2.人間として。

 扉を数回ノックして職員室に入る。近くに自分と伊藤の鞄があったので拾って伊藤にも手渡す。

「サイズぴったりだね、良かったよ」

 俺らが入ってきたことを視認した岬先生が近寄り声をかけてきたのでそちらを振り向く。

「なかなかに無茶するなぁ、そう言う奴は嫌いじゃねえけどな!」
「……五十嵐先生」

 俺らの視界には優し気に笑う岬先生と大きく口を開けて笑う五十嵐先生がいた。唐突の大きな声に驚いて無意識に肩が震える。岬先生に着替え終えたら職員室に来るようにしか言われていなかった。
 たぶん職員室にいったら今日のことの説明を求められるだろうからなんて答えるべきか考えていたのだが、何故五十嵐先生がいるのかわからなかった。
 となりのクラスの先生なのだから五十嵐先生までいることは聞いていない。困惑する俺を察してか伊藤が聞く。

「あー……今日のこと、透に聞かないんすか?」
「うん」
「雨も降ってるしな!伊藤も一ノ瀬も最寄りは確かここから3駅ぐらいのとこだったよな?今日は俺も車だし送ってやろうと思ってな!」
「……それは、いいです。体調も悪くないですし……」
「俺に至ってはただ透待ってただけだしな。濡れてもねえし。透乗らねえなら俺もいい」

 わざわざ先生の車を出させようなんて厚かましいこと想像もしていなかったので首をふる。伊藤も手を振って岬先生たちの提案を拒否する。

「一ノ瀬くんはただでさえ雨で濡れているし、靴もびしょびしょだよね?」
「……」
「車だとそこまでの距離はないけど、徒歩で帰るとなるとね?風邪引いちゃうと思うんだよ」

 痛いところを突かれる。雨に濡れて無事なのはパンツと、学校に置いていた鞄ぐらいなもので他は靴下も靴も含めてぐちゃぐちゃであり……素足でぐちゃぐちゃの靴を履くか、ぐちゃぐちゃの靴下とぐちゃぐちゃの靴を履いて高校最寄り駅まで歩いて3駅移動して自宅最寄り駅から自宅まで徒歩で帰らねばならない。
 いくら折りたたみ傘を鞄に入れていたとしても、今結構な雨が降っているからまた濡れてしまうだろう。……そして今日折りたたみ傘すら俺は持ってきていないのだ。今気づいた。

「あとあれだな!一ノ瀬、今岬先生のジャージ着てるだろ?出来る限り濡らしたくない、なんて思うよな?!」
「……」
「ちょ、五十嵐先生。そんな脅しみたいなことを言わなくても……」
「事実でしょうよ!」

 五十嵐先生の悪意ない言葉が今度こそとどめを刺された気分になる。善意から貸してくれた岬先生のジャージを俺は今着ている、このまま歩いて帰れば濡れることは必須だろう。いくら洗って返そうとは思っていても人のモノを進んで汚していないわけではない。
 送ってもらうのが嫌なわけではない。むしろありがたくも思う。だけど、大人しく享受していいものなのか悩んでしまう。

「そんな思い悩まなくていいんだよ!前も言ったけど、子どもが気にすんな!ほら、行くぞー。伊藤もほら!」
「いや、俺は良いっすよ」
「いいから!子どもが遠慮すんじゃねえ!一ノ瀬も乗るんだからお前も乗るんだ!」
「強引過ぎじゃ……うわ、はなせ!」
「ハハハハ!一ノ瀬もすぐ来いよー!」

 そこまで言われてなお悩む俺と遠慮しようとする伊藤に、痺れを切らしたのかどうでもよくなったのか強引に車に乗せることを決めた五十嵐先生が伊藤を引き摺って職員室を出ていってしまった。
 抵抗する伊藤を物ともせず五十嵐先生は連れて行ってしまうのを俺は見ているしかできなかった。伊藤の手が俺のほうへ手をやるのも虚しく、職員室の扉は閉められてしまう。

