2.人間として。

 そのあと一ノ瀬は、僕には到底結論付けれないことばかり言った。心配されるような関係でもないと言う僕のことを『友だち』と言ったり、丁寧に勉強を教える一ノ瀬だったのが嘘のように唐突に前に僕に言った『良い関係』を『友だち』と定理すると言われたときは本格的に脳が混乱した。
 自分は良くても相手はどう思っているかわからないじゃないかとぐだぐだとぬかす僕に一瞬考える素振りを見せたものの、すぐに「それは、そのときになってから考える」と真っ直ぐ僕の目を見て言った。

 悪天候、いつ雨が降ってもおかしくないほどの曇天で夕方と呼ぶにもまだ早い時間でもすでに外は薄暗いのに、僕の眼にはそう言い切った一ノ瀬はどうしてか眩しく感じた。

 僕からすると無茶苦茶としか言えない、理性も欠片もない理論を一ノ瀬は告げる。人間の特権である考えると言うことを放棄したことを一ノ瀬はあえて僕に言うのだ。たまには何も考えずに決めつけるのも有だと、そう笑った。ぐっと一ノ瀬の笑みに胸が締め付けられながらも到底僕だけでは考えもしない理論に苦言を呈すると、一ノ瀬は叶野に教えてもらったのだ、そう言った。

 叶野の名前を聞いて……さっきのことを思い起こした。無意識に叶野の名前を呟いて俯いてしまうことにも気が付かなかった。僕は、僕の汚い感情のままに叶野を傷つけた。いや、叶野だけではなく……湖越も伊藤も、目の前の一ノ瀬だって。僕は湖越に矛盾を突かれて、責められて、逃げ出した。あのとき、僕はなにをすればよかったのだろうか。そして、これからも僕はどうすればいいのだろうか。
 自ら望み、罰されるのを待つのは自己満足だと一ノ瀬に言われた。相手の意志なんて何の関係のない、ただ自分が楽になりたいだけの……逃げなのだと。
 もう、逃げるのはやめにしたい。けれど、それなら僕は何をすればいいのか分からない。喧嘩をするような相手も今まで僕にはいなかった。
 喧嘩……と呼ぶにはもっと重たいことをしてしまった自覚はある。けれど、少しでも勉強だけじゃなくて他人に目を向けられていたら、こんなもどかしく思うこともなかったのだろうか。
 情けないと思いつつも、すでに幾度となく情けない醜態を晒してきたのだから、今更だ。感じる恥もすでに僕にはないのだから、一ノ瀬に聞くことにした。
 これ以上、僕は僕を見放したくない。そう思って、聞いた。罰される以上の苦しい思いをしてしまってもいいから、それでもいいから、こういうとき何をすればいいのか何を言っていいのか、教えてほしい。その一心だった。

 そんな僕の覚悟とは裏腹に一ノ瀬はあっさりと答える。

「謝ろう」

シンプルな答えを一瞬脳が理解できなかった。

「あやまる……?そんなことで許されるのか?」

 そう聞いてしまった。
 謝罪。父にしようとして無意味なものだと切り捨てられて、僕も切り捨ててきたものが、一ノ瀬の答えだった。確かに、一ノ瀬の口から発された言葉だった。もっと、合理的なものを求められると思ったら、あやふやな答えだった。
 そんなことでいいのか、それだけで許されるのか、そう聞く僕に少しだけ一ノ瀬は首を振る。
「……謝って許されるのかどうかわからない」
 謝罪するべきだと言う口で、また少し矛盾したようなことを言う。どうして。
「それなら、そんなことしなくてもいいじゃないか」
 許されるべき行動を示さなければ無意味なものじゃないか。そんなもの。何故、わざわざそんな無意味なことに時間を費やさなければならないのか。それなら、罰を受けて結果を出していたほうが合理的じゃないか。
 そんなことを考える僕に、一ノ瀬は少しだけ困ったような、怒っているようにも見えるが、どちらかは分からないが眉を少し上げて、つづける。

「……人を傷つけたらまずは謝る。許すか許さないかは謝られた方がが決める。謝る側が求めるものじゃない。とりあえず、誠意をもって謝れ。本当に悪いことをしたと思っているのなら……まずは謝る」

