2.人間として。
とりあえず、この体勢のままは、と伊藤が言いづらそうにしていたから、今の自分たちの体勢を確認する。
崩れて座る伊藤のふとももに俺がまたがっていて、顔も至近距離。そんな状態であることに気が付いて慌てて離れた。
一回落ち着こうとしたのか、伊藤は「お茶とってくる!」と言ってその場を離れた。と言っても台所はかなり近いのだが、ずっと同じ空間にいるよりは落ち着ける。
深呼吸してちゃぶ台の前に座る。茶台の上には伊藤が取ってくるはずのお茶がすでにあり……なんだかまた恥ずかしくなってきた。
しばらくして、なにも持たずに戻ってきた伊藤に、俺はもうなにも言えなかった。伊藤は俺の前に座る。
コップにお茶を注いで二人同時に一口飲んだ。ふぅ、と溜息をひとつ吐いて、伊藤が話し始めた。
「……さっきの。鷲尾が言っていたことなんだけどな」
鷲尾の言っていた……その言葉に今日の記憶が脳内で再生される。英語の授業が始まる前にあったやりとり、そこで俺のことで怒ってくれようとした伊藤に鷲尾が言っていたことを。『先輩や先生を殴った』と、鷲尾は確かにそう言っていた。伊藤は気まずそうに、だけど俺から目を離さずハッキリと言った。
「俺にとって正直、あんま話したくないことだった。とくに……透には、知られたくないって、そう思った」
だから言えなかったんだ。
懺悔するように、後悔しているように伊藤は告げる。俺は何も反応を示さず、ただ伊藤の顔をじっと見た。
「……でも。透は俺に話したくないことを言ってくれた。記憶喪失のことを、その理由を。……今の透からすれば出会ってまだすぐだったのに、俺に話してくれたよな」
「……俺のことを大事にしようとして、心配してくれる人に、隠したくないと思ったから」
今の俺、の言葉に少しだけどうしてかつきりと胸の中をつままれたように痛んだ。『記憶』があったときの俺と分けている意図は伊藤にはきっとないけれど、少しだけ、痛んだ胸を無視してあのとき思っていたことを告げた。
初めて会ったとき俺は伊藤の悲しそうな声で「俺のこと忘れたか?」と問われてただ俺は謝るしかできなかった。思い出せない思い出そうともしない自分を俺は憎んでいた。でも、伊藤は憎まなかった。悲し気にしながらも穏やかに笑って俺のことを『一ノ瀬透』だと受け入れてくれた。
そのうえで俺のことを親友って言ってくれた。俺のとなりで陰り無く笑ってくれて、大事にしてくれて心配してくれた。泣いていいって、言って抱きしめてくれた。
俺は沢山伊藤に貰ってる。暖かくて優しくて哀しいのを、たくさん。
だから、俺は俺の知っている限りを話した。……確かに今の俺からすると出会ってすぐの伊藤に、自分のなかの悲しみをすべて話すなんて。でも仕方ない。あれだけ何の陰り無く俺といることを望んでくれたのが初めてだったから。
伊藤に貰ったものの少しでも俺は返したい。俺のことを受け入れてくれた伊藤のように、俺も伊藤のことを受け入れたい。どんなものが敵になっても、俺は味方でありたい。
「透が、俺に全部話してくれたからって訳じゃねえけど。本当はまだ話すのは辞めようとも思ってたけど……もう、さっき鷲尾が話しちまったし。この際良い機会だから話しちまおう、て」
「……そうか」
「たぶん、こうでもしねえと言い出せなかっただろうな。まぁ……かと言って鷲尾に礼を言いたい気持ちにはならねえけどな」
ポジティブに考えることにした伊藤だが、やはり話したくないことを無理矢理引き出されたのは苛立っているようで、暴露されたときのことを思い出してしまったのか険しい表情になる。苛立っているようにも見える。
鷲尾は俺のことを謝罪してくれたけど、さっきも言った通り伊藤に謝罪するのとはまた違う問題だ。俺が許したからと言って伊藤も許せなんて言えない。だが、一言。決して鷲尾を庇うわけではなくただの事実だけど。