「えっと、ほら五十嵐先生もそう言ってくれてるからね?」
「……はい、お言葉に甘えます」

 宥めるような岬先生の言葉に俺は頷く。岬先生のジャージを身に纏っていることや伊藤まで連れていかれてしまったので、五十嵐先生の車で送ってもらうことを決める。こうまでしないと時間がかかると考えてのことだったのかもしれない。確かに、あのままだと当分平行線だったと思うからもしかしたら五十嵐先生の行動は効率的なのかもしれない。

「……洗って乾いたらジャージ返します、貸してくれてありがとうございます」
「ん?ああ、いつでも大丈夫だよ。洗って返さなくてもいいぐらいだよ」
「いや、それは……」

 明日にでもすぐ返したいぐらいなのだが、さすがに洗わずに返すのは抵抗がある。岬先生の言葉に戸惑っていると笑いながら「冗談だよ」と言われる。
 嘲笑するでもなく面白がるでもなく穏やかに笑うものだから、なんとなく気が抜けた。そんな穏やかな笑顔を少し曇らせて岬先生は申し訳ないと言わんばかりに眉を寄せる。そして言いづらそうにこう言った。

「えっと……今日は良いんだけどね。明日はどうしても話を聞かないといけないと思うんだ。その……桐渓さんとも」
「……はい」

 岬先生の出した名前で、言いにくそうにしていた理由が分かった。あの日の、転校初日に起こったこと。俺の異変を五十嵐先生が担任の岬先生に言ったのだろう。
 俺に何も聞かないでいてくれるだけで俺と桐渓さんがただの預かられ預かる関係ではないことに岬先生は感づいているようだ。
 本当は知りたいのだろうけれど、岬先生はなにも聞かずにいてくれる。今思えば俺の方を見ていたのは様子を見ていたみたいだ、今知る。

「でも僕と交えるよう調節する。だから、その安心してほしいとかではないんだけ、ど……。えーっと……その……とりあえず、昼休みか放課後空けてもらえるか、な?」
「……分かりました」

 ピシャリと調節するよう言ったかと思えば、すぐ恥ずかしくなってしまったのか頬を少し紅潮させながらちょっと変な口調になる岬先生。そんな岬先生にまたふと肩の力が抜ける。桐渓さんの名前に少しだけ強張ってしまったけれど岬先生も一緒にいると言ってくれたから、すぐに落ち着ける。
 ……可能であれば、伊藤も一緒にいてくれたらもっと安心できるが、そこまで望むのはちょっと高望みが過ぎるか……。俺の我儘はそっと心の底に沈めた。

――――

「お、来たな!よし、とりあえず最寄り駅まで行くからなー」

 岬先生のジャージを身に纏う一ノ瀬がやって来て発車する。俺に引き摺られて無理矢理車に乗せられた伊藤は年相応に不機嫌そうに後部座席に寝ころんでいたが、一ノ瀬が来たと同時に起き上がって嬉しそうにたわむれている。二人に声をかけながら車を動かした。
 それなりの雨音のなか、後ろから穏やかな話声が聞こえてくる。会話につられるようにバックミラーで運転に支障がない程度に二人の姿を確認する。

