2.人間として。
「とりあえずこの話はお終いにしようか」
頷いた俺らに嬉しそうに笑ってそう締めて、お開きになった。が、俺にはまだ言わなくてはならないことがある。
「俺は話したいことあるから、先に戻っててくれ」
このまま出て行ってしまおうかなんて考えが一瞬過ったが、そんな卑怯なことは出来ないと思い直して鷲尾にそう言った。鷲尾は不思議そうな顔をして首を傾げながらも「わかった。僕は先に戻る、授業遅れないようにな。」と理科準備室を出て行った。
扉が閉まる音が聞こえたと同時に、頭を下げた。
「……ごめんなさい」
目の前の岬先生に謝る。え、どうしたの!?そんな慌てた声が耳に入る。確かに突然謝られてしまったら理由なんて分からないだろう。……俺のせいなのに、岬先生は俺を悪いとも思っていないんだろうけれど、それでも、俺の気が済まない。
「……桐渓さんに、何か言われたんですよね」
――朝あんな急いで息を切らしていた岬先生を思い出して苦しくなる。いや、もしかしたら昨日も怒られたかもしれない。
昨日俺が勝手な行動をしなければ、岬先生が怒られることや何か言われることはなかったのに。それでも俺は昨日の行動を間違いとは思っていない、それが尚更申し訳なく感じた。『このまま理科準備室を出て行きたい』と思った理由ではないけれど、岬先生に合わせる顔がなくて俯いて反応を待った。
「一ノ瀬くんが謝ることじゃないよ」
穏やかな答えとともに軽く頭に衝撃。叩かれているとかではない、俺の頭を優しく何回も往復している。驚いて顔を上げる。変わらない笑顔で右手がこちらに伸ばしている。そこでやっと俺は先生に頭を撫でられていたのだと知る。
「一ノ瀬くんの行動が間違ってると思ってないよ。鷲尾くんが心配だったんだよね?褒められても怒られることじゃないよ」
他の先生の意見はどうかはちょっとわからないけどね。と、最後は苦く笑いながら言った。
「……でも、俺のせいで責められたんじゃないですか」
「ちょっとだけね。でも生徒の行動に責任をとるのも僕のお仕事ですから」
悪戯した子どものように笑いながら先生はそう言う。口調こそ少しふざけているが、その目は真剣そのものたった。
「だからね、一ノ瀬くんは好きにしちゃっていいよ」
「好きに、ですか……」
「うん。だって、一ノ瀬くんは自分の行動に後悔はしていないように見えるしね。……頭で考えるよりも行動してしまうそんな気持ちを忘れてほしくないかな」
「……?」
『天才』だとか称される頭脳を持っているらしいけど、岬先生の言っていることは難しくてよくわからなかった。どこか寂しそうに遠い目をしている意味も俺には分からないけれど、良い人であり良い先生であることは分かった。
「そのうち分かるよ。とりあえず、一ノ瀬くんは僕のことは何も心配しなくていいし謝らなくてもいい」
言った意味を理解できずにいる俺を察したように笑いながらまた頭を撫でられる。なんとなく、子ども扱いされているのは分かった。不服と言うよりも気恥ずかしい。
「……後悔ないように生きてね」
岬先生は独り言のようにつぶやいた。俺に言っているのか独り言なのか…岬先生自身に向けた言葉なのかはわからない。でもその響きが、ひどく重みがあるように感じて、ずっしりと胸あたりに乗った気がした。重い言葉だった。けれど、静かに撫でられるこの空間は心地よいものに感じてそっと目を閉じる。
「あっ!そうだった、ごめん一ノ瀬くん。放課後残れるかな?」
静かな空間から一変して岬先生が慌てて話し出す。
「その、桐渓さんと……」
……俺がこのまま鷲尾とともに教室に戻ろうかと思ってしまった理由。出来ることならあまり、桐渓さんと話したくはなかった。正論だとしても確かに自分が悪いのだとしても、俺にとって桐渓さんと話す……以前に名前を聞くだけで腹がぎゅうっと痛くなる。
それでも迷惑をかけたであろう岬先生に謝りたかったし、逃げると言うこともしたくなかった。傍から見れば桐渓さんに怒られるのはきっと当たり前のことだけど、ずっと心のなかで恐怖していた俺にとってかなりの勇気のいる覚悟を以って岬先生の言葉に静かに頷いた。
頷く俺になにか言いたそうに口を開けて、でもなにか思い直したようにまた閉じて眉を寄せて悲しそうな顔をして、指示される。
それにまた頷いて、時計を確認するとそろそろ戻らないと午後の授業に遅れてしまうので、ここで退出することにした。岬先生に見送られながら教室に戻った。……ツキツキと胃のところが痛むのを見ないことにして。
――――
「昨日の件は確かに僕のせいであり先ほど岬先生と話したのは昨日のことについてだ。混乱させたのは申し訳なく思う。だが貴様らに昨日のことを赤裸々に話す道理はない。そんなに他人のことに野次を飛ばしている暇があるのであれば勉強でもしたらどうだ?少しでも空っぽの頭に知識を叩き込むがいい」
そう言い切って『フン』と皆に聞こえるよう溜息を吐いた。俺が教室のドアを開けて目に飛び込んだのはそんな鷲尾の堂々たる姿である。やっぱり通る声をしており本人もそんな長所を隠すと言う意志もないものだから高圧的に感じる。
鷲尾はあの小室とかに囲まれている状態で、まるで朝の俺と同じような立場に鷲尾はいた。……状況から察するに、たぶん鷲尾も小室たちにしつこく質問攻めにあったんだろう。そこで苛立った鷲尾がああいった、と言ったところだろう。
「おま、おまえは加害者だ!それならクラスメイトの俺らにも説明する道理はあるだろ!?」
「貴様らはあのとき傍観者だっただろう。止めようともしなかった奴らに説明する意味なんてないだろう。少なくとも僕には無意味と感じる。悪かったと思う相手は貴様らではない。悪いと思っているのは……僕が傷つけることを言われた、叶野たちだけだ」
凝りもせず噛みつこうとする小室に呆れた気持ちになる。昨日の不安定な鷲尾なら激高していたり傷ついている可能性はあるが、今日の鷲尾はそのぐらいではもう激高もせず傷ついたりもしない。ただ、昨日のことは後悔している様子ではあるが。なおも言い募ろうとする小室をとがめる声があがる。
「つかさ昨日もそうだったけどよ、小室お前さあの後叶野たちにも変に食いついて岬先生にも面白おかしく報告してたけどさ。当事者でもないお前がそんなふうに言うのって違くないか?朝もこうやって絡んで一ノ瀬にも怒られただろ。なに同じこと繰り返してるんだよ」
「あと鷲尾を囲んでいるお前らも小室と同じだから!関係ないですーって感じで目そらしてるお前らもな!1人を囲むのは卑怯だと思うぜ!!」
呆れた口調で小室に諭すように話すのは沢木と、小室の周りにいる奴らを責めるのは沼倉。小室と鷲尾の周りを囲むやつら以外のクラスメイトはそいつらを冷めた目で見ている。もちろん、伊藤も。と言うかあんなに恐れていた伊藤の前で言えるのってすごいな……。
叶野と湖越の姿はなかった。そろそろ授業始まるけれど、大丈夫だろうか。2人を心配していると、教室の様子にビビったようにキョドキョドと周りの見ていた小室と目が合った。思いっきり嫌な顔をされた。
「どいつもこいつも……偽善ばっかりで、気持ち悪!」