 一ノ瀬の理由を聞いて、少しだけ分かった気がする。そもそもの僕の前提は間違っているのだと。許されたいから謝るのではなく、自分が救われたいから謝るのではなく、傷付けてしまったことをとにかく謝るべきなのだと。そして謝ったからって許される訳ではないのだと。
 許すも許さないも叶野……被害者側が決めることであり、加害者側がそれを求めるのは可笑しなことなのだと。一ノ瀬は僕にそう話ながら、どこか遠くを見ているような眼をしていた。いや、僕のことを見てはいるのだが。僕を通して違う誰かを見ているかのような、そんな瞳だった。その瞳は苦し気な陰りが見えた。責めているような瞳。でもそれは僕のことだけなのかは分からなかった。
 もし、こんな目をさせたのが僕があんなことを言ってしまったのが原因だとしたら。

 自分は、どれほど馬鹿なことをしてしまったのだろうか。

「……一ノ瀬」
「ん?」

 そんな可能性に至ってどうしようもない気持ちになってつい、何も考えず衝動的に一ノ瀬を呼ぶ。静かな広場では僕の今までにないほどの小さな声さえも一ノ瀬の耳は拾い、首を傾げて聞き返される。謝らなくては、と思ったもののなかなか謝罪の言葉が僕の口から出せなかった。
 今まで無意味だと切り捨ててきたものを、言おうとして切り捨てられてきたものを僕はなかなか口に出せなかった。怖かった。謝罪の言葉なんていらないと言われた、あのときを思い出す。結果を出さなければ意味がないと。そんなものは、価値のないものだとそう教え込まれてきた。また、謝罪しようとしたら否定されてしまうのではないかと。
 そんなことをぐるぐると頭のなかで考え、あのときの父の眼を思い出して苦しくなる。数回、謝罪を口に出そうとしてはあのときの光景を思い出しての繰り返しをした。
 何度も今も逃げ出したくなる、どうしようも、なく……怖い。

……そうだ。僕は、怖かったんだ。

 父が、怖かった。好きだとか尊敬しているだとかそんなものは、すでに僕の中では過去のもの。いつの間にか父が恐怖でしかなかったのだと、今気づく。
 謝ることを拒否されて、僕のことも拒否されたあのときからきっと。今度こそ、父の信頼をと足掻いてきた。僕のことを、また好きになってもらいたかった。
 好きになってもらいたかったから謝った。だけど否定された。謝れば、否定される。そんなことを植え付けられてきた、そんなことをされたくないか謝罪は無意味なものと断定した。
 好かれたかった、許してもらいたかった、勉強が出来なくても愛していると言ってほしかった。すべては、自分のためだけだった。自分のためだけの、謝罪だった。僕の自己満足のための、謝罪。でも、でも……今は、ちがう。


「………………悪かった。お前を……伊藤をも蔑むようなことを言った。すまなかった」


 僕は、本当にさっきのことを謝りたい。謝罪したかった。心から……一ノ瀬の努力を否定するようなことを、嫌味を言ってしまったことを、傷つけようとして吐いた言葉をぶつけてしまったことを……傷つけてしまったことを。
 許してほしい、なんて言えない。そんなことを思いも出来ないほどの後悔に今更苛まれている。
 楽になりたい訳でもない。傷つけたのだから傷付け返されたって良い。ただ……今になって後悔して傷つけてしまったことを、謝ることを許してほしい。

 父の冷たい目が脳内に流れながら、一ノ瀬の瞳を見た。一ノ瀬は驚いたように目を見開いていて僕のことを見返していた。けれど少しずつ緩やかに瞳は優しい色を帯びて、その優しい瞳と同じように穏やかに口角をあげる。

「いいよ」

 そう、短くでも優しい声で僕の謝罪を受け入れてくれた。梶井のようなただ口角をあげているだけの冷たい表情とは全く違う、雲一つない青空の下にいるかのような気持ちになるほどの穏やかな表情を僕は間近に見た。
 申し訳ない気持ちは一瞬どっかに行くほどの衝撃を僕の中に感じた。今までにない……でも、きっと『綺麗』な部類に入る感情が僕の中に芽生えた。その感情の名前を僕は未だ知らない。
 僕の謝罪を受け入れて、こんな僕のことを『友だち』とまで言ってくれる一ノ瀬に、僕は梶井に感じたのとは全く違う……本当の意味で、救われたように感じたのだ。