 事件のときの伊藤のつまらなそうで何もかもを諦めているかのような冷たい目をしていた姿が嘘のみてえに、くしゃっと笑いながら一ノ瀬と話している。一ノ瀬はほとんど常の無表情と変わらないようにも見えるけれど、リラックスはしているようで身体から力が抜けて体力を椅子に預けて穏やかな眼で伊藤を見ている。
 普通の男子高校生の姿でよく見る光景のはずだが、そんな二人の姿を見ていると心底良かったと言う安堵の感情が芽生えるのは何なのだろうか。母性……父性のようなものなのだろうか……いや俺にはそんなものが出来る日が来るとは。
 自分に感心しながらも一ノ瀬のことを観察してみる。声も震えていないし表情も穏やかで、この間のような不安定な様子は見られない。
 岬先生がうまく伝えることが出来たようで一安心だ。伝えていない可能性もなくはないのだろが、見た目に寄らず意志の強い人だからきっと大丈夫だろう。少々生徒側に寄ってしまっているのがほんの少しの懸念点ではあるが。
 一ノ瀬の様子は俺から見ても岬先生から見ても安定している。本当に、一ノ瀬が転校してきた日のことがなければここまでつぶさに一ノ瀬を観察することはなかったかもしれない。
 桐渓先生の名前を出しただけであれだけ不安定になる一ノ瀬、どう見たって親愛の欠片もない瞳で一ノ瀬を見つめる桐渓先生。
 きっと何かあるのだろう。俺は、一ノ瀬の担任でもないからあまり詳しい事情を知らない。桐渓先生がどうやら一ノ瀬の保護者代わりであると言うことぐらいしか岬先生から知らされていない。
 俺の眼からすると容姿からも性格的にも血の繋がりを感じないように見えるし、そもそも苗字が違うので複雑な事情がありそうで、たぶん細かく知っているのは桐渓先生と岬先生を除けばあとは校長ぐらいだと思っている。

 一ノ瀬の桐渓先生への怯え方は見ていて可哀想になるほどのものだ。一ノ瀬が引っ越してきて1ヶ月半ほど経つが、転校初日取り乱した姿が嘘のように静かで大人しいものだ。思えば、最初から。桐渓先生の一ノ瀬を見る目は異常だった。
 初めて一ノ瀬と顔を合わせた際、一ノ瀬の背後に桐渓先生がいたとき俺へ向ける冷たい目はいつものことなのでどうだっていいことなのだが、一ノ瀬を見る目が冷たいなんて生易しいものではなく……まるで家族や恋人を殺されたかのように憎んでいる、そんな目だった。
 そして、一ノ瀬も。背後にいたからそんな目で見られていることは分からないだろうに、桐渓先生がそんな目で見ていることがお見通しかのように、肩に手を置かれているだけなのによく見れば身体を震わせて怯えているのに、どこか諦めているかのような受け入れているようなそんな雰囲気だった。

 正直……俺は知りたい。二人はどんな関係なのか。
 どうしてそんな目で一ノ瀬を見るのか。そしてどうしてそれを一ノ瀬は受け入れているのか。
 どんな、気持ちで受け入れているのか。どんな理由があるのだろうか。あえて何も聞かないだけで、本当は知りたいことは山ほどある。

 大人が子どもを悪意を以って傷つける道理を、俺は知りたい。

 大人は子どもを守るもの。親は子どもを愛するもの。そんな一般論の裏側を。それを知ることが出来るのなら、子どもを捨てた親の気持ちを少しでも理解できるのかもしれねえな。自嘲気味に内心呟いて、すぐに嗤う。そんな心にも思ってもいないことを内心とは言え呟いた自分を。

「……五十嵐先生」
「ん?」
「信号青だぞ」

 一ノ瀬に名前を呼ばれたかと思うと伊藤に目の前の信号機を指さされて理解する寸前、後ろの車にクラクションを鳴らされた。

「うお!」

 音に慌てて車のアクセルを踏んだ。赤信号中に考え事に集中しすぎて青信号に気が付かなかった。俺のミスだ。

「おいおい、大丈夫かよ……」
「いやー悪い悪い!」

 大事な生徒たちがいたにも関わらず、自分が不注意起こしてどうするのだ。
 事故を起こさなかったいいものの……内心反省しつつ伊藤たちには軽く謝る、天候が悪いせいか俺もちょっとネガティブになっていたようだ。気を付けねえとな。
 伊藤は俺を呆れているように溜息を吐く。俺は今度こそ運転に集中しよう。送り届けるはずが事故起こすとか、明日のワイドショーの良いネタになっちまう。とにかく切り替えようと思いさっき考えていたことを一旦シャットダウンする。
「とおる?」
と、同時に伊藤の焦る声が聞こえたので運転の妨げにならない程度にバックミラーで様子を見る。
 頭を抑える一ノ瀬とそれを心配している様子の伊藤が見える。