そう言って小室は舌打ちして俺の隣を通り過ぎて教室を出て行ってしまった。俺の横を通り過ぎる際もう一度舌打ちされた。
走り去る小さくなっていく背中を見送って、扉を開けたはいいが入るタイミングを見計らっていたのでここで入ることにした。
小室を目で追いかけたクラスメイトが俺の存在に驚いているのを尻目に席に着いた。鷲尾はすでに小室に言われたことなんてなかったかのように自分の勉強に取り掛かっている。俺も見習って小室のことをなかったことにした。小室の周りにいた奴らはざわざわしていたけれど、誰一人小室を追いかけずそれぞれの席に戻っていく。……それを見て冷めたような苛立つような変な気持ちになる。
「透、おかえり」
「……ああ」
伊藤が話しかけてくるのに相槌を打った。俺に笑顔を向けてくれるのが、うれしい。だけど、うまく返せない。いつものように返せない。
俺に笑顔を向けてくれるのは『前の俺』を被せてそのうえで俺に笑みを向けてくれているのではないか、とそう思ってしまったのをまた思い出してしまった。伊藤からすれば『前の俺』のことを一番知っていて、俺にもその『前の俺』を被せるのは決して悪いことではないし、むしろ『今の俺』のほうが、伊藤からすれば異端なのだと分かってる。
記憶のない俺を捨てることができたのにそれをしないでくれる伊藤の優しさの上で俺らの関係は成り立っていると言っても過言ではない。価値のない俺を拾ってくれて大事にしてくれるのは、他でもない伊藤。俺のことを認めてくれる、これ以上の贅沢はない。わかってる、わかってるんだ。
――わかってる、んだ。頭では。
でも、心のどこかで『今の俺』を見てほしいと、叫んでいる自分がいる。
純粋な伊藤の好意と優しさの上に、さらに俺は欲しがっている。そんな自分が醜くて、嫌になる。いつもと違う俺の態度に伊藤はじっと見ているのを感じるけれど見ないフリをした。……今、口を開けば伊藤を傷つけてしまいそうだった。時間にすれば数分だけど、午後の授業が始まるまでずっと伊藤の視線を無視している時間がとんでもなく長く感じた。
放課後は来てほしくないけれど、気まずくて午後の授業は早く来てほしいと願いながら俯いた。この数分のあいだに叶野と湖越が戻ってきていたことに気が付かず、出席で返事しているのをみてやっと戻ってきたことに気付くぐらいには周りのことを見ている余裕がなかった。
――――
「……岬先生と話すことあるから、さきに帰っててほしい」
授業を終えて帰りのHRも終了して放課後になった。一回目の午後の授業を終えたころには平常を取り戻したので伊藤に普通に接せた。俺の態度が戻ったことで伊藤にホッとした顔をされて申し訳ない気持ちになった。
HRを終えて、伊藤に『よし、透帰ろうぜ』と言われて普通に頷こうとする寸前で岬先生と……桐渓さんと話さなければならないのを思い出してしまった。気分が落ち込むのを感じる。
「あ?もう岬先生とは話しただろ?」
「……そうだけど、ちょっと俺だけと話さないといけないんだ」
桐渓さんは忌み嫌っている、どころか憎い俺と関りがあると周囲に知られるのを嫌がっている。担任の岬先生と校長ぐらいしか俺と桐渓さんの関係性を知らない、と思う。
伊藤に隠している訳ではないが、学校で俺が桐渓さんの名前を出せば勘ぐられてしまう可能性があったためその辺を伏せた。正直言えば学校でなければ伊藤には普通に桐渓さんのことを話していた。
……言うタイミングが無かっただけで伊藤に隠すつもりはさらさらなかったが、こうなってしまうのであれば自ら桐渓さんのことを話すべきだった。後悔するが遅かった。見るからに苛立ってきている伊藤に心底焦る。
「なんで透が2回も呼び出されなきゃならねえんだよ。おかしいだろ?鷲尾は一回で済んでるのに、なんでだよ。透は悪いことしてねえだろ。なんで怒られなきゃいけねえんだよっ」
俺のことを想って怒ってくれているのは痛いほどわかる。もうここで桐渓さんのことを言いたい気持ちになりながらも、それを抑えた。この場に既に鷲尾がいないことに一先ず安心する。また自分を責めそうな気がした。
「……怒られる、訳じゃない。理由があるんだ。ここでは言えないけど伊藤にもちゃんと説明する、あとでちゃんと事情を」
「もういいっ」
隠し事にするつもりではなかったし本当にちゃんと説明するつもりだった、けれどどうしても言い訳にしか聞こえないであろう俺の言葉を遮って伊藤は教室を出て行ってしまった。
昨日の鷲尾のように、でも鷲尾のときみたいに追いかけられなかった、何故か、簡単だ。俺の足が動かなかった。情けないことに震えている。立つのが辛くて席に着いた。……少し俺の話を聞かないで、荒い口調で言葉を遮られた、それだけなのに。
「……」
俺は、俺のことを大事にしてくれる人も大事にできないみたいだ。それが悔しい、そして悲しい。辛い。
伊藤に隠すことなんてないのに。隠さなくても平気だってそう思える相手なのに。昨日鷲尾に言われたことは気にしなかった。小室のように何を言われたって『どうでもいい』とはちょっと違う、ただ本当に気にしてなかった、むしろ鷲尾はどうしたのだろうとまで思ってた。
だけど、今は全然違う。自分の気持ちが落ちていく、立ち上がるのも億劫なほどに。力が抜けていく身体に抗うことなくだらりと力なく机に突っ伏した。
素っ気なくされるのがこんなに堪えることなのだと思い知る。自分の幼稚さで伊藤をどれほど傷つけてしまったか知ってしまう。自業自得だ。俺は良くて伊藤は駄目とか、そんな自分勝手なこと思えずただただ自分の行動に後悔した。もう、どれだけ後悔していいのか……自分が嫌になる。誰も聞いていないのをいいことに思いっきり溜息を吐いた。
溜息を吐き終わって、教室のドアが開いた。そこにいたのは伊藤……なんてことはなくて、
「一ノ瀬くん、ごめん。そろそろ行こっか」
岬先生が迎えに来た。桐渓さんと話すために俺を向かいに来てくれたのを認識した。ズキリ、と胃が痛んだのを無視して立ち上がり岬先生のほうへ歩く。果たしてこんな不安定な情緒の自分がちゃんと話せるか分からないけれど……、今日は岬先生がいてくれる。2人きりで話すときのようにまではいかないだろう、はずだ。
第三者がいることによって多少は冷静に話せるかもしれない、俺はちゃんと桐渓さんと話せていないからチャンスなのかもしれない。
どうして、俺を嫌うのに憎くて視界にも入れたくないことを言うのに、そのくせ俺に掴みかかったり強引に保健室に連れて行ったり、執着するようなそぶりを見せるのか……それが少しでもわかるかもしれない。俺が精神的に耐えられるのか分からないし、俺も冷静に桐渓さんと話せるのか分からない、けどいつもとは違う人もいるからいつもと違う展開にはなるかもしれない。
岬先生の後をついていきながらマイナスにばかり考えないよう、少しだけ前向きに考えてみた。言い聞かせばそのうち真実になるかもしれないから。俺の緊張を解かそうとした岬先生が気遣ってくれてか話しかけてくれたのだが。
