「帰っていいっすよね?五十嵐センセ」
「おー!帰れ帰れ!俺が許可する!!」
「…え、」
「っ五十嵐先生、」
「今日はみんなもう冷静に話せなさそうですし、帰しましょ!」

 保健室の扉はいつの間にか開いており、そこに寄りかかっていたのは五十嵐先生だった。いつも通り豪快に笑いながら帰ることを許可をして、桐渓さんたちにも有無を言わせず帰る方向にもっていく。伊藤がいると思ったら五十嵐先生までいて、また混乱する。
 岬先生もさすがに五十嵐先生の登場に声を上げる。五十嵐先生は岬先生と桐渓さんのほうを怖いほどにいつも通りの笑顔で見ている。混乱する俺を一先ず置いておくことにした伊藤は五十嵐先生に許可を貰ったのを聞いて俺の手を引っ張って保健室を出る。引っ張られるがままに足を進める。

「一ノ瀬、おつかれさん。後は任せとけ」

 すれ違いざま、五十嵐先生は俺にそう言った。伊藤のほうばかり見ていた俺は五十嵐先生に声を掛けられると思っていなくて吃驚する。いつもと違って静かな声で、でも優しくて穏やかだった。
 どんな表情を浮かべているのだろうと顔を見ようとしたけれど、次俺が視界にとらえたのはピシャっと音を立て閉められた保健室の扉だった。
 五十嵐先生が閉めてしまったらしい。このなかでどんな会話をするんだろう、このまま帰っていいのだろうか、と色々考えたけれど。

「透、いっしょに帰ろう?」

 ぎゅっと俺の手を握ってくれる伊藤の手が優しくて、それがうれしくてつい泣きたくなるのを堪えた。俺はここにいていいんだと、そう言ってくれるかのようだった。俺もその手を握り返した。伊藤の言葉に頷いてそのままこの場を後にした。

 また逃げていると自分を責めたくなったけれど。
 でも、すれ違いざまの五十嵐先生の言葉に勝手に少し許された気持ちになった。

 それに俺は伊藤の優しくて暖かい手から抗える術を、知らなかった。

――――

 ピシャと閉まる扉の音が聞こえる。これでまた密室空間になった。五十嵐先生が保健室の扉を閉めてこちらへ歩み、さっきまで一ノ瀬くんが座っていた椅子に腰かける。いつもと同じ笑みなのが、正直言うとすこし怖い。

「とりあえず座りましょうか?立ちっぱなしって疲れません?」

 そう冷静に……五十嵐先生にすごく敬語で言われて、激高して桐渓さんの胸倉を掴んでしまった手を下ろして座る。桐渓先生は忌々しそうに舌打ちして、ドカッと座った。行儀がいいと言えない桐渓先生の態度に何の感情を見せることなく、五十嵐先生は僕らが座ったのを確認すると本題に乗り出す。

「桐渓先生と岬先生の声、外まで聞こえてましたよ。なにやら物騒な会話をしていましたが、話し合いの内容は昨日一ノ瀬が帰りのHRが終わっていないのに学校を飛び出してしまった件ではなかったのでしょうか?」
「……お前には関係あらへんやろ」
「ま、そうですね。桐渓先生たちの事情を一ノ瀬の担任である岬先生ならばともかく、となりのクラスの担任である俺が口だせるものではない。おっしゃる通りです」
「そこまでご理解いただけてありがたいねぇ。なら無関係の五十嵐先生は口出さんでもらってええ?」
「ええ。そう考えて今日俺は席を外したんですけどね。俺もお節介ながら様子を窺っていたのですが……。教師2人が怒鳴り合い取っ組み合いになっているのを見せられる一ノ瀬のことを想うと居ても立っても居られない気持ちになってしまって、ここに来たのですが」

 五十嵐先生は自身を邪険に扱う桐渓先生をもろともせず切り込んでくる。それは、五十嵐先生にだけ向けた言葉ではなく僕にも刺さる言葉で身が小さくなる思いだ。
 手を先に出してしまったのは、僕だ。昨日のことではなく過去のことを引っ張り出して、悪意を以って傷つけようとする桐渓先生の姿を見ていたら、身体が動いてしまった。もっと手を出さずとも話し合いで済むようにするつもりだった。
 それなのに生徒を怖がらせて泣かせてしまって、罪悪感で胸が苦しくなる。僕は何も言えない。教師としてあんなことしたくなかったのにしてしまったことを悔やんだ。
 桐渓先生も納得いってない顔しながらもさすがにここは学校であると言うことを思い出したのかばつの悪そうな顔をしていた。……反省は、あまりしていないように見えた。

「……お2人とももう少しでいいので一ノ瀬自身のこと見てやってください。生徒とかそう言うの関係なく、一ノ瀬と言うただひとりの人間のことを。ああやって本人を置いてけぼりに怒鳴り合っているのを見せられたら、あいつ可哀想ですよ」