――――

 バスを降りた歩いて数分のところに僕の自宅はある。いつ降るかと思った雨がバスを降りるとふっていたので鞄にあった折りたたみ傘を取り出した。いつもより早く教室を出たが、一ノ瀬と話し込んでいたから帰宅時間はいつも通りだった。

「和季さんおかえりなさい」
「…ただいま」
「あら……顔色悪いですね?」

 出迎えてくれた母は僕のことを見て熱でもあるのかしら、と額に手をやって自分の体温と比べていた。
 普段のときにそれをされると鬱陶しくその手を振り払って塾に向かうべく着替えるために急いで部屋に駆け込んでいたのだが。

「……熱はない。けれど……今日は塾、休んでもいいか?」

 今日は……加害者である僕が言えることではないのだろうけれど……疲れてしまった。いつもは煩わしいとしか思わない母の手を優しさと感じて振り払うことを躊躇するほどに、いつもではないことばかりの連続に、今日一日だけは休みたかった。
 今のこの状態では勉強に身に入ることは出来ないと判断した。今日だけ。今日だけは……勉強のことを考えたくなかった。常とは違う僕の様子に、母は驚きに目を見開いて僕をまじまじと見つめた後。

「……わかりました。私から連絡しておきましょう。ゆっくりおやすみなさい」

 そう言って、僕に微笑んだ。普段ならば母が休むかと聞いても、実際体調が悪かろうと正直熱があるかもしれないと思っていても、それでも塾に行っていたし家庭教師を辞めにすることもしたことなんてなかった。勉強しか、なかったからそれで平気だった。嫌なことがあっても、勉強に逃げていたから。
 でも、今日は違う。勉強は一番大事だと長年思っていたから、今もそれは抜けないけれど……勉強を第一に思っている僕のなかに、一ノ瀬たちが入ってきたのが奇跡とも言えるのかもしれない。
 今日は記憶を少しでも整理して……明日、叶野たちにどう謝るべきなのか考えたい。1人で。僕自身がしでかしたことの責任をとるのは当たり前のことで……1人が怖いからって一ノ瀬に着いて来てもらうなんてこと、出来ないししたくない。
 傷つけられた方はもっと苦しんだ。それなら僕もっと苦しみながら謝るべきだ。罰ではなくて……せめてもの罪滅ぼしとして。僕の異変に気付きながらも母は何も言わず、微笑んでいる。
 いつか……僕のことをいつも案じてくれる母に僕はなにか出来るのだろうか。昨日まで母のことを頭の悪い煩わしい存在としか思っていなかった。けれど、本当に僕のことを受け入れて僕の味方でいてくれたのは母なのだと、今実感したのだ。気遣っている人を僕は知らずに昨日まで……いや、今日まで生きてきた。鈍感で空気の読めない、そのうえ恥知らずなんて僕は今まで見下していた馬鹿以上の大馬鹿者だった。

「……頼む」

 こんなとき、僕はなんていいのかまた分からない。母でさえ僕はコミュニケーションを取ろうとしてこなかった。不愛想に簡潔にそんなことしか言えない僕に母……母さん、は、気にした様子を見せず笑って頷いて「ゆっくりおやすみなさい」とだけ言って二階に向かう僕を見送ってくれた。……むずがゆく思った。


 自室の扉を後ろ手で閉めて、個室僕一人だけの空間になる。薄暗い部屋の中、電気も付けず鞄も適当にその辺に置いて制服も脱がずにベッドに横たわる。
 目を閉じて今日のことを思いだす。
 一ノ瀬に嫉妬していたこと、梶井に醜い感情を持ってその感情のままに行動するのも有だと言われて、その感情のままに行動して、一ノ瀬と叶野に伊藤そして湖越さえも傷つけて。
 傷つけたのは僕なのにその場から逃げ出して、一ノ瀬が僕を追いかけてくれて、自ら望む罰はただの自己満足と切られて……醜い僕を『友だち』と言ってくれた。
 誰かを傷付けたときは謝るのだと教えてくれた。今日は色んなことが起こりすぎた。頭痛がしそうなほどの目まぐるしさに無意識に額に掌を押し付けていた。
 僕の頭のなかでは色んな顔がぐるぐる回る。テストが終わって打ち上げとして行ったラーメン屋での皆の空気感と会話を思い出して……すぐに一ノ瀬の悲し気な顔、伊藤の驚愕に満ちた顔、傷ついた叶野の顔、冷たく僕を見つめる湖越の顔が出てきた。
 すべて。僕が行動した結果だ。僕が、醜い感情のままに行動してしまった結果。
 梶井に唆された結果。でも、唆されたのが事実であっても実際行動に移したのは僕だ。僕の行動の結果は梶井が一つの理由ではあるが、それを辞めようとしなかった僕の弱さのせいだ。
 梶井だけのせいにするのは僕が楽になるのだろう。僕が原因じゃないと逃げにすればいいのだ。けれど、これ以上僕はもう逃げたくない。絶対に、これ以上僕のせいで誰かを傷つけないように。きっと梶井に言われなかったとしてもいつか違う方向で一ノ瀬たちを傷つけていたのだと思う。
 理由が分からぬままに、醜い感情のままに。