「そういえば伊藤くんはいないんだね、なんだか待っているイメージがあったからちょっと意外だね」
そう邪気のない言葉にまた落ち込んで岬先生に心配されたが、保健室の前に着くまでになんとか少しだけ落ち着いた。先に保健室に入っていく岬先生のあとを追うように、気が付かれないぐらいに浅く深呼吸して歩みを進める。
話し終えたら、伊藤にちゃんと話そう。今日呼ばれた理由と俺と桐渓さんの関係を。そうすれば、今度こそ俺は伊藤に隠し事がなくなる。そもそも俺としては特に聞かれて困るものではない。……怒られる訳じゃない、つい伊藤を落ち着かせたくて言ってしまったけれど。岬先生には怒られないと言う意味ではあっているけれど、桐渓さんにはたぶん怒られる、とおもう。
言葉につい出してしまった事故みたいなものだけど、うそになってしまうからそこも謝ろう。……問題は伊藤が俺の話を聞いてくれるかがなんだけれど…。今から桐渓さんと話すのに、伊藤のことをつい考えてしまう自分に気付かずにそのまま保健室のなかに入って、自分で扉を閉めた。
――――
「……」
保健室に入ってから誰も言葉を発さず、痛いほどの沈黙のなか俺は座っている。俺と桐渓さんが向かい合って座って、岬先生がその間に俺らで三角の形になって座っているのだが。
意外とでも言うべきか、桐渓さんが俺と視線を合わせようとしないのはどうしたのだろうか。普段なら俺の罪を厳しく非難し射貫こうとしているか如く鋭く睨みつけ、酷いときは手や足も出るほどだ。けれど、今はどこか弱々しい。まるで何かを恐れているようだ。
「桐渓先生」
いつまでも続くのではないかと思い始めるほどの長い沈黙を終えたのは岬先生だった。静かに桐渓さんを呼んだ。その声は澄んでいて怒っていないのにどこか圧を感じてしまうのは何故だろうか。岬先生の顔はあんなに穏やかなのに、優し気に見えるのに。
桐渓さんは俺どころか岬先生にも目を合わせることはない。青ざめている、気がする。
「いつまでも無言でどうしたのですか?僕がいると話しにくいんですか?」
「……せや、な。俺と透の問題で、一応身内の問題やしな?できれば岬先生には席外してほしいねんけど……」
「それは駄目です」
「……岬先生、俺が言うことに口出す気やろ。だから話しにくいねん」
「理にかなっていることであれば口に出すつもりはありません。ですが、一ノ瀬くんを責めるだけと言うなら僕は止めに入りますよ」
「そんなに俺が信用ならんの?」
「念のためですよ。僕が安心したいからここで話してほしい、それだけです」
決して怒鳴り合う訳ではない。罵り合っている訳でもない。けれど、棘がある言い方をしていて空気もギスギスしていて酷く息苦しい。どこか桐渓さんが怯えているように感じるのは、たぶん気のせいじゃない。そして、桐渓さんに敵意をむき出しにしているように見える岬先生も。
「……桐渓さん」
桐渓さんに対して俺はずっと怯えていた。何を言われるのか、また詰られ傷つけられるんじゃないか、痛い思いをさせられるんじゃないかって、そう思ってたから。
でも、今俺はちゃんと桐渓さんと目を合わせている。震えることなく名前も呼べる。……全く怖くないとまではいかないけれど、予想していたよりは怖くない。
むしろ、目を合わせず青ざめている桐渓さんに笑みを浮かべて静かに穏やかな口調で話す岬先生のほうが、少し怖いと思った。そんな岬先生を見ていたくないとも思った。このままだといけない気がして、桐渓さんを呼んだ。
「勝手なことをして、ごめんなさい」
頭を下げて謝る。悪いことはしたつもりはなくとも桐渓さんの忠告を無視して目立つことをしたのは本当のことだ。一回ちゃんと謝らないといけない、それは俺が悪いことしていなくとも迷惑をかけてしまった人に出来る誠意だとおもう。……ほんとうに、悪いとは思っていないのに謝るのは不誠実な気もするけれど……。それでも、謝りたいという気持ちはあった。
「謝るぐらいならすんなって話やなぁ……。そうすれば、わざわざ電話をかけんで済んだのになぁ。そういえばお前昨日の電話出てないやん。いや昨日どころか、あれからずっとやん」
頭を下げて謝る俺に吐き捨てるようにそう言う桐渓さん。顔を上げればじとりと俺を睨んでいる。……確かに。桐渓さんの言うことに、納得はする。
勝手なことをすれば怒られるのを分かっていないわけじゃない。忠告も受けた。俺のことを憎んでいて嫌々俺の保護者のような立場にいることになって、そのうえ目立つようなことをされれば苛立つなんて分かっていた。
俺は分かってた。知っていた、また何か言われて手を出される可能性も俺は身を以って知ってる。また俺は痛くて辛い思いをするかもしれない、と言うことも。
だけど、友だちが苦しそうなのを見捨てて、自分の身だけを守ろうとするよりも断然良い。俺は自分がどんな目に合ったとしても『友だち』を大事にしたい。嫌なものは嫌でも、耐えられなくはない。友だちを放っておくなんて、俺は耐えられそうにないから。
……だから本当は……今すぐにでも伊藤に会いたい。この話し合いを終わらせたい。
ほら、すでに俺は後悔してる。伊藤を追いかけずこうして話し合うことを取ったことを。
どうして足を動かせなかったんだろう。
どうしてすぐ追いかけられなかったんだろう。
どうして、すぐに自分が傷つくのを恐れてしまうんだろうって。
「……ごめんなさい」
桐渓さんの言葉に謝罪を繰り返す。反省していない謝罪はどうも軽い気がする、心がここにいないからって言うのもあるんだろうけれど。でも、桐渓さんは俺のことを見てないからそれに気付かない。視線は俺に向けているけど、俺のことは見てない。桐渓さんよりも知り合って日が浅い岬先生が俺に首を傾げているのに。
「謝れば済むって思うてんなぁ。すーぐそうやもんな。謝ることしかできないヤツやもんな。頭ええのに。勉強のことはすぐ入る脳持ってるのになぁ。理由は、まぁた忘れたんか?どーしてそこだけは毎度忘れてしまうんやろなぁ?自分の都合の悪いことはぜーんぶ忘れてしまうめでたい頭してるんか?ほんっと、うらやましいわ」
「……」
冷めて渇いた笑みを浮かべながら俺を詰る桐渓さんを見つめる。記憶喪失のことを出されてしまうと、俺はもう何も言えない。
伊藤にすべて話して自分の罪と向き合って、両親が心の底から俺に幸せになってほしいって願っていたことを教えてくれた。だから、俺はちゃんと『人間』として生きることを決めた。自分が思うがままに楽しむことや憤ることを自分の思ったことを発言することを、自分で許せるようになった。
すべてを知ってるはずの伊藤は俺のことを認めてくれた。もし本当に俺に罪があってもそれでも俺に生きてほしいと叫んでくれた。だから、俺は笑える、怒れる、悲しめる。
だけど……俺の罪を知っていて、それを責める桐渓さんにどう俺は受け止めていいのか分からない。本当のことだから。俺は勉強のことはすぐに記憶できるのに、6年経った今でもあのときのことを思い出せやしないのだ。
酷く居心地が悪い。桐渓さんはこういえば俺が何も言えずただただ耐えているのを分かっている。だって、今の桐渓さんは……その黒い目は空虚なのに妙にギラついてて興奮しているから。