 五十嵐先生にそう懇願するような響きでそう言われてはじめて一ノ瀬くんの立場を考えてみた。
 大人たちが、急に自分のことで怒鳴り合い掴みあっているのを見せられて……そう言えば僕庇うことばかりに夢中でちゃんと一ノ瀬くんの意志を聞いていなかったと思い至り後悔した。自身の未熟さに嫌気がさす。そんな自責の念に捕らわれた、が、それよりも意識が違うところへ集中した。
「……は、なんや。けーっきょくお前も透庇うんかい」
 桐渓先生は口角を歪ませて五十嵐先生を馬鹿にするように……責めるように、そう言った。

「どいつもこいつも。俺の気持ちを考えずよー言えるわ。ほんとう、なんで俺ばっかそう言われなきゃあかんねん。なんで俺を悪者扱いすんねん。こちとら、親友と幼馴染失ってるんやで。そんでどうして俺ばっか責められる。それおかしくないんか?確かにあいつは子どもやけど子どもだからこそやったらあかんし許されないことしたんやで。あいつ、何も傷ついていないばりの無表情やん。いっつもそうやで?あいつは何も気にしていないんやから。俺があいつに責めるのは無理なくない?」

 不貞腐れたように口を尖らしている桐渓先生の言葉がさっきのように理解できなかった。この人は、何を言っているのか。何とか治めることに成功した怒りがふつふつと湧き上がってくる。子どもだからこそ?無表情だから責めても、いいって?

「……桐渓先生あなたっ!」

 また感情のままに叫び掴みかかりそうになった。けれど、そんな僕より先に五十嵐先生の言葉のほうが早かった。

「桐渓先生は、一ノ瀬越しにだれを見ているんです?」

 感情のままに桐渓先生に掴みかける僕とは真逆に、普段賑やかで大きな笑い声が絶えない五十嵐先生が何の感情のない冷静な声で問う。真っ直ぐ桐渓先生の目を射抜いて、何の表情のない顔で。
 その表情は一ノ瀬くんの変動の少ない顔よりも『無』だった。桐渓先生は五十嵐先生のいつもと違う様子に一瞬固まったけれど、すぐにいつも通り口角だけ上げた。

「一ノ瀬透って言うやつを見ておったけど?」
「確かに見てはいましたね。けれど、ちがう。あなたは一ノ瀬を見ていない。何をそんなに一ノ瀬に執着しているんですか。憎んでいる……だけではない気がする。一ノ瀬を傷つけようとして……さっき一ノ瀬の泣いた顔を見たとき、あなたは楽しそうでしたよ。今の笑みとは全く違う。もっと暗い愉悦に浸っている顔をしてました」
「っ!」

 そんな表情を浮かべていたのか、と僕は伊藤くんの登場にばかり目を瞬かせていて気が付かなかった。でも、どうして?どうしてそんな表情を浮かべるのだろうか。
 僕は、傷ついた顔も泣いた顔ももう見たくなんてない。どうしてそんな顔を見てそんなことを思えるのか、信じられない気持ちになる。

「もう一度聞きます。あなたは、だれを見ているんですか?一ノ瀬を通して、だれを映していたんですか?」

「だまれだまれだまれだまれぇっ!」
「うおっ!?」
「五十嵐先生っ」

 冷静を貫いていた五十嵐先生が驚きの声を上げる。そうなるのは仕方ないことだ、だって桐渓先生がいきなり机の上に置いてあったファイルを五十嵐先生にめがけて投げつけたのだ。

「大丈夫ですか?!」
「お、おお。平気だ、驚いたけどな」
「お前も九十九みたいなこといいやがってっ!」
「つくも?岬先生、誰か知ってるか?」
「いえ、僕は知らないです……」

 唐突に知らない名前を出して五十嵐先生に向かって叫んだ。理科担当だけどプライベートで身体をよく動かす五十嵐先生はギリギリで投げつけたファイルを避けれたらしい。避けられたファイルは後ろの壁にゴッと鈍い音を立てて激突しバサッと床に落ちていった。まるで癇癪を起こした子どものように桐渓先生は「だまれ」と「出て行け」を交互に繰り返しながら力なく筆記用具やクリアファイルをこちらに投げてくる。
 今は軽いものだからいいけれどこのまま薬品まで投げられたら危ない、と五十嵐先生は判断して言われた通り黙って保健室を出て行くことにした。僕も五十嵐先生に続いて保健室を出る。出る寸前桐渓先生のほうを見ると、普段のおもしろくて接しやすい生徒に好評な若々しい先生が嘘のように、目が虚ろでぶつぶつと何か言いながらモノを投げている姿に恐ろしくてなって目を逸らした。