「……伊藤。実はな、俺なんで学校中にそんなに怖がられているのか、気になってクラスメイトに聞いたことがある」
あまりに見られて、伊藤を見る目が怯えているようだったから気になってしまいクラスメイトに聞こうとしたことを正直に話すことにした。俺も伊藤の知られたくないことを暴こうとした。未遂ではあるが。
「……まじか」
「ああ。でも、寸前のところで湖越に止められた。それは本人に聞いた方が良いって。でも伊藤は悪くないことだけは教えてくれた」
そう教えてくれた湖越は何故か複雑な表情をしていたことを思い出した。あの表情の意味、今も分からない。
「……本当は、伊藤にも聞こうとしてた」
「……そう、だったのか」
「ああ、呼んでおいて変に沈黙していたときとか……。そんなとき、伊藤に聞くか聞かないか迷ってた。結局伊藤が言いたくないことだから、よっぽどのことがあったんだろうって。それなら待った方がいいのかと思って辞めたけれど……」
「そういう、ことだったのか」
伊藤が俺の変な行動に心当たりがあったようで納得する。納得されるのも、少しだけ複雑だけど仕方ない。言われてすぐ納得するほど記憶に残るほどの不審な行動をとっていたと言うことだ。
実際のところは俺はどのぐらい伊藤に踏み込んでいいのか分からなくて。親友はどこまでいていいのだろうかと悩んでいたときでもあったから。
友だちとか、まだよくわかってなかったから。でも今は、少しだけ違うかな。鷲尾に話した通り滅茶苦茶な理論になったけど、それでもいいかなって思う。
「……たぶん、透に直に聞かれても俺は話せなかったと思う。あ、いや。透を信じていない訳じゃねえだけど……、俺のしたこと知られて、離れられるのが、怖かった」
今度は俯かれてしまう。机に置かれている手が少しだけ震えているのが見えてしまった。その太い血管の浮いているゴツゴツした手に自分の貧相な生白い手を重ねた。
「離れないよ。伊藤が理由もなく殴ったりしないって、そう思ってるから。伊藤が俺のこと信じてくれているのと同じよう、とまではいかないかもしれないけれど、今の俺は一番伊藤を信じてる」
記憶喪失で自分を責める俺に『お前は悪くない』って何の疑いもなく言ってくれた。たとえ、みんなが伊藤が悪いと言っても、俺も『伊藤は悪くない』てそう言いたい、叫びたい、信じたい。
両親のことも何もかもを忘れてしまった俺には、頼れる大人も一緒にいる友だちもいなくて唯一九十九さんがいてくれたけれど、信じているとはまた違う。
少しでも、俺の気持ちが伝わるように重ねた手に力を入れた。伊藤はずっと俺を待っててくれた。今の俺は、まだ伊藤との付き合いはまだ2ヶ月も経ってないから伊藤と同じ『信じている』と違うかもしれないつり合いがとれてるとも思わないけど、今の俺は伊藤のことを一番信じてるから。
「……はは、自惚れるぞ?透の中で俺が一番なんだって教室で叫ぶかもな」
「いいよ。伊藤がそうしたいなら」
「辞めとくわ」
伊藤が笑うから俺もつられて笑う。やっぱり。伊藤は笑顔が一番似合う。
もっと笑ってほしい。そう心から思った。
――――
「たぶん、まぁ最初の俺の態度も悪かったんだと思うんだ」
伊藤はポツポツと話し始めた。何となく離しがたくて伊藤の手に俺のを乗せたままだ。伊藤も指摘してこないからまぁ悪く思っていないのだろうと判断してる。
「入学式からこの髪色で制服も着崩してて、んでこの面だろ?睨んでねえのに睨んでいるように見られるんだよ。しかもそんときの俺は何も面白くなくてな、不愛想だったしなぁ」
「……へぇ」
髪色と着崩した制服までは想像がついたけれど、伊藤の顔はそこまで怖いだろうか。確かに白目が多く黒目は小さいが、睨んでいるようには見えない。それに不愛想なところがあまり想像がつかなかった。
内心首を傾げながらも指摘すれば話が脱線しそうな気がしたので相槌を打つぐらいにとどめた。とりあえず今は。