ずっと、こんな目で俺を責めていたのだろうか。今日初めて俺を責めるときの桐渓さんの顔を見た、いつもは俯いて見れなかったその顔を見て分かってしまった。
(ああ、この人は俺のことなんて見てないんだな)
俺越しに違うだれかを見ている。少しでも俺は前と違うんだって思って桐渓さんの顔をちゃんと見ようと思ったけれど後悔した。……見なければよかった。
俺のこと映しているのに俺のことを見ていない。なんだ……。桐渓さんが『今の俺』を見て『俺の罪』を責めているのかと思ってたのに。そのほうが良かったのかもしれない。
傷つく俺越し違う誰かを映していた、桐渓さんは遠くを見てた。俺のことを目に映しながらもその意識はまったく違うところにいる。
その誰かなんて、もう俺にはどうでもよかった。ただ失望した。俺のなかの感情はもう苦しいも悲しいも怒りもなにもない、ただただ……空しくて仕方がなかった。
――――
「一ノ瀬くんが謝ることしか出来ないようにさせているのは、他でもない桐渓さんじゃないですか」
俺らを静観していた岬先生がそう言う。揺れることのない水面のような静かな声なのに、嵐のような響きを持つ不思議な声。桐渓さんから視線をそらして岬先生を見つめる。硬い表情で冷たく厳しい目で桐渓さんだけを見ていた。そこにいつもの優しくて穏やかな岬先生の普段の面影は見当たらない。
「それになぜ今一ノ瀬くんがひたすら悔やんで苦しんでいるであろう過去を持ってきてんですか、そこを責めるのは今は違うんじゃないでしょうか?呼びだしたのは一ノ瀬くんがまだ学校を終えていないのに飛び出してしまったことに関してですよね?どうして今過去の話を持ち出すんですか。わざわざそれを持ち出すなんて、そうまでして一ノ瀬くんを傷つけてたいんですか」
桐渓さんを睨みつけるように見つめながら、岬先生は厳しく桐渓さんを責めた。今まで岬先生から目をそらしていた桐渓さんもそうまで言われことは心外だったのか、ハッと笑いながら濁った眼で岬先生を見つめる。
「……こいつが、反省しているように見えんからなぁ。前に岬先生には話したと思うんやけど、俺もこいつのせいで親友と幼馴染失ってるんやで?岬先生は痛いぐらい正義感強いお人やからねえ。そりゃ生徒のこと庇いたくなって俺のこと悪者にしたいんやろうけどなぁ。責めたくなる俺のこともちょっとは気遣ってもらってもええんやない?」
「反省していないって理由だけで一ノ瀬くんを一方的に傷つけて良いんですか?少なくとも僕にはそこら辺に至っては納得できない。あなたは確かに親友と幼馴染を失ったのでしょうけれど、一ノ瀬くんも両親を失っている。辛いのはあなただけじゃない。一ノ瀬くんだって辛かったはずです。どうして、悲しんでいる一ノ瀬くんにそう言えるんですか」
「……岬先生」
桐渓さんの言うことに岬先生はどこまでも冷静に返答した。ゆったりしているのに温度のない冷たく静かな口調で、桐渓さんの言葉に真っ向から反論する。目をそらすこともない。表情を変えることもない。
俺のことは担任だからきっと他の先生よりは知っているんだろうなとは思っていたが結構知っていたことは予想外だった。
転校してきた日は桐渓さんは岬先生に親しそうだった気がする。桐渓さんから色々話を聞いていたんだと想像はついた。岬先生の言葉はきっと正論だと思う。それと同時にすぐ(あ、まずい)と思った。言葉を遮ろうとしたけれど、一拍遅かった。
つい俺が岬先生を呼びかけて視線を俺に向けたと同時に、桐渓さんが火が付いたかのようにカッと目を見開いて興奮に顔を赤くして、ガパリ、大きく口を開けた。
「っほんと、うっさいわ!何も知らん岬先生に教えたるわ!!ええか、薫と灯吏はこいつを庇って死んだ!そのうえ!こいつはなぁ……!その両親のこと忘れてるんやぞ?!庇ってもらっておいてっそのせいであいつらが死んだのにっ!こいつは、ぜんぶわすれて……」
立ち上がり俺を指さして、そう桐渓さんは叫んだ。心からの、掠れた声の『悲鳴』だった。俺は、その叫びを聞いたことがある。俺のすべてを憎んで、両親の死を悲しみ嘆く姿を。
俺が起きたときと同じ……すがた。
胸が痛んだ。『今の俺』は、その傷ついた姿を2番目に見た。今のように責めて、傷ついた顔の桐渓さんの姿を。前のときは祖父がその後ろで同じような顔で見ていた、あのときを思い出して刃物で切り付けられたと同じぐらいの痛みが、心臓を襲う。
――――
桐渓さんは保健室で、俺の罪を糾弾した。
叫びのあと、またしても痛くなりそうなぐらいの静けさが襲う。そこら辺の事情はきっと説明されていなかった岬先生が桐渓さんが告げた事実に、目を見開いたのを視線をこちらに向けるが、視線が合う前に俺は目を逸らした。見せる顔が見当たらない。
……優しくしてくれた人が、自分を見る目を急変させるのをもう見たくなんてなかった。記憶のない俺の両親を大事に想っていた桐渓さん。俺の罪。両親を死なせてしまったことと、その両親を忘れてしまったこと。
伊藤に自分の罪を告白して。それでも俺の味方だからと言ってくれた。でも、岬先生はきっと桐渓さんに同情すると思う。だって、俺より長い付き合いだから。俺に対してだけは酷いけれど、それは仕方ないことで、それ以外はきっと良い人なんだとおもう。
俺のことを抜きにすればきっと空気を読むことに長けていて優しい先生なのかもしれない。俺は『一ノ瀬透』だから。……桐渓さんの、大事な人を奪っておいてその大事な人を覚えていない『一ノ瀬透』だから、俺のいないところの桐渓さんのことは分からないけれど、評判自体悪くないようだった。クラスメイトは桐渓さんを『おもしろい関西弁の先生』『いつも笑顔の先生』って言っていたのを俺は聞いてる。前に職員室にいたときも女性教員に見られていたし、俺が思うよりも良い先生らしいから。
俺は、大丈夫。
岬先生が仲の良い桐渓さんの味方になるのは当然のことだ。
優しい岬先生だから、俺のことを蔑ろにはしなくとも多少距離を置かれてしまうだろうと予想する。
でもだいじょうぶ。俺には伊藤がいる……いや、でもどうだろう。俺の話を聞いてくれるだろうか。きっと、だいじょうぶだと思うけれど、自分に自信がない。俺の味方だと言ってくれたけれど、今の微妙な感じだとやはり不安だ。言わなかったことを謝って、しっかり事情を説明すれば大丈夫、だろうか……。俺の悪いところはすぐに伊藤のことを考えてしまってその場を疎かにすることなのかもしれない。俺は気付けなかった。
岬先生が、桐渓さんが唐突に叫んだ事実を何を言ったのか理解して目の色が変わったことに。冷静であったはずの岬先生が一気に興奮状態に陥っていたことに。そもそもどうして岬先生があんなに焦って朝のHRに来たのか、そこらへんが頭から抜けていたのであった。
目を逸らして伊藤のことを考え始めてしまった俺も、自分の湧き上がる感情に委ねていた桐渓さんも、岬先生を見ていなかった。
「っ記憶喪失の子どもに、あんたはそう責めたのかっ!?なにしてるんだよっ!!」
悲痛と怒りが入り混じった、桐渓さんを責める岬先生の声を聞くまでは。