「透、大丈夫か?」
「……大丈夫。ちょっと、頭痛いだけだ」
「天気悪いせいかもなぁ……ちょっとそこのコンビニでなんか飲み物でも買ってこようか」
「……大丈夫です」
「じゃあ、飴をやろう。伊藤、ほら受けとれ。お前も食っていいから」
「おう」

 少しは気がまぎれるだろうと、助手席に置いていたのど飴を伊藤に手渡した。天候のせいか、もしかしたら雨にうたれたから風邪のひき始めかもしれないな。最寄り駅まで送るつもりだったが、一ノ瀬のアパート前まで送ることにした。一ノ瀬は渋っていたが、伊藤に道順を教えてもらい強硬手段をとった。


「歩けるか?」
「……大丈夫だ。五十嵐先生、ここまで送ってもらってすいません」
「子どもが遠慮するなって!本当ならちゃんと世話してえところだけど、伊藤もいるし大丈夫だろ!伊藤一ノ瀬をまかしたぞ!」
「おう。もちろんだ」

 申し訳なさそうにしている一ノ瀬に気にすることはない旨を伝え、伊藤にあとは任せて俺は学校に戻ることにした。
 生徒が具合が悪そうで、かつ一ノ瀬は一人で暮らしているようなものなので後ろ髪を引かれるところだが、一緒にいて気を遣ってしまうであろう俺より一緒にいて気を緩める伊藤のほうが良いだろう。とは言え、未成年をそのまま置いて行くのも後味が悪い。

「なんかあったらこれに連絡してくれ!出来る限りは対処する!あ、もちろんこの件に限らず何か悩みとかあったら気軽に言ってくれな?」

 少しでも自分の中の罪悪感を軽減させようと、アドレスと携帯番号を書いたメモを手渡した。一瞬変態教師と思われたらどうするかと考えたけれど、まぁそこは同性同士。少し戸惑った様子を見せつつも一ノ瀬は受け取って「……ありがとうございます」と軽くお辞儀をされる。うん礼儀正しくてよろしい!

「じゃあ、また明日な。具合良ければ学校来いよ!!」

 そう言って発車する。あまり滞在してても一ノ瀬の場合気を遣ってしまうだろう。軽く手を振って一ノ瀬たちと別れた。雨粒はずいぶんと小さくなっていたから、あの距離ならそこまで濡れずに一ノ瀬たちは家に入れるだろう。それにしても、一ノ瀬が古いアパートに住んでいるのは少し意外だ。美形で礼儀正しく、あの名門の神丘学園から転校してきたと聞いていたせいかどうしても金持ちって言う印象が抜けなかったが違ったようだ。
 見た目で判断してはいけないな、そう軽く思いながら学校に戻った。


 学校に戻り職員室に入ると、異様な空気が流れていた、俺でさえ戸惑ってしまう、そんな張り詰めた空気感。俺が入ってきたことを最初はみんな気が付いていなかったようだったが、数人が俺の存在に気付いて『あの二人をどうにかしてほしい』とそんな縋る視線を向けられる。さっきの一ノ瀬ではないが内心つい頭を抑えたくなる。
 正直いつもは俺の愚痴を言っているのにこういうときに限って縋るのに少し物申したい気持ちもあるのだが、俺が無視してしまえばあの二人はずっと睨みあったままな気がして、気が進まないが渦中の二人に空気が読めない人間のように近寄り話しかけた。