「そんな俺のこと怖がってるやつがいたのも知ってたが、何とかする気もなくてそのままにしてた。絡んでこないならそれはそれでいいかと思った。馴染もうとも思ってなかった。生徒にも先生にも態度はかえてねえ。それでも怖がらず接してくる奴は……透も察してるだろ?」
「……岬先生、五十嵐先生、叶野、湖越……あと、鷲尾か?」
「はは、確かに怖がってもなければ興味もなさそうだったのは鷲尾だな。あと2人隣りのクラスにもいるが、まぁそんぐらいだ。あいつらとも透もそのうち会うだろ。そのうちの1人はこれからの話に関わりがあるしな……」
俺の予想は大体当てていたが、あと2人いるらしい。そのうち会える、と伊藤は少し諦めたように呟いた。どういう意味なのか聞きたいが、一先ずは伊藤の話を聞いてからだ。
「居心地が良いとまではいかなくとも学校生活に問題は特になかったんだけどな。元々俺は高校に執着が無くてな。たぶん4月に学校行ったのって両手で数えられるぐらいにほとんど休みがちになってたしな」
「そう、なのか」
毎日一緒に登校しているから、てっきり前々から真面目に通っているものかと思ったが違ったらしい。話せば話すほど知らない伊藤の話が出てくる。それを知れてうれしい。
「で、中旬ぐらいに先輩に絡まれてな。5人ぐらいにな。喧嘩売られてそれを買った」
「…5人に、伊藤1人に……?」
「ああ。唐突に殴りかかられて……っ?透、どうした?」
「あ。……悪い。痛くない、か?」
話を勧めようとするのを不自然に切って、俺のほうを窺っている。どうしたのか、と思ったがすぐに気が付く。伊藤の手を握る自分の手にかなりの力が入っていたことに。つい、怒りが沸いてしまった。
集団でひとりを殴りかかるなんて、そんなこと、なんで出来るのか。伊藤に喧嘩を売ってかつ数で物言わすなんて、怒りが沸く自分はきっと当たり前だ。だって、親友を傷つけられたら……怒ってしまっても仕方ない。
「ああ、平気だ。話戻すけど、まあ5人ぐらいならなんとでもなるしな」
「…そうなのか」
でも伊藤の口ぶりから傷つけられたわけではなく、どうやら返り討ちにしたようだった。それに少しだけ安心した。随分喧嘩慣れしているような口ぶりなのはまた今度聞くことにした。
「まぁな。だが、先生らが止めに入ってきたことに気が付かなくてよ。最後のやつに顔面ぶん殴ろうと思って振り上げたと同時に、複数人の先生に辞めろの声が聞こえて直後にひとりこけたように目の前に入ってきた教師がいてな。たぶん殴られそうな生徒を庇ったわけではなくって、その場にいる自分に驚いて目を見開いていたそいつと目が合ったしな。……振りかぶった手を止められなくてよ。そのまま殴っちまった。ちなみに殴っちまったのは牛島な。それがオレにビビってる主な理由だな」
「……道理で」
岬先生や五十嵐先生は普通に接しているものの、他の先生は伊藤に距離を置いたりしているのは見たが、牛島先生はずいぶんと伊藤を怖がっているようだったのはそれが理由だったのかと納得した。
俺は伊藤の喧嘩を見たことないから伊藤の拳はどれほどの威力があるのか知らないけれど、俺を抑え込んだり出来てしまうほどだから力はかなり強いと思う。
それに……喧嘩慣れしているのなら、誰とも関わろうともせずにいた俺の抵抗なんて軽いものなのだと言うことにも気が付いた。
抑え込まれたりしたことはあったけれど、それでも痛いことをせず優しさを与えてくれる、その手がとても尊いもののように感じて、きゅっとやさしく握り込んだ。
伊藤は「次はなんだよ」と呆れたように、でも嬉しそうに笑いながら手の甲をひっくり返して掌を向けて、俺の手を優しく握り返された。
「で、まぁ傍から見りゃどっちが喧嘩売られて買った、とかどうでもよくて。どっちが加害者で被害者なのかって言うのが焦点になる。喧嘩を売った5人をぶん殴ってる俺と喧嘩を買った俺にぶん殴られている5人。なんの前情報もなくこれだけ見りゃ俺が加害者だと思うだろ。そのあとすぐ会議室みてえなところに連れられて。俺が自宅謹慎処分になった」