頷いた俺らに嬉しそうに笑ってそう締めて、お開きになった。が、俺にはまだ言わなくてはならないことがある。
「俺は話したいことあるから、先に戻っててくれ」
このまま出て行ってしまおうかなんて考えが一瞬過ったが、そんな卑怯なことは出来ないと思い直して鷲尾にそう言った。鷲尾は不思議そうな顔をして首を傾げながらも「わかった。僕は先に戻る、授業遅れないようにな。」と理科準備室を出て行った。
扉が閉まる音が聞こえたと同時に、頭を下げた。
「……ごめんなさい」
目の前の岬先生に謝る。え、どうしたの!?そんな慌てた声が耳に入る。確かに突然謝られてしまったら理由なんて分からないだろう。……俺のせいなのに、岬先生は俺を悪いとも思っていないんだろうけれど、それでも、俺の気が済まない。
「……桐渓さんに、何か言われたんですよね」
――朝あんな急いで息を切らしていた岬先生を思い出して苦しくなる。いや、もしかしたら昨日も怒られたかもしれない。
昨日俺が勝手な行動をしなければ、岬先生が怒られることや何か言われることはなかったのに。それでも俺は昨日の行動を間違いとは思っていない、それが尚更申し訳なく感じた。『このまま理科準備室を出て行きたい』と思った理由ではないけれど、岬先生に合わせる顔がなくて俯いて反応を待った。
「一ノ瀬くんが謝ることじゃないよ」
穏やかな答えとともに軽く頭に衝撃。叩かれているとかではない、俺の頭を優しく何回も往復している。驚いて顔を上げる。変わらない笑顔で右手がこちらに伸ばしている。そこでやっと俺は先生に頭を撫でられていたのだと知る。
「一ノ瀬くんの行動が間違ってると思ってないよ。鷲尾くんが心配だったんだよね?褒められても怒られることじゃないよ」
他の先生の意見はどうかはちょっとわからないけどね。と、最後は苦く笑いながら言った。
「……でも、俺のせいで責められたんじゃないですか」
「ちょっとだけね。でも生徒の行動に責任をとるのも僕のお仕事ですから」
悪戯した子どものように笑いながら先生はそう言う。口調こそ少しふざけているが、その目は真剣そのものたった。
「だからね、一ノ瀬くんは好きにしちゃっていいよ」
「好きに、ですか……」
「うん。だって、一ノ瀬くんは自分の行動に後悔はしていないように見えるしね。……頭で考えるよりも行動してしまうそんな気持ちを忘れてほしくないかな」
「……?」
『天才』だとか称される頭脳を持っているらしいけど、岬先生の言っていることは難しくてよくわからなかった。どこか寂しそうに遠い目をしている意味も俺には分からないけれど、良い人であり良い先生であることは分かった。
「そのうち分かるよ。とりあえず、一ノ瀬くんは僕のことは何も心配しなくていいし謝らなくてもいい」
言った意味を理解できずにいる俺を察したように笑いながらまた頭を撫でられる。なんとなく、子ども扱いされているのは分かった。不服と言うよりも気恥ずかしい。
「……後悔ないように生きてね」
岬先生は独り言のようにつぶやいた。俺に言っているのか独り言なのか…岬先生自身に向けた言葉なのかはわからない。でもその響きが、ひどく重みがあるように感じて、ずっしりと胸あたりに乗った気がした。重い言葉だった。けれど、静かに撫でられるこの空間は心地よいものに感じてそっと目を閉じる。
「あっ!そうだった、ごめん一ノ瀬くん。放課後残れるかな?」
静かな空間から一変して岬先生が慌てて話し出す。
「その、桐渓さんと……」
……俺がこのまま鷲尾とともに教室に戻ろうかと思ってしまった理由。出来ることならあまり、桐渓さんと話したくはなかった。正論だとしても確かに自分が悪いのだとしても、俺にとって桐渓さんと話す……以前に名前を聞くだけで腹がぎゅうっと痛くなる。
それでも迷惑をかけたであろう岬先生に謝りたかったし、逃げると言うこともしたくなかった。傍から見れば桐渓さんに怒られるのはきっと当たり前のことだけど、ずっと心のなかで恐怖していた俺にとってかなりの勇気のいる覚悟を以って岬先生の言葉に静かに頷いた。
頷く俺になにか言いたそうに口を開けて、でもなにか思い直したようにまた閉じて眉を寄せて悲しそうな顔をして、指示される。
それにまた頷いて、時計を確認するとそろそろ戻らないと午後の授業に遅れてしまうので、ここで退出することにした。岬先生に見送られながら教室に戻った。……ツキツキと胃のところが痛むのを見ないことにして。
――――
「昨日の件は確かに僕のせいであり先ほど岬先生と話したのは昨日のことについてだ。混乱させたのは申し訳なく思う。だが貴様らに昨日のことを赤裸々に話す道理はない。そんなに他人のことに野次を飛ばしている暇があるのであれば勉強でもしたらどうだ?少しでも空っぽの頭に知識を叩き込むがいい」
そう言い切って『フン』と皆に聞こえるよう溜息を吐いた。俺が教室のドアを開けて目に飛び込んだのはそんな鷲尾の堂々たる姿である。やっぱり通る声をしており本人もそんな長所を隠すと言う意志もないものだから高圧的に感じる。
鷲尾はあの小室とかに囲まれている状態で、まるで朝の俺と同じような立場に鷲尾はいた。……状況から察するに、たぶん鷲尾も小室たちにしつこく質問攻めにあったんだろう。そこで苛立った鷲尾がああいった、と言ったところだろう。
「おま、おまえは加害者だ!それならクラスメイトの俺らにも説明する道理はあるだろ!?」
「貴様らはあのとき傍観者だっただろう。止めようともしなかった奴らに説明する意味なんてないだろう。少なくとも僕には無意味と感じる。悪かったと思う相手は貴様らではない。悪いと思っているのは……僕が傷つけることを言われた、叶野たちだけだ」
凝りもせず噛みつこうとする小室に呆れた気持ちになる。昨日の不安定な鷲尾なら激高していたり傷ついている可能性はあるが、今日の鷲尾はそのぐらいではもう激高もせず傷ついたりもしない。ただ、昨日のことは後悔している様子ではあるが。なおも言い募ろうとする小室をとがめる声があがる。
「つかさ昨日もそうだったけどよ、小室お前さあの後叶野たちにも変に食いついて岬先生にも面白おかしく報告してたけどさ。当事者でもないお前がそんなふうに言うのって違くないか?朝もこうやって絡んで一ノ瀬にも怒られただろ。なに同じこと繰り返してるんだよ」
「あと鷲尾を囲んでいるお前らも小室と同じだから!関係ないですーって感じで目そらしてるお前らもな!1人を囲むのは卑怯だと思うぜ!!」
呆れた口調で小室に諭すように話すのは沢木と、小室の周りにいる奴らを責めるのは沼倉。小室と鷲尾の周りを囲むやつら以外のクラスメイトはそいつらを冷めた目で見ている。もちろん、伊藤も。と言うかあんなに恐れていた伊藤の前で言えるのってすごいな……。
叶野と湖越の姿はなかった。そろそろ授業始まるけれど、大丈夫だろうか。2人を心配していると、教室の様子にビビったようにキョドキョドと周りの見ていた小室と目が合った。思いっきり嫌な顔をされた。
「どいつもこいつも……偽善ばっかりで、気持ち悪!」