「いやービビったなぁ。」
「そう、ですね。」
「触れてはいけないところに触れてしまった感があるな!」

 保健室を出て職員室まで向かうときにはもういつも通りの五十嵐先生になっていた。まるでさっきの無の表情が嘘のように快活で豪快な雰囲気に戻っている。すこし混乱するけれど……さっきのことは夢ではない。それなら僕が言えることは、一つだ。

「五十嵐先生、ごめんなさい」
「まぁまぁ!謝るなら一ノ瀬にってことで!」
「はいっもちろんです!ありがとうございます!」
「おう!」

 一ノ瀬くんの気持ちを蔑ろにしてしまったこと、それに気付かせてくれたことへの謝罪とお礼を告げればいつも通りの大声で受け取ってくれた。
 ちょっとだけ。さっきの無の表情が怖かったしどちらが本当の五十嵐先生なのかと疑ってしまうし僕にはどちらが本当なのかなんて判断できないけれど、きっと今の五十嵐先生も本当だとそう思うからそこらへんはあまり気にしないことにした。
 ……昨日と今日の朝桐渓先生と喧嘩になりそうになったのを止めて、さっきも僕らを止めてくれたことに関しては気にしなくてはいけないけれど…。感謝してもしきれない。さっき一ノ瀬くんの苦しそうな顔していたのに気づくこともできなくてもっと傷つけてしまっていたのかもしれない。そう思うと、ぞっとする。
 今度、何か奢ろうかな……。それよりなにか菓子折りでも買っていった方がいいのだろうか?いやそれは重いかな?うーん……?
 自分の不甲斐なさに嫌になりつつ、どう五十嵐先生にお礼するか考えている僕をとなりで微笑ましく見られていたことに気が付かなかった。

――――

「……伊藤、鞄自分で持つ」

 水滴がようやく乾いて冷静に周りを見れるようになった。
 伊藤に手を握られたまま駅まで向かっているのだが、冷静になって自分が手ぶらであることに気が付いて一瞬焦ったが手を握られているもう片方の手に伊藤と自分の鞄がぶら下がっていることに気付いてそう言った。自分の声がいつも通りで震えていないことに安心する。さっきのような腹のなかが嫌に冷える感じも、それに比例するように顔も熱くはなっていない。
 いつも通りの俺になったことをそう声をかけられて伊藤も安心したのかこちらを振り向いた。何故かギョッと驚いた顔をされる。視線の先にあるのはしっかりと繋がられた手と手。連れ出されたときのまま繋がれている。……上履きから靴に履き替えるときも片手は塞がっていて結構大変だったのが、伊藤はそれに気が付いていなかったらしい。焦って手を離される。ひんやりして少し寒い。

「わり、てか、おま、気付いてたなら、言えよっ。手汗で気持ち悪かっただろっ」
「……そんなこと、思わなかったから」

 確かに伊藤の言う通り、今は6月の下旬で大分気温も上がり7月や8月ほど日差しが肌を焼いていくような暑いわけではないが蒸した熱気がじっとりと肌に張り付くような不快感がある。そんな中手を握っていれば手汗が間に溜まって気持ち悪いと思うのが普通だろう。現に離された今掌にはじっとりと水滴が溜まっており、空気に触れてひんやりする。が、手を握られて俺も握り返していたがそんなこと気にならなくて、今手を離されてそう言えばそうだなと思ったぐらいだ。
 不快なんて思わない。その逆で嬉しかった。俺を助けてくれたその手が嬉しくて、手を離されて寂しいとか思ってしまうほどには。
 そんなことを思いながら自分の手をまじまじと見つめていると前からグゥっと変な呻き声が聞こえる。

「っほんと、透おまえ……あーー」

 伊藤は俯いて自身の前髪をぐしゃぐしゃとかき交ぜている。髪の隙間から見える健康的なその肌が少し赤くなっていて照れていることを察した。伊藤も、こちらを振り向くまで手を握っていたことに気が付かなかったぐらいだから不快なんて思っていなかったんだ、と今俺も気が付く。……さっきとは違った意味で自分の顔が熱くなり、目を逸らした。変な空気が流れているような気がした。この場から走りたいような、でもここにいたいっていう変な気持ちを持て余した。

――――

「とりあえず、ほらよ」
「……ああ、ありがとう」

 目を逸らしながら鞄を手渡してくれる。その際伊藤の手に触れてしまって恥ずかしい気持ちになる。落ち着こうと熱と一緒に息を吐いた。そして誤魔化すように、でも言いたかったことを告げる。

「ありがとう」

 同じ言葉になってしまったけれど、もう一度言う。来てくれて。連れ出してくれて。戻ってきてくれて。保健室に来てくれてありがとう。あそこから連れ出してくれてありがとう。一回出て行ったのに、戻ってきてくれてありがとう。俺の口から出たのは『ありがとう』だけだったけれど、そのすべての想いを込めてそう言った。