「…………待ってくれ。伊藤の話、聞いたのにそう言い渡されたのか?」
「俺の話を聞こうとする教師なんて五十嵐先生と岬先生ぐらいなもんだったな。あの2人が抗議してくれたからこれでも軽くなったんだぜ。退学の話も出てたし。ま、一応喧嘩を売ったのはあっちって言うのもなんとか信じてもらえたみてえだから、警察沙汰にもならずに済んだしな」
「……じゃあ、喧嘩を売った先輩たちは?」
「さぁな。興味ねえからあまり深く聞いてなかったが、確か学校からのお咎めはなかったとおもうぞ。傍から見りゃ被害者だしな。でも後から叶野から聞いたがどういうことが全員自主退学したみてえだけど」
事も無げにそう言う伊藤とは真逆に俺の腹あたりに醜いものが生まれた気がする。
伊藤は気にしていないように言うが、伊藤は被害者じゃないか。喧嘩を売られなければ伊藤は殴らなかったのに。いきなり殴りかかられたのに。
被害者なら怪我をしないといけないのか。被害者が無傷の状態でやり返して、加害者は被害者にひどい怪我を負わされたら被害者になるのか。どうして。たとえ反省して自主退学になったとしても、学校側はなにを以って伊藤に処分を言い渡したんだ。どうして、本当なら伊藤が訴えるべき側じゃないか。どうして加害者になってて、どうして伊藤はそれを受け入れているのか。
いつまでも反応のない俺に伊藤は色々察したのか頭を撫でられる。
「透も気にしなくていい。いつものことだからな」
いつものことで済ます伊藤に少しカチン、と来て少し自惚れに近い質問をしてみた。
「……お前は、俺が理不尽に加害者に仕立て上げられていたら、どうするんだ?俺はそのことを気にしていないとして」
「透が悪いと言う奴ら全員早く意識を飛ばしたいって頼んでくるまで手加減しつつずっと殴るだろうよ」
質問して間もなく一気に目の色を変えて表情無く一息でそう言い切った伊藤の顔は正直恐かった。自分がされても怒らないくせに、俺がされたら怒ってくれるのか。
少しうれしいけど、どうして俺が怒るのか分かってくれないのか。
「……そう言うことだから」
「……あ、」
やっと気が付いたようだった。そう言うことだ。たとえ本人が平気な顔していて本当に気にしていなくても、近しい人からすると不快で仕方なくて怒り狂いたくなるだろう。俺の意図を分かりやすく質問で聞いたのに、どうして自分にそれを置き換えないのか。
俺だって、伊藤のこと大事に想っているのに。
「……わりい」
やっとそれぐらい俺から大事に想われていることを分かってくれたようで照れたように顔を赤くしながらそう言われたのに、俺はやっとわかってくれたかと言わんばかりに頷いた。
「あーで、まあ。この後本当はもうちっとややこしいんだが、この俺の暴行事件の元凶…『黒幕』がいたみてえなんだよ」
「?先輩たちが伊藤に喧嘩を売った、んじゃないのか」
俺との会話で説明しようとしたことをどう言うのか忘れてしまったようで(今度こそ伊藤が話し切ってから質問しようと俺も反省しながら)考え込んだ後、言葉が出てきたすぐそんなことを言った。どういうことなのか首を傾げる。なにも考えず、集団で伊藤を襲った奴らが元凶なのだと思っていたがどうも違うらしい。
「俺に喧嘩を売れって指示してきた奴がいたんだと。喧嘩して停学処分を言い渡された次の日のことだったから俺は聞いてねえけど。隣りのクラスの梶井信人ってやつ。知ってるか?」
「…いや」
初耳だ。隣りのクラスに知り合いもいないし、普段伊藤たちと話しているがその彼の名前が出て来ないので知らないし今初めて聞いた名前だ。
まぁそうだよな、と伊藤は質問しておいて俺の答えに頷いている。どこか安堵しているように見えたのはなぜだろうか。目の錯覚だろうか?