そう言って小室は舌打ちして俺の隣を通り過ぎて教室を出て行ってしまった。俺の横を通り過ぎる際もう一度舌打ちされた。
走り去る小さくなっていく背中を見送って、扉を開けたはいいが入るタイミングを見計らっていたのでここで入ることにした。
小室を目で追いかけたクラスメイトが俺の存在に驚いているのを尻目に席に着いた。鷲尾はすでに小室に言われたことなんてなかったかのように自分の勉強に取り掛かっている。俺も見習って小室のことをなかったことにした。小室の周りにいた奴らはざわざわしていたけれど、誰一人小室を追いかけずそれぞれの席に戻っていく。……それを見て冷めたような苛立つような変な気持ちになる。
「透、おかえり」
「……ああ」
伊藤が話しかけてくるのに相槌を打った。俺に笑顔を向けてくれるのが、うれしい。だけど、うまく返せない。いつものように返せない。
俺に笑顔を向けてくれるのは『前の俺』を被せてそのうえで俺に笑みを向けてくれているのではないか、とそう思ってしまったのをまた思い出してしまった。伊藤からすれば『前の俺』のことを一番知っていて、俺にもその『前の俺』を被せるのは決して悪いことではないし、むしろ『今の俺』のほうが、伊藤からすれば異端なのだと分かってる。
記憶のない俺を捨てることができたのにそれをしないでくれる伊藤の優しさの上で俺らの関係は成り立っていると言っても過言ではない。価値のない俺を拾ってくれて大事にしてくれるのは、他でもない伊藤。俺のことを認めてくれる、これ以上の贅沢はない。わかってる、わかってるんだ。
――わかってる、んだ。頭では。
でも、心のどこかで『今の俺』を見てほしいと、叫んでいる自分がいる。
純粋な伊藤の好意と優しさの上に、さらに俺は欲しがっている。そんな自分が醜くて、嫌になる。いつもと違う俺の態度に伊藤はじっと見ているのを感じるけれど見ないフリをした。……今、口を開けば伊藤を傷つけてしまいそうだった。時間にすれば数分だけど、午後の授業が始まるまでずっと伊藤の視線を無視している時間がとんでもなく長く感じた。
放課後は来てほしくないけれど、気まずくて午後の授業は早く来てほしいと願いながら俯いた。この数分のあいだに叶野と湖越が戻ってきていたことに気が付かず、出席で返事しているのをみてやっと戻ってきたことに気付くぐらいには周りのことを見ている余裕がなかった。
――――
「……岬先生と話すことあるから、さきに帰っててほしい」
授業を終えて帰りのHRも終了して放課後になった。一回目の午後の授業を終えたころには平常を取り戻したので伊藤に普通に接せた。俺の態度が戻ったことで伊藤にホッとした顔をされて申し訳ない気持ちになった。
HRを終えて、伊藤に『よし、透帰ろうぜ』と言われて普通に頷こうとする寸前で岬先生と……桐渓さんと話さなければならないのを思い出してしまった。気分が落ち込むのを感じる。
「あ?もう岬先生とは話しただろ?」
「……そうだけど、ちょっと俺だけと話さないといけないんだ」
桐渓さんは忌み嫌っている、どころか憎い俺と関りがあると周囲に知られるのを嫌がっている。担任の岬先生と校長ぐらいしか俺と桐渓さんの関係性を知らない、と思う。
伊藤に隠している訳ではないが、学校で俺が桐渓さんの名前を出せば勘ぐられてしまう可能性があったためその辺を伏せた。正直言えば学校でなければ伊藤には普通に桐渓さんのことを話していた。
……言うタイミングが無かっただけで伊藤に隠すつもりはさらさらなかったが、こうなってしまうのであれば自ら桐渓さんのことを話すべきだった。後悔するが遅かった。見るからに苛立ってきている伊藤に心底焦る。
「なんで透が2回も呼び出されなきゃならねえんだよ。おかしいだろ?鷲尾は一回で済んでるのに、なんでだよ。透は悪いことしてねえだろ。なんで怒られなきゃいけねえんだよっ」
俺のことを想って怒ってくれているのは痛いほどわかる。もうここで桐渓さんのことを言いたい気持ちになりながらも、それを抑えた。この場に既に鷲尾がいないことに一先ず安心する。また自分を責めそうな気がした。
「……怒られる、訳じゃない。理由があるんだ。ここでは言えないけど伊藤にもちゃんと説明する、あとでちゃんと事情を」
「もういいっ」
隠し事にするつもりではなかったし本当にちゃんと説明するつもりだった、けれどどうしても言い訳にしか聞こえないであろう俺の言葉を遮って伊藤は教室を出て行ってしまった。
昨日の鷲尾のように、でも鷲尾のときみたいに追いかけられなかった、何故か、簡単だ。俺の足が動かなかった。情けないことに震えている。立つのが辛くて席に着いた。……少し俺の話を聞かないで、荒い口調で言葉を遮られた、それだけなのに。
「……」
俺は、俺のことを大事にしてくれる人も大事にできないみたいだ。それが悔しい、そして悲しい。辛い。
伊藤に隠すことなんてないのに。隠さなくても平気だってそう思える相手なのに。昨日鷲尾に言われたことは気にしなかった。小室のように何を言われたって『どうでもいい』とはちょっと違う、ただ本当に気にしてなかった、むしろ鷲尾はどうしたのだろうとまで思ってた。
だけど、今は全然違う。自分の気持ちが落ちていく、立ち上がるのも億劫なほどに。力が抜けていく身体に抗うことなくだらりと力なく机に突っ伏した。
素っ気なくされるのがこんなに堪えることなのだと思い知る。自分の幼稚さで伊藤をどれほど傷つけてしまったか知ってしまう。自業自得だ。俺は良くて伊藤は駄目とか、そんな自分勝手なこと思えずただただ自分の行動に後悔した。もう、どれだけ後悔していいのか……自分が嫌になる。誰も聞いていないのをいいことに思いっきり溜息を吐いた。
溜息を吐き終わって、教室のドアが開いた。そこにいたのは伊藤……なんてことはなくて、
「一ノ瀬くん、ごめん。そろそろ行こっか」
岬先生が迎えに来た。桐渓さんと話すために俺を向かいに来てくれたのを認識した。ズキリ、と胃が痛んだのを無視して立ち上がり岬先生のほうへ歩く。果たしてこんな不安定な情緒の自分がちゃんと話せるか分からないけれど……、今日は岬先生がいてくれる。2人きりで話すときのようにまではいかないだろう、はずだ。
第三者がいることによって多少は冷静に話せるかもしれない、俺はちゃんと桐渓さんと話せていないからチャンスなのかもしれない。
どうして、俺を嫌うのに憎くて視界にも入れたくないことを言うのに、そのくせ俺に掴みかかったり強引に保健室に連れて行ったり、執着するようなそぶりを見せるのか……それが少しでもわかるかもしれない。俺が精神的に耐えられるのか分からないし、俺も冷静に桐渓さんと話せるのか分からない、けどいつもとは違う人もいるからいつもと違う展開にはなるかもしれない。
岬先生の後をついていきながらマイナスにばかり考えないよう、少しだけ前向きに考えてみた。言い聞かせばそのうち真実になるかもしれないから。俺の緊張を解かそうとした岬先生が気遣ってくれてか話しかけてくれたのだが。
「そういえば伊藤くんはいないんだね、なんだか待っているイメージがあったからちょっと意外だね」