 明日。僕は、謝る。だれのことを言い訳になんてしない。僕のせいで傷つけてしまったのなら無駄な言い訳なんていらない。
 情けなく手が震えるほど怖いと思う。許してもらえなかったらどうしようと言う、どうしようもない私利私欲。それでも、僕はこういうときどうするべきなのか、答えの分からない奴ではなくなった。それなら、もう何も逃げる要素はない。
 どう謝るべきか、呼び出して二人になった方がいいのか、それとも皆の前で言ってもいいことなのかも僕には分からない。それでも僕なりに誠意を尽くして、謝りたい。
 雨音しかしない静かな部屋の中、考えこむ僕の呻く声が響いていたことに気が付かないほどに集中していた。



 一通り考えつくして、漸く自分なりにどう謝るべきなのかの答えにこうしようと決まったころ、僕は一ノ瀬が言った言葉をふと思い出した。一ノ瀬に僕の本音を指摘されて、憤りのままに一ノ瀬に掴みかかったときに言われた、あの言葉。

「俺がそうだったから」

 そう言えば結局、その言葉の真意を聞く前に一ノ瀬は話し出してしまって聞きそびれてしまったが……、後悔しているような雰囲気なのに嬉しそうにも見えたのはなぜなのだろうか。いつか、聞けるだろうか。
 傷付けずに、ただの一ノ瀬の身を案じる……『友だち』として。
 一ノ瀬の微笑んだ顔を思い出してまた胸が締め付けられるような感覚。もしかしたらこれを『友情』と呼ぶのだろうか。
 いつか、答えのない『友情』を僕にも定理出来る日が来るかもしれないことを……僕は、少しうれしいと思う。


ああ、そうだ。一ノ瀬と別れる際、僕の傘を貸してやればよかったな。
いつ降るか分からない天候だったのに僕のことを気にかけ身一つで追いかけてくれたのにそこまで気が回らなかった。何たる失態。もし、今度の機会があったら絶対に貸してあげよう。そう決めた。

 一ノ瀬はあの後濡れずに無事に学校に戻れたのだろうか。

――――

 鷲尾と別れて少ししてポツポツと雨が降ってきたから急いで学校に戻ったのが、裏門に着くちょっと前についにザーッと酷い音を立てて本格的に雨が降った。
 裏門から昇降口まで5分もかからないのだが、勢いよく降った雨のせいで昇降口にたどり着くころにはすっかりびしょ濡れになってしまった。6月、蒸し暑くなってきたと言えどさすがに全身雨に打たれて身に着けている制服も濡れているとなると少し寒くて、無意識に自分の両腕を擦った。あまり意味はないのだが、気持ちの問題である。軽く水気の含んだ制服と髪を絞ってから学校の中に入る。下着はギリギリ平気そうだが、靴下も靴もひどいことになっている。
 濡れた髪は肌に張り付いて不快だ。前髪を乱雑に上げて靴下を脱いだ。このまま上履きを履くのに少し抵抗感があるが、素足で廊下を歩くのも何となく嫌だな、どうするべきか考える。

「透っ」
「あ、一ノ瀬くんっ」

 素足で教室まで歩くことを決めて一歩を踏み出したとき、前方から俺の名前を呼ぶ声が聞こえた。

「……伊藤に、岬先生」

 そこにいたのは、何も言わずに置いてきてしまった伊藤と帰りのHRをサボる結果となってしまった担任の岬先生だった。何の相談もなく自分の思う行動をとってしまったことに特に後悔していないが、ほんの少し後ろめたい。そんな俺に構わず、伊藤は俺の顔になにか被せてきた。うぶ、と変な声が漏れた。