「そんな見つめ合ってどうしたんですかっ!」

 引き攣りそうなのを我慢して大きく笑顔を作って、これまた大きな声で二人の名前を呼ぶ。

「岬先生に桐渓先生!!」

 どういうことが睨みあっている二人に進んで話しかけた。……ほんの少し、疲れた気持ちになった。

――――

「もう頭痛は平気なのか?」

 目を開けると俺のことをずっと見ていたのか、結構な至近距離に伊藤の顔があって驚きつつも、質問にこたえる。

「……ああ、もうだいぶ治まった。心配かけて悪かった」
「気にすんなって。親友だろ」

 少し寝たおかげか頭痛は治まっていた。上半身だけ起こす。謝る俺に気にすんなと一笑された。
 あのあと五十嵐先生に送ってもらった後、岬先生のジャージから自分の寝間着に着替えて伊藤に勧められるがままに布団に横になりそのまま眠ってしまっていたようだ。時間を確認する、1時間弱眠っていたようだ。
 五十嵐先生から飴を貰って少し気持ちが落ち着いたのか横になったことで楽になったのか車の中で起こった頭痛は治まった。頭痛の原因は何なのだったのだろうか。
 気圧の影響で頭痛が出ていたわけではないと思う。短時間とは言え雨に打たれていたから風邪でもひいたかとも思ったけれど、さっき体温を測っても熱も出ていない。突然、痛んだ。ただ五十嵐先生が考え事をしていたのか赤信号から青信号になっても車を動かさないから声をかけたとき。
 後ろの車からクラクションを鳴らされた。いきなりの大きな音に驚いて半ば反射的に後ろの車を見た、その瞬間に頭が痛くなった。

 そう言えば、記憶を思い出そうとしたときに感じた痛みと程度は違えど似ていた気もする。

「……っ」

 そこまで考えて、また頭が少し痛んだ。もしかしたら先ほどの出来事は俺の記憶と関係していることだったのかもしれない。
 頭をまた抑えてしまう俺に伊藤が心配そうに見つめているのが分かる。

「無理すんな、ほら横になってろ」

 伊藤に上半身を起き上がらせていた俺を軽く突き飛ばして布団の中に戻された。強引であろう行為だったが、痛みも衝撃も与えず突き飛ばされた経験が初めてで驚く俺を尻目に布団をかけられてしまう。

「熱はねえだよなー……。寝ているしかねえな、こういうときは」

 熱を測るように俺の額と自分の額をそれぞれの手で比べて見てもやはり熱はないようで不思議な顔をされた。
 あぐらをかいている伊藤の隣で俺はひとりで横になっているのが正直居心地が悪いのだが、すでに俺だけ眠っているところを見られているのだから気にすることでもないのだろうか。

「……なぁ、透」
「ん?」

 頭にキリキリするような痛みが再発したので少し眠ってしまったせいで眠気はないが、緩く目を閉じる。それと同時に伊藤に話しかけられた。
 目を開けるとさっきまでの朗らかな笑顔を浮かべていたのに、今は暗く少し沈んでいるようだった。
 何か言いたそうに、でも言葉にするのが怖いのか、しばらく口が不自然に開閉する。どうしたのだろうか。そう思いながらも伊藤が言いたくなる、出す言葉が決まるまで何も言わず静かに伊藤を見た。

「……さっきのこと、なんだけど」

――ピリリリリ。

 やっと伊藤が言葉が決まったようで、俺の目を見てそれを口に出そうとした瞬間、無機質な電子音が部屋に鳴り響いた。
 その音の正体はこの場に伊藤と俺しかいないし、伊藤は好きなアーティストの曲を設定しているので初期設定のままの味気ない電子音が鳴り響くと言うことは俺の携帯電話しかなかった。
 せっかく意を決して話し出そうとしてくれたのに申し訳ないが、一言伊藤に断って携帯電話に表示されている名前を確認する。……分かってはいたが桐渓さんからの着信だった。桐渓さんの注意を無視して俺が目立つ行動をしてしまったことが伝わってしまったようだ。
 このことを注意されるだけならばマシかもしれない。たぶん、桐渓さんのことだから色んなことを持ち出されると思われる。また……両親のことを言われるのは、苦しい。記憶のない自分のしたことの罪を知らないから、桐渓さんの言うことはやはり本当なのかもしれない、とそう思ってしまうから。
 俺の罪なのだから受け入れなくてはいけないのは分かっているけれど。それでも味方してくれる、伊藤がいるから前ほど不安定になったりはしないとは思うけれど、選択肢を与えられたとして進んで聞きたいかと問われれば迷いもせず否と答える。選択肢なんてないけれど。