そう邪気のない言葉にまた落ち込んで岬先生に心配されたが、保健室の前に着くまでになんとか少しだけ落ち着いた。先に保健室に入っていく岬先生のあとを追うように、気が付かれないぐらいに浅く深呼吸して歩みを進める。
話し終えたら、伊藤にちゃんと話そう。今日呼ばれた理由と俺と桐渓さんの関係を。そうすれば、今度こそ俺は伊藤に隠し事がなくなる。そもそも俺としては特に聞かれて困るものではない。……怒られる訳じゃない、つい伊藤を落ち着かせたくて言ってしまったけれど。岬先生には怒られないと言う意味ではあっているけれど、桐渓さんにはたぶん怒られる、とおもう。
言葉につい出してしまった事故みたいなものだけど、うそになってしまうからそこも謝ろう。……問題は伊藤が俺の話を聞いてくれるかがなんだけれど…。今から桐渓さんと話すのに、伊藤のことをつい考えてしまう自分に気付かずにそのまま保健室のなかに入って、自分で扉を閉めた。
――――
「……」
保健室に入ってから誰も言葉を発さず、痛いほどの沈黙のなか俺は座っている。俺と桐渓さんが向かい合って座って、岬先生がその間に俺らで三角の形になって座っているのだが。
意外とでも言うべきか、桐渓さんが俺と視線を合わせようとしないのはどうしたのだろうか。普段なら俺の罪を厳しく非難し射貫こうとしているか如く鋭く睨みつけ、酷いときは手や足も出るほどだ。けれど、今はどこか弱々しい。まるで何かを恐れているようだ。
「桐渓先生」
いつまでも続くのではないかと思い始めるほどの長い沈黙を終えたのは岬先生だった。静かに桐渓さんを呼んだ。その声は澄んでいて怒っていないのにどこか圧を感じてしまうのは何故だろうか。岬先生の顔はあんなに穏やかなのに、優し気に見えるのに。
桐渓さんは俺どころか岬先生にも目を合わせることはない。青ざめている、気がする。
「いつまでも無言でどうしたのですか?僕がいると話しにくいんですか?」
「……せや、な。俺と透の問題で、一応身内の問題やしな?できれば岬先生には席外してほしいねんけど……」
「それは駄目です」
「……岬先生、俺が言うことに口出す気やろ。だから話しにくいねん」
「理にかなっていることであれば口に出すつもりはありません。ですが、一ノ瀬くんを責めるだけと言うなら僕は止めに入りますよ」
「そんなに俺が信用ならんの?」
「念のためですよ。僕が安心したいからここで話してほしい、それだけです」
決して怒鳴り合う訳ではない。罵り合っている訳でもない。けれど、棘がある言い方をしていて空気もギスギスしていて酷く息苦しい。どこか桐渓さんが怯えているように感じるのは、たぶん気のせいじゃない。そして、桐渓さんに敵意をむき出しにしているように見える岬先生も。
「……桐渓さん」
桐渓さんに対して俺はずっと怯えていた。何を言われるのか、また詰られ傷つけられるんじゃないか、痛い思いをさせられるんじゃないかって、そう思ってたから。
でも、今俺はちゃんと桐渓さんと目を合わせている。震えることなく名前も呼べる。……全く怖くないとまではいかないけれど、予想していたよりは怖くない。
むしろ、目を合わせず青ざめている桐渓さんに笑みを浮かべて静かに穏やかな口調で話す岬先生のほうが、少し怖いと思った。そんな岬先生を見ていたくないとも思った。このままだといけない気がして、桐渓さんを呼んだ。
「勝手なことをして、ごめんなさい」
頭を下げて謝る。悪いことはしたつもりはなくとも桐渓さんの忠告を無視して目立つことをしたのは本当のことだ。一回ちゃんと謝らないといけない、それは俺が悪いことしていなくとも迷惑をかけてしまった人に出来る誠意だとおもう。……ほんとうに、悪いとは思っていないのに謝るのは不誠実な気もするけれど……。それでも、謝りたいという気持ちはあった。
「謝るぐらいならすんなって話やなぁ……。そうすれば、わざわざ電話をかけんで済んだのになぁ。そういえばお前昨日の電話出てないやん。いや昨日どころか、あれからずっとやん」
頭を下げて謝る俺に吐き捨てるようにそう言う桐渓さん。顔を上げればじとりと俺を睨んでいる。……確かに。桐渓さんの言うことに、納得はする。
勝手なことをすれば怒られるのを分かっていないわけじゃない。忠告も受けた。俺のことを憎んでいて嫌々俺の保護者のような立場にいることになって、そのうえ目立つようなことをされれば苛立つなんて分かっていた。
俺は分かってた。知っていた、また何か言われて手を出される可能性も俺は身を以って知ってる。また俺は痛くて辛い思いをするかもしれない、と言うことも。
だけど、友だちが苦しそうなのを見捨てて、自分の身だけを守ろうとするよりも断然良い。俺は自分がどんな目に合ったとしても『友だち』を大事にしたい。嫌なものは嫌でも、耐えられなくはない。友だちを放っておくなんて、俺は耐えられそうにないから。
……だから本当は……今すぐにでも伊藤に会いたい。この話し合いを終わらせたい。
ほら、すでに俺は後悔してる。伊藤を追いかけずこうして話し合うことを取ったことを。
どうして足を動かせなかったんだろう。
どうしてすぐ追いかけられなかったんだろう。
どうして、すぐに自分が傷つくのを恐れてしまうんだろうって。
「……ごめんなさい」
桐渓さんの言葉に謝罪を繰り返す。反省していない謝罪はどうも軽い気がする、心がここにいないからって言うのもあるんだろうけれど。でも、桐渓さんは俺のことを見てないからそれに気付かない。視線は俺に向けているけど、俺のことは見てない。桐渓さんよりも知り合って日が浅い岬先生が俺に首を傾げているのに。
「謝れば済むって思うてんなぁ。すーぐそうやもんな。謝ることしかできないヤツやもんな。頭ええのに。勉強のことはすぐ入る脳持ってるのになぁ。理由は、まぁた忘れたんか?どーしてそこだけは毎度忘れてしまうんやろなぁ?自分の都合の悪いことはぜーんぶ忘れてしまうめでたい頭してるんか?ほんっと、うらやましいわ」
「……」
冷めて渇いた笑みを浮かべながら俺を詰る桐渓さんを見つめる。記憶喪失のことを出されてしまうと、俺はもう何も言えない。
伊藤にすべて話して自分の罪と向き合って、両親が心の底から俺に幸せになってほしいって願っていたことを教えてくれた。だから、俺はちゃんと『人間』として生きることを決めた。自分が思うがままに楽しむことや憤ることを自分の思ったことを発言することを、自分で許せるようになった。
すべてを知ってるはずの伊藤は俺のことを認めてくれた。もし本当に俺に罪があってもそれでも俺に生きてほしいと叫んでくれた。だから、俺は笑える、怒れる、悲しめる。
だけど……俺の罪を知っていて、それを責める桐渓さんにどう俺は受け止めていいのか分からない。本当のことだから。俺は勉強のことはすぐに記憶できるのに、6年経った今でもあのときのことを思い出せやしないのだ。
酷く居心地が悪い。桐渓さんはこういえば俺が何も言えずただただ耐えているのを分かっている。だって、今の桐渓さんは……その黒い目は空虚なのに妙にギラついてて興奮しているから。