「いつまでも帰ってこないから心配したぞ。あーすげえ濡れてる、まぁ雨やばいことなってるしなぁ……」
「……悪い」

 伊藤が被せてきたものはフェイスタオルだった。濡れた俺の髪を伊藤が優しくわしゃわしゃと拭ってくれる。少し気恥ずかしい気もするけれど、何となく居心地が良いのでそのまましてもらうことにした。

「一ノ瀬くん大丈夫?こんな雨のなか大変だったね……。とりあえず僕の予備用のスリッパ、これ使って。あと……ジャージ貸してあげる、ずっとロッカーに置いてたけどきてないから、匂いは平気だと思うんだけど……」

 岬先生は俺の前に用意してくれたスリッパを置いて、岬先生のものらしい紺色のジャージを俺に差し出してくれる。匂いを気にしているようで持っているジャージに顔を寄せて鼻をくんと動かした。

「……いえ、ありがとうございます」

 今日は体育がない日だっだからジャージも体操着も持ってきていなかったので、岬先生の気遣いはとてもありがたかった。
 岬先生からジャージを受け取り、感謝の意を表して頭を下げる。そのジャージを持った瞬間石鹸のような香りがして清潔感のある岬先生のものらしい、そう思った。
 濡れていなければ多少臭くとも別に文句を言う気はなかったけれど、岬先生が気にするようなことはないことを告げるとホッと安心したようだった。

「……」
「?どうしたの?」
「……え、と」

 じっと見てくる俺に岬先生は微笑みながら首を傾げる。なにか言いたいことがあるのではないか、そう思ったのだ。後悔はないし悪いと思っていないけれど帰りのHRを迎える前に俺はいなくなった訳で。
 態々学校に戻ってきて、しかも俺が戻ってくるのを岬先生は待っていたようだったから、俺に注意したいことがあるのではないかとそう思っていたのだが……。

「……っはっくしょん!」

 俺の口から出たのは最早言葉ですらない、寒さからくるくしゃみだけだった。くしゃみに驚いたのか伊藤の髪を拭く手が止まる。

「大丈夫か?さっさと着替えた方がよくねえか?」
「一ノ瀬くん、大丈夫?」

 身を案じてくれる二人に頷いて返して、伊藤の提案通りとりあえず着替えることにした。スリッパに履き替えて、すぐに戻ってくるだろうから濡れた靴は下駄箱に戻さずそのまま置くことにした。

「一先ず着替えておいでね。あ、あとで職員室に来てね。一ノ瀬くんも伊藤くんもね」
「……はい」
「ああ」

 先に着替えさせるつもりだったようだ。さすがに濡れたまま長話をするのは気が引けるか……考えが足りなかったな。内心反省する。岬先生はどのぐらいのことを把握しているのだろうか。朝いたのにいなくなっていたのは俺と鷲尾だったから、HRを結果としてサボっていることとなる。
 でも、今の様子からすると岬先生は伊藤とともに待っていた可能性が高い。普段通りであればクラスの中心的な存在である叶野や湖越が説明してくれているのだろうが、今日の出来事からするとそれは少し難しいようにも思う。
 それなら伊藤に話を聞いている、かもしれない。

「考えこんでねえでさっさと着替えた方がいいぞ?その状態だと風邪ひくぞ」

 ……伊藤の声でびしょ濡れの今の自身の格好を思い出した。濡れた制服によって自分の体温が吸い取れていくのが分かり、勝手に腕が震え始めている。これは、まずい。さっさとトイレにでも行って着替えよう。
 ささっとトイレに向かおうとするのを、伊藤は当然のように俺のとなりを歩く。一緒に来てくれるみたいだ、別に着替えるだけなのだからついてこなくてもと思わないでもないのだが、とりあえず俺が言いたいのは。

「……伊藤。待っててくれて、ありがとう」

 何となく、伊藤は俺が戻ってくるのを待っていてくれるだろうと思っていたけれど、本当に待っててくれていた。何も言わず鷲尾を追いかけてしまった俺のことを。
伊藤の優しさに俺は一言礼を告げる。