 電話に……出なくては、いけない。ここのところメールしか来なかった分が今来たのだ。
 俺のことは罵られても仕方がない。それでも、俺は鷲尾を追いかけたことを後悔なんてしてない。俺のことを罵られても良いけれど、鷲尾のことを……友だちのことを罵られたそのときだけは。全力で抵抗しよう。
 苦々しい顔で決意した、伊藤には話したいことをやっと話し出すつもりになってくれたのに申し訳ないが、きっと長話になるしあまり伊藤には聞かれたくない話だから。今日のところは帰ってもらおう、そこまで考えて伊藤を見やる。

 自分は伊藤のどこの部分を見ているのか、脳が瞬時に理解できず混乱と驚きで固まって呼吸を思わず止めてしまう。

 呼吸をすればその息が伊藤にかかるほどの、近い距離。自分が見ていたのは、伊藤の小さい黒目だったことに今ようやく脳が理解した。
 まるで自分の携帯電話を取るかのようなそのぐらい自然の動作で、伊藤は俺の手から未だ鳴り響く携帯電話を取った。奪い取ると言うには優しい手つき。あまりに普通の行動かのような動作に俺は何の反応を示せずにただ伊藤の行動を見守るしかできなかった。

――ピリリ……、
 音が止んだ。いつまでも電話に出ない俺に桐渓さんが諦めて辞めた訳ではなくて、伊藤が携帯電話のボタンを押したと同時に止んだ。伊藤が切ったのだ。
 そのまま何も無かったかのようにそのまま固まっていた俺の手に携帯電話を置いた。その間俺はずっと伊藤の顔を見ていたが、怒っているでも悲しんでいるでもなくて。

――伊藤らしくない何の表情もない静かな表情だった。


「あ、と……悪い、ガキくせえって言われるかもしれねえけどよ。今は……今だけは俺を優先してもらってもいいか?……いや、あー…電話勝手に切っといて、今更なんだけどよ……」


 苦笑いしながらそう聞く伊藤はいつも俺に見せる気遣いと気安さが半々の表情に戻っていた。その表情に安堵しつつも、さっきの伊藤の表情は何だったのかと内心首を傾げた。


 疑問に感じながらも、伊藤が何かを決意して話そうとしてくれたのを二度も遮ってしまうのは申し訳ないので時間があったときにでも聞いてみることにして、今は伊藤の話したいことを聞きたい。
 問う伊藤に頷こうとして……なんだか、伊藤の真剣な話を桐渓さんからの電話に出なくてもいい口実にしているような状況になっているのではないか、とふと思った。
 伊藤は俺のことをよく知っててよく見ているから、俺が携帯電話を苦々しく見つめていることに気が付いてしまったのではないか。
 問われたことに頷くだけなのは簡単だ。だけど俺は親友の真剣の話を自分の嫌なことから逃げるための言い訳になんてしたくなかった。伊藤はそう感じなくても、この状況は酷似している。気にすぎかもしれない。だけど。


「……」
「……透?」

 唐突に携帯電話を片手に黙りこくっている俺に、どうしたのかと名前を呼ぶ伊藤。

「……伊藤」
「ん?…ぅおっ!?」

 伊藤を呼びながら握っていた携帯電話を枕に投げつけて、逃がさないかのように両手で伊藤の肩を掴んだ。
 俺の突拍子のない行動に伊藤が驚いてバランスを崩した。崩れるバランスに俺も驚いたが伊藤の肩は絶対に離したくなかった。伊藤の顔が俺より少し下にある意味を考えることもなく話し出す。

「俺は。俺の意志で伊藤を優先する。伊藤に懇願されたからって言うだけじゃなくて俺の気持ちとして、……いや、今電話を優先しようとした俺じゃ説得力なんてないんだろうけど」