「…どうして、バレたんだ?」
その先輩たちが告発したのだろうか。それとも殴りかかるよう梶井が頼んだところを誰かに見られて告発されたか。そんな予想を立てて伊藤に聞くが、予想とはまったく違っていて。
「自分で言ったんだとよ。校内放送で。自分が先輩たちを吹っ掛けた、伊藤はなんも悪くない、てな」
「……え」
信じられない返答だった。裏で自分の手を汚さずに吹っ掛ける奴の気持ちは分からないけれど、自分の手を汚したくないからそんなことをするのではないか。
その吹っ掛けた奴にバラされたりするのであれば、理解できなくとも納得できたが。
「しかも、その日いなかった俺にまでわざわざ家にその録音されたのを送ってきやがった。気味悪いからすぐ捨てたけどな」
「そう、か」
あまりに自分の予想とはかけ離れ過ぎていて、伊藤の言うことに頷きながらもなかなか処理が出来なかった。
理解しようとしたけれど、なかなかそれをしたことを受け入れることに時間がかかって、結局理解できなかった。確かに、湖越の言う通り伊藤はなにも悪くなかった。伊藤本人から聞いた方がいいと言っていた理由も理解できた。たとえ伊藤が悪くなかったとして、あまり聞かれたくないと言うのは分かる。
だが、まだ会ったことのない『梶井信人』と言う人間がなにをしようとしているのかが何の理解が出来なかった。伊藤に先輩たちを吹っ掛けたことにもだが、それを誰かにバラされるでもそれを見ていた誰かに告発されるでもなく、わざわざ校内放送まで使ってまでして自ら自分がやったことを告げた。
学校にいなかった伊藤にも知らせるなんてことをするぐらい。本来隠し通すべきものを自ら話した。自分から言わなければ気付かれなかったのかもしれないのに、わざわざ?
理解が出来なくなって、伊藤を停学にさせた直接の原因となるはずの梶井にまず芽生えたのは怒りではなく疑問だった。なにをしたいのかわからなかった。
「それでオレが加害者じゃないとみんな分かっても、ビビられる態度は変わらなかったな。当然だ、態度も悪い。制服は気崩してて髪も染めてて目付きが悪くて愛想もねえし、話かけられても広げる気もなくて、そのうえあの暴行を見て友好的に見れねえだろ。つまらなくてどうだっていい行く気のない学校がさらに行くつもりはなくなった。このまま中退してもいいかとも思った」
伊藤は冷めた口調でそう言う。伊藤にとって高校はつまらないところだったのだ。せっかく冤罪とは言え岬先生たちが庇ってくれたおかげで謹慎処分で済んだのに、中退してもいいかと思うほどどうだっていいもの。
少し、悲しい気持ちになった。俺は伊藤といっしょに学校に行って楽しいと思っていた。
叶野たちとも集まって話すのも、授業を受けるのも好きだと思っていたから。
俺が行っていたから、来てくれていただけだったのだろうか。本当はつまらないと思っていたのだろうか。
いくら親友と言ってくれても伊藤も個人の人間なのだから、自分と違う価値観を持っているとは限らないことぐらいは分かっていたけれど、まったく違うことを感じていたのだとすると少しだけ、寂しい、そう思った。
「…でも、今は中退しなくてよかったって思ってるぜ」
顔には出ていないだろうけれど、静かに落ち込んだ俺に気付いているのかいないのか、ぽつりとそういう。伊藤の顔は照れているようだった。
「最初は、まぁ。透が同じ高校だからって言う理由で来てたけどな。つまらないと感じていたけど、それはオレが壁造っていただけで、叶野とか湖越とか。…鷲尾も。いっしょにいて楽しい奴らなんだって分かった。オレがそっちを見ようとしなかっただけでそんなに悪い学校じゃなかったんだって。そう思い直した。落ちこぼれと言っても過言じゃねえオレの話聞いて、庇ってくれた岬先生たちの気持ちも捨てずに済んだからな。だから、透。
ありがと、な」
「……こちらこそ」
伊藤の言葉に安心して、唐突に礼を言われて驚いていっぱいいっぱいになってそれだけしか返せなかった。
自分だけが思っていたことではなくて、伊藤もちゃんと学校に来て楽しいと思ってくれていたこと、岬先生たちの気持ちにも気が付いていること、俺のほうが貰ってばかりだと思っていたけれど俺もちゃんと伊藤に少しでも与えることが出来ていたこと。
嬉しくて。ありがとうって言いたかったけれど伊藤にさき越されてしまったから、せめて俺もそう思っていることを伝われば、と握る手に力込めた。