「当たり前だろ?俺とお前の仲なんだしな!」

 そんな俺に伊藤は、快活に笑いかけてくれる。俺は何度伊藤に救われて伊藤の行動に嬉しく思うのだろう。きっとずっとこんなやり取りが続くのだろう。
 伊藤は当たり前と言ってくれる行動だけど、俺に取ったらとてもありがたくうれしいことには変わりはないから、気遣ってくれるその行動にせめて感謝していきたい。そう想いながら俺は着替えるべく1階トイレに向かう。

 ……岬先生は結果としてだけ見れば勝手にそのまま帰ってしまった鷲尾と何の許可もなくその鷲尾を追いかけた俺のことをどう思っているのだろうか。ふと、少しだけ気になった。

――――

 1階トイレにて。個室に入って着替え始める俺と、そのトイレの中にある蛇口のところに寄りかかり俺を待つ伊藤。
 トイレの個室は壁が浅い上、人気が無いのでそんな状態でも話すことは出来るなと思い、伊藤に「岬先生には事情を説明したのか」と聞いてみたら、伊藤からそんな返ってきた答えがこれだった。

「具体的にはまぁ言ってはねえんだけどな。『逃げた鷲尾を透が追いかけに行った』ぐらいだな。細かいことは岬先生には言ってねえよ。当人同士を置いて周りが勝手に状況説明するのってただの告げ口にしかならねえし、こういうのは当人たちが言うべきことであまりこっちが言うとどうしてもどっちかが『加害者』どっちかが『被害者』っていう気持ちが生まれちまいそうだし」

 物凄く端折っているものの一応当たってはいる説明だった。俺の想像した通りやはり、叶野たちからは上手く説明が出来なかったみたいだ。そこでいなくなった鷲尾と俺とそれなりに面識があるのは伊藤で、彼ならばなにか知っているかも?と岬先生が聞いたのだと思う。
 ただ端折った説明だけだからきっと岬先生はあまり理解できていないんだろうな。あまり細かく言えば、まぁ告げ口に似たものになるだろう。
 鷲尾は加害者で、叶野は被害者と言う区別も出来てしまうのだろう。岬先生に限って迫害するようなことをするとは思えないけれど、どちらかが『加害者』でどちらかが『被害者』であると言う先入観が生まれてしまう可能性は十分にあり得るから、伊藤のこの返答は間違っていないしきっと一番の答えなのだと思う。

 でも、ありのままの真実を伝える権利は伊藤にもある。伊藤だって、分類でいうのなら今日の出来事において叶野と同じく『被害者』になるのだから。被害者は加害者になにを言っても良い、とまでは俺は思っていないけれど許される風潮はある。
 傷ついて苦しめた要因となった鷲尾を落とすことは可能ではあるのだと思う。けれど伊藤はそれをしようとも思わず、ただありのままにあくまでも鷲尾と叶野の問題としている。少しぐらい傷つけてもきっと誰も何も言えないのに、な。
 伊藤は普通の声色でそう答えた。伊藤らしい解答だな。その真っ直ぐさが伊藤の長所だと思う。

「で、そっちはどうなんだよ?石どころか岩みてえな堅い頭を持っているあいつと、少しは分かり合えたか?」

 あいつ……は、今の状況からすると十中八九鷲尾のことだろう。伊藤はぶっきらぼうに俺に聞く。今伊藤がどんな表情を浮かべているのか見えないから分からないけれど、その乱暴な言葉とは裏腹に内心鷲尾のことを心配しているんだろうなと想像する。
 どんな内容を話したのか。それを伊藤は聞きたいと思う。だけど、すべてを話すことは俺の口からは出来ないことだ。明日、鷲尾は謝罪すると言っていた。
 叶野はもちろんのことだが……伊藤にも謝ると言っていたのだから、それを俺の口から言うのは鷲尾の覚悟を汚してしまいそうな気がした。

「……たぶん、少しは」

 伊藤を見習うわけではないけれど、あえて知りたいであろうところを言わず端折った簡潔な説明を伊藤に言う。分かり合えたか否かと答えるなら多少は出来たと思う。俺の言葉が鷲尾に完璧に響いたかどうかまでは分からないけれど、でも言いたいことは言えたと思う。
 鷲尾も全部ではないと思うけれど、俺に本心を晒してくれた。カッとなって言ってしまったのだろうけれど、でも鷲尾が思っていたことを知れてよかったと思う。俺は、鷲尾のこともちゃんと知りたかったから。