「……別に、いい。それより……透の話を聞かずに飛び出して悪かった」
「……いや、俺も言っていなかったことだったから。早く言えば良かった、俺こそごめん」

 心底後悔しているように詫びる伊藤に俺は首を振る。俺こそ言うタイミングが特になかったと思って伊藤に何の説明をしていなかった、怠慢だった。
 俺の方こそ謝るべきだ。謝る俺に伊藤は苦笑いしながらさっきのことを説明してくれた。

「勢いよく飛び出したけど、やっぱり後悔して透のこと下駄箱で待ってた。ちゃんと透の事情を聞こうって思ったんだ。で、通りがかった五十嵐先生に『今から一ノ瀬たちの様子を見に行くけどお前も来るか?』て言われてよ。邪魔したらとかちょっとは考えたんだけどよ……やっぱり気になって静かに様子だけ見ようって五十嵐先生とこっそりドア開けて見てみたら、何故か岬先生と桐渓は掴みあって怒鳴り合ってて、透はその前で項垂れているのを見たらまぁ……身体が動いてよ。あとはまぁ、勢いに任せたというか、五十嵐先生に任せちまった」
「そう、だったのか」

 俺の心配は……伊藤が俺の話を聞いてくれるか無視されないだろうかという不安はまったくに杞憂で終わったことに安堵し、五十嵐先生はこの話し合いのことを知っていたことに驚くと同時にそれもそうかと納得もした。
 昨日のことを知っている五十嵐先生が何も知らされないことはないかと思い当たった。
 岬先生は生徒のことを大事にしてくれる優しい先生。そして五十嵐先生は……頼りになる信頼できるひとだ。そう思う。
 俺に『おつかれ』と声をかけてくれたときどんな表情を浮かべていたのか改めて気になったけれど、もう確認できる術がないことに少し残念だった。どこか五十嵐先生は九十九さんに似ている気が……いや、さすがに気のせい……かな。

「桐渓と……どんな関係なのか教えてくれるのか?」

 気遣うような、少し戸惑うような響きで俺にそう聞く伊藤。それに俺はすぐにうなずいた。だって、伊藤に話したくないことはもう俺にはないのだから。ただ……ちょっとこの場では言えないか。誰に見られているのかちょっと分からないこの場では。

「家着いたらちゃんと説明するよ」
「そっか、分かった。……もう、大丈夫か?」
「ああ」

 目から水滴をこぼしてしまったことと動揺してしまったことを聞いているのが分かって、それも頷いた。
 どうしても俺は、今の自分はともかく知らない前の自分のこと出されると不安定になるようだ。記憶のないときのことを責められてしまうと俺は何も言えなくなってしまう。そして不確定な前の俺のことを庇われても戸惑ってしまうというのも分かった。
 責める桐渓さんも庇う岬先生も、俺には戸惑うばかりで負の感情も正の感情もなくてただただ混乱してしまう。伊藤は、ちゃんと『俺』を見てくれているんだと、分かった。俺の勘違いだった。最初から伊藤は前の俺も今の俺もすべて『俺』として見てくれたんだ。
 罪を犯してしまった俺のことも、その罪があったとしてでも今を生きようとする俺のことも、そんな俺のことを見た上で親友と言ってくれていたんだ。初めて会ったときから、ずっと。だから、昼に一瞬とは言え当たってしまったことが申し訳なく思う。

「ごめん」
「別に良いって。俺だって話も聞かずに悪かったな……」

 今の俺の謝罪はさっきのことではなくもっと前の時間のことだけれど……伊藤も落ち込んでいるようだったから、これ以上ほじくり返すのは辞めよう。お互い謝れたのだから、これでお相子にしよう。と勝手にそう考えて謝るのを辞めた。すでに謝罪してされている。それでいいか。伊藤は俺の態度ではなくて自分の態度を後悔しているようで、俺も自分の態度に後悔しているからお互い様だろう……。これ以上は伊藤も俺も精神がすり減る結果となりそうだった。

 そのまま駅に着いて改札を渡りタイミングよくやってきた電車の中に乗り込んだ。
 いつも通り最寄り駅に着くまでの間窓からのいつも通りの風景を眺めながら、ふと(そう言えば)と思い浮かべる。

 鷲尾は、叶野たちにちゃんと謝れただろうか。謝れるタイミングをちゃんとつかめたのかどうかだけ心配になった。当人たちの問題だから俺から聞くつもりはないけれど……心のなかだけで心配するのならたぶん許してくれる、かな?不器用な友だちを心配した。
 鷲尾も……結構叶野も不器用そうだから。せめて確執だけは出来ないことを俺は祈るだけしかできなかった。

18/34ページ
スキ