伊藤は俺に笑う。俺も、伊藤に笑いかけた。涙がちょっと滲んでしまって伊藤の顔がぼやけてしまったのが少し惜しかった。
「とまあ、オレの話はそんぐらいだ。……なにか、言いたいことあるか?」
「……伊藤って」
「おう」
「そんなに怖い顔、してるか?」
「こんだけ話をして一番に言うことそれかよっ」
最初らへんから、目付き悪い言われていてけれど確かに目付きは良くはないだろうけれど、そんな怖い顔してない。一番言いたいことだったのだが突っ込まれてしまった。
言いたいことは大体言ってしまったから、唯一残っていることはそれだったから言ってみたけれど、伊藤が言われると思っていたこととは全然違ったみたいだった。
突っ込んで、少し間が合って伊藤は笑いだした。突っ込まれた理由は分からないが、どこか安堵しているように笑い続ける伊藤を見てまぁいっかとおもった。
「……話してくれてありがとう」
「ああ。……こっちも、話聞いてくれて……引かないでくれてありがとうな」
――――
アラーム音が鳴り響き朝になったことを知らされ、目を開ける。布団から出て、すぐに空模様を確認した。
雨こそ降っていないもののやはりどんよりしている。
昨日俺は頭痛に苛まれていたので伊藤に雨に濡れた干していた洗濯物を取り出してもらって、改めて洗い干してもらった。
その前にすぐ寝間着に着替えたので岬先生のジャージも洗ったが、触らずともわかるほどまだ乾いていない。
借り物なのですぐにでも返したいところだったが、乾いていない状態で渡すのはかなり失礼だろうと思いあとで岬先生に謝罪してもう一日家で乾かすことにした。
じめっとした洗濯物に囲まれながら起きる朝は、あまり気持ちいいものではなかった。
伊藤に(帰る際これでもかっていうぐらい)熱は測るよう言われていたので計ってみたが、35.9と俺の平熱だったので普通に学校に行くことにした。
昨日濡れてしまった制服もやはり乾いていなかったので、仕方なくジャージで登校することにした。半袖のYシャツはもう1枚あるが、下だけジャージなのもな……と考えこの間伊藤に貸した黒いTシャツを着て、その上にジャージを羽織り軽く腕まくりした。
長袖がこのじめじめした空気感に汗が出て不快だから半袖を買ったのに、と項垂れた。伊藤に熱もないから登校するとメールして朝食を摂る。了解、と返信メールを流し見ながら天気予報を見た。この灰色の空を見て察していたが、雨が降るようだ。
降水確率60%となっていたので今日も洗濯物を干すのを辞めるべきだと判断した。
天気の悪いだけのいつもの朝がやってきた。けれど、昨日起こったことは夢でも何でもないことを岬先生のジャージがあることが物語っていた。
様子のおかしくなった鷲尾があんなこと言ってしまったこと、それは俺が追いかけたこと。伊藤が俺に話したくないことを教えてくれたことも。
俺と鷲尾のことは昨日で済んだ話だ。だが、まだ鷲尾はやらなければならないことがある。
伊藤と叶野にしっかり謝ること。それはいつの時間になるか分からない。2人がそれを許すかもしれないし許さないかもしれない。……どちらにしても、俺は適切に友だちとしての距離感を保つつもりだ。伊藤にも叶野にも…鷲尾にも。友だちが友だちを傷つけた場合、どうすべき対応をとるべきなのか、俺の考えた答え以外にももっと正しい答えはあるかもしれないけれど。
俺はこうしたいから。こうする。それだけ、だ。
「……よし」
鷲尾にとって今日覚悟する日なのと同じように、俺も鷲尾ほどではないかもしれないが覚悟しなくてはいけない日である。岬先生がいてくれるとは言え、桐渓さんと話さなくてはいけない。
昨日電話に出なかった。一応『明日、しっかり話を聞きます。俺も話します。』とだけメールしたけれど返信は来なかった。ほんの少しだけ。自分がしてしまったことでありそうしたことに何の後悔はしてないが、憂鬱な気持ちになる。
はっきりとしない天気がその気持ちに拍車をかける。
軽く溜息を吐いて立ち上がり、伊藤といつも待ち合わせしている公園に向かう。ほんの少しだけ憂鬱な気持ちだけど、前ほどではない。だって、今の俺は独りじゃない。
俺のことを受け入れてくれた伊藤がいて、普通に話せる友だちだっている。伊藤と会って、俺は『俺』になって初めて楽しいと言うものを知れた。