 どっちを優先するとかそんな意図はなかったけれど、伊藤にそう思わせてしまったし伊藤が話し出そうとしていたのに俺が電話を出ることを決めてしまったから、ああ、もう。なんかもう滅茶苦茶だ。桐渓さんと伊藤なら、間違いなく俺は伊藤を優先する。
 でもどういうことかさっきは俺は覚悟して電話に出ることを選ぼうとしてしまった。それは事実だ。
 だが、俺の我儘なんだろうけれど……『今だけは俺を優先してもらっていいか』なんて。聞かないでほしい。
 伊藤は俺のことを優先してくれるのだから、俺にとっても優先すべきは伊藤なんだ。いつだって優先したいと思っていたけど、今の俺の行動はそうは見えない。
 今度からは、絶対伊藤を優先したい。今俺が伊藤はいつだって最優先なんて言えない。

「俺の中で、一番伊藤が大事だから。大事にしたい。出来る限り、伊藤の意志を優先したいんだ。だから、伊藤に頼まれたからと言うだけが理由じゃない。俺自身の意志だから。だから、俺の様子を窺ったりしなくていい。前も言ったけど、伊藤にされることで嫌なことなんてないから」

 言いたいことは支離滅裂であることは自覚している。それでも、伊藤に頼まれたから電話をあきらめたわけではなくて、嫌なことから逃げる口実でもなく伊藤のはなしをちゃんと聞きたいのだと言う俺の気持ちを少しでも分かってほしくて。
 なんも考えず文脈も滅茶苦茶でも構わず、頭の中でなにを話したいかも何も考えずただ思ったことを伝えた。どう振る舞っていいか分からなかった。だけど俺の気持ちを知ってもらいたかった。その結果がこれになった。

「だから。……だから……」

 言いたいことだけを言ったから、結論はなにも出ていない。勢いのままに言ったのだから当然である。
それでもなんとか言葉を探そうとする俺に、
「透、落ち着け」
 そっと俺の両頬を包むように触れられる。そしてそのまま優しい動きで目を合わせた。少し下の位置にある伊藤の顔を見る。穏やかな笑顔だった。

「透の言いたいこと、たぶんなんとなく分かった。俺のわがままを透は自分の逃げ道にしたいわけじゃなくて、透自身が聞きたいと思ってくれているんだろ。透なりに、俺を大事にしたいって。そう思ってくれてるんだよな」
「……ああ」
「逃げ道にしてくれても俺は構わなかったんだぜ?」
「…それは、違うだろ。ともだ……いや、…し、んゆう、なんだろ。俺たち」

 伊藤は優しいから、俺は甘えてしまう。どんな俺だって受け入れてくれて、なにも言わず傍にいてくれて、なにも言わずに鷲尾を追いかけた俺を待っててくれて。いつも俺の身を案じてくれる。きっとあのまま頷いてしまった方がきっと俺にとって楽だったんだろう。本当は電話に出たくない俺の責任じゃなくなって話を聞いてほしい伊藤の責任にすればいいのだから。
 でも、それはきっと親友と言えなくなってしまうのではないかと思った、それだけ。俺も、伊藤を大事にしたいんだ。伊藤が俺に大事にしてくれている以上に大事にしたい。今は難しいかもしれない。けれど、少しずつ俺も伊藤を支えたい。

「……真面目だなぁ、透は」
「誠実で、ありたいんだ。伊藤は、俺になって、俺を初めて受け入れてくれたひとだから」

 俺も、どんな伊藤を受け入れたい。伊藤を大事にしたい。俺の頬を包んでいる手に俺の手を重ねる。ぎゅっと暖かい手を握りしめる。
俺は。

「伊藤の話、聞きたい。聞かせてほしい」

 伊藤が聞いてもらっていいかと聞くんじゃなくて。俺から頼む。伊藤のことをもっと俺に、教えて。

 俺の唐突な頼みに驚いたようで目を見開いた後、緩やかに笑みを浮かべながら「ああ」と頷いてくれた。
 少し、悲しげにも見える伊藤の笑みの理由も俺はいつか知れるのだろうか。そんなことを想ってしまった。

13/34ページ
スキ