「あと……俺に言ったこと、謝ってくれた」
「透はそれになんて返したんだ?」

 謝罪してくれたことを言うと、食い気味にさらに聞かれる。それに少しだけ驚いて、すぐに謝罪になんて返したかの記憶を呼び起こした。

「『いいよ』てそれだけ返した」
「……許したのか」
「うん」

 鷲尾なりに心から謝罪をしてくれた。だから、それを受け入れた。俺は許した。
 そもそも俺は怒っている訳ではなかった……なんというべきか、たぶん、悲しかった。『友だち』にああ言われて。俺を見ているのではなくて鷲尾の中の『一ノ瀬透』像を押し付けられたことに。俺の言葉を聞いてくれなかったことに。
 だから、ああしてぶつかり合えて、少しだけだとしても互いのことを知れて、うれしかったし良かったと思う。難しい顔をして逃げ出したそうに身を揺すりながら、言いづらそうに謝罪の言葉を口にしてくれた。鷲尾は俺の言う通り、鷲尾なりの誠意を見せてくれた。
 俺の言葉が通じたことが、鷲尾が俺みたいにならなかったことがうれしくて、その気持ちのまま(決して怒ってはいないけど……)許した。

「……そうか」

 フッと溜息混じりに伊藤はそう言う。鷲尾が謝罪したことになのか俺が謝罪を受け入れたことになのか、どうしてか溜息混じりだったのが気になったけれど、悪くは思っていないんだろうと思う。少々呆れに近い溜息だった気がするけれど、まぁいいや。
 ズボンをジャージに履き替えて、濡れた制服をもって個室から出る。誰かの服を借りるのが初めてでなんだか変な感じだった。奇抜な色でもなく無難な紺色だったことに幸いに思う。
 教師と生徒とは言えこちらも高校生で成長期もほぼ終えているから岬先生との体格差はほとんど変わらないためサイズはぴったりだ。

「あ、濡れた制服この袋のなかいれとけよ。さっき岬先生に渡されたんだった……」
「……ありがとう、忘れてたのか?」

 出てきた俺を視認して、手に持っていた濡れた制服を見てそう言えばとビニール袋をわたされる。どう持って帰るべきか考えていたところだったからありがたい。
でも今思い出したかのような響きで言うものだから、つい突っ込んでしまった。そんな俺に照れ隠しなのか困惑を隠そうとしているのか軽く睨まれたかと思えば目を逸らされる。

「……透が戻ってきたのが、うれしかったんだよ。んで、透が濡れているもんだから慌てて拭かないとと思ってたらすっかり忘れてた。……悪いか」
「……いや」

 拗ねたような雰囲気でそういうものだから、どんな対応していいのか分からない。自分は何も考えず……荷物を全て学校に鷲尾を追いかけたのだから、当然学校に戻ってくると少し考えれば分かることで、たぶん伊藤も頭では分かっていたと思う。……俺は。伊藤を置いて行ったことがある。記憶にはなくともそうしてしまったのだ。きっと、それが伊藤の傷となっている。
 俺を待っててくれて戻ってきてうれしいと言ってくれる。それがうれしく感じると同時に、申し訳ない気持ちも芽生えて伊藤の顔から目をそらす。

「……」
「岬先生が呼んでいたことだし、ほら行こうぜ。俺と透の荷物も持ってきてるからそのまま職員室に行って平気だぞ」
「……ありがとう」

 何から何までしてくれる伊藤に俺は礼を言う。俺の脳内で疑問が浮かんでしまったことに持ってかれていた。勿論、俺の荷物を持ってきてくれていた伊藤にも感謝してる。
 伊藤は、記憶喪失でも俺は俺だと言ってくれた。思い出さなくてもいいとも言ってくれた。俺のことを想っての発言で、俺のことを認めてくれる伊藤に俺は嬉しくて泣いてしまった。だけど。

 伊藤の『想い』は、どこにあるのだろうか。俺のことを気遣っての発言ではない、まっさらな『伊藤の想い』は……どこにあるのだろうか。

 なんだか泣き出したくなるような気持ちでとなりにいる伊藤の顔を見つめる。何も言わず聞かないでくれて、俺のことを待っててくれる。記憶喪失でも俺は俺だと肯定してくれた。俺のこと、憎んでもおかしくないのに、憎まず恨み言もなくただ優しく笑いかけてくれる伊藤に胸が苦しくなった。


12/34ページ
スキ