――楽しいことを知った俺には多少のことは耐えられる気もする。……会うと、どうなってしまうか分からないけど。それでも気持ちが違うから。
「……いってきます」
誰に言うでもなく、呟くように無意識のうちにそう言う。1人で暮らしているのだから誰からも返ってこないことは分かっている。前の家にいたときも、返してくれるような人はいなかったから言ったことはなかったけれど。でも、最近無意識に家から出るときについ言ってしまうのだ。伊藤が家に来るときや帰るときに挨拶してくれるから俺も移ったのか。でも、伊藤は「お邪魔します」と「また明日な、お邪魔しました」と言っても『いってきます』ではないな、と考え直す。
記憶があったときに暮らしていたところと聞かされていたから、記憶になくても無意識に馴染みがあるのだろうか。だから無意識に行ってきますと言ってしまうのだろうか。首を傾げる。
「はよ、透。体調平気そうだな」
「……おはよう。大丈夫だ」
朝の挨拶をしながら未だ、伊藤より先に俺は着いたことが無いことに気が付いたことによりさっき考えていたことを一先ず置いておくことにしていた。
どっから来ているのかも知らないし、伊藤の家も知らないのだ。俺の家より先にあることは知っているけれど、それ以上は知らない。マンション住なのかも一戸建てかどうかも。……そこらへんも、そのうち教えてくれるだろうか。伊藤と話しながらそんなことを思った。
――――
普段通りの会話しながら、いつも通り電車に乗って、いつも通り登校した。
クラスメイトとその友人と思われるやつにチラチラとみられたりしたけれど、すべて無視した。話したこともない奴だから、なんと思われてもどうでもよかった。
少し前までは伊藤と歩いているだけでとんでもないものを見たと言わんばかりの顔されたのだから今更どうだってことはない。……あれだけ、人からの視線気にしていたのに、今となってはこうしてなかったことに出来るほどになったのを喜ぶべきなのか、どうするべきなのか。
何となく複雑に思えて溜息を吐いて伊藤に心配されるのを大丈夫、と手を振った。そうこうしているうちに学校の門が見え始めた。
「……伊藤」
そんなやり取りをしていると前方から声がした。伊藤の名前を呼ぶ声が。意識して前を見ると、そこにはいつも通りピシッと音がしそうなぐらい姿勢よく立っている鷲尾がいた。その表情は、いつも通りのように見えたけれど不安そうにも見えた。伊藤は怪訝そうな顔で鷲尾のほうを見る。
何故いきなり呼び止められたのか分からなかったんだろう。何の用なのかとか鷲尾は普段正門使わないのになんでここにいるのかとか様々な疑問が伊藤に浮かんでいる。
俺は2人の仲を取り持つ、なんてこと出来ない。鷲尾も1人で言うって昨日決めたし、俺から鷲尾が謝りたいって言ってたと伊藤に伝えるのも違うと思った。それに鷲尾から動かないときっと意味がないものになってしまう。だから、鷲尾が伊藤に謝るとき俺はそこにいないことにしよう、そこからすぐに去ろう、そう決めていた。
……でも、この空気のまま。声をかけたもののどう切り出すべきか思案していそうな鷲尾に、昨日今日で彼からすると突然話しかけられて不審そうに鷲尾を見ている伊藤。学校中から視線が集まっている中そのまま置いておくのも……な?
「……鷲尾、おはよう」
ほんの少し手助けするぐらいなら、まぁいいかと思い鷲尾に挨拶した。鷲尾は伊藤に謝罪することに頭がいっぱいいっぱいになっていたのか、俺のことに今気が付いたようで驚いていた。
「あ、ああ。お、おはよう、一ノ瀬」
「……そんなどもらなくても」
いつも迷いのない話し方をする鷲尾がこんな自信がないのは、きっと俺を除いて誰も見たことが無いかもしれない。俺も昨日初めて見た。
やったことのないことをやる不安は俺にも一応分かるつもりだから、なんとなく鷲尾の気持ちも理解できる。
俺も、知らなかったことを知る怖さも言い出しにくいことを言おうとする居心地の悪さを、味わったことがある。それでも、鷲尾もちゃんと話すことを選んだ。ちゃんと、謝ることを選んだ。俺はそれを応援したい。俺と違ってひとりで助けもなく言ようとするだけでもすごいと思う。俺は結局、伊藤に気遣われながらなんとか話したから。