ずっと、こんな目で俺を責めていたのだろうか。今日初めて俺を責めるときの桐渓さんの顔を見た、いつもは俯いて見れなかったその顔を見て分かってしまった。
(ああ、この人は俺のことなんて見てないんだな)
俺越しに違うだれかを見ている。少しでも俺は前と違うんだって思って桐渓さんの顔をちゃんと見ようと思ったけれど後悔した。……見なければよかった。
俺のこと映しているのに俺のことを見ていない。なんだ……。桐渓さんが『今の俺』を見て『俺の罪』を責めているのかと思ってたのに。そのほうが良かったのかもしれない。
傷つく俺越し違う誰かを映していた、桐渓さんは遠くを見てた。俺のことを目に映しながらもその意識はまったく違うところにいる。
その誰かなんて、もう俺にはどうでもよかった。ただ失望した。俺のなかの感情はもう苦しいも悲しいも怒りもなにもない、ただただ……空しくて仕方がなかった。
――――
「一ノ瀬くんが謝ることしか出来ないようにさせているのは、他でもない桐渓さんじゃないですか」
俺らを静観していた岬先生がそう言う。揺れることのない水面のような静かな声なのに、嵐のような響きを持つ不思議な声。桐渓さんから視線をそらして岬先生を見つめる。硬い表情で冷たく厳しい目で桐渓さんだけを見ていた。そこにいつもの優しくて穏やかな岬先生の普段の面影は見当たらない。
「それになぜ今一ノ瀬くんがひたすら悔やんで苦しんでいるであろう過去を持ってきてんですか、そこを責めるのは今は違うんじゃないでしょうか?呼びだしたのは一ノ瀬くんがまだ学校を終えていないのに飛び出してしまったことに関してですよね?どうして今過去の話を持ち出すんですか。わざわざそれを持ち出すなんて、そうまでして一ノ瀬くんを傷つけてたいんですか」
桐渓さんを睨みつけるように見つめながら、岬先生は厳しく桐渓さんを責めた。今まで岬先生から目をそらしていた桐渓さんもそうまで言われことは心外だったのか、ハッと笑いながら濁った眼で岬先生を見つめる。
「……こいつが、反省しているように見えんからなぁ。前に岬先生には話したと思うんやけど、俺もこいつのせいで親友と幼馴染失ってるんやで?岬先生は痛いぐらい正義感強いお人やからねえ。そりゃ生徒のこと庇いたくなって俺のこと悪者にしたいんやろうけどなぁ。責めたくなる俺のこともちょっとは気遣ってもらってもええんやない?」
「反省していないって理由だけで一ノ瀬くんを一方的に傷つけて良いんですか?少なくとも僕にはそこら辺に至っては納得できない。あなたは確かに親友と幼馴染を失ったのでしょうけれど、一ノ瀬くんも両親を失っている。辛いのはあなただけじゃない。一ノ瀬くんだって辛かったはずです。どうして、悲しんでいる一ノ瀬くんにそう言えるんですか」
「……岬先生」
桐渓さんの言うことに岬先生はどこまでも冷静に返答した。ゆったりしているのに温度のない冷たく静かな口調で、桐渓さんの言葉に真っ向から反論する。目をそらすこともない。表情を変えることもない。
俺のことは担任だからきっと他の先生よりは知っているんだろうなとは思っていたが結構知っていたことは予想外だった。
転校してきた日は桐渓さんは岬先生に親しそうだった気がする。桐渓さんから色々話を聞いていたんだと想像はついた。岬先生の言葉はきっと正論だと思う。それと同時にすぐ(あ、まずい)と思った。言葉を遮ろうとしたけれど、一拍遅かった。
つい俺が岬先生を呼びかけて視線を俺に向けたと同時に、桐渓さんが火が付いたかのようにカッと目を見開いて興奮に顔を赤くして、ガパリ、大きく口を開けた。
「っほんと、うっさいわ!何も知らん岬先生に教えたるわ!!ええか、薫と灯吏はこいつを庇って死んだ!そのうえ!こいつはなぁ……!その両親のこと忘れてるんやぞ?!庇ってもらっておいてっそのせいであいつらが死んだのにっ!こいつは、ぜんぶわすれて……」
立ち上がり俺を指さして、そう桐渓さんは叫んだ。心からの、掠れた声の『悲鳴』だった。俺は、その叫びを聞いたことがある。俺のすべてを憎んで、両親の死を悲しみ嘆く姿を。
俺が起きたときと同じ……すがた。
胸が痛んだ。『今の俺』は、その傷ついた姿を2番目に見た。今のように責めて、傷ついた顔の桐渓さんの姿を。前のときは祖父がその後ろで同じような顔で見ていた、あのときを思い出して刃物で切り付けられたと同じぐらいの痛みが、心臓を襲う。
――――
桐渓さんは保健室で、俺の罪を糾弾した。
叫びのあと、またしても痛くなりそうなぐらいの静けさが襲う。そこら辺の事情はきっと説明されていなかった岬先生が桐渓さんが告げた事実に、目を見開いたのを視線をこちらに向けるが、視線が合う前に俺は目を逸らした。見せる顔が見当たらない。
……優しくしてくれた人が、自分を見る目を急変させるのをもう見たくなんてなかった。記憶のない俺の両親を大事に想っていた桐渓さん。俺の罪。両親を死なせてしまったことと、その両親を忘れてしまったこと。
伊藤に自分の罪を告白して。それでも俺の味方だからと言ってくれた。でも、岬先生はきっと桐渓さんに同情すると思う。だって、俺より長い付き合いだから。俺に対してだけは酷いけれど、それは仕方ないことで、それ以外はきっと良い人なんだとおもう。
俺のことを抜きにすればきっと空気を読むことに長けていて優しい先生なのかもしれない。俺は『一ノ瀬透』だから。……桐渓さんの、大事な人を奪っておいてその大事な人を覚えていない『一ノ瀬透』だから、俺のいないところの桐渓さんのことは分からないけれど、評判自体悪くないようだった。クラスメイトは桐渓さんを『おもしろい関西弁の先生』『いつも笑顔の先生』って言っていたのを俺は聞いてる。前に職員室にいたときも女性教員に見られていたし、俺が思うよりも良い先生らしいから。
俺は、大丈夫。
岬先生が仲の良い桐渓さんの味方になるのは当然のことだ。
優しい岬先生だから、俺のことを蔑ろにはしなくとも多少距離を置かれてしまうだろうと予想する。
でもだいじょうぶ。俺には伊藤がいる……いや、でもどうだろう。俺の話を聞いてくれるだろうか。きっと、だいじょうぶだと思うけれど、自分に自信がない。俺の味方だと言ってくれたけれど、今の微妙な感じだとやはり不安だ。言わなかったことを謝って、しっかり事情を説明すれば大丈夫、だろうか……。俺の悪いところはすぐに伊藤のことを考えてしまってその場を疎かにすることなのかもしれない。俺は気付けなかった。
岬先生が、桐渓さんが唐突に叫んだ事実を何を言ったのか理解して目の色が変わったことに。冷静であったはずの岬先生が一気に興奮状態に陥っていたことに。そもそもどうして岬先生があんなに焦って朝のHRに来たのか、そこらへんが頭から抜けていたのであった。
目を逸らして伊藤のことを考え始めてしまった俺も、自分の湧き上がる感情に委ねていた桐渓さんも、岬先生を見ていなかった。
「っ記憶喪失の子どもに、あんたはそう責めたのかっ!?なにしてるんだよっ!!」
悲痛と怒りが入り混じった、桐渓さんを責める岬先生の声を聞くまでは。