さすがに朝一番に謝ろうとするのは予想外ではあったが、時間が経てば経つほど言いだしにくくなってしまうだろうし、クラスの空気を味わってしまうより言いやすいのかもしれない。……今も言い出しにくい雰囲気になってしまっているけれど。
「……はよ。何か用か?鷲尾」
俺が挨拶したのに倣ったのか伊藤も鷲尾に挨拶して、単刀直入に声を低くして問う伊藤。機嫌が悪いと言うより戸惑っているようだ。伊藤からすれば昨日のことがあってのことの上に普段話しかけられないのに、いきなり話しかけられたようなものだから反応に困っているのだろう。伊藤の反応に、一呼吸置いて鷲尾が口を開く。
「……おはよう、伊藤。いきなりで悪いのだが、話したいことがある。時間、良いだろうか」
そう挨拶しながらさっきより少し落ち着いたのかいつもより弱々しくもどもることなく言えている。
ここでは一目についてしまうから、この鷲尾の対応は間違っていないだろう。時計を見るとあと30分ほどでHRは始まってしまうが、昼休み以外だとあまり時間がない。叶野にも謝罪しなくてはいけない鷲尾にはあまり時間がないとも言える。もちろん今の時間を鷲尾と話すか話さないかは伊藤が決めることではあるが。
周りは何故かざわついて、どういうことが俺へ視線を向けてくるが何なのだろうか。人のこと気にしていないでさっさと自分の教室に行けばいい。
「……?わかった」
伊藤は鷲尾に聞かれて、首を傾げながらも頷いた。俺はここから先は2人で話すべきことだと判断する。伊藤への謝罪なのに俺がいるのはおかしい。そこに俺の意見はいらない。伊藤が決めることだ。
「それじゃ、俺は先に行ってる。2人ともまた後でな」
「え……そう、か。わかった」
俺が先に行くことを告げると鷲尾はそれに頷いているのに対して、何故か伊藤は戸惑っているようだった。
さっきから鷲尾は名指しで伊藤だけを呼んで、話したいことがあるって言っているのに、どういうことか俺も行くと思い込んでいたらしい。
「……鷲尾が話があるのは伊藤だから」
「あー……そう、だよな。そうだったな、ああ」
鷲尾が呼んでいたのは確かに自分だけと言うことに気が付いたようだった。俺だって確かにどんな会話をするのか気になるところだが、俺がいるのはお門違いだ
ちょっとだけ後ろめたいが、先に教室へ行くことにした。あの後の叶野の反応も気になった。鷲尾に話しかけられるまで伊藤から昨日の叶野たちのことを多少聞いたが、あまり元気はない様子で落ち込んでおり先生から鷲尾たちはと聞かれたときもうまく答えられなかったらしい。
もちろん鷲尾の言い方が悪くて傷つけてしまうことを言われたと思う。だが、どうしても叶野の薄く壁を張られたかのようなあの張り付けた笑顔が気になった。
きっと俺が土足で踏み込んでいいことではないことは明らかなので俺はいつも通りに接するつもりだ。
……あ、そうだ。危うく忘れるところだった。
「いとう」
通り過ぎようとして、すぐ引き返して伊藤の耳元に顔を寄せる。唐突に戻ってきた俺に伊藤は驚いた顔をしたけれど、大人しく俺の言葉を待ってくれたのに甘えて声をかける。
「俺は鷲尾のこと許したが、伊藤は許してもいいし許さなくてもいいから。たとえば謝罪を受けたとしても」
周りに、鷲尾にも聞こえないぐらいの音量で、でも伊藤にはちゃんと聞こえるよう意識してそう言った。言い終わって伊藤の表情を窺う。聞き取れていないようには見えないほど変な顔していたので聞き取れていたのだろう。
伊藤に俺の言葉がどういう意味か聞き返される前に「じゃあまたあとで」とこの場を離れた。当の本人たちではなくどうしてか俺に視線が集まる。周りも俺もこのまま一緒に行くと思い込んでいるようでざわめいているようだったが、無視した。俺の意見で伊藤の意見が変わってしまうのが嫌だった。ただでさえ記憶がない俺のことを受け入れてくれているのだから、自分の意志を優先してほしかった。
出来ることなら、円満に鷲尾が謝罪して収まればいいなとは思っている。でも無理強いするつもりもない。謝っているのになんで許さない、なんて被害者を責めるのが間違っているのだから。
鷲尾の謝罪の仕方と……被害者側の気持ちの問題だろう。本人たち次第だ。すでに鷲尾を許した俺はもう干渉しないのが一番だ。
……いつもは伊藤がとなりにいたから隣が少し寂しいな、と思った。今の時期は蒸し暑いからあまり近くに人はいないはずがいいのにずいぶん涼しく感じて……少し寂しかった。